消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(422) 韓国併合100年(61) 日本の仏教(4)

2012-06-30 13:30:18 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 四 朝鮮総督府による朝鮮仏教寺院の統制

 日露戦争後、日本は韓国を保護国化して、一九〇五年一二月二一日、韓国統監府を設置した。そして、一九〇六年一一月、統監府令第四五号「宗教の宣布に関する規制」を発布した。仏教を韓国で布教しようとする日本人は、総監府の許可を得なければならないということが建前であったが(川瀬[二〇〇九]、五二ページ、注六一)、実際の運用面では、韓国の寺院を管理したいと願う日本の仏教寺院は、統監府に書類申請すれば、韓国寺院を日本寺院の管理下に置くことが認められていた。これによって、真宗大谷派は海印寺や梵魚寺など半島随一の由緒ある名刹(2)を自己の末寺にすることができた(川瀬[二〇〇九]、三二ページ)。ただし、両寺を末寺にしたことの効果については、大谷派自体が懐疑的な反省を行っている。それでも、その行為は一定の効果を持っていたことは否定できないとの自己弁護をしている。

 「本願寺の朝鮮開教(3)が朝鮮の寺院及び僧侶に対して何程の刺激を与へたか、この質問に対して編者は遺憾ながら全くナッシングであるとも答え得ないのである。何となれば、嘗(かつ)て開教師が海印寺に出張して鮮僧を教養し、或は梵魚寺に於いて奥村師が鮮僧を誘掖(ゆうえき)(4)した事実があるから全く何等の刺激を与へなかったとは云へないのである」(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一九一ページ)。

 この文章には、傲慢さが漂っている。朝鮮の仏教とたちは、歯を食いしばって李朝権力の弾圧に抗してきた。李朝がなくなり、大韓帝国ができても、今度は、日本という新たな権力の膝下に韓国の仏教は置かれてしまった。弾圧されてきた朝鮮半島の仏教を守ってきたという自負を持っていたであろう朝鮮の名刹に対して、日本の開教師が海印寺の僧たちを教えた、奥村円心師が梵魚寺の僧たちを導いたと言ってのけたのである。日本の仏教教団は、朝鮮の寺で自分の考え方を述べて朝鮮の僧たちと意見を交換し、過去の弾圧の負の遺産を跳ね返そうとエールを交わせなかったのである。



 奥村円心の大きな業績を讃える書の編者たちの感覚だけなら、教団の少数の僧の勇み足であったとして無視することもできる。しかし、時の法主(ほっす)であった彰如(しょうにょ)(5)は、法主就任に当たって次のような訓辞(御垂示(ごすいじ))を出している。現代語風に要約する。

 <韓国併合に向かうという天皇のお言葉(大詔)は、太陽と星のような平和と秩序を東洋にもたらすものである。日本は、慈愛をもって韓国民を永遠に安心(綏撫、すいぶ)させえることができる。これで東洋は平和の基礎は強固になる。とくに真宗を信じる人たちは、人々を等しく慈しむ(一視同仁、いっしどうじん)ことができ、仏の慈悲で海外の人たちを包みこむことができる。新しく日本に加わる人たちに恐れを抱かすことなく、彼らを啓発し、彼の地の産業を発展させることが真宗の任務である。天皇の御言葉(聖旨、せいし)を遵守することが、国家と仏祖に報いる仏教徒の義務である>(一九〇八年九月二五日の本山『宗報』第一〇八号。川瀬[二〇〇九]、三四、五二ページより転載)。

 そこでは、韓国人を「新附ノ国民」と表現し、彼らを教え導く(扶掖、ふえき)ことが真宗の目標に置かれているのである。
 総監府を継承した朝鮮総督府も、李朝によって弾圧されていた韓国・朝鮮仏教を救済するという名目の下で、半島の寺院に対する統制を強化して行った。

 一九一一年に施行した「寺刹(じさつ)令」(6)を、朝鮮総督府は次のように自画自賛した。要約する。
 <朝鮮の仏教寺院は、新羅・高句麗・百済の三国対立時代に創建され、高麗朝時代に隆盛を迎えたが、李朝時代の中期になると、儒教を奨励し・仏教を抑制する(揚儒抑仏)という風潮が起こり、仏教はほとんど顧みられなくなった。こうした状況を改善すべく寺刹の布教を支えることにする>と寺刹令の趣旨を述べ、その内容を以下の三点で説明している。

 <(一)寺刹を保存する施策を講じる。(二)寺刹の管理者である住持の職務を明確にする。(三)寺刹内部の規律を正しくし、僧尼の姿勢を厳正にさせる。(四)寺の財産が散逸しないようにする施策を講じる>(朝鮮総督府[一九一一]、五三ページ)。

 この文面だけを見れば、朝鮮総督府は衰退していた朝鮮の仏教を再興させることを目指しているかのようである。
 朝鮮総督府は、寺刹令施行の効果について豪語した。

 <この法令が施行されて以来、朝鮮の一般民衆の仏教に対する態度は一変した。僧尼たちは、一〇〇年の間、軽蔑されてきたが、一視同仁の政策によって、屈辱的な境遇から脱却し、その政策を喜んでいる。他の宗教のように布教を行う自覚が生まれている>(朝鮮総督府編[一九一三]、五三~五四ページ、川瀬[二〇〇九]、三五ページより転載)。


 寺刹令は、朝鮮仏教への朝鮮総督の介入を制度化したものである。一九一七年、親日派の李完用(I Wan-yong)は、朝鮮仏教と日本仏教の対話の会を設立し、朝鮮総督府の宗教政策にも協力した(韓[二〇〇四]、三六ページ)(7)ことに見られるように、日本の仏教の朝鮮への進出は、朝鮮における日本支持派の政治勢力と深く関わるものであった。

 朝鮮で施行されたこの寺刹令は、じつは、以前に日本政府が日本で制定を試みながらも、日本の仏教界の猛烈な反発を受けて頓挫した「第一次宗教法案」の内容を踏襲して作成されたものである。

 この「第一次宗教法案」は、一八九九年一二月に山県有朋(やまがた・ありとも)内閣によって第一四回帝国議会貴族院に提出されたが、出席議員二二一名のうち、反対一二一名、賛成一〇〇名で否決されたものである(戸村[一九七六]、四四~四五ページ)。

 当時の仏教界が、この法案に反対した主たる理由は、「これは神仏とキリスト教とを対等に扱うもの」という反キリスト教思想にあった。これが、明治政府による最初の宗教法案であったが(中濃[一九九七]、一三六ページ)、その後、一九二七年まで宗教法案は日本では提出されなかった。宗教団体を権力の統制下に置こうとする日本政府の試みは朝鮮で実験されたのである。その経験を踏まえて、一九二七年に「第二次宗教法案」が同じく帝国議会に提出された。


野崎日記(421) 韓国併合100年(60) 日本の仏教(3)

2012-06-16 15:59:13 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 日本仏教の介入と朝鮮の傀儡政権

 上記のような李朝による仏教弾圧を阻止するという名目で、日本の仏教は、明治政府の半島進出に強力することになった。



 明治時代に、朝鮮布教を最初に開始したのは、浄土真宗大谷派だとされている。同派は、一八七六年の「日朝修好条規」締結の翌年から布教活動を始めた。中心人物は奥村円心(えんしん)であった。これは、東本願寺(真宗大谷派)の法主・厳如(げんにょ)の命による。東本願寺は、当時の内務卿・大久保利通(としみち)と外務卿・寺島宗則(てらしま・むねのり)から布教活動の依頼を受けていた。東本願寺釜山(Busan)別院が一八七八年に建立された。明治政府の中国、朝鮮への発展に合わせて東本願寺もまたこの地への布教を開始するとの宣言が出された。要約する。




 <明治政府が維新の大業を完成し漸(ようや)く支那、朝鮮等の諸外国に向かって発展しようとしている。本願寺も亦(また)北海道の開拓をはじめ支那、朝鮮の開教を計画している」(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一八ページ)。

 円心は、一八九八年に本山に以下の内容の報告書を送っている。要約する。



 <国と宗教の教えとの関係は、皮と毛のようなものである。日韓もまた唇と歯のような関係にある。両者が相補って完全な姿になるのである。現在の韓国の状況は悲惨なものである。日本の忠君愛国の思想を韓国に誘導すべきである。かつては、日本は韓国から文化風物を教えてもらった。それによって、日本は繁栄した。いまや、日本が韓国を誘導開発するときである>(川瀬[二〇〇九]、二六ページより転載)。

 東本願寺もまた、キリスト教のように、文明の使徒になろうとしていた。もとより、キリスト教への対抗を意識したものであった。

 円心は釜山別院に朝鮮語学校と「釜山教社」を設置した(一八七七年)。釜山教社は、貧民救済を目的とした社会事業で、日本人による朝鮮での社会奉仕団としては最初のものであった(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一六一ページ)。

 真宗大谷派に続いて、一八八一年に日蓮宗、一八九五年に浄土真宗本願寺派(西本願寺派)、一八九八年には浄土宗、一九〇七年には曹洞宗等々が、朝鮮半島に進出した。

 そして、李朝によって弾圧されていたこともあって、朝鮮の仏教徒は、日本の仏教団の半島への進出を歓迎していた(川瀬[二〇〇九]、二八ページ)。



 既述のように、朝鮮仏教の僧尼たちは首都内に立ち入ることが禁止されていた。この「都城出入禁止」の打破が、日本の仏教団の重要な戦略であった。これを成功させたのが、日蓮宗僧侶の佐野前励(ぜんれい)であった。一八九五年、彼は、当時の朝鮮総理大臣・金弘集(Kim Hong-jip)に禁の廃止を願い出、それが認められたのである。



 金弘集は、一八八〇年に来日し、一八七六年に締結されていた不平等条約の「日朝修好条規」改正交渉をした。日本の拒絶により目的は達成されなかったが、その後、国王・高宗(Gojong)を説得して、開化政策を推進させた。しかし、開化政策は儒者や保守層の反発を招いた。一八八二年の「壬午軍乱(事変)」(Imo gullan)での「済物浦(Chemurupo)条約」を日本と結ぶ交渉にも当たった。一八八四年の「甲申政変」(Gapsin jeongbyeon)でも時局収拾に努め、一八八五年、日本と「漢城(Hanson)条約」を締結交渉の任を担った。


 一八九四年(干支で甲午)の「甲午(Gabo)農民戦争」(東学党の乱とも呼ばれる)にも金弘集は積極的に関与した。改革は、中国の年号踏襲を廃止、科挙制度の廃止、行政府の整理、銀本位性の導入、軍制度改革等々、急進的なものであったが、これが国内を紛糾させた。



 乱に手を焼いた閔氏(Minbi、高宗の妃)が牛耳る朝鮮政府が清国へ援軍を依頼すると、日本軍も出動した。日本軍は、日清戦争の直前に閔氏政権を転覆させて親日的で開化派の金弘集らの政権を発足させ、興宣大院君(Heungseon Daewongun)を執政に据えた。



 一八九五年四月一七日、「日清講和条約」(下関条約)の調印。同年四月二三日、ロシア・フランス・ドイツによる日本への三国干渉。同年七月六日、閔氏一族がロシア公使の援助を得てクーデターを起こした。彼らは、大院君や開化派・親日派を一掃し、日本人に訓練された軍隊も解散させた。



 同年一〇月七日~八日早朝、これに対して、日本公使・三浦梧楼(ごろう)はもう一度大院君を政権に就けようと図った。八日早朝、暴徒が宮廷を襲撃し、王妃である閔妃の寝室に乱入し、侍女も含めた三人の女性を斬殺した。死体を王宮外の前庭に運び出し、積み上げた薪の上で石油をかけて焼き捨てた。

 朝鮮人守備隊同士の衝突に見せかけようとした計画にもかかわらず、米国人医師の目撃証言によって、日本人の犯行であることが明確になった。

 これに対して、日本政府は、この事件を三浦公使をはじめとする出先官憲の独走であるとの立場を取り、犯行に関わった者たちを日本に召還し、日本で裁判にかけた。しかし、最終的には、証拠不十分として全員無罪となった。

 日本政府によって樹立されていた金弘集政府は、日本の圧力に屈して、三人の朝鮮人を真犯人として処刑した。しかし、この措置は、朝鮮人の怒りを買い、各地で武装蜂起が生じた。

 翌一八九六年二月、ロシア軍水兵の応援を受けた反日派(保守派)のクーデターが起こり、金弘集や魚允中(O Yun-jung)らの政府要人が処刑された。この時、高宗王は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に避難し、一年余りの間そこで政務を執った。



 一八九七年、高宗王は王宮に戻り、朝鮮が清国に臣従していた形を改め、独立国であることを示すため、同年八月、それまで使っていた清国の年号を廃止して朝鮮の元号を定め、「光武」とした。同年一〇月一二日、それまでの「王」の称号を「皇帝」に改め、高宗王が高宗皇帝に即位した。同年一〇月一六日、それまでの「朝鮮」という国号を「大韓帝国」(一八九七~一九一〇年)に改めた(http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kindai_note/DokuKyok.htm)。


野崎日記(420) 韓国併合100年(59) 日本の仏教(2)

2012-06-09 23:07:03 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 二 李朝による高麗仏教の特権の剥奪

 高麗時代の僧侶には、国王の師となる王師(おうし)とか国民全体の師である国師(こくし)などの最高位の地位などが用意されていた。仏教寺院の田畑は寺領と呼ばれた。王族から膨大な寺領が寺院に寄進され、免税であった(鎌田[一九八七]、一五五ページ)。僧侶には飯僧として食事も無料で供されていた。一〇一八年には一〇万人の僧に食事が供されたという(同上、一五六ページ)。こうした安逸を得るために、農民から僧になる者も多かった。

 さすがに、一三二五年には、出家を制限すべく度牒(どちょう)制度が強化された。度牒とは、東アジアの律令制で、国家から僧侶になることを許可した認証状のことである。一定の金や物資を国に納めれば僧侶になることが許されるという制度であるが、これが高麗朝の財政難とともに、強化されて行ったのである。しかし、寺領の拡大や経済力の増大とともに、僧兵が増え、国家権力を脅かすようになった。

 高麗時代には、僧科(そうか)という僧侶になる国家試験制度ができた。これは、科挙の制度と平行して実施されていた。また、仏教に関する行事を主管する僧録司(そうろくし)という国家的な代行機関も設けられていた。

 王族や、貴族は壮大な仏教儀礼を催した。それは、八関斎会(はっかんさいえ)と呼ばれた。仏教の世界では在家が授けられる八戒という初歩的な戒律がある。これを授けるのが八関会、斎会である。これは外国の要人も招待される大行事であった(同上、一五七~六〇ページ)。似たような祭りで、少し規模を小さくした国内的行事である燃燈会(ねんとうえ)というものも毎年開催されていた(同上、一六三ページ)。

 こうした高麗仏教が次の李朝によって圧迫されるようになったのである。
 一三九二年、朝鮮では、李成桂(I Seonggye)が、高麗朝(九一八年建国)を倒して政権を取り、自らを太祖と名乗った。太祖は、二年間は国号を変えず、高麗のままとしていたが、その後、国号を朝鮮(Chosun、一三九四~一八九七年)に改めた。首都も高麗時代の開城(Kaeson)から漢陽(Hanyang、現在のソウル)に移した。そして、「崇儒排仏」、「事大交隣」、「農本民生」の三つを国家の基本理念とした(http://mindan-kanagawakenoh.com/korean_history/kh022.html)。

 一つ目の「崇儒排仏」というのは、文字通り、儒教を崇拝し、仏教を排するという政策である。ただし、太祖・李成桂自身は仏教を信じていた。

 李成桂の二つ目の基本理念、「事大交隣」とは、大国に反抗してはならないという政策である。それは、「事大主義」と表現された。



 「事大」の語源は、『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)である。孟子は、小国が生き延びるには、天の理を知って、大国に仕えるのもやむを得ないと言った(1)。これが、「事大主義」と言われるものである。この考え方が、漢代以降の、冊封体制、周辺諸国にとっての朝貢体制の口実になっていた。

 李成桂は、大国の明との開戦を決定した小国の高麗政権を批判し、「以小事大」こそが、小国が生き延びる道だと唱えて、高麗政権を倒したのである。大国の中国の明王朝は、一三六八年に朱元璋(Zhu Yuanzhang)によって建国されたが、明は李成桂を援助していた。

 一六世紀に朱子学の系統化が進むと、事大の姿勢はより強化された。冊封体制を明確に君臣関係と捉え、大義名分論を基に「事大は君臣の分、時勢に関わらず誠を尽くすのみ」と、本来保国の手段に過ぎなかった事大政策が目的にされてしまった。その姿勢は、李朝末期においてもなお継続され、清皇帝を天子として事大することを名目として、近代化に反対する勢力が存在した。この勢力が事大党と呼ばれた(http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/97408/m0u/)。

 三つ目の朝鮮の基本理念である「農本民生」は、文字通り、農業を基本とする国民生活の安定を目指すというものであった(http://www.koreanculture.jp/korea_info04.php)。



 第三代国王の太宗(Taejong、在位:一四〇〇~一八年)によって、仏教迫害が開始された。寺領は縮小させられ、僧侶の数も減らされた。剥奪した寺領は国有化された。度牒の制度は厳しくされ、王師、国師も廃止された(鎌田[一九八七]、二〇三ページ)。



 第四代国王の世宗(Sejong、在位:一四一八~五〇年)が儒教を正式に国教に指定した。この王は、ハングルを造った『訓民正音』という勅撰書を出したことで著名な王である。毎年春秋の仲月にに僧侶に『般若経』を読ませて街を巡り、災厄を祓うという「経行」という、高麗のしきたりを、彼は廃止した。多くの教団を整理し、禅宗と教宗に統合させた。僧侶が城中に入ることを禁じた。ただし、晩年の彼は、仏教に帰依するようになった(同上、二〇四~〇五ページ)。

 第九代国王の成宗(Seongjong、在位:一四六九~九四年)は、尼寺二三寺を破壊し、度牒のない者の還俗を強制した。

 第一〇代国王の燕山君(Yeonsan-gun、在位:一四九四~一五〇六年)は、僧科を全廃した。僧侶のほとんどを還俗させ、都城内の寺社のすべてを廃止した。

 第一一代国王の中宗(Jungjong、在位、一五〇六~四四年)は、燕山君よりさらに徹底して仏教を弾圧し、僧侶を土木工事に使役した。京城の寺院のすべてを廃止した(同上、二〇七~〇八ページ)。


野崎日記(419) 韓国併合100年(58) 日本の仏教(1)

2012-06-06 18:31:45 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 韓国併合と日本の仏教

 はじめに

 民衆の心を掴む理念として宗教以上に強力なものはない。政治的理念の寿命は数百年も持続するだけで奇蹟としかいえないのに、宗教は数千年は生き延びる。権力は、宗教のこのとてつもない力を利用してきたし、権力に従いたくない民衆は、自らの宗教の保持に命を懸けてきた。

 朝鮮の仏教も例外ではない。朝鮮の仏教は、五世紀の新羅(Silla)時代から一四世紀の高麗(Goryeo)時代までの九〇〇年間、権力者と民衆の双方の心を捕らえてきた。李(I)朝の弾圧や日本の支配を受け続けた。しかも、日本の権力の手先になっているとして、日本の植民地支配に抵抗すべく、民衆を組織できたキリスト教から攻撃され続けた。日本の植民地支配から脱した後、独立運動を組織化できた韓国のキリスト教は、都市部を中心に勢力を拡大した。

 朝鮮の仏教が、日本の植民地支配に利用された経緯を、このプログで説明したい。


 一 朝鮮の仏教略史


 仏教が、中国から朝鮮半島に伝来するようになったのは、中国の南北朝時代からである。仏教は、三七二年に高句麗(Goguryeo)、三八四年に百済(Baekje)、新羅には、それよりかなり遅れて、五二七年に導入された。いずれも、護国仏教の色彩が強いものであった。例えば、新羅では、国土は仏の支配する地(仏国土)であり、王は仏の家族である。そして、弥勒菩薩の化身である「花郎」(Hwarang)が人々を守るという考え方が浸透していた(http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo_002.htm)。



 花郎というのは、新羅のエリート青年組織で教育的機能を帯びた宗教的機関である。上級貴族の一五、一六歳の子弟を「花郎」とし、その下に多くのの青年が「花郎徒」(Hwarangdo)として組織されていた。花郎は、山中で精神的・肉体的修養に励み、戦時には戦士団として戦いの先頭に立っていた。彼らは、弥勒菩薩の化身とされていた。弥勒菩薩とは、釈迦の入滅から五六億七〇〇〇万年の後に人間界に現れて民衆を救うと信仰されていた仏である(http://momo.gogo.tc/yukari/kodaisi/umayado/faran.html)。



 新羅の仏教は華厳宗が有力な宗派であった。華厳宗は、「大方広仏華厳経」という大乗仏教の経典の一つを教義とするものである。それは、大方広仏、つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典である。華厳とは別名雑華ともいい、雑華によって仏を荘厳することを意味する。原義は「花で飾られた広大な教え」である(http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/kegon1.html)。新羅時代の九世紀、地方の寺院や豪族の間で禅宗が信仰されるようになっている。

 高麗時代に入ると、仏教は王族の支援を受けるようになる。初代高麗王(在位、九一八~四三年)の太祖(Taejo)・王建(Wangon)は、九四三年の死去の直前に、高麗の後代の王たちが必ず守らなければならない教訓として「訓要十条」を書き、その第一条に仏教を崇拝すると宣言したことに見られるように、高麗時代の仏教は手厚く保護されていた(http://mindan-kanagawakenoh.com/korean_history/kh015.html)。高麗時代の仏教寺院は、広大な土地を所有しており、商業や金融(高利貸し)をも支配していた。

 高麗時代に、仏教思想と風水思想が融合した。この時代に創建された多くの寺が風水地理でいう明洞(Myeongdong)に建てられている。明洞とは、風水的にもっとも恵まれた地のことである。現在のソウル随一の繁華街の明洞には、この意味がある。また、密教の影響も大きく、石塔などにその影響が見られる。

 高麗王朝時代に入って、華厳宗と禅宗を融合しようとする天台宗が中国から伝来した。一〇九七年に高麗に天台宗を導入した義天(一〇五五~一一〇一年、Uichon)は、教(仏の教え)と観(禅宗の参禅)を折衷した僧であるとされている(http://r-m-c.jp/story/story04.html)。 

 曹渓宗(Jogyejong)も高麗時代に成立した。これは、禅系仏教宗団であり、現在の韓国でも、「大韓仏教曹渓宗」として韓国仏教で最大の勢力を有する。仏日普照国師・知訥(一一五八~一二一〇年、Chinul)を開祖とする。知訥は禅によって天台・華厳などの教学を包摂する教えを説いた。曹渓宗は民衆に、天台宗は上流階級に浸透したと言われている(http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index65.htm)。

 しかし、高麗時代に全盛時代を迎えた半島の仏教は、次の李朝になると一転して激しい弾圧にさらされることになった。

 高麗朝を倒した李朝は、国家財政の確保が急務であったために、寺院財産を没収する政策を取った。

 朝鮮王朝の五〇〇年間、仏教は権力によって弾圧され続けた。僧侶たちは、町から追放され、山岳に追いやられた。それは、日本の圧力によって出された一八九五年の「都城出入禁止解禁」まで継続させられた。

 日本による朝鮮支配は、この弾圧されていた朝鮮仏教を救済し、インテリ層の中に親日派を作り出すことによって可能になったものである。それは、朝鮮独立運動を組織する西欧キリスト教に対抗する意味をも持っていた。

 しかし、半島の仏教は、日本の教団の支配を受けることになった。そのこともあって、独立後の韓国の仏教は、日本の支配を歓迎していたとして、いまだに多くの人々によって糾弾されている。日本の仏教が到来するまでは、半島の僧侶は妻帯していなかったのに、日本の仏教との接触によって妻帯するという堕落をしたとして非難されたのである。妻帯した僧侶は帯妻僧侶と呼ばれていた。

 当時の李承晩(I Seung-man)・韓国大統領は、日本の支配下で実験を握っていた帯妻僧侶を追放すべく、朝鮮戦争の休戦が成立した翌年の一九五四年五月に「仏教浄化に関する論示」を発表した(曹渓宗総務編[一九五七]、一〇から一一ページ)。帯妻僧侶は、新権力からも、米国新政権からも迫害されてきたのである。