消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(447) 韓国併合100年(86) 日本のキリスト教団(9)

2012-10-08 18:03:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(17) グイド・ヘルマン・フリドリン・フルベッキ(フェルベック、1830~98)は、オランダの法学者・神学者、宣教師。オランダ・ザイスト(Zeist)出身。ユトレヒト(Utrecht)で工学を学んだ。日本では発音しやすいようフルベッキと名乗った。一八五九年に長崎に上陸。長崎では洋学校の済美館(せいびかん)の英語教師を勤め、一八六四年に校長となる。一八六六年、長崎に設けられた佐賀藩の致遠館(ちえんかん)で、大隈重信や副島種臣(そえじま・たねおみ)らを育成した。一八六九年、上京して開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となった。その後、太政官顧問を経て、東京一致神学校(明治学院の前身)や学習院の講師となる。一八八六年、明治学院の創設時に理事として関わり、明治学院神学部教授、明治学院理事会議長などを歴任した。一八八七年、明治学院の教授時代にフルベッキは、A Synopsis of all the Japanese Verbs with Explanatory Text and Practical Applicationという日本語の動詞活用の本を横浜の「ケリー社」(Kelly & Walsh)から出版している。

 一八六九年、明治政府の顧問、つまり、「お雇い外国人」となった。大隈重信に渡した文書で、信教の自由をはじめ、諸々の理解のため政府高官が直接欧米を視察するように建白したもので、岩倉使節団の米欧派遣の素案となった。また太政官顧問としてのフルベッキは主に各国の法律の翻訳や説明に当たった。

 一八八七年一二月三一日、『旧約聖書』の日本語訳が完成した。この中の「詩篇」と「イザヤ書」はフルベッキの名訳と言われている(http://shiryokan.meijigakuin.jp/archive/people/verbeck)。

(18) 安中教会は一八七八年、新島襄から洗礼を受けた湯浅治郎はじめ三〇名によって創設された(初代の牧師は海老名弾正)。群馬県では最初のキリスト教会であり、同時に、日本人の手により創立された日本で最初のキリスト教会でもある(http://www8.wind.ne.jp/a-church/profile/index.html)。安中は新島襄の生誕の地。

 安中教会創設者の湯浅治郎は、安中の醤油醸造業有田屋の当主。自由民権運動に参加。新島の没後、同志社の経営・発展に尽力する。また政府支援による日本組合教会の朝鮮伝道については柏木義円・吉野作造等とともに反対した。出版社警醒社の発起人の一人。後妻の初子は徳富兄弟の姉。詩人で聖書学・図書館学の湯浅半月は弟。国際基督教大学初代学長の八郎は子。一九一六年、安中教会に東大生の矢内原忠雄(後、戦後二代目の東大総長、東大出版会第二代会長)が訪れている。矢内原は新島襄、内村鑑三、柏木義円を生んだ「上州は日本に対して誇るに足る。」とその日記に記している(http://d.hatena.ne.jp/ya022978/20110419/1303221342)。


 引用文献


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野崎日記(446) 韓国併合100年(85) 日本のキリスト教団(8)

2012-10-06 17:17:31 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(12) リチャード・マザーは、最初の妻との間で、六人の男子を儲け、うち四人が聖職者になり、いずれもハーバード・カレッジの関係者である。

 長男のサムエル(Samuel, 1626~71)は、オックスフォード大学マグダレン・カレッジ(Magdalen College, Oxford)の卒業生であり、同カレッジ付き牧師(chaplain)であった。ハーバード・カレッジの最初の理事、ダブリンのセント・ニコラス(St Nicholas, Dublin)教会の牧師を歴任した。次男のナザニール(Nathaniel, 1630~97)は、ハーバード・カレッジ卒業後、デボン(Devon)、ロッテルダム(Rotterdam)、兄の跡を継いでダブリン、最後はロンドンの教会で牧師を務めた。三男のエレザール(1637~69)も、ハーバード・カレッジを卒業後、地元の教会牧師になった(http://www.1911encyclopedia.org/Richard_Mather)。

 そして、末の六男のインクリース(Increase, 1639~1723)。この変わった名前は、人々から忘れ去られないようにという父親の願いから付けられたという。やはり、ハーバード・カレッジを卒業した。一六九二~一七〇一年、ハーバード・カレッジ学長(President)を勤めた。彼は、英国の介入と戦う政治家でもあった。一六八六年、英国王・ジェームズ二世(James II)がニューイングランドを英国領(Dominion)にするとの宣言を出した。その方針に従って入植地総督になったのは、ピューリタン嫌いのエドムンド・アンドロス(Edmund Andros)であった。彼の統治は専制的であった。それまでの入植地の基本形であった「地区会議」(Town Meetings)は非合法化され、新入植地統治は、住民の合意を得る必要はないとし、牧師から結婚の儀式を執り行う権利を奪い、会衆派の拠点であった「オールド南部教会」(Old South Dominion)は、国教会の業務を押し付けられた。英国国教会の権利を向上させるべく、ピューリタン組織の弱体化を図った。インクリースは、国王に直訴すべく、一六八八~八九年のロンドン滞在中に「名誉革命」(Glorious Revolution)の成功という状況が幸いし、アンドロスは罷免され、新たな入植地への特許状が出され、議会が復活されマサチューセッツ湾入植地とプリマス入植地は合併した。また、新しい総督(Royal Governor)・ウィリアム・フィプス(William Phips)を同行してインクリースは帰還した。

 インクリースは、セイラムの魔女裁判事件での聴聞委員(oyer)をも勤めた。一六九二年半ば、魔女とされた人々を擁護し、地域住民の集団ヒステリーを諫める声明も出している(http://www2.iath.virginia.edu/salem/people/i_mather.html)。インクリースの息子、コットン・マザー(Cotton Mather, 1663~1728)もニューイングランドの著名人であった。やはり、ハーバード・カレッジを卒業し、政治家として活躍した(http://en.wikipedia.org/wiki/Cotton_Mather)。

(13) ハーバード・カレッジの世俗化を批判して設立したエール・カレッジの気概は、そのモットーにも表されている。ハーバード・カレッジが「真実」というモットーをラテン語で"Veritas"と正門に彫っていたのに対して、エール・カレッジはこれに「光」(Lux)を付け加えて、「光と真実」(Lux et Veritas)を掲げた。設立当初の名称は単に"The Collegiate School"であった。一七一八年に"The Yale College"、一八八七年に"Yale University"に改称された。エールという名称は、創立時に寄附をしたエリフ・エール(Elihu Yale, 1649~1721)にちなむ(http://www.yale.edu/about/history.html)。

(14) プリンストン大学の創設時の名称は「カレッジ・オブ・ニュージャージー」(College of New Jersey)で、この名称のまま一五〇年間続いた。一七五六年にプリンストンに移転、一八九六年に地域名を冠した「プリンストン大学」に改称(http://www.princeton.edu/main/about/history/)。

(15) メソジストとは、一八世紀の英国で国教会の司祭であったジョン・ウェスレー(John Wesley, 1703~1791)よって興されたキリスト教の「信仰覚醒運動」(Christian Revival Movement)の中核的主張である「メソジズム」(Methodism=几帳面に生きること)に生きたキリスト教徒を指す。信徒の集会を基礎とし、規則正しい生活が実践できているかどうかを互いに報告し合う、信仰のレベル別(バンド)ミーティングを重視した。ミッションスクールや病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心であった。当時は教育の機会に恵まれない子どもに一般教育を与える日曜学校や、口語による平易な讃美歌を普及させたのもメソジストの貢献であった。上流階級よりも中下層階級あるいは軍人への普及に力を入れた。信徒を軍隊的に組織した「救世軍」(Salvation Army)、「聖霊」(Holy Spirit)によって魂の清めがあるとする「ホーリネス運動」(Holiness Movement)、「聖霊の言葉」を「異言」(glossolalia)を重視する「ペンテコステ」(Pentecostes)派なども、メソジスト運動を出自としている。「異言」とは、宗派によって定義が違うが、新約聖書のルカやパウロの言葉を手がかりとして、<聖霊によって語らせられる、学んだことのない言葉、自分では何を語っているわからない言葉である。「使徒行伝」第二章の場合は、全世界から集まってきていた人々が、キリストの弟子たちが話していた異言を理解したとある>。「ペンテコステ」の原義は、ギリシャ語の「五〇番目の日)」である。キリスト教では、「聖霊効降誕日」を指す。キリストが十字架に掛けられた後に三日目に復活したとされる復活祭(Easter)から(その日を第一日と)数えて五〇日後に、聖霊が降誕してきた日のこと(http://christianity.about.com/od/devotionals/a/Methodist.htm)。

(16) ウィリアムズは、二一歳の時に、アメリカン・ボードの紹介業務に携わるべく、一八三三年、広東に赴任した。その地で、彼は、広東語と日本語の習得に努めた。一八三七年、日本人の船員を雇って、交易を開くべく日本に向かったが、上陸は許されずに引き返した。しかし、日本に連れて行った船員たちを広東に住まわせ、自己の日本語能力のレベル・アップを図った。広東で英字新聞(Chinese Repository)の発行をしていた。そして、一八五三年、ペリー提督(Commodore Perry)の対日交渉団の一員として、日本に上陸した。一八七七年米国に帰り、エール大学で米国で最初の中国語教授に就任した。一八八一年には「米国聖書協会」(American Bible Society)の会長を引き受けた(http://www.americanbiblehistory.com/samuel_williams.html)。


野崎日記(445) 韓国併合100年(84) 日本のキリスト教団(7)

2012-10-02 22:45:53 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(7) ジョン・ウィンスロップは、ピューリタンの牧師であり、裕福な土地所有者でもあった。マサチューセッツ湾会社の最高経営責任者が、植民地の知事や総督を兼ねていたのである。当然、経営責任者の彼が、植民地マサチューセッツ湾岸州の初代総督に選ばれたのを含め、以後も総督に一二回選出された。一六三〇年、ウィンスロップは新大陸上陸前のアルベラ(Arbela)号上で「キリスト教の慈愛のモデル」("A Model of Christian Charity"と題する説教を行った。その中で、「我々の目的は、神に対しいっそうの奉仕をし、キリストによる恵みと繁栄が与えられ、キリストによる救いを全うするという神との間の盟約に基づいて、神聖なる共同体を建設することである」と彼は述べた。<自分たちは、英国と袂を分かつのではなく、新天地で本国の手本となるような理想的な教会組織を建設しよう>、<腐敗に満ちた英国社会を贖い、改革し、どちらの地においても、よき英国の復興をかなえよう>。<これから築く新しい共同体は>、「世界中の目が注がれる丘の上の町である」(for we must consider that we shall be as a city upon a hill, the eyes of all people are upon us.)。

 ニュー・イングランドはそうした意味である。ただし、気になる個所も演説にある。
 「一〇〇〇人の敵に、一〇名程度の同志で抵抗でき、我々に祈りと栄光を下さる時、ニューイングランドの植民地のような植民地を次々と建設できるようにする時、我々はイスラエルの神とともにあることを知ることになるだろう」(we shall find that the god of Israel is among us, when tens of us shall be able to resist a thousand of our enemies, when he shall make us a prayer and glory, that men shall say of succeeding plantations: the lord makes it like that of New England:)。

 「丘の上の町」とは、新約聖書の「マタイによる福音書」に記されたイエス・キリストの言葉にある。「あなた方は世の光である。丘の上にある町は隠れることができない」(「マタイによる福音書」第五章第一四節(You are the light of the world. A city on a hill cannot be hidden; Matthew 5:14)。「灯火を点して枡(ます)の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。そのようにあなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである」。

 一九六一年一月九日、大統領選挙で勝利したジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy, 1917~63)は、就任前の演説で、一六三〇年のアベリア号のエピソードに触れた。一九八九年一月、ロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911~2004)は、「輝く町」(the shining city)をピルグリムの植民になぞらえて語った。

 そして、二〇一一年一月二五一日、オバマ(Barack Hussein Obama, Jr., 1961~)は、大統領の一般教書演説の中で、「輝ける丘の上の町」の代わりに、「世界の光」“Light to the World”という言葉を用いた(http://ocean-love.seesaa.net/index-2.html)。

(8) 一六九二年一月、一〇〇戸ほどの小さなセイラム村で、一〇~二〇歳の少女数人が、床をのたうちまわり悲鳴を挙げた。村人は、これを魔女のせいにした。少女たちの証言で、犯人とされたのが、黒人の家政婦であった。彼女は、裁判の中で、「他にも悪魔と契約した人間がいる」と「自白」したために、村はパニックに陥った(小山[一九九一]、参照)。

(9) ハーバード大学校門には、「学問を進め、これを子々孫々に不朽に残し、将来教会が無学の牧師に任せられるようなことがあってはならない」(一六四三年の文書)の文章が刻まれている。ジョン・ハーバードは、最初の寄付者であった。一六三六年でのマサチューセッツ湾入植地の代表者会議で、大学(カレッジ)新設のための資金募集が決められた。翌年の三七年に当時の地名、「ニュー・タウン(New Town)に開設することが同じ会議で議決された。三八年にジョン・ハーバードは死去している。彼は遺言で、新設されるカレッジに寄附をした。その翌年の三九年、カレッジは彼にちなんで「ハーバード・カレッジ」(Harvard College)と名付けられた。

 三八年には、「ニュー・タウン」が「ケンブリッジ」(Cambridge)に改称された。英国のケンブリッジ大学から取った名称である。これは、「ハーバード・カレッジ」の初代学長・ヘンリー・ダンスター(Henry Dunster)、そして、ジョン・ハーバード、初代校長(Schoolmaster)・ナサニエル・イートン(Nathaniel Eaton)、初代のマサチューセッツ湾入植地総督・ジョン・ウィンスロップが、ケンブリッジ大学出身であったからである。「カレッジ」でなく、「ユニバーシティ」になったのは、一七八〇年の「マサチューセッツ州憲法」が制定されてからである(http://www.harvard.edu/)。

(10) リチャード・マザーは、国教会の祭式の作法に従わなかったという理由で、一六三三年八~一一月に司祭補佐の職を停止され、さらに、国教会では、「カンタベリー大主教」(Archbishop of Canterbury)の次席の地位にある「ヨーク大司教」(Archbishop of York)であったリチャード・ネイル(Richard Neile、在職、1631~40)の使節団の調査を受け、聖職者としての在職一五年間で一度も白衣(surplice)を着用しなかったとして、一六三四年に再度、停職処分を受けた。彼は、反省をするよりも、「七人の暗黒の悪魔(Seven Bastards)に加えてもらう方がよい」とまで言い切った(http://matherproject.org/node/49)。

(11) 時代や地域によって異なるが、一般的には、会衆派の教会では、説教者としての「牧師」(minister, pastor, preacher)、宣教の純正維持を図る「神学教師」(teacher)、信徒の訓練に携わる長老(elder)、慈善事業に携わる執事(steward, deacon)の四種の奉仕者から成っている(児玉[一九九二]、一四一ページ)。


野崎日記(444) 韓国併合100年(83) 日本のキリスト教団(6)

2012-10-01 22:38:58 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(1) 会衆派教会(congregational church)とは、一六世紀に生まれた信者の直接民主主義で運営される教会組織。会衆とは、人々が集うこと。この派の教会に、契約関係(covenanted)で人々が集う。各教会は世俗的権威自由であり、ただ神の感化によって信仰の規範を定め、実践するということを目標としている。組合教会とは、会衆派教会の日本での名称。日本では、明治四三(一九一〇)年以後、「日本組合教会」として発足した。一九四一年六月二四日、プロテスタントの各派(三三派)と合同して「日本基督教団」(United Church of Christ in Japan」)になった(http://church.ne.jp/koumi_christ/shosai/doctrines.pdf)。

(2) カルヴァンは、北フランスに生まれ、パリ大学などで法学・神学・人文主義などを学ぶ。当時ルターの宗教改革の影響はフランスに及び、フランスでもルター派が広まっていた。彼の福音主義(Evangelicalism)は危険思想として弾圧されていた。福音主義とは、キリストの伝えた福音にのみ救済の根拠があるとし、律法主義や儀礼・制度・伝統などを軽視する立場である。カルヴァンはパリを追放され(一五三三年)、後にスイスの新教都市バーゼルに逃れた(一五三四年)。バーゼルに逃れたカルヴァンは、その地で有名な『キリスト教綱要』(Christianae Religionis Institutio)を著した(一五三六年)。その中でカルヴァンは、<魂の救済は、人間の意志によるのでなく、神によって最初から決められている>との考えか派を示した。これは、「予定説」(predestination)と呼ばれている。ただし、「予定説」といっても宿命的なものではない。<人は信仰によって「自分は救われる」と確信することができる。また救済の確証を得るために、人は禁欲的な生活を営み、職業を神から与えられた天職と考えて勤労に従事すべし>というものであった。『キリスト教綱要』によって一躍有名となったカルヴァンは、ジュネーヴに改革者として迎えられて宗教改革に従事したが(一五三六年)、一時反対派によって追放されてストラスブルクに赴いた(一五三八年)。後に再び請われてジュネーヴに帰り(一五四一年)、以後死ぬまで同市に留まった(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/12-kaikaku2.html)。

(3) 長老派は宗派によって定義が異なるので、簡潔な解説はできないが、上記、注(1)で説明した会衆派のような信者全体の直接民主主義ではなく、各教会内の人望の篤い信者代表が長老と呼ばれ、そうした長老が発言力を高くする教会の統治の仕方を踏襲する派のことを指す(http://www.church.ne.jp/yurinoki/choro.html)。

(4) カートライトは、ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジ(Trinity College, Cambridg)で神学を専攻していた。英国国教会はローマ・カソリック教皇の支配から脱したものの、それは単に教会運営が英国王の支配下に置かれただけで、体制はカソリックそのものであった。カートライトは、英国国教会の監督制を厳しく批判し、教会の国家からの自立を訴えていたために、つねに弾圧にさらされていた( http://enrichmentjournal.ag.org/200501/200501_120_cartwright.cfm)。

(5) ロビンソンは、一五九二年よりケンブリッジ大学のコルプス・クリスティ・カレッジ(Corpus Christi College)で学び、その後は同カレッジで教壇に立った。一二年間の学生・教員生活を経て、ノリッチ教会(Norwich Church)で牧師となるが、国教会の方針に従わなかったため解職された。その後もイングランドにとどまって分離派(英国国教会から分離・独立する)の教義を広めようとしたが、ジェームズ一世(James I)の治世の宗教的抑圧に耐えかねて、オランダへの移住を計画した。一六〇七年の脱出計画は失敗に終わり投獄されたが、翌一六〇八年に再び脱出を試みて、信徒とともにオランダのアムステルダムに渡った。しかし、華美な国際都市アムステルダムは、教団にとって望ましくないと考え、ライデンにその拠点を移した。その後、教団の行き詰まりを感じたロビンソンは、「ヴァージニア・カンパニー」(Virginia Company)の計画に乗って、北米大陸に移住しようとした。この会社は、「プリマス会社」(Plymouth Company)と「ロンドン会社」(London Company)との合弁会社(joint stock company)であり、北米植民地建設を目的として一六〇六年にジェームズ一世に勅許されたものである(http://www.virginiaplaces.org/boundaries/boundaryk.html)。

 ロビンソンは、「プリマス会社」と契約し、米大陸への移民を計画した。当時の船体では全員の信徒を一度で北米入植地へ運ぶことができなかったため、段階的に渡航することになり、高齢であったことや残った信徒をまとめるため、ロビンソンはライデンにとどまった。一六二〇年、まず先発隊が「スピードウェル(Speedwell)号」に乗って、イングランド経由で米大陸へと目指した。しかし、その途中で船が故障したため、イングランドから合流したもう一隻の船であった「メイフラワー(Mayflower)号」に乗り換えることになった。先発隊は多くの苦難を乗り越えて、植民を果たした「ピルグリム・ファーザーズ」(Pilgrim Fathers=巡礼始祖)と賞賛されるようになった。「巡礼始祖」という言葉は、『新約聖書』の「ヘブライ人への手紙」第一一章第一三節の叙述にちなむものである。
 しかし、留意しなければならないのは、ニュー・プリマス(後のニュー・イングランド植民地)を建設したのは、ピューリタンだけでなく、ヴァージニア会社の経営事業に参加すべく、入植者の半分はライデンから乗船した非ピューリタンのオランダ人であったということである(http://www.nd.edu/~rbarger/www7/puritans.html)。

 また、ピューリタンだけに限って言っても、指導者のロビンソンが不在のため、牧師を欠いた状態でその共同体を運営しなくてはならなかった。ロビンソンは、その後、米大陸への渡航を果たせぬまま、一六二五年に病死した(http://www.pilgrimhall.org/psnotenewpilgrimpuritan.htm 、大西[一九九八]、綾部[二〇〇五」。

(6) マサチューセッツという名は、当時の現地のインディアン部族の名で、「大きな丘のある所」の意味を持つ(http://www.holisticoptions.org/)。また、マサチューセッツの植民地開拓は、ピューリタンたちが出資し、イングランド国王に多額の支払いをして、国王から勅許を得て設立された合資会社のマサチューセッツ湾会社が独占権を持っていた。つまり、教会員でなければ、植民地建設の利益を分配されることがなかったのである。一般的には、会社の株主のみが「自由民」であると定義されていた(後述のように、マサチューセッツ湾殖民会社は自由民の資格を緩和した)(http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo11_2.htm)。

 会衆主義ピューリタンの内、国教会からの完全な分離を主張する分離派ピューリタンがプリマス植民地へ、国教会からの分離は主張しないものの教会改革の徹底を主張する非分離派ピューリタンが、マサチューセッツ湾入植地へと移住し、プリマスをはるかに上回る大規模な植民地建設に着手した。移住者の中には、ジョン・コットン(John Cotton,1584-1652)、トーマス・フッカー(Thomas Hooker,1586-1647)、ジョン・ダベンポート(John Davenport,1597-1670)といった当時のイングランド・ピューリタニズムの中心的な指導者たちも含まれていた。牧師達を慕い、時には教区民が一斉に集団移住する例もあった。

 マサチューセッツ湾会社は、画期的な植民地経営の方法を採用した。通常、出資者である株主を総会の構成員とするのが本来の経営方法なのだが、マサチューセッツ湾会社は、この構成員の枠を広げた。成人男子の教会員ならば、株を取得していなくても総会の構成員となることができるとしたのである。こうして、植民地では「自由民」の粋が拡大された。総会は、各タウンに土地を分譲し、その土地は、成人男子の自由民に分配される。各タウンでは、タウン・ミーティングがもたれ、その代表が総会に出席し、植民地全体の政治に参加する。これが、「ニューイングランド・ウェイ」と呼ばれたものである。マサチューセッツでは「教会員」が即「自由民」となるので、教会への入会が、肝要となる。新しく教会員となる者には、教会で公に神の救済の恵みの体験、すなわち、回心体験を語ることが求められ、「契約」を遵守することが誓わされる。

 教会員には、ピューリタン信仰と教義を守り、「聖徒」としての道徳的生活が求められた。ジョン・ウィンスロツプ(John Winthrop,1588-1649)が総督として政治的実権を握った植民地建設初期の二〇年間は、「ニューイングランド・ウェイ」はかなり有効に機能していた(http://www.info.sophia.ac.jp/amecana/Journal/17-5.htm)。


野崎日記(443) 韓国併合100年(82) 日本のキリスト教団(5)

2012-09-29 07:18:08 | 野崎日記(新しい世界秩序)




海老名は豪語した。
時の首相・大隈重信と朝鮮総督・寺内正毅(てらうち・まさき)の依頼によって、渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)が音頭を取って、三菱、三井、古河財閥からの朝鮮布教の募金が実現したと(「日本組合教会第三〇回総会朝鮮伝道現況報告」、『基督教世界』一九一四年一〇月八日付、小川・池[一九八四]、二〇四ページに所収)。



 一九一六年に寺内を継いだ長谷川好道(はせがわ・よしみち)も、寺内と同じく、組合教会に資金援助をしたことを次期総督・斎藤実(さいとう・まこと)への引き継ぎ文書の中で告げている(姜[一九六六]、五〇〇ページ)。



 一九一八年末には、朝鮮における組合教会数一四九、牧師数八六人、信者数一万三〇〇〇人強、経費は二万五〇〇〇円強であった。同じ時期、本土の組合教会では、教会数一一三、信者数二万人程度、経費も一万六〇〇〇円程度であったことからすれば、組合教会は、本土よりも朝鮮で勢力を伸ばしていたことが分かる(松尾[一九六九]の表、参照)。

 こうした組合教会の隆盛は、総督府などによる資金援助なしにはあり得なかったであろう。
 組合教会全体が韓国併合に協力的であったわけではもちろんない。柏木義円(かしわぎ・ぎえん)、吉野作造など、朝鮮総督府や海老名弾正、渡瀬常吉を鋭く批判したクリスチャンもいた。それでも、海老名を首領とする組合教会の執行部は、総督府による朝鮮支配を支持していた。

 渡瀬は、三・一独立運動を、天道教徒と外国人キリスト教宣教師によって扇動された暴動であると言ってはばからなかった(渡瀬常吉、「朝鮮騒擾事件の真相と其の善後策」、『新人』一九一九年五月号、姜[一九六六]、五三七~四一ページに所収)。
 しかし、三・一独立運動は、日本の組合教会を朝鮮布教から撤退させるという効果を持った。三・一独立運動が勃発するまで、組合教会の朝鮮人信者は一万四〇〇〇人強いた。しかし、一九二一年、組合教会は朝鮮伝道部を廃止し、布教業務を新たに設立した朝鮮会衆派基督教会に信者を移管して、現地人に布教業務を委ねたが、移管に応じた朝鮮人は三〇〇〇人を切ってしまった。一挙に五分の一にまで激減してしまったのである(川瀬[二〇〇九]、九六ページ)。


 おわりに

 


 柏木義円の反戦論を紹介しておきたい。柏木義円は、現在の新潟県長岡市与板町にある浄土真宗大谷派に属する西光寺の住職の子として生まれた。新潟師範を経て東京師範を卒業した。群馬県碓氷郡土塩小学校教員時代にキリスト教に出会い、一八八〇年、同志社英学校に入学した。在学中、新島襄に「同志社の後事を託す」とまで言わしめたという。その後群馬県細野東小学校長を勤め、一八九七年、安中教会(18)の牧師となった。地味で寡黙な人であったらしい。一八九八年から三八年間続けた『「上毛(じょうもう)教界月報』(全四九五号)では、平和主義、人格尊重、思想言論の自由を掲げ、軍国主義的風潮の中で、否応なく戦争に突入していく世の中に警鐘を鳴らし、幾多の弾圧にも屈することなく戦争の「不当性」を現状分析に基づいて粘り強く訴えた人である(http://ojima3.com/yoita/person06.html)。

 柏木は、朝鮮における日本人の狼藉ぶりを非難し、<このままでは、将来大変な事態が起ころう>と、すでに一九〇四年に書いている。<気の毒なのは韓人である。日本民族の膨張のための伝道ならばしない方がよい>とまで言い切った(柏木、「朝鮮伝道について」、『基督教世界』一九〇四年八月一一日付、姜徳相編[一九六六]、一四一~四二ページに所収)。

 一九一四年には、正面から渡瀬常吉批判を展開している。要約する。<組合教会が日本国民の代表であると言うのは、あまりにも牽強付会なことである。日本人は、そもそも鮮人の指導者たる資格はない。鮮人をキリスト教化するよりも、日本人を教化する方が先決であろう。キリストの名を借りて、鮮人を日本国民に同化させるという政策は、彼らを反発させ、日本から離反させるだけである。渡瀬常吉が横暴な総督府を讃えるような文章を書いているが、そうしたことは、御用宗教に堕したという非難を受けるだろう。それはキリストの名を貶めるだけである>(柏木、「渡瀬氏の『朝鮮教化の急務』を読む」、『上毛教界月報』一九一四年四月一五日号、姜徳相編[一九六六]、三〇一~〇二ページに所収)。

 三・一独立運動を「朝鮮人の韓国独立という妄想」であるとうそぶく渡瀬を柏木は非難した<日本人が愛国の運動をすれば尊くて、鮮人が同じことをすれば愚かなことであると言うのは、あまりにも得手勝手なことである>と(柏木、「渡瀬常吉君に問ふ」、『上毛教界月報』一九一九年一一月一五日号、姜徳相編[一九六六]、三一〇ページに所収)。

 一九三一年、柏木は組合教会と総督府との癒着について書いている。要約する。<寺内朝鮮総督は、朝鮮のキリスト教会がほとんど西洋人の宣教師によって運営されていることを目の上のたんこぶと意識したのか、その向こうを張る意味で日本人の朝鮮伝道を保護しようとしたのであろう。長老派の日本基督教会の植村正久(まさひさ)に依頼したが断られ、組合教会の海老名氏にお鉢が回ってきた。渡瀬常吉がそれを担当することになり、総督府の機密費から匿名寄附として年額六〇〇〇円程度が提供された。さらに、総督府の肝いりで五〇万円の朝鮮教化資金が募集された。しかし、その寺内総督が亡くなり、長谷川総督も去り、公正な人である斎藤総督がその任に就くや、あたかも木から落とされた猿のように、組合教会は突き放されてしまった。組合教会は、朝鮮伝道部を廃止して、朝鮮教会に後事を託したが、その朝鮮教会すら放棄せざるを得ないであろう。朝鮮における一〇〇余りの組合教会、二万人と称した組合教会信者は、雲散霧消してしまったからである>(柏木、「組合教会時弊論」、『上毛教界月報』一九三一年五月二〇日号、富坂キリスト教センター編[一九九五]、九一ページに所収)。
 <公明なる精神をもって、幾多の猜疑と誹謗を受けても、忍び難きを忍びて奮闘努力をしてきた>(組合教会、「三七回総会を迎ふ(続)─度重なる二三の案件」、『基督教世界』一九二一年九月二二日付、姜徳相編[一九六六]、二三八~三九ページに所収)が、結局は朝鮮布教から撤退するしかなかった。

 こうして、組合教会も、朝鮮布教面では、神道、仏教と同じ運命を辿ったのである。


野崎日記(442) 韓国併合100年(81) 日本のキリスト教団(4)

2012-09-26 22:06:24 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 日本組合教会の朝鮮布教

 米国連邦政府は、米国の対外膨張にこうしたキリスト教の海外伝導熱を積極的に利用していた(塩野[二〇〇五]、二六~二七ページ)。



 例えば、一八八五年に『わが祖国』(Our Country)(Strong[1885])という、三〇年間で一七五万部を販売するというベストセラーを出したジョサイア・ストロング(Josiah Strong, 1847~1916)は、多くの崇拝者を持つ会衆派のスター的牧師であったが、その説教は、米国の膨張を神の摂理であるという内容のものであった。新大陸米国こそが、「出エジプト記」で言及されている「約束の地」であり、米国に移住した人たちは、「選ばれた民」である。米国が打ち出す市民的自由とキリスト教を世界に普及することが米国の義務であると主張したのである(森[一九九〇]、一七~三五ページ)。そうした、米国市民の義務を遂行すべく、「アメリカン・ボード」は、できるかぎり宗派の壁を越えることを目標にしていた(塩野[二〇〇五]、四八ページ)。



 アメリカン・ボードのメンバーとして、日本への布教を試みた人に、ペリー提督の通訳を務めたサムエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 1812~84)がいる(16)。 

 一八五九年、徳川幕府は、神奈川(横浜)、長崎、函館、新潟、兵庫の五港を開港するや否や、米国
からプロテスタントの宣教師や医師が来日した。英国国教会系の「米国聖公会」(Episcopal Church in the United States of America)からは、ジョン・リギンズ(John Riggins)とチャニング・ムーア・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)、「米国長老派教会」からは、ジェームズ・ヘボン(James Curtis Hepburn)、「米国オランダ改革派教会」(Dutch Reformed Church in America)からは、サムエル・ブラウン(Samuel Robbins Brown)、 デュアン・シモンズ(Duane B. Simmons)、グイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)(17)が派遣されてきた。

 アメリカン・ボードは、一八六九年、ピッツバーグ(Pittsburgh)で開かれた第六〇回総会で、日本への宣教師派遣が決議され、ただちに、ダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)が派遣された。彼は、ヘボンとともに、聖書の和訳に勤め、各地に教会を設立する運動を組織した。これは、留学中の新島襄が、一八六八年の夏に、アメリカン・ボード幹事のナタニエル・ジョージ・クラーク(Nathaniel George Clark)の家に宿泊した時、日本伝道を急ぐべきだと進言したことが効を奏したものと思われる(竹中[一九六八]、一一~一三ページ)。



 そして、一八七一年、アメリカン・ボードの宣教師、ジェローム・ディーン・デイヴィス(Jerome Dean Davis)が派遣されて、新島襄の同志社創立に協力した(http://www8.wind.ne.jp/a-church/niijima/index.html)。

 一八七二年には、日本最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」(後の日本基督教会横浜海岸教会)が横浜に設立された。この教会の受洗者たちが、いわゆる「横浜バンド」と言われている日本のプロテスタントに大きな影響を与えた人たちである(http://www15.plala.or.jp/kumanaza/yokohama.html)。



 新島襄(Joseph Hardy Neesima)は、一八七四年にアンドーバー神学校を卒業し、アメリカン・ボードの日本布教担当宣教師に任命され、同年一〇月の同会の第六五回大会で、日本でキリスト教の大学を建設することの必要性を訴え、五〇〇〇ドルの寄付を集め、その年の一一月に帰国した(デイヴィス[一九七七]、四七ページ)。

 同じ一八七四年、アメリカン・ボードは、同会として初めて、日本に会衆派の教会を設立した。「摂津第一基督公会」(後の日本基督教団神戸教会)と「梅本町公会」(後の日本基督教団大阪教会)がそれである(http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/およびhttp://www.osaka-church.net/)。

 新島襄は、一八七五年、京都府顧問で、後に自身の岳父になる山本覚馬の援助を受けて、山本の私有地に同志社英学校を創立した。同年、アメリカン・ボードの宣教師たちによって、私塾・「神戸ホーム」(後の神戸女学院)が設立された。以後、日本の会衆派牧師によって、会衆派教会が各地で設立された。「西京第一教会」(後の同志社教会)、」西京第二教会」(京都教会)、「西京第三教会」(平安教会)、「浪花公会」(日本基督教団浪花教会)、「安中(あんなか)教会」(注(18)で説明、日本基督教団安中教会)等々である(川上純平「日本の会衆派教会(組合教会)の歴史(1)第三章、http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2008a3.htm)。

 アメリカン・ボードに所属する牧師たちは、次々とミッション・スクールを建設した。一八七六年には私塾の女性だけの「京都ホーム」(後の同志社女子大学)、一八七七年には「梅花(ばいか)女学校」(後の梅花学園)、一八八〇年に女性伝道者養成を目指す「神戸女子伝道学校」(後の聖和(せいわ)大学、現在、関西(かんせい)学院大学と合併)、一八八六年には、「宮城英学校」(後の東華(とうか)学園)、「前橋英和女学校」、岡山に「山陽英和女学校」(後の山陽学園)、「松山女学校」(後の松山東雲(しののめ)学園)が設立された。一八八九年に「頌栄(しょうえい)保母保育所」、「頌栄幼稚園」が神戸に設立された(川上、同上(2)、http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2009i.htm)。

 一八八六年、新島襄が中心となって、会衆派教会は、「日本組合教会」(通称、組合教会)を結成した。拠点は「同志社教会」が担った。同志社教会は、その年に現在の同志社大学構内に移転した西京第二公会が名称変更したものである(http://www012.upp.so-net.ne.jp/doshi-ch/intro.html)。一九四一年には「日本基督教団」結成に参加し、合同した(http://www.uccj.or.jp/history.html)。組合教会で活躍したのが、海老名弾正(えびな・だんじょう、一八五六~一九三七年)であった。この海老名が、組合教会の朝鮮伝道を推し進める中心人物であった。海老名は、一九二〇年~二八年、同志社総長を勤めた。



 海老名は、朝鮮を日本に合併させるべきだという考えの持ち主であった。朝鮮総督府は、最初は、長老派の日本基督教会に朝鮮布教を依頼したが、米国の長老派教会がすでに伝道を行っていたので断られ、組合教会の海老名に依頼し直し、了承され、海老名の直弟子である渡瀬常吉(わたせ・つねよし、一八六七~一九四四年)がその任に当たることになった。韓国併合の二か月後の一九一〇年一〇月に渡瀬が牧師を務めていた「神戸教会」で、日本組合教会の第二六回定期総会で、朝鮮人への布教が決議され、渡瀬が主任に推薦された。その決議文を要約する。

 <いまや、日本の国運は大発展している。国内外でキリストの福音を伝道し、神国建設の大業に貢献すべきである。新たに加えられた朝鮮同胞の教化を行うことが、キリストを信じる日本国民の大きな責任である>(『基督教世界』一九一〇年一〇月一三日付、松尾[一九六八]、七ページより引用)。
 渡瀬は、そに著書において、<朝鮮人を日本国民化することが大切で、この責務は組合教会だけでなく、日本人全体が担うべきものである>と訴えた(渡瀬[一九一三]、一〇~一一ページ)。


野崎日記(441) 韓国併合100年(80) 日本のキリスト教団(3)

2012-09-24 21:19:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 二 米国における海外布教組織の形成

 

 一六三六年に、牧師と入植地指導者を養成するためにハーバード・カレッジ(
Harvard College)が創設された。これは、会衆派教会牧師のジョン・ハーバード(John Harvard, 1607~1638)の名にちなむ(9)。




 一六三五年、英国国教会から聖職者としての権利停止処分を受けていた(10)リチャード・マザー(Richard Mather, 1596~1669)が、嵐に遭うという困難な航海の末、ボストンに辿り着いた。すでに説教能力において令名を馳せていたリチャード・マザーは、プリマス、ドーチェスター(Dorchester)、ロクスベリー(Roxbury)といった入植地の政治指導者から現地で宗教的指導者になるように招請されたが、結局はドーチェスターに入った。しかし、ここの教会は、信者の多くがコネチカットのウィンザー(Windsor)に移住してしまっていたので、事実上廃屋になっていた。そこで、彼は、現地の会衆派クリスチャンたちの協力を得て、ドーチェスター教会(会衆派教会)を再興し、自らは、「教師」(teacher)の席についた(11)。一六六九年に死ぬまで、彼はこの職に留まった。

 彼は、ニューイングランドの会衆派クリスチャンのリーダーとなり、一六四八年には、信仰において、長老派との妥協を図りつつ、教会運営方法からは長老主義は採らないとした「ケンブリッジ綱領」(Cambridge Platform)を採択させた。ただし、彼の起草案では、「半途契約」(Half-way Covenant)が強く打ち出されていたのだが、これは外された。これは、悔悛、信仰告白、そして洗礼といった教会の正式メンバーになるための一連の儀式や決まりを踏まなくても、教会の正式のメンバーの子供であれば、幼児洗礼を受ける簡便な儀式だけによって、正式の教会メンバーの資格を持つようにするという措置である。

 これは、信仰心を持たない入移民が激増し、それまでの厳格な生き方を強制する教会のやり方では、教会員の数を維持することができなくなったことの教会側の妥協の産物であった。そして、この「半途契約」は、リチャード・マザーの強い意志によって、一六五七年のボストンの牧師会議によって採用された。ちなみに、彼の息子たちは、いずれもハーバードカレッジ関係者で、エリートであった(12)。


 一七世紀末、教会員になる資格条件を緩和する動きは、ニューイングランドでますます活発になり、そうしたことを標榜したブラトルストリート教会(Brattle Street Church)が一六九九年に設立された。設立者は、トーマス・ブラトル(Thomas Brattle, 1658~1713)である。やはり、ハーバード・カレッジ卒で、ボストンの富裕な商人であった。同カレッジの財務委員でもあった(http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Brattle)。初代牧師として招聘されたのが、ベンジャミン・コールマン(Colman (1673~1747)で、彼の下で、「半途契約」が一般化し、この教会がボストン会衆派の中心になったのである(http://www.britannica.com/EBchecked/topic/77982/Brattle-Street-Church)。

 しかし、同じ会衆派であっても、厳格なカルヴァン主義者からすれば、ハーバード・カレッジ関係者たちが推し進める「半途契約」は、教会の堕落以外の何ものでもなかった。そこで、より厳格な会衆派の樹立を目指して、コネチカットに創設されたのが、牧師養成学校、エール・カレッジ(Yale College)である(13)。教師連は、ハーバード・カレッジの卒業生たちであった(曽根[一九九一]、九三~九四ページ)。

 米国の長老派の活動は、一七〇六年のフィラデルフィア長老派会議の開設に始まる(http://opc.org/nh.html?article_id=51)。米国の長老派教会の多くは、ハーバード・カレッジ、エール・カレッジの卒業生たちによって設立されたものである(増井[二〇〇六]、二一〇ページ)。一七四六年、長老派によって創設されたのが、プリンストン大学(Princeton University)の前身である(14)。

 一八世紀に入って、英国で急速に伸張していた「メソジスト」(Methodist)派も米国の独立戦争前後に米国にも拡大した(15)。厳格な生活スタイル(メソド=Method)を守ることから「厳格な生活を行う几帳面な人たち」という意味でメソジスト(Methodist)と呼ばれる。この派は、北米のコロニーでは、ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield,  1714~1770)によって広められた。一七四二年にカンバスラング(Cambuslang)の大野外集会の成功によって、一挙にメソディスト派は勢力を拡大したと言われている。この集会は「復興会合」(revival meeting)と呼ばれた。フィラデルフィアで開かれたホイットフィールドの集会には、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706~1790)が通い、ホイットフィールドの説教の力強さに感銘を受けたという(http://www.christianitytoday.com/ch/131christians/evangelistsandapologists/whitefield.html)。

 米国の独立戦争時、英国国教会から除名されたメソジスト(Methodist)派は、一七八四年、「バルチモア・メソジスト監督教会」(Baltimore Methodist Episcopal Church)を設立した。同協会は、以後、米国のメソジスト派の中心となっている。「監督教会」という名称を冠しているように、これは英国国教会から継承した教会の統治形態で、長老派や会衆派と異なり、教会の聖職者の中に、教会を監督する立場の人がいて、彼が教会や教区を監督統治するというシステムである。

 米国には、主流の教会が信者を増やそうとして世俗化の度合いを顕著にすると、すぐさま、より厳格な牧師養成機関(カレッジ)や神学校が新しく設立されるという宗教的傾向がある。一八〇七年に創設されたアンドーバー神学校(Andover Theological Seminary)は、そうした厳格な牧師養成機関の中でもとりわけ目立った存在であった。同志社大学の創設者・新島襄(にいじま・じょう)がこの学校を卒業したことでも著名な神学校である。大学院を持つ神学校としては、米国最古のものである。設立者たちは、世俗化の度合いを強めていだけでなく、イエス・キリストの神性を否定し、イエスを偉大な伝道師であるとするユニテリアン主義(Unitarianism)が幅をきかしていたハーバード・カレッジから逃げ出して、大学院の神学校を設立したのである(http://www.andovertowntwinningassociation.hampshire.org.uk/index_files/andover.htm)。

 この大学院の神学者たちが、一八〇三年に設立されていた「マサチューセッツ会衆派教会全体協議会」(General Association of Congressional Churches of Massachusetts)を動かして、米国最初の海外伝道団体「アメリカ海外伝道協会理事会」(American Board of Commissioners for Foreign Missions、以下、アメリカン・ボードと略称する)。

 

 設立に貢献したのは、コネチカットの会衆派教会牧師・サムエル・ジョン・ミルズ・ジュニア(Samuel John Mills Jr, 1783~1818) であった。彼は、ウィリアム・カレッジ(William College)卒業後、一八一〇年、アンドーバー神学校に進学し、ただちにアメリカン・ボード設立運動を開始し、当時、エール大学学長・ティモシー・ドワイト(Timothy Dwight,1752~1817)の協力を得て、一八一二年に設立が認可された
(http://archives.williams.edu/williamshistory/biographies/mills-samuel-j.php、http://timothy-dwight-iv.co.tv/)。ミルズは、ウィリアム・カレッジ在学中にインド伝道を決意していたとされている。そして、アンドーバー神学校が海外伝道を志す神学生たちの訓練の場となっていた(小笠原[一九八七]、一八三ページ)。

 

 一八一九年には、メソジスト監督教会派の牧師たちが、「メソジスト監督教会伝道協会」(Methodist Episcopal Church Missionary Society)を、一八二〇年には、プロテスタント監督教会派が、「プロテスタント監督伝道協会」(Protestant Episcopal Missionary Society)を、一八三三年には長老派教会が、「海外伝道長老派理事会」(Presbyterian Board of Foreign Missions)を、相次いで米国に設立し、米国のプロテスタントの海外伝道熱が一挙に高まった(http://www.probertencyclopaedia.com/cgi-bin/res.pl?keyword=William+Carey&offset=0)。

 


野崎日記(440) 韓国併合100年(79) 日本のキリスト教団(2)

2012-08-30 22:34:46 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一 組合教会の源流=ピューリタン
 

 日本のキリスト教各派で朝鮮布教にもっとも積極的であった会衆派教会(組合教会)(1)の源流はピューリタン(puritan=清教徒)である。

   ピューリタンは、英国国教会(Church of England、Anglican Church)の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント、カルヴァン(Jean Calvin、1509~64)(2)派の流れを汲むクリスチャンたちである。英国の市民革命の大きな担い手であった。"puritann"という言葉は、「清潔」、「潔白」などを表す"purity"に由来する。もともと蔑称的に使われていたが、自らもピューリタンと称するようになった。一六、七世紀には、英国教会の中にカカルヴァンの影響を受けた改革派が勢力を持つようになったていた。

 ピューリタンと一口に言っても、それは、けっして一様な存在ではなかった。英国国教会をその内部から改革すべく、国教会からの分離独立を拒否したグループが非分離派(non-separatist)ピューリタン、分離・独立を強く主張したグループが分離派(separatist)ピューリタンと呼ばれた。 非分離派で大きな影響力を発揮していたのは、長老派(Presbyterian)(3)の指導者、トーマス・カートライト(Thomas Cartwright、1535~1603)(4)であった。

 分離派の中心人物は、ロバート・ブラウン(Robert Browne, 1550~1633)であった。ブラウンは、ケンブリッジ大学でカートライトの影響を強く受けていた。後には、ブラウンはカートライトから距離を置くようになり、分離派としての信念を強く持つようになった。ちなみに、当時のケンブリッジはピューリタンに傾斜しており、オックスフォード大学は国教会に傾斜していたという(http://www.geocities.jp/kgjhaat/page/page_135.html)。ブラウンは、教会改革は王権に頼らず、教会自身の手によって実現されるべきで、教会は、神を信じて集った信者=会衆の自治を基本として運営されるべきだと説いた。一五八一年、ブラウンは、故郷のノーリッチ(Norwich)に分離派の教会を建て、分離派・会衆派としての説教を始めたが、国教会の許可なしに説教を行ったとして投獄された。そして、一五九三年には、ブラウンの協力者であったヘンリー・バロウ(Henry Barrowe, 1550?~1593)とジョン・グリーンウッド(John Greenwood, 1554~1593)が、国教会に刃向かったとして処刑された。彼らを慕う信者たちは、信仰の自由を求めて、アムステルダムに逃れた(http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Pilgrim_Fathers)。

 彼らの志を継いだのが、ジョン・ロビンソン(John Robinson, 1575~1625(5)である。彼は、イングランドの会衆派教会牧師、初期における分離派の中心人物であった。彼は、オランダで巡礼しながらヨーロッパ内外に布教をするという「巡礼始祖」(pilgrim fathers)になるという決意を固めた。

 信仰の自由を求めて新世界に脱出したいというピューリタンたちの意志の強さは、現在のほとんどの日本人たちの目からすれば、それは奇跡としか表現できないものである。

 一六二〇年には、分離派のピルグリム・ファーザーズの一〇二名がプリマス(Plymouth)に上陸した。一六二九年には、ジョン・エンディコット(John Endicott, 1601?~1664?)ら分離派のピューリタンが、セイラム(Salem)に三五〇名ほどで入植した。

 その後、陸続と会衆派の教会がニューイングランドに建てられ、「神の栄光と教会の福祉のため」、聖書に基づく国家建設が会衆派教会によって目指された(増井[二〇〇六]、六六~六七ページ)。一九三〇年には、ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop, 1588~1649)が、その前年に裕福なピューリタンたちの出資によって、「マサチューセッツ湾会社」(Massachusetts Bay Company)(6)の勅許を取得した。彼は、やはりセイラムに一〇〇〇人規模の移住者を伴って入植した(7)。

 一六四三年、プリマス、マサチュウセッツ、コネチカット(Connecticut)、ニューヘイブン(New Haven)の四つの入植地(コロニー)がボストンで「ニューイングランド連合」(New England Confederation)を結んだ。この時点の四つの地域の人口は二万人から二万五〇〇〇人であったと推定されている。

 しかし、初期の米国の入植地には、カルヴァンがジュネーブで行ったものと同じ性質を持つ神権政治(theocracy)が支配した。ボストン教会の牧師で、マサチューセッツの神権政治の指導者であったジョン・コットン(John Cotton, 1584~1652)の手紙には、<民主主義がよいものであるとは思えず、教会はもとより、国家においても神権政治が最適である>とのくだりがある(Cotton[1636], pp. 209-10)。

 ウィンスロップは、当時のコネチカット入植地の指導者、トマス・フッカー(Thomas Hooker, 1586~1647)宛に、<大衆には、強い指導力を持つ教会の指導が必要である>ことを力説した(Winthrop[1638], p. 290)。要約する。

<社会の最良の部分は少数であり、純粋なものはさらに希有です。恩恵を与えるにせよ、裁判で罰するにせよ、公民の団体に委ねることは非常に危険です>と言い切った。
 また、<夫は、妻にとっての「軛(くびき)」ではなく、妻に自由を与えるものである。「自由は、権威に対する従属の下で保たれ発揮できるものである」>との内容の発現をも裁判官に対して出している(Winthrop[1645], pp. 205~07)。
 ニューイングランドの教会は総じて会衆主義のものであった。

 「これらニューイングランド入植地に共通な特色は始めからピューリタン的な立国の精神に燃え、全生活にその情熱がみなぎっていたということである」(田村[一九六六]、一〇四ページ)。

 入植地初期には、カルヴァン的厳格な宗教的信念が入植者の多くに浸透していたことは確かである。例えば、リチャード・トーニー(Richard Tawney)は記述していた。

 「英語国民の社会のなかで、カルヴァン主義的教会国家の社会規律がもっとも極端におこなわれたのは、清教徒がニューイングランドにうちたてた神権政治のもとにおいてであった」(Tawney[1954], p. 135、邦訳、トーニー[一九五六]上巻、二〇七ページ)。

 急いで付け加えなければならない。純粋の神権政治、世俗を拒否するピューリタン的信仰もあくまでも、ほんの初期の時期のことにすぎなかった点である。この姿勢は、宣教師に受け継がれたが、市井の人間は、結局は信仰を建前のものだけに祭り上げ、原住民の虐殺を意に介しなかったということが事実であった。

 田村光三が指摘したように、「カルヴァンに発し、イギリスの風土と歴史的諸条件によって鍛えられ、補強された革新的ピューリタニズムのエトスが、何らの屈折、もしくは後退なくして、そのまゝアメリカの社会に引きつがれ、ウェーバーの設定したシェーマに一直線につながるものであろうか」(田村[一九六六]、一〇二~〇三ページ)という見方の方が自然であろう。

 田村は、植民当初のマサチューセッツの指導者たちの精神こそが、ピューリタニズムの一側面を結晶化させているとして以下のように説明している。至言である。

 「絶対正義なる神の予定の下に、自分ははたして救いに予定されているや否や、これがピューリタンの最大関心事であった。絶対者なる神と孤独なる自己との垂直的な対決は、神のみに対する真摯なる畏怖と自己の罪に対する限りない嫌悪と恐怖を自覚せしめ、<救いのたしかさ>に対する一切の疑惑をサタンの仕業として峻厳に拒否しつゞけることによって、自ら神に選ばれたものであることを頑強に確信するという構造を、この精神はもつ」(田村[一九六六]、一〇九ページ)。

 こうして、ニューイングランドには、「選ばれた人々」というエリート意識が指導者たちの間に定着したのである(田村[一九六六]、一一七~一八ページ)。
 しかし、宗教が厳格であればあるほど、そうした宗教がオカルト的なものに転化してきたことは史実の示す通りである。宗教の指導者が盲信しているものを信者に強制する時、宗教は非人間的にして残酷な暴力として信者に襲いかかる(丸山[一九六四]、四〇三~〇四ページ)。

 「殊にマサチューセッツ植民地においては、秩序に反するものを容赦なく罰し処刑した」、「彼らは自己以外の階級と集団に属する人々を排斥し」た(田村[一一四ページ)。

 そして、ついに、ジュネーブのカルヴァンが冒してしまった忌まわしい同じ悪しき軌跡、「魔女狩り」が勃発した。ニューイングランド・マサチューセッツ州セイラム村で一六九二年三月一日に魔女裁判が始まり、二〇〇名近い村人が魔女として告発され、一九名が処刑、一名が拷問中に圧死、五名が獄死した(8)。

 こうした忌まわしい事件を経験しても、会衆派の教会は着々と米国社会で地歩を築いた。

 


野崎日記(439) 韓国併合100年(78) 日本のキリスト教団(1)

2012-08-28 11:30:57 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 韓国併合と日本のキリスト教団
 

 はじめに


 いずれの組織にも、意見の相違がある。組織が大きければ大きいほど、組織内での意見は多様に分岐する。それゆえ、組織の機関誌がある主張を掲載したからと言って、その組織全体が掲載された主張によって支配されていたと見なすことは危険である。しかし、それでも、組織の指導者たちが、権力に媚びた時代はあったという事実に目を背けてはならないだろう。自らを権力による弾圧の受難者であったと位置付けることが一般的になったが、実際には、必ずしもそうとは言い切れないのである。いずれの組織であれ、辛い過去の事実は直視されなければならない。

 一八九〇年三月一四日(第一号)から翌年九一年二月二七日(第五一号)まで続いた『福音週報』という日本基督教会の機関誌があった(植村[一七九七]、http://www.library.musashino.tokyo.jp/aizo/aizopage2-a.htm)。この機関誌は、一八九一年三月二〇日号から『福音新報』に改称されて、一九四二年九月二四日まで続いた(http://sinbun.ndl.go.jp/cgi-bin/outeturan/E_N_id_hyo.cgi?ID=015090)。

 この『福音週報』第四二号(一八九〇年一二月二六日付)に次のような文が掲載された。要約する。

 <いま、まさに殖民の時代が開始されようとしている。この時にキリスト教徒にはなすべきことがある。これまでと同じように、国内布教でよしとしている時ではない。海外の殖民にキリスト教の霊魂を与えるべく海外布教すべきである。仏教はすでにそうした事業を開始している。西洋の宣教師も同じく海外に乗り出している。そうしたことを傍観すべきではない。日本のキリスト教も、日本人の海外移住者の霊魂を慰めるべきである。海外に移住する日本人はとくに優等な人たちだからである>(T・K「殖民と基督教」、『福音週報』福音週報社、小川・池[一九八四]、一六ページ所収)。

 その二年後の一八九二年一〇月二一日付の『福音新報』(第八四号)には、苦学生の海外移住を支援する「日本力行会」の創設者であった島貫兵太夫(しまぬき・ひょうだゆう)の露骨な朝鮮布教論が掲載された。これも要約する。

 <日本は東洋の盟主である。宗教・政治・教育・技芸などの百般において、日本は東洋における冠たる位置にある。我々は、東洋諸国を導く責任がある。私は、朝鮮に渡っていろいろなことを見聞してきた。その結果、東洋に伝道することが日本の天職であると確信するに至った。朝鮮を救うのに最適な国は日本をおいてはない>(「往て朝鮮に伝道せよ」、『福音新報』福音新報社、川瀬[二〇〇九]、六〇ページより転載)。

 島貫は続ける。<日本は、キリスト教の伝来によって大きく啓発された。日本はこの恩恵を朝鮮人に伝えるべきである>、<韓国人でも下等な階級は、日本人を加藤清正や小西行長のような恐ろしい人間と見なしている。しかし、少しでも教育のある韓国人は、日本人を支那人よりも進歩した人間であるとの認識を持っていて、日本人の真似をしている>(川瀬、同、六一ページより転載)。

 この二つの記事は、日清戦争前のものであった。すでにこの時点で、『日本新報』の機関誌の編集者たちは、日本の朝鮮支配の予感を持っていたのである。
 そして、日本は日清戦争で勝利した。その時点での『福音新報』には、天を仰ぎたくなる記事が掲載された。要約する。

 <戦争が破壊的なものであることは否定できない。しかし、戦争は、現実には文明の使徒である。文明国である日本は、野蛮な支那に打ち勝った。これぞ、日本が文明の使徒の役割を果たしたことである。戦争は、文明国が野蛮国に与える鞭である>(川瀬、同、六二ページから転載)。以下、国家の対外膨張と自らの布教の軌跡を一致させてるという性向をプロテスタント各派は、無意識にせよ持っていたことを示す。


野崎日記(438) 韓国併合100年(77) 廃仏毀釈(11)

2012-08-10 12:24:00 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 引用文献

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