消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

まる見えの手 04 権力者が操業する米国の投資ファンド(3)

2006-09-30 23:40:24 | 時事

 FBI(米連邦捜査局)が、ビン・ラディン・グループの取引実態を調査すべく、同グループと関係の深い複数の銀行の経営者を尋問したことがあったが、関係を示す証拠はなに一つ見出せなかった。 調査対象になった銀行は、サウジアラビアの「NCB」、「ドイチェ銀行」ロンドン支店、「シティ・グループ」、「ABNアムロ」等々であったといわれている。 ビン・ラディン・グループから年間数万ドルもの多額の支払いを受けている「ミドル・イースト・ポリシー・カウンシル」という非営利団体がある。その所長、チャールズ・フリーマンはいう。 「サウジアラビアのビン・ラディン・グループこそが、米国、ないしはサウジアラビアにおける米系企業と深く結びついている」。 

 このフリーマンは、湾岸戦争時、対サウジアラビア工作を米国政府から請け負い、サウジアラビアにおいて実質的に米国大使のような役割をはたした人である。彼は、9・11後、オサマの二人の兄弟と話す機会をもった。彼のいう所によると、FBIは、世間のビン・ラディン一族批判に対して、一族を擁護するかのような振る舞いをしていた。 

ビン・ラディン一族の取引を当局が調査したとき、有力者が数多くリストアップされた。父ブッシュもその一人である。調査のさい、父ブッシュは、腹心のジャン・ベッカーを通じて、1998年11月に一度だけだがビン・ラディン一族に会ったことがあると語った。

 ジェームズ・ベーカーもまた、1998年と1999年の2回、ビン・ラディン一族を訪問したといわれている。2回目の訪問にはビン・ラディン一族の所有する飛行機が使用されたという。カールッチは、ビン・ラディン・グループとパートナーを組んで、通信ベンチャー企業のノルテル・ネットワーク・コープを設立し、同社の会長を務めたこともある。しかし、米当局の調査に対して、ベーカーもカールッチも証言を拒否した。

 カーター元大統領もビン・ラディン一族と会っている。2000年初め、カーターはオサマの兄弟のうち、10人と会っている。アトランタにある「カーター・センター」設立資金の提供を一族から仰ぐためであった。そして、一族の領袖のバクル・ビン・ラディンが、2000年9月、カーター夫妻と朝食をともにした後、20万ドルをセンターに寄付した。 ]

 ニューヨークの出版社、「フォーブズの経営陣も、ビン・ラディン一族に招待されて、一族の本部をいく度も訪問したといわれているが、フォーブス会長を務めたカスパー・ワインバーガーはその事実を否定している。ワインバーガーは、先述のように、レーガン政権下の国防長官であった。

 そして2001年9月11日当日の朝、カーライル・グループがワシントンDCの「リッツ・カールトン・ホテル」で投資家会議を主催、そこにオサマ・ビン・ラディンの異母兄シャフィグ・ビン・ラディンが出席し、カーライルの上級顧問の父ブッシュとも会っていた(父ブッシュは事件が起きる前に退出している)。 さらに事件発生後、米国内にいたサウド王家関係者とビン・ラディン近親者24名がサウジアラビア国籍の特別チャーター機で、早々と密かに出国していた。出国許可を与えたのはリチャード・B・チェイニー副大統領であった。(同時多発テロ直後は、米国上空の飛行は、全面禁止されていたにもかかわらず、サウジアラビアの富豪たちは、米当局から特別扱いされたのである。



まる見えの手 03 権力者が操業する米国の投資ファンド(2)

2006-09-29 23:32:07 | 時事

 カーライルは、重装備で動きが緩慢、時代遅れとまでいわれた重戦車クルセイダーを製造する「ユナイテッド・ディフェンス」を買収した。対テロ戦争前、次期国防スーパー予算4000億ドル(さらに480億ドルの予算拡大)でクルセーダーを国防省に買わせようとしていた。これに、民主党のシンシア・マッキニー下院議員が、父ブッシュ元大統領とカーライルとの関係について議会で追求し、クルセーダー購入の反対意見を議会で述べた。クルセーダーの購入を巡って、カーライルは議会で激しいロビー活動を展開し、マッキニー批判を展開した。その結果かどうかは判定できないが、マッキニーは次の選挙で落選した。 この事件で、多くの議員たちはカーライル・グループの強大な政治力を思い知らされた。しかし、同グループのクルセーダーの売り込みは失敗した。それでも、クルセーダーを巡るやりとりで、ユナイテッド・ディフェンスは有名になり、その株を上場させることにカーライルは成功した。上場の日、株価は一気に跳ね上がり、カーライルは、2億3700万ドルを上場初日に儲けた。 このカーライル・グループには米国の著名な機関投資家が名を連ねている。2001年、米国最大の機関投資家の「カリフォルニア州職員退職年金基金」(カルパース、日本への投資も40億ドルを超える国際投資組織)もカーライル・グループに5%の出資をした。 アラブの富豪もこのグループに投資している。たとえば、オサマ・ビン・ラディンの出身母体、ビン・ラディン一族もここに投資している父ブッシュ、ジェームズ・ベーカーフランク・カールッチたちがビン・ラディン・グループの本拠地、サウジアラビアのジェッダを訪問している。 ビン・ラディン・グループは、グループの複数の投資会社を通じて、カーライルのファンドの一つ、「カーライル・パートナーズⅡファンド」に200万ドルを投資した。1995年のことであった。カーライルの一部門を担うこのパートナーズⅡは、この年、世界中から13億ドルを集めた。このファンドだけで、2000年までに29件の企業買収をおこなった。そのなかには、宇宙関連企業が数社含まれていた。このファンドへの投資で、ビン・ラディン・グループは、130万ドルもの配当を受けた。年平均40%という高配当だった。 これは、カーライルの一部門への投資であり、カーライル全体ではビン・ラディン・グループははるかに莫大な利益を上げていた。最初の200万万ドルは単なる初期投資で、ビン・ラディン一族は、膨大な追加投資をおこなっていたらしい。 オサマ・ビン・ラディンは、50億ドルともいわれる財産を残した父、ムハンマド・ビン・ラディンから現金と株券などで5000万ドルを相続したとされている。しかし、1994年、サウジアラビアから国籍を剥奪され、追放されてしまったので、オサマは、サウジアラビア内の資産を処分できなくなった。 一族から追放されたオサマと、いまのビン・ラディン・グループが無関係であるのは事実であろう。しかし、オサマをはじめとしたテロリストたちが事件を起こすたびに、ビン・ラディン・グループは、米軍か、サウジアラビア政府から、反テロリズムの軍事施設の建設を受注しているのである。 いまでは、グループはオサマの異母兄のバクルに率いられているが、このグループが米・サウジ軍事同盟の最大の受益者であることに変わりはない。たとえば、1996年、サウジアラビアのダーランでトラックが爆発して米国人の従業員19人が殺害された後、同グループは、米軍用兵舎と空港を建設したのである。



まる見えの手 02 権力者が操業する米国の投資ファンド(1)

2006-09-28 23:30:44 | 時事
 カーライル・グループ」という投資ファンドがある。1987年創設、運用資産419億ドル、670人のスタッフを擁する世界最大級の「プライベート・エクイティ・ファンド」である(2005年の同社ホームページ)。 カーライルは、設立以来、年率30%以上の脅威的な配当をおこなってきた。カーライル・グループのホームページによれば、2005年時点で、設立以来、世界15か国において、500件の投資実績をもつ。製造業、消費財、エネルギー、ヘルスケア、テレコム・メディア、運輸といった業種を中心に、買収、育成、証券化、高利回り債券の発行といった各分野において投資活動をおこなっている。グループ投資先の会社の全体の売上規模は約460億ドル以上で、18万人以上の従業員を抱えている。 ここで、「プライベート」とは、「パブリック」の対立概念で、「公」に開かれた組織ではなく、小人数の会員制の閉ざされた「私」的組織のことである。「エクイティ」とは、まだ上場されていない企業の未公開株を購入・転売することによって利益を生みだすことを指し、銀行や年金基金といった機関投資家、そして、大金持ちが会員となって、このファンドに出資する。つまり、金持ちだけの閉鎖的クラブである。プライベートな組織であり、出資者もプロ集団であるので、ファンドがよしんば損失を出しても、出資者の自己責任として処理される。したがって、公の救済措置は講じられない。公の救済を受けない約束であるので、こうしたプラーベート・ファンドは出資者の氏名も運用先の詳しい情報も金融当局に報告する義務はない。秘密裏に運営され、秘密裏に利益配当がおこなわれるのである。 カーライルの業務は、未公開企業に投資するプライベート・エクイティ・ファンドを個人富裕層や機関投資家に販売する。未公開の会社の株を買い、高額になったところで売る。未公開株を相手にしているので、証券管理法の制限も受けない。その投資対象は、航空、国防、電気通信など政府の政策に大きく影響を受ける産業が中心である。つまり、カーライルは、政治・国防・企業の鉄の三角形で張り巡らせたネットワークを形成し、国家をもその三角形のなかに取り込んでいる。 本拠地をワシントンに置くカーライルの顧問には、メージャー元英国首相)、カール・オットー・ぺール元ドイツ連邦銀行総裁(ヨーロッパ中央銀行の規約作成者)、エーバーハルト・フォン・クーエンハイムBMW取締委員会代表、フィデル・ラモス元フィリピン大統領アナン・パンヤラチュン元タイ首相)、朴泰俊(パク・テジュン)元韓国首相(韓国自民連合総裁)などがいる。 創業者は、民主党カーター政権(1977~1981年)下の大統領顧問であったデービッド・ルービンシュタインであり、会長は、フランク・カールッチである。カールッチは、子ブッシュ政権下(2001年~)の国防長官・ドナルド・ラムズフェルド、レーガン政権下の国防長官(1981~1987年)・キャスパー・ワインバーガーとは同窓であった。 カールッチは、ニクソン政権(1969~74年)が成立すると、ワインバーガー厚生・教育・福祉長官の下で次官を務めた。1974年駐在ポルトガル大使に任命され、フォード政権下(1974~1977年)まで赴任した。民主党のカーター政権下でCIA副長官(1978~81年)を勤めた。入れ替わりになるが、前年まで(1976~77年)は父ブッシュがCIA長官であった。レーガン政権の成立と同時に、ワインバーガーの下で1981年国防副長官に就任する。1986年国家安全保障担当大統領補佐官として大統領府に入る。1987年ワインバーガーの国防長官辞任に伴い、後任の国防長官に就任する。そして、父ブッシュ政権下(1989~93年)でも国防長官を務めた。国防長官引退後、彼はカーライルに正式に入社したのであるが、現役時代からカーライルとの関係があり、CIA国防省にカーライルが食い込むことに貢献したキーマンであるといわれている。 父ブッシュ政権下で国務長官を務めてたジェームズ・ベーカーも同社の上級顧問である。その他、リチャード・ダーマン(父ブッシュ政権下の行政管理予算局長官)、アーサー・レビット(クリントン政権下の証券取引委員会委員長)、ウィリアム・ケナード(クリントン政権下の連邦通信委員会委員長 )などがズラッと顧問に名を連ねる。 子ブッシュは、1989年から94年まで、カーライル・グループの理事として就職していた。 父ブッシュも大統領を辞めて後、カーライルにアジア担当の上級顧問であった。 1997年の韓国の通貨危機を経て、カーライルは、韓美銀行の支配に成功したが、当然、父ブッシュの威光が利用されたであろうと想像される。この間、父ブッシュは韓国の政財官の実力者たちと積極的に交渉していたといわれている。 米国は、IMFの救済融資を利用して、韓国投資への規制緩和を急速に推し進め、外国企業の合併・買収に関する法律を変えさせた。米国が、過去30年間、貿易政策ではなにごとも成功しなかった韓国の規制緩和が、IMFが入ったことでわずか数か月で実現した。外国企業による韓国銀行の経営権取得・株の支配も認められるようになった。待ってましたとばかり、カーライルは、韓国の大手銀行のひとつで、数少ない健全な銀行であった韓美銀行を買収したのである。カーライルの工作は大成功した。 見られるように、民主党の政治的エリートが投資ファンドを創設し、共和党政権になっって民主党が権力を失っても、創業者たちは、ブッシュ親子の政権にすりより、共和党幹部たちとの共同事業として金儲けに邁進していったのである。 そして、カーライル・グループは、普通の投資ファンドとは大きく異なる。軍事関連分野で大きな力を発揮しているからである。 インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙(2001年3月6日付)は、カーライルが、創業10年にして世界中にネットワークを築き、米国の兵器メーカーを傘下に納め、米国で有数の兵器メーカーになったと報じた。 これは、国防省の「クルセーダー計画」のことを指している。第一次子ブッシュ政権下の国務長官は、コリン・パウエルであった。このコリン・パウエルも、カーライル・グループの元顧問であった。

まる見えの手 01 第一次小泉政権発足前後の米国の指令

2006-09-27 23:27:51 | 時事

 『タイソン・レポート』という文書がある。「外交問題評議会」(CFR)という米国のシンクタンクから2000年10月24日に出されたものである。 CFRは、1921年に設立された非政府組織で、スタッフが、現在4000四人を超える巨大研究機関である。非政府組織といっても、米国政府が外交方針についての提言や調査研究を依頼する事実上の政府関連機関である。 クリントン政権は、「経済諮問委員会」(CEA)を創設した。小泉政権が作った「経済財政諮問委員会」は、このCEAを真似たものである。このCEAの初代委員長に就任したのが、ローラ・タイソンという女性の経済学者であった。当時は、カリフォルニア大学バークレー校ビジネス・スクールの学部長であった。クリントン政権が終わって、父ブッシュ政権ができると、ロンドン・ビジネス・スクールの学部長に就任した。 このローラ・タイソンは、1994年に『「閉鎖大国」ニッポンの構造』(邦訳版は日刊工業新聞社)を書いていて、日本市場の閉鎖性について激しい言葉で批判していた。  彼女は、CEA委員長に就任してから、CFR内に「ローラ・タイソン・グループ」を作り、そのグループ名で出されたのが、先の『タイソン・グループ・レポート』である。このレポートの全訳が『週間ダイヤモンド』(2000年3月30日号)に載っている。 そこには、日本の金融機関の危機を米国をも含む外資のビジネス・チャンスと捉える露骨な見解が堂々と述べられていた。


 たとえば、  「多くの日本企業や金融機関が、倒産の瀬戸際に追いつめられたり、大規模なリストラが迫られるなかで、外国の資本や専門的な知識を求めるようになった。外国企業にとってまたとない参入のチャンスが到来している」。 日本の不幸が外資にとってのチャンスであると、公的なレポートでとくとくと述べる米国のシンクタンクのスタッフの精神構造はどうなっているのであろう。そこには、デリカシーのかけらも感じられない。次の文章にいたっては、もはや侮辱以外のなにものでもない。 「不良再建を外国企業が買い取ることで、銀行危機が回避できるなら有り難いと支持されている」。 いうまでもなく、日本の金融機関を助けてやるために、外資が不良債権を買い取ったのではない。買い取られた不良債権を梃子として、買い取った外資は、不良債権を出した企業に対して、猛烈な人員整理と貸し剥がしによって、数値上の財務内容を改善し、株式の再上場、ないしは企業を切り刻み、転売して莫大な利益を挙げたのである。まさに、それは、「ハゲタカ・ファンド」であった。そうした露骨なハゲタカぶりも「有り難い」と、日本では「支持されている」。支持したのはハゲタカの餌食になった企業ではない。彼らを嬉々として外資に売り渡した小泉首相竹中金融担当大臣だったのである。 「タイソン・レポート」が出された2か月後の2000年12月、『新政権のための対日経済指針』なるものが、CFRから発表された。新政権とは、2000年1月に発足した子ブッシュ政権のことである。 これは、子ブッシュ政権がどのような対日政策を行うべきであるかを提言したものである。提言内容は8つあった。米国は、日本に、外国からの直接投資を多く受け入れさせるために、「規制緩和」と「不良債権処理」を急がせるべきである。


日本政府に競争促進政策を採用させるべく、企業合併やM&Aを容易にするように米国は働きかけるべきである。そうした企業合併やM&Aを促進するために、会計制度や監査制度を日本政府に改正させるべきである。


日本への投資を容易にするために、連結納税制度の導入を米国は日本政府に働きかけるべきである。

日本の商法は1世紀前の非近代的な代物である。そのために、株式の発行・分割、ストック・オプション、年金の通算制度などが法制化されていない。こうした内容を含む商法の改正を米国は日本政府に要求すべきである。

外国企業との株式交換をする場合、日本国内同士での株式交換に比べて税率が高い。こうしたことを日本政府に改めさせるように、米国は交渉しなければならない。

トラストを作らせないように米国は日本政府に要求すべきである。

日米の財界指導者間の公的な対話の形成と促進を図るべく米国は日本政府に働きかけるべきである。

サービス産業、とくに通信部門の規制緩和を促進させるように米国は日本政府に要求しなければならない。

 後に見るように、これら米国の要求のことごとくが、いわゆる小泉の「構造改革」路線に踏襲されたのである。 そして、『指針』はいう。 (日本では)「金融システムの改革が現実に進んでいる」、 「これは、米企業の利益と目的に合致しているので、米国は今後も日本市場で起きている改革路線を支援すべきである」。 そして、内政干渉そのものの文章が続く。

 「構造的な変化と改革のプロセスは本物ではあるが、一貫性に欠けているし、スピードも非常に遅い。改革が後退する危険性も大きい。こうした変化を支持する者と反対する者との根深い対立が、政治家、ビジネス界の指導者のなかにある。反対派の力は侮られるべきではない」。

 なんと小泉の命名である「抵抗勢力」という言葉の源泉までもが、米国発なのである。しかも、米国政府は日本の構造改革のデザイン作成、実施を支援すべきだと明言したのである。

 「米国政府は、・・・改革のデザインと実施において技術的な支援を申し出るべきであろう」。
 子ブッシュ政権発足2か月後の2001年3月の日米首脳会議で、CFRの「対日指針」通りに子ブッシュ大統領は、当時の森首相に要求した。とくに強く求めたのは、日本の不良債権処理の促進であった。

 そして、翌月の2001年4月、森内閣は「緊急経済対策」を打ち出し、不良債権の直接償却を重点課題とした。 これに追い討ちをかけるように、それからわずか2か月後の2001年6月、日本の経済産業省と米国の国務省が共同で作成した『日本への直接投資促進のためのレポート』が子ブッシュ大統領に提出された。そこでは、企業倒産、会計原則、企業再建などの法改正が規制緩和の名の下にうたわれていた。この内容は、ホワイトハウスのホームページで2001年6月30日付き「副報道官声明」として掲載された。 小泉政権が、2001年4月26日の発足後、いわゆる「骨太方針」(正式名は、「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」)を閣議決定したのは、2001年6月26日のことである。そこでは、第1項目に、「経済再生の第一歩としての不良債権問題の抜本的解決」が掲げられていた。 そして、  「21世紀にふさわしい安定した金融システムを構築する。直接金融システムを重視したシステムに円滑に移行するために個人の株式投資にかかる環境整備を行うなど証券市場を活性化する。金融システムの構造改革という観点から銀行の株式保有のリスクを適切に規制する」。

 これはなんだ。規制緩和というスローガンによって、米国の思惑通り、日本型金融システムの根幹であった間接金融=銀行を主体とした企業編成を破壊するために、銀行による関連企業の株式保有を「規制」するというのである。つまり、規制緩和とは、米国資本が流入しやすいように「新たな規制を作り出す」ことなのである。間接金融のどこが悪いのかの検証もなく、米国型直接金融が手放しで称賛されているのである。 なにが骨太か。子ブッシュ政権の言葉をスローガンにするという恥じさらしを意識せず、それをとくとくと語る。それを語った人もそれを賞賛した人々も、少しぐらいは気位をもって欲しかった。 

2001年6月30日の日米首脳会議で、日米の新たな経済的枠組みを設定する「成長のための日米経済パートナーシップ」が設立された。そこでは、電気通信、情報技術、エネルギー、医療機器を重点4分野として規制改革の推進が謳われた。商法改正、不良債権処理、M&Aの促進、雇用の流動化(首切りの自由化)等々が構造改革の中身として列挙されたのである。これはCFRによる「対日経済指針」の具体的適用である。

 『日本経済新聞』(2001年8月2日付)は、米国財界人とのインタビューを掲載した。GEキャピタルのマイケル・ニール社長は、次のように述べた。 「経済が好調なときには、提携、買収のいずれもあまり出てこない」、 「経済が難しい情況にあるからこそ、日本は外資にはチャンスだといえる」、 「この数年で日本に300億ドルを投資した。今後2年で日本での事業を倍にしたい」。

 ここには、きわめて率直に、日本企業の買収が米国企業のビジネスになることが語られている。  日本長期信用銀行を買収したリップルウッドティモシー・コリンズ最高経営責任者は、日本でさらに金融機関を買収する意思があることを認め、日本の金融当局が「外資のノウハウをみれば、我々を使いたくなるだろう」と、日本の金融改革に米国の金融組織が食い込むことになるであろうとの自負を示した。

 世界有数の保険会社であるアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)のモーリス・グリーンバーグ会長は、日本政府が公的資金を注入して金融機関の不良債権を除去しなければ外資は日本の金融機関を買収できないと語った。まるで、外資に買収されることによってでしか日本の金融機関の再生はない。買収されやすいように、日本の金融期間の債務超過を解消すべく日本政府は行動すべきだと豪語したのである。まず米国資本による日本企業の買収がありきという構図である。

 小泉首相は、2002年9月の日米首脳階段の前日、CFR主催でニューヨークで行われた小泉首相の講演会の質疑応答で、「私は不良債権処理を加速するという結論に達した」と発言し、大きな拍手を浴びた。これはCFRの2001年9月10日付き講演録に収録されている。 「皆様方のご要望通りに私は行動します」といったことと同じではないか。ミエを切るのなら、せめて、「皆様方のご要望にある不充分な点を私は具体的に日本の現状に合うようにアレンジし直すつもりです」といえなかったのか。米国人に苦言を呈することはできなかったのか。 2002年9月12日の日米首脳会議で、子ブッシュ大統領は、不良債権処理の加速化を小泉首相に改めて強く要求した。 そして、単に、不良債権を処理させるのではなく、厳しい自己資本査定手続きによって、存続可能な銀行と、破綻させる銀行との選別も要求された。存続が可能な銀行に公的資金を注入し、国有化するという路線が示唆された。そして不良債権の外資への売却が戦略目標として設定されたのである。竹中平蔵による「金融再生プログラム」がその直後に出されることになった。これは不良債権処理の加速を強制するものであった。

 以上は、大門実紀史氏のウェブサイトを参考にした。



本山美彦 福井日記 41 蕎麦の花

2006-09-22 00:27:52 | 花(福井日記)
 福井にきて息を飲むような圧倒的に美しい光景に度々遭う。いまは蕎麦の花が、それこそ広大な畑、地平線まで続く畑に真っ白い花を咲かせている。文字通り息を飲む。写真は近くの丸岡の蕎麦畑の光景である。散歩中に撮影した。

 福井の蕎麦は、「越前おろし蕎麦」として食する。それは、そばに大根おろしを添えたシンプルな料理だが美味い。長寿食でもある。

 蕎麦は、8世紀頃、大陸から朝鮮半島を経て日本に渡来し、食用となったのは奈良時代である。当時の食べ方は現在のような麺状ではなく、そば粉をお湯で捏ねた「そばがき」や「そばだんご」にしていた。麺状は、「そばきり」と称されるが、これが、庶民に広まったのは、江戸時代になってからである。

 福井でのそばの歴史は、朝倉孝影が一乗谷に築城した頃(1473年~)から始まった。籠城用食糧としてそばが重宝されたのである。というのも、そばは播種から約75日間という短期間で収穫できたからである。ただその頃も、「そばがき」や「そばだんご」であった。

 福井で「そばきり」が登場するのは1601年。府中(旧武生市、現越前市)の城主となった本多富正が、そば師の金子権左衛門を伴って赴任したのを機に、そばの食べ方が変わった。麺状そばに加え、大根おろしを添える食べ方もこのときに始まった。

 麺状のそばに大根おろし。この組み合わせは庶民にも受け入れられ、その後、福井県と「福井県玄(くろ)そば振興協議会」の指導により、そば栽培と消費量が拡大、そして現在の「おろしそば」人気へとつながった。

 福井の「おろしそば」が「越前おろしそば」として全国に広まったのは、比較的最近のことである。昭和22年になってからである。この年の10月、昭和天皇が福井を訪れたとき、2杯ものおろしそばを食された。その後、皇居に戻られて、「越前のそばは大変おいしかった」と語られたことから、全国的な評判をとった。

 そういえば、「越前竹人形」も、水上勉の小説によって、全国区になったものである。
 「越前おろしそば」のおいしさは、玄そばの品質の高さや製粉技術にも深く関係している。その理由は、そばの良否が栽培地の緯度に関係するからである。

 北緯36度~38度線の地帯には、味や風味の高いそば粉が多い。福井の位置は北緯36度線上にあり、おいしい玄そばができる条件を満たしている。

 加えて製粉方法が素敵である。これも昔ながらの石臼挽きである。福井県下すべての製粉企業が行っている。丁寧に時間をかけて行われる石臼挽きにより、味はもちろん、そば独特の風味が損なわることがない。

 現在、福井県内でのおろしそばの食べ方はほぼ3通り(1)ダシと大根おろしを別々に入れる。(2)ダシに大根おろしを入れる。(3)ダシに大根おろしの汁を入れる。それぞれに味は微妙に違う。

 福井県内で栽培される玄そばは、小粒で皮が薄いのが特徴である。収穫された玄そばには「福井県産玄十八(そば)」と書かれた札が付けられ、温湿度管理の徹底された倉庫で保管される。「十八」というのは、農産品の収穫量などを国が公表する際、1番目の北海道から数えて福井県は18番目になるからである。しかも「十八」は「十」(そ)「八」(ば)とも読めるというこじつけもある。

 そばの実の部分を石臼挽き作業に回す。その時に甘皮も一緒に入れて摺るため、黒っぽいそばの色となる。昔ながらの低速の石臼挽きは、粉を摺ると同時に、練る作用も含まれている。そのため粒子も丸いまま製粉され、そば独特の風味も損なわれない。逆に高速のロール挽きは、機械で摺りつぶすため、玄そばの質が低減してしまう。

 石臼挽きにとって必要不可欠な作業が、石臼の目立てである。石臼は福井県美山町小和清水産のものが使用されている。ただし、現在は、昔ほど石臼を目立てできる職人はほとんどいない。

 福井県玄そば振興協議会は、昭和40年代より、転作政策として、そば栽培を推進している。そして、正しい栽培法や保管法などを指導している。今もその活動は続けられ、作付面積及び収穫量は年々増加中である。

 現在、福井県では県産そばの消費拡大と流通促進、越前おろしそばのブランド化促進のため、「おいしい福井県産そば使用店認証制度」を設定(現在76店舗)している。

 蕎麦は、旧盆の頃に播種、9月中~10月下旬頃には、畑一面、可憐なそばの白い花が咲き乱れる。その後、茎が赤くなり、白い花が黒い実になる11月初旬頃から収穫が始まる。その頃になって、風味の良い新そばが登場する。

 そば栽培は福井県内各地で行われ、作付面積は全国で9位である(平成15年度)。
 以上の叙述は、福井県玄そば振興協議会のホームページより。

 福井の蕎麦は、コメの転作奨励から盛んになってきたのであるが、同じ転作作物としての大豆よりも雑草対策で有利であった。大豆は、雑草との闘いが大変であるが、蕎麦は、密生させるので、田圃に雑草が生えないので、楽である。

 坂井市丸岡町の蕎麦畑は写真にあるように見事である。平成3~4年に丸岡町は、そばを作る農家に出荷奨励金を出すようになった。丸岡地区では、そばの栽培人口が次第に増えていった。そのうち、そば栽培は農業の枠を超え、町おこし的な動きへと発展した。そばの品種も種づくりから模索されるようになった。

 そばは大粒だと挽きやすいが、味が淡泊である。小粒ほど香りも風味もいい。丸岡ブランドは、小粒のそばである。

 丸岡は、九頭竜川と竹田川に挟まれた扇状の河川敷で、地面の下が砂利になっているので水はけが最高によい。蕎麦の実は、グリーン色である。 本当に越前のおろし蕎麦は美味い。幸せを感じる。読者諸氏も写真で雄大な光景を想像していただきたい。

サルトルの米国人論(a)

2006-09-21 01:15:08 | 時事

 ジャン・ポール・サルトルに、「アメリカの個人主義と画一主義」というエッセイがある。1945年の作である。米国人の多くが、個人主義であることを誇りとしているが、そのじつ、物の考え方があまりにも画一的であることに、サルトルが、驚き、恐ろしさを感じて書かれたものである。翻訳は難しい。ここで「画一主義」と訳された原語は、「コンフォルミスム」である。訳者の佐藤朔も気になったのであろう。わざわざ注釈を添えている。佐藤は言う。

 「コンフォルミスムとか、コンフォルミストというのは、政治や時勢に無批判に順応する主義や人間をさす。だから企画にはまった、画一的な思想や生活様式をもつアメリカ人も画一主義者といいうるわけである」。

 米国は、人種の坩堝(るつぼ)だと言われる。これは、世界各国から異なる文化的背景をもついろいろな人種が、坩堝の中で溶かされ、米国人という新しい民族に鋳直(いじき)されて生まれ変わらされるということを指した言葉である。

 坩堝で溶解されつつあるフランス人のことをサルトルは、次のように表現した。

 「アメリカに着いて早々、私は溶解中の1ヨーロパ人に出会った。・・・アメリカの誰とも同じように、少し鼻にかかった、唇や頬をうごかさない話し方をし、発作的に笑うけれど、眼もとは少しも笑っていない」。

 この文章を見て、私はうなった。そうなのだ。テレビに映る米国の政治的指導者、ラムズフェルトライスは、話すときに笑わない、それどころか眼が座っている。変な奴だなと見ていたが、サルトルによれば、もう60年も前から米国人はそうであった。



 サルトルが会ったヨーロッパ人は、フランス人であったが、彼の故郷、パリのことをわざと下品な俗語「パナム」と言い、軽蔑を込めてとくとくと語ったことに、サルトルは、不快感を表明している。

 「(彼の話しぶりは)生粋のアメリカ人がヨーロッパの知識をふりまわすのにそっくりで、亡命したフランス人が故郷を思い出して話しているとは見えなかった」。
 「私は、オヴィディウスの変形譚(メモルフォーズ)を目のあたりみる思いだった」。


 ここで触れられている「オヴィディウス」というのは、紀元前43年~紀元17年の人で、古代ローマの、いわゆる「アウグストゥスの世紀」に生きた詩人である。中部イタリアのスルモナの生まれで、公職の道を志すが、断念して詩作に従事した。エロティシズム溢れる恋愛詩を多く残し、ラテン文学の黄金期を代表する詩人の1人に数えられる。しかし同時代人であるウェルギリウスやホラティウスたちがアウグストゥス、マエケナスの庇護の下で詩作を行なったのに対して、オウィディウスは終始そうした庇護を受けることはなかった。



  紀元8年にアウグストゥスの逆鱗を買い、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ流されそこで没した。

 もっとも有名な作品が、サルトルが述べている『変身譚』(『変身物語』)である。これは、15の作品からなり、ギリシャ・ローマの神話の登場人物が動物や植物に変身してゆく物語である。後の中世文学やシェイクスピア、そしてグリム童話にも大きな影響を与えた。ナルシスがスイセンにされたり、エコーが木霊になったりなど、私たちが現代に楽しんでいる物語がこの作品に盛られている。日本では、人文書院から刊行された田中秀央前田敬作翻訳『転身物語』と、岩波文庫から刊行された中村善也訳『変身物語』がある(ウィキペディア参照)。

 米国の坩堝が、米国渡来前の人間を米国在住とともに変身させてしまう様をサルトルはこの物語に託したのである。

 そして、件(くだん)のその男は、いまはまだフランス人的知性のかけらを残しているが、
 「だがまもなく、彼は、木か、岩になってしまうだろう。こうして分解と形成が確実敏速になしとげられるためには、どんなつよい力がはたらきかけるものかと、私は興味を感じながら考えてみた」。

 これは、フランス人は知性をもっているのに、米国人は知性のかけらもないといった差別的発言であると受け止めるべきではない。サルトルがいうフランス人的知性というのは、権力や体制の命令に対して懐疑的になる姿勢を指している。こうしたフランス人的懐疑を典型的な米国人をもたず、ひたすら体制に順応してしまうと言っているのである。

 その通りではないだろうか。私たちの周囲にいるアメリカナイズされた人々はどうして同じような考え方をとくとくと述べ、「フン!」と鼻にかけた同じような話し方をするのであろうか。そして、相手を睨み付けるような顔をし、けっして眼が笑わない。オリジナルなことを自分の言葉で話すのではなく、米国人がかならず言いそうなことをテキスト通りに語る。こうした米国帰りの人たちの精神構造はどうなってしまったのだろうか。そうなってしまうには、「どんなつよい力がはたらきかける」のか。まさに、サルトルの問いは、箸の上げ下ろしまで口やかましく米国政府から言われる日本政府の問いでもあるべきだ。

 この強い力とは、
 「やんわりと、人を説き伏せてしまう力である。通りを散歩したり、商店に入ったり、ラジオのボタンを廻すだけで、その力にぶつかることができ、それが熱風みたいに、自分にどんな影響をあたえるか感じることができる」。
 「アメリカでは-少なくとも私のしっている限りでは-町にいても、ひとりきりということがない。壁が話しかけてくる。右にも、左にも、ポスターや、電気広告や大きな飾窓がある」。

 爆撃の画の下に聖書を読もうとか、国家のスローガンが低音でさりげなく説明されている。美しくなりたければ某クリームをお使いなさいとのポスターが貼られている。大きなダム建設現場に通じる道路の側壁には、大きな画が描かれていた。一本の紐で繋がれた2頭のロバの両端に餌がある。最初は2頭はそれぞれ正反対の餌を取ろうとするが、互いに引っ張り合って動けない。そのうち、ロバたちは気づき、まず一方の餌を2匹で連れ立って食べる。食べ終わったら、また連れだって反対の餌の所に行くという連続絵画である。なんの説明もなく、絵画だけが飾られている。連続絵画を見ながら道路を進む人々は絵画が何を語りかけているかに気づく。労働における連帯性の重要性に通行人は気づく。サルトルは言う。

 「明らかに説明はわざと省いたのだ。通行人は自分で結論を引き出すべきなのである。無理じいをしないのだ。それと反対に、この絵は知性に訴える。通行人はそれを解釈し、理解しなければならない。ナチスの宣伝が怒号するポスターでやっているように、通行人に叩きつけるというところがない。それはぼかしであり、協力をもとめて、理解してもらう。そこで彼が理解したときは、自分で思想をつくったような気になって、半分以上それに説得されてしまう」。

 私は、個人的には過剰なレトリックを嫌う。単なる言葉遊びは無言よりも質が悪いからである。しかし、サルトルのこのレトリックには感服してしまう。実際には、特定の思想に辿り着くように誘導されている。その思想に辿り着いたとき、人々は自分の努力でその境地に達したという感慨にふける。まさに、「見えない占領」である。

 学校で、マスメディアで、教会で、同じようなことがさりげなく語られる。いつのまにか人々は洗脳されてしまう。しかし、人々は洗脳されたとは気づかない。自らの力でそうした思想を身に着けたと思い込む。こうした「見えない占領」戦略は、れっきとした科学である。高度な技術である。階段の上り下りに、廊下を通行中に、街角の大画面に、二六時中、こうした誘導場面にさらされておれば、素直な人間は容易に洗脳される。そうした「望ましき思想」を獲得できた人しか出世の窓口が開かれていなかったら、余計にそうした洗脳は効力をもつ。

「新古典派以外のディスクリプションは科学ではないので受け付けない」とされた経済学部では、権力公認の思想以外の持ち主は、学者の門を閉ざされてしまう。「科学は正しい」、「新古典派は科学だ」、「したがって新古典派以外の記述は抹殺してよい」。ソクラテス的傲慢な三段論法が米国人的社会は幅をきかす。「科学」とされるものが「正しいのか」との疑問を差し挟んだ瞬間に、そうした疑問をもつ人々は社会的に抹殺されてしまう。

 兵器工場では、おだやかな音楽が流れ、労働者が心地よくそれを聴いていたら、音楽がやんだときにさりげなく戦争の知識がラジオから語られる。巨大ダムを見学したサルトルは感想を求められた。ダムを賛美した外国人の感想が労働者の耳に届くようなシステムが作られているのである。サルトルはそうした光景におぞましさを感じた。

 「明日はきっとこれが、造船所や、カフェテリヤや、この村中の家々に放送されることだろう。労働者たちは、自分たちが外国人にすばらしい印象をあたえたことを聴いて、うれしく思いながらその仕事をつづけるように励まされるだろう」。

 そして、サルトルは力を込めて告発する。

 「これに加うるに、ラジオによる忠言、新聞の通信、殊にはほとんどいつも教育的な目的をもった無数の協会の活動がある。これでアメリカ市民がいかに枠にはめられてしまうかがわかるだろう」。
 「ニューヨークの方々のカレッジに、またカレッジ以外にも、アメリカ化の講座がある・・・これは純粋のアメリカ人をつくるためにある」。 「アメリカ人だけが、アメリカの理性とただの理性を区別しない」。
 「アメリカ人の特性は、自分の思想を普遍的にしておくことである。そこには清教主義の1影響が見られる」。 「(アメリカ人には)殊に骨肉化した理性、目に見える理性が、具体的に、日常茶飯事に存在しているのである」。


 つまり、米国人の理性は分かりやすく屈折したものであってはならない。それは日常的に目に見えるものでなければならない。理性があれば物事はうまくいく、うまくいかないのは理性を理解しない人たちがいるからである。そうした人たちには理性を教えなければならない。つまり、米国人的理性を米国人は無知蒙昧な外国人に教えこまなければならないのである。ひどいものだ。そもそも人間の中には不合理な情念が取り憑いているはずである。それをあるがままに受け入れるというのが大人である。そうではなく、個性からそうした悪を追放しなければならないといった強迫観念に米国人は浸っているのである。正しい人間は同じような人間になるはずであると思い込まされている。こうした米国人にとって、自他の区別が生じようはない。


サルトルの米国人論(b)

2006-09-21 01:14:35 | 時事
 「(アメリカ人は)個性をとりのぞき、普遍的非個性にまで自分を高めた人間なのである」。
 「(フランス人である)われわれにとっては、個人主義は、『社会にたいする、また特に国家にたいする個人の闘争』という昔ながらの古典的形態を保っている」。

 しかし、米国人は国家そのものを尊敬し切っている。

 「(アメリカでは)まず国家は永いことひとつの管理にすぎなかった。数年前から、国家は別の役割を演じようとしているが、それでもアメリカ人の国家感情は変わらない。それは彼等の国家であり、彼等の国民の表現である。彼等は国家にたいして深い尊敬と、所有者の愛情を抱いている」。

 ここで、「国家は別の役割」云々というのは、世界大戦に伴う軍事国家的統制国家のことを指していると思われるが、それにしてもすごい文章ではないだろうか。

 サルトルは続ける。ニューヨークの道路はきちんと碁盤の目にそろえられている。つまり、画一的である。ところがビルは、とてつもなく高く、てんでバラバラであり、ヨーロパの都市規格のいずれからも外れている。つまり、個人主義的である

 「アメリカの個人主義は画一主義とは対立しないで、反対にそれを前提とする」。

 米国人は成功しなければならない。

 「金銭はアメリカでは、成功をしめす必要な、しかし象徴的な記号にすぎないように思える。人は成功しなければならない。成功は道徳的美点と知性の証拠であり、また真正な保護をうけていることをしめすものだからである」。

 激しい生存競争という個人主義が、金を儲けることを成功とする画一主義の上で展開する。

 「人は成功しなければならない。成功してのち、群衆の前にひとかどの人間としてあらわれることができるからである」。

 金のない無名の人間を米国人は尊敬しない。
 米国では、必要なことは協会がやってくれる。1930年代、ワシントンには150余りの協会があった。

そのうちの一つ、「外交問題評議会」にいち早くサルトルは注目している。それは、他国の情勢に疎いまま、1917年に戦争に巻き込まれたことを反省したことから設立されたものであるとサルトルは解説した後、次のように言う。

 「(この評議会は)今日では2600人の加入者がおり、各州に300の支部をもっている。500以上の新聞がここの資料を受け取っている。政治家はここの出版物を参考にしている」。

 ところが、この評議会は大衆に対しては情報を出さず、社会的影響力の大きい層に情報を与えている。

 「この連盟(評議会)はしかも大衆に情報をだすことを考えていない。それよりも情報家(学者、教授、僧侶、ジャーナリスト)たちに情報を与える。毎週連盟(評議会)は国際問題の研究、ワシントンの事件の注釈をふくむ週報をだしている。2週間に1回、各新聞社に資料を送るが、新聞ではそれを再録したり、1部分を使用している」。  

 サルトルはフランスではそんなことは考えられないと驚く。右翼の新聞、『アクシオン・フランセーズ』に、左翼の新聞、『ユマニテ』にこの種の協会が定期的に資料を送ることなど考えられない。しかし、米国ではそれが行われ、ジャーナリズムがその資料を素直に採用しているのである。

 サルトルがもっとも衝撃を受けたのは、この評議会に集まる老婦人の言葉である。
 「こういうことで、私たちは個人を保護することになるのです。連盟に属していない人は孤立しています。連盟に入っていると、ちゃんとした個人になります」。

 サルトルは結論する。
 「市民たる者はまず自分を枠にはめ、自分をまもらなくてはならない。同種の他の市民たちと社会的契約を結ばなければならないということである。彼に個人的機能と個人としての価値をあたえてくれるのは、この縮小した集団である。協会の内部にあって、彼は指導権を持つこともできるし、個人的な政治を行い、可能ならば、集団の方向に影響をあてることもできるだろう」。

 至言である。私が、「メガチャーチ論」という長い論文を書き、米国の現代宗教のもつ意味に接近するのは、ひとえに、サルトルのこの感受性に惚れ込んだからである。

見えざる占領 09[教育篇] 売り渡される日本の教育(4a)

2006-09-20 01:24:07 | 時事
 小泉内閣の重要な施策の1つに「構造改革特区」の設置がある。例によって、USTRの示唆によって、小泉首相の諮問機関である「経済財政諮問会議」で検討され、小泉首相を本部長とする「構造改革特別区域推進本部」の手で2002年に設置されたものである。

 全国一律の制度を施行するのではなく、「地域の特性に応じた規制改革を認める」というのが特区の趣旨である。地方自治体が特区における実施事業を政府に申請し、政府がこれを認め、事業実施に必要な規制改革を行った後、事業の実施を認めるという手続きが踏まれる。

 そして、2003年、「構造改革特別区域法」の改正によって、株式会社による学校経営への参入が認められた。これまでは、学校を経営できるのは、学校法人でなければならなかった。学校法人は営利を目的としてはならないのである。こうした枠を規制と捉え、営利を目的とする学校経営を営利会社に認めたのがこの改正である。校地・校舎を自己保有していなくても、学校を作ってもよいことになった。学校経営に携わる株式会社は、「学校設置会社」と呼ばれる。

 特区評価」といって、特区における大学を評価する制度がある。この評価において、弊害なしと判定されれば、学校設置会社を全国的に解禁するというのが、政府の方針である。2004年度と2005年度では、こうした結論を「特区評価」は出さなかった。2006年度の下期には結論を出すという予定であったが、少なくとも9月段階ではまだ出されていない。

 株式会社の学校経営への参入を支持する勢力は、これまた、米国での先例に追随したものである。株式会社によって経営される大学は、米国では800校を超えている。高校以下の学校も500校弱ある。

 株式会社によって経営される大学の数は、米国で急増した。総じて大規模で黒字経営を続けている。要するに儲かる分野なのである。

 これまでの大学が手がけてこなかった隙間(ニッチ)に、社会人を対象とした実務教育がある。このニッチ市場に株式会社が乱入しているのが、米国の大学の姿である。現在は、全学生数の5%程度しか営利大学は占めていないが、そのシェアは確実に大きくなっている。営利大学は成長産業なのである。社会不安、就職不安が若者の中に大きくなればなるほど、若者は実学指向、資格取得指向に傾く。教養では飯が食えないと思いこむ。そうした風潮を営利企業は敏感に捉える。

 米国における営利大学の最大手は、フェニックス大学である。この大学は、NCA(北中協会)から適格認定を受けた職業訓練大学である。インターネットによるオンライン教育を実施し、各地に校舎をもつ。こうした校舎は、ブランチ・キャンパスと呼ばれている。ブランチ・キャンパスは人口集中地に配置されているが、その中には、借り受けた建物もある。自前の校舎を1つももたない大学もある。全米のこうしたキャンパスの65%がNCA認定校である。

 営利大学の教員の多くはパートタイム型の実務家教員である。アポログループという営利大学を経営する組織は、71校を傘下に収めているが、教員の90%以上が非常勤のパートターマーである。

 教育の基本形は教師と学生との間の人格的交流にある。教師の多くが専任ではないということは、教師と生徒との間に、人間的な交流が成立し難いことを意味する。スーパーで大根を売る店員が教師であり、大根を買うのが生徒である。大根の売買に両者の交流は限定される。

 米国では、学位を売る大学もかなりある。そうした弊害もあって、ロードアイランド州、デラウェア州、モンタナ州など、営利大学による学位授与や奨学金に制限を課す州もある。開校はしたものの、1、2年で廃校するという無責任な営利大学も結構多い。

 営利大学は全体的に黒字であるが、高校以下を経営する営利会社は規模が小さく、総じて赤字である。義務教育レベルでは規模の利益を生かせないからである。高校以下では、学校運営の費用のうち、人件費が80%も占める。

 生徒の深刻な学力低下に悩んだ学校が、株式会社に経営を委託するようになった。その結果、高校以下の段階で株式会社が増えたのであるが、経営に不透明さがつきまとっている。たとえば、高校以下の教育段階でただ1つ株式を上場していた「エジソン」という会社は1992年に学校運営に乗り出したが、会計検査院(GAO)や、米証券取引委員会(SEC)の調査が入り、2003年には上場を取り消している。黒字には一度もなっていない。義務教育段階では、当局の規制が依然として存在しているからである。それでも、いまだに運営学校数は100を超えている。これは、日本政策投資銀行大井孝光・調査役への読売新聞のインタビュー記事の情報である。

 日本でも、2003年に特区での申請を受け付け、2004年から開校する株式会社経営の大学が増えてきた。

 2004年春には、「LEC東京リーガルマインド大学」と「デジタルハリウッド大学院」が特区に開校した。いずれも、東京都・千代田区に本拠を置く。

 LECは、そのホームページで、「日本で最初の株式会社大学」に選ばれたことを誇りにしているLECは、司法試験、司法書士試験、弁理士試験、各種公務員試験等々の受験対策で定評があった。さらに、様々な就職支援事業にも参加し、政府や自治体との関係を深めていた。LEC東京リーガルマインド大学は、保護者会を年2回もつ。1年生のうちから、就職への関心を高めてもらうためである。授業を休んだ学生には担任から電話が入る。こうした手厚い学生支援で、各種資格試験の合格率を高めようとしているのである。

 そして、2005年春には、LECは、会計専門大学院を開校した。デジタルハリウッド大学院も2005年春に今度は大学、「デジタルハリウッド大学」を、2005年春に東京・秋葉原に開校した。東大など10の大学が事務所をもつビルのワンフロアーを借りていて、そこがキャンパスである。広さ約1000平方メートル、教室は8つ、1年生は220人余り。この大学の前身は元々人材養成会社であった。2005年に大学を併設したのである。

 大学の方針は、3年次に全員1年間の留学をさせることである。そのために、1年次の授業の半分は英語である。入学式はロサンゼルスで行い、ハリウッドの映画スタジオ見学も実施した。IT(情報技術)分野の人材育成がこの大学の目標である。

 同年年春、東京・麹町に「ビジネス・ブレークスルー大学院」も開学した。これは、経営コンサルタントの大前研一氏が作ったインターネットを駆使した大学院である。2年間で「経営管理修士」(MBA)を取得できる。定員50人、第一次の入学者の平均年齢は38歳である。

 ソフトバンクは、2007年春に開校を目指して「ビジネス・ブレークスルー大学院」と同じく、インターネットで行う4年生の大学、「日本サイバー大学」の設立認可申請を福岡市の経済特区に申請した。出資はソフトバンクを中軸とし、地元福岡の企業の協力を仰ぎ、福岡市博多区にある「株式会社・日本サイバー教育研究所」に大学運営を任せるというものである。学生の年齢制限はない、職業、居住地域、国籍も問わない。国際社会で活躍できる人材を育成するというのが、ソフトバンクの狙いである。

 学部は2つあり、「コンピュータ&ビジネス学部」、「世界遺産学部」である。2学部に1000人ずつ受け入れる。

 英語を駆使したIT教育とインターネットの活用というのが、株式会社大学の典型となりそうである。

 義務教育ではどうか。これも、予想通り、特区に開校した義務教育段階の学校の多くは、英語教育を売り物にしたものである。

 その1つが、群馬県太田市の特区で2005年春に開校した「国際アカデミー」小学校である。将来は高校までの一貫教育を行う予定である。大半の教科は英語で行われる。校長は、外国人である。校長以外に教員は14人で、うち、外国人は7人である。つまり、校長を含めた教員は全部で15人、うち、外国人が8名と、日本人教員よりも多いというスタッフ構成である。最初は、小学1年生と4年生だけを募集した。定員はそれぞれ90人、60人である。

 同じく2005年春、長野県松本市に県内初の私立小学校、「才教(さいきょう)学園小学校」が特区に開校した。中学校も併設した。校長は、市内の進学塾の経営者である。教員は19人、うち3人は塾の看板講師であった。

 英語教育を主軸に置いている。英語の授業は毎日あり、学年に関係なく能力別に4クラスに分けられている。最高レベルのクラスはすべて英語で授業を行う。

 他の教科も1クラス15人以下で、学年に関係なく、先へ先へと進ませる。定員は、小中併せて80人である。校舎はまだプレハブであり、体育館やグラウンドは地域のものを借りている。

 塾を学校にしてしまった例もある。岡山市内の「朝日塾中学校」は、市内の進学塾「朝日塾」をそのまま母体にして2004年春に開校した。株式会社の中学校としては全国初である。希望によるが、夜の10時まで授業がある。当然、かなりの生徒が寮生活をしている。各学年の定員は50名である。

 文部科学省の調査によると2004年の学習塾の数は、5年前より約2000増えて、全国で5万弱あるという。そういう現状では、塾そのものを正式の学校にしてしまえというニーズは確かにあるのだろう。

 大学と同じく、インターネットを駆使する通信制の高校も増えている。株式会社が経営する通信制高校は、石川県白山市の「美川特区アットマーク国際高校である。全国に配置されたパソコンのある教室に生徒たちは通う。スクーリングだけ白山市で受ければよい。不登校経験者や海外在住者が生徒であり、約220人が在籍している。

 経営主体は、「アットマーク・ラーニング」社であった。この会社は、2000年からインターネットを使った無認可の学校を経営していた。ただし、この学校は、米国の通信制高校と提携していたので、米国の高卒の資格は取得できたが、日本では無認可だったので、高卒の資格はなかった。

 特区の制度でそれが可能だと分かり、同社は美川町に出会った。美川町は町村合併で白山市となり、町名が消える。美川町の要望は、学校名に消える町名を入れることであった。通信教育に必要なスクーリングは年に2日でよい。したがって、特定の校舎を占有する必要はない。事実、同社は近くの中学の校舎を2日間借りただけである。2005年7月のスクーリングに参加した生徒は44名だけであった。しかも、同町に宿泊してくれず、町外から通ってくるという有様であった。つまり、地元にはまったく経済的効果はなかったのである。

 その他、三重県志摩市の「代々木高等学校」、茨城県高萩市の「ウィザス」、熊本県南阿蘇村の「くまもと清陵」、熊本県御所浦町の「勇志国際」、等々、似たような通信教育の特区における開設計画がめじろおしである。

 以上の特区において新しく開校した学校の情報は、読売新聞の「試す特区の学校」シリーズに依拠した。

 これでいいのだろうか。日本の教育は崩壊してしまうのではないだろうか。自治体の財政難、新規性、話題作り、企業の自己満足、等々の結果としてチャラチャラとした学校がものすごい勢いで開設されて行く。そして、若者を心身ともにたくましく育て上げるという教育の場が、なし崩し的になくなってしまう。

 教育とはシステムではない。人格的魅力をもち、溢れる知性を具備し、人生に真摯に立ち向かう「先生」を尊敬するところから、若者に「学ぶ」心が生まれるものである。「先生なき、学校ごっこ」、現在の特区の学校とは所詮その程度のものである。

見えざる占領 10[教育篇] 売り渡される日本の教育(4b)

2006-09-20 01:23:44 | 時事
 ただし、例外はある。神奈川県藤野町に開校した小中一貫校の「シュタイナー学園」である。これは、世界に900校以上もある「シュタイナー」学校グループに属する。この学校グループは、オーストリアの思想家、ルドルフ・シュタイナー(1861~1925年)の教育理念を実践している。テストや成績表はない。小学校から中学校を卒業するまで、同じ担任、クラス替えもない。

 同校は、既存の教科書を使わない。生徒は、自分で教科書を作る。授業で学んだ内容を、エポック・ノートと呼ばれる自分のノートに書き込む。クレヨンや鉛筆を使って授業に関連した絵も描き添える。

 シュタイナー教育は、人間の成長を7年ごとの周期で捉え、各周期にあった独自のカリキュラムをもつ。音楽と言語を身体の動きで表す「オイリュトミー」を必須科目にしている。

 日本では、シュタイナー学園以外に小中高校生を対象にシュタイナー教育を実践する団体が5つある。いずれも学校法人を目指しているがまだ認可されていない。シュタイナー教育を目標とする幼稚園が100園以上もある。

 日本で認可された「シュターナー学園」は、1987年に東京・新宿区に設立されたフリースクール、「東京シュタイナーシューレ」を前身にもつ。その後、NPO法人になり、東京・三鷹市に移転した。その校舎は企業の独身寮を借りていたために手狭であった。しかも、正式の学校法人としての認可を受けられなかったため、生徒が公立高校に進学したくても、内申書が評価されず、進学には不利であった。

 学校法人化が同校の悲願であったが、それには、学校教育法で自前の校地・校舎が必要であり、その資格が同校にはなかったのである。そこに、藤野市の「教育芸術特区」に出会った。

 この特区で、校地・校舎を借りることができた。相模湖に面する風光明媚な同町も、人口減少に悩まされ、小学校の数を10校から3校に統廃合する予定であった。廃校利用を望む同校と人口増を望む同町の思惑が一致したのである。

 同校の定員は1年生から9年生までの合計234人である。1学年26人という小さなクラスである。同校に子供を入学させるために東京都内から約30世帯が同町に移転してきた。知識を詰め込むのではなく、心を育てたいという親が都内から引っ越してきたのである。

 ただし、少人数で中身の濃い教育をするには、豊富な外部資金を必要とする。財政難の自治体が経営を支えることはまず望めないであろう。とすれば、金持ちの子弟だけがこうした立派な教育の恩恵を受けることになるのだろうか。教育から「公」がものすごいスピードで消失していることに代わりはない。恐ろしいことである。

本山美彦 福井日記 40 寄進について

2006-09-16 14:44:39 | 寺社(福井日記)

 私の住んでいる松岡が属する吉田郡の名前が初めて文献で見られるのは、建久元年(宮内庁書陵部(その他)二号)であるとされている。その成立は平安末期であろう。郡名の由来は詳らかでない。大きな荘園が成立し、郡域のほとんどがこれらの荘園で埋められていたとされる。河合斎藤系の本拠地であり、彼らと平氏政権の関わりが荘園の成立に重要な要素であったと言われている。大野郡白山平泉寺の影響力も強かった。


 大荘園の1つが、志比荘(旧吉田郡志比谷村・上志比村・下志比村)である。これは九頭竜川中流南岸域にあった。高倉天皇生母建春門院が法住寺殿内に造営した御願寺最勝光院の当初の寺領とみられる。疋田斎藤系の一族に志比大夫と号した藤原為隆という人物がいた(『尊卑分脈』)。彼が当荘成立期の有力領主と思われる。鎌倉殿勧農使を務めた比企朝宗が地頭であった(『吾妻鏡』建久五年十二月十日条)。その後、波多野氏地頭となった。六波羅評定衆を務めた波多野義重が、道元を当荘に招請し、永平寺を開いたのである。鎌倉末期に志比荘の領家は二条家一族に移った(宮内庁書陵部(その他)四号)。


 その頃、荘園を保有していたのは、最勝光院であった。最勝光院は、承安3年(1173年)、建春門院(後白河院女御)御願として建立された寺院である。最勝光院の御所の障子絵には、女院・院の寺社参詣が描かれている。絵師は常磐源二光長、面貌ばかりは藤原隆信が分担した。このことを伝える玉葉の記事は、自身が描かれることを免れて「第一の冥加」と漏らすことで著名である。その述懐の内実については、自分の似顔絵が己の与かり知らぬところで作られ、見られることに対する忌避感が中核にあったと言われている。


 しかし、その寺院は、その後、衰微し、正中元年(1324年)に後醍醐が、最勝光院の本家職を東寺に寄進し、当荘もその1つとされた(せ函武九)。ところが、ここから東寺と波多野氏との間で諍いが起こる。波多野氏が、この身売りに抗議して、本年貢の綿1000両の納入を拒否したからである。翌2年末に後醍醐は地頭に本年貢の直納を命じ、以後長く東寺と波多野氏の相論が続いたと言われている。


 その他、吉田郡の地名に吉野保(旧吉田郡吉野村)がある。これは荒川の上流域で、梨本門跡領であった。


 藤島荘も、福井市街北部の九頭竜川以南にあった荘園で、荘域はほぼ旧吉田郡東藤島村・中藤島村・西藤島村にわたっていた。
平家没官領で当初源頼朝はこれを平泉寺に寄進し、藤島保もしくは藤島領とよばれた(『吾妻鏡』建久元年四月十九日条、宝生院文書一号)。ついで天台座主慈円延暦寺に始めた勧学講の料所となり、後には青蓮院の所伝によると右衛門尉藤原助近相伝の私領だったとされるが、また平重盛の所領であったとも言われている(「勧学講条々」)。


 そもそもこの荘園を開発したのは、河合斎藤系の本流に属するこの齋藤助近であるその子実近・実光はそれぞれ志原(松岡町芝原)・中村(福井市上中町・下中町)を苗字とした。その兄弟一族は越前の在地や有力寺社に重い地位を占めたが、源平の合戦で平家方に属して滅びた。助近も寿永二年六月の加賀国篠原(石川県加賀市)の合戦で木曾義仲に討たれたという。


 平泉寺はこうした在地勢力が依拠した地方有力寺院であるが、平安末期には延暦寺の末寺(別院)となった。慈円はそうした本末関係を利用して当荘を入手し、開発を進めて自分の門跡領に取り込んでいった。建暦2年の目録によれば、藤島荘の所当は米4800石・綿3000両という大きなものであった(「門葉記」)。藤島荘の在地は大きく上郷・下郷に分かれ、下司・公文が置かれていた(武田健三氏所蔵文書一号)。  今泉荘(福井市北今泉町・東今泉町)は藤島荘中村の南隣りに位置し、平安末期に摂関家一族の皇嘉門院領だった(九条家文書)。


 曾万布荘(福井市曾万布町)は11世紀中頃に成立し、法成寺東北院領で殿下渡領に編成された。鎌倉末期に春日社西御塔造営料所に寄進され、その後、長く興福寺西南院が知行した(宮内庁書陵部 九条家文書三号)。


 河北荘(旧吉田郡河合村・森田村)は九頭竜川以北の大荘園で、古代の足羽郡川合郷の名を継いで河合荘とも言われた。仁和寺相応院の僧隆憲が御室守覚法親王に寄進した所領がその前身となり、建久元年その見作田60町を二品守覚法親王の品田に充てて親王家領として立荘が認められた。この隆憲の生家はもと摂関家の家司の家柄に属したが、藤原頼長の外戚方であったために保元の乱ののちに家が没落したものである。兄の頼円も仁和寺の僧で、当時越前にもいくつかの寺領のあった法金剛院の執行を務めた。この河合の地は吉田郡・足羽郡一帯に大きな勢力をもった河合斎藤系諸氏全体の苗字の地で、稲津氏の祖実澄や平泉寺長吏斉命の子が河合と号したという(『尊卑分脈』)。


 河合斎藤氏に属する検非違使藤原友実は、元服する以前から殺されるまで守覚法親王に従い、仁和寺内に住んでいたという。彼は、仁和寺領の丹生郡石田荘地頭であり、法金剛院領の今立郡河和田荘の「地頭下司」を自称し、越前の寺領支配に深く関与していた。当荘の成立と支配にも彼が直接関係していたものと推定される。この守覚法親王の家領は河北御領もしくは河北御品田とも呼ばれ、御所の北院薬師堂領に編成されて隆憲の知行が認められた。二代将軍頼家の代までに地頭が補任され、頼家はその停止を請け合っている(仁和寺文書一・二号)。


 河南荘は妙法院門跡の管領する所領で、三郷からなっていた。河北荘に対して九頭竜川以南の地と考えられる(資2 妙法院文書四・九号)。


 以上の叙述は、『福井県史』第2編・中世編に全面的に依拠している。
 地元の権力者が、多数の人民を使って、荘園を開発する。このことが、福井にきて分かった。権力者が地元農民の零細な田畑を略取して荘園になったのではない。地元権力は、荒蕪地を開発し、その荘園に農民を賃金労働者として雇っていたのである。そして、中央の権力者が武力で地元権力者から荘園を奪う。しかし、露骨な権力施行を隠蔽するためもあったのか、寺院に荘園寄進させるという外観を取る。それはあくまでも外観であって、けっして、信仰心から出たものではない。貴族は寺院の本家職となり、皇族は門跡となってそれぞれ寺院を支配する。宗教心から地元権力者に荘園を寄進させるという外観を取って、実際には、中央の権力者は、地元権力に下級の職を与えて、荘園をまるごと略奪していたのである。


 中央権力者の権力闘争の結果、寺院に名目上、寄進されていた荘園が別の権力者によって奪い取られる。そうした混乱の中から、寺院が、自ら武力をもち、荘園の所有者であることを宣言する


 人間の物欲のエッセンスである荘園に依拠して繁栄した寺院とはなになのだろうか。人間として、そうした悲しい現実に心を痛めて、それこそ、自派から「出家」した僧もいたはずである。自派への反権力者を私は歴史の中に探している。本物の宗教者は必ずいたはずである。権力によって、そうした反権力者は、文献から抹殺されたはずである。私はそうした宗教家を探そうと思う。
  「消された伝統の復権」の義務を果たそうと決心している。