消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(398) 日本を仕分けする(22) 天変地異(1)

2011-02-04 12:53:05 | 野崎日記(仕分け)
 09年8月11日午前5時7分、駿河湾を震源とするマグニチュード6.5の大地震が東海地方を襲った。静岡県中西部と伊豆半島では震度6弱を観測した。静岡県内で震度6以上の地震を観測したのは、1944年に発生した東南海地震以来、つまり、戦後最大の地震であった。

 震源地が東海地震の想定震源地内にあったので、100~150年周期で発生すると予測されているM8クラスの巨大東海地震の前兆かと列島を不安が駈けめぐった。

 それにしても、09年8月に入ってから、9日から14日までの間に、東海・関東地方には震度3以上の地震が6回も起こった。とくに、9日(日)夜の東海道南方沖で発生した地震では、都心や東北地方でも震度4を記録した。地震の規模はM6.8という巨大さであった。これは、04年の新潟県中越地震、07年の中越沖地震と同じ規模のものであった。かなり沖合いだったので、被害が小さかっただけである。

 専門家たちで構成される気象庁「地震防災対策強化地域判定会」は、11日に直ちに「東海地震と関連性はない」との見解を発表した。判定会会長の阿部勝征・東大名誉教授は、記者会見で次のように述べた。「規模の大きな地震が起きた後に『前兆』すべりが誘発されて、それが想定東海地震につながるのではないかという最悪のシナリオを懸念していた」と、安堵の表情を浮かべた。

 しかし、そもそも、前兆すべりという想定は正しいのか。

 東海地震は、フィリピン海プレートが、日本列島の下に潜り込み、その境界面にひずみがたまり、それが限界に達すると、ひずみを解消しよとプレートが大きく動いて発生すると想定されている。

 ひずみ解消運動が起こる前に前兆すべりがあると気象庁は観測を続けているのである。そして、09年8月11日の地震は、境界面よりももっと深い地点で発生したので、東海地震の引き金にはならない、事実、東海地震を誘発する前兆すべりは観測されなかったと、気象庁の判定会は判断したのであろう。

 しかし、井田喜明・東大名誉教授は、気象庁の判断に疑問を提起した。伊豆半島がフィリピン海プレートの「つっかい棒」の役割をはたしているが、11日の地震がこのつっかい棒を外した可能性は否定できない。もし、外したのなら、障害がなくなったプレートはさらに、日本列島に潜り込み、ひずみを増すことも考えられると『週刊朝日』の取材で語った。

 松村正三・防災科学技術研究所研究参事は語った。地盤がゆっくり動く現象を「スロースリップ」という。このスロースリップが静岡県を中心に起きている。00年から5年間にわたり、東海地震の想定震源地域にある浜名湖の地盤にその現象が観測された。そして、07年後半から静岡県中央部に向かって地盤が動いているし、静岡県西部では07年後半から地震が活発になっている。00年に三宅島噴火、04年に紀伊半島南東沖地震が起きた。さらに、11日の地震が起きた。事態は差し迫っていると同氏は懸念を表明した。

 想定震源域の真上に浜岡原子力発電所がある(「東海地震は近い」、『週刊朝日』09年8月28日号、127~29ページ)。

 09年夏は不気味な現象が相次いだ。6~7月に全国各地でオタマジャクシが空から降ってきた。いまだに原因は特定されていない。ミツバチが見られなくなった。失踪してしまったのである。大阪では、7月、日本にはいないはずのホメリンゴマイマイが大量発生した。8月には北海道でマイマイガが大量発生した。巨大なエチゼンクラゲも依然として大量発生している。今夏の房総半島沿岸の海水温度が例年より低く、海水浴客を震えさせた。魚市場には季節外れの魚が並んでいる。黒潮が例年より海岸沖に遠ざかったためとされている。梅雨がなかなか明けなかった。09年7月19~26日には、中国・九州北部豪雨が発生、山口県防府市では、土石流の被害で死者が30人出たし、8月9~10日、台風9号の影響で集中豪雨が発生、兵庫県佐用町では20人以上の死者・行方不明者が出たように、異常な豪雨が頻発した。7月27日には、群馬県館林市で竜巻が発生し、民家など400棟以上が損壊した。

 異常気象は、ペルー沖合の海面水温が高くなり、それによって気圧変化が生じ、大気の流れが変わって世界中で異常気象を引き起こすと一般的には説明されている。

 しかし、エルニーニョだけで今夏の異常気象を説明することは困難である。寒暖のバランスが崩れてしまっているのである。

 長期的には地球温暖化が進んでいるとしても、毎年着実に気温が上昇しているのではない。寒暖の差が大きくなるのが、進行している現象である。温暖化に大きくぶれると北極や南極の氷が一気に溶けてしまいかねない。寒冷化に大きくぶれると全地球が凍結してしまいかねない(スノーボール化)。

 気象異変も100年に1度のものといわれている。太陽活動の低下が生じているというのである。太陽野黒点は11年周期で数を増減させる。太陽の黒点は、太陽活動が活発なときに増え、不活発になると、その数を減少させる。09年は、周期的には黒点の数が最小にさせる不活発時期を乗り越えたはずであある。ところが、09年まったく黒点が増える気配がないのである。黒点が減ると、地球が太陽から受ける放射エネルギーも減る。雲も出やすくなるという。そして地球は寒冷化に向かう。

 歴史的にも、1645~1715年の約70年間、太陽黒点がほとんど見えず、テムズ川が凍ったり、氷河が平野部にまで降りてきて、地球は急速に寒冷化した。江戸時代にも飢饉が続いた。光合成をする植物が減り、その受粉を請け負うミツバチがいなくなったことは大変な天変地異の到来を予兆しているのではないか(「日本列島異常事態」、『週刊朝日』09年8月28日号、130~31ページ)。

野崎日記(378) 日本を仕分けする(2) 金融(2)

2011-02-03 12:50:16 | 野崎日記(仕分け)

金融犯罪の典型

                             
 はじめに

 全国小売酒販組合中央会は、全国の酒小売販売業者によって組織されたものである。私的年金事業を営んでいた。この年金事業が2004(平成16)年6月に破綻した。いかがわしい社債を世界の一流金融機関から掴まされ、全額無価値になってしまったからである。掴まされた社債の発行体は、カナダの「チャンセリー・アンド・リーデンホール・リミテッド」(Chancery Leadenhall, Ltd.)という会社であった。この会社は、ウィリアム・ゴッドリー(William Godley)という南アフリカ国籍の人間の所有であった。中央会はこの会社に年金基金の80%を投資していたのである(1)。

 同中央会は、2002(平成14)年12月から2003(平成15)年4月にかけて、この社債を144億円分購入した。ただし、購入を決断したのは、同会の理事会ではなく、事務局長であった。事務局長が理事会の承認を得ることなく、独断専行で購入してしまったのである。ちなみに多くの金融詐欺事件は、正式の理事会を通さずに、担当職員の暴走によって契約されたものである。パターン化されたこの手口にじつに多くの企業が引っかかっている。私が知っている大学も、有名証券会社の名前ではめられた。

 被害者は、中央会ではあるが、老後に備えて同会に年金の掛け金を支払い続けていた小売店主の有志が「全国証券問題研究会」の会員弁護士に調査を依頼した。依頼人数は170名、依頼者だけでも、被害総額が5億2493万円であった。

 いかがわしい「チャンセリー債」(Chancery Bonds)を組成したのは、「インペリアル・コンソリデーティッド・グループ」(Imperial Consolidated Group)の日本組織、「インペリアル・コンソリデーティッド・ジャパン」(Imperial Consolidated Japan)であった。この組織は、日本で「アジャンドール倶楽部」という名前でも営業していた。インペリアル・コンソリデーティッド・グループは、行政監視の緩いカリブ海諸島に本拠を置き、米国、オーストラリア、ニュージーランド、日本などで、消費者金融業、事業者金融業に投資すると称して、投資家から多額の資金を騙しとっていたことで、多くの訴訟問題を起こしていた。

 中心人物のウィリアム・ゴッドリーは、恐喝を専門とする英国のインバーロ(Invaro)への貸付事業に投資すると標榜して、中央会の年金資金を騙しとったのである。

 このいかがわしい社債の販売に、クレディ・スイス(Credit Suisse)が係っていた。チャンセリー債を、中央会はクレディ・スイスを通して、購入していたのである。これは、中央会がクレディ・スイスと交わした「信託契約」(Trust Agreement)に基づく(2)。名高いクレディ・スイスと契約したのだからと中央会は頭から信用してしまったのもやむをえないであろう。

 クレディ・スイスは、中央会と契約するさいに、事前に契約書の案文を見せていなかった。また、中央会の一事務員が代表者の印鑑を勝手に使用することに異議を挟まなかったという通常の手続きを無視した。そして、クレディ・スイスは中央会から一億円もの手数料をせしめたのである。クレディ・スイスは、被害者弁護団の質問にさいして、「当社は、センチュリー債がどういうものか知らないし、知る義務もない。すべては、中央会の自己責任である」と嘯いたという。

 弁護団は、次のような感想を述べている。

 「本件は、あらゆる私的年金事業の劣悪な資産運用管理態勢が表面化した事件ですが、年金事業者が、殊に国際投資詐欺に対する免疫をほとんど持ち合わせていないことを物語る事件でもあります。不幸にして、このような事件が起こったのは、複雑な金融商品が氾濫し、しかもそれが国境をまたいで世界中を駆け巡っているという現象と無関係ではない、むしろそういった流れにあって不可避の病理現象と捉えております」(「全国小売酒販組合中央会・巨額投資被害事件、被害者弁護団」のパンフレット、2009(平成21)年1月20日付)(3)。

 一 すべては酒販売自由化から始まった

 日本の小売酒販店は、小泉内閣の規制緩和の嵐の直撃を受けた。2001年までは、酒類販売の免許を取得するさいに、大型店などの特例を除き、既存の酒小売販売売り場との距離が一定以上離れている必要がある距離基準、及び一定人口に1店舗しか免許が下りない人口基準があった。酒販売店は近所に競合店ができないように、法律で厚く保護されていたのである。

 しかし、2001年1月に距離基準が廃止された。しかし、人口基準はまだ残っていて、東京都の特別 区など、大都市では1500人に1店、中都市では1000人に1店、小さな町村等では750人に1店しか、酒類販売が認められていなかった。

 2003年9月には人口基準も廃止された。酒類販売免許が取得しやすくなり、酒屋の隣のコンビニエンスストアで酒類が販売される、ということが起こるようになった( http://www.foodrink.co.jp/backnumber/200302/news0209j-2.html)。

 ただし、経営に大きな影響を受ける一部地域の中小・零細の酒店を保護するため、自民党などが同年、「多くの小売店の経営が困難に陥っている」など一定の条件を満たした全国1274地域(地域は原則、市町村単位)を対象に、例外的に出店を規制する特例措置を議員立法で定めた。この法律が、「酒類小売業者経営改善等緊急措置法」である。

 同法は03年9月から2年間の時限法だったが、個人経営の酒店などを中心に再延長を求める声が強く、05年8月に1年間の再延長が決まった。この特例法の成立、その延長を政府に対して強く働きかけてきたのが、中小酒販店の業界団体、全国小売酒販組合中央会であった。このときの政治献金は、それこそ、生死をかけて巨額のものであった(4)。

 しかし、06年、件の中央会が、元事務局長の業務上横領事件に伴い政治活動を自粛した。さらに、政府・与党が06年6月18日までの通常国会の会期を延長しない方針を固めたため、再延長の法案提出が間に合わず、時間切れとなった。そして、6月12日、与党が同特例法の再延長をしない方針を固め、結局、出店制限の特例法は、06年8月末に失効し、06年9月から全面的に自由化されることになった(『讀賣新聞』2006年6月13日 付)。高く付いた詐欺被害であった。


野崎日記(394) 日本を仕分けする(18) オバマ(2) 

2011-02-01 13:06:59 | 野崎日記(仕分け)

オバマ政策は米国経済を本格的恐慌に追い込む

                    

 現在の米国発の世界金融危機に米国オバマ新政権が積極果敢に対処していると、日本では高く評価されている。米国の素早い対策が今回の経済危機を早期に落ち着かせるであろうともいわれている。はたして、そういいきっていいのだろうか。事実はその反対である。

 オバマ政権は、金融危機の原因に対して何らの判断を示すことなく、目もくらむ膨大な公的資金を、危機に陥った企業や銀行にひたすら注ぎ込んでいる。しかし、危機の源を除去することは一切していない。何が問題であり、危機の責任を誰がとるべきなのか、危機の原因をどのようにして取り除くのか、等々、一切不問にされたまま、未曾有の膨大な公的資金の投入を口先で約束しているだけである。

 米国財政も膨大な赤字である。つまり、膨大な公的資金は、国債を中央銀行であるFRB(連邦準備銀行)に引き受けさせることによってしか作り出せない。しかし、中央銀行による国債引き受けによって資金を生み出すことはそもそも金融政策上の禁じ手である。


 一 米国には使える公的資金はない

 二〇〇九年二月一〇日、オバマ政権の新財務長官ティモシー・ガイトナー(前ニューヨーク連銀総裁)が、米国の新たな金融安定化策を発表した。ところが、その途端にニューヨークのダウ工業株三〇種平均株価が約四〇〇ドルも急落して、八〇〇〇ドルを割り込んだ。オバマ政権に対する失望売りであった。

 ガイトナーが発表した金融安定化策は、次のようなものだった。①官民共同の不良資産買取ファンドの設立(五〇〇〇億~一兆ドル)、②住宅差し押さえ回避策(五〇〇億ドル)、③FRBのTALF制度(Term Asset-Backed Securities Loan Facility=期間物資産担保証券貸出制度)といって、クレジットカードや学生・自動車ローンなどの小規模ローンを集約したABS(Asset Backed Securities=資産担保証券)を保有する個人や法人に、FRBが直接融資をおこなう制度(二〇〇九年より導入)を、それまでの最大二〇〇〇億ドルから最大一兆ドルに拡充。

 このように、最大で二兆ドル(一八〇兆円)規模の公的資金支出が発表されたのである。まだある。この発表直後に、米政府は八〇〇〇億ドル規模の景気対策法案も発表した。合わせて三兆ドル弱(二五〇兆円)規模の大盤振る舞いをするという宣言であった。ところが、ニューヨーク市場は株式の失望売りという反応を示したのである。

 こうした膨大な資金をどのような操作で生み出さすのか?市場の失望はこの疑念にある。そして、不思議な事態が見受けられる。FRBの国債引き受けが減少したのである。FRBが国債引き受けをしていないとすれば、膨大な資金をオバマ政権はどこから生み出そうとしているのか。

 二〇〇八年一一月末、米国の国債は高額は、一〇兆六六一二億ドル(約九七〇兆円)であった。同年一二月末では、一〇兆六九九八億ドル(約九七四兆円)で、対前月比三八六億ドル増。ところが、二〇〇九年一月末には、一〇兆六三二一億ドル(約九六八兆円)と、対前月比六七七億ドルも減少したのである。意外なことに、米国債の発行残高は、二〇〇八年一一月末以来横ばい、そして、減少したのである。

 この事実はどのように理解されるべきなのか?オバマ政権は膨大な公的資金供給を宣言した。しかし、実際には、二〇〇八年一二月半ば以降、米政府・FRBによる追加の金融対策や景気対策はほとんど実行されていなかったのである。年末以降、FRBや米政府は、毎週のように数千億~数兆ドル規模の景気対策・金融安定化策を発表してきたが、それらは口先だけであった。

 二〇〇九年二月一〇日のガイトナーによる金融安定化策の発表も、財源については一切触れられていなかった。それが市場の失望を呼び、株価を急落させたのである。金融機関や企業は、厄災の種をまき、混乱を引き起こしたのに、行き詰まると国家に救済を要求するご都合主義の姿勢には辟易するが、それでも、口先だけの約束への市場の失望感は深い。

 つまり、FRBは国債引き受けに逡巡し、さりとて、国債の市中消化は進んではいないのである。米国は、二〇〇九年二月に、一六四〇億ドル(約一五兆円)の米国債の入札が実施されたが、この程度の市中消化では、三兆ドルもの資金調達目標からすれば絶望的なほどの少額である。現在の米国政府には、金融・経済対策に動員できる財源の見込みなどほとんどなくなっている可能性が強い(http://www.financial-j.net/blog/2009/02/000823.html)。

 米『ウォールストリート・ジャーナル』(二〇〇九年二月一一日付)によると、FRBは、これまで以上の国債引き受けを忌避しているという。FRBはさらに、長期融資の拡大にも消極的という。景気が回復し、FRBが利上げのために金融システムから資金を吸い上げたい時に、長期融資で供給した資金は回収が困難になる可能性があるからであるというのが、伝えられるFRBの姿勢である(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090212-00000446-reu-bus_all)。

 二 ニューディールを上回る資金供給約束

 二〇〇九年一月二六日付の米『タイム』誌が、オバマ政権の公的資金散布約束の異常な膨大さを指摘した。一九三〇年代の大恐慌を克服するためにフランクリン・ローズベルト大統領によるニューディール政策は伝説として語られてきたし、オバマ政権もグリーン・ニューディールを標榜している。ここにも、私たちを錯誤に陥れる仕掛けが用意されている。ローズベルトが、ニューディールとして使った公的資金は、わずか四九億ドルであった。もちろん、貨幣価値が異なるので、現在のわずか四九億ドルと受け取ることは間違っているが、それでも、現在価値に直したとしても、七五〇億ドルを超えることはまずないであろう。第二次世界大戦でも、GDPの二〇%を超す出費ではなかった(大前研一「相当に危ういオバマ政権の経済認識」、第一六三回、二〇〇九年二月一二日、http://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20090212/131416/)。


野崎日記(391) 日本を仕分けする(15) 本多健吉先生追憶(5)

2011-01-29 12:51:37 | 野崎日記(仕分け)

 四 詐欺まがいの金融取引

 08年8月18日に経営破綻したアーバンコーポレーションが、破綻前にBNPパリバ(Banque Nationale de Paris Paribas)から食い物にされていたことが明らかになった。パリバに設置された外部検討委員会が08年11月11日に公表した調査結果では、パリバの行動を「市場を軽視した極めて不適切な行為」であり、アーバンコーポレーションへのパリバの働きかけは「顧客であるアーバンコーポへの背信であり、(パリバ)の日本代表ら経営幹部の責任は免れない」との批判が出された。外部検討委員会の委員長は、「(パリバの)内部管理体制が形骸化しており、顧客重視の姿勢も希薄であった」と記者会見で語った。不適切な行為とは以下のことである。

 パリバの働きかけによって、アーバンコーポが、08年6月26日にCB(転換社債型新株予約権付社債)300億円を発行して、パリバに引き受けてもらう約束をした。その300億円で短期借入金などの債務返済に使うとアーバンコーポは発表していた。しかし、実際には、この300億円は返済に使われるどころか、パリバがCBを引き受け300億円を支払うという約束日の08年7月11日に、アーバンコーポはすぐに300億円をパリバに払い戻した。アーバンコープ側には一文も入らなかったのである。払い戻した事実をアーバンコーポは公表しなかった。これは関係者を欺く行為であった。少なくともパリバによる資金調達でアーバンコーポが一息ついたと関係者は判断したはずだからである。

 実際の取引は、パリバが得たCBを株式に転換し、それを市場で売ってその売却代金を分割して段階的にアーバンコープに支払うというものであった。アーバンコープの300億円支払いとパリバの株式売却代金の段階的支払いというスワップが組まれたものであるが、このスワップには、アーバンコーポ側にはなんの益もない。パリバは、300億円が支払われた段階でアーバンコーポ株を空売りしていたのである。300億円をパリバはすでに手にしているのであるから、アーバンコーポ株が下がっても、パリバの懐は痛まない上に、株価が下がれば、空売りした分だけ儲けが出る。結局、パリバはアーバンコーポに約91億円を払っただけである。単純計算で、パリバは300億円から91億円を差し引いた219億円もの濡れ手に粟であったし、空売りによる利益(推定12億円)もそれに加わった。そして、アーバンコーポは破綻した。破綻したときに、アーバンコーポはこの裏取引の存在を明らかにした(『日本経済新聞』2008年11月12日付)。

 アーバンの増資を巡っては、破綻直後から「不適切」との指摘が相次ぎ、金融庁が調査に入り、アーバンには臨時報告書で虚偽記載があったとして金融商品取引法違反で課徴金の納付を命令済みで、パリバへの対応が焦点だった(http://www.asahi.com/business/update/1112/TKY200811110338.html)。

 民事再生法の適用を申請したアーバンコーポの株主が、適用申請時にはじめて開示された事項に関して金商法違反であるとして、役員に対して損害賠償請求を提起した。問題視された事項というのは、スワップ契約によって、発行額よりはるかに低い金額しか支払われなかったということである。これを金商法違反として問題視して、役員に対して損害賠償請求訴訟が提起されたのである。

 金商法違反というのは、年度途中のことなので、有価証券報告書ではなく、臨時報告書や半期報告書などの虚偽記載ということになる(5)。

 同社の株価は、08年8月13日の終値で62円であった。そして、08年8月14日に『四半期報告書』が提出された。翌日から、同社株は急激に下落し、上場廃止直前の8月17日には、1円でも取引が成立しなかった。

 東京証券取引所は、08年9月12日付で、同社が08年6月26日付でおこなった「2010年満期転換社債新株予約付社債の発行(第三者割当)のお知らせ」が不適正開示であるとの判断を示した。

 また、金融庁は、08年10月10日付で、上記臨時報告書に関して、金商法上の虚偽記載に当たると認定し、1081万円の課徴金納付命令を下した。

 しかし、この課徴金支払いによって、同社は一定の制裁を受けてはいるが、同社の虚偽記載によって損害を被った一般投資家の被害補填をおこなっていない。

 臨時報告書等の虚偽記載による投資家の被害は、いわゆる自己責任論の範囲外であり、「法はその補填を予定している」として、金商法等に基づく損害賠償による被害者救済を図るべく、「アーバンコーポレイション株主被害弁護団」が結成され、関係者らの民事責任が追及されることになった(08年11月7日)。

 提訴は、東京地方裁判所民事第4部に出された(事件番号、平成20年(ワ)第32110号)。
 原告は、金商法21条2第1項に該当する一般投資家である。「同社株式を、流通市場において、臨時報告書等に虚偽記載がなされた08年6月26日以降である08年6月27日から、同報告書の訂正がなされた同年8月13日までの期間に取得し、同月14日以降に同社ジャブ式を処分し、もしくは、同日以降も同社株式を保有する者を原告対象者とした」と説明されている(「アーバンコーポレイション株式被害事件提訴のご報告」08年11月7日)。原告の人数は250名。総請求金額7億7792万円3740円。

 被告は、金商法24条5第5項、同法22条、同法21条に基づき、臨時報告書等への虚偽記載がなされた08年6月26日当時、アーバンコーポレーションの役員(取締役、監査役)の地位にあった者計14名。「被告の中には、元検事総長とか、弁護士であるとか、公認会計士であるとか、金融取引の知識経験が多くあると考えられる経歴の者が相当数おり、きちんと責任をとらせることが必要である」(同報告)。


野崎日記(390) 日本を仕分けする(14) 本多健吉先生追憶(4)

2011-01-28 12:45:31 | 野崎日記(仕分け)

 弁護団の一人、山口貴士弁護士が事件の大要を次のように解説している。

 02年3月の時点で、全国小売酒販組合中央会の共済年金事業は破綻しかかっていた。運用を担当していた信託銀行からは事業の廃止を提案されるほどであった。そこに、金融ブローカーのX(被告)が、リスクの高い外国債であるチャンセリー債の購入を中央会の事務局長(被告、背任罪などで公判中)に持ちかけた。事務局長は、自分が実務を取り仕切っていた地位を生かして、02年12月にクレディ・スイスを介して、チャンセリー債を約145億円分も中央会に購入させた。チャンセリー債は、04年6月から償還が始まるはずだったが、約10億円の利息と遅延損害金が支払われたほかは、07年に至るまで償還されていない。こうして、約145億円もの年金の原資は消えてしまい、年金加入者達は老後の生活資金を失ってしまった。

 チャンセリー債を発行していた「チャンセリー・アンド・リーデンホール」という会社の実質的な代表者はウィリアム(ビル)・ゴドレーという人物(既述)。この人物が、投資被害を発生させたのは初めてではない。ゴドレーは、英捜査当局(SFO=Serious Fraud Office)が捜査中の国際投資グループ、IGの中心的な人物でもあった(http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2007/01/post_7c61.html)。

 三 老舗金融機関の関与

 全国小売酒販組合中央会の年金資金不正支出事件で、警視庁捜査二課が、06年2月16日、背任容疑で元事務局長(業務上横領罪で起訴)を再逮捕、投資を仲介した投資顧問会社社長を逮捕した。この社長が仲介したクレディ・スイスは、過去にも疑惑ある行動をとっていた。インターネット関連企業のライブドア(Livedoor)が、投資事業組合を使って売り抜けた自社株の売却益を海外の口座に入れて裏金化していた問題で、この手続きを担当したのが、この金融機関の日本人社員であった。この社員が、巨額の損失を招いた全国小売酒販組合中央会の外債投資問題にも関与していたと当時は囁かれていた。海外での不透明な資金の管理や運用に、秘匿性の高い口座などを持つこの金融機関が、様々な場面で関わっていたのではないかという疑惑がそれである。

 この金融機関との交渉は、ライブドア前取締役の指示で、金融子会社「ライブドアファイナンス」前社長や、ライブドアが支配する投資組合の運営を任された投資顧問会社社長らが担当。スイス系金融機関側は香港の日本人社員が対応していたという。

 この日本人社員が、中央会側に資金運用の仕組みを説明しており、契約の場にも同席していた。外債は、資金をいったんこの金融機関に預けた上で購入されたが、償還直前の04年6月、資金投資先の英国企業が破綻したため、ほぼ全額が回収不能になっている。

 ライブドアは、04年中に実行した株式交換による企業買収6件で、投資事業組合を介在させ、自社株の売却益計80億円の大半をクレディ・スイス系金融機関の仮名口座に一時プールし、同金融機関の日本法人を通じて還流させたとされる。そのさい、租税回避地の英国領バージン諸島(Virgin Isklands)の投資組合や香港の証券会社を利用し、香港在住のクレディ・スイスの日本人行員がライブドア側に還流方法を指南していた疑いが持たれている。こうした事実を証券監視委も把握しており、スイスに調査官を派遣するなどしてマネーロンダリングの実態解明を急いでいる(政経調査会、http://tyousakai.hp.infoseek.co.jp/06-0219-t3.htm)。

 警視庁の捜査のほぼ1年前に、クレディ・スイス・グループのクレディ・スイス信託銀行株式会社(以下、同行という)の行政処分内容を発表した(05年4月8日)。

 以下、要約的に紹介する。

 同行に対して、1999年7月29日、業務の一部停止命令と業務改善命令を出した。同行は、それを受けて、99年9月28日、信託銀行として責任のある経営体制の確立と組織・運営面の抜本的な改善を実施したと報告した。

 改善命令は、銀行法第24条第1項、金融機関の信託業務の兼営等に関する法律第4条、信託業法第42条第11項に基づくものであった。改善は、信託業務の法令等遵守(コンプライアンス)にかかる事務管理及び顧客情報管理の態勢などについてのものであった。

 同行には、信託財産の基本的な管理・決済業務に問題があった。外国税額還付・請求の未処理、信託受益者に対する不通知・長期未回金・記帳遅延等が発生していた。にもかかわらず、同行は、適切な措置や対応を講じることなく何年間もこれを放置し、信託法第20条(いわゆる善管注意義務)違反、並びに、銀行法第53条、及び平成16年内閣府令第108号による改正前の金融機関の信託業務の兼営等に関する法律施行規則第12条の2(改正後は第31条第4項)で決められている届出義務違反が認められた。

 同行においては、信託財産の管理・決済業務の的確かつ適切な運営に要する事務管理体制が整備されていなかった。

 同行と在日クレディ・スイス・グループ関連会社等との業態間の弊害の防止措置等に問題があったのに、この問題について所要の改善が十分に図られておらず、また、入力した情報の閲覧を制限することができない情報管理システムの特性を踏まえた運用や対策が不十分であるなど、顧客の同意を得ずに顧客情報が不適切に共有されている事例が認められた。

 以上を理由として、金融庁は、当庁は、05年4月8日、同行に対して、銀行法第26条第1項及び金融機関の信託業務の兼営等に関する法律第8条の2の規定に基づき、行政処分を行った(金融庁監督局銀行第一課)(http://www.fsa.go.jp/news/newsj/16/ginkou/f-20050408-1.html)。

 1999年7月29日、金融再生委員会ならびに金融監督庁は、クレディ・スイス・グループ(CSグループ)に対し銀行免許取消等の極めて厳しい行政処分を下した。日本の金融行政には外資優遇がまかり通っていた。外資系の申請は、速やかに認可された。当時の大蔵省は、裁量行政を振りかざして内(国内金融機関)には滅法強いが、欧米諸国からの(不当な取り扱いであるとの)非難を恐れ外(外資系金融機関)には極端に弱かった。外資系金融機関は、日本の権力の及ばない「租界地帯」であった。しかし、以後、外資への監督は強められることはなかった。

 CSは、金融技術を駆使して、利益を上げることを目標とした投資銀行である。長期の融資は、潜在的なリスクと事後管理の労力の割には、収益が少ないからおこなわない。

 行員の報酬も巨額である。入社1年目の社員でも年俸数十万ドルは可能であり、年俸100万ドルを超えことも稀ではない。邦銀から外資系金融機関に移るだけで、初年度で給与は倍になる。そして、元の給与の5~10倍にもなる。そして、外資系金融万は超セレブとして日本社会の垂涎の的となる。職業倫理など、関係なく。英語を使って頭がくらくらするような高給を得ることが、人生の大出世としてもてはやされる。疲れたら、どこか大学に潜り込む。

 しかし、なぜ、その様な高給が支払えるのか。本人の能力が他の産業の従業員に比べて取り立てて高いわけではない。システムが高給を保証してきたのである。彼らは高い収益を上げるためにリスクを取ることを厭わず、失敗しても、素人にそれを転嫁することができていたのである。ソロモンブラザースが米国債入札を巡る違法行為で摘発されたことがあったが、これなどは、危ない橋を渡ろうとして渡り切れなかった例である。いずれにせよ、投資銀行は、究極の収益至上主義組織であった。本稿の流れとは関係ないが、これが、平成の金融恐慌で消滅してしまった。経済学を表すEconomyという言葉には、神の摂理という意味もある。むべなるかな。

 ただし、平成金融恐慌前の日本は、まだまだ外資の植民地であった。国有化された長銀を民間に売却するに当たり、ゴー ルドマンサックス(Gpldman Sachs)というI投資銀行ををアドバイザー(助言者)に起用した。また、日債銀の売却にはモルガンスタンレー(Morgan Stanley)を同じくアドバイザーに起用した。しかし、税金で、これらの投資銀行を雇用するのなら、契約内容を開示するのが政府の義務であったはずである。投資銀行は、非常に人件費が高い組織でなので、アドバイザー契約も高価なはずであった(浅尾慶一郎「湘南の風~あさお慶一郎の日記~」、(http://www.asao.net/blog/?no=185)。


野崎日記(389) 日本を仕分けする(13) 本多健吉先生追憶(3)

2011-01-27 12:41:33 | 野崎日記(仕分け)


 一 すべては酒販売自由化から始まった


 日本の小売酒販店は、小泉内閣の規制緩和の嵐の直撃を受けた。2001年までは、酒類販売の免許を取得するさいに、大型店などの特例を除き、既存の酒小売販売売り場との距離が一定以上離れている必要がある距離基準、及び一定人口に1店舗しか免許が下りない人口基準があった。酒販売店は近所に競合店ができないように、法律で厚く保護されていたのである。

 しかし、2001年1月に距離基準が廃止された。しかし、人口基準はまだ残っていて、東京都の特別 区など、大都市では1500人に1店、中都市では1000人に1店、小さな町村等では750人に1店しか、酒類販売が認められていなかった。

 2003年9月には人口基準も廃止された。酒類販売免許が取得しやすくなり、酒屋の隣のコンビニエンスストアで酒類が販売される、ということが起こるようになった( http://www.foodrink.co.jp/backnumber/200302/news0209j-2.html)。

 ただし、経営に大きな影響を受ける一部地域の中小・零細の酒店を保護するため、自民党などが同年、「多くの小売店の経営が困難に陥っている」など一定の条件を満たした全国1274地域(地域は原則、市町村単位)を対象に、例外的に出店を規制する特例措置を議員立法で定めた。この法律が、「酒類小売業者経営改善等緊急措置法」である。

 同法は03年9月から2年間の時限法だったが、個人経営の酒店などを中心に再延長を求める声が強く、05年8月に1年間の再延長が決まった。この特例法の成立、その延長を政府に対して強く働きかけてきたのが、中小酒販店の業界団体、全国小売酒販組合中央会であった。このときの政治献金は、それこそ、生死をかけて巨額のものであった(4)。

 しかし、06年、件の中央会が、元事務局長の業務上横領事件に伴い政治活動を自粛した。さらに、政府・与党が06年6月18日までの通常国会の会期を延長しない方針を固めたため、再延長の法案提出が間に合わず、時間切れとなった。そして、6月12日、与党が同特例法の再延長をしない方針を固め、結局、出店制限の特例法は、06年8月末に失効し、06年9月から全面的に自由化されることになった(『讀賣新聞』2006年6月13日 付)。高く付いた詐欺被害であった。


 二 金融の闇


 21世紀に入って進行した金融自由化によって、08年の金融暴風雨の発生まで、海外での運用を売り物にした金融商品が跳梁跋扈していた。スイス、香港、カリブ海のオフショア市場へ資産を移し、国内では考えられない高利回りを提示する業者が輩出した。中には、いままで名前も聞いたこともない国の債券や金融機関まで出てきた。そして、危険な金融商品に免疫力のない素人が、企業、個人を問わず、非常な狼たちの餌食になった。大金を預けたはいいが、ある日突然、それが海の向こうで消え去った。

 国内の200数十人から合計120億円余りを集めたまま、英国の投資会社、『インペリアル・コンソリデイティッド・グループ』(以下、IGと表記)が破綻した。

 IGは、1993年、英国のリンカーンシャー(Lincolnshire)で設立された。創業者は二人の若者、リンカーン・フレーザー(Lincoln  Frazer)とジャレド・ブルック(Jared Brooke)であった。投資アドバイスが業務であった。1994年、ビンブルック英空軍基地(Royal Air Force Station Binbrook)の一角を譲り受け、ここに本社機能を構えた。その後、カリブ海のバハマや豪州、香港、ケニア、ルーマニアなど世界各国に投資アドバイスを会社を相次いで開設した。

 IGが、日本に進出したのは1998年5月。国内では、日本長期信用銀行、北海道拓殖銀行、山一証券が経営破綻し、株価はバブル崩壊後の最安値を更新し続け、預金も超低金利であった。IGは、年利8.5%、確定利付き・元本確保型の円建てファンドを鳴り物入りで発売した。「フィックスト・インカム・円・ファンド」(金利は毎月均等払い)と「フィックスト・グロウス・円・ファンド」(金利は1年後に一括払い)の二種類で、両方ともに元本保証で運用期間は最低1年。最低投資金額は500万円で、前者の年利は6.5%、後者は8.5%であった。00年前半の国内の銀行の預金金利(1年定期)は0.12%でった。人々は簡単に騙された。

 手口はいかがわしいものであった。日本で集められた資金は、バハマにあるオフショア市場に設立されている運用会社ICミューチュアル(IC Mutual)や、西インド諸島のグレナダ(Grenada)のICミューチュアル・ファンド(IC Mutual Funds)を経由して、英国で消費者向け金融業務を行うIG ファイナンシャーズ(Financiers)に回されていた。資金は、英国の軍人向けの消費者金融などで運用していた。それが破綻した。

 同社の日本法人の弁明は、2点であった。

 まず、第1点。01年9月11日の同時多発テロ以降、米国政府はテロ資金が通過するあるオフショア市場への締めつけを強めてきた。西インド諸島のグレナダにあるグループ傘下の銀行は、投資家からの資金の受け入れ先となっていたが、02年5月、この煽りを食って閉鎖に追い込まれてしまった。

 第2点。その後、02年6月から、IGは、資金管理を、英国の監査法人マザール(Mazar)に委託した。この時点ではグループは債務超過ではなかった。ところが、マザールは資産を売却してしまい、投資家の金も消え去った。

 真相は不明である。とにかく多額の資金が一瞬にして消え去ったのである。中央会もこの手口に引っかかった(以上は、http://kodansha.cplaza.ne.jp/mgendai/200312/main.htmlに依存している)。

 07年1月16日付『朝日新聞』には、「酒販組合の年金破綻問題、東京と大阪で集団提訴」という見出しが踊った。以下内容を要約する。全国小売酒販組合中央会の共済年金が外債投資で破綻した問題を巡り、共済年金に加入していた東京や大阪など14都道府県の115人が07年1月15日、中央会などを相手に計3億6800万円の賠償を求める訴訟を東京、大阪両地裁で起こした。1人あたりの請求額の平均は東京訴訟が318万円、大阪が208万円。中央会は掛け金の85%の返還を決めたが、実際に返されたのは15%に留まり、未払いの70%を請求する。訴えによると、年金共済はリスクの高い外債に資金を集中して投資。約145億円が回収不能となり、破綻した。投資を主導した元事務局長が背任罪で起訴された。弁護団は相談窓口を開設し、被害が確認されれば追加提訴をおこなう方針。以上。


野崎日記(387) 日本を仕分けする(11) 本多健吉先生追憶(1) 

2011-01-26 12:36:43 | 野崎日記(仕分け)

金融犯罪防止強化の必要性-全国小売酒販組合中央会年金詐欺を事例に*

           英文タイトル

 For strong policies against financial crimes - in the cases of 'ICG' and 'the All Japan Liquir Merchants Cooperative Association'.
                                                    Yoshihiko Motoyama
                     Summary
   For strong policies against financial crimes - in the cases of 'ICG' and ''.
 the All Japan Liquir Merchants Cooperative Association

    Five former directors of the Imperial Consolidated Group was charged with fraud on 14 June,  2006. The Imperial Consolidated Group were companies in a global investment business that collapsed in 2002 with a shortfall of over £100 million in its UK operation.

    Five men appeared at Lincoln District Magistrates Court on 14 June, 2006 on charges of conspiracy to defraud in relation to the operation of the Imperial Consolidated Group of Companies ("ICG"). ICG was a group of companies which ran investment schemes, purporting to place the funds raised primarily within its own UK-based consumer credit and commercial loans businesses.

    One of five men was William Godley who played the crusial role in the case of pension fund of the All Japan Liquor merchant Association.

    ICG offered investment opportunities to investors all over the world and
purported to place a large proportion of the invested funds into its own UK-based consumer credit and commercial loans businesses. The Group evolved during the mid to late 1990s, with its head office in former RAF buildings at Binbrook airfield, Lincolnshire. It attracted private investment largely offshore through a network of highly paid introducers and through its own offices across a number of foreign jurisdictions. The UK investment companies went into administration on 10 June 2002 as part of the worldwide collapse of the Group. The Administrators Creditors Report of March 2006 for one of the Group's core UK companies estimated a shortfall of over £100 million and a dividend payment to unsecured creditors around 1 penny in the pound. This loss is additional to further sizeable losses made by other component parts of ICG.

    The defendants were all key players in running the group and were directors of various ICG companies throughout its period of its operation.

    A Japanese pension fund lost up to $125m (pounds 70m)in the collapse of the UK-based Invaro Group, which had links to the Imperial Consolidated scandal. The losses at the All Japan Liquor Merchants Cooperative Association (AJLMA) fund left some 20,000 Japanese people without a pension. The chances of any money being returned are said to be "probably quite small".

    Police in Japan are investigating the AJLMA losses and have raided offices in Japan. A former officer of the fund has been arrested.

    Invaro, a Liverpool-based litigation-funding company, was run by Terry Lindon, one of the UK's most prominent black businessmen. It went into voluntary liquidation in June 2004.

    We need strong policies to prevent this kind of financial crimes.

キーワード インペリアル・コンソリデーティッド・グループ、 詐欺、 クレディ・スイス
keywords   Imperial Consolidated Group,   fraud,    Credit Suisse


野崎日記(386) 日本を仕分けする(10) ESOP(1)

2011-01-25 12:24:14 | 野崎日記(仕分け)
 Ⅲ ESOPのすすめ

①ESOPは、" Employee Stock Ownership Plan"'の頭文字。「従業員持株制度」。企業経営者が、従業員に企業所有者の一員であるとの意識をもってもらい、企業の活動に主体的に関わってくれることを意図して、自社株を従業員に供与するという一種の従業員報酬制度。従業員に自社株をもたせるために企業側が支出した費用は、米国では税務上損金扱いになるなどの税制上の優遇措置を企業側は得ることができることによって、企業側にもESOPの発展に積極的に取り組む誘因が米国では与えられている。

② 米国のESOPには2種類ある。1つは従業員による自社株の購入資金を企業が拠出するものである。給与の一定割合で従業員の個人勘定に自社株を分配するという方法を採る。もう1つは信託設定されたESOPが金融機関から融資を受け、最初にまとまった自社株を購入する借入型ESOPであり、レバレッジドESOPと呼ばれている。

③従来の退職金や年金制度に追加する形で導入されるのであれば、従業員も歓迎するのではないだろうかという判断を「みずほ銀行」がしたことがある(みずほDC News, No. 42001/2/14、「ESOP」の留意点;http://www.mizuhocbk.co.jp/pdf/kakuteI/topIcs010214.pdf)。これは、米国で生まれた制度で、世界各国で普及しているが、現在までのところ日本における大企業では、三洋電機以外には導入されていない。中小企業での採用は結構増えている。ちなみに、日本では、従業員持株会という慣習的組織が存在する。これは、企業が従業員の福利厚生の1環として導入・支援する、従業員の給与天引き(税引後)による自社株購入制度で、任意加入、株式の引出し売却が可能な自助努力型資産形成制度である。米国企業の多くでは、ESOPを通して従業員が支配権を保有する企業さえある。企業側もまた財務を改善し、従業員の忠誠を買うことによる企業統治の新たな手段としてESOPに依存する。

④ESOPを経営改善戦略に使った代表例には「1979年クライスラー復活戦略」、「1994年ユナイテッド・エアライン再生戦略」がある。厳しい経営状況を打破する経営計画の開始と同時に同社はESOPを導入した。1994年7月12日、ESOPによる新しい航空会社としてUALが再出発した。当時としては世界最大のESOP企業であった(http://www.unitedairlines.co.jp/jsp/ja/united/history/timeline_9.jsp)。ただし、これも最終的には失敗した。

⑤「1984年アムステッド非公開化戦略」は敵対的買収を防ぐ手段として発行株を回収し、それらを従業員のESOPに振り込み、株式を非公開にした。1990年代に入って、「ニュービジネス」が台頭するとともに、米国のESOPは、株式未公開の企業によって積極的に採用されるようになった。野村総研は、日本でも、それまではあり得ないと言われていた敵対的買収が始まったこと、持合が崩れ優良大企業こそ新たな株主を見いださざるを得ないこと、などからESOPと同様の制度が日本でも必要ではないかという見解を、2001年4月に公表した(http://www.nri.co.jp/opinion/shihonshIjo/01_ wInter/04-03_012s.html)。

⑥米企業では、実際には、福利厚生や企業利益還元面では米企業もかなり支出している。ESOPもその1つであるが、そうした福祉制度はベネフィット制度と呼ばれている。米企業は、ベネフィット制度を報償の一環として活用して、労働生産性を高める努力を続けているのである。

⑦日本政府もESOP推進方針。 内閣情報調査室の情報。

⑧『朝日新聞』(2008年11月12日付)。 「政府は、企業の資金拠出などで従業員による自社株の大量購入が可能になる「従業員株式所有制度」(ESOP)の指針をまとめた。企業から独立した組織を新設することで、資金を借りて株安時に自社株を一括購入することもでき、従業員が大株主として経営に参画しやすくなる。ESOPは米国が70年代に年金制度として導入。

すでに1万社以上が採り入れ、資産残高は90兆円規模とされる。日本では金融商品取引法や労働基準法などとの関係が未整備だったが、10月末に政府がまとめた新総合経済対策に「日本版の導入促進の条件整備」が盛り込まれた。経済産業省と厚生労働省などの関係省庁は新法を制定せず、現行法の枠内で導入が可能と判断。統一指針をまとめた。指針では、日本版ESOPの主体として、企業から独立した中間法人や信託といった受け皿を設置。企業が拠出した資金や金融機関からの借り入れを原資に、自社株を大量購入できる。従業員は、退職時や一定期間後に引き出せる。受け取り分が株価と連動することから、従業員の中長期的な業績向上への意欲が高まりやすくなる。主に従業員の資産形成を目的とする企業内の「従業員持ち株会」はこれまで、自社株購入時にはインサイダー取引と見なされないよう、事前の計画に沿った定期購入に限られてきた。

 ESOPでは独立した外部組織を設けるため、機動的な運用が可能となる。現経営陣に対して敵対的な買収者が現れた際に、従業員が両者から独立した大株主として賛否を表明できるほか、株価の割安時に購入する傾向があるため、株価の下支え効果を期待する声もある。ただ、現金とは違って株価が下落すれば受け取り分が減るリスクがあり、企業が経営破綻(はたん)した場合には、自社株の価値と雇用を同時に失う「二重のリスク」も指摘されている。(村山祐介)

野崎日記(385) 日本を仕分けする(9) 味(1)

2011-01-24 12:21:08 | 野崎日記(仕分け)
Ⅱ 大阪の味

⑪天王寺蕪。 天王寺村の名産。江戸時代以降、全国に名を馳せた。「名物や蕪の中の天王寺」(与謝蕪村)。天王寺大根、こつま南瓜。光景が野沢菜。守口大根。門真蓮根。木津唐辛子。市岡茄子。毛馬胡瓜。田辺大根は田辺尋常小学校の校章。生根神社

⑫こつま南瓜。冬至の日、カボチャを食べて健康長寿を願う「こつま南瓜祭り」が、大阪市西成区の生根(いくね)神社で開かれる。祭りは江戸時代に同神社周辺の勝間(こつま)村の特産物だったこつま南瓜にちなんで毎年、冬至の日に行われる。現在の大阪市西成区玉出町付近(旧勝間村)が原産。江戸時代の万延元年(1860年)に勝間村の庄屋他百姓代らが、天満の青物市場問屋年行司あて野菜7品目に限り同村内での「立ち売り許可願」を申し出ており、その中に「南京瓜」が記載されていたことから、このカボチャのことを勝間南瓜と呼んだものと考えられている。勝間南瓜は約800gの粘質な日本カボチャであり、熟すると果実は小さいが、味の良かったことから勝間木綿とともに村の特産品だった。昭和10年代までは大阪市南部地域で栽培が行われていた。

⑬鯛。 東京はマグロ。大阪は鯛。マグロ一人当たり年間消費(東京で7600円、大阪で3000円)。鯛(東京590円、大阪1500円)。

⑭鱧。 東京は年間119トン。大阪は1074トン。

⑮牛肉と豚肉。牛(東京13000円、大阪22000円)。豚(東京20000円、大阪15000円)。

⑯佃煮 東京中央区の佃島で発明。大阪市西淀川区の千船駅側の「佃島」(摂津西成郡佃村)から徳川家康の頃の多数の住民が江戸に移住しており、彼らが創始したものとされる。

 一般に海産物、とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを醤油・砂糖等で甘辛く煮染めたものをこう呼ぶ(なお、醤油・砂糖等で甘辛く煮染めた、今日で見られるような佃煮を作り始めたのは東京・浅草橋にある「鮒佐」だといわれている)。牛肉の佃煮も目にする。ご飯と一緒に食べると美味とされる。もともとは小さすぎて出荷できない魚を漁民が自家用に保存食としたものという。濃い味付けのために保存性が高まり、参勤交代の武士らが江戸からの土産物として持ち帰ったため広まった。今では全国各地に土地の名物の佃煮はあり、江戸前に限るということはなくなった。上述のように余り物利用の保存用食品であったことから、物が有り余ってもて余すさまを「佃煮にするほど」などと表現したりする。

②ビール 日本人として初めて醸造販売したのは、明治4年(1871年)大阪の渋谷庄三郎が最初。日本で最初は、明治2年(1869年)横浜でノルウェー人のW.コープランドが最初。

野崎日記(383) 日本を仕分けする(6) 鉄道(1)

2011-01-22 12:16:48 | 野崎日記(仕分け)
Ⅰ 企業化

①松本重太郎。1844(弘化元)年、丹後國・竹野郡間人(たいざ)村(現京都府竹野郡間人町)生まれ。1878 (明治11 )年34歳、第百三十国立銀行を創立。1884 (明治17) 年40 歳、阪堺鉄道敷設を計画(明治19年開通)。1886 (明治19)年42 歳、山陽鉄道敷設計画の発起人(明治25年社長)。1887 (明治20)年43歳、浪花財界有志と大阪共立銀行を設立。

1893 (明治26)年49 歳、大阪興業銀行創設浪花鉄道株式会社創設(32年2月関西鉄道に合併)。1894 (明治27) 年50歳、大阪興業銀行頭取。日本貯蓄銀行創立に参画1895 (明治28)年51 歳、南海鉄道株式会社創立。1896 (明治29) 年 52 歳、名古屋に明治銀行創立。1898 (明治31)年54歳、第百三十国立銀行を株式会社百三十銀行と改称し、9月大阪興業銀行を百三十銀行に合併。1899(明治32)年55歳、南海鉄道全線開通、取締役社長。1901 (明治34) 年57 歳、関西法律学校拡張のため評議員となり資金募集。1904 (明治37)年60 歳、百三十銀行休業、安田善次郎による整理(同年7月再開業)。1913 (大正2)年69 歳、癌腫のため死去(松本翁銅像建設会『雙軒松本重太郎翁傅』大正11 年)。

②洋物。 9歳(幼名、亀蔵)、京都五条通の呉服商菱屋勘助方で丁稚奉公。12歳、大阪天満の呉服商綿屋利八方に移り、10年あまりの間太物問屋の商売を学ぶ。この間、店の近所にある小田奠陽(てんよう)という儒者の塾に通った。小田は亀蔵の独立に際しては綿屋と交渉を引き受け、円満に同家を去れるよう尽力してくれた。亀蔵は 24 歳で独立すると松本重太郎と名乗り、洋反物の行商による卸を始めた。その得意先より資金を用立ててもらい、1870(明治3)年、舶来物商「丹重」(丹後屋重太郎)を心斎橋筋の平野町に開店。大阪では、稲田左七郎、伊藤九兵衛、平野平兵衛(住道の新田)らの洋反物商が、急速に商売を広げていたときだった。明治4、5年頃、京都に断髪令が出るという噂に、帽子と襟巻きが売れると予想した松本は、急ぎ長崎に向う外国船に乗り、帽子や襟巻きを仕入れてきた。松本の予想は的中した。

③第130国立銀行。 西南戦争に際しては軍用の羅紗を買い占め、戦役拡大とともにそれを官軍に売りつけ数万円の利得を得た。そうして、洋反物商「丹重」は大阪において確固たる地位を築いていった。これまで米で支給していた武家への家禄を金禄制に切り替えることにした明治新政府は、1876(明治9)年、金禄公債証書の発行によって、華士族の禄制を廃止。同年、国立銀行条例の改正、金禄公債による国立銀行資本金への出資が認められることになった。国立銀行は、この改正前にはわずかに 4行が設立されたにすぎなかったが、これ以降 1879(明治12)年末までに、143行が設立。1879(明治12)年、松本は大阪第百三十国立銀行開。丹後国の豪農出身で徳島藩士となった小室信夫と組んで、宮津や福知山の旧藩士から金禄公債による出資を仰いだ。資本金 25 万円。発起人は、士族小室信夫、大阪府平民松本重太郎の他に、同平民大谷嘉平、渋谷庄三郎(日本人初の、渋谷ビール発売者)森岡忠兵衛、京都府平民村上治兵衛の6 名。開業当初の本店は京都府下宮津。まもなく高麗橋3丁目の大阪支店が本店。頭取には小室信夫の父親の小室佐喜蔵が、取締役には大阪の綿花商渋谷庄三郎、大阪の洋反物商稲田左七郎、宮津株主総代の松本誠直がそれぞれ就任し、松本重太郎は支配人兼取締役、1880(明治13)年頭取。開業当初 11 万6千円だった預金は、10年後の1889(明治22)年末には85 万5 千円と7倍以上、貸出についても開業当初23万6 円であったものが1889 年末には110 万4 千円と 5倍に迫る増加であった。預金額・貸出額について言えば、当時在阪銀行のトップである住友銀行に肩を並べた。

④人物本位の貸出。 土曜日の全日営業、日曜も当直員を増員して対応。送金手数料の引き下げや無料化、他行と比較して高い預金金利、貸出は人物本位の方針とし、「人物堅実」「手腕ト技倆ト共ニ優秀」であれば、「担保品ノ有無ハ敢テ甚ダシク問ウ所ナシ」として、新規事業の設立などへの積極的な貸出政策を採っていた。松本重太郎は、「商工業の基礎は先ず銀行、ついで鉄道を経営することだ。そのあとで、紡績など他の事業を盛んにすることだ」と会う人ごとに言っていたとおり、頭取でありながら、多数の企業の新設に関わっていった。