消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(418) 韓国併合100年(57) 韓国臣下論(8)

2012-05-10 23:45:15 | 野崎日記(新しい世界秩序)

引用文献

伊藤之雄[一九九九]、「日露戦争以前の中国・朝鮮認識と外交論」(京都大学法学部百周年
     記念論文集刊行委員会編[一九九九]所収。
片山慶隆[二〇〇三]、「日英同盟の成立と日本社会の反応」『一橋法学』第二巻、第二号。
京都大学法学部百周年記念論文集刊行委員会編[一九九九]、『京都大学百周年記念論文集
     ・第一巻』有斐閣。
君塚直隆[二〇〇〇]、「伊藤博文のロシア訪問と日英同盟―イギリス政府首脳部の対応を
     中心に」『神奈川県立外語短期大学紀要・総合篇』第二三巻、一二月。
徳富蘇峰編[一九一七]、『公爵桂太郎伝』(乾)故桂公爵記念事業会。『明治百年史叢書・
     第四九巻』原書房、二〇〇四年。
徳富蘇峰編[一九三三]、『公爵山縣有朋伝』(下)山縣有朋公記念事業会、一九六九年復刻、
     原書房。
比嘉康文[二〇一〇]、「尖閣列島と琉球」、『情況』二〇一〇年一二月・二〇一一年一月合
     併号。
ベルツ、トク編、菅沼竜太郎訳[一九七九]、『ベルツの日記』(上)岩波文庫。
『八重山毎日新聞』[一九九五]、「上陸・尖閣諸島・下」、六月二二日付。
吉野誠[二〇〇四]、『東アジア史のなかの日本と朝鮮』明石書店。
和田春樹[二〇〇九]、『日露戦争、起源と開戦(上・下)』岩波書店。
Nish, Ian[1966], The Anglo-Japanese Alliance: The Diplomacy of Two Island Empires :
          1894-1907, Athlone Press


野崎日記(417) 韓国併合100年(56) 韓国臣下論(7)

2012-05-08 13:44:18 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(3) 政友会は、一九〇〇年九月一五日、藩閥政治に反発し、政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した政党である。伊藤自身が初代総裁となり、星亨(とおる)、松田正久、尾崎行雄(ゆきお)、伊東巳代治(みよじ)、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)、金子堅太郎(かねこ・けんたろう)、片岡健吉らが中心となった。帝国ホテルに事務所を設置した。一九〇〇年一〇月一九日、政友会を中心に第四次伊藤内閣が成立。しかし、北清事変対応のための増税案が貴族院で否決され、一九〇一年六月二日、伊藤内閣は総辞職した。その後、陸軍大将の桂太郎が第一一代内閣総理大臣に任命され、一九〇一年六月二日から一九〇六年一月七日までその内閣は続いた(http://www.geocities.jp/since7903/Meizi-naikaku/10-Itou-vol4.htm)。

 当初、井上馨に大命降下されたが、期待していた渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。桂内閣は、山縣有朋系官僚を中心とした内閣であり、議会における与党は帝国党のみであった。伊藤博文の立憲政友会と大隈重信の憲政本党は野党に回った(http://www.geocities.jp/since7903/Meizi-naikaku/11-Katsura-vol1.htm)。

(4) 「露西亜全国皇帝陛下、及び清国皇帝陛下は、一九〇〇年、中国に於いて発生したる騒擾の為め、破られたる善隣の関係を回復し、且つ強固にするための目的を以て、満州に関する諸問題に対し、協定を遂ぐる為め、互にポール、レッサル並に慶親王、及び王文韶を全権委員に任命せり。右全権は左の諸条を協議決定せり。

 第一条 全ロシア皇帝陛下は、清国皇帝陛下に対し、其の友情の感念及び平和を愛することを、新に表彰せんと欲し、前に満州境界の各地に於て、清国が露西亜臣民に向かいて、先づ攻撃を加えたる事実は不問に付し、依然満州を清国の一部として、同域内に於ける、清国政府の権威を回復することを承諾し、且つ露西亜軍隊占領以前の如く、統治及び行政の権を、清国政府に還付す。

 第二条 清国政府は、満州の統治、及び行政権を回復するに当り、一八九六年八月二十七日、露清銀行と締結せる契約の条項を、該契約の他条項と同様確守するの責を受け、又該契約第五条に準拠し、極力鉄道及び該職員を保護するの義務に任じ、且つ均しく責任を以て、満州在留の露西亜国民、及びその創設せる事業の安全を擁護することを承諾す。清国政府にて既に上記の義務を負担せる以上、露国政府は事変の生起することなく、又或は他国の行動の為に妨害せられざる限りは、左の順序に従い、満州より其軍隊の全部を逓次撤退することを承諾す。

 一、本条約調印後六箇月以内に、盛京省の西南部遼河に至る地方に駐屯せる露西亜軍隊を撤退して、鉄道を清国に還付す。

 二、次の六箇月以内に盛京省の残兵、及び吉林省に駐屯せる、露西亜軍隊を撤退す。
 三、次の六箇月以内に、黒竜江省に駐屯せる、露西亜軍隊の残部を撤退す。

 第三条 露西亜国政府、及び清国政府は、一九〇〇年に露西亜国境上に於て、清国兵の起したる如き、変乱の再発を将来に排除するの必要を鑑がみ、露西亜国兵撤退以前は、露西亜軍務官、及び各将軍に命じ、満州駐屯の清国の兵数、及び駐屯地を協定せしめ、又清国政府は、露国軍務官と各省将軍との間に協定したる、兵数以外の軍隊を組織せざることを約するも、その兵数は匪徒を鎮圧して地方の平和を維持するに足るを要す。

 全然露西亜国軍隊撤退後は、清国は満州駐屯軍隊を増減するの権を有す。尤も其の増減は、随時露西亜国政府に通知を要す。其は清国にては各地方に多数の兵を備うとせば、露西亜国も亦た其の附近に於ける各地に、相当の軍隊を添加せざるべからず。従って両国は空しく軍費増加の不利益を見る事、自ら瞭然たればなり。

 東清鉄道会社に給付したる合(各?)地域を除き、上記地方の警察、及び秩序維持の為め、地方将軍及び露国軍務官は、清国臣民より成る騎歩の憲兵隊を組織すべし。

 第四条 露西亜国政府は、一九〇〇年九月下旬以来、露西亜国軍隊が占領保護したる山海関、営口、新民庁の各鉄道を清国政府に還付することを承諾するが為め、清国政府は左の条項を約す。

 一、上記鉄道線路の安全を確保するの必要ある時は、清国政府自ら其責に任ずべく、決して他国に該鉄道防守、経営及び敷設を受負わしめ、或は分担せしむることある可からず。且つ他国に露西亜国か還付せし所の各地点を占領することを許す可からず。

 二、上記鉄道の完成及び経営に関する各節は、総て一八九九年四月十六日付け、露西亜大不列顛間協約と、一八九八年九月二十八日、上記鉄道敷設借款に関し、一私立会社と締結したる契約に準拠し、該会社負担の義務を守る可し。即ち殊に山海関、営口、新民庁鉄道の占有、又は何等の方法にても、之を処分せざるの義務を守らしむ可し。

 三、将来、満州南部に該鉄道を延長し、支線を敷設し、或は営口に橋梁を架設し、又は現に山海関に在る楡営鉄道の終点を移すの計画ある時は、露西亜国及び清国、両政府間に協議を経たる後、之を為す可し。

 四、還付に係る山海関、営口、新民庁各鉄道の修繕、及び、及び経営に関する露西亜国の失費は、償金総額以外なるを以て、清国政府は更に之を露西亜国に償還す。右償還の金額は、両国政府にて協定すべし。

 露西亜国及び清国間に於ける、在来の諸契約にして、本条約に依り変更せられざるものは依然有効たる可し(徳富蘇峰編[一九一七]より)。

 この条約は露清間の密約であり、ロシアは二国間の問題だとして、他国に知られることを嫌った。本文は清国民には伝わらず、日本において残存した。

 ロシアは北清事変の後始末のため、満州におけるロシア軍の撤退を約束したものであるが、清国がロシアにたいして交渉力を持ちえたとは考えられない。同時代の日本人は、この条約は「日英同盟」締結がロシアをして譲歩せしめたと考えた。しかし「日英同盟」締結からは日が開きすぎている。ロシア譲歩の理由は、フランスとの露仏同盟のアジアへの延長宣言であろう。フランスは共同宣言への見返りとしてロシアに撤兵宣言を強要したのだろう。ロシアは、清国はどうにでもなる国と思っていたので、あまり重要でない条約、すなわちいつでも破棄できるものとして調印に応じたものと思われる(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/manchuria%20evacuation.html)。

(5) 古代中国で、王朝が交替するときの二つの方法が対比された。「禅譲」と「放伐」である。「禅譲」は、君主が徳の高い人物に帝位を譲ることであり、「放伐」は悪逆で帝位にふさわしくない君主を有徳の人物が討伐することである(三省堂『新明解四字熟語辞典』、出典、『孟子』「梁恵王」(下))。

 中国の漢時代(紀元前二〇六~紀元後二三年)に書かれた本格的歴史書である司馬遷(紀元前一四五~紀元前九〇年?)の『史記』(紀元前九一年?)によれば、伝承ではあるが、古代中国には、三皇五帝の時代があったとされる。三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神(または、天皇、人皇、地皇)、五帝とは、黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯(ぎょう)、舜帝(しゅんてい)である。とくに、尭舜(ぎょうしゅん)時代は、治水事業が進み、天子も平和的に継承され(禅譲という)、孟子など儒家によって理想的な時代とされた。舜から禅譲を受けたのが夏王朝の始祖とされる禹(う、紀元前二〇七〇年頃)である。

 夏王朝は、紀元前一六〇〇年頃まで続いたとされる。そして、殷王朝(紀元前一七世紀頃 ~紀元前一〇四六年頃)、周王朝(紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年)と続く(http://oisoharu.way-nifty.com/blog/2010/11/post-d0bb.htmlなど)。


野崎日記(416) 韓国併合100年(55) 韓国臣下論(6)

2012-05-07 12:43:01 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 

(1) 「日英同盟」本文[外務省発表原文]

 [前文]
 日本国政府及大不列顛国政府ハ偏二極東二於テ現状及全局ノ平和ヲ維持スルコトヲ希望シ且ツ清帝国及韓帝国ノ独立ト領土保全トヲ維持スルコト及該二国二於テ各国ノ商工業ヲシテ均等ノ機会ヲ得セシムルコトニ関シ特二利益関係ヲ有スルヲ以テ茲ニ左ノ如ク約定セリ

 [第一条]
 両締約国ハ相互二清国及韓国ノ独立ヲ承認シタルヲ以テ該二国敦レニ於テモ全然侵略的趨向二制セラルルコトナキヲ声明ス 然レトモ両締約国ノ特別ナル利益二鑑ミ即チ其利益タル大不列顛国二取リテハ主トシテ清国二関シ又日本国二取リテハ其清国二於テ有スル利益二加フルニ韓国二於テ政治上拉二商業上及工業上格段二利益ヲ有スルヲ以テ両締約国ハ若シ右等利益ニシテ列国ノ侵略的行動二因リ若クハ清国又ハ韓国二於テ両締約国敦レカ其臣民ノ生命及財産ヲ保護スル為メ干渉ヲ要スヘキ騒動ノ発生二因リテ侵迫セラレタル場合ニハ両締約国敦レモ該利益ヲ擁護スル為メ必要欠クヘカラサル措置ヲ執リ得ヘキコトヲ承認ス

 [第二条]
 若シ日本国又ハ大不列顛国ノ一方カ上記各自ノ利益ヲ防護スル上二於テ列国ト戦端ヲ開クニ至リタル時ハ他ノ一方ノ締約国ハ厳正中立ヲ守リ併セテ其同盟国二対シテ他国カ交戦二加ハルヲ妨クルコトニ努ムヘシ

 [第三条]
 上記ノ場合二於テ若シ他ノ一国又ハ数国カ該同盟国二対シテ交戦二加ハル時ハ他ノ締約国ハ来リテ援助ヲ与へ、協同戦闘二当ルヘシ講和モ亦該同盟国ト相互合意ノ上二於テ之ヲ為スヘシ

 [第四条]
 両締約国ハ敦レモ他ノ一方ト協議ヲ経スシテ他国卜上記ノ利益ヲ害スヘキ別約ヲ為ササルヘキコトヲ約定ス

 [第五条]
 日本国若クハ大不列顛国二於テ上記ノ利益カ危殆二迫レリト認ムル時ハ両国政府ハ相互二充分二且ツ隔意ナク通告スヘシ

 [第六条]
 本協約ハ調印ノ日ヨリ直ニ実施シ該期日ヨリ五箇年間効力ヲ有スルモノトス 若シ右五箇年ノ終了ニ至ル十二箇月前ニ締約国ノ孰レヨリモ本協約ヲ廃止スルノ意思ヲ通告セサル時ハ本協約ハ締結国ノ一方カ廃棄ノ意思ヲ表示シタル当日ヨリ一箇年ノ終了ニ至ル迄ハ引続キ効力ヲ有スルモノトス 然レトモ右終了期日ニ至リ一方カ現ニ交戦中ナルトキハ本同盟ハ講和結了ニ至ル迄当然継続スルモノトス

 以下は、英文
 Article 1. The High Contracting parties, having mutually recognized the independence of China and Korea, declare themselves to be entirely uninfluenced by aggressive tendencies in either country. having in view, however, their special interests, of which those of Great Britain relate principally to China, whilst Japan, in addition to the interests which she possesses in China, is interested in a peculiar degree, politically as well as commercially and industrially in Korea, the High Contracting parties recognize that it will be admissable for either of them to take such measures as may be indispensable in order to safeguard those interests if threatened either by the aggressive action of any other Power, or by disturbances arising in China or Korea, and necessitating the intervention of either of the High Contracting parties for the protection of the lives and properties of its subjects.

 Article 2. Declaration of neutrality if either signatory becomes involved in war through Article 1.

 Article 3. Promise of support if either signatory becomes involved in war with more than one Power.

 Article 4. Signatories promise not to enter into separate agreements with other Powers to the prejudice of this alliance.

 Article 5. The signatories promise to communicate frankly and fully with each other when any of the interests affected by this treaty are in jeopardy.

 Article 6. Treaty to remain in force for five years and then at one years’ notice, unless notice was given at the end of the fourth year.

 この条文について、吉田茂が興味あるコメントを出している。 
 「この条約のエッセンスは第一条にある。日英両国ともここに最大の力点をおいて交渉した。条文のうち『列国ノ侵略的行動二因リ』というのが第一のポイントである。

 つまり、中国または韓国に(両方とも香港や日本本土への侵略を念頭においていないことに注意)列国(ヨーロッパ五大国をさし具体的にはロシアであり副次的にフランス)が、先制攻撃をして以降、防衛義務が生じる。

 第二条について日本語(外務省)訳は訳しすぎると思われるが、いかがだろうか?
  そして、この条約締結公表の一年三カ月後、ロシアは韓国領内龍岩浦に砲台を建設したわけである。これは当時のあらゆる角度からみてロシアの韓国への侵略であり、この条約の第一条に該当する。

 フランスは直ちにロシアに注意を喚起し、砲台の建設自体は中途半端なものとして終わった。そして、この事件は『鴨緑江事件』として直ちにヨーロッパで問題となった。ニコライ二世がこの条約を知りながらなぜ、龍岩浦事件を引き起こしたのか謎とされるところである。
 第二のポイントは中国と韓国における暴動について規定していることである。すなわち、イギリスにとって、この条約の最大の眼目は揚子江流域に居住するイギリス人の保護のため、日本兵を期待することにあった」(http://ww1.m78.com/sib/anglojapanesetreaty.html)。

(2) 憲政本党は、一八九八年に進歩党と分かれてできたものである。この年、進歩党は憲政党と憲政本党に分裂したのであるが、当時の新聞は、憲政本党を旧名の「進歩党」と呼ぶのが習慣であった(片山[二〇〇三]、注9、七六六ページ)。


野崎日記(415) 韓国併合100年(54) 韓国臣下論(5)

2012-05-05 23:41:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 ペリー来航は,志士達の危機意識を掻き立て、近隣諸国を切り従えて日本の勢力圏を築き、これに拠って列強に対抗するべしとする拡張主義を生むに至った(以下は、吉野[二〇〇四]に依拠している。  http://homepage2.nifty.com/k-todo/bunnmei/eastyourasia/japan/eastajia/seikannronn.htm)。

 ペリー来航に対して、列強と和親条約を締結する幕府の姿勢を見て,幽囚中の吉田松陰は書簡の中で「魯(ロシア)・墨(アメリカ)講和一定す。決然として我れより是れを破り信を戎狄に失ふべからず。但だ章程を厳にし信義を厚うし,其の間を以て国力を養ひ,取り易き朝鮮・満州・支那を切り随へ,交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」と書き送った。

 松陰は、攘夷の主体としての日本,「吾が宇内に尊き所以」「我が国体の外国と異なる所以」を認識すべきだと説いた。松陰によれば、日本の「国体」とは,易姓革命を思想の根本にすえる中国に対して、「万世一系」の天皇統治にある。中国の伝統的政治思想は、「人民ありてしかるのちに天子あり」であるのに対して、日本は「神聖ありてしかるのちに蒼生あり」である。中国における臣下は、自分を認めてくれる主君を求めて去就を決める「半季渡りの」の如きものであるのに対して、日本の場合は譜代の家臣であり、主人が死ねといえば喜んで死ぬ、絶対的な君臣関係なのだとする(『言志後録』(一六))。

 こうした松陰の理念は、遡れば「忠臣蔵」の情感に通じるものであり、近年では、太平洋戦争末期の神風特攻隊に象徴的に表現されたものである。

 このような思想に立てば、日本がその「国体」を輝かせていた神功皇后や豊臣秀吉の征韓事業こそ「善く皇道を明かにし国威を張る」もので、「神州の光輝」と称揚されることになる。その意味で、征韓事業が、国体論の基礎に置かれ、日本の使命として遂行されるすべき事業として聖化されることになる。

 徳川幕府は、清との間で正式の外交関係を取り結ばなかったが、徳川将軍の代替わりごとに朝鮮国王の国書を持った朝鮮通信使を受け入れていた。その回数は一二回を数えた。その際、両国の交渉は対馬藩を介して行なわれた。

 朝鮮国王と徳川将軍が交わす国書の名義が問題であった。朝鮮側は、中国の臣下を示す「朝鮮国王」でもこだわらなかったのであるが、幕府として、それは受け容れ難い。しかし、朝鮮側からすると、日本側の国書も「日本国王」名義のものでなければ対等性が保てない。しかし、日本側の征夷大将軍というのは天皇の臣下の役職であって、将軍が「日本国王」を名乗るのは天皇との関係上、難しい。また、日本側が、「朝鮮国王」と同等の「日本国王」という称号を用いると、日本が中国皇帝の権威を認めることになってしまう。そこで、将軍の国書は「日本国源家光」のような形式にして称号を名乗らず、朝鮮国王からの国書の宛先は「日本国大君」とする形が取られていた。日本による朝鮮宛の国書には、朝鮮国王を「朝鮮国大君」と呼び、徳川将軍と朝鮮国王は台頭の関係であるという配慮を徳川幕府は示していたのである。

 しかし、明治維新により天皇が統治権者として復活したので、日朝関係における名分(めいぶん)問題を解決しなければならなくなった。

 江戸時代には、徳川将軍と朝鮮国王は対等の関係であった。しかし、王政復古が実現した以上、徳川将軍より上の天皇が、名実とみに最高の統治者になった。とすれば、朝鮮国王と日本の天皇はどういう位置関係になればよいのか。徳川将軍と同等の位置にあった朝鮮国王は、天皇に対して臣下の礼を取るべきではないのか。朝鮮は、『記紀』に記されているように、日本の属国となるべきではないのか。これが、明治に入って解決しなければならない名分問題であった。そして、対馬藩を経由して王政復古を伝える朝鮮国王宛の日本の国書の宛先は、それまでの「朝鮮大君」から「朝鮮公」に格下げにした。このことから、朝鮮は、日本側の王政復古の通知の受け取りを拒否した。征韓論はこうしたことへの日本側の憤りから発生した。朝鮮国王は、日本の最高統治者である天皇の臣下に位置づけなければならなかったのである。王政復古、万世一系、征韓論は、まさにこうした名分論から生じたものである。

 清、ロシアと戦争までして領有した朝鮮こそは、王政復古の理論的帰結として日本の権力者たちは了解していたのである。

 おわりに

 韓国併合から一〇〇年。残念ながら、日本では、この年を契機として、アジアにおける日本の歴史的位置づけと現在の日本の選択肢に関わる大きな討論は巻き起こらなかった。むしろ、日本のナショナリズムの昂揚がマスコミによって煽られた。

 韓国併合一〇〇周年の二〇一〇年、東アジアの海に緊張が走った。尖閣諸島問題もその一つである。尖閣諸島は、日本の固有の領土であるとの声が高くなっているが、沖縄返還後の尖閣諸島には、日本の実効支配を示す標識は整備されず、諸島の中の北小島と南小島の標識が入れ替わっていたことさえも気付かれなかった(『八重山毎日新聞』[一九九五])。

 沖縄返還に際して、米国務省は、米国が施政権を有する南西諸島の施政権を一九七二年中に日本に返還すること、南西諸島には尖閣諸島も含まれることと説明した。しかし、「この問題に主張の対立がある時には、関係当事者の間で解決されるべきこと」と、米国は、中国と日本との領有権争いに巻き込まれたくないとの姿勢を示していた(比嘉[二〇一〇]、一四~一五ページ)。

 尖閣諸島が、日本領土であるとの公式見解は、一九七二年三月八日の衆院沖縄・北方問題特別委員会における福田赳夫(たけお)外務大臣(当時)の答弁であった。要約する。



 (1)一八八五年以降、調査を継続していた日本政府は、尖閣諸島が無人島で清国の支配が及んでいないことを確認、一八九五年一月一四日の閣議決定で正式に尖閣諸島を日本の領土とした。

 (2)日清戦争の下関条約(一八九五年四月一七日締結)では、尖閣諸島には触れられなかった(つまり、清はその時点で尖閣諸島を日本の固有の領土であると認識していた)。

 (3)一九七一年六月一七日調印の沖縄返還協定で、施政権の返還対象に尖閣諸島が明示されていた。

 (4)尖閣諸島を日本の固有の領土と認定したサンフランシスコ平和条約(一九五一年九月)第三条に、中国は異を唱えなかった。

 尖閣諸島が日本の固有の領土であることの根拠を、日本政府は上記のことを繰り返し強調してきた。しかし、その論理にはかなり無理がある。一八九五年の閣議決定は、日清戦争で日本が勝利を確実なものにした一八九五年一月一四日に行なわれたものである上、公然と領土宣言を内外に発したものではなかった。下関条約が四月一七日よりほぼ三か月前の一月一四日にすでに日本が領有していたものだから、戦争で清からもぎ取ったものではないというのが日本政府の見解である。しかし、それは詭弁というものであろう。戦争集結前だが、戦争中にもぎ取ったことに変わりはないからである。尖閣諸島は、戦争でもぎ取ったものである。

 上のような事情があるにもかかわらず、多くの日本人がいとも簡単に、「先覚諸島は日本の領土である」と思い込んでしまった。日本人は、東アジア関係史を理解する絶好の機会を見過ごした。メディアがそうした機会を提供してこなかったからでもあるが、日本の歴史教育が教育の体裁をなしていないことがもっとも深刻な問題である。


野崎日記(414) 韓国併合100年(53) 韓国臣下論(4)

2012-05-03 14:16:29 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 「万世一系」と征韓論―皇帝・天皇・王

 「日英同盟」は、三次まで改訂された。「第二次同盟」は、一九〇五年、日露戦争後に「第一次同盟」を改訂したものであるが、四年しか続かなかった。「第三次日英同盟」は、一九一一年七月一三日に締結され、一九二三年八月まで続いた。この「第三次同盟」は過去の二つの同盟とは質を異にしていた。一九〇五年の日露戦争における日本の勝利と一九一〇年の日本による韓国併合という東アジアにおける地政学上の変化が、一九一一年の「日英同盟」を大きく規定した。もはや、完全に日本の国威発揚に日本側が最大限利用したものになっていた。

 このことを明らかにする手掛かりが、一九一〇年の五月一四日から一〇月二九日まで、ロンドン西部のシェパード・ブッシュ(Shepherd Bush)で開催された日英博覧会(The Japanese-British Exhibition of 1910)にある。

 この博覧会は、元駐英全権大使、時の外務大臣・小村寿太郎に負うところが多かった。日本側経費は一八〇万円であった。二〇万坪の敷地に、甲園・乙園、二個所の日本庭園を六〇〇〇坪の広さで造営した。設計には、小沢圭次郎(けいじろう)、本多錦吉郎(きんきちろう)、清水仁三郎(にさぶろう)、井沢半之助(はんのすけ)らが当たったが、甲園は小沢、乙園は本多案を基礎として、現地で井沢が監督をして作庭している。井沢は、一九〇九年一二月から、一九一〇年五月まで造営作業に従事した。植木職人三名が同道した。建築には、農商務省技師榎本惣太郎(えのもと・そうたろう)と大工四名が派遣されていた(http://www.sekkeiron.exblog.jp/2906162/)。造営作業をビクトリア女王が見学して、日本の作業者を感激させたという(The Daily Telegraph, 15 March, 1910)。

 この博覧会は、「日英同盟」を記念して開催されたものである。日本政府は乗組員八〇〇名からなる巡洋艦・生駒(いこま)を、博覧会に近いウラベセンド(Gravesend)港に停泊させた。日本海軍力の誇示である。乗組員全員が英国側の晩餐会に招かれたという(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34083/.../115_PL21-58.pdf)。

 二〇〇九年四月五日(日)午後九時から、NHKが、NHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー、第一回、アジアの“一等国”」を放映した。そこで、この日英博覧会が取り上げられた。そして、NHKは、以下のようなコメントを出した。

 「日本は、会場内にパイワン(注、台湾南部に住むインドネシア語系に属する原住民である高砂族の一種族)の人びとの家を造り、その暮らしぶりを見せ物としたのです」。「当時イギリスやフランスは、博覧会などで、植民地の人びとを盛んに見せ物にしていました。人を展示する『人間動物園』と呼ばれました。日本は、それを真似たのです」。

 このコメントについて、NHKは後日、釈明している。
 「イギリスやフランスは、博覧会などで被統治者の日常の起居動作を見せ物にすることを『人間動物園』と呼んでいました。人間を檻の中に入れたり、裸にしたり、鎖でつないだりするということではありません。フランスの研究者ブランシャール(Kendall Blanchard)

氏が指摘するように『野蛮で劣った人間を文明化していることを宣伝する場』が人間動物園です。番組は、日本が、イギリスやフランスのこうした考え方や展示の方法を真似たということを伝えたものです。日本国内では、日英博覧会の七年前、一九〇三年、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、『台湾生蕃』や『北海道アイヌ』を一定の区画内に生活させ、その日常生活を見せ物としました。この博覧会の趣意書に『欧米の文明国で実施していた設備を日本で初めて設ける』とあります。こうした展示方法は大正期の『拓殖博覧会』や一九一〇年の『日英博覧会』に引き継がれます」。

 「日英博覧会についての日本政府の公式報告書『日英博覧会事務局事務報告』によれば、会場内でパイワンの人びとが暮した場所は『台湾土人村』と名付けられています。『台湾日日新報』には次のように記されています。『台湾村の配置は、台湾生蕃監督事務所を中心に、一二の蕃屋が周りを囲んでいる。家屋ごとに正装したパイワン人が二人いて、午前一一時から午後一〇時二〇分まで、ずっと座っている。観客は六ペンスを払って、村を観覧することができる』。また、『東京朝日新聞』の『日英博たより』(派遣記者・長谷川如是閑(にょぜかん))には『台湾村については、観客が動物園へ行ったように小屋を覗いている様子を見ると、これは人道問題である』」とあります。日英博覧会の公式報告書(Commission of the Japan-British Exhibition)には『台湾が日本の影響下で、人民生活のレベルは原始段階から進んで、一歩一歩近代に近づいてきた』と記されています。イギリス側も、日英博覧会の公式ガイドブックで『我々(イギリス)は、東洋の帝国が“植民地強国”(Colonizing Power)としての尊敬を受ける資格が充分にあることを認める』と記しています」(http://www.nhk.or.jp/japan/asia/index.html)。

 帝国主義の思想的基盤は、自国が文明の担い手であるという思い込みにある。日英博覧会はその具体的な現れであった。こうした姿勢は、幕末・明治初期の征韓論にもあった。日本の天皇の「万世一系」論がそれである。

 江戸時代の主流学問であった朱子学は、中国を「華」と敬い、周辺国を「夷」と卑しむ華夷思想であった。朱子学における華夷思想に「名分論」(めいぶんろん)というものがある。中国皇帝の権威を人倫秩序の淵源に見立てるという考え方がそれである。この思想によれば、日本は中国皇帝にひざまずかなければならない。こうした朱子学による中国皇帝の権威に対抗する日本独自の価値原理を打ち立てるべく、日本の天皇を尊しとする尊王思想が浮上することになる。それが、日本の天皇の「万世一系」論である。

 中国の王朝は、易姓革命により変遷するとの思想があった(5)。易姓とは、ある姓の天子が別の姓の天子にとって代わられることで、革命とは、天命が改まって、王朝が交替すること。天が、命を下して、徳のある者を天子となして人民を治めさせる。天子や王朝の徳が衰えて、人民の信頼がなくなれば、天が、天変地異などを起こして、その天子や王朝を去らせ、新しい有徳者に王朝を開かせて、人民を支配させるというのが、中国の易姓革命論である。王朝は、同じ血統(姓)を続けるが、王朝交代の際には王室の姓が変わることから、易姓革命という。姓(せい)を易(かえ)命(めい)を革(あらたむ)という意である(三省堂『新明解四字熟語辞典』より。出典『史記』の『暦書』)。

 この思想が中国に広く受け入れられたために、新王朝は、前王朝が天命を失ったことを証明すべく、前王朝の歴史編纂が、新王朝の重要な仕事となったと考えられる(http://www.allchinainfo.com/some/yixing.html)。

 このような中国に比して,日本は易姓革命の生じる余地がなく、万世一系の天皇家が永続しているというのが、王政復古論の背後にあり、これが、日本の道義的優越性を示すものと主張された。