消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(443) 韓国併合100年(82) 日本のキリスト教団(5)

2012-09-29 07:18:08 | 野崎日記(新しい世界秩序)




海老名は豪語した。
時の首相・大隈重信と朝鮮総督・寺内正毅(てらうち・まさき)の依頼によって、渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)が音頭を取って、三菱、三井、古河財閥からの朝鮮布教の募金が実現したと(「日本組合教会第三〇回総会朝鮮伝道現況報告」、『基督教世界』一九一四年一〇月八日付、小川・池[一九八四]、二〇四ページに所収)。



 一九一六年に寺内を継いだ長谷川好道(はせがわ・よしみち)も、寺内と同じく、組合教会に資金援助をしたことを次期総督・斎藤実(さいとう・まこと)への引き継ぎ文書の中で告げている(姜[一九六六]、五〇〇ページ)。



 一九一八年末には、朝鮮における組合教会数一四九、牧師数八六人、信者数一万三〇〇〇人強、経費は二万五〇〇〇円強であった。同じ時期、本土の組合教会では、教会数一一三、信者数二万人程度、経費も一万六〇〇〇円程度であったことからすれば、組合教会は、本土よりも朝鮮で勢力を伸ばしていたことが分かる(松尾[一九六九]の表、参照)。

 こうした組合教会の隆盛は、総督府などによる資金援助なしにはあり得なかったであろう。
 組合教会全体が韓国併合に協力的であったわけではもちろんない。柏木義円(かしわぎ・ぎえん)、吉野作造など、朝鮮総督府や海老名弾正、渡瀬常吉を鋭く批判したクリスチャンもいた。それでも、海老名を首領とする組合教会の執行部は、総督府による朝鮮支配を支持していた。

 渡瀬は、三・一独立運動を、天道教徒と外国人キリスト教宣教師によって扇動された暴動であると言ってはばからなかった(渡瀬常吉、「朝鮮騒擾事件の真相と其の善後策」、『新人』一九一九年五月号、姜[一九六六]、五三七~四一ページに所収)。
 しかし、三・一独立運動は、日本の組合教会を朝鮮布教から撤退させるという効果を持った。三・一独立運動が勃発するまで、組合教会の朝鮮人信者は一万四〇〇〇人強いた。しかし、一九二一年、組合教会は朝鮮伝道部を廃止し、布教業務を新たに設立した朝鮮会衆派基督教会に信者を移管して、現地人に布教業務を委ねたが、移管に応じた朝鮮人は三〇〇〇人を切ってしまった。一挙に五分の一にまで激減してしまったのである(川瀬[二〇〇九]、九六ページ)。


 おわりに

 


 柏木義円の反戦論を紹介しておきたい。柏木義円は、現在の新潟県長岡市与板町にある浄土真宗大谷派に属する西光寺の住職の子として生まれた。新潟師範を経て東京師範を卒業した。群馬県碓氷郡土塩小学校教員時代にキリスト教に出会い、一八八〇年、同志社英学校に入学した。在学中、新島襄に「同志社の後事を託す」とまで言わしめたという。その後群馬県細野東小学校長を勤め、一八九七年、安中教会(18)の牧師となった。地味で寡黙な人であったらしい。一八九八年から三八年間続けた『「上毛(じょうもう)教界月報』(全四九五号)では、平和主義、人格尊重、思想言論の自由を掲げ、軍国主義的風潮の中で、否応なく戦争に突入していく世の中に警鐘を鳴らし、幾多の弾圧にも屈することなく戦争の「不当性」を現状分析に基づいて粘り強く訴えた人である(http://ojima3.com/yoita/person06.html)。

 柏木は、朝鮮における日本人の狼藉ぶりを非難し、<このままでは、将来大変な事態が起ころう>と、すでに一九〇四年に書いている。<気の毒なのは韓人である。日本民族の膨張のための伝道ならばしない方がよい>とまで言い切った(柏木、「朝鮮伝道について」、『基督教世界』一九〇四年八月一一日付、姜徳相編[一九六六]、一四一~四二ページに所収)。

 一九一四年には、正面から渡瀬常吉批判を展開している。要約する。<組合教会が日本国民の代表であると言うのは、あまりにも牽強付会なことである。日本人は、そもそも鮮人の指導者たる資格はない。鮮人をキリスト教化するよりも、日本人を教化する方が先決であろう。キリストの名を借りて、鮮人を日本国民に同化させるという政策は、彼らを反発させ、日本から離反させるだけである。渡瀬常吉が横暴な総督府を讃えるような文章を書いているが、そうしたことは、御用宗教に堕したという非難を受けるだろう。それはキリストの名を貶めるだけである>(柏木、「渡瀬氏の『朝鮮教化の急務』を読む」、『上毛教界月報』一九一四年四月一五日号、姜徳相編[一九六六]、三〇一~〇二ページに所収)。

 三・一独立運動を「朝鮮人の韓国独立という妄想」であるとうそぶく渡瀬を柏木は非難した<日本人が愛国の運動をすれば尊くて、鮮人が同じことをすれば愚かなことであると言うのは、あまりにも得手勝手なことである>と(柏木、「渡瀬常吉君に問ふ」、『上毛教界月報』一九一九年一一月一五日号、姜徳相編[一九六六]、三一〇ページに所収)。

 一九三一年、柏木は組合教会と総督府との癒着について書いている。要約する。<寺内朝鮮総督は、朝鮮のキリスト教会がほとんど西洋人の宣教師によって運営されていることを目の上のたんこぶと意識したのか、その向こうを張る意味で日本人の朝鮮伝道を保護しようとしたのであろう。長老派の日本基督教会の植村正久(まさひさ)に依頼したが断られ、組合教会の海老名氏にお鉢が回ってきた。渡瀬常吉がそれを担当することになり、総督府の機密費から匿名寄附として年額六〇〇〇円程度が提供された。さらに、総督府の肝いりで五〇万円の朝鮮教化資金が募集された。しかし、その寺内総督が亡くなり、長谷川総督も去り、公正な人である斎藤総督がその任に就くや、あたかも木から落とされた猿のように、組合教会は突き放されてしまった。組合教会は、朝鮮伝道部を廃止して、朝鮮教会に後事を託したが、その朝鮮教会すら放棄せざるを得ないであろう。朝鮮における一〇〇余りの組合教会、二万人と称した組合教会信者は、雲散霧消してしまったからである>(柏木、「組合教会時弊論」、『上毛教界月報』一九三一年五月二〇日号、富坂キリスト教センター編[一九九五]、九一ページに所収)。
 <公明なる精神をもって、幾多の猜疑と誹謗を受けても、忍び難きを忍びて奮闘努力をしてきた>(組合教会、「三七回総会を迎ふ(続)─度重なる二三の案件」、『基督教世界』一九二一年九月二二日付、姜徳相編[一九六六]、二三八~三九ページに所収)が、結局は朝鮮布教から撤退するしかなかった。

 こうして、組合教会も、朝鮮布教面では、神道、仏教と同じ運命を辿ったのである。


野崎日記(442) 韓国併合100年(81) 日本のキリスト教団(4)

2012-09-26 22:06:24 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 日本組合教会の朝鮮布教

 米国連邦政府は、米国の対外膨張にこうしたキリスト教の海外伝導熱を積極的に利用していた(塩野[二〇〇五]、二六~二七ページ)。



 例えば、一八八五年に『わが祖国』(Our Country)(Strong[1885])という、三〇年間で一七五万部を販売するというベストセラーを出したジョサイア・ストロング(Josiah Strong, 1847~1916)は、多くの崇拝者を持つ会衆派のスター的牧師であったが、その説教は、米国の膨張を神の摂理であるという内容のものであった。新大陸米国こそが、「出エジプト記」で言及されている「約束の地」であり、米国に移住した人たちは、「選ばれた民」である。米国が打ち出す市民的自由とキリスト教を世界に普及することが米国の義務であると主張したのである(森[一九九〇]、一七~三五ページ)。そうした、米国市民の義務を遂行すべく、「アメリカン・ボード」は、できるかぎり宗派の壁を越えることを目標にしていた(塩野[二〇〇五]、四八ページ)。



 アメリカン・ボードのメンバーとして、日本への布教を試みた人に、ペリー提督の通訳を務めたサムエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 1812~84)がいる(16)。 

 一八五九年、徳川幕府は、神奈川(横浜)、長崎、函館、新潟、兵庫の五港を開港するや否や、米国
からプロテスタントの宣教師や医師が来日した。英国国教会系の「米国聖公会」(Episcopal Church in the United States of America)からは、ジョン・リギンズ(John Riggins)とチャニング・ムーア・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)、「米国長老派教会」からは、ジェームズ・ヘボン(James Curtis Hepburn)、「米国オランダ改革派教会」(Dutch Reformed Church in America)からは、サムエル・ブラウン(Samuel Robbins Brown)、 デュアン・シモンズ(Duane B. Simmons)、グイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)(17)が派遣されてきた。

 アメリカン・ボードは、一八六九年、ピッツバーグ(Pittsburgh)で開かれた第六〇回総会で、日本への宣教師派遣が決議され、ただちに、ダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)が派遣された。彼は、ヘボンとともに、聖書の和訳に勤め、各地に教会を設立する運動を組織した。これは、留学中の新島襄が、一八六八年の夏に、アメリカン・ボード幹事のナタニエル・ジョージ・クラーク(Nathaniel George Clark)の家に宿泊した時、日本伝道を急ぐべきだと進言したことが効を奏したものと思われる(竹中[一九六八]、一一~一三ページ)。



 そして、一八七一年、アメリカン・ボードの宣教師、ジェローム・ディーン・デイヴィス(Jerome Dean Davis)が派遣されて、新島襄の同志社創立に協力した(http://www8.wind.ne.jp/a-church/niijima/index.html)。

 一八七二年には、日本最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」(後の日本基督教会横浜海岸教会)が横浜に設立された。この教会の受洗者たちが、いわゆる「横浜バンド」と言われている日本のプロテスタントに大きな影響を与えた人たちである(http://www15.plala.or.jp/kumanaza/yokohama.html)。



 新島襄(Joseph Hardy Neesima)は、一八七四年にアンドーバー神学校を卒業し、アメリカン・ボードの日本布教担当宣教師に任命され、同年一〇月の同会の第六五回大会で、日本でキリスト教の大学を建設することの必要性を訴え、五〇〇〇ドルの寄付を集め、その年の一一月に帰国した(デイヴィス[一九七七]、四七ページ)。

 同じ一八七四年、アメリカン・ボードは、同会として初めて、日本に会衆派の教会を設立した。「摂津第一基督公会」(後の日本基督教団神戸教会)と「梅本町公会」(後の日本基督教団大阪教会)がそれである(http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/およびhttp://www.osaka-church.net/)。

 新島襄は、一八七五年、京都府顧問で、後に自身の岳父になる山本覚馬の援助を受けて、山本の私有地に同志社英学校を創立した。同年、アメリカン・ボードの宣教師たちによって、私塾・「神戸ホーム」(後の神戸女学院)が設立された。以後、日本の会衆派牧師によって、会衆派教会が各地で設立された。「西京第一教会」(後の同志社教会)、」西京第二教会」(京都教会)、「西京第三教会」(平安教会)、「浪花公会」(日本基督教団浪花教会)、「安中(あんなか)教会」(注(18)で説明、日本基督教団安中教会)等々である(川上純平「日本の会衆派教会(組合教会)の歴史(1)第三章、http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2008a3.htm)。

 アメリカン・ボードに所属する牧師たちは、次々とミッション・スクールを建設した。一八七六年には私塾の女性だけの「京都ホーム」(後の同志社女子大学)、一八七七年には「梅花(ばいか)女学校」(後の梅花学園)、一八八〇年に女性伝道者養成を目指す「神戸女子伝道学校」(後の聖和(せいわ)大学、現在、関西(かんせい)学院大学と合併)、一八八六年には、「宮城英学校」(後の東華(とうか)学園)、「前橋英和女学校」、岡山に「山陽英和女学校」(後の山陽学園)、「松山女学校」(後の松山東雲(しののめ)学園)が設立された。一八八九年に「頌栄(しょうえい)保母保育所」、「頌栄幼稚園」が神戸に設立された(川上、同上(2)、http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2009i.htm)。

 一八八六年、新島襄が中心となって、会衆派教会は、「日本組合教会」(通称、組合教会)を結成した。拠点は「同志社教会」が担った。同志社教会は、その年に現在の同志社大学構内に移転した西京第二公会が名称変更したものである(http://www012.upp.so-net.ne.jp/doshi-ch/intro.html)。一九四一年には「日本基督教団」結成に参加し、合同した(http://www.uccj.or.jp/history.html)。組合教会で活躍したのが、海老名弾正(えびな・だんじょう、一八五六~一九三七年)であった。この海老名が、組合教会の朝鮮伝道を推し進める中心人物であった。海老名は、一九二〇年~二八年、同志社総長を勤めた。



 海老名は、朝鮮を日本に合併させるべきだという考えの持ち主であった。朝鮮総督府は、最初は、長老派の日本基督教会に朝鮮布教を依頼したが、米国の長老派教会がすでに伝道を行っていたので断られ、組合教会の海老名に依頼し直し、了承され、海老名の直弟子である渡瀬常吉(わたせ・つねよし、一八六七~一九四四年)がその任に当たることになった。韓国併合の二か月後の一九一〇年一〇月に渡瀬が牧師を務めていた「神戸教会」で、日本組合教会の第二六回定期総会で、朝鮮人への布教が決議され、渡瀬が主任に推薦された。その決議文を要約する。

 <いまや、日本の国運は大発展している。国内外でキリストの福音を伝道し、神国建設の大業に貢献すべきである。新たに加えられた朝鮮同胞の教化を行うことが、キリストを信じる日本国民の大きな責任である>(『基督教世界』一九一〇年一〇月一三日付、松尾[一九六八]、七ページより引用)。
 渡瀬は、そに著書において、<朝鮮人を日本国民化することが大切で、この責務は組合教会だけでなく、日本人全体が担うべきものである>と訴えた(渡瀬[一九一三]、一〇~一一ページ)。


野崎日記(441) 韓国併合100年(80) 日本のキリスト教団(3)

2012-09-24 21:19:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 二 米国における海外布教組織の形成

 

 一六三六年に、牧師と入植地指導者を養成するためにハーバード・カレッジ(
Harvard College)が創設された。これは、会衆派教会牧師のジョン・ハーバード(John Harvard, 1607~1638)の名にちなむ(9)。




 一六三五年、英国国教会から聖職者としての権利停止処分を受けていた(10)リチャード・マザー(Richard Mather, 1596~1669)が、嵐に遭うという困難な航海の末、ボストンに辿り着いた。すでに説教能力において令名を馳せていたリチャード・マザーは、プリマス、ドーチェスター(Dorchester)、ロクスベリー(Roxbury)といった入植地の政治指導者から現地で宗教的指導者になるように招請されたが、結局はドーチェスターに入った。しかし、ここの教会は、信者の多くがコネチカットのウィンザー(Windsor)に移住してしまっていたので、事実上廃屋になっていた。そこで、彼は、現地の会衆派クリスチャンたちの協力を得て、ドーチェスター教会(会衆派教会)を再興し、自らは、「教師」(teacher)の席についた(11)。一六六九年に死ぬまで、彼はこの職に留まった。

 彼は、ニューイングランドの会衆派クリスチャンのリーダーとなり、一六四八年には、信仰において、長老派との妥協を図りつつ、教会運営方法からは長老主義は採らないとした「ケンブリッジ綱領」(Cambridge Platform)を採択させた。ただし、彼の起草案では、「半途契約」(Half-way Covenant)が強く打ち出されていたのだが、これは外された。これは、悔悛、信仰告白、そして洗礼といった教会の正式メンバーになるための一連の儀式や決まりを踏まなくても、教会の正式のメンバーの子供であれば、幼児洗礼を受ける簡便な儀式だけによって、正式の教会メンバーの資格を持つようにするという措置である。

 これは、信仰心を持たない入移民が激増し、それまでの厳格な生き方を強制する教会のやり方では、教会員の数を維持することができなくなったことの教会側の妥協の産物であった。そして、この「半途契約」は、リチャード・マザーの強い意志によって、一六五七年のボストンの牧師会議によって採用された。ちなみに、彼の息子たちは、いずれもハーバードカレッジ関係者で、エリートであった(12)。


 一七世紀末、教会員になる資格条件を緩和する動きは、ニューイングランドでますます活発になり、そうしたことを標榜したブラトルストリート教会(Brattle Street Church)が一六九九年に設立された。設立者は、トーマス・ブラトル(Thomas Brattle, 1658~1713)である。やはり、ハーバード・カレッジ卒で、ボストンの富裕な商人であった。同カレッジの財務委員でもあった(http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Brattle)。初代牧師として招聘されたのが、ベンジャミン・コールマン(Colman (1673~1747)で、彼の下で、「半途契約」が一般化し、この教会がボストン会衆派の中心になったのである(http://www.britannica.com/EBchecked/topic/77982/Brattle-Street-Church)。

 しかし、同じ会衆派であっても、厳格なカルヴァン主義者からすれば、ハーバード・カレッジ関係者たちが推し進める「半途契約」は、教会の堕落以外の何ものでもなかった。そこで、より厳格な会衆派の樹立を目指して、コネチカットに創設されたのが、牧師養成学校、エール・カレッジ(Yale College)である(13)。教師連は、ハーバード・カレッジの卒業生たちであった(曽根[一九九一]、九三~九四ページ)。

 米国の長老派の活動は、一七〇六年のフィラデルフィア長老派会議の開設に始まる(http://opc.org/nh.html?article_id=51)。米国の長老派教会の多くは、ハーバード・カレッジ、エール・カレッジの卒業生たちによって設立されたものである(増井[二〇〇六]、二一〇ページ)。一七四六年、長老派によって創設されたのが、プリンストン大学(Princeton University)の前身である(14)。

 一八世紀に入って、英国で急速に伸張していた「メソジスト」(Methodist)派も米国の独立戦争前後に米国にも拡大した(15)。厳格な生活スタイル(メソド=Method)を守ることから「厳格な生活を行う几帳面な人たち」という意味でメソジスト(Methodist)と呼ばれる。この派は、北米のコロニーでは、ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield,  1714~1770)によって広められた。一七四二年にカンバスラング(Cambuslang)の大野外集会の成功によって、一挙にメソディスト派は勢力を拡大したと言われている。この集会は「復興会合」(revival meeting)と呼ばれた。フィラデルフィアで開かれたホイットフィールドの集会には、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706~1790)が通い、ホイットフィールドの説教の力強さに感銘を受けたという(http://www.christianitytoday.com/ch/131christians/evangelistsandapologists/whitefield.html)。

 米国の独立戦争時、英国国教会から除名されたメソジスト(Methodist)派は、一七八四年、「バルチモア・メソジスト監督教会」(Baltimore Methodist Episcopal Church)を設立した。同協会は、以後、米国のメソジスト派の中心となっている。「監督教会」という名称を冠しているように、これは英国国教会から継承した教会の統治形態で、長老派や会衆派と異なり、教会の聖職者の中に、教会を監督する立場の人がいて、彼が教会や教区を監督統治するというシステムである。

 米国には、主流の教会が信者を増やそうとして世俗化の度合いを顕著にすると、すぐさま、より厳格な牧師養成機関(カレッジ)や神学校が新しく設立されるという宗教的傾向がある。一八〇七年に創設されたアンドーバー神学校(Andover Theological Seminary)は、そうした厳格な牧師養成機関の中でもとりわけ目立った存在であった。同志社大学の創設者・新島襄(にいじま・じょう)がこの学校を卒業したことでも著名な神学校である。大学院を持つ神学校としては、米国最古のものである。設立者たちは、世俗化の度合いを強めていだけでなく、イエス・キリストの神性を否定し、イエスを偉大な伝道師であるとするユニテリアン主義(Unitarianism)が幅をきかしていたハーバード・カレッジから逃げ出して、大学院の神学校を設立したのである(http://www.andovertowntwinningassociation.hampshire.org.uk/index_files/andover.htm)。

 この大学院の神学者たちが、一八〇三年に設立されていた「マサチューセッツ会衆派教会全体協議会」(General Association of Congressional Churches of Massachusetts)を動かして、米国最初の海外伝道団体「アメリカ海外伝道協会理事会」(American Board of Commissioners for Foreign Missions、以下、アメリカン・ボードと略称する)。

 

 設立に貢献したのは、コネチカットの会衆派教会牧師・サムエル・ジョン・ミルズ・ジュニア(Samuel John Mills Jr, 1783~1818) であった。彼は、ウィリアム・カレッジ(William College)卒業後、一八一〇年、アンドーバー神学校に進学し、ただちにアメリカン・ボード設立運動を開始し、当時、エール大学学長・ティモシー・ドワイト(Timothy Dwight,1752~1817)の協力を得て、一八一二年に設立が認可された
(http://archives.williams.edu/williamshistory/biographies/mills-samuel-j.php、http://timothy-dwight-iv.co.tv/)。ミルズは、ウィリアム・カレッジ在学中にインド伝道を決意していたとされている。そして、アンドーバー神学校が海外伝道を志す神学生たちの訓練の場となっていた(小笠原[一九八七]、一八三ページ)。

 

 一八一九年には、メソジスト監督教会派の牧師たちが、「メソジスト監督教会伝道協会」(Methodist Episcopal Church Missionary Society)を、一八二〇年には、プロテスタント監督教会派が、「プロテスタント監督伝道協会」(Protestant Episcopal Missionary Society)を、一八三三年には長老派教会が、「海外伝道長老派理事会」(Presbyterian Board of Foreign Missions)を、相次いで米国に設立し、米国のプロテスタントの海外伝道熱が一挙に高まった(http://www.probertencyclopaedia.com/cgi-bin/res.pl?keyword=William+Carey&offset=0)。