消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.109 庭の芸能

2007-05-15 23:54:45 | 言霊(福井日記)

 竹富島玻座間村の種子取祭の7日目、夜明けに弥勒神を起こし(ミルクウクシ)、その後、その神を「歓待」(カンタイ)する儀式を「世持御嶽」(ユー・ムチ・ウ・タキ)の特設部隊で行う。

  その後、島の古老たちが、集落の責任者である主事の家を訪問する。この訪問時に、「世乞い」(ユークイ)歌を歌う。彼らが「世持御嶽」に戻ってくると、この御嶽の広場で、彼らを「迎え」(ンカイ)る儀式がある。そして、その場所で「庭の芸能」なるものが奉納される。午前10時頃である。約1時間。

 まず、「棒」の演技。祭りの「清め」の意味がある。三尺棒・鎌・刀が竹富島の武力を表し、頭に「マンサージ」と呼ばれる鮮やかな紫頭巾を被った「二才」(ニーセー)と呼ばれる青年たちが演じる。さらに、槍・薙刀(なごなた)という薩摩藩の武力を表す武士姿と二才たちの闘いが演じられる。

 次ぎに、「太鼓」が演じられる。小太鼓を左手に、右手に撥(ばち)をもった薩摩武士の行列が続く。鉢巻・羽織袴(ハオリバカマ)といういでたちは、琉球のものではない。

 そして、前回、紹介した、働き者の「真女」(マミドー」が演じられる。姉さんかぶりの野良着姿、鍬・鎌を手にして、農作業の踊りを演じながら、「作物の生長」の歌を歌う。

 「ジッチュ」という着物の「片袖」を脱いだ男女の踊りが続く。人頭税に苦しみながらも、10人の子供を育て上げ、税も完納した夫婦を、首里国王が、誉めるべく、王宮に招待したが、この夫婦は貧しく、着物の片袖が取れていた。片袖のまま国王に拝謁したという伝承である。国王に拝謁できた喜びが踊りになっている。釈然としないが、まあ、いいとしよう。「ジッチュ」の言葉の意味には諸説ある。かけ声を表したのではないかという説が有力である。

 「真栄」(マ・サカイ)という伝説上の人物を讃える踊りも奉納される。

 人頭税があった時代、人が増えすぎると、他の地域に強制移住させられた。これを「道分け」(ミチ・バギ)といった。

  住み慣れた地を離れて、荒地の開墾のために強制移住させられるのだから、島人たちは皆、この「道分け」を嫌がった。しかし、300年ほど前に、進んで石垣島への移住に応じた「真栄」という若者がいた。彼の開拓精神を讃えた踊りと歌が「真栄節」である。鍬を担いだ踊りが演じられる。

 「腕棒という空手の演技もある。元々は男性の演技であったが、踊りが単純なので、しばらく廃れていたが、女性の演技として復活した。女性が空手を演じるのである。

 「祝い種子取」という芸能もある。これは、伝統芸能ではなく、新しく構成された芸能である。島を離れた人たちが、島に里帰りし、離島たちが協力して、島のために奉納する芸能として創り出されたものである(戦後すぐ)。

 「世乞いの道歌(ミチウタ)」、「安里屋(アサトヤ)ユンタ」、「クイチャー」などいくつかの民謡が混ぜ合わされた踊りである。

 元々は、竹富島から石垣島に移った人々が、石垣竹富郷友会を創り、その婦人部が竹富島の「種子取祭」に帰郷して奉納したのが始まりである。それまでは、島を離れた者は島の踊りを奉納することはなかった。これはすごいことである。

 庭踊りで一番人気は「馬乗者」(ンーマ・ヌー・シャ)である。頭に先述の「マンサージ」、足には脚絆(キャハン)と草鞋(ワラジ)、腹に馬型を括り付けて「二才」たちが面白可笑しく躍る。かけ声も、笑いを誘うように工夫されている。



 これは、琉球王朝時代の「京太郎」(チョンダラーという芸能集団の名残である。彼らは、村々を渡り歩いて芸能を披露するとともに、葬儀をも引き受ける「念仏者」(ニンブチャー)であった。

  いまでも、沖縄に残っている、人形芝居・念仏歌・口説・鳥刺舞・馬舞者・エイサー等々は、チョンダラーを創始者としている。

 これら盛りだくさんの演技がわずか1時間、庭で、つまり、土の上で演じられるのである。演技者と観客は当然、一体となる。こうして島人たちは、互いの結びつきを強めている。

福井日記 No.107 チュ 

2007-05-13 16:52:27 | 言霊(福井日記)

 前回、「天人」のことを書いた。前回では、「アマンチ」と表記した。しかし、別の資料を読むと、「アーマンチュ」と表記している。どちらも正しいのだろうが、沖縄方言では、「人」を「チュ」と発音するらしい。

 ただし、「人」と呼ばれるとき、人一般を指してはいない。特定の身分をあらわす場合にのみ、「人」が使われる。

 例えば、先ほどの「天人」がそうである。他に、「富貴人」(フヤキンチュ)、「士族」(ユカッチュ」等々である。

 身分以外に「チュ」を使わないことを示すものとして人数の数え方がある。「一人」を意味するときには、「ヒトゥイ」、「二人」は「フタイ」、「三人」は「ミタイ」である。つまり、「チュ」ではなく「イ」と発音している。「人」には特別の上流階級を指す言葉に限定される。実際、琉球では、普通の人間を指すとき、「人」(チュ)は使われていないようである(間違っているかも知れないが)。

 普通の人をあらわす琉球弁をいくつか拾ってみよう。
 前回、説明もせずに、「マミドー」を踊って「天人」を送ったと書いた。「マミドー」と素敵な言葉である。「マ」とは「真」。文字通り、「まことの」(真の)という意味である。「ミドー」とは「女人」である。つまり、「真の女」、「立派な女」、「女の中の女」、「働き者の女」「マミドー」である。

 竹富島では、「種子取祭」の舞踏として「マミドー」が位置づけられている。真栄里(まえざと)家に、じつに働き者の女性がいて、それに感動した「小底筑登之」(こ・そこ・ちく・どぅ・ん)が振り付けを作成したと言われている。1800年以前のことである(玉城憲文『竹富島仲筋村の芸能』オリジナル企画、1976年)。作物の生長を称える歌で振り付けられている。竹富島には、いくつかの「マミドー」のバリエーションがあるが、いずれも「働き者の女性」への賛歌である。マミドーの踊りは、女性が、畑を耕し、種を播き、雑草をむしる踊りが組み込まれている。

 竹富島では、「ホンジャー」の役割が重要である。ホンジャーは、奉納芸能を司る神であり、玻座間地区では、国吉家の当主の床の間に鎮座している。中筋地区では生盛家の当主の家に祀られている。

 初めて種子取祭で芸能を奉納する人たちは、このホンジャーという神に「新入り」の挨拶をして、「手、足、口の誤りもなくきちんと演じられますように」と祈る。当然、国吉家の当主、生盛家の当主の家を訪問する。

 「ホンジャー」の「ホン」は、「フン」の訛ったものである。「フン」とは、村よりも小さな地域を指す「組」の意味である(後述)。

 「ジャー」は「イイジャー」ではなかろうかと言われている。「イイジャー」とは「父」のことである。つまり、「玻座間ホンジャー」は、「玻座間組の父」のことである。「ホンジャー」および「ホンジャーを祀る」家は、政治的な支配関係を表現する言葉ではなく、あくまでも、奉納芸能を滞りなくこなせる力を与えてくれる神様に祈る家である。

 種子取祭には、「ホンジャー」という神様は必ず登場する。そのさい、国吉家や生盛家の当主が「ホンジャー」を演じることになっている。奉納劇の中で、ホンジャーは豊作を祈願し、役人に芸能を演じる許可を求め、許可を得た後は、子供たちに芸能を披露させますと言って、舞台から退場するシナリオになっている。

 玻座間の種子取祭で奉納される狂言は、4つの主要なものから成り立っている。「農機具の整備」、「荒地の開墾」、「種子蒔き」、「収穫」がそれである。

 「農機具の整備」をまとめた狂言は、「鍛冶工」(カザグ)である。鍛冶の親方、「鍛冶工主」(カ・ザ・グ・シュー)がまず登場し、部下の「鞴親父」(ヒ・イイ・ジャー、鞴は、現代語では「ヒ」と読み、「ふいご」のことである)「前打」(マイ・ウチ、大槌を打つ人)を呼び出し、鍛冶を行う儀式をする。鍛冶の「飾り口」(カザン・グチ、祝詞のこと)を唱え、「フイゴ」(鞴)、「カマド」(竈)、「ツチ」(槌)、「ハサミ」(鋏)、「カネドコ」(金床)、「モクタン」(木炭)のなどの鍛冶に必要な道具の名を列挙して、それぞれに宿る神に祈る。最後に鍛冶の大神様をお招きして、よい鍛冶ができますようにと祈る。そして、鍛冶の様子が演じられる。

 狂言と呼ばれるだけに、この演技に笑いが含められている。例えば、次のようなやり取りが行われる。

 「凹んでいるよ」(とーみどぅらー)、「叩いてみろ」(だっちぇーり)。
 「はい」(とー)、「盛り上がったよ」(ムレリッター)。

 これが可笑しい。へこんでいる所を叩いたら盛り上がったというのである。本当は、凸面を平らにするのが、槌で「叩く」という行為である。ところが、この狂言では、叩いたら凸になったというのである。

 農具ができると、劇中で、竹富島に鉄器が伝来した歴史的経緯が説明される。その後、豊作の歌を歌いながら、男たちの守護霊(女性)の「オナリ神」の待つ我が家への帰路を急ぐ様が演じられる。じつに、味わい深い狂言である。

 「鍛冶工」の狂言が終わると、「薄崩し狂言」(ススキ・クズシ・キョンゲン)という狂言が演じられる。「フンガシャ」(組頭)とも呼ばれている狂言である。「荒地の開墾」の場面がそれである。

 先に触れたが、琉球王朝時代、村は、さらに小集団の「フン」(組)に分けられていた。「フン」の代表者が「ガシャ」(頭)と呼ばれていた。それを「フンガシャ」(組頭)という。

 狂言では、組頭がまず登場して、農機具が整えられたので、今度は、畑を整地すべく薄(ススキ)を除去するという内容の口上を述べる。若者を呼び出し、歌い踊りながら農作業を面白、可笑しく演じる。農作業を終えた後、その作業に参加した若者たちが、口々に、いかに自分が他人よりもよく働いたかを言いつのる。このやり取りが観衆の爆笑を誘うのである。

 次に演じられるのが「種蒔き」の狂言である。
  「種子蒔き狂言」、「タニ・マイキ・キョウン・ゲン」)と発音される。「ユームチ」(世持)がそれである。

 「ユームチ」とは、村の代表者を指す言葉である。狂言では、まず、この「世持」が登場し、祝詞である口上(カザングチ=飾り口)を述べる。

 畑を耕し終え、恵の雨が降ってきた。そこで、まず私の畑に種を播く、その後、他の人もそれぞれの畑にも種を播くことにしようと宣言する。若者が集められ、種蒔きの歌と踊りが演じられ、農作業が終わると、「オナリ」神(くどいが、女性)の待つ我が家に帰る様の踊りが演じられる。

 そして、前回で説明した「収穫」の狂言、「ユーヒキ」(世曳き)が演じられる。

 素晴らし伝統文化ではないか。わずか300人程度の僧民がこの文化を守ってきたのである。

  今回も、全国竹富島文化協会の各種資料を参照した。

福井日記 No.106 みるくうくし

2007-05-09 23:22:36 | 言霊(福井日記)

 9日間の、竹富島の種子取(タントゥイ)祭のクライマックスは、「庚寅」(かのえ・とら)に当たる7日目と、「辛卯」(かのと・う)に当たる8日目の奉納芸能である。

 7日目、玻座間(はざま)村では、北東にある世持御嶽」(ユームチ・ウタキ)の神司による祈願から行事は始まる。午前5時半頃である。同じ時刻、村の東にある弥勒奉安殿では、与那国家、大山家といったこの地の名家の「御主前」(ウ・シュ・マイ=当主のこと)や、地元名士たちが、「弥勒起こし」(ミルク・ウクシ)を行う。弥勒様に睡眠から起きていただくのである。

 大山家は、琉球王朝時代には豪農であり、代々、「勢頭座敷」(セト・ザシキ)とか、「筑登之座敷」(チクドゥン・ザシキ)とかいった高い位階を琉球王から付与されていたとされる。

 大山家の当主を褒め称える「世曳き」(ユー・ヒキ)という狂言が竹富島にはある。この狂言は、竹富弁で語られることが多いい、他の竹富島の狂言とは異なり、沖縄本島の首里言葉が使われている。それは、琉球王に経緯を評して、位階を与えられたことへの感謝の狂言である。位階を表す言葉は、「御座敷」(ウ・ザッシュ」である。この位階を与えられたことの感謝を本島からきた「与人」(ユン・チュ=役人)に表すのである。

  狂言では、<「「うひな」(誉れの)「うざっしゅん」(御座敷の)「すでぃがふどぅ」(位階までいただき)「しゃびる」」(大変果報者である)>と謳われている。ただし、役人への感謝だけでなく、子供とともに豊作を祝う言葉も出されている。このような、豊作を祈願する祈りに、前もって豊作を祝う種類の芸能は、「予祝芸能」と呼ばれている。

 狂言「世曳き」は、琉球王朝時代の支配の片鱗を伝えるものである。

 
おそらくは、首里における支配者の命を受けた劇作家が、竹富島向けにこの狂言を作ったのであろう。狂言が首里言葉で演じられることからそう推察される。首里の権力者が、税の徴収を大山家に命じ、その義務をはたしたご褒美として、大山家に位階を授ける。そのことを大山家の当主が感謝して歌い、踊るという場面、そして、豊作の報告を村の最高権力者の与人に行うという設定が、そうした事情を物語っている。税徴収の報酬としての位階、それを祝う狂言を、村の大事なお祭りで村人演じさせる。いつの時代も、勲章で人を釣り、それを祝う民衆を浮き彫りにするという劇を演じさせるということは、古今東西の権力者の共通の行動様式であった。

 「世曳き」の「世」(ユー)は「豊作」、つまり、「富」を意味する。
  「曳き」とは、文字通り、「引っ張ってくる」という意味であろう。海の彼方から「富を引っ張ってくる」のである。そして、その力が大山家と与那国家には備わっているとの信仰があったのである。つまり、神様のような両家の指示に民衆は従えというのである。

 沖縄では、神様は海からくる。それが、「ニライカナイ」信仰である。それを体現したのが、弥勒(みろく)神である。つまり、八重山では、弥勒は、仏ではなく神である。

 海の彼方から富をもたらす神様が弥勒様であった。

 
ここで、大事なことは、この弥勒様が、与那国家と大山家だけに宿るとされていたことである。芸能を通じて、権力の忠実な配下を神的な位置につけ、芸能を見る民衆に配下への尊敬の念を植えつける。これが、いわゆる民衆芸能なるものの、哀しい真実である。私には、村の芸能が、すべて自然発生したものであるとは思われない。葵祭然り、天神りしかり、いわんや神戸祭はまったく民衆の創設ではない。

  民衆芸能のすごさを重々承知している積もりではあるが、伝統的民衆芸能の洗脳作用にいま少し、人々は注意を向けた方がいいと、私は感じる。

 種子取祭の7日目の早朝、大山家の当主が弥勒様を起こすという儀式は、富を曳いて下さる弥勒様を眠りから呼び起こす行為に他ならい。

 八重山の弥勒は、安南から伝わってきたと言われている。竹富島の弥勒伝説では、仲道家の先祖が、海岸で弥勒の仮面を拾い、それを家に祀って信仰していたが、後にその面を与那国家に譲ったとされている。これが何を意味しているのかは分からない。なんらかの権力関係の変化があったのだろう。いまでも、祭のときに弥勒の面を被ることができるのは、与那国家と大山家の当主だけである。

 「みるくうくし」(弥勒起こし)は、「みるく節」(ミルクブシ)の歌で弥勒様の起床を促すことから始まる。弥勒は起きてきて、「シーザ」(二才=年長の青年のこと)、大勢の供、子供を連れて登場する。

 ちなみに、我々がいう「青二才」は、先輩(二才)にもなれない未熟者という意味である。

 弥勒への捧げ物をもった供、シーザが弥勒の周りを回り、さらに、シーザ4人による踊りが奉納され、「弥勒節、ヤーラヨ節」に送られて、弥勒は退場する。

 「弥勒節」の作者は特定されている。1790年代の八重山士族の大浜用倫が作者である。弥勒節は、石垣島と竹富島では同じ節である(喜舎場永(きしゃば・えいじゅん)編『八重山民謡誌』東京堂書店 大正13年)。男性合唱のみからなり、三線は用いず、笛と太鼓による伴奏だけであり、厳粛な歌である。

 さて、伝承によれば、島の6つ村長たちが、栽培作物の選択、したがって、いつ種子を蒔くかを争い、決着がついたことを祝う「種子取祭」が何故、「種子蒔き」の祭りになるのだろうか。「種子を取る」ことと、[種子を蒔く」こととは、まったく違う行為のはずである。しかし、ここに、離島の哀しさが表現されているのである。この離島では、「種子取り」とは、海の向こうから「種子を貰う」のである。このことを推測させるものとして、仲筋村に伝わる「天人」(アマンチ」という狂言がある。

 ただし、この狂言も「ウチナーグチ」(沖縄言葉=首里言葉)が使われており、首里の支配者が、竹富島の人々を支配下に置いたことの宣言と受け取ることのできる構成になっている。

 「天人」(アマンチ)とは、琉球王朝の神話に登場する「アマミキヨ」のことである。国造りの神、稲作を始めた神とされる。

 村の長老が、栽培すべき穀物の種子を頂けるように祈るために、海岸にやってくる。そこに、「天人」が、作物の種子を村人に与えようと、海を渡って島にやってくる。両者は、海岸で出会い、長老は、種子を頂き、作物の作り方を天人から教わる。つまり、「種子取り」に成功したのである。

 天人が去った後、農作業を始めるべく、「マミドゥ」という農作業を表現する舞踏が演じられる。その際、長老が、「マミドゥ」を踊る若者たちに向かって、「筑登之・親雲上」(チクドゥン・ベーチン」と声をかける。「筑登之」も「親雲上」も、琉球王朝時代に、国王から授かる高位の位階である。おそらくは、首里の国王から高位階を授けてもらえるように頑張れと呼びかけているのであろう。つねに、王朝に恩義を感じ、王朝の寵愛を求めるという設定は、けっして地元発のものではないだろう。首里権力が、芸能を通じて竹富島の民衆の忠誠心を煽ったのである。

 ただし、ここまで書いてしまうと慌てて訂正しなければならない。これは、琉球王朝時代のことであり、現在ではまったく従属者のものではなく、村人が素直に古典芸能の幽玄さに酔っているのであり、こうした芸能を通じて、失われつつある人々の共感を呼び起こそうとしている事は疑いえない。

 
与那国家も大山家も、いまでは、断じて権力の走狗ではない。なんら権力をもたず、ひたすら、伝統文化を保持・発展させようと、両家を含めて、島人は粉骨砕身しているのである。与那国家の当主は、琉球大学で教鞭を執っていて、祖先伝来の屋敷を町に寄進し、旧家は一般に公開されている。

  両家の当主は、祭の時はもとより、伝統文化の維持・発展にとてつもなく大きなエネルギーを無心で注いでおられる。低い次元で、そうした尊い努力を私は揶揄しているわけではない。誤解のないように。

 今回の資料は、全国竹富島文化協会のウェブ・サイトからその多くを参照した。

福井日記 No.105 竹富島の6つの「うたき」

2007-05-05 00:19:43 | 言霊(福井日記)


  竹富島には「むーやま」(六山)という6つの「うたき」(御嶽)がいる。「うたき」というのは、各村の先祖神のことをいう。

 
つまり、昔の竹富島には、6つの村があった。それぞれの村には長(酋長)がいた。長たちは、栽培穀物の種類、および種子蒔きの日取りの決定で争った。最終的には玻座間村の酋長、「ねーれかんどぅ」(根原金殿)が押し切って、粟を主体とし、種子蒔き日は、戊子(つちのえね)に落ち着いた。
 他の酋長たちは、「アンガマ」に扮して根原の元に和を乞いに行った。

 ここで、「アンガマ」というのは、諸説あるが、竹富島では「覆面をして家を訪問する人(神)」として理解されているようである。

 アンガマには2系統あり、1つは石垣島の中心部で行われる、もともと士族間で実施されたアンガマ、もう1つが離島の農村で行われているもの。竹富島のアンガマは後者にあたる。石垣島のアンガマではウシュマイ(お爺さん)とンミ(お婆さん)が登場し、問答を行う。離島系のアンガマでは、ウシュマイとンミは出ない。歌詞や踊りの形式などは、離島系のものが古い形であると考えられている。

  アンガマには、盆に行われる「ソーロンアンガマ」の他に、節アンガマ、家造りアンガマ、三十三年忌のアンガマがある。一般にアンガマというと、ソーロンアンガマのことを指すことが多い。

  「ソーロン」とは八重山のことばで「お盆」のこと。精霊から転じて「ソーロン」になっており、盆に迎える祖先の霊を指していると思われる。

 ソーロンは、旧暦7月13日~15日にあたり、日本本土の盆時期と一致している。盆行事の風習は日本から伝わったと考えられているが、八重山諸島にいつ伝承されたのかは、よく解っていない。

 アンガマについても、諸説がある。1.姉という意味、2.覆面のことを指す言葉、3.踊りの種類、4.懐かしい母親の意味、5.精霊とともに出てくる無縁仏、等々。
 竹富島のアンガマには、親孝行の歌が多く、覆面をする意味も「親の霊に顔向けできないが、感謝の気持ちを伝えたい」という意味があるのではないかと言われている。その点からすれば、4の説が有力である。

 歌の中には、念仏や供養を示すものも多く、沖縄本島のエイサーと同じように日本から渡来した念仏踊りを起源とするものではないかと言われている。踊り、音楽については、日本からの直接的な影響は感じられないが、覆面踊りについては日本各地の盆踊り、例えば西馬音内、津和野などでも見られる。

 竹富島には、昔は、西地区、東地区、中筋地区の3つの場所にアンガマがあったが、中筋のアンガマは消滅し、現在は西地区と東地区で行われている(http://www.bonodori.net/zenkoku/taketomi/taketomi_REKISHI.HTML)。

 石垣島について言えば、山形の花笠踊りのような、普段は八重山で着られることのない衣装がいったいどこから渡来したものかということは明らかではないし、ウシュマイ(お爺)とウミー(お婆)のアンガマー面の由来も明らかではない。

 東南アジアやメラネシアとの関係が指摘されている、川平(かびら)にある「マユンガナシ面」と同様に、このウシュマイとウミーの面も、中国雲南省などの南方モンゴル系の人たちの間や東南アジア諸国に、八重山のアンガマー面と瓜二つのものが伝わっている。

 中国の雲南省などに住んでいる少数民族、ミャオ(苗)族。人口は約900万人。今は、貴州省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖南省、湖北省、広東省などに住んでいる。ミャオ族には、昔、数百人の男女が日本に渡ったという伝説があるという。彼らに伝わる仮面は、まさに石垣島のアンガマー面と瓜二つと言ってもいい。
 このミャオ族のお面は、口や目の形、髪の結い方や材質、両面の表情、なにもかもアンガマ面とそっくりである(http://www.yukai.jp/~point/katteni/newpage3000angama.htm)。

 いろいろな地域から渡来人がこの島に住み着き、穀物の栽培地の確保を巡って争ったのであろう。その名残が、種子取り祭りなのだろう。

 ここで、いわゆる「えと」について説明しておこう。

  「えと」は、「干支」と表記する。「え」の「干」は「十干」(じっかん)のことである。「支」は「十二支」(じゅうにし)のことである。「十干」は、木(き)、火(ひ)、土(つち)、金(か)、水(みず)という五行を兄(え)と弟(と)に区分けしたものである。「木の兄」が「きのえ」。「木の弟」が「きのと」となる。以下、「ひのえ」(火の兄)、「ひのと」(火の弟)、「つちのえ」(土の兄)、「つちのと」(土の弟)、「かのえ」(金の兄)、「かのと」(金の弟)、「みずのえ」(水の兄)、「みずのと」(水の弟)ある。この五行については、惑星を言い表す、水・金・地・火・木(すい・きん・ち・か・もく)の「地」を「土」に置き換えて(水・金・土・火・木)、それを反対から読めばいい(木・火・土・金・水)。五行の兄と弟で十個ある。従って、これを「十干」(「じゅっかん」ではなく、「じっかん」)という。さらに、「木のえ」を「甲」、「木のと」を「乙」という字で置き換える。以下、丙(ひのえ)、「丁」(ひのと)、戊(つちのえ)、「己」(つちのと)、「庚」(かのえ)、「辛」(かのと)、「壬」(みずのえ)、「癸」(みずのと)となる。こうして置き換えた漢字には別の読みもする。「甲」(こう)、「乙」(おつ)、「丙」(へい)、「丁」(てい)、「戊」(ぼ)、「己」(き)、「庚」(こう)、「辛」(しん)、「壬」(じん)、「癸」(き)である。

 甲乙丙丁(こう・おつ・へい・てい)は成績や序列を表すものとして戦前は多用されたものである。

 十二支も古く、殷の甲骨文に出てくる。戦国時代以降、年だけでなく、月・日・時刻・方位の記述にも利用されるようになる。

 戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の1つであった十二辰は、天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、この名称に十二支が当てられた。

 古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。

 十二支の各文字は、一説に草木の成長における各相を象徴したものとされる(『漢書』律暦志)。

 
また、動物名が配置される十二支を十二生肖と呼ぶ。日本では十二支という言葉自体で十二生肖を指す。元々の十二支は順序を表す記号であって動物とは関係がない。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)やバビロニア天文学の十二宮の伝播といった説がある(ウィキペディアより)。

 動物名の十二支は、「子」(ね)、「丑」(うし)、「寅」(とら)、「卯」(う)、「辰」(たつ)、巳(み)、「午」(うま)、「未」(ひつじ)、「申」(さる)、「酉」(とり)、「戌」(いぬ)、「亥」(い)である。このことについては、ほとんどの人が経験的に知っているものである。それぞれ、音読みすれば、「子」(し)、「丑」(ちゅう)、「寅」(いん)、「卯」(ぼう)、「辰」(しん)、「巳」(し)、「午」(ご)、「未」(び)、「申」(しん)、「酉」(ゆう)、「戌」(じゅつ)、「亥」(がい)となる。

 さて、十干の1番目の「甲」と、十二支の1番目がまず組み合わせる。つまり、「甲子」から出発する。阪神タイガースのホーム球場の「甲子園」は「甲子」(きのえ・ね)の年に創設されたからこの名が付けられた。この時の「甲子」の年は西暦1924年であった。

 「甲子」の次は、十干の2番目の「乙」と十二支の2番目、「丑」が組み合わされる。10番目の「癸」と「酉」とを組み合わせた「癸酉」(みずのと・とり)の次は、十干では11番目がないので、1番目の「甲」と十二支の11番目の「戌」が組み合わさった「甲戌」
きのえ・いぬ」、その次は十干の2番目の「乙」と十二支の12番目の「亥」が組まれた「乙亥」(きのと・い)、次は、十干の3番目の「丙」と十二支の1番目の「子」が組み合わされた「丙子」となる。こうした組み合わせでは、10と12の最小公倍数、つまり、60年で同じ組み合わせの年が巡ってくることになる。甲子が次ぎに来るのは60年後である。

  還暦というのも、自分の生まれた年の干支がつぎに回ってくるのが60年後であるという意味である。おそらくは、歴史的に見たとき、10進法を取る民族と、12進法を取る民族が遭遇し、その折衷が60進法になったのであろうと推測される。

 戊辰戦争、壬申の乱、辛亥革命、等々は干支でその年を表現したものである。例えば辛亥革命は1911年であった。

 竹富島の種子取りに話を戻そう。
 「戊子」(つちのえ・ね)に種子蒔き日に合わせることにした、他の村の酋長たちがその旨を根原金殿に伝えたのが、「ユークイの巻き歌」である(狩俣恵一『種子取祭』、竹富島文庫Ⅰ、遺産管理型NPO法人・たきどぅん、2004年、11~13ページ)。

 6人の村長(酋長)が神として祀られている所が、「うたき」(御嶽)である。竹富島ではこの6つの「うたき」を総称して「むーやま」(むーやま)と呼んでいる

 種子を蒔くことを竹富島では、「種子取」(たんとぅい)という。その祭りが「種子取祭」である。祭りは9日間開かれる。新暦10~11月に回ってくる「甲申」(きのえ・さる)から「壬辰」(みずのえ・たつ)までの9日間である。

 まず、初日の「甲申」(きのえ・さる)は、奉納芸能の練習開始の日である。この日、祭りの関係者は、「ホンジャー」宅に集まり、配役や担当を決め、神に祈る(「ホンジャー」については、末尾に説明する)。祈る場所は、「ゆーむちうたき」(世持御嶽、末尾で解説する)である。

 2日目の「乙酉」(きのと・とり)、3日目の「丙戌」(ひのと・いぬ)、4日目の「丁亥」(ひのと・い)は、奉納芸能の練習と料理の仕込みを行う日である。

 5日目の「戊子」(つちのえ・ね)が種子蒔きの日である。半間の広さ(畳半分のこと)の畑に種子を蒔く。「いいやち」(飯初)という餅を作る。これは、粟、糯米(もちごめ)、小豆を混ぜた餅である。 6日目の「己丑」(つちのと・うし)の日は、「んがそうじ」(大精進)の日である。「おなり神」(後述する)として、「姉妹」や「おばさん」が招待され、「いいやちかみ」(飯初食)の儀式が行われる。つまり、「いいやち」餅が「おなり」様にふるまわれるのである。

 7日目の「庚寅」(かのえ・とら)の日は、玻座間村を中心とした奉納芸能が演じられる。夜には、すべての村で各戸を訪問する「ゆーくい」(世乞い)(後述する)が行われる。

 8日目の「辛卯」(かのと・う)の日は中筋村を中心とした奉納芸能が演じられる。
 そして、最終日の「壬辰」(みずのえ・たつ)の日は、後片づけと種子取祭の決算を行う日である。

 7日目と8日目が奉納芸能が演じられるもっとも華やかな日である。




http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm

http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm


(吉村史彦「冥界への招待」、http://www2s.biglobe.ne.jp/~hiroba/ikai0107.html)。




http://www.mikan.gr.jp/report/kigen/page7.html


http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm)。


福井日記 No.104 チノーハラハラ

2007-05-04 14:35:57 | 言霊(福井日記)
 
   伊波普猷『古琉球の政治』(郷土研究社、1922(大正11)年)は、じつに面白い。柳田国男の主宰する櫨辺叢書に1つとして刊行されたものである。『伊波普猷全集・第1巻』(平凡社,1974年)に編入されている。



 この中で、「チノーハラハラ ヌチューナガナガ」という琉球のことわざが紹介されている。伊波は、これを「デモクラシーの神髄をいいあらわしたものと見て差し支えない」(全集・第1巻、485ページ)と断言している。

 自信はないが、「チノー」とは、「着物」に呼びかけた「お前」のことであろう。「ハラハラ」とは、「はらはらと綻びよ」、「ヌチュー」とは子供に呼びかけた「お前」、「ナガナガ」とは「背丈が伸びよ」という意味であろう。伊波普猷自身は次のように翻訳している。

 「新しい着物よ、用がすんだら、自然に綻びろ。幼児よ、着物なぞに頓着せずにずんずん生長しろ」(同)。

  琉球では、小さな子供に新調した着物を着せるとき、その着物の襟を柱に押し当ててこの呪文を唱えるという。柱に身長の伸びを記録したのか、柱に神の力が宿るという意識があったのだろう。「ハラハラ」と「ナガナガ」、「チノー」と「ヌチュー」との対句がじつに素晴らしい。

 体を締め付けず、子供の生長に合わせて、ハラハラと綻ぶ、子供はナガナガと背を伸ばす。着物への呼びかけがチノー、子供への呼びかけがヌチュー。着物に呼びかけて、「子供の生長を邪魔しないで、子供が窮屈になったら、着物よ、綻びてね」、子供に呼びかけて「お前は、大きく、大きく生長するのだよ」。

 人は環境の産物である。環境がよければ人は成長する。環境が悪ければ人の成長は阻害される。人が順調に成長できるように環境は整備されなければならない。そうしたことを、琉球人は知っていたのである。

 伊波は言う。
 「着物は身体の為にできたもので、身体は着物のために出来たものではない。これほどわかりきったことはないが、長らく着せて置く間に、子供はクリクリと太って、着物は窮屈になっても、マア当分これで間に合わせるようにしようという風になる。こうなると、もう子供は着物に縛りつけられて、その発達が妨げられる」(同)。

 ここから、伊波の唯物史観が展開される。
 「人間社会に制度があり、機関があるのは、身体に着物があるのと同様である。その内容なるヒトが生長すると、最早従来の制度や機関では間に合わなくなることがある。この時に制度や機関」は改造されるか、全廃されるべきである(同)。

 「内容が発達しすぎて、それを包むところの形式が古くなったのも気がつかずにいると、形式はいつの間にか牢獄と化し去ることを知らなければならぬ」(同)。

 「歴史を照らしてくれるものが要するに唯物史観という哲学・社会観」であると、湧川清栄は、1928年にハワイにきた伊波から聞かされたという(外間守善(ほかま・しゅぜん)『増補新版・伊波普猷論』平凡社、1993年、326ページ)。

 ハワイの土地が少数の資本家に握られている。
 「然らばハワイ十億の富をつくるに与って力のあった労働者達は今如何なる結果にあるか。いうまでも無くその存在は資本家達の搾取機関としてのみ許されている。・・・彼らは十年一日の如く『口から手へ』の生活を繰り返しているのみで、従って人間としての自尊心などはもっていない」(『布哇産業史の裏面』、1931年、『伊波普猷全集・第11巻』平凡社、1976年、368ページ)。

 にもかかわらず、ハワイは「太平洋の楽園」と喧伝されていると伊波は憤慨した。
 「こうした土地柄に於いて、無産者を親に持つ日系市民の前途は実に哀れなものと言わなければならぬ。彼等が如何に政治的に目覚めたとしても、現代の政治が経済的の集中表現である限り、彼等は到底被抑圧階級の運命から免れることは出来まい」(同、370ページ)。

 わずか、2、3か月の滞在で、ハワイの本質を抉り出した。人は見たいものしか見ない。米国の権力がハワイを解放したと自負していた同じ局面に、伊波は経済の暴虐を見た。しかも、経済学者ではなかった伊波が。



  伊波がハワイに行く(1928年9月末)直前の4月18日、河上肇は京都大学から追放された。

 「米国人は実に神経過敏の民族である。世界大戦当時、布哇の一方の大資本家であった独逸系の大商会ハツクフヒルド商会が、米国の敵国民財産没収命令によって、一切合切没収される運命に遭遇したことは、邦人の記憶にもまだ遺っていることであろう。もし不幸にして日米戦争でも勃発しようものなら、貧弱とはいえ、半世紀もかかって漸く築き上げた日本人の事業が、どういう運命に遭遇するかは、智者を俟たずして知るべきである」(同、370ページ)。



 伊波に先立たれた冬子夫人の歌、抜粋。
 「私がほしいのは 警戒のないこころ 説明のいらない了解・・・それはみんなあなたといっしょに消へてしまった 生き残る哀しみを知らず 静かに眠っているあなたの幸福 私の孤独をあなたはしらない」(比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ社、1997年、160ページより)。

福井日記 No.103 ドールフード社 

2007-05-03 20:29:20 | 言霊(福井日記)


 「パイナップル王」(Pineapple King)と呼ばれたジェームズ・ドラモンド・ドール(James Drummond Dole、1877-1958年)は、「ハワイ共和国」大統領・サンフォード・B・ドール(Sanford B. Dole)の従弟である。

 マサチューセッツ(Massachusetts)州、ジャマイカ・プレーン(Jamaica Plain)に、「ユニテリアン派」(Unitarian)のプロテスタント教会の牧師、チャールズ・フレッチャー・ドール(Charles Fletcher Dole)の子として生まれた。

 ジェームズのミドルネームのドラモンドというのは、母、ウランシス・ドラモンド・ドール(Frances Drummond Dole)のミドルネームから採っている。ユニテリアン派というのは、三位一体説を否定するプロテスタントの一派である。

  ジェームズは、1899年、ハーバード大学・農学部卒。その時、父からもらった50ドルを元手に投資して1万6240ドルを稼ぐ。それをもって、1901年、従兄、サンフォードが支配するハワイ(Hawai)・ホノルル(Honolulu)に移住、同年、オアフ(Oahu)島の中央平原の24万平方メートルの土地を買収、パイナップルを栽培し、パイナップル缶詰工場を、ワヒアワ(Wahiawa)に建設(「ハワイ・パイナップル・カンパニー」)、商売は順調に発展し、1907年、ホノルル港近くにも缶詰工場建設、同年、米国初の全米向けの広告雑誌を刊行、1913年、ヘンリー・ギニカ(Henry G. Ginaca)が発明したパイナップル皮むき機械を採用、非常に大きな効果を上げた。

 1922年には、ラナイ(Lanai)島を買収し、広大なパイナップル・プランテーションにした。このプランテーションは、世界でもっとも広大な面積のもので、20万エーカー(800平方キロメートル)ある。

 20世紀を通じ、このプランテーションは、世界のパイナップル生産の75%も占めた。この島は、パイナップル・アイランドと呼ばれている。

 彼は、さらにマウイ(Maui)島の土地も買収した。1927年、チャールズ・リンドバーグ(Charles A. Lindbergh)の大西洋横断飛行に感動して、カルフォルニア州オークランド(Oakland)からホノルルまでの飛行機レースを作った。償金は、優勝者には、2万5000ドル、2位には1万ドルであった。子供は5人、1948年引退、引退後多くの病に苦しみ、1958年、心臓麻痺で逝去。現在のドール・フード・カンパニーは、彼のパイナップル会社を前身としている。

 広大な土地が、個人の所有になった。島全体が個人のものになった。プランテーション労働者の中から反体制運動が生じた。

 日本の生鮮果物輸入の58.5%はバナナである。そのバナナの75.2%がフィリピンからのものである(2000年財務省貿易統計)。その31%がドール社のものであり、伊藤忠商事が輸入元である。

 現在のドール・フード社は、カリフォルニア州ウェストレイク・ビレッジ(Westlake Village)に登録されたアグリビジネスである。

 
バナナ、パイナップル、ブドウ、イチゴ等々の生産者である。世界90か国に展開し、年間収入は、53億ドルある。

 なんと、現在の所有者は、億万長者のデービッド・マードック(David H. Murdock)である。

 ハワイ・パイナップル・カンパニーは、キャッスル&クック(Castle & Cooke)に買収され、1991年にドール・フード・カンパニーと改称された。キャッスル&クックは、不動産会社であり、1995年に分離した。スタンダード・フルーツ・カンパニー(Standard Fruit Company)を1964~68年に買収、米国第2のバナナ生産・販売業者になっている。最大はチキータ(Chiquita)である。

 ドール社が、農民を追い出して、ミンダナオ島に広大なバナナ園を開設したが、このミンダナオ島、とくに、ダバオには、第2次世界大戦前には、日本人移民がマニラ麻の農園に雇われていた。ここでも、沖縄出身者が7割を占めていた。太田恭三郎のマニラ園は繁栄を見、ダバオには、2万人近い日本人街ができていた。第2次世界大戦で悲惨な経験をした彼らのかなりの部分がミンダナオ島に留まっているが、日本人であることを隠して生活していると言われている(ウィキペディアより)。



 推奨したい本として、中村洋子『フィリピンバナナのその後―多国籍企業の創業現場と多国籍企業の規制』七つ森書館、2006年12月がある。



 鶴見良行『バナナと日本人』岩波新書から20余年ぶりである。


福井日記 No.101-1 キリスト教と米資本に蹂躙されたハワイ1

2007-04-25 00:07:33 | 言霊(福井日記)
 西銘圭蔵によれば、伊波普猷は第三高等学校に入学した1900((明治33)年、京都でキリスト教に傾倒し、オルドリッチ女史のバイブルクラスに入学したと言われている。沖縄に帰郷後、メジスト教会の活動に参加したらしい。1907(明治40)年、「沖縄基督教青年会」会長を引き受けている。1913(大正2)年、自宅で「日本基督教会」の演説会を開催したりしている。

 1916(大正5)年には、比嘉賀秀(ひが・がしゅう)たちとキリスト教を信じるいくつかの会派を集めて、「沖縄組合教会」を結成した。

 
キリスト教の布教活動を、伊波はは1921(大正10)年まで、つまり、1907年から16年間続けたことになる。

 以後、伊波は、次第にキリスト教の活動から遠ざかる。蘇鉄地獄に苦しむ沖縄人の惨状の前に、経済的救済運動に着手する緊急性に気付いたからである(西銘圭蔵『伊波普猷ー国家を超えた思想』ウインかもがわ、2005年、14~15ページ)。

 1928(昭和元)年9月10日、ハワイに移民していた、かつての同士、比嘉賀秀たちが作る「在ハワイ沖縄県人会」の招きで、沖縄史を語るハワイ講演旅行に旅立った。すでに伊波52歳であった。

 ハワイでは、湧川清栄(わくかわ・せいえい)、新城銀次郎(しんじょう・ぎんじろう)、そして、ロサンゼルスで宮城與徳(みやぎ・よとく)と会っている。宮城のことは、前々回で紹介したが、共産主義活動をしている画家であった。

 ハワイは、原住民へのキリスト教布教活動が即植民地化となった典型例である。まさに、住民が天を仰いでいる間に、足下の土地をすっかり奪われてしまったのである。

 以下、日系人が、ハワイにおける社会主義運動に傾斜する必然性を説明するために、ハワイ略史を説明しておきたい(http://www.hawaii.ne.jp/info/history/index.htmによる)。

 1758年、ハワイ島ココイキにカメハメハ大王が生まれる。
 1778年1月、キャプテン・クックが、偶然、オアフ島を発見し、カウアイ島、ニイハウ島に上陸した。クックはこの地を当時の英国海軍大臣・サンドイッチに敬意を表して「サンドイッチ諸島」と命名した。
同年11月、ハワイに戻ってきたクックはマウイ島に上陸、翌年1月にはハワイ島を訪れるが、住民とのトラブルで殺されてしまった。この事件で、ハワイ諸島が西洋社会に知られることとなる。

 クック来航以前は、ハワイでは、漁業やタロイモ栽培などの農業を中心とした、完全な自給自足状態で、当時、推定で30万人の人口がいたと言われている。

 1790年、デイヴィス、ヤング両名を軍事顧問に迎え、銃と大砲を入手したカメハメハは、イアオ渓谷の戦いに勝利し、マウイ島をほぼ手中に収め、1795年には、カウアイを除くハワイ諸島の統一に成功し、王国を樹立した。1796年、首都をヒロに制定。

 外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は白檀貿易を王朝の独占事業とし、莫大な富を得て政権の基礎とした。白檀(びゃくだん、サンダルウッド)はインドや中国で家具・仏像の原木、香料の材料として珍重され、高価な価格で取り引きされていた。白檀貿易は、1810~20年代が最盛期であったが、乱獲激しく、枯渇し、間もなく貿易も衰退してしまった(http://www.legendaryhawaii.com/history/hist02.htm)。

 1802年、ラナイ島で砂糖生産が始まった。1803年、ヒロからラハイナへの遷都があった。

 白檀貿易が衰えると、今度は、捕鯨船の寄港が活発になった。これは、1810年頃から始まり、1880年代まで続いた。

 19世紀初め、日本近海でマッコウ鯨が発見され、米国の捕鯨船はここを有力な漁場とするようになった。彼らは3、4月頃にハワイに寄港して準備を整え、5月頃出航、そして9月頃に帰路、再びハワイに立ち寄る、というサイクルであった。オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナが主要な寄港地として賑わい、最盛期の19世紀半ばには、年間400隻の捕鯨船が来航していたという。

 また、捕鯨船に塩漬けの肉を売るため、塩および牛肉の生産が盛んになり、パーカー牧場などが開かれる。野菜、果物、コーヒーの生産も始まる。
 捕鯨船団への艤装と捕鯨船員の供給、等々で、当時で年間数十万ド、という大きな収入になっていたという。

 しかし、鯨もまた乱獲による枯渇、石油採掘産業の発達による鯨油需要の低迷、南北戦争勃発などの要因が重なり、捕鯨産業そのものが衰退した。
 1810年、カウアイ島、ニイハウ島も王国に併合される。
 1816年、座礁したベーリング号奪回の交渉役として派遣された船医シェーファーが会社に独断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、ワイメア河口にロシア砦を建設。カメハメハ大王との仲が険悪になるが、結局シェーファーはカウムアリイに追放される。
 1819年 ハワイ島カイルア・コナにおいてカメハメハ大王死去。大王夫人のカアフマヌがカプー(禁忌)制度を廃止。
 そして、1820年、カルビン派がキリスト教の布教を開始する。彼らは、小さな船「タデウス号」で、ボストンから苦労して、南米ホーン岬を越え、ハワイにやってきた。宣教師たちが、崇高な宗教的精神の持ち主であったことは確かであろう。しかし、結果的に、キリスト教がハワイを植民地に追いやる強力な武器となった。後に、ハワイを経済的・政治的・社会的に支配することになった人たちの出自は、牧師であった。


福井日記 No.101-2 キリスト教と米資本に蹂躙されたハワイ2

2007-04-25 00:05:10 | 言霊(福井日記)
 現在もハワイの女性の正装であるムームーは、上半身裸が普通であった往時のハワイの女性が、キリスト教的に「淫ら」だとして、宣教師が普及させたものと言われている。宣教師の薦めで、ハワイ語もアルファベット表記にされた。

 次ぎに移植された産業が、さとうきびプランテーションである。このさとうきびプランテーションがハワイを米国の植民地化にさせた主要な推進力となった。

 1835年、ウィリアム・フーパーが、カウアイ島コロアでサトウキビの事業化に成功した。さとうきびプランテーションは、広大な土地、砂糖1ポンド(重量)につき1トンもの膨大な水、そして、安価な多数の労働力が必須である。ここに、米国人による土地収奪が本格化した。
 1840年、憲法が制定され、政府ができる。
 1848年 土地私有制度、「グレートマヘレ」法が導入され、ハワイ諸島全土が国王と245人の族長に分配された。土地の私有化が開始されたのである。これが外国人による土地取得の露払いになった。マヘレとは分配の意味である。
 事実、1850年、配分された王侯貴族の土地を民間人に売ってもいいことになった。当然、資金力のある白人が土地を独占することになった。この土地が、さとうきびプランテーションとなったのである。

 1850年、ハワイ王国の首都は、マウイ島ラハイナからオアフ島ホノルルへと遷都された。

 プランテーションの拡大は、当然、低賃金労働力を必要とする。白人は、移民を導入しなければならなかった。最初、移民として中国人が導入された。

 1852年、中国福建省と広東省から初の移民受け入れを開始した。
 1863年、ニュージーランドからきたエリザベス・シンクレアが、カメハメハ4世からニイハウ島を10000ドルとピアノ1台で買い取った。

 そして、1868年、日本からも初の移民をハワイは受け入れた。移民開始の年号が明治元年なので、日本初のハワイ向け移民は、「元年者」と名付けられた。この日本初のハワイ向け移民は153名であった。ただし、この時の日本移民は不法出国であった。

 この日本人移民は、徳川幕府と移民ブローカーとの協定で募集された移民だったため、発足直後の明治新政府は、そうした移民を認めず、移民達はパスポートすらもたない、いわば非合法状態であった。1日12時間働いて月給は4ドルであった。

 1872年、カメハメハ5世の死去に伴い直系王家は途絶した。
 1874年、ルナリロ王の病死に伴い、カラカウアが第7代国王に選出される。
 そして、1876年、このカラカウア王の下で、「米国・ハワイ互恵条約」が締結された。これによって、ハワイの砂糖は無関税で米国に輸出できるようになった。さとうきび産業は飛躍的に増大し、王家を財政的に潤した。米国政府にとって重要なことは、王家を潤わすことによって、オアフ島真珠湾の軍事利用を獲得したことである。米国は、後の沖縄の軍事利用に匹敵するメリットをハワイで得たのである。

 1878年、孫文がハワイに移り住む。
 1881年、カラカウア王が日本を訪問して、天皇と会見、日本からの移民を要請した。その時、西欧諸国の政治的経済的侵略に危機感を感じていた王は、姪のカイウラニ王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王)との政略結婚によるハワイ王朝と天皇家との間の関係強化を画策したが、米国との関係悪化を懸念する日本政府は、この提案を丁重に断った。

 1885年、ハワイ王の移民要請に応えて、日本から初の「官約移民」が出される。
 1886年、「中国移民禁止法」が施行される。これに伴って日本からの移民が増加する。1900年時点で、ハワイ人口の40%を日本人が占めるようになった。

 1887年、米国人による準軍隊組織「ハワイ連盟」の威嚇の下、カラカウア王が「銃剣憲法」と呼ばれる新憲法にサインする。首謀者は、サンフォード・ドールであった。以下、ウィキペディアに依拠して、この悪質なドール一族のことを説明する。
 サンフォード・ドール(Sanford Ballard Dole、1844年4月23日 - 1926年6月9日)は、米国メイン州ノリッジウォック(Norridgewock)出身の白人プロテスタント宣教師の子供として、ホノルルに生まれた。後のハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールは従弟に当たる。ジェームズも同じく宣教師の息子としてマサチューセッツに生まれ、サンフォードを追ってハワイに移っている。

 ドールは1887年、米人系の経済人・政治家・さとうきび農場主らが結成した政治組織、「ハワイ連盟」の武装蜂起に参加した。白人市民たちからなる民兵部「ホノルル・ライフル連隊」の後ろ盾を得てカラカウア退位を迫ったハワイ連盟は、カラカウア王に退位を迫り、拒否されると、退位を強制しないが、その代わりに、内務大臣であった米国人、ロリン・A・サーストンが起草した「新憲法」(銃剣憲法)を受け入れさせた。

 この憲法はすべてのアジア系移民から一切の投票権を奪った。また投票権に収入や資産などの一定の基準を設けたため、貧しい人々は選挙権を剥奪され、一方でハワイ人エリートや富裕な米系・ヨーロッパ系移民の政治力が劇的に強まった。さらに憲法は王の権利を極小化し、枢密院や内閣の政治的影響力を高めた。

 武力を背景にしたこの「銃剣憲法」で、ハワイ王室と大多数のハワイ人は政治力を失い、白人農場主らを中心とする共和派が王国の実権を手にした。ドールはこの後に、カラカウア王によりハワイ王国最高裁判所の判事に任命されている。

 1891年、サンフランシスコに向かう途上で風邪をこじらせたカラカウア王が死去。妹のリリウオカラニが後を継ぐ。そして、サンフォード・ドールは、女王の法律顧問に就任する。威嚇の下に就任したに違いない。

 しかし、即位したリリウオカラニ女王は共和派と対立、王権を取り戻す新憲法を起案するなど王国政治は騒然となった。ドールら「共和派」は、ハワイ人たちの「王政派」勢力急伸に危機感を募らせた。

 1893年1月16日、両派の衝突で混乱する中、米国公使ジョン・L・スティーヴンスは米国海兵隊に出動を要請し、イオラニ宮殿を包囲させた。1893年1月17日には共和派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言した(「ハワイ革命」、注、なんたる傲岸な命名であることよ!)。ドールが、結局臨時政府の大統領に就任した。臨時政府は王政転覆から48時間以内に、ハワイ王国と外交関係を結んでいた諸国から合法政府として承認された。

 臨時政府は米国への併合を求めた。この時、日本政府は、珍しく日本人移民を擁護すべく、日本は海軍部隊をハワイに派遣してクーデター勢力を威嚇した。しかし、ハワイ王朝は幕を閉じた。

 同年、グロバー・クリーブランドが米国大統領に就任したが、「マニフェスト・デスティニー」はすでに終わったと考える彼は、米国の領土拡張には消極的であった。彼はハワイでのこの「革命」に不快感を示し、元下院議員ジェームズ・ヘンダーソン・ブロントにハワイ内政の調査を依頼した。

 1893年7月17日、『ブロント報告書』(Blount Report)が大統領に提出された。

 
報告書では、白人共和派が組織する「治安委員会」(Committee of Safety)が、スティーヴンス公使と共謀して米国海兵隊をハワイに上陸させ、リリウオカラニ女王を武力で排除し、治安委員会メンバーからなるハワイ臨時政府を樹立する陰謀を進めていたことが、述べられていた。

 この報告を基にクリーブランド大統領はスティーブンス公使を更迭した。新公使アルバート・ウィリスはリリウオカラニの復位と立憲君主制の確立、および女王による治安委員会メンバーの恩赦を求め、ドールらには臨時政府解散を求めた。

 しかし、1893年、11月16日、ウィリス公使との会合でリリウオカラニは、恩赦を拒否し、革命参加者への極刑を要求した。しかし、リリウオカラニは、1893年、12月18日のウィリス公使との会合では、考えを変えて、革命首謀者サンフォード・ドールとロリン・A・サーストンに対する処刑を取りやめた。臨時政府は12月23日、ウィリス公使からクリーブランド大統領の提案を示された。リリウオカラニの復位の提案であった。しかし、臨時政府はこれを拒否した。

 そして、ハワイ問題は米国上院に審議が戻され、上院議員ジョン・テイラー・モーガンが新たに調査報告を依頼された。彼の1894年2月26日の報告書(『モーガン報告書』、Morgan Report)、『ブロント報告書』とは対照的な内容だった。「革命」は現地の米国人が長年の王国の腐敗の結果起こした地元の問題であり、米国政府は関係がなく、海兵隊は米国民やその資産を守るためにのみ出動し、王政廃止には何の役割も果たさなかったと結論付けた。

 臨時政府は、制憲議会を開き、1894年7月4日に「ハワイ共和国」樹立を宣言した。なんと、米国独立記念日を簒奪政権自立記念日にしたのである。

  これは、メキシコから領土を奪った「アラモ砦」以来の米国の「民主主義の伝道者」の伝統であり、いまなおアフガニスタンで、イラクで起こし、そして、イランにも波及させようとする帝国主義的「民主主義の輸出」という悪行の共通項である。米国史を貫く、忌まわしい「ならず者国家」の悪しき伝統である。

 ドールは、1894年から1900年までの間、ハワイ共和国初代にして最後の大統領を務めた。この間、ドールは、サーストンに、ワシントンD.C.でハワイ併合のためのロビー活動を行うよう任せた。

 ドール政権は王政復古の試みによって幾度も危機に直面した。その最大のものは銃剣憲法制定後にも、たびたび反乱を起こした、先住ハワイ人の、ハワイ軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックスらが加わった王政派による1895年1月6日の武力蜂起であった。

 しかし、王政派は速やかに鎮圧され、1月16日にはリリウオカラニが多くの銃器を貯蔵していたとして反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。
 ウィルコックスら反乱首謀者らは内乱罪で死刑を求刑されたが、ドールは彼らに対する刑を減刑した。しかし、1月22日、約200人の命と引き換えにリリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は滅亡した。

 ドールは外交面でも成功した。ハワイ王国を承認していた国は結局すべてハワイ共和国を承認した。ウィリアム・マッキンリー大統領は、ドールに対し、ハワイ併合の暁には「ハワイ準州」の最初の知事に任命すると約束した。

 1896年 法律61号が布告され、ワイキキの土地使用権が白人投資家に渡り、リゾート開発が始まった。

 ウィリアム・マッキンリー大統領は、ドールに対し、ハワイ併合の暁には「ハワイ準州」の最初の知事に任命すると約束した。

 1898年7月4日(嗚呼!ここでもまた米国独立記念日に!)、米国下院はハワイ共和国併合とハワイ準州の設立を定めた「ニューランズ決議」(Newlands Resolution)を採択、7月7日にはマッキンリー大統領が署名した。8月12日にはハワイ編入が宣言され、ハワイ王国の国旗が降ろされ、星条旗が掲揚された。

 1900年4月30日の「ハワイ基本法」(Hawaiian Organic Act)で準州に政府が成立すると、ドールは準州知事となった。

 実質的には、ハワイは、従弟のジェームズ・ドールを代表とする、さとうきび農園主およびビッグ・ファイブ(5大財閥、Castle & Cooke、C.Brewer、Alexander & Baldwin、Theo Davies & Co.、Am Fac)に支配されることになる。
1901年、従弟の、ジェームズ・ドールがオアフ島ワヒアワでハワイアン・パイナップル社を設立。労働力確保のために1900年にプエルト・リコ、1903年に韓国、1907~31年にフィリピンから契約労働者が到着。そのほとんどがそのままハワイに住みついた。
 同年、W.C.ピーコックがワイキキにモアナ・ホテルを建設する。 
 1903年、サンフォード・ドールは、連邦地裁判事の任命を受けるため辞任した。彼は判事職を1915年まで務めた。。
 1921年 、ワイキキ環境整備プロジェクトが始まり、ワイキキ、アラモアナ、マッカリー地区の湿地帯が埋め立てられる。 
 1922年、ジェームズ・ドールがラナイ島のほぼ全域を買い取った。。 
 1925年、サンフランシスコ、ロサンゼルスとを4日半で結ぶ650人乗りの定期観光客船“マロロ号”が就航する。 
 1926年、アロハタワーが完成。この年、、サンフォード・ドールが、卒中で死去した。
 1927年、ロイヤル・ハワイアン・ホテルができる。 
 1928年、リゾート用地確保のために始められたワイキキの水田や養魚池の埋め立てが完了し、地価が30倍以上に跳ね上がる。 
 1941年、太平洋戦争勃発。真珠湾が日本機動部隊の奇襲を受け、3435名の死傷者、戦艦8隻ならびに大型艦船10隻が沈没ないし大破、航空機188機が破壊される。

 ハワイの日系人は、日本人会会長や僧侶など、日本人社会を代表する一部の人々を除き収容所に収容されなかった。これは当時、ハワイが正式な州でなかったこと、米国本土から離れていること、そして何より、当時の人口の4割程度を占める日系人を強制収容すれば、ハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという事実が影響したようである。それでも、約1000人の日本人が米国本土の強制収容所に送られた。

 そうしたこともあってか、ハワイで生まれ育ち、米国の市民権をもつ日系の若者の多くは、自ら進んで志願兵となることで、米国に対する忠誠心を示そうとした。
 1943年、ハワイ在住日系人のみで構成された第100大隊が北アフリカ戦線に投入され、その後イタリア戦にも参加する。この大隊が目覚ましい戦果を挙げたため、メインランド在住の日系人と合流して、第442連隊が編成された。同部隊の死傷率は、米国陸軍平均値の3倍であり、パープル・ハート(陸軍における最高位の戦傷章)をもっとも多く受勲している。
 
 1959年、米国の50番目の州となる。 
 ハワイや、ロサンゼルスの日系人たちの中で、沖縄出身者たちが、米国の共産主義運動に傾斜したことの意味は限りなく重い。伊波普猷が、ハワイにおける沖縄出身者の境遇に沖縄の置かれていた現実を投影させたのも、むべなるかなである。

福井日記 No.100 伊波普猷のマルチチュード論

2007-04-24 23:02:46 | 言霊(福井日記)

  河上肇が訪琉したのは、1911年4月1日~4月8日であった。この時、伊波普猷は、各部族の祖先神が階層化されるとした河上と意見を同じくしたことに驚き、以降、2人は思想的に共鳴し合うようになった。政祭一致とは統一した権力者が、宗教をも統一してしまい、そこにも階層性を施くことであるという認識で2人は一致した。


  伊波普猷は、初対面後、河上肇の「崇神天皇の朝神宮皇居の別新たに起こりし事実を以て国家統一の一大時期を画すものなりといふの私見」(『京都法学会雑誌』第6巻1号、明治44年1月)を読み、自分の尚真王による政治・宗教的統一論と同じであることに驚く。


 「之を読んで、私はこの論文が私の尚真王時代の研究と同一筆法であることを見て驚いた」(『古琉球の政治』(沖縄公論社、1911年11月刊)、『伊波普猷全集・第1巻』平凡社、1974年、423ページ)。


 そして、1917年、河上肇から『貧乏物語』を贈られる。比嘉美津子によれば、このことについて次のように書いている。


 「伊波先生と河上博士の交流は大変親密で、世間的にもよく知られていることだが、思い起こせば、中野塔の山の伊波家の書斎に、河上博士の有名な著書『貧乏物語』2冊は赤い表紙で、ひときわ目立って先生のテーブルの真ん前で目の高さ位に並んでいた」(比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ社、1997年、120ページ)。


 「昭和18年10月には、伊波先生は京都の河上博士を訪ねておられる。『まるで兄弟のように話し合って来たよ』と、お顔を紅潮させて話された。また、その頃は戦時体制に入り、東京では物資も配給制度になり、角砂糖1個も貴重な食物であったが、沖縄から送ってきた黒砂糖やチッパン(桔餅、きっぱん)を、そのまま小包の表だけを書き換えて、河上家に郵送された話も先生からお聞きしたが、その時の先生の目はうるんでいた。・・・あの狭い伊波家の書斎にあった、赤い表紙の『貧乏物語』は、伊波先生と河上博士の友情を物語っていたのではないだろうか」(同、122ページ)。


 1933年に投獄され、1937年出獄した後、蟄居させられていた河上を訪問したり、1944年に自己の発禁論文(後述する)を河上に送ったことからも、伊波の河上への傾倒ぶりを示すものであろう(伊波の河上への手紙、『伊波普猷全集・第10巻』平凡社、1976年、481ページ)。



 
  伊波は、1947年7月、最後の著作になった『沖縄歴史物語』を書き終えた。この本は、その年の11月に沖縄青年同盟中央事務局から刊行されたが、書き終えた直後の8月13日、比嘉春潮宅で脳溢血で、伊波は、急死している。自著の刊行を見ることもなかった。


 戦争に負けた日本は沖縄の帰属問題を講話会議の決定に従うしかないだろう。沖縄は自分の運命を自分で決定できない。伝統ですら他の伝統にすげかえられてしまう(本山注、私のブログの「消された伝統の復権」のモチーフである)。すべては、占領軍の意志に沖縄人は従うしかないとの絶望感を述べた後、彼は、次のように書いた。


 「ここにはただ地球上で帝国主義が終わりを告げる時、沖縄人は『にが世』から解放されて、『あま世』を楽しみ十分に個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、との一言を付記して筆を措く」(『伊波普猷全集・第2巻』平凡社、1974年、370ページ)。


 じつは、同じような主張が、16年前にも打ち出されていた。


 「彼等(注、ハワイの日系市民)に幾分前途があるとしたら、それは米国自身の資本主義の崩壊する秋(とき)でなければならぬ」(「布哇産業史の裏面」1931年、『伊波普猷全集・第11巻』平凡社、1976年、370ページ)。 


  「帝国主義」、「米国の資本主義」という言葉が出されたこと、しかも、治安維持法(1925年発効)という恐怖の社会主義者摘発法が猛威を振るっていた1931年に書かれたこと、戦時下の1943年に蟄居していた河上肇に会いに行ったことは、伊波に与えた河上肇の影響力がいかに大きかったかを示すものである。


  上記「布哇産業史の裏面」の論文については、後述するが、同じ年に発表された「布哇物語」と並んで、当時としては、完全に治安維持法にひっかるものであった。この2つの論文は、論壇雑誌ではなく、エログロ・ナンセンスと言われた大衆誌に発表されたものである。エログロナンセンス誌に堅い論文を紛れ込ませば、検閲当局も摘発はできまいと伊波は思ったのだろう。


 「裏面」は『犯罪公論』(第2巻1号、1931年)、「物語」は『犯罪科学』(別巻第2巻8号、1931年)に掲載予定であったものである。


 
まさかこんなに「低級」(?)な雑誌に、硬派の論文が掲載されるはずがないと検閲当局が思うであろうとの伊波の思惑にもかかわらず、伊波論文を紛れ込ませた2つの掲載誌は発禁処分を受けてしまった。


 したがって、これら2つの論文が世間の目に触れることはなかった。このために、『伊波普猷全集』(平凡社)編纂時(1974~76年)でもその存在を気づかなかった。編集の最後の最後の段階になって、岸秋正氏から資料提供の申し出があり、最終巻(第11巻)の掲載に間に合ったという代物である(西銘圭蔵『伊波普猷―国家を超えた思想』ウインかもがわ、2005年、22~23ページ。沖縄タイムズ『人間・普猷・思索の流れと啓蒙家の夢』(同社、1999年、94ページ)。


 1944年の上記の河上宛伊波の手紙を紹介しておこう。
 「当時の見聞記の一部『布哇物語』をご高覧に供したい気持ちになりました。この稿は昭和6年7月発行の犯罪科学別巻に出したものですが該誌が発禁になった為に何人の目にも触れなかったものです。御覧済みになりましたら後返戻し下さるようお願いします(前掲ページ)。


 同じ文面の中に、これも原稿が戻ってこず、発表もされなかった、『南島に於ける国家意識の夜明け前』のことにも触れ、次のように述べている。




 「結論は所謂日本精神に触れ植民政策に言及した為に出して貰えず・・・」(同)。


 「裏面」は、ハワイの労働者がいかに搾取されているかを紹介し、流布されているハワイの「楽園」を告発したものである。


 「資本家はもとより、学者・宗教家・教育家も、この状態をみて、布哇を平和の仙郷だと称し、『太平洋の楽園』だともいっている」(『伊波普猷全集・第11巻』平凡社、1976年、368ページ)。



 伊波普猷もまた、河上肇と同じく、今風の言葉でいうマルチチュード論をもっていた。


 「吾々沖縄青年の日本国におけるも亦(また)実(じつ)に神意のユニークネスの実現である。天は沖縄人ならざる他の人によりては決して自己を発言せざる所を沖縄人によりて発言するのである。こう思って生存すれば沖縄人も亦生き甲斐があるのである。国家主義の人は能く統一々々というがその所謂統一なるものは或いは一部の人が持っている特質のみを保存してそれに異なったものは片端から無くしてしまうは余り感心出来ぬ」(「伊波文学士の談」、1909年、『伊波普猷全集・第10巻』平凡社、1976年、336ページ)。


 伊波は、欧米漫遊の後、ホノルルに立ち寄って行った憲政会代議士・田中武雄の演説を紹介している。それは次のようなものであった。


 「布哇にきた宣教師たちは、カナカ民族に向かって、天の神様を仰げと説き、彼等が天を仰いでいる間に、下の方からこっそり地面を取り上げてしまった」(「布哇産業史の裏面」、1931年、『伊波普猷全集・第11巻』平凡社、1976年、450ページ)。


 定職もなく、わずかの原稿料で糊口をしのぐ、どん底の貧困生活にありながら、なおも貧しき者への愛を貫いた在野の学者。これほど私たちを勇気づけてくれる人は滅多にいるものではない。 


福井日記 No.99 沖縄の「アメ亡組」

2007-04-23 18:22:41 | 言霊(福井日記)
 一橋大学加藤哲郎氏は、労働者国家のソ連に憧れて、その地に入った共産主義者たちが、スターリン粛正にあって抹殺されたという絶望の軌跡を追う仕事をされている政治学者である。

  同氏は、沖縄出身の共産主義者たちを襲った悲劇にも暖かい眼差しを注いでいる。

  以下、同氏の『沖縄を知る事典』(日外アソシエーツ、2000年)、『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)等々に導かれて、沖縄の共産主義者たちの悲劇を追体験したい。

 日本の辺境に組み込まれた沖縄は、食べ物がなく、蘇鉄の実を食べてその毒で多くの人が死んでいった。それを「蘇鉄地獄」という。沖縄では、本土に比べて農村の過剰人口対策があまりにも希薄であった。島人は、低賃金労働力として島外に出るしかなかった。

 「ここに、『ソテツ地獄期』のすさまじい労働力流出が必然化されたのである」(冨山一郎『近代日本社会と「沖縄人」』、日本経済評論社、1990年、101ページ)。
 米国、南米に多くの沖縄人が移民した。加藤氏によれば、カリフォルニアの日系移民には沖縄出身者が多く、戦前はプランテーション労働から入って一流庭師やクリーニング屋になるのが成功例であった。新天地を求めて米国に渡ったのだが、人種差別が強かった米国では、いつまでたっても底辺から這い上がれなかった。そこで西海岸の労働運動や共産主義に近づいた沖縄人が多数出てきた(『月刊百科』平凡社、1995年7月号における加藤氏のインタビュー記事より)。

 しかし、ロサンゼルス郊外のロングビーチで、1931年末、失業者集会・飢餓行進を組織した米国共産党が官憲に襲撃された。100人以上が逮捕され45名が起訴された。その中に9名の日本人移民が含まれ、内5名は沖縄本島出身の在米沖縄青年会活動家であった。又吉淳、宮城與三郎(與徳の従兄、與徳はロサンゼルスで伊波普猷と会っている、次回で後述する)、照屋忠盛、山城次郎、島正栄で、彼らは国外追放になり、同様の事件で先にソ連に渡った米国共産党日本語部指導者健持貞一らにならい、ニューヨークから船に乗り、ドイツ経由で「労働者の祖国」ソ連へと亡命した。
 
  治安維持法のある日本に帰国すれば逮捕されることを恐れたこともあったろうが、なによりも、「労働者の祖国」といった幻想に捕らわれていたことの方が大きかったのだろう。

 彼らは、旧ソ連在住日本人の中で「アメ亡組」と称されていた。クートベ(東洋勤労者共産主義大学)に学んだ後、野坂参三や山本懸蔵の指導下で東洋大学の日本語教師や外国労働者出版所に職を得る。いわば初めてまともな労働者、まともな日本人として扱われるはずであった。

 しかし、彼らの消息はソ連亡命後に途絶え、戦後も手がかりがなかった。ところが1991年ソ連崩壊により、かなりの事実が明らかになった。「アメ亡組全員がスターリン粛清最盛期に「日本のスパイ」として逮捕され、銃殺・強制収容所送りとなっていたのである。

 1930年代後半のソ連では、日本人であるというだけでスパイ扱いされた。野坂参三さえスパイと疑われる状況下で、一網打尽に粛清された。旧ソ連秘密警察(KGB)文書によると、沖縄出身の5人も1938年3月15日に照屋、同22日に宮城・又吉・山城・島が「日本のスパイ」として逮捕され、5月29日に又吉・山城・島、10月2日に宮城が銃殺された。強制自白を拒んで無実を主張し続けた照屋も、39年11月に5年の強制労働刑に処されて後、行方不明となった。

 これら粛清裁判は1989年に過去に遡って無効とされ、又吉・宮城・山城・島は名誉回復された。しかし遺族に事実が伝えられたのは、91年のマスコミ報道によってであった。照屋については名誉回復も確認できない。

 希望を持って海外に雄飛した沖縄人が、日本・米・ソ連という国民国家に差別され裏切られ、時代の波に翻弄された悲劇であった(前掲、『沖縄を知る事典』、http://homepage3.nifty.com/katote/longbeech.html)。

 このロングビーチ事件については、『北米沖縄人史』(北米沖縄クラブ、1981)、比屋根照夫「羅府の時代」『新沖縄文学』89-95号、1991-93年)がある。

 スターリンによって粛正されたのではないが、日本の官憲によって事実上、殺された宮城與徳についても紹介しておきたい。

 宮城與徳(みやぎ・よとく、1903(明治36)年~1943(昭和18)年)は、沖縄本島の名護出身であり、近所には徳田球一が住んでいた。また、球一の弟、正次が與徳の小学校時代の同級生であった。沖縄県立師範学校に入学したが、病気で退学した。家は貧しく、宮城家も生活のために父や、兄の與整、従兄の與三郎らは渡米し生計をたてていた。1919(大正8)年、兄・與整の招きで與徳もまた米国に渡った。渡米後はカリフォルニア州立美術学校やサンディエゴ美術学校に学び、1925年には沖縄県における良心的兵役拒否者の先駆けである屋部憲伝らとともに「社会問題研究会」(後の黎明会)を結成、共産主義へと傾斜して行った。この頃プロレタリア芸術会の機関誌『プロレタリア芸術』の発行にも協力した。

 1931(昭和6)年、米国共産党日本部に入党、1933年に帰国した。そして、尾崎秀実、ゾルゲと接触した。しかし、1941年10月、「ゾルゲ事件で検挙され、未決勾留中に巣鴨刑務所で結核のため獄死した。

 その遺骨は一度沖縄に渡り、宮城家の墓所に埋葬されたのだが、国賊として戸籍は抹消された。事件後、遺族は、白眼視され、ついに與徳の遺骨とともに渡米した。戦後、ゾルゲの名誉が回復されると、この事件に連座した人々の活動も見直されることとなった。與徳の遺骨は分骨され再び日本に戻り、同志ゾルゲとともに眠ることとなった。

 尾崎秀実は裁判中に与徳の死を告げられるが、その事について妻子に宛てた書簡で次のように述べている。

 「ここの生活は彼の健康では堪えられなかったのでしょう。彼は実にいい男でした。彼の絵は一般受けはしませんでしょうが、一種の魅力を持っていました。色彩が特異なもので、それにどの絵も独特の淋しさを持っていることが感じられます。全く天涯の孤客で、郷里の沖縄から誰も遺骸引取りに来なかったそうです。家にある絵を大事にして下さい」(尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』青木書店、1998年)

 遺骨の引き取りがすすぐにできなかったのは、遺族が忌避したからではない。東京に出る金がなかったのである。與徳の叔母の証言によると、この頃は家の経済的な事情で遺骨受け取りがかなわなかったという。尾崎秀実の娘は、與徳から絵の指導を受けていた。 

 ゾルゲの墓域には、正面自然石に「リヒアルト・ゾルゲ」と刻み、その上に黒御影石が乗り、ロシア語でゾルゲの名と日本語で妻石井花子の名が刻まれている。右側にはゾルゲの略歴が刻む墓誌、左側に「ゾルゲとその同志たち」11名の名が刻まれた墓誌碑が建っている。

  11名とは、リヒアルト,ゾルゲ(1944年11月7日刑死、巣鴨)、河村好雄(1942年12月15日獄死、巣鴨)、宮城興徳(1943年8月2日獄死、巣鴨)、尾崎秀実(1944年11月7日刑死、巣鴨)、フランコ・ヴケリッチ(1945年1月13日獄死、網走)、北林とも (1945年2月9日、釈放の2日後死)、船越寿雄(1945年2月27日獄死)、水野成(1945年3月22日獄死、仙台)、田口右源太(1970年4月4日歿)、九津見房子(1980年7月15日歿)、川合貞吉(1991年7月31日歿)である。

 碑の裏面には、獄死した宮城與徳の兄、與整の句が刻まれている。
 「ふた昔 過ぎて花咲く わが與徳 多磨のはらから さぞや迎えん」(http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/miyagi_y.html

  地理的にも、生活面でも、辺境から辺境に追いやられた一群の人たち。私は彼らをマルチチュードと名付けたい。彼らこそ、社会変革の巨大なエネルギーを保有している人たちである。現在、世界のマルチチュードは、おそらく数億人はいるだろう。