消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(410) 韓国併合100年(49) 韓国併合と米国(7)

2012-03-25 21:56:44 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 引用文献

伊藤一男[一九六九]、『北米百年桜』北米百年桜実行委員会。
外務省調査部編[一九三九]、『日米外交史』。
姜徳相編[一九七〇],『現代史資料』第二七巻(朝鮮・三)みすず書房。
姜徳相編[一九七二],『現代史資料』第二八巻(朝鮮・四)みすず書房。
小村寿太郎[一九一〇]、「一九一〇年一〇月六日付オブライアン宛て小村書簡」、『日本外
     交文書』第四三巻、第一号。
田中明[一九九七]、「日本における朝鮮研究の停滞と関連して」、『海外経済事情』第四五
     巻、七・八号。
尹慶老[一九九〇]、『一〇五人事件と新民會研究』一志社。
和田春樹・石坂浩一編[二〇〇二]、『岩波小辞典・現代韓国・朝鮮』岩波書店。
Bergholz, Leo A.[1934], "Bergholz to the Secreraries of the American Misso Stations in Korea,
          24 January 1919, Foreign Affairs of the United States, 1919, vol. II, Government
          Printing Office.
Brown, Arthur[1919], The Mastery of the Far East, Charles Scribner's Son.
Department of State Archieves[1905], Miscellaneous Letters, July, Part 3.
Dennett, Tyler[1924], "President Roosevelt's Secret Pact with Japan," Current History, XXI.
Nagata, Akifumi[2005],"American Missionaries in Korea and U. S.- Japan Relations 1910-1920,"
          The Japanese Journal of American Studies, No. 16.
Wilson, Hungtinton[1915], "Wilson to O'Braien, 17 September 1910," Foreign Relations of the
          United States, 1911, Government Printing Office.
Wilson, Robert. A. & Bill Hosokawa[1980], East to America; A History of the Japanese in the
          United States., William Morrow and Company, Inc.


野崎日記(409) 韓国併合100年(48) 韓国併合と米国(6)

2012-03-25 21:56:06 | 野崎日記(新しい世界秩序)

  注

(1) 備後安芸郡箱田村(現・福山市神辺町箱田)出身。一八三六年一〇月三日(天保七年八月二五日)生まれ、一九〇八(明治四一)年一〇月二六日没。昌平坂学問所で儒学を、ジョン万次郎の私塾で英語を、幕府が新設した長崎海軍伝習所入所で蘭学も学ぶ。航海術・舎密学(化学)も修めた。一八六二~六七年オランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験。幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国。大政奉還後の一八六八(慶応四)年一月、幕府海軍副総裁に任じられ、新政府への徹底抗戦を主張。江戸城無血開城後、開陽を含む軍艦八艦で江戸を脱出。箱館の五稜郭に立て籠もるが新政府軍に敗北。榎本の才能を惜しむ蝦夷征討軍海陸軍参謀・黒田了介(黒田清隆、くろだ・きよたか)が助命運動。一八七二(明治五)年一月、特赦。蝦夷開拓使として黒田の配下として新政府に仕官。一八七四(明治七)年一月、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。帰国後、要職を歴任し、一八九七(明治三〇)年に農相として足尾銅山に関する第一回鉱毒調査会を組織し、政府として初めて解決に道筋をつけた(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/28.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。

(2) 薩摩出水脇本村槝之浦(かしのうら)(現・阿久根市脇本槝之浦)出身。一八三二年六月二一日(天保三年五月二三日)生まれ、一八九三(明治二六)年六月六日没。一八六一年、幕府の第一次遣欧使節(文久遣欧使節)の通訳兼医師として参加、一八六三年薩英戦争で五代友厚とともに捕虜になる。一八六五年薩摩藩遣英使節団に参加、新政府で外交官、一八七三年、参議兼外務卿、一八七九年条約改正交渉に臨む、米国の賛成を得たが英国の反対に遭い挫折、外務卿辞任(http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/terashimamunenori.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。

(3) 一九〇五年時点の正式の外務大臣は小村寿太郎(一八五五~一九一一年)であったが、日本全権としてポーツマス(Portsmouth)会議に出席するために日本を不在にしていた。その間、首相の桂が外務大臣を兼務していたのである。

 小村は、ポーツマス条約を調印後、米国の鉄道王・ハリマン(Edward Henry Harriman)が満洲における鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定、一九〇五年)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した。件については評価が分かれる。一九〇八(明治四一)年成立の第二次桂内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉に従事。一九一一(明治四四)年、日米通商航海条約を調印し関税自主権を獲得した。

(4) 「桂・タフト覚書」の日本側原本は消失している。そのため、外交史料館で編纂している『日本外交文書』第三八巻第一冊(明治三八年)には、米国の外交文書から同覚書を引用している(http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/meiji_05.html)。

(5) 一八〇〇年代前半、米、英、スペイン、ドイツ、オランダがニカラグア、フランスがパナマを運河建設の予定地として、それぞれ調査・計画を進めていた。一八四八年に米国がメキシコから奪ったカリフォルニアでゴールドラッシュが起きた。東海岸から西海岸のカリフォルニアへの移動は、船でパナマまで行き、最短で五一キロ・メートルの陸路を渡り、太平洋を船をカリフォルニアに着けるというコースが選ばれた。そこで、米国の郵船会社が、パナマに鉄道を一八五五年に五年で完成させた。この鉄道は、米国が自国民の安全を確保するためという大儀を掲げて、軍隊を派遣できる口実となった。

 同時期にフランスのフェルディナンド・レセップス(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps, 1805~1894)が、一八八〇年、エッフェル塔建設で有名になったギュスターブ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832~1923)と組んでパナマ運河建設に乗り出したが失敗。

 その工事は、米国に継承された。米国は、ニカラグアの工事を取り止め、パナマ一本に絞ることになった。米国はパナマをコロンビアから独立させようとした。独立運動の担い手が革命委員会でその中心人物が、当時パナマ鉄道に勤めていたパナマ出身のマヌエル・アマドール(Manuel Amador)、そして彼を直接焚きつけた人物こそ、もとレセップスの下で働いていたバリーヤであった。米国務長官ヘイと、バリーヤとの密室内での運河協定はパナマの主権を完全に踏みにじるものであり、パナマも表面的には独立を承認されたが、実質的には米国の属国となってしまった(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=208137、二〇一〇年七月六日アクセス)。

(6) セオドアは、日本贔屓でもあったらしい。米国人初の柔道茶帯取得者。山下義韶から週三回の柔道の練習を受け、山下を海軍兵学校の柔道教師に推薦した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布した。ただし、日露戦争後に次第に東アジアで台頭する日本に対して警戒心を強くし、日本には冷淡になった。日露戦争後は艦隊(Great White Fleet)を日本に寄港させて日本を牽制した(ウィキペディアよち)。

 金子堅太郎(嘉永六(一八五三)~昭和一七(一九四二)年)は、藩学修猷館を出た後、黒田長溥公の援助で団琢磨とともに米国ハーバード大学に入学(一八七六年)。帰朝後は伊藤博文を助け、大日本帝国憲法の制定に大きく貢献した。
 金子堅太郎は司法の分野だけでなく、外交官としても卓越した力を発揮した。日露戦争の開戦当初、金子は厳正中立の立場にあった米国を友好的中立国とし、戦争講和の調停役を引き受けさせる、という政府の密命を帯びて渡米した。強力な人脈は、当時の米大統領セオドア・ローズベルトであった(http://shuyu.fku.ed.jp/syoukai/rekishi/kaneko.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

(7) 明石元二郎(元治元年八月一日(一八六四年九月一日)~大正八年一〇月二六日)は、藩校修猷館を経て陸軍士官学校、陸軍大学卒。一九〇一(明治三四)年、フランス公使館付陸軍武官。一九〇二(明治三五)年)、ロシア公使館付陸軍武官に転任、英国スパイと交遊。日露戦争時には、陸軍大佐。当時の国家予算は二億三〇〇〇万円程であった。山縣有朋の命令により、参謀本部から当時の金額で一〇〇万円(現在価値で四〇〇億円強)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。ヨーロッパ全土の反ロシア帝政組織にばら撒き、その工作の内容を、手記『落花流水』(非売品、国会図書館蔵)にまとめられている。ジュネーブにいたレーニンをロシアに送り込んだ。血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与したとされている。レーニンは明石に感謝していたという。

 一九一〇(明治四三)年、寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、韓国併合の過程で武断政治を推し進めた。一九一五(大正四年)第六師団長を経て、一九一八(大正七)年、第七代台湾総督に就任し、陸軍大将。在任中は、台湾電力を設立し水力発電事業を推進、鉄道海岸線を建設、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正、これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれた。華南銀行を設立。台湾の三板橋墓地(現林森公園)に埋葬されている(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/221.htm)。

(8) 例えば、『ニューヨーク・タイムズ』(New York Times)が、事件を執拗に報道していた。"American Missionary is Arrested in Korea"(一九一九年四月一一日)、"Japanese Arrest Americans in Kore"(四月一四日)、"Asks Sentence of Mowry"(四月二〇日)、"Admits Aiding Koreans"(四月二一日)、"Mowry is Sentenced"(四月二二日)、"Mowry Sentence Appeal"(五月一九日)、"Mowry Trial End"(八月二五日)、"New Trial For Rev. Mowry"(八月二九日)、Jail or Fine for Mowry"(一二月八日)。内容は反日感情に満ちたものであった。


野崎日記(408) 韓国併合100年(47) 韓国併合と米国(5)

2012-03-24 23:37:02 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 四 三・一運動で増幅された米人宣教師に対する朝鮮総督府の憎悪

 一九一六年、寺内正毅が日本の首相に転じるとともに、後継の朝鮮総督は、長谷川好道(はせがわ・よしみち)がなった。国際環境が激動する中での日本の朝鮮支配であった。一九一七年にはロシア革命、一九一八年一月のウィルソン(Woodrow Wilson)米大統領による「平和一四原則」(Fourteen Points Adress)が世界の独立運動を刺激した。そして、一九一九年一月二一日、日本政府から徳寿宮李太王の称号を受けていた前韓国皇帝、高宗(Kojong)が死去(六七歳)し、毒殺の風聞が流れて、三月三日の葬儀芽の三月一日、朝鮮で反日・独立運動が大規模に発生したのである。



 米国の伝導教会は、朝鮮半島南部のよりも、北部の方が多かった。そして、三・一運動は、北部の方が激越であった。日本政府は、ウィルソンによる民族自決と米国長老派教会に対してますます神経を尖らせることになった。

 当初は、米国政府も日本政府に気を遣っていた。駐ソウル米総領事レオ・バーゴルツ(Leo A. Bergholz)は、朝鮮における米人宣教師たちに、朝鮮国内の問題、とくに政治問題に関与しないようにと要請したほどである(Bergholz[1934], pp. 458-59; Nagata[2005], p. 165)。しかし、日本の新聞は三・一事件は米人宣教師の扇動によったものであると書き立てた(Nagata[2005], p. 166)。駐日米大使ローランド・モリス(Roland S. Morris)は、本国の国務省に、事件は米人宣教師が関与したものではなく、朝鮮人のナショナリズムの発露であるとわざわざ報告しなければならなかったほどである。朝鮮総督府側も米人宣教師を追い詰めることは、米国の反日感情を掻き立てるとして宣教師に対しては慎重な姿勢を示していた(Nagata[2005], p. 166)。



 しかし、一九一九年四月四日、米人宣教師が事件に関わった朝鮮人五人をかくまったという容疑で平壌で宣教していたエリ・モーリー(Eli M.Mowry)という長老派の牧師が官憲によって逮捕された。上記のバーゴルツは直ちに朝鮮総督府に抗議した。そうそたこともあって、モーリーは、四月一九日には、六か月の強制労働の刑を言い渡されていたが、一二月には一〇〇円の罰金刑に減刑された(姜[一九七〇]、五八七ページ)。米国の新聞はこの事件を連日、大きく取り上げていた(8)。

 日本側は、米国の反日感情を高める愚策を重ねてしまった。四月一〇日、三・一運動で官憲によって負傷させられた多数の朝鮮人たちが、長老派教会が運営する病院("Serverance Hospital")に収容された。しかし、日本の憲兵隊は、病院側が犯人を匿ったとして、首謀者たちの引き渡しを要求し、幾人かを憲兵隊本部に連行した。バーゴルツや長老派の牧師たちが憲兵隊に抗議したが聞き入れられなかった(Nagata[2005], p. 167)。

 四月一五日、いわゆる「提岩里虐殺事件」が起きた。事件の起きた京畿道(Gyeonggi-do)水原郡(Suwon-gun)提岩里(Cheam-ri)は、現在の華城市(Hwaseong-si)である。約三〇人の住民が日本軍によって虐殺された。日本側は、三〇人は、憲兵に襲いかかった暴徒を射殺したものであると説明した。この日、憲兵隊が提岩里の堤岩教会に、小学校焼き討ちと警察官二名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男子二〇数名を集めて取調べをしていた。その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして憲兵に襲いかかってきたので、憲兵はこの二人を犯人だと即断して殺害してしまった。これを見た教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、ほとんど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した、これが日本側の説明である(朝鮮総督府資料「騒密770号,提岩里騒擾事件ニ関スル報告(通牒)」大正八(一九一九)年四月二四日、ウィキペディアより)。

 しかし、駐ソウル米総領事、レイモンド・カーティス(Raymond Curtis)が、ソウルで活動していた長老派宣教師、ホリス・アンダーウッド(Horace H. Underwood)とAPニュース(Associated Press News Agency)通信員、A・テイラー(A. W. Taylor)を伴って、騒動があった村落を視察し、実際には、村民たちが憲兵たちによって教会に閉じ込められ、その上で教会ごと焼き殺されたとの認識を得、その事件を告発すべく、アンダーウッドは、「チアムリ事件」("the Cheam-ri Incident")というタイトルのレポートを世界に向けて発信した(Nagata[2005], p. 167)。

 日本側と米国側との認識に差があるが、二〇〇七年二月二八日付『朝日新聞』は、憲兵が村民を焼き殺したことを暗示させる資料を発見したと報道した。三・一運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将(一八六一~一九二二年)の一五年分の日記など、大量の史料が見つかったが、そこでは、独立運動への鎮圧の実態や、民族運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている。宇都宮は、情報収集を任務とし、日露戦争前後に英国で世論工作に携わったほか、辛亥革命では三菱財閥から活動費一〇万円を提供させ、中国での情報工作費に充てた人である。

 日記の重要な個所は、一九一九年四月一八日のものである。そこには、堤岩里事件に関して、「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」、「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益と為り」、そして、善後策を協議する会合では、「抵抗したるを以(もっ)て殺戮(さつりく)したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜一二時散会す」という、憲兵による放火虐殺の事実を認めているのである。

 独立運動が始まった当初、宇都宮は従来の「武断政治」的な統治策を批判し、朝鮮人の「怨嗟(えんさ)動揺は自然」と日記に記した。そして、後の「文化政治」の先取りともいえる様々な懐柔工作を行った。朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会い、情報収集や意見交換に努めたことが日記から分かる。日記以外の史料は、書簡五〇〇〇通、書類二〇〇〇点など。日露戦争期に英国公使館付武官だった時に、ロシアの革命派らを支援して戦争を有利に導こうとする「明石工作」を、資金面で支えたことを示す小切手帳もあった(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070228/p5、二〇一〇年八月一三日アクセス。

「三・一運動鎮圧克明に、宇都宮太郎大将の日記発見、朝鮮人三〇人虐殺隠蔽、「怨嗟は自然」懐柔工作」、『朝日新聞』二〇〇七年二月二八日)



 破壊されたのは、虐殺のあった教会だけではない。周辺の一八もの村が運動弾圧で破壊されたのである。時の朝鮮総督は長谷川好道であった(Nagata[2005], p. 168)。


 おわりに


 一九二〇年頃から中国と朝鮮との国境地帯で、朝鮮独立運動が激しくなった。とくに、間島(朝鮮語でChientao、中国語でJiandao)地域には、日本の圧政から逃れてきた朝鮮人たちが多く居住していた。当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島と呼んでいたが、豆満江を越えて南満洲に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになった。

 間島地域内の都市の一つの琿春(Hunchun)には、日本の領事館が置かれていた。この領事館が一九二〇年の九月と一〇月の二回、襲撃された。これは、日本の官憲によって雇われた中国人であったと言われている。これを契機に、日本政府は現地在住日本人の安全を守るという口実で、一九二〇年一〇月一四日、この地に軍隊を派遣した。日本軍は、間島の六六もの町や村を破壊し、約二三〇〇人の朝鮮人を殺した(姜[一九七二]、三五〇ページ)。

 日本軍によって虐殺された人の多くがクリスチャンであった。中国、朝鮮で活動する米人宣教師たちが、この残虐行為を非難した(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月五日付)。派遣軍の隊長、水町竹三(みずまち・タケゾウ)は、初めから、琿春事件が、英米人宣教師たちの扇動によって引き起こされたものであると広言していた(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月三日付)。

 これに対して、日本政府は、水町発言を公式のものでなく水町個人の見方であると弁明したが(『東京朝日新聞』二〇一〇年一二月一二日、二七日付)、日本の当局が本音のところで米人宣教師に対して強い警戒感を持っていたことが、この事件によって示されたのである。


野崎日記(407) 韓国併合100年(46) 韓国併合と米国(4)

2012-03-18 18:00:03 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 セオドア・ローズベルトの対日意識を変えさせた朝鮮総督府による宣教師弾圧

 米国人の反日感情を高めた原因の一つに朝鮮総督府による米国人宣教師弾圧があった。米国のアジア進出は、キリスト教の布教を軸にしたものであった。

 
米国政府は日本による韓国支配を認めてはいたが、米人宣教師を敵視する朝鮮総督府の行動には神経を尖らせていた。米人宣教師たちが反日運動を煽っているのではないかという朝鮮総督府の疑念に、米政府は危惧していたのである。事実、米国人宣教師の多くが朝鮮の独立運動に巻き込まれていたし、日本政府の米国人宣教師への警戒感は強くなっていた。

 こうした事情を反映して、韓国併合時に米国務長官であったハンチントン・ウィルソン(Huntington Wilson)が米国駐日大使のトーマス・オブライアン(Thomas J. O'Brien)に併合後の対宣教師政策を日本政府に質すように指示した(Wilson[1911], pp. 320-21)。それを受けたオブライアンが、当時の外務大臣、小村寿太郎に質問したところ、小村は、一九一〇年一〇月六日に返事し、宣教師による布教活動とミッション教育については、従来通り継続させると明言した(小村[一九一〇]、七一一~一四ページ)。



 しかし、キリスト教の布教活動が日本政府によって弾圧されるのではないかとの、ウィルソンの危惧は的中した。小村の明言にもかかわらず、多数の韓国人クリスチャンが、初代朝鮮総督、寺内正毅(てらうち・まさたけ)暗殺計画の容疑で逮捕されるという事件が一九一一年に発生した。暗殺計画は一九一〇年の寺内の朝鮮赴任時を狙ったものであった。七〇〇人が逮捕され、朝鮮総督府によって一二二人が裁判にかけられ、うち、一〇五人が重労働の卿を科せられた。最終的には六人のみ有罪確定となり、それも一九一五年に特別放免された。これがいわゆる[一〇五人事件」である(尹[一九九〇]、参照)。


 この事件は日本の官憲によってでっち上げられたものではないのかとの疑惑が、当時もいまも囁かれている。米国の長老教会系(Presbyterian)の教団は、「韓国でっち上げ事件」(Korean Conspiracy Case)として、「一〇五人事件」を糾弾するキャンペーンを米国と韓国で直ちに展開した。

 米国人宣教師たちの動きが米国民の対日感情を悪化させる端緒になった。
 ソウル(Seoul)にいた分離派長老教会病院(Prebyterian Severance Hospital)理事長のアビソン(O. R. Avison)、平壌(Pyongyang)にいた長老派宣教師のサミュエル・モッフェット(Samuel A. Moffett)、北の平安(Pyong-an)北道の成川(Seoncheon)にいた長老派宣教師のノーマン・ウィットモア(Norman C. Whittemore)の三人が、一九一二年一月二三日、寺内と面会し、韓国のクリスチャンたちの無実を訴えた。しかし、寺内はその訴えに耳をかさなかったという(外務省編[一九三九]、一二八~三二ページ)。

 米国では、ニューヨークを本拠とする米国長老教会海外伝道局長(Secretary of the Board of Foreign Missions of the Presbyterian Church in the United States of America)のアーサー・ブラウン(Arthur J. Brown)が精力的に動いた。ブラウンは、日本による韓国支配には好意的な意見の持ち主であったが、それでも、クリスチャンとして「一〇五人事件」への抗議行動に立ち上がった(Nagata[2005], pp. 161-62)。彼には、日本への傾斜とクリスチャンとしての矜恃の狭間で苦しんだことを告白した著作もある(Brown[1919])。



 ブラウンは、一九一二年二月、当時の駐米日本大使館の外務書記官(chargé d'affaires)であった埴原正直とニューヨークで面会し、逮捕された韓国人への穏便な対処を懇願した。さらに、数名の長老派教会の牧師とともに、ワシントンで駐米日本大使の珍田捨巳、タフト大統領、フィランダー・ノックス(Philander C. Knox)米国務長官、ウィリアム・サルツアー(William Sulzer)下院外交問題委員会議長とも会っている。ブラウンの説明を聞いたザルツアーは逮捕された韓国人に一時は同情したが、その後で、珍田から説明を受けてからは、その同情心を引っ込めた。しかし、ブラウンの反日感情は強くなるばかりであった。日米関係を考慮して六人を除く他の逮捕者たちが日本の官憲によって無罪釈放された後も、米国長老派教会は事件になんら関与していなかったことを朝鮮総督府に執拗に訴え続けていたのである (Nagata[2005], p. 162)。

 ちなみに、「一〇五人事件」は米国の長老派教会によって企まれたものであることを自白させるために、検挙者たちに拷問を加えろと命令したのは、当時、憲兵司令官兼警務総長の明石元二郎(あかし・もとじろう)であった(7)。ただし、拷問はなかったという証言もある(Nagata[2005], p. 163)。



 結果的には、最後の六人にも日本当局は恩赦を与えた(一九一五年二月)のであるが、その背景には、本国の政府高官が朝鮮総督に米国宣教師たちの怒りをなだめるようにとの助言をしていたことがある。例えば、枢密院顧問の金子堅太郎が、当時の逓信大臣、前台湾総督府民政長官の後藤新平(ごとう・しんぺい)からの要請を受けて、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)に米国のキリスト教会への慰撫を依頼すると同時に、寺内正毅に事を納めるように諫めている。一九一二から一三年にかけてのことである。恩赦は、当時の首相、大隈重信(おおくま・しげのぶ)の了承による((Nagata[2005], p. 164)。


野崎日記(406) 韓国併合100年(45) 韓国併合と米国(3)

2012-03-15 15:46:33 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 二 高まっていた米国の反日感情

 セオドアは別にして、一九世紀末の米国では、排日気運が高まっていた。本土に流入する日本人が増加していたことに、米国人は嫌悪感を持っていた。統計的には、日本から米国本土に直接に渡航する日本人移民の数は、多くはなかったのだが、ハワイやメキシコを経由して米国本土に入国する転航移民が多かったのである。一八八五年に日本政府がハワイへの契約移民を正式に認めてから、ハワイへの移民は増えていた。

 米国政府は、一八八二年の排華移民法(Chinese Exclusion Act of 1882)によって中国人の移民を停止させた。その後に、日本人移民排斥運動が起こったのである。

 一八九三年、サンフランシスコの市教育委員会が、市内の公立学校への日本人生徒の入学を拒否する決定をした。「日本人生徒の年齢が他の生徒より高い」というのがその理由であった。学校に入学する日本人移民は、英語を学ぶために、実際の年齢よりも低いクラスに入る。当時一七歳以下の児童には一人当たり九ドルの補助が政府から下りていたが、一七歳以上の日本人生徒が多い学校は補助を得られなかった(伊藤[一九六九]一五ページ)。

 この決議は当時の日本領事・珍田捨巳(ちんだ・すてみ)らの運動によって取り消されたが、日本人排斥の動きはその後も活発になった。一九〇一年、カリフォルニア州とネバダ州の州議会が「日系移民を制限せよ」との建議書を連邦議会に送った。一九〇五年にはサンフランシスコに「日韓人排斥協会」(Japanese and Korean Exclusion League、後にアジア人排斥協会、Asiatic Exclusion Leagueに改名)が組織された。

 一九〇六年、またしてもサンフランシスコ学務局で以前と同じ決議が下された。日本人生徒を公立小学校から隔離し、中国人学校に編入させるという決定である。今度の理由は、同年起こったサンフランシスコ大地震の被害で学校のスペースが足りなくなっからというものだった。しかし、当時公立学校に通っていた日本人学生の数は、わずか、九三名であり、うち、二三名は米国生まれであった。残る六八名のうち、一五歳以下が三六名であった(Wilson & Hosokawa[1980], p. 53)。その意味で、一七歳以上の日本人生徒が多すぎるという当局の主張は言い掛かりでしかなかったのである。

 日系移民たちは、直ちに抗議運動を展開した。日本本国のマスコミに、この事件と、各地で頻発していた日本人経営レストランへのボイコット、日系人襲撃事件などが知らされた。

 日本贔屓のセオドア・ローズベルトは、迅速に行動した。公立学校から日本人を締め出すという行為は、「日米通商航海条約」(U.S.-Japan Treaty of Commerce and Navigation、一八五八年の不平等条約が、一八九四と一九一一年に改訂)に抵触するとして、サンフランシスコ市に学童隔離の撤回を命じ、一九〇七年、日本人生徒は復学を許された。

 しかし、その一方で、ローズベルトは、一九〇七年三月、大統領令(Executive Order)を出し、ハワイ、メキシコ、カナダからの日本人の転航移民を禁止した。サンフランシスコの学童隔離問題は、結局、移民制限という形で決着させられたのである。

 日本政府は、このような移民排斥に強硬に抗議しなかった。それどころか、移民排出を自主的に制限してしまったのである。日本政府は、一九〇八年、「日米紳士協約」(Gentleman's Agreement)なる取り決めを米政府と結んだ。これは、一般の観光旅行者や留学生以外の日本人に米国行き旅券を日本政府は発行しないというものであった(http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/shinshi.html)。この紳士協定による自主規制の結果、以後一〇年ほどは、日本人移民の純増はほとんどなくなった。

 当時の駐米・日本大使は、埴原正直(はにはら・まさなお)であった。埴原は、一八九八年、外交官試験に合格し、同年、東京専門学校(現在の早稲田大学)内で、日本で最初の外交専門誌『外交時報』を創刊した。翌年領事館補となり、廈門 (Amoy)領事館に赴任。一九〇二年、駐米日本大使館の外務書記官補となりワシントンに赴任。五年後二等書記官となる。米国内の反日感情が高まりつつあった一九〇九年、埴原はコロラド、ワイオミング、ユタ、アイダホ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、テキサスの八州を回って日本人居留地を視察した。日本人町が排日論者たちの目にどう映っているのかを探るためであった。視察は二か月以上に亘った。自らの足で日本人町を歩き、時には変装までして売春宿に潜入した埴原は、調査結果を『埴原報告』と呼ばれるレポートにまとめ、外務大臣の小村寿太郎宛に送った。これを読んだ外務省は、その内容に衝撃を受け、この『埴原報告』を機密文書扱いにして封印した。埴原のレポートには、日本人町の不衛生さ、下賤さ、卑猥さなどが、赤裸々に綴られていたからである。

 日米紳士協定に話を戻す。紳士協定には「米国既在留者の家族は渡航可能」という条文があった。これが後に問題になった。当時の日本人は見合い結婚が一般的であった。親や親戚の薦めで、日本人の独身者たちは、写真を見ただけで結婚をしていた。花嫁が旅券発給を受けて入国していたのであるが、これが、米国人には「写真結婚」という擬制によって、日本人が不法移民をしているというように映った。見合結婚の習慣のない米国人にとってこの形態は奇異であり、非道徳的なものであった。カリフォルニア州を中心としてこの形態が攻撃された。米国で出生すれば、子供は、自動的に米国市民権を得ることができるので、日系人コミュニティーがより一層発展定着することへの危機感があった。結局、写真結婚による渡米は日本政府によって一九二〇年に禁止されることになった。また、一九二一年には、「土地法改正」(1921 Alien Land Law)により、外国人による土地取得が完全に禁止された。

 この一九二一年には、米国で「移民割当法」(Quota Immigration Act)が成立している。国勢調査に基づく出身国別居住者数に比例した数でのみ各国からの移民数を割り当てるとしたのである。

 そして、一九二四年、日本人移民の排斥を目指す法案が議会で審議されることになった。反日意識の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第一三条C項を「一八七〇年帰化法」(Naturalization Act of 1870)に追加する提案がなされたのである。一九七〇年帰化法には、自由な白人、アフリカ系黒人の子孫のみが米国人に帰化でき、他の外国人は帰化できない「帰化不能外国人」(Aliens Ineligible to Citizenship)という定義がなされ、、帰化不能外国人の移民は制限されていた。しかし、一九二〇年代には、日本人を除いて全面禁止になっていた。第一三条C項は、移民制限の徹底化であるが、当時、帰化不能外国人でありながら移民を認められていたのは、日本人のみであったから、実質的にはこの条項は日本人を対象としたものであった。



 米国務長官・ヒューズ(Hughes)が、こうした議会の動きを牽制するために、日本政府は「日米紳士協定」によって、対米移民を制限しているという事実を議会に説明すればよいと植原大使に促した。こうして、埴原がヒューズに書簡を送付、ヒューズがそれに意見書を添付して上院に回付するということになった。ところが、埴原の文面中「若しこの特殊条項を含む法律にして成立を見むか、両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべ(し)」(訳文は外務省による)の「重大な結果」(grave consequences)という個所が日本政府による米国への「覆面の威嚇」(vailed threat)である、とする批判が上院でなされ、日本批判の大合唱となった。結果的に、「現存の紳士協定を尊重すべし」との再修正案は七六対二の大差で否決され、クーリッジ(John Calvin Coolidge Jr.)大統領も拒否権発動を断念、日系人は「帰化不能外国人」の一員として移民・帰化を完全否定されることになった。そして、一九二四年五月、「一八七〇年移民法の一部改正法」(俗にいう「排日移民法」(Japanese Exclusion Law)が成立したのである。

 植原大使は、同年、責任を取って大使を辞職し、失意の中で一九二七年に退官し、その七年後に五八歳の若さで亡くなった(http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/gunzoh.html)。


野崎日記(405) 韓国併合100年(44) 韓国併合と米国(2)

2012-03-13 15:54:58 | 野崎日記(新しい世界秩序)



 大統領選挙を控えていたセオドアは、この報を聞いて、人質を救出すべく、すぐさま大西洋艦隊の戦艦七隻もの大部隊を派遣した。

  
ただし、ローズベルトは、ペルディカリスが南北戦争中に米国籍を放棄していて、当時はギリシャ国籍であったという事実関係を知らなかった。大統領選挙を控えていたセオドアは、「我々は、ペルディカリスの生か、もしくはライスリの死を望む」と強硬発言をし、米国民の喝采を浴びた。モロッコ政府は、同年六月二一日、ライスリの要求を受け入れ、ライスリはペルディカリスを釈放した。セオドアは、この救出劇のお陰で選挙に勝利し、さらに次の四年間、ホワイトハウスに留まることになった。救出された人質が、じつは、米国民ではなかったという事実が一般人に知られるようになったのは、一九三〇年代に入ってからにすぎないが、少なくとも一九〇〇年の初めの一〇年間は、セオドアの俊敏な行動力が賞賛されて、彼を国民的人気者にしたのである(http://www.capitalcentury.com/1904.htm)。

 

 パナマ運河の領有権の取得も、セオドアの武断外交の事例であった。
 一八一九年、コロンビア共和国がスペインから独立したが、内戦が絶えず、二〇世紀に入っても政情は安定しなかった。当時のコロンビア共和国は、現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマのすべてと、ペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家であったために、広大な領土の各地で分離を求める紛争が発生し、幾多の国家の離合集散が繰り返されていた。

 そして、一八九九年から一九〇二年にかけて、パナマのコロンビアからの分離独立を巡る、いわゆる千日戦争が勃発した。この内戦での戦死者は一〇万人に達したとされている(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/andes/colomb2.htm)。
 この内戦で、一九〇〇年一一月、米海兵隊が米国市民の保護とパナマ鉄道会社の運行確保のためパナマに上陸、二週間に亘り、コロンビア領に属していたパナマを占拠した。一九〇二年九月にも米海兵隊が派遣され、二か月間、占拠を続けた。同年一二月、フランス政府がパナマ運河会社を米国に譲渡することを決定。一九〇三年、パナマがコロンビアから独立。同年一月、コロンビアと米国との間でヘイ・エルラン条約(Hay-Herran Treaty)が調印され、一〇〇〇万ドルの一時金と年二五万ドルの使用料で、一〇〇年にわたる運河建設権、運河地帯の排他的管理権を米国が得た。条約更新の優先権は米国にあり、コロンビアは、米国以外の国に運河を譲渡できないなど、この条約は、コロンビアにとっては、屈辱的な内容であった。この内容に怒った正式のコロンビア大使は交渉を打ち切り、コロンビアに帰国してしまったが、大使に同行していていたトーマス・エルラン(Dr. Tomás Herrán)が代理大使として条約に調印してしまった。米国側の交渉責任者は、国務長官のジョン・ヘイ(John M. Hay)であった。

 一九〇三年八月、コロンビア政府が議会にヘイ・エルラン条約の批准を求めたが、すべての議員がこの条約に反対し、一〇月には、条約批准を拒否した。
 同年一一月、セオドア・ローズベルトは、コロンビアを「腐敗した虐殺者の猿ども」と罵り、コロンビア政府の許可なしでも運河建設を強行すると述べた。それに呼応して、コロンビアからの独立を求めるパナマ革命委員会が反乱を開始し、セオドアも、軍艦四隻をパナマに派遣して革命委員会を支援した。反乱は成功し、臨時評議会政府が、パナマ共和国の独立宣言。同年一一月五日、米政府は直ちに新政府を暫定承認し、コロン市とパナマ市に軍艦九隻を配置してコロンビアを威圧、さらに海兵隊がパナマに上陸。六日、コロンビア軍が米軍の圧力に屈してパナマから撤退。同日、米政府は正式にパナマ新政府を承認した。

 一九〇三年一一月一八日、パナマ運河条約(Panama Canal Treaty=Hay/Bunau-Varilla Treaty)締結。ただし、この交渉にはパナマの革命委員会は排除され、レセップスの下で働いていたフランス人のビュノー・バリーヤ(Bunau-Varilla)だったのである。米国とフランスとの密約であり、パナマ人はあずかり知らぬことであった(5)。
 米国はパナマ政府から運河建設・運営権、幅一六キロ・メートルの運河地帯の一〇〇年間にわたる使用・占有・支配する権利を獲得。米国はパナマの独立を保障し、国内に混乱が生じた際には介入する義務を負うという内容であった。また、「パナマの完全な独立は米国により保障されるため、独自の軍を持つ必要はない」とされた。

 一九〇四年二月、パナマ議会が運河条約を批准.米上院もまもなく運河条約を批准.バリーヤはただちに全権大使を辞任しフランスに去った。ジョン・モルガン(John T. Morgan)上院議員や、 ウィリアム・マックドゥー(William MacAdoo)下院議員などは、パナマ「独立」は、セオドアの陰謀であると非難した(         http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/mesoam/panama.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

 ただし、セオドアは典型的な武断外交の展開者ではあったが、バランス・オブ・パワー論者でもあった(Parker, Tom, "The Realistic Roosvelt," The National Interest, Fall 2004, http://www.theodoreroosvelt.org/life/foreignpol.htm)。

 例えば、彼は、日本とロシアとの間に適切なバランスが必要であると認識していた。一九〇四年に旅順港(Port Arthur)を陥落させた日本軍の勝利を喜びつつも、共和党上院銀のヘンリー・ロッジ(Henry Cabot Lodge)宛の書簡で、「ロシアが勝利していたら、文明にとって打撃であったが、ロシアが東アジアにおける列強の地位を失ってしまっても、不幸なことであると私は思います。ロシアが日本と正面からぶつかるよりは、相互に穏やかな関係を保つのがもっともよいのです」と語った(上記ウエブサイトより)。ロシアが領土を放棄し、日本も賠償を求めないという和平条約を結ばせたことで、セオドアが米国人初のノーベル平和賞(Nobel Pease Prize)を受賞したのも、アジアにおけるバランス・オブ・パワーを維持したからであると、このサイトでトム・パーカー(Tom Parker)は指摘した。

 ちなみに、日露戦争時のセオドアは、ハーバード大学の同窓生であった金子堅太郎(かねこ・けんたろう)の影響もあって、かなりの日本贔屓であったらしい(6)。


野崎日記(404) 韓国併合100年(43) 韓国併合と米国(1)

2012-03-09 00:48:26 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 1-1 韓国併合と米国

 はじめに

 一八七六年、駐露公使(Minister to Russia)であった榎本武揚(えのもと・たけあき)(1)は、当時の外務大臣・寺内宗則(てらうち・むねのり)(2)に書簡を送り、日本にとって、朝鮮の経済的貢献は小さいが、安全保障の視点からすれば非常に重要な政治的・戦略的位置にあると語った(田中[一九九七]、六一ページより引用)。

 経済的利益はないが、安全保障の見地からは、朝鮮は、戦略的重要な位置にあるというのが、当時の元老たちの共通認識であった。しかし、史実はそうではない。明治政府は朝鮮半島から経済的利益をむさぼり取ろうとしていた。

 それは、すでに、一八七六年、日本と李氏朝鮮との間で結ばれた「日朝修好条規」に現れていた。この条約は一八七五年の江華島事件後に結ばれたことから江華条約(Treaty of Ganghwa)とか、一八七六年が丙子の年に当たるので、丙子条約(Treaty of Byon-Ja)とも呼ばれている。

 修好条規は、漢文と日本語で書かれている。条規は全一二款からなり、付属文書一一款、貿易規則一一則、公文からなる。条規第一款は、「大日本国」と「大朝鮮国」が相互に自主独立の国であること。条規第四款で、すでに日本公館が置かれている釜山(Busan)は言うに及ばず、即時に、元山(Wonsan、一八八〇年開港)、仁川(Incheon、一八八三年開港)をも開港させる。条規第九款で貿易制限禁止。条規第一〇款で、日本人の治外法権が定められた。

 付属第七款で開港場における日本の貨幣使用が認められた。貿易規則第六則では、それまでは禁止されていた朝鮮から日本への米の輸出が認められ、公文では朝鮮の関税自主権を奪い、日朝間の貿易は無関税になることが宣言された(http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m09_1876_01.html)。日本が欧米列強によって押し付けられた不平等条約ですら、無関税でなく、一定の関税がかけられていたし、また、外国の貨幣の乱用も抑制されていた。そうした日本が苦しんだ不平等をさらに拡大させた条規を日本は朝鮮に強制したのである。日本は、朝鮮を経済的に搾取する姿勢を初発から露骨に示していた。

 ちなみに、朝鮮半島の植民地化によって、日本に在住する朝鮮人の数は激増した。一九一一年には二五〇〇人しかいなかったが、一九二〇年には約三万人、一九三〇年には約三〇万人、終戦直後には約二五〇万人になった(和田・石坂編「二〇〇二」、一〇二ページ)。

 このように露骨に朝鮮を支配する日本に対して、当時の列強は強硬に反対しなかった。


 一 朝鮮の期待を裏切ったセオドア・ローズベルト米大統領の武断外交


 一八七六年の「日朝修好条規」によって、開国を強制された朝鮮は、一八八二年に米国とも「米朝修好通商条約」(Treaty of Amity and Commerce betweenn the United States of America and Corea)を結んだ。条文の中には、両国は独立を保持するために協力するという趣旨が記されていた。しかし、米国は日露戦争に当たって日本を強く支持し、朝鮮の独立が脅かされても朝鮮を守る何らの行動をも取らなかった。

 米国は、フィリピン領有を日本が認めることと引き替えに、日本による韓国支配を黙認した。「桂・タフト協定」(Taft-Katsura Memorandum)がそれである。これも、すでに本書、第一章で簡単に触れたが、いま少し詳しく説明したい。この協定は、当時の首相兼臨時外務大臣であった桂太郎(3)と、フィリピン訪問の途中来日した米国特使であり、後の第二七代米国大統領ウィリアム・タフト(William Taft)陸軍長官との間で一九〇五年七月二七日に交わされた協定である。

 この協定は、両国の首脳が署名した正式のものではなく、両国の合意メモ程度のレベルのものであった。しかも、公表されない秘密合意であった。協定の存在は、ほぼ二〇年後の一九二四年に、歴史家、タイラー・デネット(Tyler Dennett)によって発見され、同年の米雑誌、Current Historyで発表された(Dennet[1924])。これは、タフトが一九〇五年七月二九日に東京から当時の国務長官、エリフ・ルート(Eliha Root)に宛てた電文のコピーである。コピーは、いわゆるセオドア・ローズベルト文書に保管されていたものである(Department of State Archives[1905])。

 デネットが公表したメモ(4)には以下のことが記載されていた。

 ①日本は、米国の植民地になったフィリピンに対して野心のないことを表明する。

 ②極東の平和は、日、米、英の三国による事実上の同盟によって守られるべきである。

 ③米国は、日本の韓国における指導的地位を認める。

 ④桂は、一九〇五年に停戦した日露戦争の直接の原因が韓国政府であると指摘し、もし、韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、韓国政府は、ふたたび、同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は、韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。

 ⑤タフト特使は、韓国が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意した。

 ⑥タフトは、ローズベルト大統領がこの点に同意するだろうという彼の確信を示した(事実、ローズベルトは、同年七月三一日、同意する電文をタフトに送ったDennet[1924], p. 19)。

 韓国では、この覚書が日本による朝鮮半島支配を拡大させた契機となり、米国による韓国への重大な裏切り行為であったという非難が出されている(http://dokdo-research.com/temp25.html)。

 ちなみに、セオドア・ローズベルトは、軍事力による武断外交の実践者であった。モロッコにおける拉致事件の解決がその一例である。



 一九〇四年五月、モロッコでアーマド・イブン・ムハンマド・ライスリ(Ahmad Ibn Muhanmad Raisuli)率いる武装勢力によって、タンジール(Tangier)で農園を経営していた元米国人の富豪、グレゴリー・ペルディカリス(Gregory Perdicaris)の息子、イオン・ペルディカリス(Ion Perdicaris)が誘拐された。ライスリはモロッコのスルタンに対し、「モロッコでの外国人の安全」という国の名誉と交換に、七万ドルの身代金と、ライスリたちのモロッコにおける安全通行権、そしてタンジールの一部地域の統治権を要求した。


野崎日記(403) 韓国併合100年(42) はしがき(1)

2012-03-03 17:50:09 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 はしがき

 危機は、これまで秘密にされてきた真実を暴く。事態が深刻になる前から、多くの欠陥は見えていたはずである。

 
二〇一一年三月一一日の発生から日々深刻さの度合いを増している福島原発の事故にしろ、大震災・大津波にしろ、危機が発現するまでには、十分すぎるほどの警告があった。しかし、ほとんどの人々は、原発であれ、防潮堤であれ、構築物の安全性を強調する理論に信頼を置いていた。その理論が、素人には分からない神秘的なものであればあるほど、人々は、その理論が示す処方を正しいものと思い込んできた。いや、思い込まされてきた。

 しかし、実際に大事故が起こってみると、深遠な理論がまったく役に立たないこと、しかも、安全性を監視してくれていたはずの国家機構が、業界と癒着していて、果たすべき役割をほとんど実行していなかったことを、人々は否応なく思い知らされた。構築物の一部だけが損傷されているにすぎないとの業界や監視機関の言い分を信用している間に、システムそのものが破壊してしまったことに人々は震え上がった。そして、危機が生じる度に経験してきた忌まわしい事態、つまり、政府内部での分裂という事態に人々の心が萎えた。社会的なパニックは、この過程から生じる。過去のあらゆる危機が教えてくれるように、事故を収拾する対策が遅れれば遅れるほど、危機は深刻化し、長期化する。

 安全神話は、過去の通常の、ありふれたリスクを理論の中に取り込んだだけのものであり、滅多に起こらないが、起こってしまえばシステムそのものを破壊してしまう劇的なリスクを、例外的なものとして排除したことから作り出されたものでしかなかった。

 一九八〇年代に入って、政府は公的な介入は正しいことではないとして、できるかぎり業界への介入を控えてきた。介入のなさが業者をしゃにむに儲け口に殺到させた。そして、介入を担うはずの役人が業者を最大の後ろ盾にする ]ようになった。また、理論構築の責任を担うべき学者までがこの構図にどっぷりとはめ込まれていた。

 一九九三~九九年に「国際原子力機関」(IAEA)の事務次長を務めたスイスの原子力工学専門家のブルーノ・ペロード(Bruno Pellaud)が、産經新聞のインタビューで、「福島原発事故は、東電が招いた人災である」と切り捨てた(『産經新聞』二〇一一年六月一二日付三面)。福島第一原発を氏は弾劾した。

 「東電は、少なくとも二〇年前に電源や水源の多様化、原子炉格納容器と建屋(たてや)の強化、水素爆発を防ぐための水素再結合器の設置、などを助言されていたのに、耳を貸さなかった」、「事故後の対応より事故前に東電が対策を怠ってきたことが深刻だ」。

 福島第一原発の原子炉は、GE製の沸騰型原子炉マーク一型であったが、一九七〇年代から、この型の原子炉は、水素ガス爆発の危険性が高いとの見解が出されていたと氏は指摘した。スイスもこの型の原子炉を採用していたが、当時、スイスで原発コンサルタントをしていた同氏の提言もあって、格納容器を二重にするなど強度不足を補ったという。氏は、一九九二年に、東電に対して上記のことと、排気口に放射性物質を吸収するフィルターの設置を進言した。

 しかし、東電は、「GEが何も言ってこないので、マーク一型を改良する必要はない」との姿勢であった。東電の、この頑な姿勢は、ペロード氏がIAEAの事務次長になってからも変わらなかった。

 二〇〇七年には、IAEAの会合で、福島原発の地震・津波対策が十分ではないと指摘され、その席上で、東電は「自然災害対策を強化する」と約束した。

 津波対策としては、溝を設けて送電線をそこに埋め込むという作業などが含まれるはずであった。しかし、東日本大震災で露呈したことは、東電がこのような初歩的な措置すら施していないという事実であった。既設の送電線がなかったので、東電は、震災後、慌てて臨時の送電線を引く工事をした。この工事に一週間以上も要したのである。その間、原子炉は致命的な損傷を被った。氏は、それは「理解できないことである」と断じた。

 「チェルノブイリ原発事故はソ連型事故だったが、福島原発事故は世界に目を向けなかった東電の尊大さが招いた東電型事故だ」と氏は言い切ったのである。

 危機が深刻になればなるほど、事故の情報は歪曲される。例えば、一九八六年四月のチェルノブイリ原発事故。事故の真の原因は原子炉そのものの構造的欠陥であったが、西側諸国は反原発運動の激化を恐れて、運転員の規則違反行動が事故の原因であるとしたソ連政府側の発表を黙って受け入れた。事故の真因は隠蔽され、歪曲されたのである。

 それは、客観的事実の検証とともに、作業に携わった当事者たちの意識を分析することの重要性を示している。

 岩手県宮古市姉吉(あねよし)の海抜六〇メートルの小高い丘に津波の石碑がある。そこには、「高き住居は児孫の和楽、想え惨禍の大津浪、此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれている。一八九六年の「明治三陸地震」と一九三三年の「昭和三陸地震」で、姉吉地区は激しい津波被害に遭った。「昭和三陸地震」では、海抜約四〇メートル近くまで押し寄せた大津波により、地区の生存者はわずか四人だけであった。その生存者たちが、津波到達地点より、さらに二〇メートル高い場所に石碑を建立した(http://miharablog.seesaa.net/article/194131123.html)。ちなみに、宮沢賢治も一九三三年の津波を経験している。「被害は津波によるもの最も多く海岸は実に悲惨です」と同年三月、宛先不明(詩人・大木実宛?)の葉書の下書きに記している(宮沢賢治全集』ちくま文庫、第九巻、五七三ページ)。この石碑の戒めはほとんどの日本人の脳裏からは消え去ってしまっていた。

 さて、今回のテーマである「日本的精神」について、災害との関連で説明しておきたい。「危機」を理由に「民族の一体化」を声高に示した戦前の集団心理を、私は「日本的精神」と表現したい。

 「危機」との関わりで「日本的精神」を褒めそやすことは、昔からナショナリストたちによって多用されてきたものである。今回の大災害についての渡辺利夫の次の寄稿文はその典型例にある。

 「人間は安寧な自然の中で生成したのではない。私どもは過酷な自然の中に遅れて生まれ来たる者なのである。天変地異によって、万が一、民族の半分が消滅してしまったとしても、残りの半分は自然の冷酷な仕打ちを怨(うら)みながら、しかし、生き存(ながら)えて次の世代に日本という存在を継いでいかなければならない。苦境に陥ったときほど生きて在ることをより鮮やかに確認し、生命力を漲(みなぎ)らせる民族の連綿たるを証さねばならない。強靱なる民族とはそういうものなのだろう。日露戦争の戦端が開かれたときの明治大帝の、広く知られた御製にこうある。

 しきしまのやまとこころのをゝしさはことある時ぞあらわれにける
 個々の生命体は必ず滅する。しかし死せる者の肉体と精神は遺伝子を通じて次の世代に再生し、永遠なる生命が継承されていく。その個々の生命体がすなわち民族である」(渡部利夫「三月一一日を<国民鎮魂の日>に」、『産經新聞』二〇一一年六月一〇日付、第一三面)。

 渡部は、<危機こそが民族結集の好機である>と理解している。<日本民族は、危機を幾度も乗り越えた経験のある、雄々しい遺伝子の集合体である。危機発生に際して、日本民族は結集しなければならない>。<危機は自然だけでなく、国際関係にもある。その中で、「民族」が生き延びるためにも強力な「やまと心」を日本は持たなくてはならない>。渡辺の主張はこのようにまとめることができるだろう。

 渡辺のこの主張は、戦前の「日本的精神」と重なる。「日本的精神」なるものは、つねに新たな高揚の口実を探してきた。

 その傾向は、第二次世界大戦の敗戦とともに消え去ったわけではない。中国脅威論、朝鮮共和国(北朝鮮)敵視論が、「民族」意識高揚を狙って声高に叫ばれる。脅威には、同盟国との連携が必要であるとされる。「日本的精神」高揚の手法は、戦前といささかかも変わってはいない。同盟国の相手が変化しただけである。

 韓国併合一〇〇年の二〇一〇年とその翌年の二〇一一年、日本は朝鮮半島の文化や社会を破壊したのではなく積極的に現地に貢献していたという説が臆面もなく流布されるようになった。<鉄道を敷き、鉱工業を興し、学校を建て、朝鮮の近代化に貢献した。巨大な水豊ダム建設によって、大規模な発電、巨大コンビナートを発展させた。鉄鉱石鉱山、炭鉱なども開発した。言語を奪ったどころか、朝鮮語の教科は一九三八年までは必修、一九四一年までは任意科目にした。学校では、日本語の唱歌と並んでハングルによる日本の唱歌の翻訳と朝鮮語の歌も唱歌として採用した。ハングルを普及させたのは朝鮮総督府の貢献である> (藤岡信勝「正論」、『産經新聞』二〇一〇年八月一八日付、第一三面)>との議論がその典型である。さらに、大東亜戦争擁護論が、韓国併合一〇〇周年の二〇一〇年から執拗に語られるようになった。自分たちは正しかった。米軍に敗れただけであると嘯く。そこには、日本人が東アジア大陸から締め出されてしまったことへの自省心のかけらも見られない。



 何百万人の戦死者を前にして責任を取って自決した軍部指導者は、ただ一人であった。責任の所在がつねにあいまいにされ、自らとは異質な存在を尊敬の念でもって抱え込む姿勢がなく、自らのみを中心に置く「無責任な主我主義・集団和同主義」を、私は、「日本的精神」と表現したい。この「日本的精神」が東アジアの民衆から拒絶されてきたし、いまもそうなのである。