消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(303) オバマ現象の解剖(48) 一人勝ち(9)

2010-03-30 22:46:16 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 


(1) 対象となった七社とは、AIG、バンク・オブ・アメリカ、シティグループと、ゼネラル・モーターズ(GM=General Motors)、クライスラー(Chrysler)、GMの金融子会社のGMAC、クライスラー・フィナンシャル(Chrysler Financial)社。ファインバーグ監督官は、各社の上位二五人、計一七五人の上級幹部に報酬の削減を命じる方針。削減率は平均五〇%で、とくに現金で支給される給与のカット率は九〇%に上る。
 すでに公的資金を返済したゴールドマン・サックス、JPモルガン・チェース(JP Morgan Chase)、モルガン・スタンレーは制限の対象外。三社とも巨額の報酬原資を計上し、とくにゴールドマンは〇九年の報酬額が過去最高を更新する見通し。世論や議会の批判の矛先はむしろ、ゴールドマンなどに向いている(http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/091022/fnc0910222217026-n1.htm)。

(2) SECは、「全国的に認められた格付け機関」(NRSRO=Nationally Recognized Statistical Rating Organization)を指定している。この指定を受けた信用ある格付け会社の格付けを受けないかぎり全米で証券を発売できない。ローエンスタインは、そうした格付け会社ではなく、「全国的に認められた企業」(Nationally Recognized Companies)をこそ、SECは指定すべきだというのである。その当否はともかく、二〇〇八年九月時点では一〇の格付け会社がNRSROに指定されている。ムーディーズ、S&P、フィッチ、A・M・ベスト・カンパニー(A. M. Best Company)、ドミニアオン・ボンド・レーティング・サービス(Dominion Bond Rating Service, Ltd)、日本格付研究所(JCR=Japan Credit Rating Agency, Ltd)、格付投資情報センター(R&I=Rating and Investment Information, Inc.)、イーガン・ジョーンズ・レーティング・カンパニー(Egan-Jones Rating Company )、LACEフィナンシャル(LACE Financial)、リアル・ポイント(Realpoint LLC)がそれである。

 NRSROは、文字通り、国民から広く認められた信用ある格付け機関という意味であり、この認定を受けると一流格付け機関としての地位を確保できる。しかし、「国民から広く認められた」という基準はあまりにも曖昧なものであり、新規参入者がそうした認定を受けることは不可能であり、事実上、米国のムーディーズとS&Pを特別扱いするものである。現実に、両者で米国での格付け市場の八割を占有している。
 この制度は一九七五年に施行された。これら格付け会社から一流と認定された証券への投資については、破産に備える積み立て資本を軽減するという意図を持った制度であった。発足当初のNRSROは七社であったが、合併により、一九九〇年代には、ムーディーズ、S&P、フィッチの三社になった。しかし、二〇〇三年にカナダのドミニオン・ボンド・レーティング・サービス、二〇〇五年に米国のAM・ベスト、二〇〇七年に日本の二社と米国のイーガン・ジョーンズが追加された。そして二〇〇八年にさらに二社が追加されて一〇社になったのである。 

 認可状は「ノー・アクション・レター」(No Action Letter)と呼ばれている。NRSROとしての活動をSECは妨害しないという意味である(SEC, "Credit Rating Agencies—NRSROs," September 25, 2008. http://www.sec.gov/answers/nrsro.htm; SEC[2003])。

.(3) BIS規制とは、国際的な金融システムの健全性を保ち、国際業務に携わる銀行間の平等な競争条件の確保を目的として、一九八八年にBCBS(バーゼル銀行監督委員会=Basel Committee on Banking Supervision)において策定された、銀行を対象とする「自己資本比率規制」のこと。自己資本比率は、株主資本等から構成される自己資本を「分子」、一定のルールに基づき計算されたリスク・アセットを「分母」として計算される。これを「バーゼルⅠ」という。しかし、その後、金融の自由化・国際化がさらに進み、銀行の抱えるリスクが複雑化し、バーゼルⅠの規制では限界があると認識されるようになった。そして、二〇〇四年六月末には新BIS規制(いわゆるバーゼルII)のルールが公表された。

 バーゼルIIでは、自己資本比率の計算の精緻化が目指された。信用リスクの計算が精緻化され、新たに、格付会社による外部格付を基に計算する「標準的手法」が、これまでの銀行自身の内部格付に基づいて計算する「内部格付手法」に付け加えられた。銀行は、どちらの手法を採用してもよいことになった。また、事務ミスや不正行為等により損失を被るリスク(オペレーショナル・リスク)分母のリスク・アセットに加えられた。日本では、バーゼルⅡによる規制は二〇〇七年三月末から実施された(     http://www.zenginkyo.or.jp/service/hint/details/keyword_15.html; BIS, Basel II: International Convergence of Capital Measurement and Capital Standards: A Revised Framework- Comprehensive Version, June 2006; http://www.bis.org/publ/bcbs128.htm)。

(4) 中核的自己資本をティールⅠ(Core Tier 1)と呼ぶ。その中でさらに重要な資本がコア・ティールⅠ(Core Tier 1)となるのだろう。この定義は統一されていないが、一つの考え方は中核的自己資本から優先株・優先出資証券・繰延税金資産純額(繰税)を除き、資本性の高い普通株などを中心としたものとされる。米政府が〇九年五月のストレス・テスト(Stress Test)で打ち出した考え方である(松本[二〇〇九])。
 優先株とは、配当や残余財産などの分配を優先して受けられる株式のこと。株式配当を受け取ったり、企業が解散したときの残余財産を分配したりする場合に、普通株より優先して権利が与えられる。その代わり、株主総会において議決権を行使できない。バブル経済の崩壊後、多額の不良債権処理で自己資本の減少した大手銀行を中心に、優先株が発行されるようになった。金融危機が高まった一九九八年三月には、大手銀行の発行する優先株を政府が買い上げ、公的資金による資本注入がおこなわれた(http://www.exbuzzwords.com/static/keyword_930.html)。その意味で、優先株は中核的資本としては普通株よりも信頼性に欠ける。

 優先出資証券とは、出資証券という名称の有価証券のうち、優先株と同様に、配当または残余財産分配において普通の出資証券に優先するものをいう。優先株と同じように議決権を持たない。優先株と同じ意味で、しっかりとした自己資本ではない(http://www.tse.or.jp/rules/yusen/index.html)。

 繰延税金資産純額は、会計手法と税法との税の取り扱いの差を資産とするもの。当期利益から将来発生する費用を積み立てた場合、企業会計上では損金であるが、税法上ではそれが認められないので、積立金も利益として算入されて税金が大きくなる。将来、その費用を実際に払う場合、積立金を崩すので利益が小さくなり、実際の税額は少なくなる。先に支払った多額の税額を前払いしたものとしてバランス・シートへの計上が認められ、その額が資本となる。しかし、これはかなり恣意的なので、これも信頼に足りる資本ではない。将来赤字になれば、この資本が取り崩されるからである。GMもJALもそうであった(http://money.jp.msn.com/columnarticle.aspx?ac=fp2008012300&cc=01&nt=01)。

 (5) 二〇〇一年一一月から開始されたWTO(世界貿易機関)加盟国による通商交渉。農産品、工業品の貿易自由化という伝統的な交渉課題以外に、サービス、途上国問題、紛争処理などの新たな問題が論じられてきた。一九九九年一〇~一一月のシアトル閣僚会議では、ウルグアイ・ラウンド(一九八六~一九九四年)の結果に対して途上国の多くが反発し、新しい交渉の開始ができなかった。しばらく空白があったのち、〇一年一一月のドーハ閣僚会議でようやく新交渉開始の合意がなされた。この〇一年一一月から開始されたWTO加盟国による通商交渉を「ドーハ・ラウンド」という。しかし、〇三年九月のメキシコ・カンクンでの閣僚会議では交渉が決裂し、新ラウンドの「枠組み合意」の期限日、〇四年七月三一日には合意形成はできなかった。この日、ジュネーブのWTO本部で一般理事会が開かれ「枠組み合意」が論議され、農業自由化をめぐる対立が鮮明になったが、翌八月一日未明に枠組みだけは合意された。関税引き下げ方式や削減対象となる農業助成策などが交渉課題になった。しかし、上限関税は「今後の検討課題」とした持ち越された。

 〇一年一一月のドーハ閣僚会議で最終合意期限とされた〇五年一月一日は延長され、具体的な期日は〇五年一二月に香港で開かれる閣僚会議まで先送りされた。その後も、交渉は停滞しており、〇九年一一月現在、ドーハ・ラウンドは合意に達していない(http://www.
wto.org/english/tratop_e/dda_e/dda_e.htm)。

(6) ガイトナー米財務長官は、〇九年三月三日、オバマ大統領が、韓米FTA(自由貿易協定)をはじめ、パナマ、コロンビアとのFTAを進展させるため、議会と協力するとの認識を示した。ガイトナーは、米下院歳入委員会(House Committee on Ways and Means)の公聴会で、「皆さんが期待できることは、大統領と政府がこうした重要な合意を進展させる方法を探すため、注意深く議会と協力するだろうということだ」と述べた。

 ガイトナーは、「米国としては単に市場を開放するという約束だけでなく、米国内の業界と労働者に利益になる新たな貿易協定を作るという約束を守ることが重要だ」と強調、韓米FTAに対する追加措置の必要性を訴えた(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090304-00000015-yonh-kr)。

(7) コーデックス・アリメンタリウス(Codex Alimentarius)というラテン語からきた言葉で、食品規格という意味を持つ。一九世紀末のオーストリア・ハンガリー帝国でも使われていた用語である。コーデックス規格は、世界唯一の国際的基準。一九六二年、FAO(国連食糧農業機関=Food and Agriculture Organization of the United Nations )とWHO(世界保健機関=World Health Organization)が合同で、国際的な食品規格作りに着手。その実施機関が食品規格委員会がCAC(コーデックス・アリメンタリウス・コミッション=Codex Alimentarius Commission)。一九六三年に第一回総会がローマで開かれた。

 食品貿易で何らかの紛争が起こったとき、その裁定にあたるのがWTOで、そのさいの判断基準となるのがコーデックス規格。ただし、コーデックス規格そのものには直接の強制力はない。しかし、科学的に証明される特別な理由がないかぎり、事実上、コーデックス規格は無視できない(http://www.n-shokuei2.jp/food_hygienic/codex/sec07.shtml#wrapper)。

 しかし、食品規格がWTOの提訴制度に連動していることはきわめて危険なことである。食品添加物や残留農薬などの基準にぽいてコーデックス規格よりも厳しい基準を日本が設定すれば、それは、コーデックス基準に従っていない非関税障壁として、貿易相手国からWTOに提訴される可能性があるからである。提訴はWTOにおける二つの協定に基づいている。TBT協定(貿易の技術的障壁に関する協定=Agreement on Technical Barriers to Trade)とSPS協定(衛生及び食物検疫措置の適用に関する協定=Agreement on Technical Barriers to Trade)がそれである。これらの協定では、食品の安全性や技術的なことに関する国内基準は、原則として国際基準に整合化することが規定されている。これらの協定に基づき、貿易紛争になれば、WTOの紛争処理パネルで敗訴する可能性が高いので、事実上、各国はコーデックス基準に従わざるを得ない。

 食品貿易に関してのWTOの提訴対象になった主な例は以下の通り。①日本の焼酎の税率がウイスキーより低いので、ウイスキーの販売が妨げられているとして米国から提訴され、日本は敗訴。税率の是正で、焼酎の値段が上がり、ウイスキーの値段は下がった。②日本のりんごの検疫制度が厳しすぎるため、りんごの輸出できないと米国が提訴。りんごは輸入解禁となった。③EUが成長ホルモンを使用した牛肉を輸入禁止しているので、牛肉が輸出できないと米国が提訴。EUは敗訴。米国は、被害額の一億一六〇〇万ドルに見合うだけの報復関税を三四品目にかけた。EUはそれでも、動物やヒトに悪影響が懸念されている成長ホルモンの使用された牛肉を輸入禁止し続けている。食品の安全性を追求しようとしたために、このような目に遭うこともある。自由貿易の名の下に、食品の安全性が無視されるケースの一つである(http://tabemono.info/soshiki/kokusai/life.htm)。

(8) 「末日聖徒」の読みは「まつじつせいと」である。一八三〇年米国でジョセフ・スミス・ジュニア(Joseph Smith, Jr., 一八〇五~一八四四年)によって創始された。本部は、ユタ州ソルトレイクシティ(Salt Lake City)。一般にはモルモン教会として知られている。『モルモン書』(The Book of Mormon) を聖典とすることからモルモン教とも称されている。モルモン教には厳しい戒律(タバコ・酒・コーヒー他一切の刺激物の摂取禁止、等々)があり、また自費による二年間(女性は一年半)の宣教師活動が強く奨励されているといわれている(http://www.ldschurch.jp/)。


野崎日記(301) オバマ現象の解剖(47) 一人勝ち(8)

2010-03-29 22:43:22 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 おわりに


 米国経済がまだ塗炭の苦しみにのたうっているのに、ウォール街は復活した。二〇〇九年一〇月一五日に発表されたゴールドマン・サックスの二〇〇九年度第三・四半期(七~九月)の純収益(net revenue)は一二三億七〇〇〇万ドル、純利益(net profit)三一億九〇〇〇万ドルと莫大なものであった。年末に支払われるボーナスの積立金も〇九年九月末で、一六七億ドルであった。これは、これまで最高であった二〇〇七年の一六九億ドルに迫る額であった(http://www.jsda.or.jp/html/foreign/fminfo/info3/kobetsu/8667(20091016)1.pdf)。年末には二〇〇億ドル台に達し、二〇〇七年と並ぶという観測が〇九年九月時点ですでに出されていた(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/economy/finance/316026/)。二〇〇七年での社員平均は六六万一〇〇〇ドルであり、CEOのロイド・ブランクファインは七〇〇〇億ドルであった。〇九年にもその水準になる。

 ゴールドマン・サックスの高利益に貢献したのは債券・通貨取引であった。二〇〇八年同期の四倍の利益であった。これは、最大のライバルであったリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)とベア・スタンーンズ(Bear Stearn)が消滅したことによると、『フィナンシャル・タイムズ』(Financial Times)は説明した(Francesco & Farrel[2009])。さらに、現在のライバルであるシティグループ、メリルリンチ、UBSは青息吐息の状態で、ゴールドマン・サックスのひとり人勝ちであるといってよい。

 本章の「はじめに」でも触れたが、こうした目も眩むような高額ボーナスを支払うのは、有能な従業員がライバル行に移ることを阻止するためであると、同行の筆頭財務担当者(chief financial officer)のデービッド・ビニアー(David Viniar)は弁明した。複数年のボーナス契約をしている行員もいるという。

 しかし、英国のビジネス大臣(business secretary)のマンデルソン卿(Lord Peter Mandelson)は、金融危機を招いた過大ボーナスを支払う文化に立ち戻ることに英政府としては耐え難いと警告した。「もしゴールドマン・サックスを含む銀行が、二〇〇九年に巨大ボーナスを支払えば、過去に陥った苦境に再度追い込まれてしまうであろう」と同氏は「チャンネル・フォー・ニュース」(Channel 4 News)で語った。ちなみに、英国のゴールドマン・サックスの行員数は五五〇〇人である(http://www.ft.com/cms/s/0/c4d1a42c-b9ea-11de-a747-00144feab49a.html)。


野崎日記(301) オバマ現象の解剖(46) 一人勝ち(7)

2010-03-28 21:40:24 | 野崎日記(新しい世界秩序)


六 米国の駐中大使指名にみる中国重視


 米国ホワイトハウスは〇九年五月一六日、オバマ大統領が次期駐中国大使にユタ州のジョン・ハンツマン(Jon Huntsman)知事を指名したと発表した。同氏は共和党員である。商務次官補代理(東アジア・太平洋担当)、駐シンガポール大使、通商代表部次席代表などを経て〇四年にユタ州知事現職に初当選し、〇九年で二期目であった。中国語に堪能で中国出身の養女もいる。共和党のホープとして二〇一二年の次期大統領選への出馬も取りざたされていた(『毎日新聞』二〇〇九年五月一七日付)。ハンツマンは、洪博培(Hong Bopei)という中国名を名乗っているほどの中国通である。

 ハンツマンは末日聖徒イエス・キリスト教会(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)(8)の教徒であり、台湾伝道部に所属した。父親が残してくれた家業、ハンツマン・コーポレーション(Huntsman Corporation)を継ぎながら、一九八五年から二年間、レーガン(Ronald Wilson Reagan, 一九一一~二〇〇四年)政権にスタッフ補佐官として参加し、一九八七~八八年、家族とともに台湾で布教活動、一九八九~九〇年に、父ブッシュ(George Herbert Walker Bush)政権の下で、国際通商局通商担当、同じく、九〇~九一年に 、東アジア太平洋担当商務の副次官補 として参加した。一九九二~九三年、父ブッシュ政権下ので駐シンガポール大使。二〇〇五年ユタ州知事。二〇一二年の次期大統領選で、共和党の候補として名前が挙がっているハンツマン氏の起用で、オバマ大統領は、政敵を自分の陣営に引き入れることに成功した(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0823&f=politics_0823_006.shtml)。

 駐韓国大使、キャサリン・スティーブンス(Kathleen Stephens)も、共和党派の人である。彼女は、子ブッシュ政権下の大使であるが、オバマ政権下でも留任した。スティーブンスは、一九七五~七七年まで、忠清南道扶余(Chungcheongdo-Buyeo)で平和奉仕団員として勤め、韓国語を流暢に話す。シム・ウンギョン(Shim Eungyeong)という韓国名も名乗っている。一九七八年に国務省に入った後、駐韓米大使館や釜山総領事館などに勤務した経験がある。〇五年六~七月にはクリストファー・ヒル(Christopher Hill)国務次官補の下で首席副次官補を務め、北朝鮮の核問題などに取り組んだ(http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=94812&servcode=A00&sectcode=A20; http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=105657&servcode=200&sectcode=200)。

 ブッシュ大統領による指名は〇八年一月一〇日であったのに、赴任は〇八年九月二三日であった。赴任が大幅に遅れたのは、クリストファー・ヒル嫌いのサム・ブラウンバック(Sam Brownback)上院議員の強烈な反対に遭ったからであるといわれている。 米国の大使は上院の外交員会全員の承認を得なければならないのである(http://island.iza.ne.jp/blog/entry/601056)。

 オバマとスティーブンスとの間に直接的な接点はないが、就任直後のヒラリー・クリントン国務長官の訪韓を実現させた手腕をオバマが高く評価したからであるといわれている。このように、オバマが指名した駐中、駐韓大使は、それなりにふさわしい人事であるといえるのに対して、駐日大使については、本書第一章で触れたように、論功行賞的人事の匂いがする。

 オバマは、〇九年五月二七日、次期駐日米大使にた弁護士のジョン・ルース(John Roos)を指名したと発表した。しかし、駐中大使のハンツマンを持ち上げたオバマであったが、駐日大使のルースへの対応は違っていた。オバマが、〇九年五月一六日に共和党のハンツマンを指名したさい、二人が揃ってテレビ会見で発表したが、駐日大使は、ほかの一二か国・組織の駐在大使とともに声明文の形式で発表され、「二一世紀の課題に対処するため、米国外交を前進させることを確信している」と短くオバマはコメントしただけであった(http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20090528k000e030022000c.html)。

 オバマ政権の中国への傾斜は、そのままゴールドマン・サックスの対中戦略強化の反映である。ゴールドマン・サックス栄えて失業者が増えるという末期的症状に米国型金融資本主義は陥ってしまった。


野崎日記(3000) オバマ現象の解剖(45) 一人勝ち(6)

2010-03-27 21:35:20 | 野崎日記(新しい世界秩序)



 五 オバマ政権による自由貿易体制の見直し気運


 オバマ政権下の財務長官ティモシー・ガイトナーは、米国の対中政策のキーマンになりそうである。彼は、財務長官になる前は、ニューヨーク連銀総裁(president of the Federal Reserve Bank of New York)であった。その前は、IMF理事であった。その前はクリントン政権で、国際部門担当財務次官(Under Secretary for International Affairs)であった。 ルービン財務長官、サマーズ(Lawrence Summers)財務長官の下で次官を務めた。


 ガイトナーの父は、中国でフォード財団(Ford Foundation)中国事務所設立責任者で、フォード財団の主任研究員であった。ガイトナーは、父親の仕事の関係で、日本、中国、タイ、インドなどで暮したこともある。ダートマス大学でアジア研究、ジョンズ・ホプキンス大学大学院で日本と中国の研究をした。中国語に堪能である。また、米財務省に勤務していたときには、一九九〇~九二年、東京の米国大使館で勤務、実質的に同大使館における財務担当を務めた。まさに、日本の大蔵省の橋渡し役として、頻繁に日米間を往復していた人物である。一九九〇年代を通じてガイトナーの日本の政財官人脈が豊富であることは間違いないが、中国共産党人脈も大きなものがあり、そのために、二〇〇一~〇三年の納税漏れスキャンダルでガイトナー降ろしが出たと原田武夫は指摘している(http://blog.goo.ne.jp/shiome/c/4377093b896823e2aef8a73e18f0dc37/1)。

 ガイトナーは、ペンシルバニア大学インド研究センターを作っている。彼の二〇年以上のキャリアには民間勤務の経験がないが、ゴールドマン・サックスとの関係は非常に濃密である。政府要人であったとき、彼は重要な地位にゴールドマン・サックスOBを多数就けた。中国への彼の傾斜にも同じくこの人脈が使われるであろうと中国側は認識しているようである(http://www.ogilvypr.com/en/expert-view/obama-administration-china-what-does-future-hold)。

 米中関係の将来を占う鍵に、オバマ大統領の自由貿易への一定の留保態度がある。それは、USTR(通商代表部=United States Trade Representative)に前ダラス市長のロン・カーク(Ron Kirk)をオバマ大統領が選んだことに現れている。
 カークは、一九八一年、テキサス州選出上院議員ロイド・ベンツェン(Lloyd Bentsen)の事務所に入り、ベンツェンの補佐官(aide)を務めた。カークは一九八三年にテキサス州に帰郷し、州議会でのロビー活動、ダラス市検事、法律事務所の経営を経たのち、一九九四年、テキサス州知事アン・リチャーズ(Ann Richards)の下で州務長官を務めた。そして、一九九五~二〇〇一年ダラス初の黒人市長を務めた。市長として、カークは「ダラス計画」(Dallas Project)と呼ばれる二五か年の都市改造計画を提起した。二〇〇一年、カークは連邦上院議員への立候補を表明し、二〇〇二年の二月にダラス市長を辞任、二〇〇二年の連邦上院議員選挙で敗れた。その後は、弁護士活動をしていた(http://www.ustr.gov/about-us/biographies-key-officials/united-states-trade-representative-ron-kirk)。

 カークは、通商問題の専門家ではない。しかし、〇二年の上院選挙での遊説のなかで、ファスト・トラック(Fast Track)問題にたびたび言及していた。

 ファスト・トラックというのは、文字通り「高速コース」である。通商交渉を迅速化させるべく、議会が、いちいち、議会と相談することなく相手国と交渉する権限を大統領に与え、交渉結果で作られた協定を議会がすべて認めるか全面拒否するかの一括審議方式をとるという手続きのことである。

 大統領にそうした権限を議会が与えるというのは、大統領への信任度合いによる。また一括審議方式とは、議会による修正動議を認めないという大統領の強い権限を意味する。

 この方式によると、大統領が締結した対外通商協定について、議会は九〇日以内に、これを全面的に支持するか、全面的に拒否するかの二者択一しか認められていない。通常の法案では、議会は提出された内容にいくつかの修正がなされ、一字一句も修正されないということなどまずない。ファスト・トラックではそうした修正がないというのが、重要なことである。これは大統領が、自分を信用しろという強い意志で相手国と交渉できるという意味を持っている。ファスト・トラックというのは通称であり、ただしくはTPA(大統領貿易促進権限=Trade Promotion Authority)という。

 一九七四年のフォード(Gerald Rudolph "Jerry" Ford, Jr.)政権以降、大統領には、すべてファスト・トラック権限が与えられていたが、クリントン政権の一九九三年五月時点で時効となった。クリントン政権は、一九八八年包括通商法で定められた権限を延長するなどしてNAFTA(北米自由貿易協定=North American Free Trade Agreement)実施法およびびウルグアイ・ラウンド(Uruguay Round)実施法を成立させたものの、それも、一九九四年四月に失効し、以降、クリントン政権下では、ファスト・トラック権限が与えられない状態であった。これは、上下院ともに共和党が多数派であったからである((Baldwin & Magee[2000])。

 そして、二〇〇一年に発足したブッシュ(George Walker Bush)政権はWTO(世界貿易機関=World Trade Organizaton)ドーハ・ラウンド(Doha Development Round)、FTAA(米州自由貿易地域=Free Trade Area of the Americas)交渉およびその他の二国間FTA(自由貿易協定=Free Trade Agreement)交渉などとの関連で、TPA(ファスト・トラック)取得を重要な通商課題と位置づけていた。同年一〇月に議会に提出されたTPA法案は、同年一二月六日に下院を通過し、二〇〇二年五月二三日には上院を通過した。ただし、上院通過のさいに、いわゆるクレイグ・デイトン修正条項(Craig Dayton Amendment)等の修正条項が付加された。これは、TPAの適用のある通商協定の国内実施法案を上院で事後的に修正することを可能とする条項であり、TPAを実質的に骨抜きにするものであった。しかし、〇二年八月六日、TPA法案は、ブッシュ大統領の署名により成立した(二〇〇二年超党派貿易促進権限法=Bipartisan Trade Promotion Authority Act of 2002)。TPAは、二〇〇五年六月に延長され、政権は再延長を議会に働きかけてきたが、議会の同意を得るには至らず、二〇〇七年七月一日に失効した(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/keizai/eco_tusho/tpa.html)。

 カークが、TPAに反対したという実績は、オバマにとって好都合であった。オバマは、従来のTPAに替わる議会との連携を模索しているからである。

 オバマ政権下のUSTRが、〇九年三月四日、四六七ページにおよぶ、大部〇九年年報(USTR[2009]).を出した。そこでは、オバマ政権の通商政策がかなり綿密に説明されている。

 「これまでの単純な関税引き下げ交渉は適切な貿易政策ではない」、「貿易自由化の進展が途上国にどのような影響を与えるかが重要な問題として認識されなければならない」という瞠目すべき記述がある。

 「重要なことは、労働者とその家族、そしてコミュニティにっとっての経済的帰結である」、そのためにも、「議会にもわれわれの労働者支援政策に対する協力を求める」、「少なくとも、米国が追求してきた貿易政策は、一部の資産家をさらに富裕化させ、世界の貧しい人々に影響を与えてきたことを見過ごすべきではない」。

 行き詰まっているドーハ・ラウンド(Doha Development Round)(5)を打開するためにも、労働者の生活とその環境の重視が改めて強調されているのである。

 たとえば、オバマは、NAFTAに触れ、米国の南北の境界線に接するメキシコとカナダの労働者に被害がおよぶような貿易はおこなわれるるべきではないとしている。これは、オバマが、大統領選で、NAFTAは労働者にマイナスの影響を与えているとの批判に呼応するものである(Bridges Weekly, November 6, 2008; http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/32652/)。

 一五年にもわたる貿易交渉ではあるが、その中で、労働者の生活と環境問題を主たる討議事項にしたいと、オバマは、〇九年二月、カナダ首相のステーブン・ハイパー(Stephen Harper)に語っていた(Bridges Weekly, February 25, 2009, http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/41648/)。 

 報告書は訴えている。「われわれは労働者福祉を犠牲にするような貿易拡大は望まないし、環境を無視するような競争力強化など望まない」と。

 こうした条件を組み込んだ自由貿易協定の成功例として、同上書はパナマと米国との間に交わされたものであるとしている(6)。労働者福祉を前面に押し立てたFTAをコロンビア、韓国と結ぶべきであるとも同報告書は強調している。

 ただし、パナマFTAは上院議員の強い支持を得ているが、コロンビアについては、民主党議員の中に強い不信感があり、韓国については、自動車労働組合の疑念もあり、すんなりとは合意されないであろう。

 それでも、オバマは、USTRにカークを選んだように、大統領権限の強化ではなく、途上国との対話、そしてなによりも議会との妥協を最優先しつつ、労働者削減に通じる自由貿易を見直そうとしていることは間違いない(http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/42281)。

 選挙キャンペーン中、TPAを求めるよりも、貿易交渉において、議会の関与を重視すると説いて回っていたオバマの貿易政策は、医療保険、地球温暖化問題、エネルギーの自立、金融部門などのサービス・センターの見直し、食料と製品の安全性、医薬品などの分野に重点が置かれている。そして、対日要求の九八年版『要望書』では、これまでの『要望書』の中では初めて、米国が影響力を持つ国際的な食品安全基準であるCODEX基準(Codex Alimentarius)に従うように日本に要求している(7)。これは、米国農業政策の世界への押しつけ以外のなにものでもない。

 カークは、ビンソン& エルキンズ(Vinson & Elkins LLP)という法律事務所の経営者としてテキサスにおけるオバマの選挙を取り仕切っていた。そうした論功行賞としてUSTRの座を与えられたという側面を否定はできないが、少なくとも、新分野での貿易交渉にシフトすることがカークには託されているのである(http://www.ogilvypr.com/en/expert-view/obama-administration-china-what-does-future-hold)。


野崎日記(299) オバマ現象の解剖(44) 一人勝ち(5)

2010-03-26 21:31:50 | 野崎日記(新しい世界秩序)


四 中国に地歩を築いたゴールドマン・サックス


 本書第四章第五節注(9)でも若干触れたが、ゴールドマン・サックスと関係の深い中国側の投資家に方風雷(Fang Fenglei)という人がいる。後述するが、ゴールドマン・サックスの中国における証券部門である高盛高華証券(Goldman Sachs Gao Hua Securities Co.)の会長である。河南省政府役人になり、州政府が所有する企業の経営を任されていたが、一九九五年に中国最初の投資銀行、CICC(中国国際金融有限公司=China International Capital Corporation Limited )創設に加わった。当時の中国建設銀行(China Construction Bank)トップの王岐山(Wang Qishan)に抜擢されてのことであった。CICC総裁(President)には、当時総理であった朱熔基(Zhu Rong Ji)の息子朱雲来(Zhu Yunlai)が就き、方は副総裁になった。方は二〇〇〇年までCICCで働いた。チャイナ・テレコム(中国電信=China Telecom Corporation Limited)のニューヨーク株式市場、香港株式市場への上場に寄与。その他、、チャイナ・ユニコム(中国聯合通信有限公司=China Unicom Limited)、ペトロ・チャイナ(中国石油天然気集団公司=China National Petroleum Corporation)、シノペック(中国石油天然気集団公司=China National Petroleum Corporation)などの大型国有企業の海外株式市場上場に貢献している(ttp://blog.livedoor.jp/okane_koneta/archives/51256644.html)。

 CICCは中国建設銀行とモルガン・スタンレーとの合弁であった。モルガン・スタンレーは、三四%を出資していた。しかし、方は次第にゴールドマン・サックスと組むようになった。

 そして、二〇〇四年にゴールドマン・サックスとの合弁投資銀行である高盛高華証券が設立された。ゴールドマン・サックスが一億ドルを出資したものである。さらにゴールドマン・サックスは、〇七年、中国最初のプライベート・エクウィティ・ファンドの厚朴基金(Hope Fund)をも創設した。これは、六〇億人民元(七.九億ドル)の規模で、〇七年六月に成立した中国のパートナーシップ法(共同経営企業法)に則るものであった。ゴールドマン・サックスはこのファンドに三億ドルを出資した(http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601014&sid=amgdBItF2kyc&refer=funds)。

 ゴールドマン・サックスは中国工商銀行(Industrial and Commercial Bank of China Limited)にも巨額の出資をした。二〇〇六年五月、同行の株式公開を助けるために、ゴールドマン・サックスは、二六億ドルという当時としては一回の投資額で過去最高の出資をしたのである。それによって、ゴールドマン・サックスは中国工商銀行株の五・八%を保有することになった。中国工商銀行は同年一〇月、株式を公開した。二一九億ドルという史上最大の株式公開であり、時価総額も二〇〇七年七月で世界第一位になった(豊島[二〇〇六])。

 ただし、〇九年に入って逆流現象があった。〇九年六月二日のロイターによれば、ゴールドマン・サックスが、〇九年六月二日に中国工商銀行の株式三〇億三〇〇〇万株を一九億ドルで売却した。ゴールドマン・サックスは、中国工商銀行の株式を四・九三%保有していた。六月二日の売却はそのほぼ二〇%に当たる。ゴールドマン・サックスは、〇九年に入り、二〇一〇年四月まで持ち株の八〇%を引き続き保有すると表明していた(http://jp.reuters.com/article/financialCrisis/idJPJAPAN-38355420090602)。

 ゴールドマン・サックスの保有する中国工商銀株は約七五億ドル相当で、一部売却により一〇億ドルの資金を確保できる可能性がある。ゴールドマン・サックスは、〇八年一〇月に注入された米国政府の公的資金一〇〇億ドルの返済に、株式売却で調達した資金を充当したものと推定される(http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPN-37118420090324)。

 中国工商銀行の株主であるアメリカン・エキスプレス(American Express)とアリアンツ・グループ(Allianz Group)が、それぞれ保有する同行の株式一・九三%と〇・三八%をゴールドマン・サックス経由で売却すると〇九年四月二四日に報じられた。同行は〇九年三月にゴールドマン・サックスと協議し、四月二八日と一〇月二〇日に解禁される一六四・七六億株のうち八〇%は一般流通をさせずに、二〇一〇年四月まで延期することで合意した。残りの二〇%も解禁後は売却された。アメリカン・エキスプレスとアリアンツ・グループが保有する同株の解禁条項は変更されなかった。しかし両社とも同行に対し売却先については、株価を高め市場への影響を抑えるため指定法人に割当を優先することをすでに伝えた(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0424&f=stockname_0424_056s.html)。

 〇八年時点で、中国政府は、フレディ・マックとファニー・メイ関連の証券を三七六〇億ドルほど保有していた。ブッシュ政権下のポールソン財務長官は、米国の不良債権を中国に購入してもらうべく必死になっていた(http://www.redpills.org/?p=2224)。

 ポールソンは、古巣のゴールドマン・サックス救済のために、一〇〇億ドルを注入した。〇八年一〇月三日に、紆余曲折を経て彼が成立させた、七〇〇〇億ドルを不良資産買い取りに投入するという金融安定化策であるTARP(不良資産救済プログラム=Troubled Asset Relief Program)に基づくものであった。ポールソンは、その責任者にゴールドマン・サックスOBで元部下のニール・カシュカリ(Neel Kashukari)をすえた。

 カシュカリについて、インド系ジャーナリズムは以下のような興奮した記事を書いた。

 「世界中の金融市場急落の中、米財務長官は〇八年一〇月六日、インド系米国人であるニール・カシュカリ次官補を、七〇〇〇億ドルの不良資産買い取り業務の責任者に選任した」、「カシュカリ財務省・金融安定化担当次官補は、ジャンムー・カシミール州にルーツを持つ」、「三五歳のカシュカリ次官補は現在まで財務省の国際経済・開発担当官として、国内では、投資環境育成のための財務省方針の作成と実施、対外的には世界経済成長の支援などの任務を遂行してきた」、「同次官補は二〇〇六年七月、財務長官ポールソンの上級顧問として財務省入りしたが、それ以前はサンフランシスコのゴールドマン・サックスで、IT証券投資銀行業務を統率、合併・買収、金融取引などについて官・民間企業から相談を受けるなどしていた」、「オハイオ州アクロン生まれの同次官補は、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校をエンジニアリングの学士・修士号を得て卒業。また、ウォートン・スクールから経済学でMBAを取得している」(http://indonews.jp/2008/10/gs.html)。


野崎日記(298) オバマ現象の解剖(43) 一人勝ち(4)

2010-03-25 21:25:12 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 ゴールドマン・サックスの歴史


 ここで、金融危機下でひとり勝ちしたゴールドマン・サックスの略史を見ておこう。

 バイエルン(Bavarian)の学校の教師をしていたユダヤ系ドイツ人のマーカス・ゴールドマン(Marcus Goldman) が、一八四八年に米国に移住してきた。最初の数年間はニュージャージーでセールスマンをし、次にフィラデルフィアに移って小さな衣料品店を開いた。南北戦争後はニューヨークに移り、一八六九年から約束手形(promissory notes)の売買に携わった。マンハッタン島南のメイデンレーン(Maiden Lane)横町にある宝石店や「スワンプ」(swmp、湿地帯)と呼ばれていた地域の皮革店などから、午前中にそれぞれの顧客の約束手形を買い取り、午後になってそれらを商業銀行に安い口銭で売りつけるということをしていた(Tarquino[1999], p. 28)。

 一八八二年、マーカスの娘婿、サムエル・サックス(Samuel Sachs)もこの商売に加わることになった。一八八五年、合資会社となり、会社名もゴールドマン・サックス&カンパニー(Goldman Sachs & Company)と改称(Spiro[1999])。この年、マーカス・ゴールドマンの息子、ヘンリー(Henry)と娘婿ルードリッヒ・ドレイフス(Ludwig Dreyfus)が加わる。このヘンリーが業績を大きく伸ばした。プロビデンス(Providence)、ハートフォード(Hartford)、ボストン、フィラデルフィアへと営業範囲を広げていった。

 一八八七年には、英国のマーチャント・バンクであるクラインウォート・サンズ(Kleinwort Sons)と提携し、為替の裁定取引に乗り出した。
 顧客は、中西部のシアーズ・ローバック(Sears Roebuck)、クルート・ペーボディ(Cluett Peabody)、ライス・スティックス・ドライ・グッズ(Rice-Stix Dry Goods)などの有力会社であった。支店もセント・ルイスやシカゴに設置し、強力な国内経営基盤を作り上げたのがヘンリーであった。

 一九世紀末には、西部開拓のための鉄道投資が東部の金融界の最大の関心事項であったが、ゴールドマン・サックスは鉄道だけでなく様々な産業に投資し、ポートフォリオの多様化を一貫して目指していた。

 一八九六年、 サミュエル・サックスの弟、ハリー(Harry)が参加して、ニューヨーク株式市場に上場。このハリーがヨーロッパのマーチャント・バンクのクラインウォートと組んで海外業務を拡大させた。一九〇六年、未公開株上場(IPO=Initial Public Offering)業務に乗りだす。

 たとえば、ユナイテッド・シガー・マニュファクチュアーズ(United Cigar Manufacturers)に株式を公開させて、わずか一年間で四五〇万ドルを集めることに成功した。その直後、今度はシアーズ・ローバックの株式公開を実現させた。その機縁で、ヘンリー・ゴールドマンは、両社の重役に名を連ねることになった。以後、顧客の取締役会に人を送り込むことがゴールドマン・サックスの伝統的戦略となった。

 一九一〇年代の工業ブーム時、ゴールドマン・サックスは小企業を積極的に育成した。メイ・デパートメント(May Department Store)、ウールワース(F.W. Woolworth)、コンチネンタル・カン(Continental Can)、グッドリッチ(B.F. Goodrich)、メルク(Merck)などがそうである。

 ヘンリーは一九一七年に引退した。有限責任のパートナーとなったサミュエル・サックスとハリー・サックスに経営権を禅譲したのである。さらに、アーサー(Arthur)、ヘンリー(Henry E.)、ハワード(Howard J.)などのサックス家の人たちが参加した。当時、ゴールドマン・サックスは一族経営を原則としていた。

 第一次世界大戦中の金融業は不況であったが、終戦後は大好況が到来した。ハインツ(H.J. Heinz)、ピルスベリー(Pillsbury)、ゼネラル・フーズ(General Foods)などがゴールドマン・サックスに追加資金を仰ぐようになった。

 好況は一九二〇年代を通じて持続し、ゴールドマン・サックスは投資子会社ゴールドマン・サックス・トレーディング・コーポレーション(Goldman Sachs Trading Corporation)を設立したが、一九二九年恐慌の直撃を受け、一九三三年には、当初の一〇〇〇万ドルの資本金のほとんどが毀損してしまい、本体もまた業績低迷にあえぐことになった。

 こうしたなかで頭角を現したのが、シドニー・ワインバーグ(Sidney J. Weinberg,)である。一九〇七年に事務助手として週給二ドルの薄給からスタートし、一九二七年には若干三五歳の若さでパートナーに昇格した。一族外からパートナーになった第一号であった。彼が、ゴールドマン・サックスを株式仲介業務から投資銀行業務に転換させたのである。それは、M&A、不動産投資業務、大口市場外取引(ブロック・トレーディング=block trading)であった。

 ちなみに、SECは、一九三三年証券法(Securities Act of 1933=グラス・スティーガル法=Glass-Steagall Acte Banking Act of 1933)によってが設立された。
 シドニー・ワインバーグは、第二次世界大戦中に政府に徴用され、戦費調達業務を委託された。そのことによって、ゴールドマン・サックスの組織も拡大した。ワインバーグは、朝鮮戦争時にも政府の役職に就いた。

 トップを徴用されたゴールドマン・サックスは、命令系統の細分化を急いだ。トップがすべてを決定するという従来のシステムを、経営委員会(Management Committee)システムに替えた。経営委員会の初代の議長は、グス・レビー(Gus Levy)であった。彼は、のちに、ニューヨーク証券取引所社長になる。グス・レビーの加入によって、ゴールドマン・サックスは投資業務と証券業務とが二大柱になった。

 一九五六年一一月フォード・モーターズが株式の公開に踏み切った。フォードですら、それまでは未公開株だったのである。ゴールドマン・サックスはフォード株式を一〇二〇万株、七億ドルで販売した。大商いであった。これもワインバーグの功績であった。この年、ワインバーグの強い進言もあって、ゴールドマン・サックスは投資部門を独立させた。一九五〇年代は投資部門のワインバーグと証券部門のレビーが同行を牽引した。

 一九六七年一〇月、アルカン・アルミニウム(Alcan Aluminum)株の市場外取引(ブロック・トレーディング)の大商い。一一五万株、二六五〇万ドルと史上最大の取引であった。これは、レビーの功績であった。

 シドニー・ワインバーグは一九六九年一一月に逝去。会長にはシニア・パートナーであったグス・レビーが就任した。レビーは「長期的視点」(Long-term greedy)という有名なスローガンを掲げた。短期的な損失などたいしたことではない、つねに、長期的視点でことに望めという意味である(Weinberg[2000], p. 170)。 しかし、一九七〇年ペン・セントラル鉄道(Penn Central Railroad Company)が、コマーシャル・ペーパー(CP=Commercial Paper)残高八〇〇〇万ドルを残して倒産した。このCPの大半はゴールドマン・サックスが引き受けたものであった。現在と同じく、このときも、格付け会社への批判が沸き上がった((Hahn, Thomas K.. "Commercial Paper". in Timothy Q. Cook and Robert K. Laroche editors (PDF). Instruments of the Money Market (Seventh Edition ed.). Richmond, Virginia: Federal Reserve Bank of Richmond.; http://www.richmondfed.org/publications/economic_research/instruments_of_the_money_market/ch09.cfm)。

 一九七〇年、シニア・パートナーのスタンレー・ミラー(Stanley R. Miller)によって、ロンドンに最初の海外支店が設立された。一九七四年には、インターナショナル・ニッケル(International Nickel)とゴールドマン・サックスのライバルであるモルガン・スタンレーが仕掛けたエレクトリック・ストーレイジ・バッテリー(Electric Storage Battery)の買収劇を阻止すべくホワイト・ナイト(白騎士=敵対的買収をかけられた企業を救済してくれる組織=white knight1)の役割を演じた。このことがゴールドマン・サックスの評判を高めた。敵対的買収に与することがないという信頼を勝ち得たのである。
 一九七六年、レビーの死後は、シドニー・ワインバーグの息子のジョン・ワインバーグ(John L. Weinberg)とジョン・ホワイトヘッド(John Whitehead)がシニア・パートナーズとなった。またホワイトヘッドは、レーガン政権下の国務次官補になり、ジョン・ワインバーグがチーフ・パートナー兼会長となった。

 ゴールドマン・サックスは、一九八一年末にアローン(J. Aron & Company)という商品取引会社を買収し、業務の多様化を図った。アローンは、希少金属、コーヒー、外国為替取引を得意とする会社であった。この会社の買収によって、ゴールドマン・サックスは南米で地歩を強固にした。

 一九八二年五月には、ジョン・ワインバーグの指揮下でロンドンのマーチャント銀行のファースト・ダラス(First Dallas, Ltd)を買収した。

 一九八五年、ゴールドマン・サックスは、史上最大のREIT(リート=不動産投資信託=Real Estate Investment Trust)を実現させた。ロックフェラー・センター(Rockfeller Center)の所有者であるリアル・エステート・インベストメント・トラスト(Real Estate Investment Trust)の発行する証券を引き受けたのである。また、この頃から世界の政府系企業の民営化のコンサルタント業務に乗り出した。

 一九八六年、ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント(Goldman Sachs Asset Management)を設立し、ミューチュアル・ファンド(米国式投資信託=mutual fund)やヘッジファンドを顧客にするようになった。同年、マイクロソフトのIPOを保証した。さらに、RCAを買収するGEのアドバイザーを務めた。さらに、ロンドンと東京の証券取引所の会員になった。

 一九八六年八月、ゴールドマン・サックスは、住友銀行からの約五億ドル(当時のレートで約七七〇億円)の出資を受け入れることで合意した。しかし、銀行と証券業務を分離しているグラス・スティーガル法があったために、住友出資分には議決権はつけず、役員派遣もしないという内容であった。住友側は、責任範囲を限定したリミテッド・パートナーという地位に甘んじる低姿勢だったが、FRBは厳しい条件を付けた。

 住友のパートナーシップ取得は二五%未満にする、住友の名称使用を禁止する、役員派遣は禁止、議決権行使はしない、つまり、純然たる投資に限定するというものであった。その結果、一九八六年一二月四日、住友はニューヨークに一〇〇%出資の子会社、SBCM(スミトモ・バンク・キャピタル・マーケット=Sumitomo Bank Capital Market)という投資銀行を設立、翌五日に出資契約に調印、同日付でSBCMを通じて一二・五%分に当たる四億二五〇〇万ドルの出資を完了した(http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2008/09/23/3780469)。

 一九九〇年、ロバート・ルービン(Robert Rubin)とスティーブン・フリードマン(Stephen Friedman)が、共同シニア・パートナーズに就任し、本格的なグローバリズム展開を目指すことになった。ルービンは、一九九三年経済担当大統領補佐官としてクリントン政権入りして、その後はフリードマンが単独会長になった。主としてM&A仲介業務であった。一九九一年、GSCI(ゴールドマン・サックス・コモディティ・インデックス=Goldman Sachs Commodity Index)を創設した。

 ゴールドマン・サックスは、ルービン、フリードマン時代に急激に高収益機関になった。一九九一年には、税引き前利益で一一億ドルをあげ、従業員に支払われた一九九二年末のボーナスは年収の二五%にもなった。一九九三年には世界でもっとも収益をあげる投資銀行グループとなった。税引き前利益が二七億ドルとわずか二年で収益を倍以上に拡大させたのである。この収益拡大の秘密は、米国の投資家に日本株を勧めたことにある。

 しかし、一九九四年、急激なドル安の進行で、債券市場が崩壊し、一挙に業績が悪化し、大量の人員整理を余儀なくされた。ほぼ五〇人ものベテランのパートナーたちも辞めた。会長のスティーブン・フリードマンまでが辞任した。ジョン・コージン(Jon Corzine)が後を継いだ。

 一九九六年には、ヤフー(Yahoo)の株式公開、一九九八年にはNTTドコモの株式公開の幹事となった("Goldman Sachs: After the Fall," Fortune, November 9, 1998, p. 128)。

 一九九九年にはヘンリー・ポールソン(Henry Paulson)が会長になった。この年、ゴールドマン・サックスはニューヨーク証券取引所の厳しい自己資本比率という条件に従わなくてよい投資銀行業務を営めるゴールドマン・サックス・グループ(Goldman Sachs Group)を設立し、IPO業務に拍車をかけただけでなく("IPO Again," Crain's New York Business, March 15 1999, p. 34)、株式も公開した(Creswell[1999], p. 120)。

 これは驚くべきことである。ゴールドマン・サックスのような巨大会社が、しかも、他社の株式公開引き受けを主要な業務内容としている会社が、それまで自社株は未公開だったのである。

 ここで、パートナー制(パートナーシップ)について説明しておく。パートナーシップとは、米国における法人形態のひとつで、日本でいう合名会社や民法上の組合のような組織に似ている。パートナーとは出資者のことであり、共同経営者となる。営業関係の契約をおこなうさいには、法人としてではなく、個人としておこなう。無限責任を連帯して負う無限責任パートナーズと、そうしなくてもよい有限責任パートナーズがある。会計事務所やコンサルティング会社に多い。法人名のあとに、「&Co.」をつけているのが、この制度の企業である(http://www.exbuzzwords.com/static/keyword_1086.html)。

 ただし、公開した株式は一部にすぎなかった。四八%はパートナーズ保有、二二%はノン・パートナーズの従業員、一八%が引退した元パートナーズと当時の住友銀行、ハワイのカメカメハ(Kamehameha)学校の投資部門であるカメカメハ・アクティビティーズ・アソシエーション(Kamehameha Activities Assn)の二大出資者に所有されていて、公開されたのは、わずか一二%であった。販売額は六九〇〇万ドルであった(Spiro[1999])。

 株式公開とともに、それまでシニア・パートナーと呼ばれていた会長職はチャーマン(Chairman)と呼ばれることになった。CEOという名称も使われるようになった。ポールソンがその第一号である。

 この年、世界的に有名なマーケット・メーカーのハル・トレーディング(Hull Trading Company)を五億三一〇〇万ドルで買収した。さらに、二〇〇〇年九月、スピーア・リード&ケロッグ(Spear, Leeds, & Kellogg)を六三億ドルで買収した。その後、ブラジルに力点を置き、さらに、石油・電力事業の世界展開をした。原油価格騰貴はゴールドマン・サックスの投機によるといわれている(Global Research. http://www.globalresearch.ca/index.php?
context=va&aid=8878)。. 

 二〇〇六年五月、ポールソンがブッシュ政権の財務長官として入閣。後任には、ロイド・ブランクファイン(Lloyd Blankfein)が就任した。

 二〇〇八年九月二二日、FRBの勧告を受けて投資銀行から銀行持ち株会社に転身した("Goldman Sachs to be regulated by Fed". Bloomberg. http://www.reuters.com/article/mergersNews/idUSNWEN838420080922; "Wall Street in crisis,  Last banks standing give up investment bank status, Guardian, September 22, 2008)。

 二〇〇〇年、ゴールドマン・サックスは三億ドルの収益をあげた。翌年は、九・一一テロによる金融界の動揺で業績不振であったが、それでも、二〇〇一年を通してゴールドマン・サックスはM&A仲介者としてこの業界を独走していた。M&A仲介額の八割はゴールドマン・サックスの手によるものであった。日本のM&Aの四六%を占有し、ドイツでは第二位であった。この年、IPO関連では全米第一位であった。しかし、M&AとIPOへの過度の傾斜によって、収益構造は非常に脆弱なものになってしまった。こうした業務は浮き沈みが激しいからである。事実、二〇〇二年になると、両者ともに沈滞してしまった。M&Aは四二%も縮小し、IPOは、二〇〇一年一二月から二〇〇二年三月までに四件しか米国ではなかった。

 加えて、ゴールドマン・サックスの規模は、ライバルに比べて小さかった。シティバンクの規模はゴールドマン・サックスの三倍であり、JPモルガン・チェースは二倍であった。そのこともあって、ゴールドマン・サックス自体がM&Aの対象になるのではないかとの噂も飛び交った。

 そうした噂をポールソンはきっぱりと切り捨てて、『ビジネス・ウィーク』に語った("Wall Street's Lone Ranger," Business Week, March 4, 2002)。「われわれは優秀なグローバル投資銀行、証券会社であり続けたい。もっとも重要なマーケットでもっとも重要な顧客との取引をとてつもなく大きくしたい」、これを達成するためには、「米国、ドイツ、英国、日本、中国」との政府関係者と密接にならなければならない」と。ゴールドマン・サックスの歴史はまさにそれを地でいくものであった。


野崎日記(298) オバマ現象の解剖(43) 一人勝ち(4)-2

2010-03-25 21:24:22 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 ゴールドマン・サックスの関連子会社を以下に列挙しておこう。ゴールドマン・サックス&カンパニー(Goldman, Sachs & Co.)、ゴールド・マンサックス・アジア・ファイナンス・ホ-ルディングズ(Goldman Sachs (Asia) Finance Holdings L.L.C.)、ゴールドマン・サックス・アジア・ファイナンス(モーリシャス)(Goldman Sachs (Asia) Finance (Mauritius)、ゴールドマン・サックス(英国)(Goldman Sachs,United Kingdom L.L.C.)、ゴールドマン・サックス・グループ・ホールディングズ(英国)(Goldman Sachs Group Holdings (United Kingdom)、ゴールドマン・サックス・ホールディングズ(英国)(Goldman Sachs Holdings (United Kingdom); Goldman Sachs International (United Kingdom)、GSフィナンシャル・サービス(GS Financial Services L.P.)、ゴールドマン・サックス・キャピタル・マーケット(Goldman Sachs Capital Markets, L.P.)、ゴールドマン・サックス(日本)(Goldman Sachs (Japan) Ltd.)、Jアローン・ホールディングズ(J. Aron Holdings, L.P.)、Jアローン&カンパニー(J. Aron & Company)、ゴールドマン・サックス・モーゲジ・カンパニー(Goldman Sachs Mortgage Company)、ゴールドマン・サックス・クレジット・パートナーズ(Goldman Sachs Credit Partners L.P.)、ゴールドマン・サックス・ホールディングズ(オランダ)(Goldman Sachs Holdings (Netherlands) B.V.)、ゴールドマン・サックス・ミツイ・マリーン・デリバティブ・プロダクツ(Goldman Sachs Mitsui Marine Derivative Products, L.P.)、ゴールドマン・サックス(ケイマン)ホールディング・カンパニー(Goldman Sachs (Cayman) Holding Company)、ゴールドマン・サックス&カンパニー(ドイツ)(Goldman, Sachs & Co. HG (Germany))、ゴールドマン・サックス・フィナンシャル・マーケット(Goldman Sachs Financial Markets, L.P.)、ゴールドマン・サックス・ハル・ホールディング(GS Hull Holding, Inc)、ハル・グループ(The Hull Group, L.L.C)、スピーア・リード・ケロッグ(Spear, Leeds & Kellogg, L.P.)、SLKホールディング(SLK Holdings Inc)、ファースト・オプション・オビ・シカゴ(First Options of Chicago, Inc.)等々である。

 主要なライバルは、クレディ・スイス・ファースト・ボストン(Credit Suisse First Boston Corp.)、メリル・リンチ(Merrill Lynch & Co. Inc.)、モルガン・スタンレー(Morgan Stanley)などである(http://www.fundinguniverse.com/company-histories/The-Goldman-Sachs-Group-Inc-
Company-History.html)。

野崎日記(297) オバマ現象の解剖(42) 一人勝ち(3)

2010-03-24 21:14:04 | 野崎日記(新しい世界秩序)


二 オフショア・バンキングの横行


 金融機関はタックス・ヘイブン(税金逃避地=tax haven)を使って、課税逃れを大規模におこなっている。

 CRS(米議会調査局=Congressional Research Service)の推計によれば、タックス・ヘイブンに移転された所得の逸失税額が毎年一〇〇億から六〇〇億ドルある。
 GAO(米国連邦議会行政監査局=United States Government Accountability Office)の調査(〇八年一二月の資料)では、米国企業で売上高上位一〇〇社(〇七年度)のうち、八三社がタックス・ヘイブンに子会社を持っている(大野[二〇〇九]、九一ページ)。それも半端な数ではない。そして、金融機関が他の産業の企業よりも圧倒的な数の子会社を持っている。シティグループが四二七、モルガン・スタンレーが二七三、バンク・オブ・アメリカが一一五もの数である。ただし、JPモルガン・チェースは少なく五〇である。

 金融以外では、ニューズ・コーポレーション(News Corporation)が一五二、ファイザー(Pfizer Inc.) が八〇、P&Gが八三、マラソン・オイル(Marathon Oil)が七六、ペプシコ(PepsiCo, Inc.)が七〇、キャタピラー(Caterpillar Inc)が四九である。
 IRS(米内国歳入庁=Internal Revenue Service)は、オフショア口座(税金逃避地銀行口座=offshore account)の自己申告漏れに巨額の罰金を科すことになった。しかも、対象者は、米国居住者だけでなく、米国で事業を営む企業や個人をも含めることになった。一年度内に一度でも一万ドルを超える口座を持ったものに報告義務があるとされた。

 さらに開示する対象にヘッジファンド(hedge fund)やプライベート・エクイテイ・ファンド(privete equity fund)も加えた。

 大野[二〇〇九]の設例によると(九〇ページ)、一〇〇万ドルをオフショア口座に年五%の利率で六年間預ければ、年五万円の利息、六年間で三〇万円の利息合計になる。それを六年後になって口座の存在をIRSに報告した場合、利息に課税される米国の税率は三五%なので、六年間の課税総額は一〇万五〇〇〇ドルになる。これに、報告が遅れた罰金六年分加算される。罰金総額は二八万一〇〇〇ドルである。つまり、合計三八万六〇〇〇ドルの支払いが強制される。

 申告しなくて、口座の存在がIRSに知られると、懲罰的な巨額の罰金が科せられる。元本一〇〇万ドルについては、二三〇万六〇〇〇ドルの罰金、さらに刑事罰として最高で五〇万ドルと一〇年以下の懲役が待っている。

 米国政府が強硬手段に訴えるようになったのは、イゴール・オレニコフ(Igor Olenikov)というロシアからの移民の脱税容疑からである。米国で不動産ビジネスを成功させたオレニコフは、UBS(Union Bank of Switzerland)に預けた預金二億ドルを申告せず、その利息にかかる税七二〇万ドルを脱税したという容疑で逮捕された。有罪になれば追徴税だけでなく、罰金額二五万ドル、懲役五年が科されるはずであった。オレニコフは追徴課金五二〇〇万ドル、執行猶予二年という条件で司法取引に応じ、秘密取引の生々しい実態を当局に告白した("The Americans suspected, "June 20, http://deereenifee.ru/?p=2117)。

 オレニコフを顧客にしていたのは、UBSの元米国人社員、ブラッドレイ・バーケンフェルド(Bradley Birkenfeld)であった。バーケンフェルドは、オレニコフから預かった二億ドルをリヒテンシュタインなどのタックス・ヘイブンに移転させ、脱税を幇助した。
 バーケンフェルドは、UBSで富裕層の資産運用をおこなうプライベート・バンキング業務に従事していた。彼は、UBS時代に二〇〇億ドルほどの資産を運用し、あげた収益は収益は二億ドルあったといわれている。その彼がオレニコフの告白によって逮捕されたのである("Former banker UBS have accused of concealment of incomes of clients," May 14, 2008, http://fin-forex.com/former-banker-ubs-have-accused-of-concealment-of-incomes-of-clients/)。

 そもそもオレニコフが逮捕されたのは、密告による可能性が高い。密告で脱税容疑が固まると、密告者は、その密告によって徴税できた額の三〇%を報奨金として受け取ることができるという制度がある。それが、バーケンフェルドの逮捕、手口の詳細を当局にもたらした。バーケンフェルドは、〇九年八月に罰金四万ドルと拘禁刑四〇か月という判決を下された。バーケンフェルドの取り調べから、米司法省は、脱税指南はバーケンフェルド個人に止まらず、UBSの組織ぐるみの犯行であると判断して、UBSの提訴に踏み切った。

 UBSの富裕米国人顧客は五万二〇〇〇人いるとされている。司法省は、UBSに顧客のオフショア口座の開示を当局は迫ったのである。

 訴追されたUBSも司法取引に応じ、〇九年二月、罰金七億八〇〇〇万ドルの支払いと脱税の疑いがある二八五人の米国人顧客の口座情報を開示することで和解した。

 司法省はそれで納得したのだが、IRSは和解に異を唱え、全米国人顧客の口座情報を開示するように改めてUBSに迫った。UBSは当初、顧客情報の守秘義務を定めたスイスの銀行法を盾にIRSの要求を突っぱねていた。UBS幹部が米議会の公聴会に呼ばれても、同じ主張を繰り返し、スイス銀行法の縛りがあるために、一金融機関では対処できないと訴え、スイス政府と米国政府との外交上の問題であるとした。

 矛先がスイス政府に向けられることになったのだが、近年になって、スイスの銀行法は国際的な非難の対象になってきた。OECD(経済協力開発機構)やEU(欧州連合)から、スイスの外資優遇策への批判や各国の税務当局同士の情報交換に非協力的なスイスの税務当局への非難が強まっている。〇九年四月に開催されたG20では、タックス・ヘイブンへの強い規制の必要性が指摘されていた。

 こうした雰囲気の下でUBSはIRSに対して新たに四八五〇人の口座情報の開示に踏み切った。こうしたことを受けて、〇九年八月時点で一五〇人以上の米国人がタックス・ヘイブンがらみの脱税容疑で刑事操作を受けている。大野[二〇〇九](九三ページ)によれば、この制度が施工される何か月も前から、銀行が顧客に対して、架空名義の口座を作ることを勧めていたという。米国の大手法律事務所がこうした不法行為に手を染めているという(大野[二〇〇九])


野崎日記(296) オバマ現象の解剖(41) 一人勝ち(2)

2010-03-18 21:02:15 | 野崎日記(新しい世界秩序)



  一 銀行分割論の台頭


 通信社のロイターが市場に関する重要問題について、世界の重要人物に連続インタビューする企画をロイター・サミット(Reuter Summit)という。〇九年一〇月二〇日、ガイトナー(Timothy Franz Geithner)米財務長官は、このサミットの一つ、ロイター・ワシントン・サミットで、破綻寸前であった米金融機関が幹部に高額ボーナスを支払っていることは、「国民に対する侮辱だ」と語った。その発言はこれまでのガイトナー長官のコメントのなかで、もっとも激しい口調となった。「破綻寸前となり、金融システムをここまで脆弱し、多大な被害をもたらした金融機関が、社内の人間に多額の報酬を支払っていることは、多くの人々にとって極めて不快なことだ」と述べた。

 ただし、オバマ(Barack Hussein Obama, Jr.)政権は、フランスやドイツが求めている、報酬への上限設定に抵抗してきたという経緯がある。事実、オバマ政権から〇九年六月に企業幹部報酬特別監督官に任命された上記のケネス・ファインバーグもこのサミットで、金融業界の報酬に対する認識と一般社会の認識にかなりの隔たりがあることは認めたが、「私はこの溝を埋める努力を求められているが、この圧倒的な溝が埋まるかどうか分からない」と述べた。つまり、大胆なメスを入れることへの躊躇を示したのである(http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-12053120091021?sp=true)。

  ブルームバーグ(Bloomberg)は、そのジャーナルで、〇九年一一月一七日、オバマ政権による金融規制改革を厳しく批判したローエンスタイン(Roger Lowenstein)の論文を掲載した。

 ローエンスタインはいう。

 「法案が提示されているものの、それは複雑で冗長すだ。提案された解決策の大半は漸進的な変更であり、将来のバブル発生を阻止できそうにない」、「上院と下院は、どの連邦機関が銀行監督で主導権を握るかをめぐって争っている。政府も議会も、すべてを解決しようとして落とし穴にはまっている。それよりは、もっとも重要な改善策で合意すべきだろう」。

 同氏は、金融危機は以下の六つの問題点から発生したという。①緩すぎた住宅金融規制、②低すぎた銀行の自己資本比率規制、③クレジット・デフォルト・スワップ(CDS=Credit Default Swap)などのデリバティブ(金融派生商品=Derivatives)取引の横行、④大きな欠陥があった債務担保証券(CDO=Collateralized Debt Obligation)などの仕組み証券の信用格付け、⑤リスクテイクに駆り立てられた銀行の過剰な報酬、⑥政府の危機対応が招いたモラルハザード(倫理観の欠如)。

 ①について。議会は「住宅ローンは、借り換えの見込みではなく、借り手の返済能力に基づいて承認されるべきだ」との簡単な原則を法制化すべきである。

 ②について。G20の圧力があるが、自主的に米国はそれを待つべきではない。議会はより高い基準を主張しなければいけない。

 ③について。店頭デリバティブ取引を禁止すべきであるとの議論もあるが、大事なことは、各取引を裏付けている十分な担保の額でなければならない。

 ④について。ムーディーズ・インベスターズ・サービス(Moody's Investors Service)やスタンダード・アンド・プアーズ(S&P=Stndard & Poor's)、フィッチ・レーティングズ(Fitch Ratings)などが、住宅ローン担保証券(MBS=Mortgage Backed Security)に過度に甘い格付けを付与したことが住宅バブルを増大させた。これら格付け会社は、証券化商品を組成して販売するのに格付けを必要した金融機関から報酬を得ていた。米当局は、こうした利益相反だらけの取引を禁止すべきである。米証券取引委員会(SEC=Securities and Exchange Commission)が「全国的に認められた」企業を指定し(2)、このお墨付きを得た企業が多くの事業を手掛けられるようにすればよい。議会は、利害のない相手から報酬を得ている格付け会社のみが、そうした認定を得る資格を有するようにしなければならない。

 ⑤について。報酬の膨張は、金融機関に限られたものではないが、ウォール街で過度のリスクテークを促し、高レバレッジにつながる。政府による報酬抑制は機能していない。ウォール街ではふたたび多額のボーナスが再び支払われるようになっている。より簡単な解決策は、たとえば、五〇〇万ドル以上の高額報酬について、株主の承認を義務付けることである。

 ⑥について。米当局は、二〇〇八年にベア・スターンズ(Bear Stearns)とファニー・メイ(連邦住宅抵当金庫=Fannie Mae=Federal National Mortgage Association)、フレディ・マック(連邦住宅貸付抵当公社=Freddie Mac=Federal Home Loan Mortgage Corporation)を救済したさい、将来の救済の前例になるものではないと強調した。しかし、こうした救済は、金融機関に特権的な地位を与えることである。それは、彼らに無謀な行動を促すことにつながる。政府は、大手金融機関に多額の保険料を請求し、自己資本規制をさらに強化し、「大きすぎて潰せない」(Too Big to Fail)ことのないように、そもそも銀行の規模を小さくすべきである。

 以上が、ローエンスタインの主張である(  http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920021&sid=a9sVylN4aV4A)。

 イングランド銀行総裁(Governor of the Bank of England)のマービン・キング(Mervyn King)は、二〇〇九年一〇月二〇日、英国のエディンバラで講演し、経営危機に陥っている金融機関への米国の対応を暗に批判した。

 「暗に」というのは、表現が抽象的なものだったからである。危機への対応は二つあるとして、同氏は、次のように説明した。

 「一つは、重要すぎて潰せないという前提の下で、破綻の可能性を低め、納税者の負担をできるだけ小さくすることである」。

 これが米政府の緩やかな金融規制改革を指すことは明かである。

 キング総裁は、もう一つの対策として巨大金融機関の分割・解体という荒療治を提示した。受け入れられないほどの巨額のコストを社会に強いることをしないですむのはこれしかないという(http://www.bankofengland.co.uk/publications/speeches/2009/speech406.pdf)。

 実際、保険部門や投資銀行部門の一部の売却を当局から迫られていた英銀大手のRBS(ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(=Royal Bank of Scotland)は、〇九年一一月二日、その命令を受け入れた(Treanor & Wearden[2009])。

 市村孝二巳によれば、巨大金融機関が投機的な行動をとる大きな理由の一つが、「大きすぎて潰せない」という米政府の姿勢にある。失敗しても、政府が救済してくれると甘えが金融機関側にあり、それが投機行動を止めさせない要因になっているとの金融機関と米政府に対する批判が高まってきた。コロンビア大学教授のジョセフ・スティグリッツ(Joseph E. Stiglitz)、エコノミストのヘンリー・カウフマン(Henry Kaufman)、前FRB議長のアラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)などがそうした批判者たちであり、経営危機に陥った巨大金融機関の分割・解体論に属すると、市村氏はいう(市村[二〇〇九])。

 こうした米政府の政策を、元FRB金融政策局長(former director of the Federal Reserve Board's Division of Monetary Affairs)のビンセント・ラインハート(Vincent Reinhardt)は、『日経ビジネス』の取材に対して次のように答えた。

 米財務省の金融機関改革案は驚くほど改革意欲に乏しいものである。すべての金融機関を監督する総合的な監視機関を作ろうとしているが、大きすぎて潰せないという方針を維持したままこうした制度を作ってみても、屋上置くを架すだけである。それは、むしろ潰さないことを制度化してしまうものであり、事態をさらに悪化させかねない。現行の米国の金融規制は複雑になりすぎて、実際的にも監督ができなくなってしまっている。これが市場の劣化を生み、金融機関の抱えているリスクを正しく把握できなかった原因である。潰さないという前提に立てばなにもできないことになる。
 そうした姿勢を反省して、危機に陥っている金融機関を国有化しようにも、政治的な理由によってそれができなくなってしまっている。公的資金をこうした機関に次ぎ込むことに世論が反発しているからである。国民の多くは金融機関の国有化に反発している。二〇〇八年秋に米下院選挙があったが、TARP(不良資産救済プログラム=Troubled Asset Relief Program)に賛成した議員のほとんどが落選したことも、国有化に踏み切れない要因の一つである。当局は、市場を凍結しただけであり、根本的な解決策に取り組んでいるわけではない。以上が、ラインハートの批判である(『日経ビジネス』二〇〇九年一一月九日号、一一ページ)。

 表面的には、米政府は、G20が決めたBIS(国際決済銀行=Bank for International Settlements)の自己資本比率規制(バーゼルⅡ)(3)の強化に対して、中核的自己資本のうち、普通株や剰余金などの限定した「コアTier1」(4)の重視という主張によって賛同しているように見えるが、それはただ、リップ・サービスでしかない(市村[二〇〇九])。

 キング総裁の講演の三日後の二〇〇九年一〇月二三日、ボストン連邦準備銀行(Federal Reserve Bank of Boston )会議に出席したバーナンキ(Benjamin Shalom “Ben” Bernanke)FRB議長は、キング総裁に代わって同会議に出席していたイングランド銀行前副総裁(former deputy governor of Bank of England)のジョン・ギープ(Sir John Gieve)の質問に答えて、分割・欠いた異論を退けた。金融機関の多機能にわたる国際的な活動によって得られている経済的利益を損なわないようにしなければならず、そのためにも分割・解体よりももっと手の込んだ金融規制が必要であるという理由からであった。

 かつていわれていたが、近年下火になってた「ニャロー・バンキング」(narrow banking)論も、ジョン・ケイ(John Kay)などから唱えられるようになった。これは、たとえば銀行なら、投機的な投資行動を取り勝ちな「カジノ部門」と資金決済などを中心にする「公益部門」とに分けてしまうという考え方である(Kay[2009])。

 元FRB議長で、オバマ政権ではPERAB(経済再生諮問会議=President's Economic Recovery Advisory Board )議長のポール・ボルカー(Paul Volcker)も分割論者である。個人・中小企業金融部門を投資部門から切り離すべきだというのである。

 米国の金融機関はまだ危機を脱していない。シティグループは、二〇〇九年一〇~一二月期の損失額が一〇〇億ドルに上ると指摘するアナリストもいた。繰延税を取り崩したためである。

 野村資本市場研究所の関雄太・主任研究員の試算によると、中核的な自己資本比率(Tier1)の数値は、〇九年九月末で、シティグループが一二・七%、バンク・オブ・アメリカが一二・五%であった。しかし、前者に投入されている公的資金四五〇億ドルを除くと、前者の数値は八・二%、後者に投入されている公的資金三五〇億ドルを除くと、後者の数値は一〇・二%と大幅に低下する(市村[二〇〇九]、一一ページ)。シティグループとバンク・オブ・アメリカは公的資金返済の目処も立っていない。米政府は、国有化を図ろうにも、普通株の取得に必要な財政出動はほぼ不可能である。とすれば、両行はいずれ分割・解体の運命を甘受しなければならなくなるだろう。

 〇九年九月を末日とする二〇〇九年度会計年度の米国の財政赤字は、一兆四一七一億ドルとなった。これは、〇八年度の三倍以上であり、その規模は、米国GDPの一〇%近くにのぼる。一九四五年以降で最大の赤字規模である。