消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.101-1 キリスト教と米資本に蹂躙されたハワイ1

2007-04-25 00:07:33 | 言霊(福井日記)
 西銘圭蔵によれば、伊波普猷は第三高等学校に入学した1900((明治33)年、京都でキリスト教に傾倒し、オルドリッチ女史のバイブルクラスに入学したと言われている。沖縄に帰郷後、メジスト教会の活動に参加したらしい。1907(明治40)年、「沖縄基督教青年会」会長を引き受けている。1913(大正2)年、自宅で「日本基督教会」の演説会を開催したりしている。

 1916(大正5)年には、比嘉賀秀(ひが・がしゅう)たちとキリスト教を信じるいくつかの会派を集めて、「沖縄組合教会」を結成した。

 
キリスト教の布教活動を、伊波はは1921(大正10)年まで、つまり、1907年から16年間続けたことになる。

 以後、伊波は、次第にキリスト教の活動から遠ざかる。蘇鉄地獄に苦しむ沖縄人の惨状の前に、経済的救済運動に着手する緊急性に気付いたからである(西銘圭蔵『伊波普猷ー国家を超えた思想』ウインかもがわ、2005年、14~15ページ)。

 1928(昭和元)年9月10日、ハワイに移民していた、かつての同士、比嘉賀秀たちが作る「在ハワイ沖縄県人会」の招きで、沖縄史を語るハワイ講演旅行に旅立った。すでに伊波52歳であった。

 ハワイでは、湧川清栄(わくかわ・せいえい)、新城銀次郎(しんじょう・ぎんじろう)、そして、ロサンゼルスで宮城與徳(みやぎ・よとく)と会っている。宮城のことは、前々回で紹介したが、共産主義活動をしている画家であった。

 ハワイは、原住民へのキリスト教布教活動が即植民地化となった典型例である。まさに、住民が天を仰いでいる間に、足下の土地をすっかり奪われてしまったのである。

 以下、日系人が、ハワイにおける社会主義運動に傾斜する必然性を説明するために、ハワイ略史を説明しておきたい(http://www.hawaii.ne.jp/info/history/index.htmによる)。

 1758年、ハワイ島ココイキにカメハメハ大王が生まれる。
 1778年1月、キャプテン・クックが、偶然、オアフ島を発見し、カウアイ島、ニイハウ島に上陸した。クックはこの地を当時の英国海軍大臣・サンドイッチに敬意を表して「サンドイッチ諸島」と命名した。
同年11月、ハワイに戻ってきたクックはマウイ島に上陸、翌年1月にはハワイ島を訪れるが、住民とのトラブルで殺されてしまった。この事件で、ハワイ諸島が西洋社会に知られることとなる。

 クック来航以前は、ハワイでは、漁業やタロイモ栽培などの農業を中心とした、完全な自給自足状態で、当時、推定で30万人の人口がいたと言われている。

 1790年、デイヴィス、ヤング両名を軍事顧問に迎え、銃と大砲を入手したカメハメハは、イアオ渓谷の戦いに勝利し、マウイ島をほぼ手中に収め、1795年には、カウアイを除くハワイ諸島の統一に成功し、王国を樹立した。1796年、首都をヒロに制定。

 外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は白檀貿易を王朝の独占事業とし、莫大な富を得て政権の基礎とした。白檀(びゃくだん、サンダルウッド)はインドや中国で家具・仏像の原木、香料の材料として珍重され、高価な価格で取り引きされていた。白檀貿易は、1810~20年代が最盛期であったが、乱獲激しく、枯渇し、間もなく貿易も衰退してしまった(http://www.legendaryhawaii.com/history/hist02.htm)。

 1802年、ラナイ島で砂糖生産が始まった。1803年、ヒロからラハイナへの遷都があった。

 白檀貿易が衰えると、今度は、捕鯨船の寄港が活発になった。これは、1810年頃から始まり、1880年代まで続いた。

 19世紀初め、日本近海でマッコウ鯨が発見され、米国の捕鯨船はここを有力な漁場とするようになった。彼らは3、4月頃にハワイに寄港して準備を整え、5月頃出航、そして9月頃に帰路、再びハワイに立ち寄る、というサイクルであった。オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナが主要な寄港地として賑わい、最盛期の19世紀半ばには、年間400隻の捕鯨船が来航していたという。

 また、捕鯨船に塩漬けの肉を売るため、塩および牛肉の生産が盛んになり、パーカー牧場などが開かれる。野菜、果物、コーヒーの生産も始まる。
 捕鯨船団への艤装と捕鯨船員の供給、等々で、当時で年間数十万ド、という大きな収入になっていたという。

 しかし、鯨もまた乱獲による枯渇、石油採掘産業の発達による鯨油需要の低迷、南北戦争勃発などの要因が重なり、捕鯨産業そのものが衰退した。
 1810年、カウアイ島、ニイハウ島も王国に併合される。
 1816年、座礁したベーリング号奪回の交渉役として派遣された船医シェーファーが会社に独断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、ワイメア河口にロシア砦を建設。カメハメハ大王との仲が険悪になるが、結局シェーファーはカウムアリイに追放される。
 1819年 ハワイ島カイルア・コナにおいてカメハメハ大王死去。大王夫人のカアフマヌがカプー(禁忌)制度を廃止。
 そして、1820年、カルビン派がキリスト教の布教を開始する。彼らは、小さな船「タデウス号」で、ボストンから苦労して、南米ホーン岬を越え、ハワイにやってきた。宣教師たちが、崇高な宗教的精神の持ち主であったことは確かであろう。しかし、結果的に、キリスト教がハワイを植民地に追いやる強力な武器となった。後に、ハワイを経済的・政治的・社会的に支配することになった人たちの出自は、牧師であった。


福井日記 No.101-2 キリスト教と米資本に蹂躙されたハワイ2

2007-04-25 00:05:10 | 言霊(福井日記)
 現在もハワイの女性の正装であるムームーは、上半身裸が普通であった往時のハワイの女性が、キリスト教的に「淫ら」だとして、宣教師が普及させたものと言われている。宣教師の薦めで、ハワイ語もアルファベット表記にされた。

 次ぎに移植された産業が、さとうきびプランテーションである。このさとうきびプランテーションがハワイを米国の植民地化にさせた主要な推進力となった。

 1835年、ウィリアム・フーパーが、カウアイ島コロアでサトウキビの事業化に成功した。さとうきびプランテーションは、広大な土地、砂糖1ポンド(重量)につき1トンもの膨大な水、そして、安価な多数の労働力が必須である。ここに、米国人による土地収奪が本格化した。
 1840年、憲法が制定され、政府ができる。
 1848年 土地私有制度、「グレートマヘレ」法が導入され、ハワイ諸島全土が国王と245人の族長に分配された。土地の私有化が開始されたのである。これが外国人による土地取得の露払いになった。マヘレとは分配の意味である。
 事実、1850年、配分された王侯貴族の土地を民間人に売ってもいいことになった。当然、資金力のある白人が土地を独占することになった。この土地が、さとうきびプランテーションとなったのである。

 1850年、ハワイ王国の首都は、マウイ島ラハイナからオアフ島ホノルルへと遷都された。

 プランテーションの拡大は、当然、低賃金労働力を必要とする。白人は、移民を導入しなければならなかった。最初、移民として中国人が導入された。

 1852年、中国福建省と広東省から初の移民受け入れを開始した。
 1863年、ニュージーランドからきたエリザベス・シンクレアが、カメハメハ4世からニイハウ島を10000ドルとピアノ1台で買い取った。

 そして、1868年、日本からも初の移民をハワイは受け入れた。移民開始の年号が明治元年なので、日本初のハワイ向け移民は、「元年者」と名付けられた。この日本初のハワイ向け移民は153名であった。ただし、この時の日本移民は不法出国であった。

 この日本人移民は、徳川幕府と移民ブローカーとの協定で募集された移民だったため、発足直後の明治新政府は、そうした移民を認めず、移民達はパスポートすらもたない、いわば非合法状態であった。1日12時間働いて月給は4ドルであった。

 1872年、カメハメハ5世の死去に伴い直系王家は途絶した。
 1874年、ルナリロ王の病死に伴い、カラカウアが第7代国王に選出される。
 そして、1876年、このカラカウア王の下で、「米国・ハワイ互恵条約」が締結された。これによって、ハワイの砂糖は無関税で米国に輸出できるようになった。さとうきび産業は飛躍的に増大し、王家を財政的に潤した。米国政府にとって重要なことは、王家を潤わすことによって、オアフ島真珠湾の軍事利用を獲得したことである。米国は、後の沖縄の軍事利用に匹敵するメリットをハワイで得たのである。

 1878年、孫文がハワイに移り住む。
 1881年、カラカウア王が日本を訪問して、天皇と会見、日本からの移民を要請した。その時、西欧諸国の政治的経済的侵略に危機感を感じていた王は、姪のカイウラニ王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王)との政略結婚によるハワイ王朝と天皇家との間の関係強化を画策したが、米国との関係悪化を懸念する日本政府は、この提案を丁重に断った。

 1885年、ハワイ王の移民要請に応えて、日本から初の「官約移民」が出される。
 1886年、「中国移民禁止法」が施行される。これに伴って日本からの移民が増加する。1900年時点で、ハワイ人口の40%を日本人が占めるようになった。

 1887年、米国人による準軍隊組織「ハワイ連盟」の威嚇の下、カラカウア王が「銃剣憲法」と呼ばれる新憲法にサインする。首謀者は、サンフォード・ドールであった。以下、ウィキペディアに依拠して、この悪質なドール一族のことを説明する。
 サンフォード・ドール(Sanford Ballard Dole、1844年4月23日 - 1926年6月9日)は、米国メイン州ノリッジウォック(Norridgewock)出身の白人プロテスタント宣教師の子供として、ホノルルに生まれた。後のハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールは従弟に当たる。ジェームズも同じく宣教師の息子としてマサチューセッツに生まれ、サンフォードを追ってハワイに移っている。

 ドールは1887年、米人系の経済人・政治家・さとうきび農場主らが結成した政治組織、「ハワイ連盟」の武装蜂起に参加した。白人市民たちからなる民兵部「ホノルル・ライフル連隊」の後ろ盾を得てカラカウア退位を迫ったハワイ連盟は、カラカウア王に退位を迫り、拒否されると、退位を強制しないが、その代わりに、内務大臣であった米国人、ロリン・A・サーストンが起草した「新憲法」(銃剣憲法)を受け入れさせた。

 この憲法はすべてのアジア系移民から一切の投票権を奪った。また投票権に収入や資産などの一定の基準を設けたため、貧しい人々は選挙権を剥奪され、一方でハワイ人エリートや富裕な米系・ヨーロッパ系移民の政治力が劇的に強まった。さらに憲法は王の権利を極小化し、枢密院や内閣の政治的影響力を高めた。

 武力を背景にしたこの「銃剣憲法」で、ハワイ王室と大多数のハワイ人は政治力を失い、白人農場主らを中心とする共和派が王国の実権を手にした。ドールはこの後に、カラカウア王によりハワイ王国最高裁判所の判事に任命されている。

 1891年、サンフランシスコに向かう途上で風邪をこじらせたカラカウア王が死去。妹のリリウオカラニが後を継ぐ。そして、サンフォード・ドールは、女王の法律顧問に就任する。威嚇の下に就任したに違いない。

 しかし、即位したリリウオカラニ女王は共和派と対立、王権を取り戻す新憲法を起案するなど王国政治は騒然となった。ドールら「共和派」は、ハワイ人たちの「王政派」勢力急伸に危機感を募らせた。

 1893年1月16日、両派の衝突で混乱する中、米国公使ジョン・L・スティーヴンスは米国海兵隊に出動を要請し、イオラニ宮殿を包囲させた。1893年1月17日には共和派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言した(「ハワイ革命」、注、なんたる傲岸な命名であることよ!)。ドールが、結局臨時政府の大統領に就任した。臨時政府は王政転覆から48時間以内に、ハワイ王国と外交関係を結んでいた諸国から合法政府として承認された。

 臨時政府は米国への併合を求めた。この時、日本政府は、珍しく日本人移民を擁護すべく、日本は海軍部隊をハワイに派遣してクーデター勢力を威嚇した。しかし、ハワイ王朝は幕を閉じた。

 同年、グロバー・クリーブランドが米国大統領に就任したが、「マニフェスト・デスティニー」はすでに終わったと考える彼は、米国の領土拡張には消極的であった。彼はハワイでのこの「革命」に不快感を示し、元下院議員ジェームズ・ヘンダーソン・ブロントにハワイ内政の調査を依頼した。

 1893年7月17日、『ブロント報告書』(Blount Report)が大統領に提出された。

 
報告書では、白人共和派が組織する「治安委員会」(Committee of Safety)が、スティーヴンス公使と共謀して米国海兵隊をハワイに上陸させ、リリウオカラニ女王を武力で排除し、治安委員会メンバーからなるハワイ臨時政府を樹立する陰謀を進めていたことが、述べられていた。

 この報告を基にクリーブランド大統領はスティーブンス公使を更迭した。新公使アルバート・ウィリスはリリウオカラニの復位と立憲君主制の確立、および女王による治安委員会メンバーの恩赦を求め、ドールらには臨時政府解散を求めた。

 しかし、1893年、11月16日、ウィリス公使との会合でリリウオカラニは、恩赦を拒否し、革命参加者への極刑を要求した。しかし、リリウオカラニは、1893年、12月18日のウィリス公使との会合では、考えを変えて、革命首謀者サンフォード・ドールとロリン・A・サーストンに対する処刑を取りやめた。臨時政府は12月23日、ウィリス公使からクリーブランド大統領の提案を示された。リリウオカラニの復位の提案であった。しかし、臨時政府はこれを拒否した。

 そして、ハワイ問題は米国上院に審議が戻され、上院議員ジョン・テイラー・モーガンが新たに調査報告を依頼された。彼の1894年2月26日の報告書(『モーガン報告書』、Morgan Report)、『ブロント報告書』とは対照的な内容だった。「革命」は現地の米国人が長年の王国の腐敗の結果起こした地元の問題であり、米国政府は関係がなく、海兵隊は米国民やその資産を守るためにのみ出動し、王政廃止には何の役割も果たさなかったと結論付けた。

 臨時政府は、制憲議会を開き、1894年7月4日に「ハワイ共和国」樹立を宣言した。なんと、米国独立記念日を簒奪政権自立記念日にしたのである。

  これは、メキシコから領土を奪った「アラモ砦」以来の米国の「民主主義の伝道者」の伝統であり、いまなおアフガニスタンで、イラクで起こし、そして、イランにも波及させようとする帝国主義的「民主主義の輸出」という悪行の共通項である。米国史を貫く、忌まわしい「ならず者国家」の悪しき伝統である。

 ドールは、1894年から1900年までの間、ハワイ共和国初代にして最後の大統領を務めた。この間、ドールは、サーストンに、ワシントンD.C.でハワイ併合のためのロビー活動を行うよう任せた。

 ドール政権は王政復古の試みによって幾度も危機に直面した。その最大のものは銃剣憲法制定後にも、たびたび反乱を起こした、先住ハワイ人の、ハワイ軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックスらが加わった王政派による1895年1月6日の武力蜂起であった。

 しかし、王政派は速やかに鎮圧され、1月16日にはリリウオカラニが多くの銃器を貯蔵していたとして反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。
 ウィルコックスら反乱首謀者らは内乱罪で死刑を求刑されたが、ドールは彼らに対する刑を減刑した。しかし、1月22日、約200人の命と引き換えにリリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は滅亡した。

 ドールは外交面でも成功した。ハワイ王国を承認していた国は結局すべてハワイ共和国を承認した。ウィリアム・マッキンリー大統領は、ドールに対し、ハワイ併合の暁には「ハワイ準州」の最初の知事に任命すると約束した。

 1896年 法律61号が布告され、ワイキキの土地使用権が白人投資家に渡り、リゾート開発が始まった。

 ウィリアム・マッキンリー大統領は、ドールに対し、ハワイ併合の暁には「ハワイ準州」の最初の知事に任命すると約束した。

 1898年7月4日(嗚呼!ここでもまた米国独立記念日に!)、米国下院はハワイ共和国併合とハワイ準州の設立を定めた「ニューランズ決議」(Newlands Resolution)を採択、7月7日にはマッキンリー大統領が署名した。8月12日にはハワイ編入が宣言され、ハワイ王国の国旗が降ろされ、星条旗が掲揚された。

 1900年4月30日の「ハワイ基本法」(Hawaiian Organic Act)で準州に政府が成立すると、ドールは準州知事となった。

 実質的には、ハワイは、従弟のジェームズ・ドールを代表とする、さとうきび農園主およびビッグ・ファイブ(5大財閥、Castle & Cooke、C.Brewer、Alexander & Baldwin、Theo Davies & Co.、Am Fac)に支配されることになる。
1901年、従弟の、ジェームズ・ドールがオアフ島ワヒアワでハワイアン・パイナップル社を設立。労働力確保のために1900年にプエルト・リコ、1903年に韓国、1907~31年にフィリピンから契約労働者が到着。そのほとんどがそのままハワイに住みついた。
 同年、W.C.ピーコックがワイキキにモアナ・ホテルを建設する。 
 1903年、サンフォード・ドールは、連邦地裁判事の任命を受けるため辞任した。彼は判事職を1915年まで務めた。。
 1921年 、ワイキキ環境整備プロジェクトが始まり、ワイキキ、アラモアナ、マッカリー地区の湿地帯が埋め立てられる。 
 1922年、ジェームズ・ドールがラナイ島のほぼ全域を買い取った。。 
 1925年、サンフランシスコ、ロサンゼルスとを4日半で結ぶ650人乗りの定期観光客船“マロロ号”が就航する。 
 1926年、アロハタワーが完成。この年、、サンフォード・ドールが、卒中で死去した。
 1927年、ロイヤル・ハワイアン・ホテルができる。 
 1928年、リゾート用地確保のために始められたワイキキの水田や養魚池の埋め立てが完了し、地価が30倍以上に跳ね上がる。 
 1941年、太平洋戦争勃発。真珠湾が日本機動部隊の奇襲を受け、3435名の死傷者、戦艦8隻ならびに大型艦船10隻が沈没ないし大破、航空機188機が破壊される。

 ハワイの日系人は、日本人会会長や僧侶など、日本人社会を代表する一部の人々を除き収容所に収容されなかった。これは当時、ハワイが正式な州でなかったこと、米国本土から離れていること、そして何より、当時の人口の4割程度を占める日系人を強制収容すれば、ハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという事実が影響したようである。それでも、約1000人の日本人が米国本土の強制収容所に送られた。

 そうしたこともあってか、ハワイで生まれ育ち、米国の市民権をもつ日系の若者の多くは、自ら進んで志願兵となることで、米国に対する忠誠心を示そうとした。
 1943年、ハワイ在住日系人のみで構成された第100大隊が北アフリカ戦線に投入され、その後イタリア戦にも参加する。この大隊が目覚ましい戦果を挙げたため、メインランド在住の日系人と合流して、第442連隊が編成された。同部隊の死傷率は、米国陸軍平均値の3倍であり、パープル・ハート(陸軍における最高位の戦傷章)をもっとも多く受勲している。
 
 1959年、米国の50番目の州となる。 
 ハワイや、ロサンゼルスの日系人たちの中で、沖縄出身者たちが、米国の共産主義運動に傾斜したことの意味は限りなく重い。伊波普猷が、ハワイにおける沖縄出身者の境遇に沖縄の置かれていた現実を投影させたのも、むべなるかなである。

福井日記 No.100 伊波普猷のマルチチュード論

2007-04-24 23:02:46 | 言霊(福井日記)

  河上肇が訪琉したのは、1911年4月1日~4月8日であった。この時、伊波普猷は、各部族の祖先神が階層化されるとした河上と意見を同じくしたことに驚き、以降、2人は思想的に共鳴し合うようになった。政祭一致とは統一した権力者が、宗教をも統一してしまい、そこにも階層性を施くことであるという認識で2人は一致した。


  伊波普猷は、初対面後、河上肇の「崇神天皇の朝神宮皇居の別新たに起こりし事実を以て国家統一の一大時期を画すものなりといふの私見」(『京都法学会雑誌』第6巻1号、明治44年1月)を読み、自分の尚真王による政治・宗教的統一論と同じであることに驚く。


 「之を読んで、私はこの論文が私の尚真王時代の研究と同一筆法であることを見て驚いた」(『古琉球の政治』(沖縄公論社、1911年11月刊)、『伊波普猷全集・第1巻』平凡社、1974年、423ページ)。


 そして、1917年、河上肇から『貧乏物語』を贈られる。比嘉美津子によれば、このことについて次のように書いている。


 「伊波先生と河上博士の交流は大変親密で、世間的にもよく知られていることだが、思い起こせば、中野塔の山の伊波家の書斎に、河上博士の有名な著書『貧乏物語』2冊は赤い表紙で、ひときわ目立って先生のテーブルの真ん前で目の高さ位に並んでいた」(比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ社、1997年、120ページ)。


 「昭和18年10月には、伊波先生は京都の河上博士を訪ねておられる。『まるで兄弟のように話し合って来たよ』と、お顔を紅潮させて話された。また、その頃は戦時体制に入り、東京では物資も配給制度になり、角砂糖1個も貴重な食物であったが、沖縄から送ってきた黒砂糖やチッパン(桔餅、きっぱん)を、そのまま小包の表だけを書き換えて、河上家に郵送された話も先生からお聞きしたが、その時の先生の目はうるんでいた。・・・あの狭い伊波家の書斎にあった、赤い表紙の『貧乏物語』は、伊波先生と河上博士の友情を物語っていたのではないだろうか」(同、122ページ)。


 1933年に投獄され、1937年出獄した後、蟄居させられていた河上を訪問したり、1944年に自己の発禁論文(後述する)を河上に送ったことからも、伊波の河上への傾倒ぶりを示すものであろう(伊波の河上への手紙、『伊波普猷全集・第10巻』平凡社、1976年、481ページ)。



 
  伊波は、1947年7月、最後の著作になった『沖縄歴史物語』を書き終えた。この本は、その年の11月に沖縄青年同盟中央事務局から刊行されたが、書き終えた直後の8月13日、比嘉春潮宅で脳溢血で、伊波は、急死している。自著の刊行を見ることもなかった。


 戦争に負けた日本は沖縄の帰属問題を講話会議の決定に従うしかないだろう。沖縄は自分の運命を自分で決定できない。伝統ですら他の伝統にすげかえられてしまう(本山注、私のブログの「消された伝統の復権」のモチーフである)。すべては、占領軍の意志に沖縄人は従うしかないとの絶望感を述べた後、彼は、次のように書いた。


 「ここにはただ地球上で帝国主義が終わりを告げる時、沖縄人は『にが世』から解放されて、『あま世』を楽しみ十分に個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、との一言を付記して筆を措く」(『伊波普猷全集・第2巻』平凡社、1974年、370ページ)。


 じつは、同じような主張が、16年前にも打ち出されていた。


 「彼等(注、ハワイの日系市民)に幾分前途があるとしたら、それは米国自身の資本主義の崩壊する秋(とき)でなければならぬ」(「布哇産業史の裏面」1931年、『伊波普猷全集・第11巻』平凡社、1976年、370ページ)。 


  「帝国主義」、「米国の資本主義」という言葉が出されたこと、しかも、治安維持法(1925年発効)という恐怖の社会主義者摘発法が猛威を振るっていた1931年に書かれたこと、戦時下の1943年に蟄居していた河上肇に会いに行ったことは、伊波に与えた河上肇の影響力がいかに大きかったかを示すものである。


  上記「布哇産業史の裏面」の論文については、後述するが、同じ年に発表された「布哇物語」と並んで、当時としては、完全に治安維持法にひっかるものであった。この2つの論文は、論壇雑誌ではなく、エログロ・ナンセンスと言われた大衆誌に発表されたものである。エログロナンセンス誌に堅い論文を紛れ込ませば、検閲当局も摘発はできまいと伊波は思ったのだろう。


 「裏面」は『犯罪公論』(第2巻1号、1931年)、「物語」は『犯罪科学』(別巻第2巻8号、1931年)に掲載予定であったものである。


 
まさかこんなに「低級」(?)な雑誌に、硬派の論文が掲載されるはずがないと検閲当局が思うであろうとの伊波の思惑にもかかわらず、伊波論文を紛れ込ませた2つの掲載誌は発禁処分を受けてしまった。


 したがって、これら2つの論文が世間の目に触れることはなかった。このために、『伊波普猷全集』(平凡社)編纂時(1974~76年)でもその存在を気づかなかった。編集の最後の最後の段階になって、岸秋正氏から資料提供の申し出があり、最終巻(第11巻)の掲載に間に合ったという代物である(西銘圭蔵『伊波普猷―国家を超えた思想』ウインかもがわ、2005年、22~23ページ。沖縄タイムズ『人間・普猷・思索の流れと啓蒙家の夢』(同社、1999年、94ページ)。


 1944年の上記の河上宛伊波の手紙を紹介しておこう。
 「当時の見聞記の一部『布哇物語』をご高覧に供したい気持ちになりました。この稿は昭和6年7月発行の犯罪科学別巻に出したものですが該誌が発禁になった為に何人の目にも触れなかったものです。御覧済みになりましたら後返戻し下さるようお願いします(前掲ページ)。


 同じ文面の中に、これも原稿が戻ってこず、発表もされなかった、『南島に於ける国家意識の夜明け前』のことにも触れ、次のように述べている。




 「結論は所謂日本精神に触れ植民政策に言及した為に出して貰えず・・・」(同)。


 「裏面」は、ハワイの労働者がいかに搾取されているかを紹介し、流布されているハワイの「楽園」を告発したものである。


 「資本家はもとより、学者・宗教家・教育家も、この状態をみて、布哇を平和の仙郷だと称し、『太平洋の楽園』だともいっている」(『伊波普猷全集・第11巻』平凡社、1976年、368ページ)。



 伊波普猷もまた、河上肇と同じく、今風の言葉でいうマルチチュード論をもっていた。


 「吾々沖縄青年の日本国におけるも亦(また)実(じつ)に神意のユニークネスの実現である。天は沖縄人ならざる他の人によりては決して自己を発言せざる所を沖縄人によりて発言するのである。こう思って生存すれば沖縄人も亦生き甲斐があるのである。国家主義の人は能く統一々々というがその所謂統一なるものは或いは一部の人が持っている特質のみを保存してそれに異なったものは片端から無くしてしまうは余り感心出来ぬ」(「伊波文学士の談」、1909年、『伊波普猷全集・第10巻』平凡社、1976年、336ページ)。


 伊波は、欧米漫遊の後、ホノルルに立ち寄って行った憲政会代議士・田中武雄の演説を紹介している。それは次のようなものであった。


 「布哇にきた宣教師たちは、カナカ民族に向かって、天の神様を仰げと説き、彼等が天を仰いでいる間に、下の方からこっそり地面を取り上げてしまった」(「布哇産業史の裏面」、1931年、『伊波普猷全集・第11巻』平凡社、1976年、450ページ)。


 定職もなく、わずかの原稿料で糊口をしのぐ、どん底の貧困生活にありながら、なおも貧しき者への愛を貫いた在野の学者。これほど私たちを勇気づけてくれる人は滅多にいるものではない。 


福井日記 No.99 沖縄の「アメ亡組」

2007-04-23 18:22:41 | 言霊(福井日記)
 一橋大学加藤哲郎氏は、労働者国家のソ連に憧れて、その地に入った共産主義者たちが、スターリン粛正にあって抹殺されたという絶望の軌跡を追う仕事をされている政治学者である。

  同氏は、沖縄出身の共産主義者たちを襲った悲劇にも暖かい眼差しを注いでいる。

  以下、同氏の『沖縄を知る事典』(日外アソシエーツ、2000年)、『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)等々に導かれて、沖縄の共産主義者たちの悲劇を追体験したい。

 日本の辺境に組み込まれた沖縄は、食べ物がなく、蘇鉄の実を食べてその毒で多くの人が死んでいった。それを「蘇鉄地獄」という。沖縄では、本土に比べて農村の過剰人口対策があまりにも希薄であった。島人は、低賃金労働力として島外に出るしかなかった。

 「ここに、『ソテツ地獄期』のすさまじい労働力流出が必然化されたのである」(冨山一郎『近代日本社会と「沖縄人」』、日本経済評論社、1990年、101ページ)。
 米国、南米に多くの沖縄人が移民した。加藤氏によれば、カリフォルニアの日系移民には沖縄出身者が多く、戦前はプランテーション労働から入って一流庭師やクリーニング屋になるのが成功例であった。新天地を求めて米国に渡ったのだが、人種差別が強かった米国では、いつまでたっても底辺から這い上がれなかった。そこで西海岸の労働運動や共産主義に近づいた沖縄人が多数出てきた(『月刊百科』平凡社、1995年7月号における加藤氏のインタビュー記事より)。

 しかし、ロサンゼルス郊外のロングビーチで、1931年末、失業者集会・飢餓行進を組織した米国共産党が官憲に襲撃された。100人以上が逮捕され45名が起訴された。その中に9名の日本人移民が含まれ、内5名は沖縄本島出身の在米沖縄青年会活動家であった。又吉淳、宮城與三郎(與徳の従兄、與徳はロサンゼルスで伊波普猷と会っている、次回で後述する)、照屋忠盛、山城次郎、島正栄で、彼らは国外追放になり、同様の事件で先にソ連に渡った米国共産党日本語部指導者健持貞一らにならい、ニューヨークから船に乗り、ドイツ経由で「労働者の祖国」ソ連へと亡命した。
 
  治安維持法のある日本に帰国すれば逮捕されることを恐れたこともあったろうが、なによりも、「労働者の祖国」といった幻想に捕らわれていたことの方が大きかったのだろう。

 彼らは、旧ソ連在住日本人の中で「アメ亡組」と称されていた。クートベ(東洋勤労者共産主義大学)に学んだ後、野坂参三や山本懸蔵の指導下で東洋大学の日本語教師や外国労働者出版所に職を得る。いわば初めてまともな労働者、まともな日本人として扱われるはずであった。

 しかし、彼らの消息はソ連亡命後に途絶え、戦後も手がかりがなかった。ところが1991年ソ連崩壊により、かなりの事実が明らかになった。「アメ亡組全員がスターリン粛清最盛期に「日本のスパイ」として逮捕され、銃殺・強制収容所送りとなっていたのである。

 1930年代後半のソ連では、日本人であるというだけでスパイ扱いされた。野坂参三さえスパイと疑われる状況下で、一網打尽に粛清された。旧ソ連秘密警察(KGB)文書によると、沖縄出身の5人も1938年3月15日に照屋、同22日に宮城・又吉・山城・島が「日本のスパイ」として逮捕され、5月29日に又吉・山城・島、10月2日に宮城が銃殺された。強制自白を拒んで無実を主張し続けた照屋も、39年11月に5年の強制労働刑に処されて後、行方不明となった。

 これら粛清裁判は1989年に過去に遡って無効とされ、又吉・宮城・山城・島は名誉回復された。しかし遺族に事実が伝えられたのは、91年のマスコミ報道によってであった。照屋については名誉回復も確認できない。

 希望を持って海外に雄飛した沖縄人が、日本・米・ソ連という国民国家に差別され裏切られ、時代の波に翻弄された悲劇であった(前掲、『沖縄を知る事典』、http://homepage3.nifty.com/katote/longbeech.html)。

 このロングビーチ事件については、『北米沖縄人史』(北米沖縄クラブ、1981)、比屋根照夫「羅府の時代」『新沖縄文学』89-95号、1991-93年)がある。

 スターリンによって粛正されたのではないが、日本の官憲によって事実上、殺された宮城與徳についても紹介しておきたい。

 宮城與徳(みやぎ・よとく、1903(明治36)年~1943(昭和18)年)は、沖縄本島の名護出身であり、近所には徳田球一が住んでいた。また、球一の弟、正次が與徳の小学校時代の同級生であった。沖縄県立師範学校に入学したが、病気で退学した。家は貧しく、宮城家も生活のために父や、兄の與整、従兄の與三郎らは渡米し生計をたてていた。1919(大正8)年、兄・與整の招きで與徳もまた米国に渡った。渡米後はカリフォルニア州立美術学校やサンディエゴ美術学校に学び、1925年には沖縄県における良心的兵役拒否者の先駆けである屋部憲伝らとともに「社会問題研究会」(後の黎明会)を結成、共産主義へと傾斜して行った。この頃プロレタリア芸術会の機関誌『プロレタリア芸術』の発行にも協力した。

 1931(昭和6)年、米国共産党日本部に入党、1933年に帰国した。そして、尾崎秀実、ゾルゲと接触した。しかし、1941年10月、「ゾルゲ事件で検挙され、未決勾留中に巣鴨刑務所で結核のため獄死した。

 その遺骨は一度沖縄に渡り、宮城家の墓所に埋葬されたのだが、国賊として戸籍は抹消された。事件後、遺族は、白眼視され、ついに與徳の遺骨とともに渡米した。戦後、ゾルゲの名誉が回復されると、この事件に連座した人々の活動も見直されることとなった。與徳の遺骨は分骨され再び日本に戻り、同志ゾルゲとともに眠ることとなった。

 尾崎秀実は裁判中に与徳の死を告げられるが、その事について妻子に宛てた書簡で次のように述べている。

 「ここの生活は彼の健康では堪えられなかったのでしょう。彼は実にいい男でした。彼の絵は一般受けはしませんでしょうが、一種の魅力を持っていました。色彩が特異なもので、それにどの絵も独特の淋しさを持っていることが感じられます。全く天涯の孤客で、郷里の沖縄から誰も遺骸引取りに来なかったそうです。家にある絵を大事にして下さい」(尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』青木書店、1998年)

 遺骨の引き取りがすすぐにできなかったのは、遺族が忌避したからではない。東京に出る金がなかったのである。與徳の叔母の証言によると、この頃は家の経済的な事情で遺骨受け取りがかなわなかったという。尾崎秀実の娘は、與徳から絵の指導を受けていた。 

 ゾルゲの墓域には、正面自然石に「リヒアルト・ゾルゲ」と刻み、その上に黒御影石が乗り、ロシア語でゾルゲの名と日本語で妻石井花子の名が刻まれている。右側にはゾルゲの略歴が刻む墓誌、左側に「ゾルゲとその同志たち」11名の名が刻まれた墓誌碑が建っている。

  11名とは、リヒアルト,ゾルゲ(1944年11月7日刑死、巣鴨)、河村好雄(1942年12月15日獄死、巣鴨)、宮城興徳(1943年8月2日獄死、巣鴨)、尾崎秀実(1944年11月7日刑死、巣鴨)、フランコ・ヴケリッチ(1945年1月13日獄死、網走)、北林とも (1945年2月9日、釈放の2日後死)、船越寿雄(1945年2月27日獄死)、水野成(1945年3月22日獄死、仙台)、田口右源太(1970年4月4日歿)、九津見房子(1980年7月15日歿)、川合貞吉(1991年7月31日歿)である。

 碑の裏面には、獄死した宮城與徳の兄、與整の句が刻まれている。
 「ふた昔 過ぎて花咲く わが與徳 多磨のはらから さぞや迎えん」(http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/miyagi_y.html

  地理的にも、生活面でも、辺境から辺境に追いやられた一群の人たち。私は彼らをマルチチュードと名付けたい。彼らこそ、社会変革の巨大なエネルギーを保有している人たちである。現在、世界のマルチチュードは、おそらく数億人はいるだろう。

福井日記 No.98 河上肇のマルチチュード論

2007-04-22 01:29:00 | 言霊(福井日記)
 マルチチュード論が一時期、一世を風靡した。例によって例のごとく、翻訳文化の域をでない日本の思想界は、外国語を晦渋な言葉に翻訳し、言葉遊びをしながら、マルチチュチュード論の日本化をはたせないまま、一瞬で消える旧いファッションとして、新しい話題を探し求めている。

 私は、故郷を喪失した無名の人たちの菊の根をマルチチュードと定義したい。

 
往々にして、彼らは外国人であり、住む場所に違和感を覚える人たちである。そうした一群の人たちが新しい社会を創造する力をもつと、私は信じている


 私が務めていた京大経済学部は河上肇を追放した。河上肇は、マルチチュードという言葉こそ創造しなかったものの、日本におけるマルチチュード論の草分けである。

 京都大学関係者は、いまも盛大に行われている「河上祭」によって、河上肇のことをよく知っているが(ただ、昔の京都大学の雰囲気が急速に消え去ろうとしているので、最近の学生やスタッフは河上のことを知らない可能性が高まってきたのかも知れない)、ご存じない方も多いと思われるので、『ウィキペディア』によって紹介しよう。

 河上肇(かわかみ・はじめ、1879(明治12)~1946(昭和21)年)は、山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。山口尋常中学校(現山口県立山口高等学校)、山口高等学校文科(現山口大学)を卒業し、東京帝国大学法学部政治科に入学。

 足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた。1902(明治35)年、大学を卒業。その後、東京大学農科大学(現在の農学部に相当)講師などになり、読売新聞に経済記事を執筆。1905年(明治38)、教職を辞し、無我愛を主張する「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、読売新聞社に入る。性格は猪突猛進型であったらしい。

 1908(明治41)年、京都帝国大学の講師となって以後は、研究生活を送る。1913(大正2)~15(大正4)年にかけて2年間のヨーロッパ留学。帰国後、教授。1916(大正4)年から『大阪朝日新聞』に『貧乏物語を連載し、翌年出版。弘文堂が発行元である。東京で活躍している同社は、もともと、京都の出版社であった。私も、この出版社の事典に執筆している。同社のアテネ文庫は超人気をはくした。

 デモクラシーの風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだこの書は、ベストセラーになった。全体の主張は「金持ちは贅沢を止めよ」といった倫理的な教訓であった。



 その後、マルクス経済学の研究を進める。1921(大正10)年、河上の論文「断片」を掲載した雑誌『改造は発売禁止となるが、この論文は、後に、虎の門事件を起こす難波大助に影響を与えたという。1922年、櫛田民蔵が河上のマルクス主義解釈に対して、痛烈に批判した。河上はその批判を甘受した。河上のすごさは、自らの理解の浅薄さを認めたところにある。

 発奮した河上は、『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。1928年(昭和3)、京都帝大を辞職し、大山郁夫の下、労働農民党の結成に参加。1930(昭和5)年、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。これは、改造社から1930(昭和5)年に出版された。

 1932(昭和7)年、日本共産党の地下運動に入る。1933(昭和8)年、中野区で検挙され、治安維持法違反で小菅監獄に収監される。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、曹操や陸游の詩に親しんだ。この成果は出獄後にまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる(河上肇『陸放翁鑑賞、上・下』三一書房、1949年、『河上肇全集』第20卷、岩波書店、1982年、一海知義校訂『陸放翁鑑賞』岩波書店、2004に再録)。

  1937年(昭和12)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。1941年京都に転居。第二次世界大戦終戦後、活動への復帰を予定したが、1946年に逝去。1947年、『自叙伝』(世界評論社)が刊行される。岩波書店から『河上肇全集』が出版されている(全36 巻、1982∼1986 年)。

 私は、歌人、河上肇をこよなく愛する。戦争の屈服が放送された日の河上肇の歌。 

 「あなうれしともかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ」。

 共産党に入党した時の歌。

 「多度利津伎布理加幣里美禮者山河遠古依天波越而来都流毛野哉」(辿りつき振り返り見れば山河を越えては越えて来つるもの哉)。

  これは漢詩ではなく、万葉仮名の積もりである。当局の眼に触れられたくなかったのであろう。正しい仮名の使い方かどうかは私には判定できない。

 河上はすでに32歳の若さで、経済学と宗教学とを結びつけようとしていた。

 古代の日本人の祖先崇拝は、死後の生活も生前の生活を踏襲するものとして、生前の生活用具を死者とともに埋葬したことに現れている。そして、古代人たちは、彼らの生活環境が、祖先の神意によって決定されると受け取っていた。氏神を護ることが共同体維持の最重要の行為になっていた。古代天皇制はこうした祖先崇拝から成立した。等々の説明を行った後、河上は、次のように書いている。当時においては、

 「政治は即ち祭事たり、祭事は即ち政治たり。此の如くにして所謂政教一致の国家あり」(『京都法学会雑誌』第6巻第1号、1911年、141ページ)。

 それぞれに氏族が氏神をもつ。支配した氏族が自己の氏神を支配下の氏族に押し付ける。しかし、支配する側も、支配される側も、旧来の氏神は消滅しない。氏神に階層性ができる。

 「故に共同の神を生じたる後においても猶、その下には幾多の封鎖的宗教団体を存し、各種族各氏族は共同の神の外に各種族各氏族皆それぞれの神を有すること、例えば政治上において国王の下に大氏の氏上あり、大氏の氏上の下に小上の氏上ありたることその趣全く同じ」(同、144ページ)。

 いまでこそ、当たり前の考え方だが、皇国史観全盛時代に、この種の発言をあえてした河上の勇気は相当に強靱なものである。

 祭政一致を完成させたのは、第10代崇神天皇である。だからこそ、この天皇は、「御肇国天皇」(はつくにしらす・すめらみこと)、つまり、日本に国を作り出した最初の天皇と称されていたのである(『日本書紀』の記述)。

 この考え方を発表した河上肇は、同年、那覇を訪れた。そこで、いわゆる「舌禍事件」を起こし、体制側の大憤激を買う。

 その時の河上は、京大助教授であった。近代資本主義は土地の私有制を根幹としているが、この土地私有化のプロセスは、当時、沖縄に残っていた「地割(ちわり)制度」を調べると分かるのではないかと現地調査にきたのである。これもすごいことである。彼は、ドイツ語文献によるマルクス主義だけを摂取しようとしたのではなかった。河上は、もっとも重要な土地慣行調査を実行したのである。これは、当時の学問状況からは画期的なことであった。

 地割制度とは、税の負担を村単位の連帯責任として科していた制度である。以前に紹介した「間切り」(まぎり)はこの単位を確定したものであった。 

 沖縄国際大学文学部の仲地哲夫氏の紹介によれば、沖縄の地割制度に関する調査は、仲吉朝助(1867∼1926年)を嚆矢(こうし)とする。仲吉朝助は、大田朝敷(1865∼1938年)や謝花昇(1865∼1908年)と同時代の人物である。東京帝国大学農科大学実科卒後、帰県して島尻郡役所に務め、後、沖縄県属、農商務課長、そして、1905(明治38)年、辞して沖縄県農工銀行頭取となった。東大農学科ということで河上肇との接点があった可能性がある。著作も多い。

 仲吉朝助には多数の著書・論文がある。『杣山制度論』は、1900年脱稿していたが、発行されたのは1904年であった。1906年4月、『琉球新報』に「沖縄県土地整理前に於ける地割制度」を連載し、1907年11月、『琉球新報』や『砂糖月報』に発表した論稿と国頭農学校での講義ノートをまとめて『沖縄県糖業論』として発表している。なお、遺稿「琉球の地割制度」『史学雑誌』に掲載されたのは、1928年のことであった。琉球の土地制度の研究をはじめとして、沖縄における社会経済史の研究の礎を築いた功績はきわめて大きい。仲吉朝助編の『琉球産業制度資料』は第一級の作品である。

 これを柳田國男から借りた比嘉春潮は、1952年10月から翌年2月にかけて、『沖縄文化』誌上に「具志頭間切御手入」と題する論文を発表し、1959年6月には『日本の民族・文化』に「地割制度」と題する論文を発表している。

 琉球の土地制度・地割制度に関する研究は、1950年代以降、地道に行われてきた。その成果のほとんどは「琉球産業制度資料」を駆使して得られたものである(http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1132580/1/mokuji/3301.pdf)。
 河上肇の着想がいかに優れていたものであるかが、以上の紹介で分かるだろう。

 伊波普猷と関係の深い比嘉春潮についても紹介しておこう。
 比嘉春潮(1883(明治16)年~1977(昭和52)年、94歳の長寿)は、西原町に生まれた。本名は春朝。南風原小学校の教員を振り出しに、官職に就く。1918(大正7)年、那覇区松山小学校長から『沖縄毎日新聞』、『沖縄朝日新聞』の記者となる。だが、翌年に沖縄県庁に入る。

 キリスト教からトルストイズムに転向。河上肇の沖縄講演で社会主義への関心を抱く。1921(大正10)年、官憲から追われて、本土から沖縄に潜入したアナーキストを逃がすために、比嘉は、その人を宮古島に送る。その船上で柳田國男と出会う。その後、県庁を辞めて上京、改造社出版部員となる。そして柳田に師事、民俗研究を続ける。

 その一方で、大正末年から昭和初期にかけて、無産者運動を側面から援助し、沖縄県出身の共産党員と交流した。また、プロレタリア・エスペラント運動にも参加。比嘉春潮は、新宿柏木の自宅を開放して、プロレタリア・エスペラント研究会を続けていた。この研究会は有名で「柏木ロンド」と呼ばれ、特異な存在だった。伊波普猷がそれに協力した。

 彼の顕彰碑の碑文には、生い立ち、人柄、業績などが書かれているが、エスペランチストとしての活躍は記録されていない。そして「ここにふるさとを愛した篤学・反骨の研究者・比嘉春潮の遺徳を称え、功績を後世に伝えるためにこの碑を建立します」と、日本語と英語の文章が刻まれている(http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kaizu20020521.html)。

 地割制度と関連させて、西銘圭蔵氏が古い沖縄の婚姻制度の因習を説明されておられる(同氏、『伊波普猷―国家を超えた思想』ウィンかもがわ、2005年、59~60ページ)。

 村全体で税負担が決められていたが、その総額は、村民の人数とはほとんど関係なかった。この制度下で、村の娘が結婚のために村の外に出て行ってしまうと、それだけ生産力が落ちることになる。そのために、村外の男が、村の娘を村外に連れ出して結婚することは、村人によって極力妨害された。娘を連れ出そうとする村外の男は、偽馬(木馬)に縛り付けられて、村中引きずり回され、大量の酒を無理矢理飲まされ、正体不明にさせられるという、陰湿ないじめがあった。そうした事態を回避するには、結婚したい村外の男は、相当の金額を村に寄進しなければならなかった。この金は、馬にかかわる費用を賠償しますという意味で、「馬手間」(うまてま)と呼ばれていた。こうした陰湿な結婚妨害は、地割制度のなかった宮古島。石垣島には見られなかった。地割制度がある沖縄本島以北に、馬手間は、あったのである。

 さて、河上肇が舌禍事件を起こしたのは、1911(明治44)年4月3日のことであった。地割制度の調査にきた河上肇に、沖縄県当局は講演を依頼した。

 この講演は素晴らしいものであった。現代人なら、拍手していたであろう。しかし、当時の沖縄県当局と『琉球新報』が激怒した。

 長くなるが、素晴らしい文章なので、そのまま転載する。
 「余倩ら沖縄を観察するに、沖縄は言葉、風俗、習俗、信仰、思想、その他あらゆる点に於いて内地と其の歴史を異にするが如し。而して或いは本県人を以て忠君愛国の思想に乏しと云ふ。然れどもこは決して嘆ずるべきにあらず。余は之なるが為に却って沖縄人に期待する所多大なると同時に又最も興味多く感ずるものなり。・・・今日の如く世界に於いて最も国家心の盛なる日本の一部に於いて国家心の多少薄弱なる地方の存するは最も興味あることに属す。如何となれば過去の歴史に就いて見るに、時代を支配する偉人は多くは国家的結合の薄弱なる所より生ずるの例にて、基督の猶太に於ける、釈迦の印度に於ける、何れも亡国が生み出したる千古の偉人にあらずや。若し猶太印度にして亡国にあらずんば彼者は遂に生まれざるなり。故に仮令ひ本県に忠君愛国の思想は薄弱なりとするも、現に新人物を要する新時代に於いては、余は本県人士の中より他日新時代を支配する偉大な豪傑の起こらん事を深く期待し、且つ之に対し特に多大な興味を感ぜずんばあらざるなり」(比屋根照夫『近代日本と伊波普猷』三一書房、1981年、74~75ページ)。

 県令や、『琉球新報』は、これに激怒した。賢明によき日本人たらんと努力している沖縄県民を、河上が、揶揄したというのである。

 もしかして、私が座った机に、私が立った教壇に、河上肇が座り、立ったのかも知れない。そうした思いが、私の心に灯をともしてくれている。マルチチュード論の先駆けが、河上によって行われていたことを、私は、迫り来る禍に怯えながらも、誇りに思う。

福井日記 No.97 伊波普猷の泉 

2007-04-21 01:24:03 | 言霊(福井日記)
 「汝の立つ所を深く掘れそこには泉あり」。

 ニーチェのこの箴言を伊波は座右の銘としたという(比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ社、1997年、98ページ)。



 比嘉美津子が冬子を頼って上京したのは、昭和6年12月であった。当時の伊波の住所は東京市小石川区戸崎町であった。戸崎町は、徳永直の『太陽のない町』のモデルになった町で、当時、印刷会社がひしめいていた。伊波普猷の借家もその一角にあり、美津子は印刷機の音のことも描写している。

 ここで、早々と横道に逸れる。ご容赦。

 徳永直(とくなが・すなお、1899(明治32)年~1958(昭和32)年)は、熊本県飽託郡花園村(現熊本市)に、貧しい小作人の長男として生まれた。小学校卒業前から、印刷工・文選工など職を転々とし、一時夜学に通うも中退、その後勤めた熊本煙草専売局での経験から労働運動に身を投じ、1920年に熊本印刷労働組合創立に参加する。同時期、新人会熊本支部にも加わり、林房雄らと知り合う。1922年山川均を頼って上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。この頃から小説を書き始め、1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。まるで、彼はプルードンである。



 1929年、この時の体験を基にした長編「太陽のない町」を『戦旗』に連載、労働者出身のプロレタリア作家として独自の位置を占めるようになる。以後、旺盛な創作活動を展開するが、小林多喜二の虐殺など弾圧の強まる中で動揺し、1933年、『中央公論』に「創作方法上の新転換」を発表、文学の政治優先を主張する蔵原惟人らを批判し、プロレタリア作家同盟を脱退した。翌年転向小説「冬枯れ」を発表し、1937年には『太陽のない町』の絶版宣言を自ら行うなど時代の圧力に屈する。そして、『先遣隊』(1939年)という体制協力的な作品を発表した。しかし、その一方で、『はたらく一家』(1938年)、『八年制』(1939年)など、働く庶民の生活感情に根ざした優れた作品を発表した。とくに、戦時下発表された『光をかかぐる人々』(1943年)は日本の活版印刷の歴史をヒューマニズムの観点から淡々と描くことで、戦争と軍国主義を暗に批判した抵抗文学の名作である。

 戦後も『妻よねむれ』(1946年)、『日本人サトウ』(1950年)など旺盛な創作活動を行った。また、東芝争議を題材に諏訪地方の労働者と農民の闘いを描いた『静かなる山々』は、外国にも翻訳紹介され、1950年代の日本文学の代表としてソ連では高く評価されていた。『人民文学』の創刊に助力し、誌上で宮本百合子攻撃をしたこともあった。

 1958年2月15日『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま、末期の胃癌のために世田谷の自宅で病没した。享年59歳。『太陽のない町』は、1972(昭和47)年、日本近代文学館より復刻されている。

 脱線ついでに、島崎藤村にも触れておきたい。同じく、『ウィキペディア』に依拠している。

 比嘉美津子の思い出によれば、彼女が伊波の家に寄宿することになったその日に、伊波が美津子に、藤村の『破壊』の丑松の心を知らねばならないよと諭したという。

藤村の『破壊』の丑松の心を知らねばならないよと諭したという。

 島崎藤村(しまざき・とうそん、1872(明治5)年)~1943(昭和)18年)、本名、春樹(はるき)。木曾の馬籠(うまご)に生まれた。この地は、2005(平成17)年、いわゆる平成の大合併によって、2005年2月12日までの、長野県木曽郡山口村神坂馬籠から、岐阜県中津川市馬籠となった。所属県が長野県から岐阜県に変更されたことで、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、確定していない。藤村本人は、「信州人」意識を強くもっていたらしい。

 父は正樹、母は縫、四男であった。生家は代々、本陣や庄屋、問屋を営む地方名家で、父の正樹は17代当主で国学者だった。小学生の時、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881(明治14)年に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父である武尾用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(錦城中学校の前身)から尋常中学共立学校(現・開成高校)を経て明治学院普通部本科(現・明治学院大学)入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の影響もあり、キリスト教の洗礼を受けた。明治学院大学第一期卒業生で、校歌も作詞している。この間1886(明治)19年、父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大であった。

 卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文學界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し辞職する。1894(明治27)年、女学校に復職したが、透谷が自殺、さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職した。その頃のことは後に『春』で描かれた。

 1896(明治29)年、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に、第一詩集である『若菜集』を発表して文壇に登場した。

 1899(明治32)年、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間過ごす。この頃から散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905(明治38)年、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。

 1907(明治40)年に発表した「並木」は孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。1908(明治41)年、『春』を発表、1910(明治43)年、「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このために兄・広助の次女であるこま子が家事手伝いに来ていたが、こま子と通じてしまい、1913(大正2)年から3年間パリに逃れ、『新生』を発表して、こま子との関係を清算しようとした。このため、こま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った。

 なお、この頃の作品には、『幼きものに』、『ふるさと』、『幸福』、などの童話もある。1927(昭和2)年、「嵐」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929(昭和4)年4月から1935(昭和10)年7月まで『中央公論』に連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめた。また日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。1940(昭和15)年に帝国芸術院会員、1941(昭和16年)1月8日に当時の陸軍大臣・東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。1942(昭和17)年に日本文学報国会名誉会員。1943年、「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。

 『破戒』は、被差別出身の小学校教師がその出生に苦しみ、ついに告白するまでを描いたもの。

  明治後期、被差別に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎が、自らの出自を広言して雄々しく闘う姿に感動した丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々が過ぎる。やがて学校で丑松が被差別出身であるとの噂が流れ、さらに猪子が暗殺される。丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。そして丑松は米国テキサスへと旅立ってゆく。

 話を元に戻す。
 美津子が上京した頃の東京では、沖縄県人は、沖縄出身であることをひたすら隠して生活しなければならなかった。大正末期までは、食堂の入り口に、「朝鮮人、琉球人、入るべからず」との貼り札が下げられていたという。そうした差別の中で、伊波は平気で琉球弁を使っていた。

 美津子を家で迎えた伊波は、「マギーナティ」(大きぅなって)と言い、先述の伊波普猷を巡る「5人の女性」の1人、金城芳子も玄関先で、「チャービラタイ」(こんにちは)と声を出していたという(比嘉美津子、前掲書、95ページ)。

 伊波普猷は、田島利三郎先生からオモロの資料を渡されたとき、外国語のようで途方にくれていたという。『琉球語辞典』の作成が伊波のライフワークであった。
 1911(明治44)年、35歳で、『古琉球』(沖縄公論社)を刊行した。この年、河上肇と知りあった。この本の刊行がよほど嬉しかったのであろう。伊波は次のような歌を詠んでいる。

 「深く掘れ、己の胸中の泉、余所たよて水や汲まぬごとに」。

 この歌は、沖縄県公文書館玄関に石版で掲示されている。
 自分の胸の中に泉はある。胸の中を深く掘り下げることによって、その泉に辿りつける。水は自分の泉から汲むべきである。よその泉に頼り、よその水を汲んでも、どうにもならない。このような意味であろうか。ニーチェの箴言が、伊波の脳裏にこびりついていたことは間違いない。自分自身の井戸を掘り、自分の糧を自分の泉から得よ。確かに格好がいい。

 西銘圭蔵は、この歌の那覇言葉表現を紹介してくれている。

 「ふかくふり、などぅぬんにうちぬ いじゅん、ゆす たゆてぃ みじや くまぬ ぐとぅに」

 「ふかく」はそのまま[深く」。「ふり」は例によって「ほ」が「ふ」、「れ」が「り」と訛るので「掘れ」。「などぅ」は「汝」、「の」が「ぬ」、この「の」と「むね」がリエゾンして、「んに」つまり「胸」。「うち」は「中」。そしてつぎの「の」も「ぬ」、こうして「汝の胸の内の」、つまり、「己の胸中の」になる。「よそ」は「ゆす」、つまり、「余所」。「いじゅん」は「泉」。「たよて」が「たゆてぃ」、つまり「頼って」。「「みず」は「みじ」、つまり、「みじや」は「水や」。「くまぬ」は「汲まない」。「ごと」が「ぐとぅ」になる。

 西銘によれば、島袋源一郎『沖縄県国頭郡誌』(国頭郡教育部会、1918年)の序文を伊波が書いている。

 「これ(ニーチェの言葉)は借りて以って郷土研究の必要を説くに都合の良い言葉だと思います。誰でも活動しようとするものはまづ其の足元に注意せねばなりませぬ。自己から出発せない活動はほんの空騒ぎに過ぎませぬ」。

 「三高私説」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/)によれば、著者西銘氏は伊波の三高時代に深い関心をもっておられる。

 西銘圭蔵氏も沖縄名護出身の医師である。氏は言う。
 「伊波達が直面した課題は、彼らの人生のスパンを通り抜け、正に現代社会が問われ続けている課題である」。

 西銘氏は、このサイトに寄稿している。
 「拝啓、はじめてメールを差し上げる無礼をお許しください。私は『国家を超えた思想 伊波普猷』の著者の西銘圭蔵でございます。この度の三高私説への著書の御紹介、ありがとうございます。伊波普猷の思想の形成を調べれば調べる程、当時の三高での学生生活の意味が大きく浮上してきます。今後、嶽水(本山注、嶽は比叡山、水は鴨川のこと、わがゼミ生の研究サークル名もこのひそみにならっている。竜鴨山(りゅう・おう・ざん)という。九頭竜川・鴨川・白山・吉田山をかけたものである)會雑誌を調べ、当時の三高生の気風と伊波普猷の生活をリアルに描きたいと考えております。今後とも三高について色々、御教授くださることを願っています」(後略)。



 三高と縁の深い京都大学、しかも、河上肇を追放した経済学部出身者で、またそこの教職に身を置いた経験のある私にとって、河上肇との交友を基礎に、伊波の三高との関連を描いて下さった氏の著作は本当にうれしい。

 ただ、伊波のこの歌の自負心には、いささかかなり違和感を私はもつ。

 研究は、喜びよりも苦しみの方が大きい。苦しみの主たる原因は、「自分の泉」を発見できないことにある。研究者たるもの、誰でも、自分の泉を求めている。しかし、発見できないでいる人の方が、泉を見出した人よりも圧倒的に多い。とくに、教育者は、このことに注意しなければならない。若い人たちが自分の泉を求めて、のたうって苦しんでいるとき、「自分の泉を掘らねば駄目だ」と言って突き放してしまえば、その若い研究者は挫折してしまう。

 伊波普猷を私は心から尊敬している。しかし、この人は、ときどき言葉を不用意に使う。初期にアイヌ人批判などその最たるものである。この歌もその1つに属する。

 このブログを読んで下さっている若い人たちに、以下の励ましの言葉を贈りたい。

 「泉は存在していない。存在していないものを胸中に求めることはできない。泉は新しく作るものである。自分の全人生が泉なのだ。そして自分が作り出した泉は人々の共有財産である。善良な人々に汲んでいただく泉を作ろう。泉は、論文だけではない。論文作成を通じて心を向上させてきた自分の生活そのものである。自分の生涯が作品であり、その作品を他の人々が飲める水にすべく、文章にして伝達することに腐心すること。それが大事なことである。勉強のできる人は、それこそ、ごまんといる。しかし、勉強もできて崇高な精神と優しさを兼ね備える人はほとんどいない。

  往々にして優れた研究者は、とてつもなく他人に厳しい。そうすることが学問の気高さを保持していると錯覚しているのである。本人の5メートル以内に入るこむことに私が躊躇する『偉大な』研究者はじつに多い。ほとんどがそうだと言い切ってもいい。

  真の研究には、他への「共感」が不可欠である。その人の研究が残れば、人は和むものである。人を追い立てる研究業績は、それこそ害悪である。自分で自分を苦しめても、けっして、人を苦しめてはならない。人を和ます作品は、自らが苦しみに呻吟する生活からのみ生まれる。誤解を恐れずに言う。自分の境遇を売り物にするような人になってもらいたくない。伊波普猷がそうした、人品卑しい人であったはずはないが、沖縄の人が沖縄学にとどまり、在日の人が母国のことだけを研究していては、言霊は生まれない。独自のフィールドはもつべきである。でも、フィールド研究を共通の精神にまで昇華させてこそ、自らの研究は人類に貢献できる。小さなフィールドにとどまる、小さな研究者にはならないで欲しい。ちなみに、大きな研究者と著名人とは異なる。無名でいい。しかし、高尚な姿にまで育まれた無名の精神は、地域を越え、時代を超えて、人々を潤す水になる。そのさい、往々にして原作者の名は忘れられる。それでいいではないか。あれは私が作ったのだと密かに誇りをもてばいい。私がウィキペディアを愛するのもその理由による」。

 伊波普猷の言葉尻を捕らえた感がなきにしもあらずであるが、歴史上の著名人がほとんど若い人を育てなかったことに私はこだわる。



  最澄と空海との差を私は重視する。河上肇とニーチェとの差を私は痛いほど理解できる。

福井日記No.96 女性に、もてたらしい伊波普猷 

2007-04-20 00:25:33 | 言霊(福井日記)

 伊波普猷ほど力と実績がある人が、大学に職を得ることはできなかった。親友に金田一京助がいながらである。なぜなのかはまだ不明である。駆け落ちをした冬子夫人と東京小石川の借家で清貧そのものの生活を送っていた。

 東大を卒業後直ちに那覇に帰った。1906(明治39)年、伊波30歳であった。そして先に東京に出ていた真栄田忍冬(まえだ・にんとう)(大正13年、伊波が図書館長をしていた沖縄県立沖縄図書館を辞めたて上京、司書の仕事を得ていた)を頼って、1925(大正14)年、図書館を辞職し、49歳で上京、その後、1947(昭和22)年、焼け出されて比嘉春潮の家に寄寓していた時に脳溢血で死去(71歳)するまで、那覇には帰らなかった。冬子が入籍できたのは、1944(昭和19)年、伊波68歳の時であった。東京空襲、沖縄戦の前年であった。大学の非常勤講師をしていたが、ずっと無職であった。

 彼には、妻がいて、伊波と冬子は深く傷ついていた。故郷の人たちは、彼らを白眼視していた。比嘉美津子『素顔の伊波普猷』(ニライ社、平成9年)にそうしたことを想像される記述がある。


 昭和10年か、11年の秋、目黒にあった日本民芸館で、「尚家の宝物展」が開催された。そこで、夫婦と美津子(冬子の従姉妹)の3人は、漢那憲和と遭遇した。何十年ぶりの再会であった。漢那は、


 「伊波先生のお顔を見て、入って来ようとされた瞬間、そばに座っている冬子夫人の姿を見るや、ちょっと不愉快そうなお顔をされ、伊波先生にはアゴをしゃくるような格好をされて、さっと向こうへ行ってしまわれた。・・・先生は大変苦渋に満ちたお顔をされ、天井の一点を見つめて、静かにタバコを吸っておられた。そして、夫人はうつむいて、じっと何かに耐えているような面持ちで、固くなって座っておられた。・・・親友同士、お互いに手を取り合って『やあしばらく』と話し合われる場面があってもよさそうなものを・・・。その後、この事件について、三人で話し合ったことは一度も無い」(同書、63~65ページ)。

 住谷一彦に至っては、とてつもなく厳しい。
 キリスト教に帰依しようとしながらできなかった伊波を住谷は批判し、忍冬との出奔を、「人格破綻」と一刀両断している(同氏『日本の意識―思想における人間の研究―』岩波書店、1982年、118ページ)。


 ただ、伊波は本当によく女性にもてたようである。なんと伊波を心から尊敬していた比嘉美津子は、「伊波普猷を廻る五人の女」の名前を挙げ、その他にも何人も伊波を慕っていた女性がいたとまで書いている(前掲書、142~50ページ)。



 その5人の一人、金城芳子が漏らす。
 「先生は恋愛が学問に対する意欲を層一層かきたてて、第二の人生に立ち向かわしたと、おもらしになったことがあったが、このことは、はたの目からはいろいろな評価がなされているようである」(『伊波普猷全集・第6巻』月報6、平凡社、1975年)。



 冬子夫人の伊波追悼詩がある。
 「はらからの行衛もしらぬ戦ひに 山川はかたち失せたりとも 骨肉の哀しきが待つ ふるさとにかヘり住まむ 山原に小屋しつらひて 残る世をへむと 静かなる日を夢みてありしか ああただひととせの命を神はあたへず」(沖縄と共に)(比嘉前掲書、158ページ)。

 

 骨肉の悲しみが故郷にはまだある。でも、故郷の山原に帰りたい。静かに生を終えたい。でもできなかった。


 「人を傷めなければならなかった私の愛は 自らの鞭に呻吟し 他人に歪められ いちばん身近なあの人を悲しませた・・・中略・・・私は世間の非難に心をふるわせながら それに反発し心を固くしてゐた そういふ時あの人は憐れみと切ないほどの 愛情をこもった目ざしで私を見守った・・・中略・・・」(同、162~63ページ)。

 
  正妻は「マウシ」という。病弱であった。マウシは、1941(昭和16)年逝去した。その3年後に冬子は入籍してもらっている。同居して21年経過後にである。
 図書館長を辞任して、上京するとき、伊波は、

 
  「たとひ郷里の墳墓には葬られなくても、郷里の人たちの頭の中に葬られるやうにしよう」と言っている(西銘圭蔵『伊波普猷ー国家を超えた思想』株式会社ウィンかもがも、2005年、伊波普猷年譜)。

 
  これは私の独断と偏見であるが、日本では眉目秀麗な男子は組織では出世しない。女にもてる美男の部下を上司が毛嫌いするであろうからであると思う。男の嫉妬ほど始末に負えないものはない。

 
  宗教が女性を遠ざけたのも私のように老人になるとその深い意味が分かるようになった。久米の仙人の話は古今東西の真理であろう。

 
  「『沖縄女性史』は日本における女性史論では嚆矢をなすものの1つである」(西銘、前掲書、43ページ)。



 『沖縄女性史』(小沢書店、1919年)では、女性の参政権の確立、遊郭の廃止を強く訴え、与謝野晶子に献本している。




  女性の歴史における積極的な貢献を論じたものである。
ちなみに、伊波は、比嘉美津子の述懐によれば、金で買われた女性の悲劇を意識し、当時、3000人の女性を抱えていた辻遊郭には入ったことがなかったという。当時、辻遊郭は「ジュリヌヤー」と呼ばれていた。冬子夫人は、伊波のことを「センシー」(先生)と呼んでいた。21歳の年齢差があった。本当に、伊波は大変だったろうな。


 美津子は記している。
 「冬子夫人が『うちのシンシーは、一度もジュリヌヤーに留まったことはないそうよ』と言われたので、私は驚いて『ほんとうですかあ・・・』と疑ったが、伊波先生は『金で買われてきた気の毒な女と寝る気はしない』と、きっぱりと言われた」(比嘉、前掲書、141ページ)。

 そういえば、マルクスも似たようなことを言った。


 1922(大正11)年には、柳田国男が主宰する『櫨辺叢書』として『古琉球の政治』(郷土研究社)を上梓している。


 
これは、沖縄の祭政一致の歴史を綴ったものだが、古代沖縄では、宗教者、ノロの支配的地位を説明している。そして、琉球王国の正室、側室、そして遊郭の研究を行っている。若きインテリ女性たちはさぞかし、伊波に憧れたことであったろう。


 君子ぶって、住谷氏に与みするものではない。しかし、中学校のストライキにおける退学、そして、冬子との出奔、そのためか職を得ることができなかった悔恨。伊波の偉さはそれを愚痴っていないことである。マウシのことを知りたい。沖縄の研究者は、偉大な学者に踏みにじられた無学の糟糠(そうこう)の妻のことをもう少し書いて下さらないだろうか。


福井日記 No.95 「売らない」「汚さない」「乱さない」「生かす」

2007-04-17 23:50:39 | 言霊(福井日記)
 福井永平寺町にある私の下宿は、ひろい田畑に囲まれ、それはそれは美しい所で「あった」。

 「こしひかり」(越の光、つまり越前生まれ)はもとより六条麦蕎麦、大豆と、それこそ、季節毎に眼を楽しませてくれて「いた」。部屋から徒歩100歩ほどの小さな農業用水路には、蛍が乱舞し、それはそれは幻想的な景色で「あった」。

 この広い田園の中を、陽の光を満身に浴びながら、走り回るのが私の最高の楽しみであった。そして、こうした美しい景観はなくなった。過去のものになった。

 桜の美しい季節。その美しさが徹底的に破壊された。広大な田畑が深くえぐり取られ、なんと、砂利採取場に瞬時に変容させられたのである。

 ブルドーザーがうなりを立てて、土を掘り返す。なんてことをしてくれるのだ。そもそも、この広大な田圃は、莫大な国費を投入して、氾濫を繰り返して住民を苦しめていた九頭竜川の河川敷を埋め立て造成されたものである。それは、福井が世界に誇るべき鳴鹿大堰と一対のものである。そして、造成された土地は、田畑として、住民に配分された。先人の努力の賜である貴重な田畑が砂利採取場に変えられた。

 田畑を潤すために作られた用水路の設計は見事で「あった」。高低差を克服すべく何本もの用水路が、芸術作品のごとき繊細さで私を魅了して「いた」。

 嗚呼!なんてこと。
用水路は蓋をされて見えなくなり、田畑は深く深くえぐり取られて谷底のようになってしまった。田畑の土は、汗の結晶である。それが無惨にも壁のように、うずたかく積み上げられてしまった。美しい景色が一瞬にして消え去った。なにもかもが終わった。真の財産がなにかを知らないまま、短期的な金銭でのみ土地が破壊される。田畑を造成する誇るべき公共事業が無に帰し、元の川底に戻ってしまった。いや、川ならまだ美しい。すり鉢地獄になってしまった。

 私が福井日記を書き出したのは、この地の、とてつもなく美しい景色に感動したからである。この感動を多くの人に伝えたかったからである。がっくりくる。今年の梅雨時、あの信じられないほど美しかった蛍はもう見えないだろう。蛍の幼虫は、埋められて死滅したであろう。

 農業を維持できなかったのであろう、田畑を砂利採取業者に売った人は。離農者の田畑は、このような使用のされ方でいいものだろうか。地域計画とは、かくも力のないものなのだろうか。

 「売らない」、「汚さない」、「乱さない」、「壊さない」、「生かす」という住民憲章をもつ地がある。八重山諸島の竹富島である。地元では「たきどぅん」とか「たなどぅい」と発音されている島である。

 農民が理不尽な人頭税に苦しめられながらも、この島の歌謡舞踏はじつにおおらかなものである。子守歌ひとつをとっても、本土の子守歌は、子守をさせられる娘の恨み節ばかりなのに、この島の子守歌は、じつに美しい。美しい自然と子守をする娘と、そして幼児がみごとに美しく解け合っている。後で紹介する。

 1972(昭和47)年、本土復帰があった後、土地買い占めが横行した。NHKのドラマで有名になった島、あるいは石垣島、宮古島では、巨大資本が豪華なリゾート施設を作った。そうした動きに竹富島の人々は拒否反応を示した。

 「島外者に土地が買われたら島の自然・文化が変質し崩壊する」と危機感をもった人が立ち上がり、土地の買い占め・売り渡し反対運動を展開した(上勢頭(うえせと、昔の発音は「ういしどぅ」)芳徳(喜宝院蒐集館長)「竹富島のデータ」(『星砂の島』、第10号、平成18年、16ページ)。

 当時の島民が参考にしたのは、「妻籠宿(つまごしゅく)を守る住民憲章」であった。マスコミも取り上げてくれて、島民の運動は成功した。竹富島憲章制定委員会が設立され、1986(昭和61)年3月31日、住民総会の満場一致で竹富島憲章が採択された。これが、上の理念を基本形とするものであった。

 上勢頭芳徳氏の手記から『琉球新報』(1904(明治)37年)による竹富島の紹介を転載させていただく。

 「島民は競ふて能く農事に精励する点に至りては実に県下農民中稀に見る所・・・。人気亦活発にして能く旅客の応接に馴れ少しく諧謔の気味を帯ぶものの如し」。

 島民は、非常に勤勉な人々である。余所者への応対にも優れている。ユーモアを解すると絶賛されていた。

 そして、1906(明治39)年の同じく『琉球新報』。
 「人民一般に勤勉富裕にして犯罪者なく公費の未納者なし。道路清潔家屋の茅葺なるものは網を張て風害および鴉の害を防ぐ。戸毎の石垣には畢発(香料にする)茂生し葉は青く実の熟したるものは赤く村風の美と共に異彩を放てり」。
 まさにいまもこの光景が息づいている。

 この島には「うつぐみ」という言葉が多用されている
「一致協力」
という意味である。内にあっては協力をし、外からやってきた人にはユーモアで接し、歌や踊りでもてなす習慣がこの島には根付いていた。
 上勢頭芳徳氏は、同じ雑誌の別の手記で、竹富島の人口の変遷について述べている(同「竹富島憲章20周年―その今日的意義」(前掲、20~22ページ)。

 竹富島の人口は、1,000人前後で明治以前には推移していた。1904(明治37)年には1,114人であった。しかし、往来が自由になると、離島者が多くなった。特に昭和30年代の流出がひどかった。家を解体して石垣島に運ぶケースが相次いだ。1972(昭和47)年に316人、1982(平成4)年にはさらに減少して、251人まで落ち込んだ。これが史上最低の人数であった。その後は、ずっと増加し続け2006(平成18)年には、351人になった。これは、島外の資本に土地を売らない「竹富島を生かす会」の「金は一代、土地は末代」のスローガンに島民が強く反応したことによる。

 上記、竹富島憲章(1986年3月31日制定)と並んで「竹富町歴史的環境保存条例」が同年3月24日に町議会で可決された。

 中央官公庁がこれにいち早く反応した。国土交通省は、同年、「手づくり郷土(ふるさと)賞」を創設し、竹富町の家並みもその第1回の賞を受けた。文化庁は、1987(昭和62)年4月28日付『官報』で、竹富島の保存地区を告示した。地方の条例制定後1年で文化庁が呼応したのは、異例のことであった。

 民間団体も鋭く反応した。1988年4月、日本民藝協会の夏季学校が全国から参加者(約90名)を集めて合宿で開催された。同年、6月には、全国町並みゼミの第11会大会が島で開催された。そのときのテーマは、「語ろう町並み、広げよう『うつぐみ』の輪」であった。面白いことに、それまでの旅行会社による竹富島の観光パンフレットは、青い海と青い空であったのに、こうした全国の関心の高まりを反映して、赤瓦のものに変わった。若者がUターンしだした。人口350人ほどの島に、毎年6~8人の赤ちゃんが生まれる。非常に高い出生率である。戦後、日本人は、ついに美しい町並みを作ることができなかったのに、竹富町はそれを成し遂げた。

 竹富島憲章は、妻籠宿、白川村、川越市とともに、「全国町並み保存連盟」のモデルとなった。2002(平成14)年、同連盟は、「全国共通憲章」を制定した。

 上勢頭氏の感動的な文を引用しよう。
 「弱者を守るために、またきちんと伝えていくためにも、現役の世代が水面下の見えない所で必至にもがかなければ良い地域づくりは出来ません。争いを好まない島民性が、一致協力するという『うつぐみの心』を可能にしています。各人がそれぞれに生活圏なるものを主張すると、地域の風土に根ざした文化としての町並み警官を破壊します。土地、建物は個人のものであっても、景観はみんなのものです。個人のわがままが、みんなの生活圏を脅かすことが有ってはなりません。論議を重ねて人知を尽くした後は神仏、祖霊に委ねましょう。いずれその結果は子孫に現れるということは、島のみなさんが良くご存知でしょう」(同、22ページ)。

 至言である。そして、私が追い求めている宗教はまさにこれである。

 文化庁は、「手づくり郷土(ふるさと)賞」が20回目になったことを記念して、過去に受賞した地域の中で、この町づくり面で、もっとも持続・発展した地に大賞を授与した。竹富町がそれに選ばれた。

 『琉球新報』(2005(平成17)年11月29日付)を拾い読みしよう。
 「同賞は知己が一体となって個性や魅力を創り出している社会資本に贈られるもので、本年度で20回目」。

 八重島諸島には、年間71万人の観光客が訪れるが、「竹富島の家並みは・・・特に人気が高い。水牛車での移動など、昔ながらの沖縄の風景に『癒やし』を求めて多くの観光客が訪れる」。

 同島への観光客は1986年には約9万人であったのに、2004年には36万人に急増した。

 「竹富島では住民らが86年度に『うらない』、『こわさない』、『よごさない』、『みださない』、『いかす』という『竹富島憲章』をつくり、島の歴史や文化、自然を守ろうと、道路の清掃や除草、花木の手入れや、伝統的な祭の継承に取り組んでいる」。
 次回からは、島歌と踊りを紹介しよう。

福井日記 No.94 方言札

2007-04-15 22:59:55 | 言霊(福井日記)
 繰り返し強調するが、1872(明治5)年に、独立国であった琉球は、日本の「琉球藩」に組み込まれ、1879(明治12)年の「廃藩置県」で日本国の1県になった。先述の『沖縄タイムズ』(平成13年1月10日付)の解説によれば、これを期に、沖縄県の公用語は日本の標準語になり、その上で、県民に標準語を普及させること、つまり、「言葉による統一」を目指す、琉球人の「皇民化運動」が沖縄で展開された。

 これを受けて、沖縄県学務部が、1880(明治13)年、『沖縄對話』を編纂し、これをテキストにして、標準語を話せる教員を養成することを目的とした(特殊教員養成と呼ばれた)「会話伝習所」が設立された(後に、師範学校に吸収)。

 『沖縄對話』は上下2巻からなっていた。まず、標準語が記載され、それに対応した琉球語の訳がついていた。例えば、第1章第1回の「春」の項には次のような記述があった。

 「今日ハ 誠ニ 長閑(ノドカ)ナ天気デゴザイマス」。
  これは、
 「チュウヤ マクトニ エー デンチ デービル」、
の訳が付く。
 そして、対話として、
 「左様デゴザイマス 好キ 天気ニ ナリマシタ」。
 これには、
 「アンデービル イー テンチ ナヤビタン」
と訳が対応させられている。

 この琉球語は、「首里語」であると『沖縄タイムズ』は説明している。

 学校教育における「方言取締令」が定められた。
 
県立の沖縄一中では生徒の自治会が標準語を話すことを取り決めた。1907(明治40)年の頃である。そして、この頃から「方言札」が「標準語励行運動」の大きな梃子として使われるようになった。方言を使ったら、この「方言札」を首からつり下げられるのである。方言札を渡す人は、先生だけでなく、標準語を話す生徒もそうであった。まさに集団取締である。

 「みやら雪朗」氏が、氏のご母堂から聞かされた話を書いている。
 「尋常小学校では、よき日本人になるために、まず言葉から入った。島の言葉は禁止された。『方言撲滅運動』は言葉のみか、生活習慣までヤマト風に買えたという。
『方言札』を首から下げると、自分が劣等生になったようで、プライドを傷つけられたという。・・・・家庭で使っている島言葉をうっかり口にしないように、友人同士でさえも用心深くなり、そのため陽気な母も、学校では無口になった」(みやら雪朗「天(ていん)ぬ群星(むるぶし)や数(ゆ)みば数(ゆ)まりしが―私の『親守唄』をめぐる数々の歌―」、『星砂の島』第10号、平成18年8月、57ページ)。


 1939年になっても、まだ執拗に、沖縄県当局は、「沖縄県教育綱領」を作成した。そこでは、「標準語励行」が謳われていた。翌、1940年、当局は、それを「県治方針」、つまり、「挙県的一大運動」として大々的に展開したのである。

 1940年1月、柳宗悦らの日本民芸協会の一行が、沖縄県に入り、このときに、彼らは、県の「標準語励行」運動を知った。沖縄観光協会主催の座談会の席上、一行は、これに「行き過ぎがある」と批判し、同席した県当局者がそれに反発したことから、約1年にわたって中央も含む論壇で論争になった。

 民芸教会側は、沖縄の言葉は「伝統的な純粋な和語を多量に含有するもので、国宝的価値を有する」との理解を示した。そして、県のやり方は、「県民に屈辱感を与えるものとなるのではないか。地方語の価値を否定し、これをないがしろにするような態度には賛成できない」と県を非難した。

 県当局は、「県民が消極的になっている最大の原因は、標準語能力が劣り、発表力がないことであり、県外で誤解や不利益を受けているのもこのためである」と運動の正当性を擁護した。しかも、『沖縄タイムズ』によれば、県民の大半が県当局の姿勢を支持したという。琉球人は、自らの言葉自体を屈辱と見なしていたのである。ところが、本土の中央論断の雰囲気は、沖縄県当局を批判するものであった。

 柳宗悦(1889(明治22)年~1961(昭和36)年)は、東京市麻布区に貴族院議員である柳楢悦の三男として生まれた。父は彼が幼少の頃に亡くなったが、父の残した莫大な遺産によって家計は裕福であった。学習院初等科、中等科と進み、後に共に雑誌『白樺』を創刊する志賀直哉や武者小路実篤らと知り合った。学習院高等学科では、鈴木大拙や西田幾多郎に学び、1910(明治)43年、高等学科を卒業後、東京帝国大学文科に進む。また『白樺』はこの年に創刊された。

 東京帝国大学で哲学を専攻した柳は、宗教と芸術の関係に関心をもつようになる。1913(大正3)年、東京帝国大学卒業後、声楽家の中島兼子と結婚し、千葉県我孫子へと転居し、我孫子を芸術家コロニーにした。

 1919(大正8)年、『宗教とその真理』(叢文閣)を刊行、同年、東洋大学教授となった。その頃、朝鮮の独立運動を弾圧する日本の朝鮮政策批判の文章を書いている。

 1924(大正13)年、前年の関東大震災で被災した柳は一家で京都へ転居する。この年、甲州で木喰仏を見て研究を初めた。

 1934(昭和9)年、日本民藝協会を設立、会長に就任し、大原孫三郎(1880(明治13)年~1943(昭和18)年、実業家、現・岡山県立倉敷商業高等学校創設者、クラレ、中国銀行創業者、大原美術館創始者、大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)を開設)の援助などにより日本民藝館が完成した。

 「民藝」という言葉を生み出したことで有名。「自然に則る生き方」こそ、現世に生きる人間が「二にあって一に達する道」であると考えるようになる。それこそが「民藝」である。民藝は「下手物」、つまり日々の生活のなかで使われる道具であり、用に即することによって生まれる「用即美」である。そのような民藝は一部の天才的個人によって作られたものではない。名もなき民衆は、生活のために工芸品を作るなかで、深く土地の自然と交わり、自然へと帰依していく。自然に帰依するとき、美を生み出す力が与えられる。そこに無力な衆生が仏に身を委ねることで救われる「他力道」が現れる。柳宗悦の民芸論の心髄はここにあった(京都大学大学院文学研究科日本哲学史研究室、(宮野真生子記、2006年7月、http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/yanagi_guidance.html)。

 本土でのし上がるためにも、標準語を習得しなければならないとの島人の心の屈折を理解せずに、外部の人間が、現地の標準語化を軽々に批判することは不用意である。しかし、せめて、琉球語を大阪弁なみに、本土で定着させることは、目指されるべきではないのか。このままでは、琉球語は完全に死滅してしまう。

福井日記 No.93 残さびらな・島くとぅば

2007-04-15 01:24:10 | 言霊(福井日記)

 私の子供たちを含めて、関西地方で育った最近の若い人たちは、東京に生活の拠点を置くようになっても、大阪弁で通す人たちが増えてきた。東京に出ると、ついつい慣れない標準語を話す努力をしてきた私などは、臆せずに大阪弁を使い、それを東京人も違和感なく(?)受け止めてくれている情況を、素直に喜んでいる。

 「スカタン」ばかりしてしまう我が子に「ホンマニ、アホヤナァー」といって、叱りと励ましと愛おしさの感情をないまぜにして表現しようとするには、どうしても、大阪弁が必要である。これを、「本当に馬鹿者が!」と、標準語でやってしまっては、微妙な感情がまったく伝わらなくなってしまい、親子関係が断絶してしまいかねない。

 確かに、標準語は明快である。異文化の交流には、標準語がふさわしい。
 
しかし、心の深い屈折したヒダを伝えようとするとき、どうしても自分が育った母国語(私の場合は、神戸弁、広島弁、土佐弁)を使ってしまう。標準語を話す東京人も、心の交情を願うときには、江戸っ子弁を使うはずである。

 人間には、文明と文化とが混在するものである。
 
文明とは、いまはやりの言葉で言えば、「グローバリズム」であり、文化とは「ローカリズム」である。標準語は「テキストファイル」であり、方言は「一太郎ファイル」である。悔しいことに「ワードファイル」は「一太郎ファイル」で読めるのに、「ワード」は「一太郎」を読まない。しかも、多くの日本人は、純国産の「ATOK」辞書ではなく、マイクロソフトの「IME」を使っている。そして、テキストファイルがすべてのワープロソフトを互換する。言葉に階層化が進行している証左である。

 はっきりした内容を正しく伝えるためには、標準語が必要である。それは伝達の必要性が増せば増すほど、単純化される。つまり、標準語は単純化され、英語に近づく。

  最近、レストランで、注文を確認するとき、ウエイトレスが、「・・・でご注文はよろしかったでしょうか?」と確認される。「おじん!」と嫌われることを承知で、私は、「・・・でよろしいでしょうか?」と言って欲しいと注文する。おそらく、外資系ファミリーレストランが、店員向けのマニュアルを英語で書いていて、丁寧語を「Would you like・・・?」としていたのであろう。それを日本のコンサルタントがそのまま訳したのであろう。現在形が過去形になる。日本語の丁寧語は、現在形を過去形にはしないという当たり前のことが忘れられている。

 最近、心臓が飛び出すほど驚いたことがあった。沖縄にいた時である。「ビールはよろしかったでしょうか?」と例によって、過去形で店員が聞いてきた。私は、これまた例によって、過去形を現在形に訂正させたことはもちろんであるが、そのあと、「いりません」と伝達すべく、「結構です」と言った。こういう情況下で、「結構です」というのは、「いりません」を意味することは、私どもおじんの常識である。ところが、店員は、「いいですね、結構ですね」と理解してしまったのであろう。なんとビールが出された。突っ返すことも可哀想なので、そのまま飲んだが、その時は「変な奴だな」という程度で腹立ちを抑えた。

 「もう嫌!」と思ったのは、それから2週間ほどして所用で別府に行った時のことである。同じような場面に遭遇した。そして、今度もビールが出た。

 私は聞いた。「失礼ですが、あなたは日本人ですか?」。この地は立命館が設立した国際系大学のお陰で外国人留学生がたくさんレストランで働いているからである。答えは「そうです」であった。「日本もこれで終わりだな。私の本など誰も読んでくれないだろうな」と心底哀しくなった。今回もビールを突っ返さず、それこそ、苦々しく飲んだ。そう言えば、最近の人は冗談が通じなくなった。講義で笑いを取ろうと冗談を言っても、学生諸君は、きょとんとして、「このおじん、なにを言っているの?」との反応しかしてくれない。標準語から、複雑な言い回しが急速に廃れてきている。

 それに対して、方言は、時代を経るにつれて複雑になる。京言葉の複雑さは、方言びいきの私ですら苦痛であった。

 
余所者の私には地獄だった。つまり、言葉は、自らと異なる人に対して話すのに、適しており、方言は身内のひそひそ話に適している。標準語の行き着く先はピジン・イングリッシュであり、方言の行き着く先は、島言葉か谷言葉である。

 それでいいのではないだろうか。文明だけだと人は窮屈になる。文化だけだと社会の発展はない。大事なことは、両者のバランス感覚である。

 平成13年1月10日から『沖縄タイムズ』、「残さびらな・島くとぅばのシリーズ記事を掲載した。間違っているかも知れないが、「残さなければ、島言葉を」という意味か。琉球語にも地域によって、発音がかなり異なり、一般化はできないが、「ハ」行は「H」ではなく、「P」とか「F」、あるいは、「B」と鼻音化する。「ノコサビラナ」の大和言葉表現は、まだ私の能力ではできないが、鼻音化が大きく影響していると思われる。

 しかし、「シマクトゥバ」なら分かる。琉球語では、短い母音であれば、「ア、イ、ウ、エ、オ」の下一段(エ)と下二段(オ)がそれぞれ「イ」、「ウ」と発音される。長い母音のときには、「エ」は「エー」、「オ」は「オー」である。「コトバ」の「コ」は「ク」、「ト」は「トゥ」と長母音化する。したがって、「コトバ」が「クトゥバ」になる。

 標準語が浸透するのは仕方がないが、微妙な言葉のやり取りから生まれる交情は、方言でなければ難しい。方言が死ぬことは、人情も死ぬことである。私は、そう思い込んでいる。この私の「思い込み」を沖縄の古老が同調してくれている。少し長くなるが、沖縄タイムズの上記号から転載させて戴く。沖縄タイムズは、音声でそれを聴かせてくれるので、同紙のサイトにアクセスして見てほしい(http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kotoba20010110.html)。

 「せんごー、うちなーぐちぇ、しでーにすたれてぃ、やまとぅぐちさーにうちなーじゆうがはなしーするくとぅんかいなたん。くれーいいくとーやしが、うぬかわいしまぬしなさきわすれたん」。

 語尾を強く発音しつつ引き延ばし、中国語の四声のように大きな抑揚をつけ、リエゾンを多用する沖縄の言葉は、耳だけで聞くと、私が住んでいる越前の言葉にじつによく似ている。かつて、アイヌ語と琉球語との類似性が議論されたことがあるが、私には越前語もそう聞こえる。

  そして、音だけ聞いていると韓国の釜山にいるような錯覚に捕らわれる。言語学の素養などまったくない私が、感覚だけで推測することはよくないとは思いつつ、想像が楽しく広がる。ただし、よしんば私の推測が正しいとしても、それがどういう意味をもつのかは、いまの私の乏しい言語理解では、皆目分からない。

 この古老は、真喜志康忠さんである。「戦後」「センゴー」と抑揚をつけて伸ばしているのは、本当に越前語そのままである。

 「うちなー」とは、「おきなわ」である。先の型に従い、「お」は「う」である。「i」音の前後の「k」は、口蓋化して「ch」音になる場合が多い(規則ではない)。したがって、「き」は「ち」である。母音「a」で前後を挟まれた「w」音は脱落する。つまり「awa」は「aa」、「あー」となる。したがって、「おきなわ」は「うちなー」となる(琉球語、ウキペディア)。「グチ」は「口」、「口」は「弁」である。「うちなーぐち」とは、「沖縄弁」である。「ぇ」は「わ」が訛ったものであろう。「戦後、沖縄弁は」となる。「しでーに」は「sidaini」で、[ai」は韓国語と同じく「え」である。しかも長母音だから「えー」となる。「しでーに」とは「次第に」である。「すたれてぃ」は「廃れてぃ」、そして、語尾の「ぃ」は、「行き」が曖昧になったものであろう。「戦後、沖縄弁は次第に廃れていき」、「戦後、沖縄弁は次第に廃れてきた」と、ここまでは理解できた。

 「やまとぅぐちさーに」は、「大和口(言葉)などに」。おそらく、「さー」は「だってさ」、「それでさ」に当たる無意味な接尾語なのだろう。「うちなーじゅうがはなしーする」がすぐに分かる。「沖縄中が話しする」であろう。

 「くとぅんかいなたん」が難しい。「く」は「こ」、「とぅ」は「と」、「ん」は、神戸弁などが「なにしてるの?を、「なにしとぅん?」と発音するのと同じ類の接尾語であろう。

 そして、この「ん」とリエゾンした、「んかい」は「むかい」(向かい」である。「なたん」は「になった」、つまり、「ことに向かうようになった」、「ことになってしまった」、「沖縄中が話をするようになっってしまった」、「沖縄中で話されるようになってしまった」となろう。

 「くれー」は、「これは」、「いいくとー」は「いいこと」、「やしが」は京都弁で、「そうであった」を「そうやし」と発音するのと同じことなのだろう。「やしが」は、「そうではあったが」。つまり、「くれーいいくとーやしが」は、「いいことではあったが」となる。

  「うぬ」は、「その」である。「そ」が「す」になり、「す」の子音「s」が脱落したのであろう。「ぬ」は「の」である。「かわい」は、「代わり」である。「い」は「り」である。これも、朝鮮語を彷彿とさせる。周知のように、韓国語・朝鮮語では、「り」は「い」と発音される。「うぬかわい」は、「その代わり」である。

 「島ぬし」は、「島の」で、「し」は前の言葉を強調する接尾語である。「なさき」は「情け」である。「わすれたん」は「忘れてしまった」である。

 じつに、味わい深い文章ではないか。
 「戦後、沖縄弁は次第に廃れてきた。大和言葉が沖縄中で話されるようになった。それはそれでいいことではある。しかし、その代わり、島の人情が忘れられるようになってしまった」。

 言語学の素養がない私が勝手に解釈することは、繰り返し弁明するが、いいことではない。しかも、現代標準語を基本に、そこからの琉球語の乖離を解釈するのは、標準語を基本形、琉球語を標準語の変種であると前提してしまい、琉球語に対しては無礼に当たる。そういうことは重々承知しつつも、強力な漢字圏の影響下に置かれている琉球と日本、朝鮮半島などの言語運命共同体を私は意識しており、そうした次元を表現したかったからであり、けっして、沖縄の言葉を標準語の亜種であると決めつけているわけではないことを読者諸氏はご理解いただきたい。

 次回では、「方言札」のことを再説する積もりであるが、これに対する非難も軽々に出すことには慎重にならざるをえない。

 平成13年1月10日付『沖縄タイム』は、狩俣繁久・琉球大学教授の談話を掲載している。沖縄語が廃れたのは、

 「標準語励行などの歴史的なことより、近代化が原因。言語がどうやって生まれたかを考えればよいい。人頭税時代は人が動けなかったが、今では自由に動けるようになり、本土にも行けるし、違う地域の人と結婚もできる。そのため共通の言葉が必要になっていった」。

 言語学の大家が、いろいろな含みを意識しながら発言されたこの一文を、前後の脈絡を無視して、揚げ足を取ることは失礼である。しかし、私は、私たちの将来が英語だけになってしまい、日本語が廃れてしまうとは思いたくはない。神戸弁、大阪弁、広島弁、土佐弁が、まだ生きて、私の血肉になり、私の思考回路のすみずみを決定していることを私は意識している。