消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

「退官講義」から1年「記念パーティースピーチ」公開

2007-02-18 23:50:20 | information

ブログ来訪のみな樣へ

                         編集部・ゼミ生一同


 本日、2月18日は本山美彦教授京都大学退官講義から1年がたちました。

 京都大学を退官され、福井県立大学に移られてからこのブログを始められ、「福井日記」、「古代ギリシャ哲学」、「宗教学」など多彩な話題をいつも提供していただいております。

 その原点となったのが「退官講義」と「退官記念パーティー」での本山美彦教授のスピーチであると思います。

 懐古趣味にならず、間違いを犯そうとも「常に、前進、前進で新たな学問を築きあげる」という教授の現在の原点がここにあります。

 「退官講義」から1年を記念いたしまして、「退官記念パーティー」のスピーチを公開いたします。

 どうぞ、来訪者の皆様これからも本山教授の「新しい学問への挑戦」にご注目いただくとともに、当「消された伝統の復権」を末永くご愛顧くださいますようお願い申し上げます。

      「退官記念パーティー」のスピーチ

 

 


本山美彦 福井日記 73 福井県「ふるさとの日」2月7日

2007-02-17 00:25:42 | ふるさと(福井日記)
 他の県にもあるのかもしれないが、寡聞(かぶん)にして知らない。福井県には、「ふるさとの日」という記念日がある。なんともゆかしい命名ではないか。

 「福井県成立記念日」などといった無粋(ぶすい)な名称でなく、ひらかなで「ふるさと」と表現する。素敵な響きである。福井県の「ふるさとの日」は、2月7日である。

 今から126年前の1881年(明治14年)の2月7月、現在の福井県が成立した。



 
県成立1周年記念祝賀会で、元福井藩主の松平春嶽((まつだいら・しゅんがく、松平慶永(よしなが)の号)が最大級の喜びを示した。この日のことは死んでも忘れないとして、「越ノ海ヨリ深ク白山ノ嶺ヨリ高イ」と当時の石川県令に感謝した。その県令が石川県に属していた越前を放棄を受けて、同じく滋賀県に属していた嶺南を併せて福井県が誕生したのである。

 越前には、現在の嶺北に相当する7郡があった。越前を放棄する前の石川県には、越前の他、加賀、能登、越中という4つの地域があった。

 
これら4つの地域は、まとまりを欠き、石川県令は予算案を通すことすら困難を覚えていた。そもそも議会が紛糾して、石川県としての統一的思考など、とてもではないが、できなかったのである。悲鳴を上げた石川県令は、越前と越中を放棄する。

 福井では商人たちが、「勉強会」という名の組織を作って、福井の石川県からの分県運動を組織していた。東京にいた松平春嶽も福井を分県させるべく、新政府に働きかけていた。そして、福井県が成立した。この日を、福井県は誕生日として祝っている。

 今年の2月7日も、「ふるさと」をもり立てる各種イベントが全県で開催された。
 福井市では福井県科学学術大賞の表彰式があった。今年は、セーレンの研究者の山田英幸氏が受賞した。蚕の現代社会への応用が評価されたのである。

 山田さんはまだお若い。45歳。セーレンに1987年入社。「セリシン」というタンパク質の保湿効果を発見した。「セリシン」は、繭から絹に精錬する過程で発生するものである。昔からセーレンの社内では、精錬作業に従事する作業員の手の肌荒れが少ないという話があった。山田氏はこれを実証した。化粧品に応用することができるようになった。

 福井新聞の取材に答えた同氏の言葉が素晴らしい。
 「天然物ののエリシンを研究してきたことで、自然の原理原則をわきまえて開発に取り組むことの大切さを学んだ。私の原点はものづくり。ひとつの研究にとどまらず、いろんな分野に展開するきっかけとなった。今後もチャレンジする気持ちを忘れないでいたい」。

 これまでは手作業であった「あん」を包む機械を発明した坂井市のコバード社の関係者も特別賞を受けた。

 多くの人材を福井県は擁しているのであろう。こうした人材の発掘を今後も真剣に継続していただきたい。本当にいい試みである。関係者に拍手を送りたい。

 県生活学習館では、「ふるさと料理を楽しむ会」(福井新聞社後援)が開かれた。大野里芋の煮っ転がし、勝山水菜の四色白あえ、旧美山町の保存食、花びら餅、地酒がなんと43銘柄、等々が参加者に振る舞われた。
 以上は、『福井新聞』平成19年2月7日と8日号に依拠した。

 せっかくのお祝いムードに水を差すようで申し訳ないが、2月7日は、アジアにとって不幸な日をも含んでいる。米軍による北ベトナムへの爆撃開始の日でもあったからである。

 1965年2月7日、米空軍が北ベトナム南部のドンホイを空爆した。これが北爆の合図となった。

 
北ベトナムによるトンキン湾事件への米国ジョンソン大統領の命令による報復であった。そして、翌3月、海兵隊がダナンに上陸した。



 私の大学卒業直前であった。それこそ、涙を流しながらベトナム反戦デモに加わったことを鮮明に覚えている。



 空からの爆撃を受けて、無辜の人々が、なす術もなく、地上で殺されている。しかも、殺戮の戦闘機は、横田基地から、嘉手納基地から飛び立っている。

 日本の企業は特需の恩恵を受け出していた。こんな理不尽なことを神が許すはずはない。卒業の喜びなどなく、毎日毎日デモに参加した。

 そして、毎日毎日デモがあった。いたたまれなかった。なにかをしていなければ、日本は米国に引き摺られて倫理のない社会になってしまう。そうした思いが私を突き上げていた。

 それにして、いまのイラクでの戦争、信じられないほどの日本の無風情況、反戦運動はおろか、社会運動すら起こらない。そして、米国に学べとの大合唱。米国帰りの研究者しか「学者にあらず」。社会性なき、社会科学。涙が出てくる。

 若い研究者たちは、私たちの時代に比べて、確かに、はるかに、知識的には、優秀である。しかし、私などは、血が通った研究を、若い人たちに見ることが、ほとんどなくなったと、感じている。若い人たちは、後世に何を伝えようとしているのだろうか。暗澹(あんたん)とした気持ちになっているのがいまの私である。でも、歯を食いしばる。申し訳ない。弱音を吐いてしまった。

本山美彦 福井日記 72 松岡の馬の埴輪 

2007-02-16 00:01:16 | 人(福井日記)
 私が住んでいる松岡に、鳥越山古墳春日山古墳がある。

 松岡町(いまは合併して永平寺町松岡)に春日と神明という地名があることに不思議さを覚えて、周辺を足で歩いて調べ始めたのが昨年の3月のことであった。

 振り返れば、松岡にきてからの私は興奮の連続であった。
 水路のことも、荘園のことも、街道のことも、堰のこともなにも知らなかった町の雑踏の中で育った私が、農村の原型の力強さに開眼したのだから。

 その興奮によって、福井のことをできるかぎり正しく知りたいと、ノートを取るようこの福井日記を書き綴ってきたのである。1年でどれだけたくさんのことを知ったか。もちろん、私の若い友人たちの献身的な協力がなければ続く作業ではなかった。

 その松岡の2つの古墳から馬と馬具の埴輪が出土している。
 小松市矢田野エジリ古墳からは馬を使った儀式を表す埴輪も出土した。そうしたこともあって、5、6世紀の古墳時代の後期には日本で乗馬の習慣が定着していたことが推定されるようになった。俄然、江上波夫の大陸の騎馬民族による畿内の倭国を征服したという大胆な仮説が注目されるようになった。

 古代、血統の異なる王朝が交替したのではないかとの説を「地方豪族による王位簒奪説」という。こうした簒奪説を取る仮説では、第26代の継体からを新王朝とし、第15代応神から継体までの王朝を中王朝、第10代から応神までを古王朝としている。

 王の血筋が絶えたので、遠い古志の国にまで応神から5代も後の継体を探し出したとか、即位しながら、20年間も奈良に継体は入っていないという非常に自然なシナリオを説明するのに、王位簒奪説は説得性がある。論争はほぼ永久に決着がつかないであろう。

 古代史はだからこそ素人が論争に参加できる領域を提供してくれる。
 それはそれで楽しい。でも、王朝簒奪史だけではあまりにも寂しい。

 王ではない庶民たちはどのような生活を送っていたのだろうか。どんな産業があったのだろうか。どんな往来があったのだろうか。人口に伝えられた伝承をとにかく発掘すること、それから、わが福井には古い地名が残っている。

 この地名から多くのことを類推する。そうした作業が不可欠であろう。福井の地域史研究の水準は高い。この成果を多くの人に公開していただけたらと願う。

 こうしたことへの福井の取り組みを紹介しておこう。
 福井県生活学習館には、郷土学習講座ある。美浜町では生涯学習講座がある。
 2月10日には「古代若狭の銭とマツリ」がテーマになった。越前市南地区では、「みなみ今昔ものがたり」が越前市南公民会で開かれた。

 昭和初期ですら結婚式でお色直しなどなかったことなどが紹介された。
 
市教委市史担当の真柄甚松氏はいう。「昔話がどんどん消えていくのはもったいない。今後も教える場を設け、みんなあで共有してほしい」。至言である。

 今年は継体即位1500年、各種行事が盛り上がり、私たちが生活史を振り返る良い機会だと楽しみにしている。

 継体と関係ないが、このブログで福井の男性社員の賃金水準が低いといってしまったことに忸怩たる思いをしている。反省を込めて、福井の労働状況の良さを紹介しておきたい。

 
2005年の国勢調査の結果、夫婦のいる一般世帯数に占める共働き世帯数の割合は58.2%で、1995年以来、全国1位である。全国平均は44.4%である。

 15歳以上の労働力人口に占める女性の労働力率も53.5%で1980年以来、全国第1位である。女性の就業率も51.6%で、2000年では2位であったが、今回1位になった。すごいのは、就業者のうち、常勤雇用律は86.4%で、これも前回に引き続き1位になっている。

  若いうちは、東京や海外にでても楽しい。しかし、老人になればふるさとに帰りたい。帰って生活できなければなんいもならない。どうすれば帰ることができるのか。一所懸命考えたい。

  今回も『福井新聞』平成19年2月6日号に依拠した。

本山美彦 福井日記 71 継体と2月4日

2007-02-15 01:11:37 | 人(福井日記)
 近年、悪名が高くなった『日本書紀』によると、2月4日(継体元年2月4日、西暦では507年3月5日)は、継体が樟葉宮(くずはのみや)で即位した日である。

 丁度、1500年前になる。枚方市市民会館で、同日、「樟葉宮1500年記念事業、渡来人の里・枚方と継体天皇」が開催された。1200人も集ったという。

 福井県からは、坂井市の「越の大王祭保存会」が六呂瀬山古墳群(私の下宿の近く)に眠る越の王たちに捧げる「越まほろばの舞」を披露し、永平寺町(私の住む町)の「越の国・里づくりの会」が、越の四季をテーマにした創作歌を紹介した。

 大王を祭神とする足羽神社(福井市)では、継体大王即位1500年を記念した奉祝祭が同じく平成19年2月4日に開かれた。

 福井県は、継体即位1500年記念の年に当たる今年、かなり大々的に宣伝する意欲を示している。私も楽しみにしている。

 継体の力の源泉は、いうまでもなく、治水であるが、国際感覚と、国際交通の技術もあったのではないかといわれている。

 永平寺町には古志(こし)という地名がある。おそらく越という言葉を嫌ったのであろう。奈良の都から見て、木の芽峠を「越した」先が越前である。

 
越前という言葉も差別用語の臭いがする。そこで、地元の人たちは「古志」と自らを称したのであろう。

 出雲市の中央部に「下古志」という地名の地区がある。
 
この地区には、『出雲国風土記』に出てくる「宇加池」(うかのいけ)と記載された「宇賀池」がある。これは、いまの福井の古志の国からやってきた技術者たちが築いた堰堤の名残だとされている。同町や隣の古志町を総称して、一帯は、8世紀頃、「古志の里」と呼ばれていた。

 『出雲国風土記』は733年に編纂されたことが分かっている。
 
イザナミノミコトの時代に匹敵する、はるかに大昔、古志の国の人たちが、日淵川(現在の保知石川=ほじしかわ)を利用して池を作ったと記載されている。技術者たちの宿営地が「古志」と呼ばれるようになったのであろう。

 福井市では、継体の誕生前の時代、つまり、古墳時代前期に、すでに灌漑設備の遺構が発見されている。

 
曽万布遺跡では、数十本の杭に芦などを絡めた柵(しがらみ)を作り、石を積み上げて川の流れを変えた跡がある。

 少なくとも、当時の日本では、図抜けた治水工事の技術を、古志人たちは、もっていたのだろう。

 それに、出雲に招かれたということ、つまり、大和朝廷に対立していた出雲と濃密な接触があったということは、かなり古代史にとって暗示的である。

 1500年記念行事の中で、治水事業はもとより、継体の大陸との関係が明らかになってくれたらと胸を躍らせている。

 この文章は、平成19年2月5日の『福井新聞』による。

ギリシャ哲学 32 ピタゴラスとプシューケー

2007-02-14 02:34:53 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 ソクラテス以前の哲学者の注解者として、プラトンは、多くの記述を残している。

 しかし、プラトンの引用の仕方は、ほとんど例外なく、相手を揶揄したものであり、自分の正しさを示すべく、相手を過度に貶めるものである。以前にも指摘したが、とくに、ヘラクレイトスへの注解はひどい。そして、後世の人たちは、ソクラテス以前の哲学を、偏見に満ちたプラトンの目を通して見てきた。


 そもそも、「ソクラテス以前の哲学」という括り方は、アリストテレスに由来する。

 プラトンとアリストテレスは、自分たちの完成された哲学に辿り着く道筋としてしか、過去の哲学者を見ようとしなかった。

 アリストテレスは、プラトンほどひどくはないが、それでも、過去の哲学者は未熟で、改めて学び直す必要のないものとして位置づけてしまった。

 それは、例えば、経済学の世界に引き寄せて表現すれば、ウィリアム・ペティからポール・サミュエルソンまで、経済学は完成への道筋を歩んできたというジョセフ・シュンペーター(『経済分析の歴史』の記述)を彷彿とさせる。



 はたして、そうであろうか。
 人文学、社会学の世界では、直線的に進歩してきたと言えるのだろうか。昔の学問の方が優れていたという積もりはないが、現代に至るほど、言葉は饒舌になり、むしろ、本質的なものがぼやかされているのではないだろうか。

 「底辺でのたうっている人たち」の哀しみを共有するという意識が、専門家ほど希薄になっているという情況を、私たちは直視すべきである。

 こういえば、「情緒的な発言は慎んでもらいたい、データに基づく、科学的な理論で裏付けられた発言をしてもらいたい」と、私などはつねに叱られてきた。私は、口角泡を飛ばす議論は嫌いである。

 その多くに、心がこもっていないからである。黙って、「分かってくれる人もいるはずだ」と、その都度、私は、つぶやいてきた。

 目の前に生涯を託す職業に就けない若者たちが溢れているのに、労働問題の専門家たちは、労働形態が多様になった社会がきたとうそぶく。なにをいっているのか。誰が好きこのんでフリーターになりたいものか。誰が、非正規社員の方が気楽でいいと言えるのか。

 私の住んでいる福井県は、共稼ぎ率が日本一だとか、貯蓄額が最高であるとか自慢されている。しかし、男性の賃金の低さには人々は目をつぶる。必要なことは賃金を上げることである。パートではなく、生涯打ち込める仕事を創り出すことである。

 「消された伝統の復権」の執筆。孤独な作業である。しかも、ときどきではあるが、半畳を打たれる(*)。

(*)芝居で、役者に対する不満・反感を表すため、自分の敷いている半畳を舞台に投げうつ。芝居を見ていて、役者の演技を非難したりからかったりする。転じて、他人の言動に対し非難・揶揄(やゆ)などの声を発する。弥次る。

 こうして、人に理解される前に挫折してしまうかも知れない。しかし、幸い、私の周囲には、少数ではあれ、若い人たちがこのブログを支えてくれている。彼らの善意を救いとして、「他者」への共感を訴え続けていきたい。

 また、話が横道に逸れた。こういう私の悪弊について、協力してくれる若い人たちからよく叱られる。「確かに」と、自戒する。

 話を元に戻そう。
 きちんと評価せず、揶揄するばかりであるプラトンが、ひそかに憧れていた過去の哲学者もいた。後に、プラトンは、初期の自分の傾向を修正するが、それでも、若いときには、傾倒していた哲学者がいた。それが、ピタゴラスであった。

 もとより、紀元前3世紀と紀元前6世紀というように、二人の生きた時代が大きく違うので、プラトンがピタゴラスを直接知っていたわけではないが、少なくとも、プラトンの『パイドン』(Phaedo)は、ピタゴラスの影響が見られる。

 ただし、ここでも、ピタゴラスの説ではなく、プラトン的にアレンジされたものであるが、それでも、魂に関する終末論は、ピタゴラスへの傾倒なしには記述されようもなかったであろう。

 そして、プラトンは、ピタゴラスの数論を弟子たちに勉強させたという研究もある(Ross, W. D., Plato's Theory of Ideas, Oxford, 1951, chs. IX-XVI)。『ティマイオス』(Timaeus)、『ピレボス』(Philebus)にそうした気配を見て取れる。

  しかし、プラトン派、後の新プラトン派の人たちは、ピタゴラスをピタゴラスとして理解したのではなく、あくまでもプラトンに引き寄せて解釈したのであるといわれている。

 ちなみに、アリストテレスは、ピタゴラスをプラトン的に解釈することには反対だったとされている。

 「プシューケー」(ψυχη=魂)という言葉は、ピタゴラスのものとされている。

 
プラトンの『パイドン』 によれば、「生の原理」、「心」、「自己」という、順応性ある豊かな意味内容のある言葉として語られている。

 イオン(Iôn=前490年頃~425年頃、アテネで活躍した悲劇詩人。自然学の著作もある)によれば、人間の魂は、死後に祝福されるはずであると、ピタゴラスは語ったという。

 これは、ディオゲネス・ラエルティオス(Diogenês Laertios=キリキア地方、ラエルテ出身、後3世紀前半とされる)の『哲学者列伝』(Vitae et sententiae eorum qui in philosophia probati fuerunt )による(第1巻120節)。

 「かの男は、その身は滅んだが、その魂は、かくも雄々しく気高さに秀でて、喜ばしい生を送っている。いやしくもピタゴラスは、まことの賢者であり、万人に優れていて、人の考えを知り抜き、学び尽くした人なので」。

 「かの男」というのは、ペレキュデス(Perecydês=シュロイスの人。前550年頃、オルペウス教信者)。つまり、ペレキュデス(アテネの同名人=前5世紀頃とかレロスの同名人=前4世紀と混同しないように)というピタゴラス親派(オルペウス教とピタゴラスは不可分の関係にある)は、ピタゴラスの教えの通りに人生を歩み、ピタゴラスの予言の通り、肉体は死んでも、魂は幸福な生活を送っているというのである。

 ヘロドトス(Hêrodotos=ハルカルナッソス出身。前485年頃~前420年の歴史家)の『歴史』(Historiae)でピタゴラスの名こそ出していないが、おそらく、ピタゴラスのことを言っているのであろう記述がある。

 「人間の魂は不死であり、肉体が滅びると、そのつど生まれてくる別の生き物の中に入って、そこに宿るという説を唱えたのも、エジプト人が最初である。陸の生き物、海の生き物、飛翔する生き物と、ありとあらゆる生き物を巡ると、魂は再び、また生まれてくる人間の肉体に宿り、こうして魂が一巡するには3000年かかるという。ギリシャ人の中にも ─ 人によって、時代の後先ははあるが ─ これを自分の説のように用いた者がいる。私はそういう人たちの名前を知っているが、ここにはあかさない」(第2巻123節)。

 愉快な記述である。
 
ヘロドトスという人は機知と諧謔(かいぎゃく)を喜んだ人なのだろう。「歴史学の父」が明るい人であったことは(内容の深刻さにもかかわらず)、救いである。明るさが、偉大な学者の資質なのだろう。学者は、人を深刻な姿に陥れるのではなく、人を救うために、時間が与えられているのである。そのためには、人を明るくさせなければならない。


 まず、彼は、ギリシャの外部からくるものは、それが、インド、中央アジア、南ロシアからのものであれ、すべて、エジプトからきていると表現する。少なくとも、当時のギリシャ人はエジプトだけは尊敬し、東方の風物はすべて卑しいものと見なしたのであろう。アレキサンダー大王が、東方に惚れ込んだときのアレキサンダーの師、アリストテレスの失意を想像するだけで可笑しくなる。

 ヘロドトスのいたずらは、エジプトを口実にして、ピタゴラスの考え方をギリシャ人に伝えたのである。ピタゴラスが、無知で傲岸なアテネ人たちに貶められないように、「私は知っているが、その人の名前はあかさない」といなしている。愉快な人である。

 それはともかく、自信はないが、「歴史家」(ヒストリエー=ιστριη)の意味に関する私見を付け加えたい。「歴史家」(ヒシトリエー)とは、「探究の実践者」、「現場の証言者」のことであると私は思い込んでいる。

 本稿の記述は、Kirk, G. S., Raven, J. E. & M. Schoield, The Presocratic Philosophers: A Critical History with a Selection of Texts, Second Edition, Cambridge University Press, 1957; G.S.カーク、J.E.レイビン、M.スコフィールド著、内山勝利・木原志乃・國方栄二・三浦要・丸橋裕、訳『ソクラテス以前の哲学者たち』(第2版)京都大学学術出版会、平成18年(恥ずかしながら、発行人に私の名前が記されている)、に大きく依拠している。



 ただし、主張点のすべてがこの書ではなく、この書から鼓舞された私の私見にすぎない。誤りがあったとしても、原著者と翻訳者の責任ではない。



 京都大学学術出版会「古典叢書」のご愛読をお願いする次第である。

本山美彦 福井日記 70 新しい金融のパラダイムを求めて

2007-02-13 00:22:58 | 金融の倫理(福井日記)
 恥を告白しなければならない。

  私は、いま、「金融の倫理」論を書こうとして資料を集めている段階である。執筆には、過去の大学者の金融倫理論を検討することがもっとも無難であることは自明のことである。多くの金融倫理論も、そうした手法を踏襲している。

 しかし、それだけでは面白くない。
 
Enronを初めとした数々の大型金融スキャンダルを目にした最近の研究者たちが(無名でもよい)、事態をどのように捉え、それを活かしてどのような倫理論を構築しようとしているのかを調べるべく、いまはアトランダムに若い人たちの論文を読んでいる段階である。

  無名ではあるが、鋭い切り口の論文はないか。まず、それを調べた後、自分の理論を展開しようとノートを取っている。今回、このブログに紹介しておこうと取り上げたのが、Dobsonである。

  しかし、残念ながら、鋭くなかった。
 殺し合いをしている当事国に向かって、「平和が大事ですよ」と説得するだけの空理・空論であったことを、読み終わって告白せざるをえない。タイトルに惹かれて読んだのが失敗であった。読者諸氏におつきあいをさせて、まことに申し訳なく思う。

 Dobsonの主張を以下で、要約しておく。参考にはならないが、組み替えれば、もしかして役に立てることができるかも知れないとの、はかない希みで、記述しておきたい。

 そもそも、道徳には、単一の原理などはない。人によって、地域によって、適用されるべき道徳は異なる。ところが、世界中をまたにかけて活躍しているはずの金融マンたちは、単一の原理をもっているだけである。とにかく、なにをしても儲けるべきであると。そうした金融パラダイムの単一の価値観をどう打破すればよいのかが、金融倫理論確立にとって、とりわけ重要な課題となる。

 Dobsonは、「道徳倫理アプローチ」(virtue ethics approach)を金融に応用するには、4つの重要な点があるという。

  第一に、人格の発達が最重要である。それは公平さ、正しい判断、忍耐力、一貫性といったこと、つまり、昔から、徳と言われていたものの発達が大事である。

  第二に、こうした徳を育み、次代に受け渡す社会を創り出すことの重要性を認識することである。

 第三に、ルールを固定化し、単一のガイドラインを設定するよりも、臨機応変の健全な判断の方が重要であることを認識することである。

 第四に、自分たちの環境に応じて、どのような徳のある生活を営めるのかの基本的モデルの作成が重要である。

 Dobsonは、この徳についての思考方法を「質の形而上学」(metaphysics of quality)と結びつける。「質の形而上学」とは、Robert Pirsigが提唱したものである。これを採用すれば、倫理学者ではない金融マンにも受け容れやすくなるだろうというのである。

 Pirsigによれば、私たちは、あらゆる行動において、肉体にも、精神的にも、より高い質を求める心を内在させているという。精神的に高いものを求めるということは、MacIntyreの「内発的善」(internal goods)に照応するものである。MacIntyreは「内発的善」を追求することが徳の最終目標であるといった。

 これは、アリストテレスのいう「エウダイモニア」(eudaimonia)に他ならない。「エウダイモニア」とは、理性に基づく生活から生まれる幸福のことである。

 最近のビジネスマンには、技術優先社会ではなく、高品質の物を作りつつ、共生を図るという「日本的なもの」を理解しようとの心理が芽生えつつある(post-Japanese technological era)。ビジネスマンからは、はるかに隔たった伝統的な倫理学を、無理してビジネスマンに説くよりも、彼らに馴染みの深い高い品質を生み出す日本社会の価値観を媒介させればいいとDobsonは考えている。

 Dobsonは、産業革命時代の初期には、道徳に基づく企業が生き残っていたが、現代に下るにつれて、そうした道徳的な観念はなくなってきたという。

 マーケットは倫理に従う。徳のないマーケットは長期的に維持できないからである。そうしたマーケットのありかを重視すれば、徳のある取引者でも、金融市場において、徳のない取引者と互して戦えるはずである。

 今後、必要なことは、「新しい金融パラダイム」を確立することである。まず、「新しい取引主体」(new agent)が形成されなければならない。次ぎに、「新しい企業」(new firm)、それも、「都市国家」(polis)的企業が出現しなければならない。新しい主体は、内発的な善を追求することによって、徳をという最終目標を実現させる役割を担う。内発的善を実現させるために、外的な資源、つまり、金融資産、技術は使われるべきである。豊かな生活とは、有徳の人が、人生の目標を、善として設定するところからしか生まれない。そのさい、宗教を導入することも必要となる。

 都市国家としての企業が、コミュニティに徳を求める環境を提供する。「企業論は道徳論である。なぜなら企業組織が道徳的なものだからである」(p.148)。

 アリストテレスは「知的欲求」(intellectual pursuit)と「観相的探究」(contemplative enquiry)が人生の目標であるといった。そのさい、物的富は、そうした目標を実現させる手段であった。今日、余りある物的な富が、人類を、物の奴隷である状態から脱却させてくれている。しかし、それは、「ピュロス王の勝利」(Pyrrhic)のようなものである。ピュロスとは、紀元前319~272年の人で、古代ギリシャのエペイロス(Epirus)の王(紀元前306~272年)であった。紀元前280年にローマ軍を破ったが、犠牲が大きすぎた。引き合わない勝利のことをこのように単に"Pyrrhic"と呼ぶか、"Pyrrhic victory"と表記する。

 現代社会は、物的富を得ているはずである。しかし、徳を捨てたために、今日の富は「ミダス王」(King Midas)の悲劇そのままである。アリストテレスの理想を現代に確立すべきである。

 こんな無内容のものを紹介してしまったこと深くお詫びする。

ギリシア哲学 31 ピタゴラスの文献と輪廻転生

2007-02-11 17:10:24 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 しばらく、末木氏に導かれて、日本の習合的宗教の流れを追ったのは、ひとえに、ピタゴラス的なもの(仏教的なもの)を、じつは、世界共通に流れていたものとして、現代に復権したかったからである。

 紀元前6世紀頃、南イタリアで活躍したピタゴラスは、古代ギリシャ哲学の中で、おそらく、初めて、人間の生と死の問題に取り組んだ人である。


 ピタゴラスに関する日本語文献として、以下のものがある。

●セントローネ、斎藤憲訳『ピュタゴラス派─その生と哲学』岩波書店、2000年。

●左近司祥子『謎の哲学者ピュタゴラス』講談社、2003年。セントローネの原語は、イタリア語である、Centrone, B., Introduzione a i Pitagorici, Bari, Rome, 1996.


  英語で読めるものを以下列挙しておく。

●Burkert, W., Lore and Science in Ancient Pythagoreanism, English trans., Cambridge, Mass., 1972. 原語、Weisheit und Wissenschft: Studien zu Pythagoras, Philolaos und Platon, Nürnberg, 1962.

●Burkert, W., "Craft versus sect: the problem of Orphics and Pythagoreans," in Meyer, B. E. & E. P. Sanders, III, eds, Jewish and Christian Self-definition, London, 1982, pp. 1-22.

●Cornford, F. M., "Mysticism and Science in the Rythagorean tradition," Classic Quarterly, 16, 1922, pp. 137-50, and 17, 1923. pp. 1-12. repr. in Mourelatos, A. P. D., ed., The Pre-Socratics,  Garden City(N. Y.), 1974.

●Heidel, W. A., "The Pythagoreans and Greek mathematics," American Journal of Philosophie, 61, 1940, pp. 1-33.

●Huffman, C. A., Philolaus of Croton, Cambridge, 1993.

●Hufman, C. A., Archytas of Tarentum: Pythagorean, Philosopher and Mathematician King  Cambridge, 2005.

●Kahn, C. H., Pythagoras and the Pythagoreans. A Brief History, Indianapolis, 2001.

●Morrison, J. S., "Pythagoras of Samos," Classic Journal, New Siries, 6, 1956, pp. 133-56.

●Nussbaum, M. C.,"Eleati conventionalism and Phylolaus on the nditions of thought, " Harvard   Studies in Classical Philology, 83, 1979, pp. 63-108.

●Philip, J. A., Pythagoreans and early Pythagoreansm, Tront, 1966.

●Riedweg, C., Pythagoras: Leben, Lehre, nachwirkung. Eine Einführung, München, 2002. 英訳、Pythagoras: His Life, Teaching, and Influence, Ithaca, 2005.

●Thesleff, H., An Introduction to the Pythagorean Writings of the Hellenistic Period, Åbo, 1961.

 プラトンの『国家』530Dと600A-Bに表現されているが、ピタゴラスは、宗教的倫理的側面と哲学的科学的(数学的)側面を併せもつ人であった。

 そして、現代の研究者たちも、この線上で論じあってきた。上記、コーンフォードの著作のタイトルには、神秘主義と科学が併存させられているし、ブルケルトにも知恵と科学とが並べられている。

 私たちの周囲には、一杯、数学的天才がいる。しかし、どうして、天才の多くは、単細胞なのだろう。無邪気な天才なのだろう。数学によってなんでも解けると思っている人たちの多くが、どうして、いとも簡単に権力の下僕となって、恐ろしい兵器を、それこそ、平気で作ってしまうのであろう。この問題を提出するだけで、ピタゴラスの存在意義は分かっていただけるであろう。ピタゴラスも数学の天才であった。

 私が、しばしば引用するディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第8巻36節に、聖徳太子と同じ様子が伝聞として紹介されている。クセノパネスがいうには、ピタゴラスはたびたび姿を変え、ときには子犬にもなったという。これは、ディオニソスが姿を変えたのと同じである。

 クセノパネスは語った。子犬がピタゴラスであると。あるとき、クセパノスが子犬が撃たれている側を通った。このとき、彼はいった。

 「よせ、打つな、これはまさしく友人の魂だ。声を聞いて、そうと分かったのだ」。

 これは、ディオゲネス・ラエルティオスの「クセノパネス断片7」である。

 さて、私たちは、つい最近、末木氏から学んだ聖徳太子の個所に戻ろう。

 太子の「片岡山伝説」である。これは、『日本書紀』推古天皇21年(613年)に出てくる。

 太子が、片岡山に遊行されたとき、道ばたに飢えて行き倒れた人を見て、名を問うたが答えなかった。太子は飢人に食を与え、衣装を掛けて、歌を残した。可哀想にと。

 翌日、死者を遣わすと、飢人はすでに死んでいた。そこで葬らせた。しかし、太子は言った。

 「あの飢人はただ者ではない。真人(ひじり)である」。聖(ひじり)を「真人」と書くのは道教の影響である。「聖人」は儒教、仏教では「菩薩」である。

 それはともかく、後日、再び使者を遣わすと、墓に死体はなく、衣だけが残っていた。太子は衣を、再び着た。そして、世人は、聖と認識した太子はすごいと讃えた。そして、この聖が、禅宗の始祖、達磨太子であったということになったのである。

 そして、聖徳太子自身は、天台宗を開いた天台智の師、南岳慧思の生まれ変わりだったというのである。

 いささか、話は逸れるが、最近、『日本書紀』は捏造が多いので信用ならないとして、『日本書紀』の記述による、継体天皇越前出身説や大化の改新説を否定する論調が流行しだした。そうした新しい説がTVでもてはやされている。

   真偽のほどを確かめる力は私にはない。
 しかし、古代の権力者の手になる文書に、信用できるものと信用できないものとがあるとの発想にはついていけない。

   権力者の手になる歴史書で信用できるものなど皆無ではないのか。
 古代ほど、歴史書は権力者が捏造したもので、客観的に書くはずがないではないか。信用できないものをつきあわせることによって、ありうべき歴史を推測するというのが、古代史研究の鉄則ではないのか。

 いわんや、中国人が書いた日本歴史だから信用でき、後、中国語のあやうい日本人の手になる漢文だから、『日本書紀』は信用できないという説にいたっては、なにをかいわんやである。

 そんなことを論拠とするのなら、将来の日本人は自国の歴史を英語で勉強することになるだろう。英語のできない日本人の英語の歴史書は信用できず、米人が書いた英文の日本歴史書は信用できるということになってしまう。まさに「姿なき占領」そのままである。

 余計なことを言い過ぎたが、輪廻転生をプラトンによって、馬鹿にされたが、オルフェウスとピタゴラスの感性は、遠く、日本にまで辿りついていたのである。このことのもつ意味を私は強く意識する。


本山美彦 福井日記 69 金融と「社会的評価」

2007-02-10 22:13:54 | 金融の倫理(福井日記)
 「社会的評価」(れぷたちおん)について、Dobsonは、その著、第3章で展開している。企業の評価が高くなれば、当然、株などの有価証券の価値は高くなる。将来的にも利益を大きくしようとすれば、企業は、自社の評価を高めるしかないとよく言われている。

 
評価を高めるべく、企業は、自らの評価を貶めるような行為はしなくなる。社会的評価を気にかけることによって、企業は不正を冒さなくなる。こうしたことを企業側は折に触れて対外的に広言する。

 しかし、これは、あくまでも建前にすぎない。現実には、評価評判の高い企業も数々のスキャンダルを作りだしている。

  数々の不祥事を冒しても、いっとき制裁を受け、組織を若干手直しすれば、すぐさま、市場に復帰するということが、むしろ、一般的であった。

 不祥事を社会から糾弾されたことによって、市場から退場したという事例はほとんどない。社会からの評判によって、行動基準が律されることは、ことマンモス金融機関に関するかぎり、ありえないのである。

 そもそも、絶えず風向きを気にする金融機関を本性的に信頼できることなどできkるのであろうかと、Dobsonは疑問を呈する。

 かつて、ソロモン・ブラザーズが、米国債取引で不正を行ったとして、司直から告訴されたことがあった。

 
このとき、新しくCEOに就任したClifford Smithの発言は、注目を浴びた。
「犯罪を犯したわが行員が、会社の金を失い、会社に損害を与えただけのことなら、私は情状酌量をしたであろう。しかし、件の行員が会社の評判を貶めたということが分かれ、私は容赦しないろう」と。

 ここには、会社の金を失う行為よりも、評判を失うことの方が会社にとっては痛手であることが率直に表明されていた。

 
会社が評判を落としただけでなく、市場に損失を与えたとの認識も真CEOによって吐露された。もし、これが本当なら、かつての「金融のパラダイム」が変化したことを物語るはずであった。

 しかし、告訴された特定の行員の行動が問題であったとしてすまされることであったのだろうか。

 
彼が非倫理的な行為をしたという点よりも、なぜ彼がそれをしたのかの論点の方が、はるかに重要であろう。「倫理感にしたがって行動しない行員は、いずれ、非倫理的な行動に移るものである」と、Dobsonは指摘する。つまり、倫理的な行動をつねに取るべきであるとの姿勢が企業内で確立できているのかが問題である。

 ある企業がスキャンダルを引き起こせば、市場に参加する投資家が減少する。そうすれば、関連の金融機関はすべて損失を被る。

 
当たり前のことだが、市場の信頼を得るためにも、企業とその従業員は倫理的に行動することが重要なのである。

 「義務的倫理」(deontological ethical)という倫理社会学がある。善悪、動機に関係なくとにかく倫理を実践するということが重要である。つまり、「価値倫理学」(axiological ethics)では不十分だとDobsonはいう。「価値倫理学」とは、行為の動機と目的の相対的な善なり価値なりを意識した倫理学である。

 こうした、義務的倫理を金融の世界に共有することは具体的に可能なのだろうか。きれいごと、絵空ごとのものでしかないような、倫理を企業の内部に根付かせることは可能なのか。Dobsonはそう問う。

 Dobsonは、アリストテレスの金融倫理を現代に復活させるAlasdair MacIntyreの理論を復権させようとしている。

 「主観主義」(subjetivism)に陥ることなく、文化と市場とが多様化している状況下では、「徳の伝統」(virtue tradition)を復活させることが必要であるとMacIntyreは主張していた。

 ただし、そうはいいながらも、MacIntyreは、現在の経営者やビジネスマンに道徳を要求するのは無駄であるとの悲観論に立っている。

 Dobsonは、懐疑主義の、MacIntyreの理論を応用することはできないだとうか。第6章、「金融のパラダイムを超えて」(Beyond of the Finance Paradigm)というタイトルの下での、「道徳の合理性」(rationality of virtue)がそれである。

 第7章で、カントの「絶対無条件的道徳律」(categorical imperatives)批判が展開されている。道徳観は、人間の精神的発達の度合いや、地域の多様な文化的背景によって異なる。金融に道徳律を適用させようとすれば、カントのようなすべての人間、すべての地域に一律に適用するような道徳律であったはならない。柔軟な、地域と文化に適合した多様な応用形態が確立させられるべきなのであると、Dobsonはいう。 

本山美彦 福井日記 68 習合体である日本の宗教

2007-02-08 23:40:07 | 神(福井日記)

 末木氏は、土着の神が仏法を保護してきたのも日本の神のもうひとつの姿であったという。



 
氏は、その例として八幡宮を挙げる。『続日本紀』には、大仏建立のさいに、宇佐八幡宮の神が奈良の都に来訪したという記述がある。天平勝宝元年(749年)のこととされる。


 そう言えば、私が人生の大半を過ごした須磨に墓地のある那須与一は、平家の舟の扇に矢で射るときに、「南無八幡大菩薩」と念じたという。日本の神さんが仏教の菩薩になってしまっていたのである。

 八幡神は、元来が北九州の土着の神である。
 
海や銅山を守る神であった。平安初期に「八幡大菩薩」の称号が与えられている。東大寺には快慶の作とされる僧の形をした八幡像がある(僧形八幡)。仏教によって神が認知されることを「尊格」というそうである。

 梵天さんも、帝釈天も、そもそもがインドの神さんであったはずなのに、仏教において高い「尊格」を得ている。



 
梵天さんは仏教では、「色界」の「初禅天」に属する。これは護法の諸天の最高位の「天」である。帝釈天もベーダではインドラ神という最高神であるのに、仏教でも「欲界第二天」に住まわされ、梵天と並ぶ護法の神である。


 そして、仏が神の姿となって神の国にくるという本格的な本地垂迹の考え方が奈良・平安期に定着する。


  なんと、神道ではもっとも大事な天照大神は大日如来、盧舎那仏のことであるとされた。日吉(ひえ)は釈迦とされた。



 山王宮曼荼羅の絵図が奈良国立博物館に所蔵されている。
  画面下部には比叡山の鎮守である日吉神社が描かれている。画面中部には日吉神の神体山である八王子山が描かれている。画面上部に仏とそれに対応する神が描かれている。全部で21の仏がある。



 末木氏によれば、本地垂迹の発想は、道家にあったという。この発想を本格的に採用したのが、天台の『法華経』解釈であったと末木氏は理解されている。


 
以前にすでに紹介したが、歴史上の釈迦の説法を伝えるのは、人々の覚醒レベルに応じたもので、まだ本当の仏の姿ではない個所が前半部分で説明され、これを「迹門」(しゃくもん)と呼んだ。永遠絶対の仏の出現を説くのが、後半部の「本門」と呼ばれる部分である。


 そして、日本では、荒ぶる魂である「御霊」を鎮めたいとの「御霊信仰」が生まれるが、末木氏の解釈によれば、これも、天台の本地垂迹の影響を受けているのではないかという。



 
北野天満宮は延喜3年(903年)に恨みを残して死んだ菅原道真の怒りを鎮めるために建立されたことは多くの人の知るところのものである。

 身近なことなのに、意外に私たちに知られていないことがある。日本の三大祭りの祇園祭りもこの御霊信仰によるものであるということである。


 
そもそも祇園祭りの中心である
八坂神社は、神仏習合のお寺にして神社である祇園社を出自としている。


  祭られているのは
牛頭天皇(ごずてんのう)である。この神様は陰陽道における疫神である。日本では素戔嗚尊と習合している。この御霊を鎮めるのが「祇園御霊会」である。それが祇園祭りと呼ばれている。


 もとより、いろいろな説があり、こうした説話のどれが正しいかを断定してはならない。それでも、御霊信仰の一つが祇園祭りであった可能性があることは、京都ゆかりの人たちも知っていた方がいいだろう。



  祇園さんは、京都だけのものではない。それこそ、日本各地にある。京都人は残念ながら、祇園祭はコンチキチンの京都だけだと思い込んでいる。


 正直、京都優越主義には、神戸出身の私は若いときから反感をもっていた。


 
神戸にも平野の祇園さんが、れっきとして大きな存在を誇っているのである。平野という地名の区域は、京都の祇園区域よりも広い。


 
つまらないことを張り合う積もりはない。しかし、日本各地に同じような神社が、それぞれの地域の特性に応じた由来をもって存在していることに想いを馳せるべきである。これほど、日本神道の魅力を物語るものはない。


 日本の宗教は、土着の神道(これも土着であると断言はできない。外来のものである可能性も非常に高い)、明らかに外来の仏教、そして、日本人の教養を形成してきた漢籍に豊富に盛り込まれた道家、の思想と風習とが渾然一体となって習合したものである。


本山美彦 福井日記 67 金融における信頼と契約

2007-02-07 23:57:01 | 金融の倫理(福井日記)
  前記Dobsonは、「契約」(contracts)を第2章で展開する。

 グローバルな金融社会では、金融に従事する人たちは、互いに接触することなく取引を行っている。見知らぬ相手が自分を裏切らないために、法的な「契約」が交わされる。

 
法的な契約は、取引が重要であればあるほど、膨大なものにならざるを得ない。不透明な世界で、しかも取引相手を個人的に知らないとすれば、法的契約を細かく交わすしかない。法的契約は、多様な個人、しかも、しばしば利害対立する個人と交わす。

 結果的に、企業はまさに法的「契約の「かたまり」(nexus of contracts)そのものになってしまう。そうした法的契約を確実に実行することが金融ビジネスにとって重要なことになる。

 法的契約を交わすさいに、企業は、自己の立場をなるべく有利にしようと試みるものである。違法にならないぎりぎりのところまで、法的な契約内容を自己に有利なものにしようと、あらゆる企業が努力する。

 
ときには、詐欺まがいの事項も法的契約に忍び込ませる。そして、法的な契約内容とその実施を巡ってトラブルが多発する。その場合、紛争の決着は司法当局に委ねられる。つまり、かなりのコストが必要になる。

 法的契約は、当事者相互の信頼に基づいて結ざれるものではなく、企業の力関係の反映になってしまう。強い企業は、自己にとって有利な法的契約を、弱い企業に強制する。そこには、相互信頼の精神が、かぎりなく希薄化させられている。

 契約には、「明白な契約」(explicit contract)と、「暗黙の契約」(implicit contrasct)がある。

 
明白な契約は法的なもので、相手が履行しないときには、裁判所が登場する。上記で、法的契約といったのは、この類の契約であり、表に出る文書契約である。

 しかし、表に出ず、文書も交わされず、当事者たちの相互信頼の下に、暗黙裏に了解されている契約もある。それは、法的な拘束力がないのに、相手を裏切ることのないものである。

 そうした暗黙の契約は、「金融のパラダイム」にどっぷりと浸っている組織や個人にとって、楽観主義的なものとして排除される。主流の「パラダイム」にとって、契約は、すべて法に則ったものでなければならない。契約とは、トラブルが発生したときに、司直の手が入るものでなければならない。

  Dobsonは以下のように語る。
 「信頼が、システムとして機能していないかぎり、信頼に基づく取引をするためには、当事者自身が信頼できる人にならなければならない。しかし、当事者たちは、自分の利益に直結すると意識したときでなければ信頼に足りる行動を起こさない。利益に直結しなければ、信頼などいつでも捨て去ってしまう。したがって、そうした信頼がつねに保証されるような信頼のシステム、「信頼のための信頼」(trust of Trust's sake)の構築が重要となる。しかし、金融のパラダイムに浸りきっている企業は、「信頼のための信頼」など馬鹿げたことだと見なすであろう。そうしたパラダイムに浸る企業は、信頼に基づく契約を重視してしまえば、儲ける機会をみすみす逃すと感じている。信頼を云々する組織は、馬鹿げたものに見えるであろう。・・・信頼そのものに価値を置く行為は、金融のパラダイムにとって、絶対になんの価値もないものである」(Dobson, op.cit., p. 14)。

 企業は、自分たちがしていることへの信頼を得るべく、様々の宣伝を対外的に発信するものである。

 
企業の自己宣伝には、市場の信頼を得ることができるものと、できないものとがある。成功した宣伝の仕方をもつ企業は、それだけで有利な位置を占める。したがって、虎の子の宣伝方法を、他の企業から模倣されて、自己の地位を奪われないような仕組みが必要になる。

 この成功した宣伝方法にコストがかからなければ、成功した企業は効率的に自己の恵まれた地位を保持し続けることができはずであるが、実際には、そんなことは起こりえない。

 
しかも、現実的にも、そうした宣伝方法にはコストがかかる。それでも、他の企業に自分の地位を奪われないようにするには、コストのかかる宣伝をし続けるしかない。

 つまり、自己の信頼を得るために、宣伝がない場合に比して、企業の効率性は落ちる。これは、取引の当事者はもとより、相手方にもなんらの利益をもたらすものではない。できればなくしたいコストである。

 そこでできることは、せいぜい、「その他の損失」(residual loss)を発生しないように、契約をさらに強化して、「次善の策」(second good)を目指そうとする。

 
しかし、真の信頼というシステムなしに、そうした契約の完全実施は可能なのだろうかと、Dobsonは問う。

 そもそも、情報は不完全であるし、「非対称的」(information asymmetry)である。それに、「モラル・ハザード」(moral hazard)が加わる。そうした条件の下で、当事者同士が裏切らないという契約を、完全に履行することは不可能である。

 信頼のシステムさえあれば、つまり、暗黙の信頼関係さえ作り上げられておれば、裏切りを阻止するためのコストのかかる契約など必要と「しないはずである。 

 金融のパラダイムに浸る理論は、だからこそ、信頼できるか否かの「評判」(reputation)が決定的な役割を担うようになるとする。
 しかし、Dobsonはこれも機能しないという。