消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.172 ノーベル経済学賞への批判

2007-09-28 23:59:07 | 金融の倫理(福井日記)

 日本学術会議の主催で、ノーベル賞一〇〇周年記念国際フォーラムが、二〇〇二年三月 一六日~一七日に東京大学安田講堂で、三月二〇日には国立京都国際会館で開催された。京都での準備は京都大学が引き受けることになった。たまたまの巡り合わせであるが、当時、私は日本学術会議第三部(経済・経営・会計)の第一八期の会員であり、京都大学経済学部に所属していたこともあって、準備委員と応接係を命じられた。大任ではあったが、ノーベル経済学賞に基本的な疑問を昔から抱いていた私には苦痛そのものであった。

 スウェーデンとノルウェーから来日されたノーベル財団の派遣者には失礼な振る舞いをしなかったとは思うものの、当時の苦痛はいまでも夢に現れる。居並ぶ日本の歴代ノーベル賞受賞者を前にしての高山寺で前夜のご接待時での会話とか京都国際会館でのシンポジウム、その後の懇親会での会話は、赤面の至りで、いまでも、汗が噴き出る記憶である。

 さて、ノーベル賞とは、言うまでもなく、ダイナマイトの発明者であるスウェーデンのアルフレッド・ノーベル(Alfred Nobel, 1833~1896)が、「前の年に人類に対して最大の便宜を与える貢献を行った人物」(to those who, during the preceding year, shall have conferred the greatest benefit on mankind)に年次の賞を与えるべく、遺言(遺言状の作成は一八九五年)によって、一八九六年に私財を寄付して財団を作ったことから始まっている。

 ノーベルの兄たちは、バクー油田開発で成功して、ヨーロッパの石油産業を独占していた。ノーベル自身は発明家でダイナマイトの発明は一八六六年である。六三歳で生涯を閉じたが取得した特許は三五五件である。語学に堪能で露、仏、独、英語を自在に操ったという。

 独身を通したアルフレッドノーベルの莫大な財産相続を期待していた遺族たちが、財団を無効としようとしたが、はたせなかった。

 ノーベルの遺言によって、物理学、化学、生理学・医学、文学、平和の各賞が設けられた。授賞式は、ノーベルの命日の一二月一〇日に行われる。一九〇一年の第一回授与式は、当時、スウェーデンとノルウェーが同盟関係にあったので、ストックホルムとオスロで行われた。しかし、一九〇五年以降、同盟関係が解消させられたので、平和賞だけがオスロで、他の賞はストックホルムで授与式がある。 

 選考は、物理学賞、科学賞、経済学賞(後述)については、スウェーデン王立科学アカデミー (Kungliga Vetenskapsakademien) が行う。これは、一七三九年に設立され、自然科学と数学の発展を目的とした活動を行っている。

 生理学・医学賞は、カロリンス研究所(Karolinska Institutet)が行っている。この研究所は一八一〇年軍医養成を目的として設立され、ヨーロッパ最大の医学研究所である。

 文学賞は、スウェーデン・アカデミー(Svenska Akademien)が審査する。これは、一七八六年に設立された。日本の学士院に相当する。

 平和賞は、ノルウェー国会が選考する。

 さて、ノーベル経済学賞である。正確に言えば、これはノーベル賞ではない。スウェーデン国立銀行(Sveriges Riksbank)が、一九六八年、設立三〇〇周年のために、ノーベルを忍んで設立した賞であり、正式には「アルフレッド・ノーベルを記念するスウェーデン国立銀行による経済科学賞」(Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel)という。この「経済科学」という言葉が物議を醸したのであるが、後述する。

 正式のノーベル賞ではないために、経済学賞の賞金はノーベル財団から支給されないが、選考方法や賞金額は正式の賞と同じで、賞金はスウェーデン国立銀行から支払われる。他の賞と同じく、共同受賞者は上限三名で、同じ受賞理由による。一九九五年二月、「経済科学」が「社会科学」と再定義され、政治学、心理学、社会学など経済学の隣接分野をも含むことになった。また審査員の五名は、以前は全員が経済学者であったが、そのときに、二人は非経済学者とすることになった。

 ただし、一九九七年には、ノーベル文学賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが経済学賞の廃止を要請している。二〇〇一年には、ノーベルの兄弟の曾孫(ひまご)、ピーター・ノーベル(Peter Nobel)ら四人のスウェーデンの人権派弁護士たちが、経済学賞は「人類に多大の貢献」をした人への授与というノーベルの遺訓にそぐわないとの批判を地元紙『ダーグブラデット』(Dagbladet)に寄稿した。親族は「ノーベルは実際、事業や経済が好きでなかった」とした上で、「経済学賞はスウェーデン中央銀行賞に改めるべきだろう」と指摘している(http://www.asahi.com/international/update/1128/012.html)。

  さらに、経済学は「科学」ではないとピーターは、ヘイゼル・ヘンダーソン(Hazel Henderson)にも語ったという。これは、「インター・プレス・サービス」(InterPress Service=IPS)の二〇〇五年六月版に掲載されている。私自身も、先述の記念フォーラム前夜の懇親会で、審査委員から同じ話を聞かされた。

 ヘイゼル・ヘンダーソンは女性の進化経済学者である。氏は、その著作(Henderson, H.[1995])に於いて、いまや、地球は産業主義社会の建設がもたらした負の遺産で満ち溢れ、この苦境から脱却するには経済構造や社会の価値観を根本から変化させる必要があると主張した。主流の経済学は、科学の名に於いて、偽装した政治を行ってきたという。経済学は、破綻、バブル、不況、エネルギー危機、資源の枯渇、貧困、貿易戦争、汚染、共同体の崩壊、文化と生物多様性の喪失など持続不可能なものを次々に作り出したことに責任を負うべきであると言うのである。

 貨幣もまた世界を破壊した。一九八〇年代の金融の規制緩和が、巨大な世界的カジノを作り出し、毎日、一兆ドルを超える貨幣が世界中を荒らし回っている。しかも、その九〇%は投機的取引である。

 現在は、世界的な貯蓄過剰社会であると言われるが、そのほとんどは金融「革新」(デリバティブ、ヘッジファンド)で積み上げられたドルである。これら、膨大な貯蓄が生産的に使用され、雇用を増やすために使われたことはない。ただ、見せかけの貨幣という数字を大きくしてきただけのことである。

 そうした経済学批判でもって、氏は、ノーベル経済学賞を告発する。
 一九六九年に設立された「スウェーデン銀行経済学賞」は経済学を制度化するものであった。自由貿易、民営化、変動相場、地球を駆けめぐるマネーを受け入れる門戸開放、等々を謳う「ワシントン・コンセンサス」(Washington Consensus)を叩き込まれた経済学者たちが、金融を不安定にし、過剰負債社会を生み出してしまった(Henderson, H.,"Abolish the "Nobel" in Economics―Many Scientists Agree!," http://www.hazelhenderson.com/editorials/abolishTheNobel.html) 。

 同じ記事で、氏は、ピーター・ノーベルへのインタビューの内容を紹介している。ピーター・ノーベルはつぎのように語った。

 「アルフレッド・ノーベルの手紙には、経済学賞を推奨する文言はない。スウェーデン国立銀行が、カッコーのように、自分の卵を世間で高い評判を取っている別の巣に置いたのである。スウェーデン銀行は、商標登録の侵害に近い罪を犯した。真のノーベル賞を略奪したもので受け入れがたい」。

 「経済学賞の三分の二は米国の経済学者に与えられている。とくに、株式市場やオプションに投機するシカゴ学派に与えられている。これらの賞は、人類の状態と私たちの生存条件を改善するというアルフレッド・ノーベルが抱いていた目標とはなんの関係もない。それどころか正反対のものである」。

 社説が掲載されている反対ページにある署名入りの囲み記事を「オプ・エド」(Op-Ed=Opposit Editorial)という。スウェーデンの有力紙、『ダーゲンズ・ナイヘテール』(Dagens Nyheter)の二〇〇四年一二月一〇日号、つまり、アルフレッド・ノーベルの命日にしてノーバル賞授賞式当日に、スウェーデンの数学者、マンズ・ロンロート(Mans Lonnroth)と、スウェーデン科学アカデミー会員、ピーター・ジャガールズ(Peter Jagers)の二人が「オプ・エド」記事を投稿した。経済学賞の範囲を広げるか、さもなくば、廃止すべきだとしたのである。とくに、二〇〇四年度の二人の経済学賞受賞者が数学の使用方法が間違っていると非難した。二〇〇四年度は、「動学的マクロ経済学への貢献、リアルビジネスサイクルの理論」という理由で受賞したのは、F・E・キドランド(Finn Erling Kydland、ノルウェー)とE・C・プレスコット(E.dward C. Prescott)であった。

 彼らを選んだロイヤル・アカデミー・オブ・サイエンス(Royal Academy of Science)が出したステートメントで、彼らのモデルが経済の方向性を導き、そのモデルによって、ニュージーランド、スウェーデン、英国、ユーロ地域の貨幣政策が作成されたとある。

 ヘンダーソンは言う。
 スウェーデン銀行が、経済学を「科学」だとしたのは、経済学の政治性を、隠蔽するために、数学的な中立性を経済学がもっていることを強調したいからである。経済学が、政治的には中立であることを示したいからである。「価値フリー」(value-free)を装って政策を指導してしまうためである。

 経済学は、三〇〇年に亘り人を欺してきた「蛇油」(Sneke Oil=街頭香具師が売りつける偽油=ガマの油)と同じものである。経済学の理論は証明不可能なものであるのに、世界の政策決定に関与し、為政者を植民地の人間にしてしまうのである。
 ヘンダーソンは、多くの科学者にインタビューした内容を紹介している。

 「マックス・プランク物理学研究所」(Max Planck Institute for Physics)のハンス・ピーター・ドゥール(Hans Peter Durr)教授。

 「経済学は悪しき科学である上に、基礎的な仮定の多くが正しくない」。
 そして、彼は、こうした間違った「科学」による経済学賞が四〇年間も続いたのは、科学者が他の領域の人たちを批判しないことをエチケットと見なしているからであると語った。

 システム論、物理学者であるオーストリーのベストセラー作家、フリツォフ・カプラ(Fritjof Capra)は言う。

  「意味合い、価値、摩擦、等々の次元が、現実の社会には究極的に重要である。この次元のものを含めない社会組織論は、いかなるものであれ、不十分である。残念ながら、今日の経済学の理論モデルのほとんどにこのことが当てはまる」。

 カルフォルニア大学サンタ・クルーズ校(Santa Cruz)の数学者でカオス理論のラルフ・アブラハム(Ralph Abraham)教授。

 「経済学賞は、社会科学のすべての視野を含むようなものに拡大されるべきである。数学のフィールズ賞(the Fields Medals)のような次元のものからは距離を置いたノーベル賞になるべきである」。

 システム科学者で『聖杯と剣』(Eisler, R.[1987])のベストセラー作家、リーアン・アイスラー(Riane Eisler)も経済学が科学であることを否定している。

 ヘンダーソンは言う。心理学者のデビッド・ロイ(David Loye)の『愛についてのダーウィンの忘れられた理論』(Loye, D.[1998]というベストセラーがある。「適者生存」(the survaival of the fittest)ということについて、ダーウィンはわずかしか触れていない。にもかかわらず、階級社会を当然視するビクトリア時代の英国には、この言葉がピッタリとフィットしたことによって、ダーウィンの言葉として独り歩きしたものである。この独り歩きした観念が経済学の「合理的経済人」(rational economic man)として採用されてしまった。他人との競争で自己の利益(self-interest)を最大にするという人間像がそれである。ロイの著書によれば、ダーウィンはそんなことを強調したのではなく、利他主義(altruism)、協同(cooperation)、結束(bonding)、分け合い(sharing)、信頼(trust)こそが人としての成功の基礎であるとダーウィンは主張していた(詳しくは、http://www.thedarwinproject.com)。

 いまや、ロバート・ナドウ(Robert Nadeau)とか、メナス・カファトス(Menas Kafatos)など科学史の研究者でも、こうした実際に人類が生き延びてきた真の経緯を経済学は学び直すべきだと主張する人たちが増えてきた。


福井日記 No.171 ミルトン・フリードマン語録

2007-09-27 23:05:09 | 金融の倫理(福井日記)


  以下は、PBS(the Public Broadcasting Service)というテレビのウェブサイトに掲載されたフリードマンへのインタビューの内容である。二〇〇〇年一〇月一日に収録された。字数を節約したいので、「です」「ます」調でなく、「である」調で翻訳している。私のコメントは書かずに、フリードマンの人となりを表す部分だけを訳した(Commanding Heights : Milton Friedman; http://www.pbs.org/wgbh/commandingheighs/shared/minitextlo/int_miltonfriedman.html)。

1、 自由と自由市場について

 「個々人が、自己の資源を自由に使うことから自由は生まれる。現代社会は非常に多くの人々が結集する企業を必要とする。問題は、抑圧を伴わずに協同作業をどう組織化するかということにある。・・・現在までに発見されている方法は・・・自由市場によるものである」。

2、私有財産と自由について

 「個々人に応じた知識を獲得する自由は、自身の財産を自己管理することから生まれる。自己管理できず、他人に財産を管理されてしまえば、成すべきことを他人に決められてしまい、自身の力が及ばなくなってしまう。・・・自己の知識を正しく使用するには、私有財産によるべきである」。

3、闇市場の意義について

 「闇市場とは政府の支配から逃れるものであった。これが自由市場を可能にしてきたのである。・・・当事者たちが相互に利益がなければ交換は発生しないということが最重要のことである。政府はAを利し、Bから奪うべく抑圧によって交換させる、この点が政府の抑圧と民間市場との大きな違いである。・・・悪い法律の支配を打破するのは闇市場だけである。・・・立法よりももっと気高い法(注、究極の道徳原理)がある」。

4、 モン・ペルラン協会について

 「モン・ペルラン会合の論点は非常に明瞭なものであった。自由が深刻な危機に瀕しているということであった。それがハイエクの認識であったし、参加者もその認識をもっていた。戦時中、どの国においても、政府が経済を組織し、すべての生産を武装と軍事目的に振り向けた。戦争が終結しても、中央計画が機能する事が戦争で分かったとの考え方が人々の間に広がっていた。・・・左翼はとくにそうであるが、英米仏などの国の知識人たちが、中央計画の実験を成功させたものとして、ロシアを研究するようになっていた。世界中でこうした動きが強くなっていた。英国では社会主義者の(クレメント・アトレーClement Attlee)が選挙を制した。フランスでもその動きがあった。・・・われわれは、そうした動きを逆転させる知的潮流を大きくしなければならないと思った。これが『隷属への道』のテーマであった」。

 「ハイエクが会を組織し、ハイエクが会への出席者を選定し、ハイエクが会を運営する資金を調達してきた。資金の大部分はスイスからきた。だから会はスイスで開催したのである」。

 「ライオネル・ロビンズ(Lionel Robbins)やジョージ・スティグラー、フランク・ナイト、そして私など、まず社会主義者や平等主義者とは見なされていない面々が所得分配について議論をしていたとき、彼(ルードウィッヒ・フォン・ミーゼス=Ludwig von Mises)が立ち上がって、『君たちは皆、社会主義者だ』と叫び、部屋から出て行った。ミーゼスは非常に強い信念をもっていて、異なる意見には我慢できない人であった」。
 「言っておかなければならないことは、何年も何年も彼(ハイエク)がモン・ペルラン協会の会議でもっとも活躍した人であり続けたということである」。


5、ジョン・メイナード・ケインズについて

 「実際には、一九二四年の『貨幣論』が彼の著作の最善のものの一つだと私は信じている。思うに、長期的な視点からすれば、それよりはるかに後に出された『一般理論』よりも基本的に優れている。・・・『一般理論』を皆が話題にした。それは一般的な雰囲気であった」。

 「私に与えていた彼の影響は、私が財政政策を重視して貨幣政策を軽視してしまったことであり、とくに通貨数量には注意を払わず、金利にのみ注目していたということである」。

 「私が、彼が編者となっている『エコニミック・ジャーナル』(the Economic Journal)に投稿したとき、彼の否定的な態度で掲載を拒否された。それが彼との唯一の個人的接触であった」。

 「それは、当時、ロンドンとケンブリッジで教授をしていたA・C・ピグー(Pigou)が、昔、書いていたものを幾分批判したものであった。ケインズの返信には、ケインズが私の論文をピグーに見せたところ、ピグーは私の批判に納得しなかった、そこでケインズは掲載を拒否したとあった。論文はその後、『クォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミクス』(the Quarterly Journal of Economics) に掲載された。ピグーの論文もその号には掲載された」。

6、 大恐慌について

 「(連邦準備理事会=FEDは)通貨量を三分の一減少させる政策を取ってしまった。・・・恐慌の開始から終わりまでに三分の一が倒産するという銀行制度の異常な崩壊によって、何百万人もの人が貯蓄をほとんど失ってしまった。それは不必要なことであった。当時の連邦準備理事会は、事態を阻止する力と知識をもっていた。そうすべきだと要請する一群の人々もいた。思うに、大恐慌に導いたのは、誤った政策であったことは明白である」。

7、リチャード・ニクソン(Richard Nixon)について

 「ニクソンは、二〇世紀におけるもっとも社会主義者的な米国大統領であった」。
 「彼の政権下でEPA(the Environmental Protection Agency=環境保護局)、OSHA(the Occupational Safety and Health Administration=職業安全厚生部)、OECA(the Office of Enforcement and Compliance Assurance of the EPA=環境保護局促進・苦情受付事務所)等々、いくつもの政府機関が作られ、戦後で最大の政府規制と産業統制が敷かれた」。

 フリードマンは、ニクソンの執務室でジョージ・シュルツとともにニクソン大統領と度々会い、貨幣政策について論じ合っていたと話した後、

 「実際、ニクソンは私が会った政府関係者の中では最高のIQの持ち主の一人であった。ニクソンの知性と偏見に問題があったわけではない。彼が、政治的な目的のために原則をあまりにも簡単に犠牲にするということが問題だったのである。いずれにせよ、私は彼の下から去りたかった。そのとき、彼は私に言った。賃金と価格を統制するという馬鹿げた政策を採用したことでジョージを攻めないで欲しい。ジョージとはジョージ・シュルツのことである。私はニクソンに言ってやるべきだと思った。・・・『いいえ、大統領(Mr. President)、私はあなたを責めているのです。(笑)思うにこれが私が彼に言った最後の言葉であった。この間の重要な経緯を語るテープがニクソンの手にある。私はそれを手に入れようと努力してきたがいまだにはたせないでいる。しかし、上記のことがあったことを明白にすることは私にはできない」。

8、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)について

 ポール・ボルカー(Paul Volcker)が米国の貨幣政策に関与するようになるのは、一九六九年以降である。一九六九~七四年の財務次官(Undersecretary in the Treasury Department)、一九七五~七九年のニューヨーク連銀総裁(President of the New York Federal Reserve Bank)、一九七九~八七年の連邦準備制度理事会議長(Chairman of the Board of Governors of the Federal Reserve Board)を歴任した。ボルカーが、金利操作ではなく、通貨量を調整する政策を採用するようになるのは、一九七七~八一年のジミー・カーター(“Jimmy”James Earl Carter)民主党政権から、一九八一年のロナルド・レーガン共和党政権に政権が移行してからである。

 米国は、高率のインフレーションに苦しみ、世界各国から野放図な経済運営を批判されていた。カーター政権は、インフレーション対策として、急激に割賦販売などの利子を引き上げ、経済が急激に収縮するや、経済を浮揚させるために通貨量を増やし、再度、インフレーションを昂進させるという悪循環に陥っていた。カーター政権下の一九八〇年度前半の五か月間の通貨量の増大は、第二次世界大戦以降のどの五か月間の通貨量増大よりも大きかった。レーガンがボルカーの通貨量抑制路線を支持したのである。

 「レーガンが選挙戦を制してカーター政権を引き継ぐや否や、通貨量は減少し始めた」。

 「FEDの政策に影響を与えようとはせず、介入もしようとはしなかった大統領は、戦後では彼以外にはいなかった。・・・インフレーションを克服する正しい政策は通貨量を減少させること以外にはなかったのである。しかし、それには一時的な景気停滞を引き起こしてしまう。過去の最大の誤りは、わずかの景気後退に直面すれば失業を回避すべく通貨量を急激に増やす政策を採用してきたことである。この点において、歴代大統領は連銀に通貨量拡大を命じる行動をとってきたのである。レーガンは、ことの次第を理解していた。インフレーションを克服する唯一の道を採用するには、一時的な景気後退を甘受すべきであると理解していた彼は、ボルカーを支持し、介入しなかった。・・・レーガンは、基礎的な経済目標を達成するために自分が採用した政策の政治的なリスクを熟知していた。そして、ご存知のように、一九八二年の世論調査で彼の支持率は下がった。しかし、インフレーションを十分退治し終えたと判断したFEDが通貨量拡大路線に転じるや、経済は回復し、それとともに、レーガンの支持率も回復したのである」。

 「すでに説明したが、ニクソン政権時代、規制の数は・・・二倍になった。レーガン政権時代になってほぼ半分に規制の数を減少させたのである」。

 「(サッチャー(Mrs. Thatcher)とレーガンの)二人はお互いに刺激し合った。彼らは互いに相手の成功を見ていた。サッチャーとレーガンが同時代に政権についたことによって、経済政策と貨幣政策面でいままでと違った別の理論が世界中の人々に受容されることになったと私は思う」。

9、チリ(Chile)のピノチェット(Pinochet)との関係について

 「チリにおいてアジェンデ(Allende)が放り出されて(thrown out)、ピノチェット率いる新政権ができたときのチリの情況に私が関連していたことがのみが、私が罵倒されることなのである。当時、たまたまのことであるが、アジェンデ政権に毒されていなかった(not tanited)経済学者グループはシカゴ大学で学んだ人たちだけであった。彼らがシカゴ・ボーイズ(the Chicago Boys)と呼ばれるようになった。この初期の時期にシカゴ出身の数人を含むグループとともに私はチリに赴き、チリの直面する問題について一連の講演を行った。とくにインフレーションを問題にし、それにどう対応すべきであるかを話した。共産主義者(comunist)たちはピノチェット打倒を決意していた。アジェンデ体制が革命によることなく通常の政治のチャネルを通じて共産主義国家を樹立させようとしていたと見なしていたからである。ここでも、ピノチェットはその試みを打ち破った。彼らはピノチェットを貶めようとした。そして、その結果、ピノチェットに関係するすべての人々を貶めようとした。その関係で、私もストックホルムにおけるノーベル賞記念式典(注、一九七六年、フリードマン受賞の年)の日に、私に反対する大規模なデモによる罵倒を受けた。私は覚えている。群衆の中にはシカゴで議論し、サンチャゴ(Santiago)で論じ合った人の顔が見えた。それは、私へのリンチ("tar and feather me"=タールを塗り、羽毛を貼り付ける私刑のこと)を狙った連携した組織行動であったことは明らかである」。

 「シカゴ大学の理論が実践に移されたという意味においてチリの事件が転換点をなすわけではない。それは政治的な面において重要なことなのであって、経済的な意味においててはない。共産主義に向かう動きが自由市場に向かう動きによって覆されたという最初のケースなのである。しかし、チリにはきわめて異常なことが起こっている。一つの軍事政権が対立する別の軍事政権に取って代わられたことである。軍隊は通常の経済とは違う。それは、トップ・ダウン組織だからである。将軍が将校に命令し、将校が部隊長に命令し、さらに部隊長が・・と続く。それに対して市場はボトムアップである。・・・ただし、チリで瞠目すべきことは、軍事政権が軍隊組織ではなく、市場組織を採用していることである。・・・私は、チリで話したときには私への批判を数多く受けた。しかし、チリで行ったものと同じ話を中国でしたときには、誰も意義を差し挟まなかった。どうしてなのだろう?」。 


福井日記 No.170 ハイエク、シカゴ大学、モンペルラン協会

2007-09-26 23:41:06 | 金融の倫理(福井日記)


 モンペルラン協会(Mont Pelerin Society)は、市場経済と開かれた社会(open society)の促進を目的として設立された国際組織である。

 一九四七年四月一〇日、フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)がスイスののモン・ペルランに世界から三九人を招待した。招待された人のほとんどは経済学者であったが、歴史学者、哲学者もいた。国家の現状、古典的自由主義(classical liberalism)の運命にならんで、世界を覆うマルキストやケインジアンたちとの闘争が会議のテーマであった。

 招待された人たちの中にはヘンリー・サイモンズ(Henry Simons)、ミルトン・フリードマン(後に会の会長になった)、元、米国のフェビアン協会員でフェビアン社会主義者であったウォルター・リップマン(Walter Lippmann)、「ウィーン・アリストテレス協会」(Viennese Aristotelian Society)の指導者、カール・ポッパー(Karl Popper)、オーストリー学派の経済学者、ルードウィヒ・フォン・ミーゼス(Ludwig von Mises)、一九四〇年~四六年の英国王立協会(the British Royal Society)会長を務めた後、イングランド銀行理事(senior official)、ジョン・クラッパム卿(Sir John Clapham)、オーストリー・ハンガリー帝国皇帝(the Austro-Hungarian throne)の末裔、オットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)、四〇〇年の伝統をもつイタリア出身の「ツルン・ウント・タクシス」(Thurn und Taxis)家の末裔でバイエルン(Bavaria)に本拠をもつ同名の老舗企業のマックス・フォン・ツルン・ウント・タキシス(Max von Thurn und Taxis)等々、錚々たる顔ぶれであった。

 中世の貴族、現在の上流階層、そしてオーストリー学派、つまり、上流階級にとってのよき時代のよき伝統を継承する面々だったのである。

 古典的自由主義とは、現代的な民主主義や共和主義を指すのではなく、貴族たちがもっていた高尚な心の自由を意味する概念であるように思われる。
 
 ここで、閑話休題。

 "Thurn und Taxis"のことである。この一族は、ハプスブルク家に代々仕えてきた大富豪である。

 ただ、正確な発音をまだ発見できないでいる。調べた資料はすべてこの原語のままで表記されている。ここでは、「ツルン・ウント・タクシス」と表記することにする。この三語で一つの姓である。

 一三世紀、イタリア、ロンバルディア(Lombardic)地方のベルガモ(Bergamo)近くに「タッソー」(Tasso)という家族がいた。タッソーとはアナグマの意味である

 一族のルジアーノ・デ・タシス(Ruggiano de Tassis)イタリアで郵便会社を設立し、一四八九年には、ジアンネット・デ・タシス(Jeannetto de Tassis)が、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝、マクシミリアン一世(Maximillian I, 1459~1519)から郵便業務の長に任じられ、以後、一族は馬による郵便配達の技術を発展させ、一五一六年にはブリュッセル(Brussels)に拠点を定め、ローマ、ナポリ、スペイン、ドイツ、フランスと、ヨーロッパ一円の郵便業務を独占した。いまでも一族の名前を冠した駅馬車ゲームがドイツでは人気がある。

 一六二四年、一族は伯爵(count)に列せられる。そして、一六五〇年一族の姓を「ツルン・ウント・タシス」に変えた。「ツルン」とは、塔を意味するイタリア語の「トレッタ」(torretta)がドイツ語の「ツルム」(trum)になり、さらに訛って「ツルン」(thurn)になったのだろうと推測される。「タクシス」とは文字通り「税金」の意味であろう。一族がハプスブルク家の徴税業務を請け負っていたことの名残であろう。

 レーゲンスブルク(Regensburg)にある一族の館は、英国のバッキンガム宮殿よりも大きい。邸宅の庭は夏になると一般市民に開放され、ミック・ジャガー(Mick Jagger)やマイケル・ジャクソン(ichael Jackson)などの演奏会が開かれている。

 一八六七年、郵便事業はプロイセン政府によって国有化されたが、ビール醸造所を買い占めた。いまでも、バイエルン州に一族の名前を冠したピルスナー系のビールは有名である。一九八八年にはノンアルコールのバイスビアー(白ビール)をライ麦から醸造することに成功している(Wikipedia、http://www.geocities.jp/regensburg_palme/rgbg/thurnundtaxis.htmlhttp://structure.cande.iwate-u.ac.jp/miyamoto/writing/essayreport/germtrv.htmhttp://www.austria.info/xxl/_area/540350/_subArea/570574/home.htmlなどのよる)。

 もうお分かりであろう、ハイエクの理想とする自由主義とは、ナポレオン以前の皇族たちも享受できる自由だったのである。

 フリードマンの義兄にアーロン・ディレクター(Aaron Direcor, 1901~2004)がいる。アーロン・ディレクターの妹、ローズ(Rose)とフリードマンは一九三八年に結婚している。ディレクターは、経済学におけるシカゴ学派を隆盛させた功労者であると言われている。

 一九〇一年、ウクライナ(Ukraune)チャルテリスク(Charterisk)に生まれ、米国に移民した後、第一次大戦後、エール大学(Yale University)入学、第二次大戦中、戦争省(the War Department)と商務省(the Department of Commerce)に勤務、一九四六年シカゴ大学ロー・スクール(the University of Chicago Law School)に採用される。著作は少ないが、シカゴ大学の発展に大きな貢献をなしている。一九五八年にはノーベル経済学賞受賞者(一九九一年)ロナルド・コース(Ronald Coase)と協同してthe Journal of Law & Economicsを創刊した。シカゴ大学はすでに一八九二年からthe Journal of Political Economy をもっているが、ディレクターは、法と経済学の接合を目指したのである。

 ディレクターが、米国の出版社のことごとくが断っていたハイエク(Friedrich Hayek, 1899 ~1992)の『隷属への道』(Hayek, F.[1944])をシカゴ大学から出版させた。



 
当時、ディレクターはまだシカゴ大学ではなく、上記のようにワシントンに勤務していたが、シカゴ大学出版部とのコネクションがあったし、なによりもすでにシカゴ大学にいたフランク・ナイト(Frank Knight)と親しかった。このこともあって、シカゴ大学出版部にこの本を出版させたたのである。

 ディレクターは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(London School of Economics=LSE)に留学していて、そのときにハイエクと面識ができた。ディレクターは、同時にモン・ペルランの開催に協力することになる。とくにシカゴ大学のメンバーをこの会の会員に勧誘することに成功した。シカゴ大学関係では、上記のフランク・ナイトとジョージ・スティグラー(George Stigler)がいた。もちろん、ディレクターも会員であり、その強い勧誘でフリードマンも会員になった。そして、フリードマンは、第一回のの会議に招待されたのである(http://www.pbs.org/wgbg/commandingheights/shared/minitextlo/int_miltonfriedman.html)。

 

 引用文献

Hayek, Friedrich[1944], The Road to Serfdom, Routledge Press; the University of Chicago Press.
     ハイエク、F. A.、西山千明訳『隷属への道』春秋社、一九九二年。


福井日記 No.169 レオ・メラメッド

2007-09-25 21:07:01 | 金融の倫理(福井日記)


 戦後、ブレトンウッズ体制下で、通貨の先物取引を貿易業者以外の者が行うことは禁止されていた。そうした禁止を押しのけて、シカゴ商品取引所(CME)に通貨先物取引と「国際通貨市場」(the International Monetary Market=IMM)を一九七二年に創設したのが、レオ・メラメッド(Leo Melamed)であった。

 それは、貿易と結びつかない純然たる利益取得目的で通貨を売買してはならないとしたブレトンウッズの精神を完全に葬り去ることであった。メラミッドが米国の通貨当局を動かした背景には、ミルトン・フリードマンの後押しがあったことが、NHKの両者へのインタビューで分かる(相田・茂田[1999b])。

 メラミッドは、一九六九年にCME代表になるや否や、取引所で扱う商品の多様化を図るべく、通貨の先物市場を作ろうとしていた。ブレトンウッズ体制の固定相場制は早晩行き詰まると考えていたのである(同、七〇~七一ページ)。

 「(通貨取引が自由に行われるようになると、通貨)の価格が激しく変動するようになり、その変動リスクをヘッジ(回避)するために先物取引が必ず必要になる。だから通貨先物は重要な新商品になると考えたのです」(同、七一~七二ページ)。

 固定相場制の時代は、通貨の価格(他の基軸通貨との交換レート)は安定させられていた、というよりも、固定させられていた。その意味で貿易関係者は通貨変動に備えるコストがゼロに近かった。ところが、変動相場制に移行してしまうと通貨の価格は激しく変動する。そのために、貿易関係者の取引関係者は通貨を調達するだけで大きな費用を被ることになる。少しでも費用を節約するためにも先物市場が必要であったと、メラメッドは説明する。

 しかし、そうだろうか。固定相場が維持されておれば、通貨に関する費用はゼロなのである。そのような安定的な体制が、自由なものではないという理由で崩され、変動相場制への移行という正しい選択がなされた。しかし、いざ、変動相場制になってみれば、通貨価格が激動するようになった。つまり、通貨を確保する費用が激増するようになった。せめて費用を小さくするために、先物が必要になるというのである。

 しかし、これら論点搾取である。固定相場を維持しておればいいではないか。なぜ、維持しないのか。メラミッドの答えは、固定相場制には規制がつきまとうからであるというものである。ここには、通貨先物取引によって、大きな稼ぎ口ができるとの私的利益確保の意図を読み取れる。

 確かに、固定相場制の維持には規制が必要である。規制は米国とその他の国の共同で行われる。米国は、流出した自国通貨のドルを他国の通貨当局が米国につきつけて金兌換を要求してくればそれに応じる。そのためにも、米国はドルが海外に大量に流出しないように、国際収支に気をつけなければならない。もとより、他国が貿易取引をするのに必要なドル(国際流動性と呼ばれる)が供給され得る程度に国際収支は赤字にしておかなければならない。しかし、その赤字も野放図な大きさになってはならない。つまり、米国は通貨と貿易の両面で節度を維持しなければならない。ブレトンウッズにはそうした約束事があった。

 他方で、米国以外の国は、ドルと自国通貨との交換レートを固定的に維持しなければならない。これは、通貨当局がドルを売買することによって行うものである。

 具体的には、貿易黒字のケースでは、ドル手形(ドル請求権)を売って円に換えようとする傾向が生まれるので、ドルが対円で安くなる。事態を放置すれば固定相場を維持できない。従って、日本では日銀が大蔵省の依頼を受けて円売り・ドル買いで対応する。この場合、市場に円が放出されるので、インフレーション圧力が生まれる。逆の場合は逆である。

 貿易赤字のケースでは、ドル手形の国内需要が増える。つまり、ドル高・円安になる。これに対応するには、日銀はドル売り・円買いで対応する。この場合、デフレーション圧力が生まれる。インフレーションとデフレーションの圧力に耐えることが他国の約束事であった。

 しかし、この約束事はお互いに守ることができなかった。実際には、米国はドルの垂れ流しを止めなかった。諸外国は生産面で国際競争力を失いつつある米国の市場に殺到し、自国周辺との分業による相互の市場提供にそれほどの努力を払わなかった。米国も諸外国も節度を失っていたのである。

 ブレトンウッズ体制では、システムの基盤である金の相場を安定させるために、一九六一年末に国際金プールが結成された。ブレトンウッズの生命である金を投機から守るべく先進諸国が力を合わせて投機に対抗するという、国際的協力の一つが金プールであった。しかし、ポンド切り下げの余波から一九六八年三月に三波に渉る金買いが市場で起こった。

 ついに、六八年ロンドン金市場は廃止され、各国の通貨当局は金を市場に売ってもいいが、市場から購入してはいけないという金の二重価格制が施行された。それは、六八年半ばでの各国の暗黙の了解事項であった。通貨当局が売る場合は、一オンス四五ドルを超えて売ってはならないとされた。市場における金の自由価格は四五ドルを上回っていた。金の二重価格制度の意味がこの二重性である。金はこの時点で事実上の廃貨に追い込まれていた。

 米国は、金兌換を緊急停止していた。途中、SDR(特別引出権)という米国と他国との妥協による新国際準備の創出があったが(一九六九年末)、米国は金兌換再開の努力をしないまま、正式にニクソンによる金兌換停止の公式発表を行ったのが、一九七一年八月一五日であった。これがいわゆるニクソン・ショックである。

 ブレトンウッズ体制で担わされた重荷を脱ぎ捨てようとする米国と、そうはさせじとする他国、中でも欧州諸国とのせめぎ合いの中で固定相場制度の断末魔が、一九六〇年代末に、見られたのである。

 
そうしたことへの思いはいたらず、自由を求める市場の正義と昔の規制にしがみつく悪しき守旧派との対立、といった勧善懲悪的史観しかフリードマン派はもたなかった。もっていたのは、新しい大きな金儲け口が生まれるという期待感だけだったのである。

   メラミッドはフリードマンの研究室に通うことになった。世界を代表する大CMEの代表が、純粋に研究目的だけで、著名な学者の研究室を出入りするものだろうか。そして、メラメッドはフリードマンに論文を書いてもらう。A四版一一ページである。通常の論文の長さである。「通貨の先物市場の必要性」(The Need for Futures Markets in Currencies)(一九七一年一二月二三日)という題であった。まさに権威者によるお墨付きである。

 この論文にフリードマンは、メラミッドに五〇〇〇ドルを要求したという。現在のレートでも六〇万円弱である。この時点なら一五〇万円強である。論文とは無料であるというのが私の置かれた環境であるが、私には想像もできないような高額の原稿料である。

 フリードマンはこの原稿料について、次のようにNHKのインタビューに答えた。それは、米国人は金銭的報酬の多寡によって人を評価すると揶揄したサルトルの述懐を彷彿とさせるものであった。

 「私が原稿を書くときは当然のこととして料金を請求しますし、受け取ります。それはいつものことですから。日本で講演会を行ったり、『日本経済新聞』に原稿を書いたりしますが、当たり前のこととしてお金を受け取ります。私は自由市場体制の信奉者です。人々はやったことに対して支払いを受けるべきだと思います。私は人が払ってくれた金額は仕事に対する評価だと信じています。また、人はタダで受け取ったものに価値を感じたり、敬意を払ったりすることはないと思います」(同、九〇~九一ページ)。

 一九七二年五月一六日、ついにCMEに通貨の先物取引市場が開設された。さらに、債券や金利など様々な禁輸商品の先物取引が始まった。空売りを基本形とするデリバティブは、この市場をジャンプ・ボードにしたのである。一九八二年には株式指数先物が世界で初めて導入された(Leo Melamed Biography on leomelamed.com)。

 NHKもメラミッドの生い立ちを詳しく紹介しているが、私も、ウェブサイトのメラメッドの自伝で落ち穂拾いをしておこう。

 彼は、一九三二年、ポーランドのユダヤ人家庭に生まれた。元々の姓はメラムドビッチ(Melamdovich)であった。一九三九年、在リトアニア(Lithuania)日本総領事の杉原千畝(すぎはら・ちうね)「救命通過ビザ」(life-saving transit visa)を家族は発行してもらい、シベリア経由で日本の敦賀に脱出することに成功する。太平洋を渡って一九四一年春に米国に到着、そしてシカゴに落ち着いた。ずっと法律家として生活してきた。

 幼児時代の逃亡生活で、数学教師であった父(アイザック=Issac)や兄から通貨の公的レートは絶対に信用するな、どこの国にもブラック・マーケットがあるのだから、そこで通貨の交換をするようにと教えられてきた。彼の回想によれば、日本の難民局(the Refugee Committee)は、到着した難民を利用してちゃっかり闇で儲けていたという。つまり、ユダヤ人たちは、日本から出て行かなければならないが、そのために、出国ビザ(exit visa)を発行してもらうには、五〇〇〇円を銀行に支払って公的レートで五〇ドルを買わなければならなかった。その五〇ドルは難民局に預託された。なんと、難民局はその五〇ドルを闇市場に流し、五〇〇〇円よりもはるかに多い円を獲得したのである。

 そして、当のユダヤ人家族が出国するさいに、五〇〇〇円を返却した。難民局はかなりの差額を手にしたのである。それはメラメッドのウェブサイトの自伝で紹介されているのであるが、彼は、難民局はその儲けで次に流入する難民救済に使ったと弁護している。どのような局面においても、闇市場の方が、権力よりも民衆には有利なレートであることを、彼は、強調したいのであろう。

 ユダヤ人の塗炭の苦しみの経験からくる権力への憎悪。それは分かる。しかし、彼らは米国の権力にはすがる。その同じ彼らが、逆に外国政府の権力行使を強く排除するのである。ご都合主義的な反権力論=市民論である。

 引用文献

相田洋・茂田善郎[1999b]、『マネー革命②―「金融工学の旗手たち」』NHK出版。


福井日記 No.168 フリードマンのパーフォーマンス

2007-09-24 17:46:46 | 金融の倫理(福井日記)

 私が学んでいた一九六〇年代の大学では、その時点における「現代資本主義」とは「管理通貨体制」(Managed Monetary System)と教えられてきた。その心は、金兌換の義務を米国が負い、対ドル固定相場をその他の国が負い、攪乱的な資本移動を禁止して、金融は生産的な部門に安定的に注ぐことにある。そうしたシステム、つまり、通貨が管理されているのが現代資本主義であると理解されていたのである。戦前の投機的なホット・マネーの動きを禁止しなければ資本主義体制はもたないし、米国も、他の国も金融におけるモラルを守るというのが管理通貨体制の基本形だと教えられてきた。

 いまでは、「管理通貨体制」という言葉は死語になった。それがいつからかはまだ確かめてはいないが、少なくとも最近の学生に、戦後は「管理通貨体制」だったのだよと言っても、いぶかしがられるのがおちだろう。いつの間にか、若い学生は、旧い因習的な日本の経済体制が、自由の国、米国との接触の下で、合理的開明的なシステムになった。そうした方向に向かって一直線に移行してきたのが、戦後経済の歴史である。

 
それは市場を熟知する経済の専門家たちが、頑迷な官僚の思考を打破する過程であった。このような理解の仕方に若者たちが浸るようになった。米国がつねに革命者であり、それに抵抗する国の政府には、権力にしがみつく保守反動派というレッテルが貼られるようになった。とくに、日本では小泉ブーム小泉チルドレンの登場によって、そうした思考が主流になってきた。

 経済は一瞬たりとも立ち止まることなく、変化して止まない。そして、変化し終わった後は、元に戻すことはほぼ絶望的である。しかし、旧いシステムから新しいシステムへの変化を、進歩と決めつける思考方法には慄然とする。歴史は度々退化するのである。

 
管理通貨体制から金融のファンド化体制への移行を、私は歴史の退歩と理解している。しかし、現在のファンド化体制を昔の管理通貨体制に戻すことは不可能であろう。とは言え、将来は誘導できるはずのものである。奈落に向かって突き進むいまの体制を別の方向に向けることは可能なはずである。

 一九六〇年代、カレンシー・ボード(通貨局)体制を基礎に置く英国ポンドの没落は明らかであった。事実、一九六八年に英国通貨当局は、スエズ以東から撤兵するとの方針を公にして、ポンドを国際通貨の座から降ろしてミニ・ブリテンの国民通貨にする意図であることも示した。カレンシー・ボードとは、英国の植民地に設定されていた通貨発行システムであった。植民地が稼いできた米ドルは、カレンシー・ボードに吸収され、そのドルをイングランド銀行に預託させる。植民地は預託したドルを対価に自国通貨の発行が許されるという体制がカレンシー・ボード・システムであった。こうしてイングランド銀行に蓄積されたドルを、英国は対外赤字の決済に使っていたのである。そうして使われたドルは、英国政府がドルを預託した植民地に返却されなければならない負債となる。それはポンド建てで表示されたポンド残高と呼ばれた。

 植民地が植民地の地位に留まるかぎり、ポンド残高の返済は行われなかったが、植民地が独立国になり、カレンシー・ボードを廃止して自己の中央銀行をもつようになると、植民地はポンド残高の返済を英国政府に迫るようになる。しかし、英国政府には支払えるドルがない。一九六〇年代、英国の植民地は相次いで独立していった。ここに、ポンドの没落は必至だったのである。

 ポンドが没落過程に入った一九六〇年代後半に、もし、いまのようなポンド先物市場が存在しておれば、投機家は確実に儲けていたであろう。

  こうした情況を見たミルトン・フリードマンが、ポンドの空売りをしようと、一九六七年一一月に、シカゴ中の主要なすべての銀行を訪問してポンドの先物の売りを申し込んだ。銀行からの返答は、通貨の先物は特定の顧客か商業目的に制限されたものなので、フリードマンの取引の申し出を受けることはできないというものであった。さらに、「連銀は(イングランド銀行も)先物取引を好まないだろう」とも言われてしまった。

 彼はカンカンにになって怒り、当時彼が隔週で担当していた『ニューズウィーク』(Newsweek)のコラムで鬱憤をぶちまけた(Friedman, M. & R. Friedman[1998], p. 351)。

 これが、アカデミズムの世界でフリードマン破門説を生み出した。フリードマンがナイトから波紋されたと噂されたのである。その後、彼は、ブレトンウッズ体制下の固定相場制の撤廃を執拗に求めるコラム記事を『ニューズウィーク』誌に積極的に寄稿する。.

 そうしたフリードマンの行動を苦々しく見ていたのは、宇沢弘文氏であったという。内橋克人氏が宇沢氏から聞いたことだがと断られて次のように書いている(内橋克人[2006])。

 「近々イギリスのポンドが切り下げられることが確実にわかっていたのですが、ポンドが切り下げられる前に今の価格で空売りしておけば、実際に切り下げられたときには確実に儲かるのです。そこでフリードマンは銀行に行って、『一万ポンド空ウリしたい』と申し出たわけです。ところがその銀行のデスクはフリードマンの申し出に対して、『われわれはジェントルマンだから、そういうことはやらない』と言って断ったのです」(同、九六ページ)。

 「ジェントルマン」だからと言って断った銀行は、コンチネンタル・イリノイ銀行であり、この銀行は投機目的の融資を禁止する一九三四年のグラス・スティーガル法に従ったと内橋氏は解説している。

 「しかし断られたフリードマンはかんかんになって帰ってきて、ランチの席で宇沢さんを含む同僚の教授たちに向かって『資本主義の世界では、儲かるときに儲けるのがジェントルマンなのだ』と真っ赤になって大演説をぶったそうです」(同、九六ページ)。

 「このエピソードを見ても、フリードマンは先物による商品や通貨の取引は、投機によるものも含めて全面的に自由化すべきだと考えていたことがわかります」(九七ページ)。

 「この話には後日談があって、シカゴ学派の指導者の1人でフリードマンの先生でもあったフランク・ナイトがこうした話を聞いて激怒し、フリードマンとスティグラーを『今後、自分のところで博士論文を書いたと言うことを禁止する』と言って破門してしまったというのです」(九七ページ)。

 「ジェントルマン」云々とか、ナイトから波紋されたこととかについて、田中秀臣氏がそうした事実はなかったとご自身のブログ(Economics Lovers Live)で反論されている(「フランク・ナイトは本当にミルトン・フリードマンを破門したのか?」;
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061122)。

 宇沢氏と田中氏のどちらが正しいのかを判定する手段を私はもたない。しかし、フリードマン夫妻の『幸運な二人―思い出』(Two Lucky People―memoirs)「グーグル・ブックス」のウェブサイトで閲覧できるが、この間の経緯を記述している第二一章「政策論争への参加」(Participating in the Public-Policy Debate, pp. 333-65)は掲載されていない。

 問題は、破門されたこと、銀行から紳士ではないと非難されたか否かという点にあるのではない。そんなことはどうでもいいことである。人格攻撃は不毛である。重要なことは、フリードマンの力で固定相場制度が正式に放棄され、シカゴ商品取引所(CME=Chikago Mercantile Exchange)が創設されたことである。

 「一九六八年に私はニクソン大統領に私信を送りました。金とドルのつながりを今すぐに断ち切って、金ドル交換制をやめるべきだと伝えたのです。残念ながら提案は受け入れられませんでした」(相田・[1999b]、八一ページ)。

 NHK取材陣は、この言葉の重大性に気づかず、CME内に通貨先物取引を新設するために接近してきたレオ・メラメッド(Leo Melamed)との出会いを聞いただけで引き下がっている。

 そして、規制緩和を求めるフリードマン、「政府の「規制は最低限にとどめ、自由な市場のもとで通貨の価格を決めるべき」だというフリードマンを持ち上げたのである。

 国際通貨の一角を担うポンドがその座から降りようとしているとき、ドルは、ポンド後の負担を一身に引き受けなければならない運命にあった。そうなることからは逃げたかったのが、ニクソン政権の本音であったろう。

 しかし、ベトナム戦争の激化によって、ドルは奔流のごとく海外に流出した。しかも、金との交換性を約束している政府の公的ドルの流出であった。金兌換の義務を放棄して米政府はドル価値下落を放置するのではないかと諸外国は疑心悪鬼になっていた。

 米政府の外交は行き詰まっていたのである。そして、一九七一年八月一五日、米政府は義務を放棄した。これを政府規制という悪から自由市場という正義に経済体制が移行したとして手放しでフリードマンを称えて見せたのが、NHK『マネー革命2』であった。



福井日記 No.167 マートン・ミラーその1

2007-09-21 05:04:25 | 金融の倫理(福井日記)
 一九九〇年のノーベル経済学賞受賞者三人のうちのあと一人であるマートン・ミラー(Merton Howard Miller, 1923~2000)の「モディリアーニ=ミラー命題」(両者の頭文字を取ってMM命題と呼ばれている)も説明しておこう(Modigliani, F. & M. H. Miller[1958])。

  ノーベル賞の授賞式で記者たちの質問に答えて、ミラーは、「私たちが証明したのは、ピザを五つに切っても、七つに切っても、ピザの総量には変わりがないということです」と言ったという。野口悠紀雄氏は、この発言について、「しゃれていて、しかも問題の本質を突く、いかにもアメリカのビジネススクールの先生らしい答えだ」と褒めておられる(野口悠紀雄「『超』整理日記」二〇〇六―〇五―二〇「銀行の『資本増強』策はみせかけだけ」;http://www.noguchi.co.jp/archive/diary/dr_060520.php)。

 この命題は、資金調達方法の変更などのいかなる財務戦略を取ろうとも、そのことで企業価値が影響を受けることはないということである。ここで、企業価値とは企業の発行する株式の時価総額のことである。企業価値が株価で測られるという習慣はすでに一九五〇年代からあったようである。

 MM命題は、企業の資金調達(Corporate Finance)に関する当時の伝統的理解を批判したものであった。当時の主流は、最適な負債・自己資本比率があるはずで、その比率によって資本コストを最小にすることができるというものであった。この考え方を批判したMM命題は、企業経営者の最大関心事は税負担軽減であり、企業の資産を増やすことである、そして、最適な負債比率などはないと切り捨てたのである。この命題は、完全市場の存在を前提にしている。企業が借り入れを増やして利益を増大させると、金利払いを控除した利益を自己資本(=発行株式)で割った値、つまり、一株当たり利益(EPS=Earnings per Share)が上がり、株価がそれによって上昇しそうに見える。しかし、借入を増やせば、企業にとってそれだけリスクが大きくなることを意味していて、株価を下げる圧力となる。結果的に株式時価総額は上昇しないというのである。

 しかし、どうであろうか。ライブドアが三万株分割によって、日本で最大の株式時価総額を記録したことは、理論ではありえないが、日本の株式市場が不完全で歪みがあったから生じたことにすぎず、日本市場が完全市場になれば、日本の市場の歪みが是正され、そのようなことはありえないと強弁できるものであろうか。

 
現実の市場が不完全であるから生じた。完全市場なら、裁定取引が働くので、理論が教えるように、時価総額が増大するようなことはありえないとの説明がどの程度の意義をもつのだろうか。理論は正しいが、その理論通りにならないのは現実が間違っているからであるというのが、多くの学者が好んで使う説明方法である。しかし、歪んでいる市場が存在しているというのが現実なら、そうした現実に沿う理論を開発することの方が大事ではないのか。完全市場を前提にするのはただ、モデル化しやすいということだけなのではないか。

 株の一〇割とは、一株が一〇株になることであり、株価も一〇分の一になることである。分割によって、安く市場に出回る株が増えて投資家は買いやすくなるため、株主を増やす目的で実施されることが多い。

 そして、大幅な株式分割が、二〇〇一年一〇月の改正商法で可能になった。それまでの「株式分割後に一株当たりの純資産が五万円を下回ってはならない」との規制が撤廃され、分割数の制限がなくなったためである。

 ライブドアは、1、二〇〇一年七月に三分割、2、二〇〇三年八月に一〇分割、3、二〇〇四年二月に一〇〇分割、4、二〇〇四年八月に一〇分割と、四回にわたり自社株を分割した。一株が三年間で三万株に増殖したのである。二〇〇六年四月一三日時点で、発行済株式数は一〇億株を超え(一〇億四九四六万八〇四五株)、時価総額は九八六億円強(九八六億五〇〇〇万円であった(http://quote.yahoo.co.jp/q?s=4753.t&d=t)。新興企業の中ではずば抜けて大きかった。この高い株価を使って株式交換を通じて次々と企業買収を繰り返したことは記憶に新しい。

 株式を一〇分割すれば、その直後は株の価値も理屈上は一〇分の一になるはずである。しかし、実際は分割の発表直後に株価が急騰するケースが多い。分割に伴って発行された株券が印刷されるのに五〇日程度かかり、その間は株を買えても売ることができないため、株価が上昇するからである。ライブドアの株価は、一〇〇分割の発表後、発表前より最高で八・五倍にもなった。司直の裁判に立たされている堀江貴文容疑者は自著で「株主を増やすため株式分割した」と説明したが、関係者によると、株価上昇も狙いだったという。

 二〇〇五年三月、株式分割による急激な株価上昇を避けるため、東京証券取引所は、五分割を超える株式分割を自粛するよう全上場企業に要請した。株券は二〇〇九年六月までにペーパーレス化が始まり、分割直後でも売買は成立するため、「ライブドアと同じ手法で株価をつり上げるのはもう無理」(大手証券会社幹部)だという(http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/96/livedoor007.htm)。

 しかし、「サンケイ・ウェブ」によると、ライブドア・グループによる証券取引法違反事件をきっかけに問題提議された大幅な株式分割について、法務省と金融庁は二〇〇七年一月、この規制強化の考えを見送る方向で検討に入った。東京証券取引所の大幅な株式の分割自粛要請に加えて、さらなる規制の強化を行えば、「株式市場の活力を奪いかねない」と判断したためであるという。

 二〇〇六年までは、分割の実施後実際に子株が売買できるようになるには株券の印刷の関係などから五〇日前後の期間を必要としていたが、二〇〇七年に入ってからは分割翌日から売買が可能となった。つまり「分割による株価つり上げ」という錬金術は事実上封印されたと判断されたのであろう。

 金融庁には、「株式分割自体は投資家を市場に呼び込むもので決して『悪』ではない。あまりにも規制を重くすると市場が沈滞してしまう」という意見があるという。だが一方で自民党内からは相変わらず、規制強化を叫ぶ声が相次いでいる(http://www.gamenews.ne.jp/archives/2006/01/post_478.html)。

 さて、マートン・ミラー戻ろう。ボストン生まれのミラーは、第二次大戦中は、財務省で税制研究に従事していた。一九五二年、ジョーンズ・ホプキンス大学(Johns Hopkins University)経済学博士、直後、LSE客員准講師を務めた。その後、カーネギー技術研究所(Carnegie Institute of Technology)でノーベル賞受賞論文をモディリアーニと共同で書いた。この研究所は後にカーネギー・メロン大学(Carnegie-Mellon University)となった。この研究所が併設していたビジネス・スクール、産業管理大学院(Graduate School of Industrial Administration)は、調査を主体とした最初のビジネス・スクールでいまなお大きな影響力をもっている。いまでは、名称もテッパー・スクール・オブ・ビジネス(Tepper School of Business)に変わっている。

 修士号は、ハーバード大学で得ている。フリッツ・マハループ(Fritz Machluo, 1902~1983)の指導を受けた。ユーゲン・ファマ(Eugene F. Fama)、マイケル・ジェンセン(Michael Jensen)、リチャード・ロル(Richard Roll)、マイロン・ショールズ(Myron Scholes)など、錚々たる学者を育て上げた。一九七六年、米国ファイナンス学会(the American Finance Association)会長、一九六一年~一九九三年までシカゴ大学ビジネス・スクール(the University of Chicago Graduate School of Business)教授を務めた。一九八三年~八五年までシカゴ貿易会(the Chicago of Trade)理事、一九九〇年~二〇〇〇年六月三日(死亡日)シカゴ商品取引所(the Chicago Mercantole Exchange)理事を歴任した。

 しかし、多くの俊秀を育て上げたとはいえ、資金調達方法によって、企業の株式時価総額に変化はないということがノーベル賞に値するのであろうか。しかも、一九五八年という旧い論文が、三二年も後の一九九〇年のノーベル賞の対象になったことは何を意味するのであろうか。

 一九九〇年代に入って急速に進展した金融、とくに、先物やオプションといた、証券の自由化の流れと彼らの受賞とは無関係であると言い切れるのだろうか。

 マートン・ミラーは、歴史認識において首を傾げざるをえないようなことを平気で口にする。このような歴史認識しかもたない人が世界経済の根底を揺るがすだけの巨大な金融組織のカリスマになっているのである。

 例えば、NHKの取材陣に対して、大坂堂島の米の先物取引所について、次のように語った。米国人なので、日本の歴史に正確な知識をもてという方が無理なのだが、それにしても、彼の歴史認識は、規制と規制からの自由としたステレオタイプ的なものでしかないことが分かる。

 「先物市場は日本で発明されたのです。米の先物市場が大坂の真ん中の島で始まりました。それは現代的な取引制度を持った最初の先物市場でした。それは現代の先物市場がもっているすべてを完備した先物市場でした。それはあまりにも成功しすぎてしまったので、政府につぶされてしまって、今日では存在していません。そして、同じようなものは生まれませんでした」(相田・[1999b]、六一ページ)。
 「(堂島米会所は)人類に対するすばらしい貢献だったからです。だから、現代の日本当局が先物やオプション市場を持つことを許可しないと聞いて笑ってしまいました。当局はただ自分たちの支配権が起こされることしか念頭にないのです。実にばかげています」(同、六二ページ)。
 「世界最初の先物市場を政府がつぶされてしまいました。最終的にはさすがの大蔵省も先物やオプションの取引を許可しましたが、それは私たちがうるさく文句をいったから、仕方なく引っ張られたのです」(同)。
 「(日本の先物市場は)残念ながら不毛の土地に落ちた種に似て、まったく発展しなかったのです。規制さえなければ、日本はこの分野の先駆者になれたかもしれません」(同ページ)。

 堂島米会所の歴史を正しく認識しておれば、民間の力の拡大を恐れた明治政府が会所を廃止したという馬鹿げた議論などできたものではないのに、なんと天下のNHKがミラーに追従を言ってしまう。

 同書は言う。
 「市場の自主性に委ねるべきことまで政府の強健で閉じこ込めるのは間違いであり、それは市場の健全な発達を妨げこそすれ、促すことはない」(同、六三ページ)。

 せめてNHKには正しい日本史認識をもってもらいたい。デリバティブやオプションを認めることが市場の自主性なのだろうか。巨大ファンドの跳梁跋扈が市場の発展なのだろうか。『マネー革命①』で厳しく米国の金融新商品を批判した人とこの『マネー革命②』の著者は同じ人なのだろうか。

 市場はなんらのルールを持たずに勝って気ままに動くものではない。どうしても法の裏付けがなければならないものである。ところが、経済学部出身者ではなく法学部出身者が大蔵省を牛耳っていることこの著者が疑問を出す。市場の心理に通じない者がなにゆえにわがもの顔で市場を支配しているのかと著者は息巻いている(同、六三ページ)。

 逆に聞きたい。経済学部出身者が大蔵省や金融界を支配するようになれば市場の心理が分かるようになると本気で著者は考えているのか。わずか二年間の専門教育で何が分かるというのか。これは、NHK出版の著者の意見ではなく、金融専門家たちの意見であるという逃げを打っている。しかし、経済学の専門家といっても一色ではない。経済学は科学であるよりもまず人間学であり、社会科学であり、歴史哲学である。解答は一つではないことぐらいNHKたるものは知っておくべきことである。

 なによりも、米国政府によって、押し付けられたことが正しいことなのか。ミラー自身が述べているように、証券先物やオプションは米国によって押し付けられた。市場を知る米国が市場を知らない日本政府を正しく導いたとでもNHKは言いたいのであろうが、オプション導入を拒否することが市場を知らない行為であると言い切れるのだろうか。米国発の金融市場化が、生産システムを破壊する恐れがあると認識していたからかつての大蔵省の守旧派は、正しい金融市場を守ろうとしてきたのではなかったか。事実、米国政府のいいなりになった後、日本の生産的企業の資金繰りは、とたんに苦しくなった。NHKよ、なにを言ってくれるのだと私などは怒りを覚える。

 少なくとも歴史には因果関係があり、正しい者と悪い者とがせめぎあうといった単純な世界ではない。市場依存者が正しく、市場を規制するものが邪悪な権力であるなどと断定するのは歴史を正しく勉強したことのない者の発言である。そう言えば、米国の経済学部には歴史学はない。歴史は理論が掴んだ正しい方向に進むはずなので、正しい理論に従えば歴史は理論が説いた方向に進むなどと考えてしまう単細胞に私たちは与すべきではない。

 米国流の証券化の結果、サブプライム問題が起きた。それは現代資本主義の根底を破壊しかねないものである。サブプライムを規制しなければ現在の苦境から脱出する方法はない。金融市場は、好調なときには権力を批判するが、苦境に立てば直ちに権力にすがる。しかし、自由化を進めるにせよ、救済を求めることにせよ、瞬時に権力の庇護を受ける体制作りに権力との日常の連携作りに、金融界は余念がないのである。

福井日記 No.167 マートン・ミラーその2

2007-09-21 05:03:27 | 金融の倫理(福井日記)
 さて、堂島米会所問題に戻ろう。
 幕末の幕府、諸藩の財政窮乏化がまず会所崩壊の原因があった。この会所を利用して、担保となる米がないにもかかわらず、諸藩は過米切手、空米切手を呼ばれる融通手形を過剰に発行していた。これが全国に出回り、経済は大混乱に陥ってしまった。米価格は大暴騰していた。会所はもはや先物市場も価格付け機能も喪失していた。幕末の金融システムを破壊したものこそ、先物取引の堂島会所だったのである(酒井・鹿野[2000])。

 明治新政府は、堂島周辺に蝟集していた諸藩の大名蔵屋敷を没収した。当時の堂島は大名を最大の顧客にしていた。大名の没落が会所を没落させたのであり、しごく、当然の歴史の成り行きであった。けっして繁栄する民衆の力を弾圧するために、明治新政府が会所を廃止したのではなかった。

 明治政府は、明治四年、大阪に米会所を復活させた。しかし、新政府は、商品会所よりも株式取引所を渋沢栄一に調査させ、明治二年に「株式取引所条例」を発布したが、結局は明治一一年に株式取引所が東京と大阪に開設された。ただし、幕末の金融混乱の強烈な記憶から先物切手の取引は許可されなかった。

 そして、昭和の戦後、周知の食糧難である。このような異常時には主食も米は統制下に置かれた。さもなくば、貧乏人は米を食べることはできなかったであろう。私などは米穀通帳をもって一九六〇年に京都に下宿した次第である。私などは、そのことによって権力に怒りをもつよりも、米を食べることができたことに感謝したほどである。一九九五年には阪神淡路大震災の直撃を受けた。コープをはじめ、神戸の商店は物資を無料に近い価格で大量に供給してくれた。このような異常時にデリバティブなどを放任すれば私たちには生活必需品は回ってこなかったであろうと断言できる。当時、市場は閉鎖状態にあった。民衆はそれに感謝こそすれ、怒りなどは覚えなかった(本山[1996])。

 少なくとも日本を代表する良識派のNHKならば、幕末・明治維新の説明ぐらいは、日本史の知識に乏しい新古典派の領袖にご進講してほしかった。
 追い打ちをかけるようで申し訳ないが、マートン・ミラーの政治感覚のなさにも唖然とする。

 一九九八年一一月、マートン・ミラーは、北京の清華大学で講演し、次のように発言した
 「東南アジア諸国は、まず通貨局を設立し、本国の通貨を日本園とリンクさせれば、東アジアが実現しようとする通貨連盟はスタートラインにつくことができる」(http://www.bjreview.cn/JP/04-16/16-zhongyao-l.htm)。

 よくぞ、中国でこのような発言をしたものである。そもそも日中関係の険悪さを知っていないし、かつての円圏の記憶に中国人は覚えているとの感覚もない。しかも通貨局云々である。通貨局とは「カレンシー・ボード」(Currency Board)のことである。カレンシー・ボードとは、ハード・カレンシー(強国の通貨)を一〇〇%準備とし、その外貨額に応じて国内通貨を発行する機能を担うものである。それは、中央銀行の廃止を意味する。通貨局をもっているのは、英国の植民地であった香港であった。通貨局を設立して日本円にリンクしろとは、中国を日本に従属させることである。通貨発行権は日本のみにあることになるからである。

 よくもこんなに恐ろしいことをシレーと言えたものである。支配・従属の歴史認識はおろか、通貨に関する認識ももっていないからこそ、言えたのであろう。この程度の人に世界の金融が掻き回されてきた。

福井日記 No.166 期待収益率=コスト水準

2007-09-20 00:18:23 | 金融の倫理(福井日記)

 フランコ・モディリアーニとの共同研究、企業の資金調達に関する理論(モディリアーニ・ミラー理論=MM理論)によって、一九九〇年にノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学マートン・ミラーは、堂島会所後を訪問して献花したという。ミラーのこの行為が日本のいわゆる金融の自由化(実態は、先物とレバリッジの解禁)の幕を開けたのである。

 マートン・ミラーに流れ、ミラーからマイロン・ショールズに流れる考え方の変化について説明しておこう。

 大きな流れは、経済学にあった所得論が、消費の大きさがどこで決まるかといった消費関数論に次第に変わっていき、消費の大きさの議論が資産保有の動機論に移り、資産保有論が、金融資産の保有論に集中してきたという点にある。

 マクロ経済学で議論されていたのは、「所得が増加すると、消費も増加する。しかし消費の増加は所得の増加に及ばない」という、ケインズの消費に関する「絶対所得仮説」というものの当否を巡るものであった。

 例えば、フランコ・モジリアーニ(Franco Modigliani)は、過去の所得水準の記憶とか、所得の変動などの記憶が、消費行動に習慣性を与えるという消費に関する「習慣仮説」を打ち出した。人々の消費行動は、過去の最高所得の記憶によってもっとも大きな影響を受ける。過去、高所得によって高い水準の消費を経験したことのある人は、その後、所得が減少しても、預金を切り崩してこれまでの消費水準を維持してしまう。節約しなければならないという考えが脳裏によぎりながらも、それまでの消費水準を落とすことになかなか踏み切れないのである(Modigliani, F.[1948])。

 ジェームズ・デューゼンベリー(James S. Duesenberry)もケインズ的な絶対所得仮説を修正して、社会の平均的所得と消費、そして過去の記憶に基づく消費行動を論じた。消費に関する「相対的所得仮説」と言われるものがそれである(Duesenberry, J.[1949])。

 流動資産を考慮したとき、ケインズ的絶対所得仮説は十分現実分析に使用可能であるとして、ケインズを擁護したのが、ジェームズ・トービン(James Tobin)であった(Tobin, J.[1951])。しかし、トービンのケインズ擁護の論文は、フリードマンによる統計作成の弱さへの罵倒によって一蹴されてしまった感がある(Friedman, Milton[1957])。

 フリードマンは、所得を「恒常所得」と「一時所得」に分ける。所得の長期的なトレンド線を描き、トレンド線上にあるものを長期所得、トレンド線から離れたものを「一時所得」と定義した。トレンド線よりも下にあれば、一時所得はマイナス、トレンド線より上にあれば、一時所得はプラスであるというように、一時所得を理解する。

 一般的に、高所得者層は一時所得が大きく、それが恒常所得を高くさせている。低所得者層は逆に、一時所得がマイナスであるケースが多い。そのために、恒常所得も低くなる傾向がある。所得を構成するものは、人的資本(給与などの報酬)と並んで資産である。

 消費も「恒常消費」と「一時消費」に区分される。「恒常消費」は、恒常所得に比例する。「一時消費」は一時所得に比例するわけではない。高い一時所得者の一時消費は、社会的平均よりも大きく、一時所得がマイナスの人は消費を控えてしまう。したがって、一時所得と一時消費との関係は、ケインズの描いた消費関数に近くなる。しかし、恒常消費は時間を通じて安定的なトレンド線を示す。これがフリードマンの「恒常所得仮説」である(ibid.)。

 ライフサイクルによって、所得と消費との関係は変動する。時々の所得というフロー面だではなく、ストック面(貯蓄、固定資産、金融資産など)を加味して、年代ごとに異なる消費性向に注目して、人の生涯を通じる消費動向を理論化しようとしたのが、モディリアーニである(Modigliani, F.[1966])。

 貯蓄動向との関係で消費を見るという点では、消費関数議論は日常感覚に近づいたが、しかし、この当たりから経済学の関心が、社会全体の構造分析ではなく、金融資産保有形態の分析に傾斜することになった。

 しかも、戦後ずっと右肩上がりの価格を継続し、したがって、所得の増加を保証していた株式価格の大暴落が、オイル・ショックを引き金として発生した。この環境下で所得増との関連だけで金融資産を扱う傾向に対抗して、リスクなり不確実性を、マイナス面からだけ見るのではなく、その存在を逆手に取って、儲け口として受け取るという発想の逆転が試みられ、社会全体の潤滑油としての金融ではなく、金融商品に投資する人々の所得は保障されているのだという理論がもてはやされるようになった。

 一九五二年という、一九七三年の株価大暴落より二〇年前のH・M・マーコビッツ(Harry M. Markowitz)のポートフォリオ分散投資論が突如脚光を浴びるようになったのは、そうした株価動向の激変時を反映するものであった(Markowitz, H.[1952])。そして、マーコビッツは、論文発表からじつに三八年後の一九九〇年、「資産形成の安全紙を高めるための一般理論」形成に貢献したとして、スウェーデン銀行から、「ノーベルを記念する経済学賞」を授与された。このときにともに授与されたのは、マートン・ミラー(Merton H. Miller)、W・F・ミラー(William F. Sharpe)であった。

 このときのノーベル賞が、リスクを取ることが儲けに繋がるという金融技術開発にお墨付きを与えることになったのである。

 一九三〇年代、四〇年代の経済学は、ケインズやヒックスに代表されるように、株式や債券を売買するだけの金融市場をカジノとして軽蔑していた。しかし、投資家はリスク分散を図っているはずなので、理論は、リスクを排除すべき要素として退けるのではなく、リスクにも価値があること、待つか、逃げるかなどの判断にも価値があることを説くべきである。そのことによって、金融関係者にリスクを取ることの意義に気付かせ、カジノと言われる屈辱から、科学的思考術の開発者としての自覚をもたらすべきであるとの理解が定着させられたのである。 

 リスクのない(リスクフリー)金融資産とリスクのある金融資産を組み合わすポートフォリオが望ましいと簡単に言われても、膨大な組み合わせのすべてに数値を与えるなどは不可能である。つまり、原型のポートフォリオ理論を証券業界が実用化できるためには、リスクとリターンをシンプルな数式で表すことができる手法が必要である。

 これを提供したのが、ウィリアム・シャープ(Sharpe, William[1963][1964][1970])である。

 将来受け取ることのできる現金(将来キャッシュフロー)を保証する資産を現時点で売買しようとするとき、その資産の現在価値(価格)は、いくぶん、割り引かれて付けられるはずであるが、それには、どういう計算方法があるのかといったことが、証券売買の基本的な考え方である。

 ちなみに、証券業界では、「価格」を「価値」と表現する。「企業価値」とは、企業が発行する株式の総「価格」のことである。株価の時価総額の高い企業ほど「企業価値」が高いとされている。奇妙な格付けである。それはけっして企業が社会に貢献する度合いを測る価値ではない。

 それはともかく、リスクとリターンとの関係を計測するにあたって、もっとも重要な要素は、将来受け取る金額をどの程度割り引いて現在に現金で受け取るには、正しい割引率がなにかということである。一年後に受け取ることのできる一一〇万円の年率割引率が一〇%であれば、現時点で一〇〇万円となる。割引率を取引に参加する利害関係者がどの程度なら納得するのかが、証券業者の技術になる。

 この割引率は、リスクの大きさに依存するとされた。リスクのない(リスクフリー)金融資産を想定した将来の受け取り現金から、リスク回避のためにリスクテーカーに支払う費用を差し引いた後に受け取ることのできる将来の現金を「期待収益率」という。一年後の満期で一一〇万円を受け取ることのできるリスクフリーの金融資産を現在買おうとする投資家が、現在、その金融資産を買って二〇%の収益率を実現させようとすれば、現時点で一〇〇万円ではなく、九一万六〇〇〇円ならその金融資産を買おうとする。この二〇%が期待収益率である。

 そして、この期待収益率が顧客の「リスク認識」になる。ここにリスク認識をめぐる一種の意図的操作がある。「期待収益率」=「リスク認識度」とし、「期待収益率」が高いほど、現時点の価格は安くなる。逆に言えば、リスクが高くなるほど「収益率」が高くなる。高い収益率を得ようとすればリスクの高い金融資産を購入すべきであるということになる。「期待収益率」=「リスクの高さ認識」がすべての操作の基本形である。ここで問題にされるリスクは、日常感覚でいうリスクとはかなり異なったものである。リスクフリー資産のもたらす収益よりも大きな収益を取ろうとすることがリスクというのである。最低水準で保証されている収益よりも大きな収益をもとうとする期待がリスクと呼ばれるように転倒した発想がここではなされている。

 株式投資に例えれば、ある企業株を買う投資家の期待収益率が高まれば、その株の現在価格は下落せざるを得ないということになる。日常感覚からすれば、ある企業への投資はリスクが高いから、その企業の株価が下がるという理屈になるのに、証券業者の思考様式に沿えば、投資家の期待収益率が高くなったので、株価が下がってしまうので、株価の下落は投資家の要求が強すぎるからであるということになってしまう。

 ノーベル賞を得たシャープの「資本資産評価モデル」(CAPM=Capital Asset Pricing Model)とは、リスクが高いほど収益率は高いということを示す考え方であるが、リスクとは期待収益率と同義である。これは一種の論点搾取である。

 その前提条件がすごい。四つある。
 1、投資家は、期待収益率、分散、共分散について共通の予想をもつ。これは、市場全体のリスクの大きさ、株価のばらつき(分散)、ばらつきの変化方向(共分散)に関する情報を、市場参加者のすべてがもっているという想定である。現実にはそのようなことはありえないのに、まずこの想定をCAPM理論は置いてしまう。信じられないのは、投資家がそのような強い前提をもつCAPM理論を神様扱したことである。

 2、投資家は、効用を最大にする行動を取る。そうした投資家の行動によって、金融資産の受給は均衡する。現実には、株式などの市場価格は安定的に均衡するどころか、変動率を日々拡大する。暴騰と暴落を目まぐるしく繰り返すのが最近の株式市場である。にもかかわらず、CAPM理論は、正常な姿の需給均衡、つまり、さざ波の均衡化を想定してしまっている。はたして、リスクは正しく計量化されてきたのであろうか。

 3、市場に存在する証券の数量は変わらない。どうしてこんなに市場の実態を裏切るような想定が堂々とまかり通っていたのであろうか。現実には、未公開株の上場とか、ベンチャー・キャピタルの株式公開とかによって、証券会社は膨大な手数料を稼いできたのではなかったのか。市場に登場する株式の数量、種類を絶えず増やすことに証券業界は腐心してきたのではなかったのか。

 4、市場は完全である。つまり、多数の投資家が存在するので、特定の投機家の売買によって市場の株価は影響されない。情報も完全に市場全体で把握されている。これは完全に「ためにする論理」である。実際には、ソロスなどのカリスマの動向に、多数の投資家は乗ろうとしてきた。巨大ヘッジファンドが世界中を荒らし回ってきた。にも関わらず、特定の人間が市場を左右することなどはないし、ファンドの手口はすべて既知であるというとんでもない前提をCAPMは置いたのである。ファンドは、こに理論に従って営業してきたと言えるのだろうか。逆に、情報操作にやっきとなり、市場をますます不完全なものに、つまり、激動の頻度を多く、変動幅を大きくするように努めてきたのではなかったか。

 分析すべきは、理論の正しさ、現実適応性ではない。こうした理論を神格化する業者たちを大衆が信頼してきたことの心理構造であったはずである。

 この理論のポイントは、三つある。1、資本市場線(CML=Capital Market Line)、2、β(ベータ)計算、3、個別証券の収益率、がそれである。

 1、資本市場線。これは、リスクとリターンとの関係を表せば直線になるとする仮定である。マーコヴィッツはリスクのある資産のみで、リスクとリターンとの関係を表現したので、資本市場線は曲線になっていた。シャープはこれにリクスフリー資産を導入し、この資産との関係で表現される直線になる資本市場線を想定した。登場するキー概念は、(1)リスクフリー資産の期待収益率。(2)市場全体のポートフォリオ(リスクのみがある資産)の期待収益率。(3)市場全体の期待収益率とフリーリスク資産の期待収益率との差。これがプラスにならなければならない。つまり、リスクフリー資産の期待収益率よりも高い収益率を得るためのポートフォリオの選択が推奨されている。ここには、リスクの高い資産ほど高いリターンを得るという、結論がすでにここに確定させられている。(4)市場全体のポートフォリオのリスク。(3)の値を(4)の値で割ったものが、資本市場線である。その値はX軸にリスクの大きさ、Y軸に期待収益率を取れば、リスクとリターンとの関係は右上がりの直線になる。リスクフリー資産とは、国債などの安全な(低リスク)を指し、リスクが低いのでリターン(期待収益率)が低いのも当然であるという仮定が置かれている。リスクフリー資産は、どんな金融資産に投資しても、最低限のリターンを得ることができる資産と同じ意味である。リスクフリー資産のリターンを上回りたければ、リスクの高い金融資産を選択すべきだという主張が、モデルには最初から設定されてしまっている。

 リスクフリーを加味しない、つまり、リスクを含む資産のリスクとリターンとの関係は、マーコビッツが想定したように曲線である。この曲線で表現される資本市場線とリスクフリーとの差を数値化した直線で表現された資本市場線との接点で、現実の期待収益が決まるというのである。

 直線で表した資本市場線とは、リスクの価格を表現している。つまり一単位のリスクでどの程度の期待収益(市場全体のポートフォリオの期待収益から市場全体のポートフォリオのリスクを差し引いたもの)があげられるかといった数値がリスクの価格なのである。

 これに購入単位、つまりリスクの単位を乗じたものが「リスクプレミアム」とされる。リスクを負担することによって得ることができるリターンがこのリスクプレミアムなのである。最低限のリターンを得る投資よりも高い収益を得るためにリスクを取る。その行為によって、どの程度、リスクフリー資産投資よりも高いリターンを得るかを知る指標がこのリスクプレミアムである。いうまでもなく、ここにもリスクを取らねば高いリターンを得ることはできないとのモデル設計が行われているのである。

 2、βの計算。適用される割引率は次の計算式と等しい。上記のリスクプレミアムにβを乗じた値にリスクフリー資産のリターン率を足した計算式がそれである。β値が高いほど割引率が高いとされる。そして、マーケットリスクプレミアム市場全体のポートフォリオの収益率が一%変化したときに、投資家が投資している個々の証券の収益率が何%変化したかの値がβ値である。βは、市場で普通の形でもたらさられるリターンの何倍をファンドマネジャーの個人の力量で確保できたかという指標であるとされている。証券投資におけるファンドマネジャーの技術をランクづけてきたのが、このβ値である。

 β値が一のときは、市場全体の収益と個別証券の収益は同じ水準にある。つまり、ファンドマネジャーの力量は平均的なものである。β値が一より大きく、例えば二であれば、市場平均の二倍のリターンをもたらし、ファンドマネジャーの貢献が大である。逆に一より小さければ、市場平均を下回るために、ファンドマネジャーの力量が小さいことを表している。

 これは奇妙な論理である。割引率とは投資家から見た期待収益率のことであり、それはリスクの高さに等しい。そして、その大きさが資金を投資された受けて側から見ての資本コストであるという、こんな馬鹿げた等式が成立するものなのだろうか。β値とは株価の変化率そのものではないか。そして、株価を変動させるのがリスク(=期待収益率)とされるが、そのリスクは、言葉本来の意味でのリスクではなく、将来受け取る固定されたリターンを、現在、大幅に割り引いて受け取ることに投資家が合意しただけのことなのに、それが言葉本来の意味でのリスクにすり替えられてしまう。株価が乱高下すればするほど高いβ値が得られる。相場を荒れたものにするのがファンドマネジャーの高い技術であることになってしまう。

 また、企業の株に投資している投資家はそれぞれ異なる期待収益率をもっているはずである。デイトレード情報に多額の情報料を払っている投資家の期待収益率は総じて高いであろう。しかし、長期間のうち、じっくりと市況を見て、一回だけの勝負をする投資家もいる。後者の場合、期待収益率など度外視している。必ず値上がりするだろうとの確信をもって特定の企業に投資するのである。そうした個々の差を無視して、市場全体が同じ方向に動くものと決めつけて、市場全体の期待収益率を想定するなど、そもそも現実性をもつものだろうか。

 もっと基本的な疑問がCAPMにはある。どうして、割引率が株価の変動率と連動するのであろうか。どうして株価が企業価値になるのであろうか。株価はあくまでも価格である。それを企業価値と言い切ることにどれほどの意味があるのか。ライブドアの株式の時価総額がNTTのそれを上回ったことがある。ライブドアの企業価値がNTTよりも高いと断言されれば、誰でもその胡散臭さを感じたはずである。

 現実には、証券会社は、先物を売買するとき、現物株の価格づけを行わねばならない。その価格付けははたして、正しく行われているのだろうか。正しい数学モデルで行われているのだろうか。そのモデルがCAPMであると対外的に広言されているだけのことではないのか。そういう使われ方をCAPMがされてきただけではないのか。要するにノーベル賞の権威を傘にして正しい割引率(値引率)の計算を行っているという口実にCAPMが使われてきたのではないだろうか。おそらく、証券会社による実際の割引率の算定は、企業秘密なのであろう。CAPMへの疑問については、板倉雄一郎氏の解説に触発された(板倉雄一郎「CAPMを笑う」『KISS(Keep it simple, stupid)』第20号、2005年3月3日;http://www.yuichiro-itakura.com/archives/2005/03/03-0855.html)。



福井日記 No.165 ビクター・ニーダーホッファー

2007-09-16 16:02:33 | 金融の倫理(福井日記)


 ビクター・ニーダーホッファの祖父は、一八九九年にドイツから米国に移民してきたユダヤ人であった。一家は下町のブルックリンで生活した。祖父は、音楽関係の仕事で財を成した。

  ビクターは、一三歳の誕生日プレゼントに、その祖父から「ベイゲイ鉱業」という会社の株を一〇〇ドル分一〇〇株買ってもらった。三年後にその株価が二五%上がったことから株投資に孫のビクターは興味をもつようになったという。高校生のころから三五年間、毎日欠かさず株価の動きをノートに書き留めた。祖父は一九二九年一〇月二九日のニューヨーク株式市場崩壊で破産した。その六八年後の一九九七年一〇月二七日、孫のビクターも破産した。父のアーサーは非常に優秀な警官で、スポーツ万能であった。株は一子しなかったという。

 ビクターは、古典の蔵書家であった。二三歳までに五回もスカッシュの全米チャンピオンになった。一九六二年ハーバード大学に入学した。スカッシュの選手としての推薦入学であったと本人はNHK取材陣に説明した。経済学を専攻した。一九六六年、シカゴ大学大学院に進学した。大学院では、ノーベル経済学賞受賞者のマイロン・ショールズと同窓であった。一九六九年、シカゴ大学で博士号を取得して、カリフォルニア大学バークレー校の准教授となる。学者としての将来に見切りをつけて、一九七二年、バークレー校を辞めた。後にハーバード大学ビジネススクール教授になった親友のリチャード・ゼックハウザー(Richard J. Zeckhauser)と一九七六年に資産運用のコンサルティング会社を設立した。

 一九九四年、彼は円投機に全力投球した。円高局面のときに、円安に賭けて大成功したのである。そして、アジア通貨危機で破産したのである(相田・宮本[1999a]、二八七~三四八ページの要約)。

 破産した彼の復活は速かった。破産の翌年の一九九八年には自分のテニス愛好の性格を表す「ウィンブルドン・ファンド」(Wimbledon Fund)を設立している。二〇〇二年二月に外国の顧客向けに資金運用をする「マタドール・ファンド」(Matador Fund)も設立した。これらファンドを併せて、彼は、二〇〇一年から五年間で年平均五〇%ものリターンを挙げている。悪い年は二〇〇四年であったが、それでもリターンは四〇%であった。二〇〇五年では五六・二%も稼ぎ出した(Wikipedia)。

 運用実績のよいファンドを報奨する「マーヘッジ」(MarHedge)賞というのがある。この組織が、二〇〇六年四月六日にビクターの主催するマタドール・ファンドとマンチェスター・トレーディング(Manchester Trading)の二つのファンドに、二〇〇四年と二〇〇五年実績面から見た優れた「コモディティ・トレーディング・アドバイザー」(Commodity Trading Advisor=CTA)として賞を与えた。

 彼が出版する本は、いずれもベストセラーの仲間入りをしている。破産する直前には、『ある投機家の教育』(Niederhoffer[1997])を出版し、二〇〇〇~二〇〇三年には毎週、投資雑誌(CNBC Money Central)に市場観を執筆していたし、二〇〇三年には共著で『投機の実際』(Niederhoffer[2003])、二〇〇六年には回顧録『ウォールストリートの五〇年』(Clews & Niederhoffer[2006])を出している。

  彼が育てた投機家は、ことごとく億万長者になっている。モンロー・トラウト(Monroe Trout)、トビー・クラーベル(Toby Crabel)、スツ・ローズ(Stu Rose)、ジョーン・ハマー(John Hummer)、ロイ・ニーダーホッファー(Roy Niederhoffer、実の弟)などがいる。

 政治的には、シカゴ学派の新自由主義思想の普及に腐心している。リバータリアニズ(libertarianism)という運動体、「ニューヨーク市フントゥ」(NYC Junto)の主催者である(Wikipedia)。

 
一口にリバータリアニズムを定義づけることは、神学論争とのからみもあって困難だが、ビクターの主催する組織の主張は、個人に他の自由を侵さない限りにおいて最大限の自由を認めるべきであるとする、自由に最大の価値を置く個人主義的な立場で、公正に価値を置くリベラリズム、慣習、共同体に価値を置く共同体主義と対立する。近年では、一般的にリバタリアニズムと言った場合、新自由主義を進展させた無政府資本主義(アナルコキャピタリズム)を意味することが多い。またさらに限定してアイン・ランド(Ayn Rand)などに代表される米国現代政治における有力なひとつの政治党派を意味する場合もある。ハイエク、ミルトン・フリードマンなどが目立つ存在である(http://plato.stanford.edu/entries/libertarianism/)。

 NYCフントゥは、一九八五年、ビクターが創設した。毎週、集会をもち、新自由主義思想を議論している。「フントゥ」(Junto)は、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)が、フィラデルフィア(Philadelphia)に住民の生活改善を目的として一七二七~一七五七年に活動した組織である(http://www.juntosociety.com/about.html)。

 建国の父たちを持ち上げて、そこから抽象的な「自由」の観念だけ抜き取り、荒っぽい稼ぎの正統性を訴える新自由主義は、他ならぬ、投機家たちから振りまかれたイデオロギーであることに注意しなければならないのである。

 大儲けした投機家たちは、破産した後も不死身のように再生する。一文無しのスッテンテンになってから、またたくまにふたたび億万長者に駆け上がるという姿は、常人では想像もできないことである。

 ビクター・ニーダーホッファーは、音楽にも造詣が深かった。株式相場の展開はベートーヴェンのピアノ・ソナタ『月光』などに類似していると、日頃から主張していた。

 この説にヒントを得て、米の天才的投機家になった音楽家がいる。リッチー・ウェルシュ(Richie Welsh)である。

 
彼は、株式相場の展開はクラシックの名曲数曲を関数と見たてたあるパラメータの範囲でカオス展開したものと等しいと主張した。彼は、タイの通貨危機が起こり、ニーダーホッファーが破産した一九九七年に生まれた。幼い頃から音楽と投機に著しい才能を見せ、幼稚園時代の教諭によれば「モーツァルトとソロスを足して二で割った」とのことだった。九歳でジュリアード音楽院に入学、指揮・作曲・ピアノを専攻したが、この間、混沌とする一方の株式相場に対する興味を強くした。教授と衝突を繰り返し、一六歳で自主退学。その後、全世界を放浪しながら、投機および彼のいうところの投資理論の構築にいそしむが、いまは所在不明であるという。この話はかなり眉唾もので、私もウェブサイトを漫遊していたときにたまたま遭遇しただけのことであるが、ウェルシュの信憑性よりも、ニーダーホッファーの奇才が語り伝えられている事実が興味深い(http://www.classicajapan.com/future/future.html)。

 投機家たちが、奇才・異才呼ばわりされることにも私はきな臭さを感じてしまう。そもそも、投機を旨とするシカゴ学派から九人もノーベル経済学賞が輩出したこと自体、大いにきな臭いことである。

 


福井日記 No.164 NHK『マネー革命1』

2007-09-15 00:19:48 | 金融の倫理(福井日記)


 NHK『マネー革命1』(相田・宮本[1999a])は、よき時代のBBCを彷彿とさせる凛とした姿勢を見せる好著である。さすがに、コマーシャルに拘束されない放送局の気位を感じさせてくれる。

 シカゴ穀物取引所(Chicago Board of Trade=CBOT)の有名なローカル・トレーダーであるトム・ボールドウィン(Tom Baldwin)のコンピュータ依存批判など「おやっ!」と思わせる。個人の資格で、自己資金だけでCBOTのピットに立てる取引者をローカル・トレーダーという。ボールドウィンは、三〇年以上も米国債の先物取引に携わり、米国債先物市場の五%を動かす大物のローカル・トレーダーであるとされている。彼はひたすら市場に立つという。

 「市場に立つと、あらゆることが直観的に感じ取れるんだ」。
 「情報というにはそれ自体は正しいかもしれないが、次の瞬間にはもう正しくないかもしれない。俺にとって重要なのは、まさに今なのだ。だから、俺は常に今現在の判断で取引するのだ」。

 コンピュータを使わないのは、そうした覚悟が薄らぐからであるという。
 「損することはきわめて苦痛なことなんだ。ところがコンピューターでプログラムを組めば、その痛みから逃れることができる。コンピューターが人に何をすべきか命令するからだ。そうなると取引の結果について自分には責任がないように思えてくるのさ。これが怖い。取引というのは毎日、毎時間、毎分、時々刻々と責任を取る行為なんだ。それが薄れていくのが恐ろしい」。
 「コンピューターは何でも自動的にやってくれるからね。しかし、心はない。感情もない。理論的にやってくれるだけだ。またコンピューターというものには情報を入力しなければいけないが、肝心の情報がどれくらい有効なのかは、はなはだ疑わしい。情報の価値は時々刻々と変化するからだ。かといって、常に意味のある情報を更新させていくことは大変面倒なことになる」。

 人がパニックに陥ったときがもっとも相場が読める、コンピュータの援用によってそれがより正確にできる、と豪語したロイ・ニーダーホッファーとは、如何にボールドウィンの率直な言は対照的であることか。

 前者は、コンピュータが人間を分析するとした。ボールドウィンは逆である。人間の弱さがコンピュータ依存を作ってしまうと切って棄てたのである。自分たちが作ったプログラムに頼り切れば、心の負担が軽くなるというのである。コンピュータに組み込まれているプログラムに心を預けてしまうのが人間の弱さであるとボールドウィンは言い切ったのである。

 破産に至る伝説上の相場師、ビクター・ニーダーホッファー(Victor Niedehoffer)を紹介した後、一九九九年時点の早い時点で、このようなすごいことを言えたのかと、驚嘆すべき内容の米国流金融技術批判をNHK『マネー革命1』は展開した。

 同書は、ビクター・ニーダーホファーが、一九九七年の「円キャリー・トレード」を仕掛けていたのではないかと疑っている。円キャリー・トレードとは、超低金利の円を借りてドルに変えて運用することである。これは円売り・ドル高となる。ドルで高収益を得るべく、日本の銀行がそうした行為に手を貸す。こうして円安が際限なく進行する。ドルで得た高収益を安い円に転換すれば大きな稼ぎとなる。

 こうしたことは、二〇〇七年前半に日本では大きな話題になっていたが、一九九七年時点で、すでにIMFの報告書がそうしたトレードが行われている気配があると警告していた(IMF[1997], chap.2, p. 4f.)。

 ヘッジファンドにはグローバル・マクロ型というのがある。これは、世界各国の為替、金利、株式、商品、先物などの様々な市場で制度や政策などによって発生した市場の不均等や歪みを収益の機会とし、大きなレバレッジをかけて、大きな収益を狙うものである。例えば、バブル期の日本経済では、実際の経済状態以上に資産価値が上昇していた。そうこうするうちに、不当に高かった資産価値を維持できないで、バブルが弾けた。つまり、資産価値が暴落した。こうした市場の不均等を、市場よりも早く見抜き、大きなレバレッジによって攻勢をかけるのが、グローバル・マクロ型である(http://assets.blog54.fc2.com/blog-entry-76.html)。一九九七年のときは、不必要に安い円を借りておくという行為がグロ-バル・マクロ型であた。

 IMF報告では、以下のようなことが記されていた。要約する。
 大手グローバル・マクロ型ヘッジファンドが、円ドル間の大きな金利差で大儲けしている。日本の銀行は不良債権問題で苦しんでいる。一九九六年から九七年にかけて日本銀行は、日本の銀行を救済するために、超低金利と円安を指向するであろう。金利の安い円を大量に借りて集めてドルを買い、それで金利の高い米国債を買えば大きな利益が出る。

 事実、日本の銀行は、一九九六年に海外投資を二〇〇億ドル減らしたのに、ヘッジファンドの本拠地のあるケイマン諸島のノンバンクに対する貸し付けが一九〇億ドルも急増している。そして、ケイマン諸島では一九九六年、二〇〇億ドルの米国債が買われたのである。こうした円キャリー・トレードが莫大な利益を上げているのである。以上。

 NHKは、反芻する。
 「日本の銀行は日本の超低金利で調達した円を海外でノンバンクに貸し付けて、ノンバンクはそれをドルに換えて運用している。その額が日本円にして二兆円近くにもなるというのである」。

 そして、NHKは憤慨する。
 「これはいったい何ということだろう。バブルのときにでたらめな経営をして膨らませた不良資産に苦しむ銀行を救済するために、日銀公定歩合を空前絶後の低さに長く据え置いてきた。それは本来、私たちがもらってしかるべき利息のはずであった。それを我慢してきたのは、一刻も早く健全な経営に立ち戻ってほしいという思いからにほかならなかった。なのに、その銀行が世界一安い金利で調達した円を海外に持っていって、投機的取引を主たる業務とするノンバンクに貸しているとは」(同、三四四ページ)。

 同書は、日本の銀行による、破産したビクター・ニーダーホッファーへの貸付の事実が判明したとしている。

 ビクター・ニーダーホッファーの苦境に気づき、彼に融資していた貸し金を瞬時に引き上げたのは、カリフォルニア州サンディエゴ郡職員年金基金(San Diego County Employee Retirement Sustem=SDERS)やレフコ(Refco)という商品先物会社などであった。大量の資金の瞬時の引き揚げによって、彼は、一九九七年一〇月二七日に破産した。損害額は二〇〇億円ほどであったとされる。タイ・バーツは持ち直すであろうとの判断ミスと、S&P先物の値上がりするであろうとの判断ミスの重なりが命取りとなった(同、三四五~四六ページ)。

 ちなみに、そのレフコも、ビクター・ニーダーホファーが破産した八年後、二〇〇五年の、奇しくも同じ一〇月に破産した(『日本経済新聞』二〇〇五年一〇月二七日付)。レフコに預けられていた証拠金は投資家に返還されなかった。日本人の被害額も多かったと言われている(http://o4-1.com/yakudatsu-jyouhou/refukohatannoeikyounitsuite.html)。

 金融とは、あるところに隔たって存在している「金」を「融」かして必要なところに流すことである。

 「世の中の偏在する資金を、それを必要とするところに回してあげて、富の生産に役立てるのが金融の本来的な姿」である(同、三五三ページ)。
 「金融機関の手で広く集められたお金が生産のために使われ、できた製品を売って作った金が、人々の生活を支えて、ふたたび金融機関に集まってくる。その中で金融機関はお金を動かす手間賃をいただくことも生業(なりわい)とする」。
 しかし、「取引する人々の姿だけを見ていると、なんだか生産とは無縁のところで、利ザヤ稼ぎだけが独り歩きしているように見えて仕方がない。そのための方法を編み出すために人々は知恵を絞っているように見える」。

 そして、『マネー革命1』は結論的に詠嘆する。
 「生産力の衰えたアメリカが、その立て直しに努力するよりも、他国の民が汗して生み出した富を、金融という手段で自国に還流させようとしているのではないだろうか。そのためにアメリカはノーベル賞級の頭脳を動員して、自らの金融システムを世界標準にしていったのではないだろうか。その典型がデリバティブの市場ではなかったのか・・・」(同、三五四ページ)。

 当時としてはすごい眼力であった。

 
  引用文献

IMF[1999], International Capital Markets ― Developments, Prospects, and Key Policy Issues,
          November.
相田洋・宮本祥子[1999a]、『マネー革命1―巨大ヘッジファンドの攻防』NHK出版。