消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 5

2006-11-30 03:23:31 | 時事

おわりに

 「シティ・グループ」になって以降のグループの拡大はまさに破竹の勢いである。

 1999年「シティ・グループ」はインターネット・バンクの「シティ・ダイレクト・オンライン・バンキング」(CitiDirect Online Banking)を創設。


 同年3月「日興ソロモン・スミス・バーニー」(Nikko Salomon Smith Barney Ltd.)を設立。


 同年3月チリ第2の商業銀行「フィナンシエロ・アトラス」(Financiero Atlas)買収、同年9月「リップルウッド」(Ripplewood)と組んで、日本長期信用銀行買収。


 
同年10月財務長官ロバート・ルービンが経営陣に加わる。


 2000年メキシコの年金ファンド「アフォレ・ガランテ」Afore Garante)を買収。


 同年3199911月クリントン大統領の署名によって成立した「グラム・リーチ・ビリー法」の適用第1号銀行となる。


 20005月「ソロモン・スミス・バーニー」が「シュローダーズPLC」(Schroders PLC)を買収し、ヨーロッパで「シュローダー・ソロモン・スミス・バーニー」(Shroder Salomon Smith Barney)を設立。


 2000年には、ポーランド、アルゼンチン、イスラエル、ブルガリア、台湾、ハンガリー、ジュネーブでそれぞれの国のリーディング銀行を相次いで買収。

 2001年にもメキシコ、ケニヤの銀行を買収、以後もミューチュアル・ファンドや年金等々の金融業務に乗り出している。

 米国は銀行・証券・保険の垣根を取っ払ってしまい、ひたすらM&Aを通じる巨大化路線を走っている。それはまさにパソコン市場におけるマイクロソフトである。


 権力に近い少数の超エリート人脈から外れてしまうとそれこそビジネスができないようになりつつある。こうした社会が安定性を示すとはとても思われない。しかし、どこから破綻がくるのかはいまだ誰にも分からない。


際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 4

2006-11-28 04:28:45 | 時事

Ⅲ シティ・グループを形成させた華麗な人脈

 世の中は多かれ少なかれ人脈で動くものである。私たちの小さな生活空間から、大きな宗教界、政界、財界、学会という大きな世界に至るまで、人脈の重要さについては誰でも皮膚感覚で知っている。しかし、巨大組織が合併したり、当事者間の紛争に介入したりする人脈については、それがあまりにも生々しいがゆえに、公の目にさらされることは少ない。筆者もシティ・グループ形成に果たした人脈を懸命に探って見たが正確なことを確定できないでいる。

 現在、日本でただ1人、金融界の人脈を探っている広瀬隆の『世界金融戦争』(NTT出版、2002年)に全面的に依拠して人脈理解のよすがとさせていただきたい。以下はすべて広瀬隆からの転載である。

  ①ゴールドマン・サックスはロスチャイルド資本で動いている。ゴールドマン・サックスの若きホープがロバート・ルービンであった。ルービンは鉄道王の未亡人パメラ・ハリマンと組んでクリントンを大統領にすることに貢献した。財務長官として活躍したが1999年7月2日の退任に際して「金融近代化法」(Financial Modernization Act)成立に貢献した。

  ②倒産した「ロングターム・キャピタル・マネジメント」(LTCM)の創業者ジョン・メリウェザー(John Meriweather)は「ソロモン・ブラザーズ」副会長を経験し、経営幹部でノーベル経済学賞を受けたロバート・マートン(Robert Marton)は「トラベラーズ」の投資部門担当重役であった。

  ③「ドレクセル・バーナム・ランベール」のドレクセルは「モルガン商会」を設立した名門1族、ランベールはリュシー・ロスチャイルド(Ricie Rothschild)と結婚したベルギーの男爵レオン・ランベール(Leon Lambert)の同名の孫であった。

  ④1979年ワイルが買収した老舗「レーブ・ローズ・ホーンブロワー商会」は「世界ユダヤ人会議」(World Jewish Congress)議長エドガー・ブロンフマン(Edgar Bronfman)1族の経営になるものである。この商会はハリウッドのMGMをも支配していた。1981年に「シェアソン・レーブ・ローデズ」が「ボストン・カンパニー」を買収するに当たって「グラス・シティーガル法」違反の疑いがあったのに、問題視しなかったSEC委員長のジョン・シャドはワイルが買収した「シェアソン・ハミル」の元幹部であった。そしてSEC委員長に就任する前は投資会社「E・F・ハットン」の会長であった。当時のレーガン政権時代の「連邦準備制度理事会」(FRB)議長のポール・ボルカー(Paul Volcker)も問題にしなかった。ボルカーは「チェース・マンハッタン」(Chase Manhattan)銀行の副頭取を経験し、FRB議長退任後は創設者がシティ・グループのアドバイザーとなる投資会社「ウォルフェンゾーン」の会長をしていた。ジョン・シャドが会長を務めていた「E・F・ハットン」は、「ゼネラル・フーズ」(General Foods)会長のエドワード・フランシス・ハットン(Edward Francis Hutton)が設立した会社である。ハットン自身の姻戚には、ウォール街の地主で全米最大の財閥を形成したアスター(Aster)1族、「暗黒の木曜日」を引き起こした財務長官アンドリュー・メロン(Andrew Melon)、SECを設立した大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)がいる。ジョン・シャドがハットン死後、それまで務めていたシェアソンから急遽「E・F・ハットン」に移籍したのもこうした華麗な人脈を得るためであった。

  ⑤「プライメリカ」は缶詰製造を制覇した「アメリカ製缶」(American Can)が本業を売却してJ・P・モルガン系列の「ギャランティー・トラスト」(Guarantee Trust)を基盤とする名門証券「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」を買収してできあがった。89年に「コマーシャル・クレジット・グループ」(Commercial Credit Group)を買収して社名を「プライメリカ」に変えた。

  ⑥ワイルの個人資産は『フォーブズ』によれば、98年6億7500万ドル、年収は全米の企業経営者の中で1位の2億2761万ドルであったが、2002年には資産18億ドルと3倍にもなった。人口2600万人のアフガニスタンを救うために2002年東京で供出が約束された支援金が世界で13億円であった。それはワイル個人にも及ばない額であった(同、78~94ページ)。「昔であれば独占資本として多くの批判を浴びたはずの巨大化が、むしろどこの国でもかなりの国民と大部分の政治家によって支持されている」(同、94ページ)。 「シティ・グループ」のホームページにはアドバイザーの経歴が掲載されている。その中の2人を引用しておこう。

  「シティ・グループ・シニア・アドバイザー」(Citigroup Senir Adviser)にハワード・ベーカー」(Howard H. Baker, Jr.)がいる。ベーカーは1966年テネシー州(Tennessee)選出共和党上院議員、第26代米国駐日大使、上院院内総務(US StateSenate Majority Leader)を歴任し、2005年には駐日大使を辞めた後、祖父が設立した法律事務所「べーカー・ドネルソン・ビアマン・カルドウェル・バルコウィッチ事務所」(Baker, Donelson, Bearman, Caldwell & Berkowitz, PC)に復帰し、同年より「シティ・グループ」のアドバイザーになっている。ベーカーの駐日大使は、子ブッシュ(George W. Bush)によって2001年に任命されたものである。

 1976年国連大使、1985~1990年まで大統領の「国際情報局」(President's Foreign Intelligence Board)、さらに「外交問題評議会」(Council on Foreign Relations)、『フォーリン・アフェアーズ』(Foreign Affairs)理事を歴任した有力者である。

 イスラエルとパレスティナとの仲介を国連から委嘱されたいたジェームズ・ウォルフェンゾーン(James D. Wolfensohn)も2005年から「シニア・アドバーザー」、2006年には同グループ「国際顧問会議議長」(Chairman of Citigroup's International Advisory Committee)になっている。10年間第9代世銀総裁(President of the World Bank)を2005年まで務めた。彼自身も投資銀行家である。「ジェームズ・D・ウォルフェンゾーン」(James D. Wolfensohn, Inc.)のCEOであった。1981年にこの銀行を設立し、世銀入行時に会社を清算している。自分の銀行設立前はニューヨークの「ソロモン・ブラザーズ」の共同経営者(Executive Partner)、ロンドンの「シュローダーズ」の副会長をも歴任した。ニューヨークの「J・ヘンリー・バンキング・コーポレーション」(J. Henry Schroders Banking Corporation)頭取も務めている。18年間「プリンストン大学応用研究所理事会」(Board of Institute for Advanced Study at Princeton University)理事長を務めた。「カーネギー・ホール」(Carnegie Hall)運営委員長、「ロックフェラー基金」(Rockefeller Foundation)理事でもある。出身はオーストラリアで、同国空軍の経験もある。1956年フェンシングでオーストラリアのオリンピック出場選手でもあった。


際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 3

2006-11-26 02:36:25 | 時事

 Ⅱ シティ・グループ傘下に組み込まれた老舗金融機関

  上記のような相次ぐ合併劇の事実のみを記しても事の本質が浮かび上がるわけではない。合併を推進させた金融人脈こそが重要なのである。「シティ・グループ」という巨大金融集団の出現とは、とてつもなく巨大な力をもつ金融人脈が形成されたことを意味するのである。


 (1)「シティ・コープ」 「シティ・コープ」の1方の旗頭である「シティ・バンク」(Citibank)は1812年の「シティ・バンク・オブ・ニューヨーク」(City Bank of New York)を嚆矢とする。創設者はサミュエル・オスグッド(Samuel Osgood)である。合併を繰り返して1865年「ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク」(National City Bank of New York)になり、1894年には全米最大の銀行になる。1897年最初の海外支店を設置し、上海、マニラに進出する。1913年「ニューヨーク連邦準備銀行」(Federal Reserve Bank of New York)設立に寄与する。1929年には世界最大の商業銀行になる。1939年には世界23か国で100支点をもつようになる。1940年ウィリアム・ゲイジ・ブレイディ(William Gage Brady Jr.)が頭取になり、1952年ジェームズ・スティルマン・ロックフェラー(James Stillman Rockfeller)が頭取になる。1962年創立150年を期して「ファースト・ナショナル・シティ・バンク」(First national City Bank)と改称。1968年持株会社「ファースト・ナショナル・シティ・コーポレーション」(First National City Corporation)設立。この持株会社が1974年に「シティ・コープ」(Citicorp)と改称。そして傘下の「ファースト・ナショナル・シティ・バンク」が「シティ・バンク・N・A」(Citibank for National Association)と改称。1981年「ダイナーズ・クラブ」(Diners Club)を買収。1984年ジョン・リードが頭取、1998年まで。1992年「シティ・バンク・N・A」が全米最大の銀行になる。1993年世界最大のクレジット・カード提供銀行となる。そして、1998年「シティ・グループ」を結成するのである(Citigroupホームページより)。


 (2)「リーマン・ブラザーズ」 1850年、ドイツ・リンパール(Rimpar)から移民してきたリーマン3兄弟、ヘンリー(Henry)、エマニュエル(Emanuel)、マイヤー(Meyer)によって設立された証券会社である。1844年若干23歳で長男のヘンリーがアラバマ州(Alabama)、モンゴメリー(Montgomery)で設立した衣料店を出発点とする。原棉ビジネスを経て証券仲介業務を営むことになる。証券会社の名は「リーマン・ブラザーズ・ホールディング」(Lehman Brothers Holdings, Inc.)。南北戦争(U.S. Civil War)後、アラバマ州再建に貢献。鉄道債で大儲け。20世紀に入って株式発行を主たる資金調達手段にする金融手法を普及するのにも貢献。フィリップ・リーマン(Philip Lehman)が経営者の時、「ゴールドマン・サックス」(Goldman, Sachs & Co.)のパートナーとなり、「ジェネラル・シガー」(General Cigar Co.)という煙草会社や「シアーズ・ローバック」(Sears Roebuck & Company)などを上場させる。以後20年間で100を超える会社を「ゴールドマン・サックス」と組んで上場させる。1929年本体から分離した投資会社「リーマン・コーポレーション」(Lehman Corporation)を設立し、資産管理会社としての絶大な地位を得る。1969年ロバート(Robert)・リーマン死去後、経営にリーマン1族が関わらなくなった。1977年CEOのピート・ピーターソン(Pete Peterson)の下で「クーン・レーブ」(Kuhn, Loeb & Co.)と合併し、「リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ」(Lehman Brothers, Huhn Loeb Inc.)となる。しかし、この会社は投資バンカー(Investment Banker)とトレーダー(Trader)との角逐が深刻になり、ピーターソンは、トレーダーのキャップのルイス・グラックマン(Lewis Gluckman)を1983年5月に共同CEOとして遇するが、結局はピーターソンが追い出され、グラックマンが実権を握る。このグラックマンがCEOの時の1984年3・6億ドルで「アメリカン・エクスプレス」に買収されてしまう。これが「シェアソン・リーマン・アメリカン・エクスプレス」(Sheason Lehman/American Express)になる。名門中の名門である「クーン・レーブ」商会の名がここに消えたのである。そして1988年、この会社と「E・F・ハットン」(Hutton)が合併して 「シェアソン・リーマン・ハットン」(Sheason Lehman Hutton Inc.)になる。そして、再度、「プリメリカ」のワイルに買収されたのが1993年のことであった(Wikipediaによる)。


   (3)「クーン・レーブ」 「クーン・レーブ」は1867年アブラハム・クーン(Abraham Kuhn)とソロモン・レーブ(Salomon Loeb)によって創設された投資銀行である。19世紀末から20世紀にかけてジェイコブ・シフ(Jacob H. Schiff)の下で「J・P・モルガン」(J.P.Morgan & Co.)の最大のライバルとして金融界に君臨した名門である。鉄道債の取引で米国では第2位の地位を確保し続けた。とくに鉄道王のE・H・ハリマン(Harriman)が優良顧客であった。経営陣にはオットー・カーン(Otto Kahn)、フェリックス・ウォーバーグ(Felix Warburg)といった大物が1920年のシフの死後も続いた。「ウェスティング・ハウス」(Westinghouse)や「ポラロイド」(Polaroid)といった新興企業を支援するので夢有名な投資会社であった。しかし、この名門も激しい金融戦争で没落し、1977年には独立性を失った。上記のように、「リーマン・ブラザーズ」に買収されたのである(Wikipediaによる)。


 (4)「スミス・バーニー」 「トラベラーズ・グループ」の「スミス・バーニー」の経緯も見ておこう。1873年証券仲買人チャールズ・バーニー(Charles Barney)が「チャールズ・D・バーニー」(Charles D. Barney & Co.)を設立。1892年エドワード・スミス(Edward Smith)が投資銀行「エドワード・D・スミス」(Edward B. Smith & Co.)を設立。1910年ハーバート・アーサー(Hurbert Arthur)とパーシー・ソロモン(Percy Salomon)が「ソロモン・ブラザーズ」(Salomon Brothers & Co.)を設立、さらに「モートン・ハッツラー」(Motron Hutzler)と組んで「ソロモン・ブラザーズ&ハッツラー」(Salomon Brothers & Hutzler)となる。1938年「チャールズ・D.バーニー」と「エドワード・B・スミス」)が合併して「スミス・バーニー」(Smith Barney & Co.)となる。1970年「ソロモン・ブラザーズ&ハッツラー」の「ハッツラー」が落ちて「ソロモン・ブラザーズ」だけになる。1976年「スミス・バーニー」が「ハリス・アッパム」(Harris, Upham & Co.)と合併して「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」(Smith Barney, Harris Upham & Co.)となる。この時のバーニー側の副頭取が初代J・P・モルガン(Morgan)の曽孫ジョン・アダムズ・モルガン(John Adams Morgan)であった。1989年ワイルが「プリメリカ」に「アメリカン・エクスプレス」から移籍する。1987年「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」が「プリメリカ」(Primerica)に買収される。1993年7月「プリマリカ」が「シェアソン・リーマン・ブラザーズ」(Sheason Lehman Brothers)を買収して「スミス・バーニー」に編入させる。同年12月「プリマリカ」が「トラベラーズ」を買収し、「スミス・バーニー」は「トラベラーズ・グループ」傘下に入った。そして1997年「スミス・バーニー」が「ソロモン」と合併して「ソロモン・スミス・バーニー・ホールディング」(Salomon Smith Barney Holdings Inc.)となり、1998年を迎える(Citigroupのホームページより)。


 (5)「ドレクセル・バーナム・ランベール」 フランシス・マーチン・ドレクセル(Francis Martin Drexel)がフィラデルフィアに「ドレクセル」(Drexel & Company)という銀行を1837年設立した。フランシスは、1792年オーストリーのチロル(Tyrol)に生まれた。1803年宗教絵画を学びにイタリアに留学、1809年帰国した時には故郷はフランス軍によって占領されていた。スイスやフランスを転々として絵画の勉強を続けた後、1817年アムステルダムからフィラデルフィアに移民。しかし、ペルーやチリを漫遊して絵画の勉強を続ける。南アメリカの将軍(General)サイモン・ボリバール(Simon Bolivar)の肖像をその時に描いている。ちなみに、ボリビアという国名は南アメリカのこの独立闘争の闘士ボリバールの名前からきたものである。南アメリカを2度訪問した後、メキシコにも寄り、フィラデルフィアに帰って銀行を設立したのである。当時は米国最大の銀行であった。 1847年、21歳の息子のアンソニー・ジョセフ・ドレクセル(Anthony Joseph)が加わり、カリフォルニア州の金採掘業務に融資していた。メキシコ戦争(Mexican War)や南北戦争時には連邦政府債を扱っていた。1863年父フランシスの死後、息子のアンソニーが社長となって後、1868年パリに「ドレクセル・ハージェ」(Drexel, Harjes & Co.)を設立し、1871年には、J・P・モルガンと組み、当時世界最大の銀行「ドレクセル・モルガン」(Drexel, Morgan and Co.)を設立した。社名からモルガンを消した後、さらに、「バーナム・&カンパニー」(Burnham & Company)と合併し、「ドレクセル・バーナム」となる。経営危機に陥った時にブリュッセルの銀行が救済に入る。「グループ・ブリュセル・ランベール」(Groupe Bruxxelles Lambert)である。そして、「ドレクセル・バーナム・ランベール」に社名を変更する。行員には著名な経済学者のアビー・ジョセフ・コーエン(Abby Joseph Cohen)もいた。しかし、1980年代にはジャンク・ボンドに傾斜する。有名なマイケル・ミルケン(Michael Milken)が活躍した頃である。1986年には会社は5・45億ドルもの空前の純利益を上げ、1987年にはミルケンは5・5億ドルの報酬を得た。しかし、アイバン・ボースキー(Ivan Boesky)やデニス・レビン(Dennis Levine)などがインサイダー取引で司直に逮捕され、彼らを雇っていた同社は経営に行き詰まり、1990年市場から姿を消した。  ただし、創始者の芸術家としての素養は子供たちにも受け継がれ、1826年9月13日生まれのアンソニーは「ドレクセル大学」(Drexel University)を創設。1833年1月24日生まれのジョセフ・ウィリアム・ドレクセル(Joseph William)は1876年に銀行業務から引退した後、「メトロポリタン美術館」(Metropolitan Museum and Art)や「米国ナショナル科学アカデミー」(U.S. National Academy of Sicence)の管財人を務め、「メトロポリタン・オペラ・ハウス」(Metropolitan Opera House)理事を歴任した。1824年6月20日生まれのフランシス・アンソニー・ドレクセル(Francis Anthony)は聖キャサリン・ドレクセル(Saint Katharine Drexel)の父である(Wikipediaによる)。 聖キャサリン・ドレクセルは1858年3月3日というカトリックの聖なる日に誕生。1955年死去という長寿。ネイティブ・インディアンや有色人種の教育・福祉に2000万ドルを寄進。貧民地区にシスター養成所を設立。1988年ローマ法王・パウロ2世(Pope John Paul Ⅱ)によって列福された(beautified)(死者を天福を受けた者の列に加えること)(Catholic Online, Festday: March 3, 1955, http://www.catholic.org)。


際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 2

2006-11-25 01:33:24 | 時事
 Ⅰ シティ・グループ形成史

 世界100か国で営業するシティ・グループの業績は目覚ましい。2005年度の収益836億ドル、当期純利益246億ドル、株主資本利益率22・3%、株主持分(自己資本)1188億ドル。収益基盤は4つに分かれている。グローバル個人金融部門が最大の柱で収益の53%を稼ぎ出している。法人金融・投資銀行部門が34%、グローバル・ウェルネス・マネジメント部門が6%、シティグループ・オルタナティブ・インベストメンツ7%。地域別では米国内が圧倒的に大きく57%である。日本を除くアジア14%、日本6%、メキシコ10%、メキシコを除くラテンアメリカ5%、ヨーロッパ・中東・アフリカ8%と米国以外ではアジアとラテンアメリカに集中している。

 1998年10月、保険持株会社旧トラベラーズ(Travelers)(後述)と大手銀行持株会社旧シティコープ(Citicorp)(後述)が統合したことによりシティ・グループの大枠ができた。銀行、証券、保険引受という総合金融サービス機関となった

 シティ・グループの本拠はニューヨークにある。『フォーブズ』(Forbes)の『グローバル2000』(Global 2000)によれば、世界最大の企業にしてもっとも収益を上げている金融機関である。大恐慌以降、銀行業務と保険引受業務を兼営する最初の米国企業である。従業員30万人超、世界の顧客数2億人以上、米国財務省証券の主たるディーラーである。

 The Thomson Financial League,2003によれば、同社のシェアは、世界の資本市場の10%、消費者金融6%、プライベート顧客サービス5%、米国内リテール銀行業務4%である。

 こうした巨大金融コングロマリットを形成させた立役者はスタンフォード・ワイル(Stanforf Weill、愛称サンディ・ワイル、Sandy Weill)である。合併時にはトラベラーズのCEOがワイル、シティコープのCEOがジョン・リード(John Reed)であった。

 ワイルは大恐慌時ニューヨークのブルックリン(Brooklyn)に生まれた。両親はポーランド系ユダヤ人である。コーネル大学に入るが空軍に属し、パイロットでもあった。1955年ウォール街の「ベア・スターンズ」(Bear Stearns)に入社したのが彼の最初の就職である。友人にアーサー・カーター(Arthur Carter)がいた。カーターはその時には「リーマン・ブラザーズ」(Lehman Brothers)(後述)に勤務していた。そして1960年5月ワイルはカーターとその他2人(Roger Berlind、Peter Potoma)と組んで「カーター・バーリンド・ポトマ&ワイル」(Carter,Berlind, Potoma&weill)という証券ブローカー社を設立し、ワイルが社長になって、15を越えるM&Aを繰り返して、1970年「CBWL・ハイデン・ストーン」(CBWL-Hayden, Sone Inc.)という会社になった。このいCBWLという会社はふざけた名前である。ニューヨーク証券取引所はこのような名称でも上場させるのかとの思いを強くする。つまり、この会社は「レタス付きコーン・ビーフ」(Corned Beef With Lettuce)である。さらに、会社は合併を継続して、1972年「ハイデン・ストーン」(Hayden Stone,Inc.)、1974年「シェアソン・ハミル」(Sheason Hammill & Co.)と合併して「シェアソン・ハイデン・ストーン」(Sheason Hayden Stone)、1979年「レーブ・ローデズ・ホーンブロワー」(Loeb Rhoades Hornblower)と合併して「シェアソン・レーブ・ローデズ」になる。これは1867年に創設された「クーン・レーブ」(Kuhn, Loeb & Co.)という名門証券会社の後継である(後述)。

 「ホーン・ブロワー」というのもいい加減な名前である。この「シェアソン・レーブ・ローデズ」は1979年時点で資本金2・5億ドルと当時の「メリル・リンチ」(Merrill Lynch)に継ぐ第2位の規模にまでのし上がった(前掲、Citigroupホームページより検索)。

 1981年、「ボストン・カンパニー」(Boston Company)買収。これは金融界に大きな衝撃を与えた。「シェアソン・レーブ・ローデズ」という証券会社が「ボストン・カンパニー」という銀行を兼営することになり、1933年の「グラス・スティーガル法」(Glass-Steagall Act)に抵触することになるからである(広瀬隆『世界金融戦争』NHK出版、2002年、84ページ)。これは当時の「証券取引委員会」(SEC)委員長、ジョン・シャド(John Shudd)によって問題にされなかった(後述)。

 1981年、ワイルは「シェアソン・レーブ・ローデズ」を「アメリカン・エクスプレス」(American Express)に9・3億ドルで売却する。1983年ワイルは「アメリカン・エクスプレス」の会長(president)となる。しかし、1985年8月52歳の時に、ワイルは「アメリカン・エクスプレス」を去る。

 1度は「バンカメ」(BankAmerica)のCEOを狙ったり、「メリルリンチ」の買収を画策したりするが、いずれも失敗して、1986年、今度はミネアポリス(Minneapolis)を基盤とした「コントロール・データ・コーポレーション」(Control Data Corporation)から子会社「コマーシャル・クレディット」(Commercial Credit)という小さな消費者金融会社を700万ドルで買収し、自らがCEOに就任した。

 
この会社は徹底的なリストオラ路線をとってIPOで成功する。1987年「ガルフ保険」(Gulf Insurance)を買収、1988年「スミス・バーニー」(Smith Barney)(後述)と「A・L・ウィリアムズ保険」(Williams Insurance Company)の親会社である「プリメリカ」(Primerica)を15億ドルで買収、1989年には「ドレクセル・バーナム・ランベール」(Drexel Burnham Lambert)(後述)という証券仲介業の会社を買収、1992年には7・22億ドルで「トラベラーズ保険」(Travelers Insurance)株27%を取得した。この時の「トラベラーズ保険」は 不動産投資に失敗して経営難に喘いでいたのである。

 1993年には、1981年に「アメリカン・エクスプレス」(アメックス)に売却していた旧「シェアソン・レーブ・ドーデズ」、その時には「シェアソン・リーマン」(Sheason Lehman)となっていた証券会社を12億ドルで「アメックス」から買い戻し、同年末、40億ドルで1985年に辞職した「トラベラーズ・コープ」そのものを買収してしまう。そして自ら経営しているすべての会社を「トラベラーズ・グループ」(Travelers Group Inc.)と総称してしまう。さらに、1996年40億ドルを投じて「エトナ生命損害保険」(Aetna Life & Casualty)を買収、1997年にはさらに大きな「ビッグ・ディール」を成功させる。90億ドルという巨費で「ソロモン・ブラザーズ」(Salomon Brothers)(後述)の親会社「ソロモン」(Salomon Inc.)を買収したのである。

 そしてついに、1998年10月8日世紀の大合併、「トラベラーズ」と「シティ・コープ」の合同が実現する。合併に投じられた費用は760億ドルという巨費であった。

 世紀の合併は、法的には許可されるはずのないものであった。銀行業務と保険引受業務、さらには証券業務を包含する事業は、それを禁じている1933年の「グラス・スティーガル法」に抵触するからである。

 当時のそれぞれのCEOのワイルとリードは法律そのものを議会に廃止させると豪語していた。こうした目標を実現させるために、まず、新興シティ・グループの重役に元共和党大統領ジェラルド・フォード(Gerald Ford)と民主党クリントン(Clinton)政権下の財務長官(Secretary of Treasury)のロバート・ルービン(Robert Rubin)を加えた。そして、あらゆる金融業務の兼営が認められる新しい「金融サービス法」(グラム・リーチ・ブライリー法=Gramm-Leach-Bliley Act1)が、1999年11月12日、クリントン大統領の署名の下にに成立し、「グラス・スティーガル法」(1933年銀行法)は66年ぶりに廃止されたのである。名実ともに総合金融機関になりえた。シティ・グループの総帥CEOはワイルが務め、エンロンの金融処理不適切で社会から糾弾された2003年の責任をとって、CEOの職をチャック・プリンス(Chack Prince)に譲り、2006年4月18日、ニューヨーク司法裁判所による大型合併禁止令を受けて、会長の座も辞した(ワイルの軌跡についてはWikipedia)。

際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 1

2006-11-24 01:17:26 | 時事
はじめに  

 本稿は、ますますクローニー・キャピタリズムの様相を強めている英米日の資本主義が、近い将来陥るであろう落とし穴を、摘出する作業の1つである。今回は中間的結論すら出せず、単に超巨大化する米銀とその華麗な人脈の表面を撫でただけのことしかできなかったが、この方向で今後も書き続けたいと願っている。

 世界を支配しうる巨大金融機関が誕生している。シティ・グループ(Citigroup)がそれである。2005年度の資産が1・5兆ドルもある(同社ホームページ)。

 米国の金融資本市場(株式時価総額、債券残高、銀行融資残高の合計)規模が2003年時点で41兆ドルだったのだから、ほぼその4%を同社が保有していることになる。銀行融資残高に限定すると米国の残高は21兆円強あった。この数値を基準とすればシティ・グループの資産は7%強に跳ね上がる。これはとてつもない大きな資産である。また、1・5兆ドルといえば、2003年3月末の米国財務省証券の海外保有額に匹敵する(米国財務省、Major Foreign Holders of Treasury Securities)。

 ちなみに、この時点における世界のGDP合計は36兆ドル、世界全体の金融資本市場は130兆ドルと、金融市場は実物市場の約3・6倍になる。金融資本市場がいかに水膨れしているかがこれで理解できるだろう。米国の金融資本市場は世界全体の31・3%である。ユーロ圏が35兆ドルで27%、日本が20兆ドルで15・5%、新興国15兆ドルで11・6%である。実物経済規模に対して金融資本市場規模が何倍あるかで見ると、米国が3・7倍、ユーロ圏4・3倍、日本4・7倍、新興国1・8倍である。

 最初から横道に逸れるが、米国と日本との金融資本市場の体質は対照的なものである。まず公的債務残高の構造が異なる。対GDP比では、米国が0・46倍、日本が1・36倍である。深刻な財政赤字を計上する国として危惧される米国よりも日本の財政赤字に方が深刻なのである。しかし、民間債務残高となるとこれまた対照的である。米国が今度は正反対に1・43倍に対して日本が0・52倍と米国に比べて極端に少ない。  銀行融資残高についても両国の性格は大きく異なる。米国が0・53倍なのに日本は1・68倍である。つまり、直接金融が主体の米国、間接金融主体の日本という、くっきりとした種別が見て取れる。米国の数値の低さはラテンアメリカと共通する(0・52倍)。

 銀行融資残高はEU圏で大きい。オランダ6・93倍(金融資本市場の対GDP比は6・93倍と世界最高値)、英国2・62倍(同、5・32倍)、フランス2・55倍(同、4・72倍)。総じて銀行融資残高比が高いほど金融資本市場の対GDP比は高い。

 株式時価総額面では日米は似ている。米国が1・3倍、日本が1・14倍であった。株式面ではドイツ、フランス、オランダが低い。それぞれ0・42倍、0・7倍、0・42倍である。つまり、金融の流れは直接金融に向かうと私たちは思い込んでいるが必ずしもそれは正しくないことをこの数値は語っている。直接金融体質の経済強国は米国のみであり、日本がその後を懸命に追っているだけで、ヨーロッパは頑固に間接金融の体質を変えていないのである。この構造の差を私たちは見落としてはならない。しかし、直接金融の国、米国で、世界最大のマンモス銀行グループが間接金融をも包含してしまう事態が出来したことは、旧来の金融構造を変化させてしまう巨大な衝撃である(金融資本市場に関するデータはIMF、大和総研/コラム:世界金融資本市場の将来像)。

姿なき占領(2)

2006-10-18 02:04:56 | 時事

 21世紀倶楽部」という組織がある。
  その倶楽部が1996年10月31日、「第五回・リバティ・オープン・カレッジ」で、宮澤喜一・元首相の講演会を開催した。
 
題して、「二一世紀への委任、過去50年間の日本の選択を振り返る」という講演であった。同氏の講演は、占領というもののもつ理不尽さへの憤りが素直に吐露されていた。しかも、独立国家になったはずの日本政府の、対米関係は、占領期のそれと大差がないことを臭わす内容であった。

 講演の内容の要約ではなく、講演のなかで対米関係における屈折した日本の位置に関して宮澤が感じたことを抜き書きしよう。

 昭和20年8月17日、「東久邇稔彦内閣という、日本で初めてで、その後も例がない皇族首班の内閣ができ」た。

 当時、「誰も戦争に負けたということがどういうことかがわかっていませんし、占領についてもどういうことかよくわかりませんでした。とにかく電気がついてうれしかった」。屈強な米兵がくるというので、婦女子の安全を図らなければならないから、政府が慰安所を作ることまで閣議決定をした。こんなヘンテコなことに日本人の意識が傾く有様であった。「そこいらが、まず占領というものではないかと思いました」。

 「占領とは、文字通り政府がやること、箸の上げ下ろし一つにいたるまで、第一生命ビルに居るマッカーサーの指示を受けるのです。地方には軍政部があり、県庁の人はみんなそこへいって指示を仰ぎます。これ以上の屈辱はないのですが、そういう状況であって、それは行政府ばかりではありません。国会そのものに占領軍指令部の国会担当者が乗り込んできて、こうやれ、ああやれと指示をするのです」。

 そうした屈辱の最たるものが、ある米国人に「日本の議会制度の確立に非常に寄与した」との理由で叙勲したことである。宮澤が総理大臣のときに叙勲をする書類が彼のところに回ってきた。しかし、その米国人は、「国会へ乗り込んできて、ああやれ、こうやれと指示をした男であった」。別に国会に貢献した人ではなかった。ただ、口やかましい人にすぎなかった。宮澤は皮肉を込めていう。「五十年経つとそういう指示が議会制度に寄与したことになるのだなと複雑な思いがしたものです」。

 宮澤は断言する。「したがって、よい占領などは本来はあり得ない」と。

 「日本政府という大組織があり、一方に占領軍という大組織があると、日米が対立するのは当り前ですが、そのうちに、たとえば、財政は財政同士、交通は交通同士で気持ちが通じてきますから、相手国との対立が自国の部門同士の対立になったりします」と日本政府機関の内情を説明する。
  日本と米国との対立ではなくなる。米国内部の意見対立が日本内部の意見対立をだしていたのである。「組織とは時間が経つとそういうものですが、それをうまく利用したりして、何とかやってきました」。

 米国の内部対立を利用して、日本の独自性を守ってきたという自負を宮澤は吐露した。まだ公開できない機密がそこにはあるのであろうが、独立後、米国の外圧を利用することが省庁の内部対立を調整する大きな手段となったことも、占領期から受け継いだ姿勢なのだろう。

 「昭和二十四年頃には、もう占領はごめんだと日本は思うし、米国もマッカーサーが、『占領は長くやってはいけない』という哲学をもっており、当時の吉田茂総理大臣も早期に占領を終結させようと努力していました」。

 そして、宮澤は、米国にはないが西欧には綿々としてある社会民主主義の伝統に敬意をもつ。宮澤自身は、市場中心主義者ではあるが

「市場経済にはそれなりの欠陥があり、ことに世の中には貧しい人と富む人の間に財産の差、あるいは所得の格差がある。そういう貧富の差を再配分することが、そもそも政治の機能であるとソーシャルデモクラッツは考えます。ですから、高額所得者からは高い所得税をとるべきである。資産課税は厳しくすべきである。産業政策も労働政策もある程度は政府がしなければならない。それがために政府があるのであり、極端にいえば、市場経済でよいのなら政府は要らないのだという立場です」。

 「そういう立場の政党が日本でどれくらい成功するかは別ですが、そういう政党が生まれてくるのなら、私はまことに理屈が合っているとは思います」。

 そうした政党が日本に生まれるべきだと宮澤はいう。市場経済中心主義の政党と、市場経済の欠陥を是正する守備一貫した政策を打ちだせる社会民主党とが、日本で競い合い、国民の選択肢を増やすことが必要である

 「西欧をみても、高福祉・高負担がゆき過ぎると、保守党が税金を下げる政策を打ちだします。日本もそうであれば、有権者も政策の選択がしやすいだろうと思いますが、なかなかそうはなりそうにないので、心配をしています」。

 宮澤が首相のときに、カンボジアPKO(平和維持活動)で、自衛隊をカンボジアに戦後初めて派遣した。戦闘行為ではなく、橋をかけたり道を直したり、いわゆる国づくりの手伝いをすることをPKOという。その活動で二人を亡くした。

「私は一生、これは自分の責任だと背負ってゆかなければならないのですが、しかし、自衛隊がいってあれだけの貢献をしたことは、国内でも評価されたし、国際的にも評判がよかったと思います。しかし、あれが日本のできる国際貢献の限度であるとも私は思っています」。

 「つまりそれは、日本国憲法の下で、戦争前・戦争中の経験にかんがみて、『海外で武力行使をしてはいけない』という言葉に尽きると思います。たとえ国連の旗の下であっても、また、他国がわが国に攻めてきそうだから、こちらからでかけていってその出端をくじくといったような場合であっても、日本は海外で武力行使をしてはならない。これが戦後、我々が守ってきた規則であるし、これからも守らなければならないことだと私は思います」。

 現在の自民党の閣僚と宮澤との格差は歴然としている。彼は、基本的には親米であり、けっして、米国から中立の立場をとる政治家ではないが、小泉体制以降、宮澤ですら政治の表舞台から追放されてしまったのである。これに、「姿なき占領」が本格化した証左である。

 テレビの怖さも宮澤は、率直に認めた。
 
たとえば、ソマリアで部族間の争いがひどく、食料援助が届かないので、両方の部族を分けて届けるべく、国連は、多国籍軍を派遣した。しかし、米軍が部族間の争いに巻き込まれ、「米兵の死体が道を引きずられていくのがテレビに映りましたから、米国の国民がとても許せないということで、ソマリアから撤退してしまいました」。

 「米国のクリストファー国務長官、『いまの外交政策はテレビで決まる。テレビに何が映るかで、外交政策が左右されざるを得ない時代になった』と私によくいます。湾岸戦争のときも、当時のチェイニー国防長官が記者会見で、『CNNでみた」などというのですから、テレビの影響は大変なものだと思います。しかし、テレビの情報は総合的なものではありませんので、政府は報道があったらすぐに総合的な情報をとるように動かねばなりません」。

 ソマリアで戦う米軍兵士の勇猛果敢な姿を描く映画がハリウッドで戦略的に製作されたことについて、私は以前、触れた。正しくは、テレビが外交政策を左右するのではなく、政府が自己の政策を実施しやすくするために、国民世論を誘導する狙いでテレビを利用するのである。「姿なき占領」の常套手段が権力によるマスコミの利用である。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでも国連軍が人質になっていて、国連の旗の下で軍事行動などできるものではない。その点、米国がもっとも痛切に感じているであろう。米国は、その点で、単独行動と他国の協力を求めるであろうとのニュアンスの発言をした後、日本では、「カンボジアPKOでおこなった程度が限度だと私は思います」と断言する。

 「また、他国が日本を攻めてきそうだから、あらかじめでかけていって出端を挫くということは、まさに自衛の名の下で我々が第二次大戦中におこなったことですが、少なくとも我々が過去において自衛の名でおこなったことは少しも成功しませんでした。ですから、たとえどういう事情であれ、国外で武力行使をしてはならないのが鉄則だと私は思います」。

 どんな事情があっても、「海外で武力行使をしないということを、我々はきちんと守っていかなければならないと思っています」というのである。

 為替の完全自由化に対しても宮澤はそれが投機を刺激するからとの理由で批判的である。

 「為替には、思わぬ事が起こるので、非常に怖いと思います。為替のスペキュレーション(投機)をやられると、大変なことになります。たとえば、今年(一九九六年)の二月にも英国の名門証券会社ベアリングス・グループがデリバティブ(金融派生商品)で失敗し、巨額損失を出して倒産しました。為替レートが投機の対象になるのは変動制になってからです。 コンピューターの進歩で瞬間的に投機が可能となり、それにデリバティブが加わると、毎日、一兆ドル単位で取り引きするようになります。どこの国の大蔵大臣も、『為替レートはファンダメンタルズ(経済の基本条件)を反映している』といいますが、相場がこう激しく動くと、それは大変に疑わしくなります。ファンダメンタルズがそう変わるわけはありませんからね。震災や不景気、政治が不安定といわれる日本の通貨が上がり、ニューヨーク市場で史上最高の株高をつけた好景気の米国の通貨が下がるわけを、きちんと説明できる人はいないでしょう。このようなことを、いつまでも放っておいてよいのかと思います。「投資はいいが、投機はいけません」などと私も大蔵大臣のときにいった憶えがありますが、通貨安定は二一世紀までに何とかしなければならない課題の一つです」。

 少なくとも、宮澤は、金融面まで完全に市場に委ねるという米国流市場至上主義者ではない。古典的な「管理通貨体制」維持派である。

 そうした政治家が、米国から遠ざけられるようになったことに、「姿なき占領」が表現されているのである。

 箸の上げ下ろしにまで指令するのが占領である。社会の隅々まで日本は米国に占領されている。米国資本にとって、日本経済がおいしいものだからである。


姿なき占領(1)

2006-10-17 01:29:05 | 時事
  医療制度が急速に悪化させられている。患者が払う医療費の自己負担が大きくなる。医療機関が受けとる診療報酬が引き下げられる。老人の医療費支払いの優遇措置がなくなる。

  医療問題についてこれまで大きな力をふるってきた厚生労働省の「中央社会保険医療協議会」(中医協)の委員構成が大幅に変えられ、中医協そのものの権限が剥奪される。

 病院経営に営利会社が参入できるようになる。公的保険を適用しなくてもよい「自由診療」が可能になる。つまり、金持ちが高額医療を受けることができるようになる。逆にいえば、貧乏人でも受けることができていた公的保険の適用範囲が著しく制限されるようになる。

 すべては、医療費の高騰を抑制するという建前の下で進められている医療改悪である。

 
確かに医療費は高騰傾向を示している。それでも、日本の医療費の対国内総生産(GDP)比で、他の先進工業国家にくらべてもっとも小さいという事実は語られない。むしろ、「公」の領域であった医療分野を、「私」の領域に開放しろという米国政府の要求に日本政府が屈したというのが、もろもろの改悪の本当の理由であろう
「官」から「民」へという流れは、日本では、営利の対象にしてはならなかった「公」の領域を、カネを儲けてもよい「私」の領域に移してしまえということである。そして、新たな領域で地歩を築く「私」とは、多くの場合、米国企業であり、米国のコンサルタントである。 政府・与党の「医療制度改革大綱」というものがある。それに沿う形で医療制度のなし崩し的改悪が進行している。

 まず、中医協の委員構成が変えられる。これまでは、委員は四つの分野からだされていて、医療費を支払う側(支払側)が八人、診療側が八人、中立の立場にあるとされる公益側(学識経験者)が四人、専門委員が七人であり、支払側と診療側の委員は団体から推薦されていた。これが大幅に変えられる。まず団体推薦が廃止される。つまり、委員は厚生労働省が選ぶことになる。支払側と診療側がそれぞれ七人に減らされ、公益側を六人に増やすことになる。公益側が主導権を発揮することが決められた。そして、診療報酬改定にかかわる決定について、中医協の権限を剥奪し、官邸主導にすることが決定された。専門委員にも今後は、外資から選ばれるようになるであろう。

 診療報酬は、「引き下げる」と明記された。
 二〇〇八年度から七〇~七四歳の自己負担分を現行の一割から二割へと、じつに、二倍に引き上げることになった。七〇歳以上でも現役なみの所得のある人は、現行の二割から三割に自己負担分を引き上げられることになった。入院している高齢者の食費・居住費の負担増の方向で見直されることになった。

 七五歳以上の高齢者向けの医療保険制度が他の世代から独立して二〇〇八年に新設されることになった。この新制度に関して、保険料の徴収義務だけが市町村に委ねられるが、運営は、都道府県単位で全市町村が加入する「広域連合」が担うことになった。

 こうした改悪は、米国政府の意向を無視して判断されるべきではない。二〇〇六年六月に日米首脳会談があった。これに合わせて『二〇〇六年日米投資イニシアティブ』という報告書がだされた。

  そのなかで、米国政府はドキッとさせられるようなことを日本政府に要求した。米国側は、「米国企業も医療改革の議論に積極的に関与」したいといってのけたのである。米国企業は、すでに、日本の医療サービス分野で大きな地歩を築いているのだから、医療改革の議論に参加させろというのである。

 具体的には、株式会社などの営利会社が病院を経営できるように規制緩和をせよ、公的保険と自由診療とを組み合わす「混合診療」を拡大せよと要求した。

 医療に営利を認めてしまえば、医療費の高騰は避けられないし、儲かる地域に病院が集中し、儲からない地域には病院がなくなってしまう怖れがあるとして、日本では病院株式会社が禁止されていた。しかし、米国の執拗で強い要求の前に、日本政府は譲歩して、「構造改革特区」に限って例外的に株式会社による病院経営を許可するようになった。しかし、これでは充分な展開ができないとして米国は、特区以外でも認可しろと日本政府に迫っているのである。

 日本では、これまで、公的保険が適用される保険診療と、保険が適用されない自由診療との併用は原則的には、認められていなかった。保険診療を受けていた患者が、公的保険が適用されない自由診療を受けてしまえば、それまで受けていた公的保険の適用資格がなくなり、診療全体が自由診療として、患者は実費の全額を払わなければならなかった。これを認可せよというのである。

 米国政府は、混合医療が、「医療支出を減らし、効率化を促し、さらに医療保険制度の財政上の困難を緩和しうるものである」と明言した。

 そうではないだろう。医療費削減の建前の下、自由診療の分野に公的なものではない純民間ベースの医療保険を拡大させようとする米国医療保険会社の思惑が見え隠れするのである。

 二〇〇六年報告書では、医療と並んで、教育も重点分野に挙げられた。教育もまた、カネを儲けてはならない「公」の領域であったのに、カネを儲けてもよい「私」の分野に移し替えられようとしている。安倍新政権が「教育改革」を目玉にしている背景に米国政府の圧力がないとはいいきれないのである。

 日本のあらゆる領域が米国資本によって占領されようとしている。それは誰の目にもみえる剥きだしの力の行使ではなく、「構造改革」というスローガンの下で静かに進行するイデオロギー支配、つまり、「姿なき占領」なのである。

まる見えの手 14 米国大手医療保険会社が日本で病院経営に乗りだす(4)

2006-10-11 00:47:30 | 時事
 激増するであろう無保険者

 管理医療システムの下では、保険会社が患者のために医療機関に支払う料金はコストである。収入は契約者から得る保険金積立である。当然、この差額に基準が設けられる。この差額が小さいと自社の株価が下がり、他の競争相手から買収されてしまうかも知れない。どうしても、差額を大きくしなければならない。

 とすれば、病人と保険契約を結ばないことである。彼らはつねに医療費が加算で保険会社の利益をを食ってしまう。保険会社は、健康な人間で、なるべく病気にならない人との契約に邁進する。それも金持ちであればあるほどよい。

 残念ながら、総じて、高収入の人は健康である。低所得者層は病気になりやすい。こうして、低所得者層が保険の恩恵を受けることができなくなる。

 そのためには、大企業との大口保険契約を結ぶのがもっとも手っ取り早い。大企業に勤務している人は健康な人が多いからである。優良でない企業には見向きもしない。そして、そうした従業員には高い保険商品を売りつける。低所得者層はそうした高額商品を買えない。こうして、無保険者が増えてしまう。

 あるいは、保険会社が企業と契約してくれていたお陰で、病気になり、入院治療を受け、保険料を支払ってもらった従業員が、病気が治って職場に復帰しようとしても、企業側が次回の高額治療の負担に怯えて、職場復帰を認めない事態も想定される。

これもまた無保険者の誕生場面である。
 保険会社が病院経営に乗りだせば、人口密集地域にしか病院を展開させなくなってしまうであろう。そうすれば、現在よりも無医村地区が増え、無医村地区の住民は、とてつもなく高い保険契約を保険会社と交わさなければならなくなるだろう。当然、無医村地区の住民に無保険者が増える危険性がある。

 いま原油価格が異常な高騰ぶりを示している。これは、相次ぐM&Aによって、大手石油会社の数が減少し、原油市場で寡占化が進んだからである。つまり、寡占化が進み、カルテル結成が可能になった段階で、大手石油会社は原油の増産を辞めた。表向きは中国の旺盛な原油需要が石油市場を圧迫しているとの立場を崩していないが、実際には、高騰する原油価格を横目に増産に踏み切っていないのである。OPEC(石油輸出国機構)もまたこのカルテルに協力している。寡占化が原油の高騰を生みだのである。

 同じことが病院にもいえる。今後、病院と保険会社のM&Aが急速に進むであろう。市場を寡占化するためである。M&A路線を突っ走る企業は、市場がはやしてその株価が高くなる。株価が高くなれば競争相手を吸収合併する手段としての株式交換がやりやすくなる。株式市場が積極的にM&Aをおこなう企業を応援する。

 こうして、多くの病院や保険会社が大病院、大保険会社の軍門に下る。
多くの病院、保険会社を吸収してしまった会社は、吸収した病院を閉鎖する。こうして、競争相手をなくし、寡占状態を作り上げてから、保険契約料をつり上げる。高騰する保険支払いに根を上げる人たちが続出する。そして、無保険者がここでも生みだされる。

 米国の巨大な病院チェーンが日本に参入する日は近い。そうなれば、収益の上がる医療分野は米国の大手株式病院に根こそぎもっていかれてしまうであろう。そのときには、日本の公的医療保険制度は骨抜きになっているであろう。米国の病院株式会社と医療保険会社が、本国で叩きだされた損失を日本で償うのである。

 保険会社が、管理医療システムを主張する理由の一つに、病院の適正なコストを監視するということがある。実際には、そうしたきれいごとはあまりないのであるが、無保険者になるとこの言葉の意味が生きてくる。

 無保険者は、適正な治療費の高さを知り得ない素人である。無保険者はかかった費用のすべてを要求される。素人であるがゆえに、法外な料金を吹っかけられる可能性がないとはいえない。虫垂炎で手術入院すれば一六〇万円も請求されることなど米国ではザラにある。保険会社相手であったら三〇万円弱で済むものに、その五倍も請求されるのである。払えない患者は自己破産する。

まる見えの手 13 米国大手医療保険会社が日本で病院経営に乗りだす(3)

2006-10-10 00:43:40 | 時事
保険会社の社員が医師に指図する

 医師は、医療の知識から治療内容を選ぼうとする。しかし、自分が選択した治療内容が、保険会社から認められたものであるか否かの知識を併せもっていないことの方が多い。建前的には、保険会社が医師に選択すべき治療内容を指令しているのではない。

 
医師は自らの意志で治療内容を決定できる。しかし、保険会社が認めていない治療内容を医師が選択すれば、その治療には保険が支払われないのだから、医療機関が医療費を保険会社に対して請求できないことになる。
どの治療が保険の対象になるのか、どれが対象外であるかのアドバイスをする人が必要になる。そうした人が、「病例管理者」として保険会社から治療現場に派遣され、彼らが警官よろしく、医師の治療内容を監視する。

 病例管理者は、患者をも管理する。患者が医師の処方通りに行動しなければ、結果的に回復が遅れ、その分、治療費がかさみ、保険による支払いも増え、保険会社の大きな負担になるからである。患者のなかには、必ず、要注意人物がいる。短期間で病気を治す意志をもたず、生活態度に問題のある患者などがそれである。そうした人を保険会社から派遣された病例管理者があれこれと面倒をみるのである。入院の是非の判断、入院日数の短縮などもこの管理者の仕事である。したがって、管理者は、医師と患者との間をいききする。

 こうして、医師も患者も保険会社から監視される。態度の悪い患者は保険契約から外される。というよりも、保険料金の支払いがかさむ患者はリストアップされ、保険会社と契約できなくなる。こうして、管理医療制度の下では、保険会社の思惑一つで大量の無保険者が生みだされる。

 営利会社が病院を経営するのだから、採算の悪い部門は切り捨てられる。医学に素人の病院経営者が勝手に人員削減に走る。これで医療現場が混乱しても、自分の営業成績がよくなれば特別ボーナスを保険会社からもらえる。こうした場合、まず現場が崩壊する。  病院の食堂も、患者本位ではなく、利益本位になる。まず外部の大手外食チェーンが食堂に入りこむことになるだろう。病院が外部から物品を安く購入し、それを入院患者に高く売ることも考えられる。入院している患者には価格の適正さなど知る由もないからである。

 しかし、最大の問題は、治療が長引き、したがって、保険料金が際限なく大きくなる重病患者に対して、保険会社が一方的に保険契約を打ち切るといった問題も発生し得るということである。打ち切りの理由はいくらでもつけられる。 「医学的必要性を認められない」という理由で十分である。そして、患者が死ぬ。

 気力と資金力のある人なら、打ち切り措置は不当だとして裁判所に訴えることはできるだろう。しかし、それには気の遠くなるような時間と資金と訴えの正当性を証明する資料作りなどの膨大な労力がいる。多くの人はそうしたことに気後れして泣き寝入りしてしまうであろう。

 担当医が毅然とした態度を示してくれるとまだ救いがあるが、おそらくは、保険会社の従業員に成り下がった医師には雇い主の企業に反抗する気力はなくなっってしまっているであろう。もっとも恐ろしい事態がこれである。

まる見えの手 12 米国大手医療保険会社が日本で病院経営に乗りだす(2)

2006-10-09 00:38:24 | 時事
民間保険会社が病院の経営に乗りだす

 管理医療システムを効率よく運営するには、医療保険を販売する民間保険会社が直接に病院経営に乗りだせばよい。医師は保険会社の従業員であり、保険会社から給料をもらうのだから、雇い主の保険会社は会社命令として提供すべき医療サービス、そして医師の給料をも決めてしまう。

 医師残酷物語がここから始まる。医者が競争にさらされる。同僚より安いコストで治療できると特別手当がつく。コストばかりかかる医者は減俸処分にする。神風医療が横行することになるだろう。なるべく短い時間にできるだけ数多くの患者を診なければならなくなるからである。

 保険会社と医師とのトラブルも激増するであろう。利益を上げなければならない保険会社の姿勢と、医師の良心をもつ医師との間には、当然、深刻なギャップができる。良心的な医師ほど、雇い主の保険会社に楯突くであろうし、当然、彼は首になるであろう。再就職しようと別の保険会社を探そうにも、経営に文句をいう医師などいらないとしてどの保険会社もそうした医師との雇用契約を渋るようになる。医師会が医師の労働組合になってくれるならまだしも、おそらくは、無理であろう。医師の失業時代が始まり、医師は、誇りを踏みにじられて安価な労働提供者になってしまう可能性が非常に高い。

 安い医療保険を提供できる大手保険会社は、赤字に悩む自治体から公立病院の経営を委託されるようになる可能性もまた高い。病院を売却するなり、経営を委託するなりすれば、病院を保有していた自治体は、本当に財政的に助かる。しかし、その結果は、日本の医療制度の死である。

 同じようなことは、公立大学にもいえる。今後、日本の自治体は、競って自己が運営していた公立大学を手放すことになるだろう。医療と教育の民営化が、「日米投資イニシアティブ」で高々と謳われているのは、そうした事態の到来を米国企業がじっと待っているからである。米国の保険会社は、本国の米国で国民の批判にさらされ、活動が窮屈になってきたので、日本に逃げてこようとしているのである。そして、市場原理を振り回すだけの売国奴が米国保険会社の日本への進出の露払いを「構造改革」として懸命に実施し、米国政府から感謝されているのである。

 民間保険会社が、病院を経営するようになれば、医師や看護師の外部評価がだされるであろう。

 大学の講義で、受講生が講義の善し悪しを評価する制度になったことと、それは似ている。どんなにいい講義、どんなに実力のある学者が懸命に受講生の学問意欲を掻き立てようと努力しても、

無内容な紋切り型の分かりやすい講義を幻灯をまじえて、つまり、学生の目をみて話さなくても、幻灯に映しだされる写真が、強烈なインパクトを与えれば、その講師は学生から高い評価を与えられる。 学生のレベルが低くなればなるほど、そうしたパーフォーマンスにばかり、関心がいき、講義内容の質は問われない。 問われないといっても、一つの出来事には複数の解答があり、その解答の正しさも時と場合によって異なるなどと複眼的なことをいえば、 「馬鹿か」と判定されて、そうした講師の評価は低くなる。学問形成に参加する意識のない学生ほど、講義のもつ学問の香りを敬して遠ざける。学問レベルの高い講師は、失意の思いで大学を去る。学生による教師評価は、こと志に反して、大学の活性化につながらず、大学の知的レベルを大幅に下げる結果になってしまっている。

 病院で患者から医師が評価を受けるようになれば、大学よりももっと悲惨なことになるだろう。技術が低いのに、カリスマとして人々から憧れられる医師がかならずでてくる。そうした大衆人気のある医師を保険会社はマスコミに登場させ、自らが経営する病院にはこんなに患者から高い評価をもらった医師を多数揃えているのです。ですから、皆様、我が社の保険と契約して下さい」ということに必ずなる。

 
外部評価は医師の切磋琢磨を生みだすためでなく、保険会社のシェアを伸ばす手段として多用されるはずである。 こうして、日本全国を包含するだけでなく、世界各地に展開する巨大医療チェーンが成立するはずである。そうした巨大チェーンはことの性質上、管理医療を提供する大手民間保険会社の経営によるものとなるだろう。