消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 5

2006-11-30 03:23:31 | 時事

おわりに

 「シティ・グループ」になって以降のグループの拡大はまさに破竹の勢いである。

 1999年「シティ・グループ」はインターネット・バンクの「シティ・ダイレクト・オンライン・バンキング」(CitiDirect Online Banking)を創設。


 同年3月「日興ソロモン・スミス・バーニー」(Nikko Salomon Smith Barney Ltd.)を設立。


 同年3月チリ第2の商業銀行「フィナンシエロ・アトラス」(Financiero Atlas)買収、同年9月「リップルウッド」(Ripplewood)と組んで、日本長期信用銀行買収。


 
同年10月財務長官ロバート・ルービンが経営陣に加わる。


 2000年メキシコの年金ファンド「アフォレ・ガランテ」Afore Garante)を買収。


 同年3199911月クリントン大統領の署名によって成立した「グラム・リーチ・ビリー法」の適用第1号銀行となる。


 20005月「ソロモン・スミス・バーニー」が「シュローダーズPLC」(Schroders PLC)を買収し、ヨーロッパで「シュローダー・ソロモン・スミス・バーニー」(Shroder Salomon Smith Barney)を設立。


 2000年には、ポーランド、アルゼンチン、イスラエル、ブルガリア、台湾、ハンガリー、ジュネーブでそれぞれの国のリーディング銀行を相次いで買収。

 2001年にもメキシコ、ケニヤの銀行を買収、以後もミューチュアル・ファンドや年金等々の金融業務に乗り出している。

 米国は銀行・証券・保険の垣根を取っ払ってしまい、ひたすらM&Aを通じる巨大化路線を走っている。それはまさにパソコン市場におけるマイクロソフトである。


 権力に近い少数の超エリート人脈から外れてしまうとそれこそビジネスができないようになりつつある。こうした社会が安定性を示すとはとても思われない。しかし、どこから破綻がくるのかはいまだ誰にも分からない。


際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 4

2006-11-28 04:28:45 | 時事

Ⅲ シティ・グループを形成させた華麗な人脈

 世の中は多かれ少なかれ人脈で動くものである。私たちの小さな生活空間から、大きな宗教界、政界、財界、学会という大きな世界に至るまで、人脈の重要さについては誰でも皮膚感覚で知っている。しかし、巨大組織が合併したり、当事者間の紛争に介入したりする人脈については、それがあまりにも生々しいがゆえに、公の目にさらされることは少ない。筆者もシティ・グループ形成に果たした人脈を懸命に探って見たが正確なことを確定できないでいる。

 現在、日本でただ1人、金融界の人脈を探っている広瀬隆の『世界金融戦争』(NTT出版、2002年)に全面的に依拠して人脈理解のよすがとさせていただきたい。以下はすべて広瀬隆からの転載である。

  ①ゴールドマン・サックスはロスチャイルド資本で動いている。ゴールドマン・サックスの若きホープがロバート・ルービンであった。ルービンは鉄道王の未亡人パメラ・ハリマンと組んでクリントンを大統領にすることに貢献した。財務長官として活躍したが1999年7月2日の退任に際して「金融近代化法」(Financial Modernization Act)成立に貢献した。

  ②倒産した「ロングターム・キャピタル・マネジメント」(LTCM)の創業者ジョン・メリウェザー(John Meriweather)は「ソロモン・ブラザーズ」副会長を経験し、経営幹部でノーベル経済学賞を受けたロバート・マートン(Robert Marton)は「トラベラーズ」の投資部門担当重役であった。

  ③「ドレクセル・バーナム・ランベール」のドレクセルは「モルガン商会」を設立した名門1族、ランベールはリュシー・ロスチャイルド(Ricie Rothschild)と結婚したベルギーの男爵レオン・ランベール(Leon Lambert)の同名の孫であった。

  ④1979年ワイルが買収した老舗「レーブ・ローズ・ホーンブロワー商会」は「世界ユダヤ人会議」(World Jewish Congress)議長エドガー・ブロンフマン(Edgar Bronfman)1族の経営になるものである。この商会はハリウッドのMGMをも支配していた。1981年に「シェアソン・レーブ・ローデズ」が「ボストン・カンパニー」を買収するに当たって「グラス・シティーガル法」違反の疑いがあったのに、問題視しなかったSEC委員長のジョン・シャドはワイルが買収した「シェアソン・ハミル」の元幹部であった。そしてSEC委員長に就任する前は投資会社「E・F・ハットン」の会長であった。当時のレーガン政権時代の「連邦準備制度理事会」(FRB)議長のポール・ボルカー(Paul Volcker)も問題にしなかった。ボルカーは「チェース・マンハッタン」(Chase Manhattan)銀行の副頭取を経験し、FRB議長退任後は創設者がシティ・グループのアドバイザーとなる投資会社「ウォルフェンゾーン」の会長をしていた。ジョン・シャドが会長を務めていた「E・F・ハットン」は、「ゼネラル・フーズ」(General Foods)会長のエドワード・フランシス・ハットン(Edward Francis Hutton)が設立した会社である。ハットン自身の姻戚には、ウォール街の地主で全米最大の財閥を形成したアスター(Aster)1族、「暗黒の木曜日」を引き起こした財務長官アンドリュー・メロン(Andrew Melon)、SECを設立した大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)がいる。ジョン・シャドがハットン死後、それまで務めていたシェアソンから急遽「E・F・ハットン」に移籍したのもこうした華麗な人脈を得るためであった。

  ⑤「プライメリカ」は缶詰製造を制覇した「アメリカ製缶」(American Can)が本業を売却してJ・P・モルガン系列の「ギャランティー・トラスト」(Guarantee Trust)を基盤とする名門証券「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」を買収してできあがった。89年に「コマーシャル・クレジット・グループ」(Commercial Credit Group)を買収して社名を「プライメリカ」に変えた。

  ⑥ワイルの個人資産は『フォーブズ』によれば、98年6億7500万ドル、年収は全米の企業経営者の中で1位の2億2761万ドルであったが、2002年には資産18億ドルと3倍にもなった。人口2600万人のアフガニスタンを救うために2002年東京で供出が約束された支援金が世界で13億円であった。それはワイル個人にも及ばない額であった(同、78~94ページ)。「昔であれば独占資本として多くの批判を浴びたはずの巨大化が、むしろどこの国でもかなりの国民と大部分の政治家によって支持されている」(同、94ページ)。 「シティ・グループ」のホームページにはアドバイザーの経歴が掲載されている。その中の2人を引用しておこう。

  「シティ・グループ・シニア・アドバイザー」(Citigroup Senir Adviser)にハワード・ベーカー」(Howard H. Baker, Jr.)がいる。ベーカーは1966年テネシー州(Tennessee)選出共和党上院議員、第26代米国駐日大使、上院院内総務(US StateSenate Majority Leader)を歴任し、2005年には駐日大使を辞めた後、祖父が設立した法律事務所「べーカー・ドネルソン・ビアマン・カルドウェル・バルコウィッチ事務所」(Baker, Donelson, Bearman, Caldwell & Berkowitz, PC)に復帰し、同年より「シティ・グループ」のアドバイザーになっている。ベーカーの駐日大使は、子ブッシュ(George W. Bush)によって2001年に任命されたものである。

 1976年国連大使、1985~1990年まで大統領の「国際情報局」(President's Foreign Intelligence Board)、さらに「外交問題評議会」(Council on Foreign Relations)、『フォーリン・アフェアーズ』(Foreign Affairs)理事を歴任した有力者である。

 イスラエルとパレスティナとの仲介を国連から委嘱されたいたジェームズ・ウォルフェンゾーン(James D. Wolfensohn)も2005年から「シニア・アドバーザー」、2006年には同グループ「国際顧問会議議長」(Chairman of Citigroup's International Advisory Committee)になっている。10年間第9代世銀総裁(President of the World Bank)を2005年まで務めた。彼自身も投資銀行家である。「ジェームズ・D・ウォルフェンゾーン」(James D. Wolfensohn, Inc.)のCEOであった。1981年にこの銀行を設立し、世銀入行時に会社を清算している。自分の銀行設立前はニューヨークの「ソロモン・ブラザーズ」の共同経営者(Executive Partner)、ロンドンの「シュローダーズ」の副会長をも歴任した。ニューヨークの「J・ヘンリー・バンキング・コーポレーション」(J. Henry Schroders Banking Corporation)頭取も務めている。18年間「プリンストン大学応用研究所理事会」(Board of Institute for Advanced Study at Princeton University)理事長を務めた。「カーネギー・ホール」(Carnegie Hall)運営委員長、「ロックフェラー基金」(Rockefeller Foundation)理事でもある。出身はオーストラリアで、同国空軍の経験もある。1956年フェンシングでオーストラリアのオリンピック出場選手でもあった。


際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 3

2006-11-26 02:36:25 | 時事

 Ⅱ シティ・グループ傘下に組み込まれた老舗金融機関

  上記のような相次ぐ合併劇の事実のみを記しても事の本質が浮かび上がるわけではない。合併を推進させた金融人脈こそが重要なのである。「シティ・グループ」という巨大金融集団の出現とは、とてつもなく巨大な力をもつ金融人脈が形成されたことを意味するのである。


 (1)「シティ・コープ」 「シティ・コープ」の1方の旗頭である「シティ・バンク」(Citibank)は1812年の「シティ・バンク・オブ・ニューヨーク」(City Bank of New York)を嚆矢とする。創設者はサミュエル・オスグッド(Samuel Osgood)である。合併を繰り返して1865年「ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク」(National City Bank of New York)になり、1894年には全米最大の銀行になる。1897年最初の海外支店を設置し、上海、マニラに進出する。1913年「ニューヨーク連邦準備銀行」(Federal Reserve Bank of New York)設立に寄与する。1929年には世界最大の商業銀行になる。1939年には世界23か国で100支点をもつようになる。1940年ウィリアム・ゲイジ・ブレイディ(William Gage Brady Jr.)が頭取になり、1952年ジェームズ・スティルマン・ロックフェラー(James Stillman Rockfeller)が頭取になる。1962年創立150年を期して「ファースト・ナショナル・シティ・バンク」(First national City Bank)と改称。1968年持株会社「ファースト・ナショナル・シティ・コーポレーション」(First National City Corporation)設立。この持株会社が1974年に「シティ・コープ」(Citicorp)と改称。そして傘下の「ファースト・ナショナル・シティ・バンク」が「シティ・バンク・N・A」(Citibank for National Association)と改称。1981年「ダイナーズ・クラブ」(Diners Club)を買収。1984年ジョン・リードが頭取、1998年まで。1992年「シティ・バンク・N・A」が全米最大の銀行になる。1993年世界最大のクレジット・カード提供銀行となる。そして、1998年「シティ・グループ」を結成するのである(Citigroupホームページより)。


 (2)「リーマン・ブラザーズ」 1850年、ドイツ・リンパール(Rimpar)から移民してきたリーマン3兄弟、ヘンリー(Henry)、エマニュエル(Emanuel)、マイヤー(Meyer)によって設立された証券会社である。1844年若干23歳で長男のヘンリーがアラバマ州(Alabama)、モンゴメリー(Montgomery)で設立した衣料店を出発点とする。原棉ビジネスを経て証券仲介業務を営むことになる。証券会社の名は「リーマン・ブラザーズ・ホールディング」(Lehman Brothers Holdings, Inc.)。南北戦争(U.S. Civil War)後、アラバマ州再建に貢献。鉄道債で大儲け。20世紀に入って株式発行を主たる資金調達手段にする金融手法を普及するのにも貢献。フィリップ・リーマン(Philip Lehman)が経営者の時、「ゴールドマン・サックス」(Goldman, Sachs & Co.)のパートナーとなり、「ジェネラル・シガー」(General Cigar Co.)という煙草会社や「シアーズ・ローバック」(Sears Roebuck & Company)などを上場させる。以後20年間で100を超える会社を「ゴールドマン・サックス」と組んで上場させる。1929年本体から分離した投資会社「リーマン・コーポレーション」(Lehman Corporation)を設立し、資産管理会社としての絶大な地位を得る。1969年ロバート(Robert)・リーマン死去後、経営にリーマン1族が関わらなくなった。1977年CEOのピート・ピーターソン(Pete Peterson)の下で「クーン・レーブ」(Kuhn, Loeb & Co.)と合併し、「リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ」(Lehman Brothers, Huhn Loeb Inc.)となる。しかし、この会社は投資バンカー(Investment Banker)とトレーダー(Trader)との角逐が深刻になり、ピーターソンは、トレーダーのキャップのルイス・グラックマン(Lewis Gluckman)を1983年5月に共同CEOとして遇するが、結局はピーターソンが追い出され、グラックマンが実権を握る。このグラックマンがCEOの時の1984年3・6億ドルで「アメリカン・エクスプレス」に買収されてしまう。これが「シェアソン・リーマン・アメリカン・エクスプレス」(Sheason Lehman/American Express)になる。名門中の名門である「クーン・レーブ」商会の名がここに消えたのである。そして1988年、この会社と「E・F・ハットン」(Hutton)が合併して 「シェアソン・リーマン・ハットン」(Sheason Lehman Hutton Inc.)になる。そして、再度、「プリメリカ」のワイルに買収されたのが1993年のことであった(Wikipediaによる)。


   (3)「クーン・レーブ」 「クーン・レーブ」は1867年アブラハム・クーン(Abraham Kuhn)とソロモン・レーブ(Salomon Loeb)によって創設された投資銀行である。19世紀末から20世紀にかけてジェイコブ・シフ(Jacob H. Schiff)の下で「J・P・モルガン」(J.P.Morgan & Co.)の最大のライバルとして金融界に君臨した名門である。鉄道債の取引で米国では第2位の地位を確保し続けた。とくに鉄道王のE・H・ハリマン(Harriman)が優良顧客であった。経営陣にはオットー・カーン(Otto Kahn)、フェリックス・ウォーバーグ(Felix Warburg)といった大物が1920年のシフの死後も続いた。「ウェスティング・ハウス」(Westinghouse)や「ポラロイド」(Polaroid)といった新興企業を支援するので夢有名な投資会社であった。しかし、この名門も激しい金融戦争で没落し、1977年には独立性を失った。上記のように、「リーマン・ブラザーズ」に買収されたのである(Wikipediaによる)。


 (4)「スミス・バーニー」 「トラベラーズ・グループ」の「スミス・バーニー」の経緯も見ておこう。1873年証券仲買人チャールズ・バーニー(Charles Barney)が「チャールズ・D・バーニー」(Charles D. Barney & Co.)を設立。1892年エドワード・スミス(Edward Smith)が投資銀行「エドワード・D・スミス」(Edward B. Smith & Co.)を設立。1910年ハーバート・アーサー(Hurbert Arthur)とパーシー・ソロモン(Percy Salomon)が「ソロモン・ブラザーズ」(Salomon Brothers & Co.)を設立、さらに「モートン・ハッツラー」(Motron Hutzler)と組んで「ソロモン・ブラザーズ&ハッツラー」(Salomon Brothers & Hutzler)となる。1938年「チャールズ・D.バーニー」と「エドワード・B・スミス」)が合併して「スミス・バーニー」(Smith Barney & Co.)となる。1970年「ソロモン・ブラザーズ&ハッツラー」の「ハッツラー」が落ちて「ソロモン・ブラザーズ」だけになる。1976年「スミス・バーニー」が「ハリス・アッパム」(Harris, Upham & Co.)と合併して「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」(Smith Barney, Harris Upham & Co.)となる。この時のバーニー側の副頭取が初代J・P・モルガン(Morgan)の曽孫ジョン・アダムズ・モルガン(John Adams Morgan)であった。1989年ワイルが「プリメリカ」に「アメリカン・エクスプレス」から移籍する。1987年「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」が「プリメリカ」(Primerica)に買収される。1993年7月「プリマリカ」が「シェアソン・リーマン・ブラザーズ」(Sheason Lehman Brothers)を買収して「スミス・バーニー」に編入させる。同年12月「プリマリカ」が「トラベラーズ」を買収し、「スミス・バーニー」は「トラベラーズ・グループ」傘下に入った。そして1997年「スミス・バーニー」が「ソロモン」と合併して「ソロモン・スミス・バーニー・ホールディング」(Salomon Smith Barney Holdings Inc.)となり、1998年を迎える(Citigroupのホームページより)。


 (5)「ドレクセル・バーナム・ランベール」 フランシス・マーチン・ドレクセル(Francis Martin Drexel)がフィラデルフィアに「ドレクセル」(Drexel & Company)という銀行を1837年設立した。フランシスは、1792年オーストリーのチロル(Tyrol)に生まれた。1803年宗教絵画を学びにイタリアに留学、1809年帰国した時には故郷はフランス軍によって占領されていた。スイスやフランスを転々として絵画の勉強を続けた後、1817年アムステルダムからフィラデルフィアに移民。しかし、ペルーやチリを漫遊して絵画の勉強を続ける。南アメリカの将軍(General)サイモン・ボリバール(Simon Bolivar)の肖像をその時に描いている。ちなみに、ボリビアという国名は南アメリカのこの独立闘争の闘士ボリバールの名前からきたものである。南アメリカを2度訪問した後、メキシコにも寄り、フィラデルフィアに帰って銀行を設立したのである。当時は米国最大の銀行であった。 1847年、21歳の息子のアンソニー・ジョセフ・ドレクセル(Anthony Joseph)が加わり、カリフォルニア州の金採掘業務に融資していた。メキシコ戦争(Mexican War)や南北戦争時には連邦政府債を扱っていた。1863年父フランシスの死後、息子のアンソニーが社長となって後、1868年パリに「ドレクセル・ハージェ」(Drexel, Harjes & Co.)を設立し、1871年には、J・P・モルガンと組み、当時世界最大の銀行「ドレクセル・モルガン」(Drexel, Morgan and Co.)を設立した。社名からモルガンを消した後、さらに、「バーナム・&カンパニー」(Burnham & Company)と合併し、「ドレクセル・バーナム」となる。経営危機に陥った時にブリュッセルの銀行が救済に入る。「グループ・ブリュセル・ランベール」(Groupe Bruxxelles Lambert)である。そして、「ドレクセル・バーナム・ランベール」に社名を変更する。行員には著名な経済学者のアビー・ジョセフ・コーエン(Abby Joseph Cohen)もいた。しかし、1980年代にはジャンク・ボンドに傾斜する。有名なマイケル・ミルケン(Michael Milken)が活躍した頃である。1986年には会社は5・45億ドルもの空前の純利益を上げ、1987年にはミルケンは5・5億ドルの報酬を得た。しかし、アイバン・ボースキー(Ivan Boesky)やデニス・レビン(Dennis Levine)などがインサイダー取引で司直に逮捕され、彼らを雇っていた同社は経営に行き詰まり、1990年市場から姿を消した。  ただし、創始者の芸術家としての素養は子供たちにも受け継がれ、1826年9月13日生まれのアンソニーは「ドレクセル大学」(Drexel University)を創設。1833年1月24日生まれのジョセフ・ウィリアム・ドレクセル(Joseph William)は1876年に銀行業務から引退した後、「メトロポリタン美術館」(Metropolitan Museum and Art)や「米国ナショナル科学アカデミー」(U.S. National Academy of Sicence)の管財人を務め、「メトロポリタン・オペラ・ハウス」(Metropolitan Opera House)理事を歴任した。1824年6月20日生まれのフランシス・アンソニー・ドレクセル(Francis Anthony)は聖キャサリン・ドレクセル(Saint Katharine Drexel)の父である(Wikipediaによる)。 聖キャサリン・ドレクセルは1858年3月3日というカトリックの聖なる日に誕生。1955年死去という長寿。ネイティブ・インディアンや有色人種の教育・福祉に2000万ドルを寄進。貧民地区にシスター養成所を設立。1988年ローマ法王・パウロ2世(Pope John Paul Ⅱ)によって列福された(beautified)(死者を天福を受けた者の列に加えること)(Catholic Online, Festday: March 3, 1955, http://www.catholic.org)。


際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 2

2006-11-25 01:33:24 | 時事
 Ⅰ シティ・グループ形成史

 世界100か国で営業するシティ・グループの業績は目覚ましい。2005年度の収益836億ドル、当期純利益246億ドル、株主資本利益率22・3%、株主持分(自己資本)1188億ドル。収益基盤は4つに分かれている。グローバル個人金融部門が最大の柱で収益の53%を稼ぎ出している。法人金融・投資銀行部門が34%、グローバル・ウェルネス・マネジメント部門が6%、シティグループ・オルタナティブ・インベストメンツ7%。地域別では米国内が圧倒的に大きく57%である。日本を除くアジア14%、日本6%、メキシコ10%、メキシコを除くラテンアメリカ5%、ヨーロッパ・中東・アフリカ8%と米国以外ではアジアとラテンアメリカに集中している。

 1998年10月、保険持株会社旧トラベラーズ(Travelers)(後述)と大手銀行持株会社旧シティコープ(Citicorp)(後述)が統合したことによりシティ・グループの大枠ができた。銀行、証券、保険引受という総合金融サービス機関となった

 シティ・グループの本拠はニューヨークにある。『フォーブズ』(Forbes)の『グローバル2000』(Global 2000)によれば、世界最大の企業にしてもっとも収益を上げている金融機関である。大恐慌以降、銀行業務と保険引受業務を兼営する最初の米国企業である。従業員30万人超、世界の顧客数2億人以上、米国財務省証券の主たるディーラーである。

 The Thomson Financial League,2003によれば、同社のシェアは、世界の資本市場の10%、消費者金融6%、プライベート顧客サービス5%、米国内リテール銀行業務4%である。

 こうした巨大金融コングロマリットを形成させた立役者はスタンフォード・ワイル(Stanforf Weill、愛称サンディ・ワイル、Sandy Weill)である。合併時にはトラベラーズのCEOがワイル、シティコープのCEOがジョン・リード(John Reed)であった。

 ワイルは大恐慌時ニューヨークのブルックリン(Brooklyn)に生まれた。両親はポーランド系ユダヤ人である。コーネル大学に入るが空軍に属し、パイロットでもあった。1955年ウォール街の「ベア・スターンズ」(Bear Stearns)に入社したのが彼の最初の就職である。友人にアーサー・カーター(Arthur Carter)がいた。カーターはその時には「リーマン・ブラザーズ」(Lehman Brothers)(後述)に勤務していた。そして1960年5月ワイルはカーターとその他2人(Roger Berlind、Peter Potoma)と組んで「カーター・バーリンド・ポトマ&ワイル」(Carter,Berlind, Potoma&weill)という証券ブローカー社を設立し、ワイルが社長になって、15を越えるM&Aを繰り返して、1970年「CBWL・ハイデン・ストーン」(CBWL-Hayden, Sone Inc.)という会社になった。このいCBWLという会社はふざけた名前である。ニューヨーク証券取引所はこのような名称でも上場させるのかとの思いを強くする。つまり、この会社は「レタス付きコーン・ビーフ」(Corned Beef With Lettuce)である。さらに、会社は合併を継続して、1972年「ハイデン・ストーン」(Hayden Stone,Inc.)、1974年「シェアソン・ハミル」(Sheason Hammill & Co.)と合併して「シェアソン・ハイデン・ストーン」(Sheason Hayden Stone)、1979年「レーブ・ローデズ・ホーンブロワー」(Loeb Rhoades Hornblower)と合併して「シェアソン・レーブ・ローデズ」になる。これは1867年に創設された「クーン・レーブ」(Kuhn, Loeb & Co.)という名門証券会社の後継である(後述)。

 「ホーン・ブロワー」というのもいい加減な名前である。この「シェアソン・レーブ・ローデズ」は1979年時点で資本金2・5億ドルと当時の「メリル・リンチ」(Merrill Lynch)に継ぐ第2位の規模にまでのし上がった(前掲、Citigroupホームページより検索)。

 1981年、「ボストン・カンパニー」(Boston Company)買収。これは金融界に大きな衝撃を与えた。「シェアソン・レーブ・ローデズ」という証券会社が「ボストン・カンパニー」という銀行を兼営することになり、1933年の「グラス・スティーガル法」(Glass-Steagall Act)に抵触することになるからである(広瀬隆『世界金融戦争』NHK出版、2002年、84ページ)。これは当時の「証券取引委員会」(SEC)委員長、ジョン・シャド(John Shudd)によって問題にされなかった(後述)。

 1981年、ワイルは「シェアソン・レーブ・ローデズ」を「アメリカン・エクスプレス」(American Express)に9・3億ドルで売却する。1983年ワイルは「アメリカン・エクスプレス」の会長(president)となる。しかし、1985年8月52歳の時に、ワイルは「アメリカン・エクスプレス」を去る。

 1度は「バンカメ」(BankAmerica)のCEOを狙ったり、「メリルリンチ」の買収を画策したりするが、いずれも失敗して、1986年、今度はミネアポリス(Minneapolis)を基盤とした「コントロール・データ・コーポレーション」(Control Data Corporation)から子会社「コマーシャル・クレディット」(Commercial Credit)という小さな消費者金融会社を700万ドルで買収し、自らがCEOに就任した。

 
この会社は徹底的なリストオラ路線をとってIPOで成功する。1987年「ガルフ保険」(Gulf Insurance)を買収、1988年「スミス・バーニー」(Smith Barney)(後述)と「A・L・ウィリアムズ保険」(Williams Insurance Company)の親会社である「プリメリカ」(Primerica)を15億ドルで買収、1989年には「ドレクセル・バーナム・ランベール」(Drexel Burnham Lambert)(後述)という証券仲介業の会社を買収、1992年には7・22億ドルで「トラベラーズ保険」(Travelers Insurance)株27%を取得した。この時の「トラベラーズ保険」は 不動産投資に失敗して経営難に喘いでいたのである。

 1993年には、1981年に「アメリカン・エクスプレス」(アメックス)に売却していた旧「シェアソン・レーブ・ドーデズ」、その時には「シェアソン・リーマン」(Sheason Lehman)となっていた証券会社を12億ドルで「アメックス」から買い戻し、同年末、40億ドルで1985年に辞職した「トラベラーズ・コープ」そのものを買収してしまう。そして自ら経営しているすべての会社を「トラベラーズ・グループ」(Travelers Group Inc.)と総称してしまう。さらに、1996年40億ドルを投じて「エトナ生命損害保険」(Aetna Life & Casualty)を買収、1997年にはさらに大きな「ビッグ・ディール」を成功させる。90億ドルという巨費で「ソロモン・ブラザーズ」(Salomon Brothers)(後述)の親会社「ソロモン」(Salomon Inc.)を買収したのである。

 そしてついに、1998年10月8日世紀の大合併、「トラベラーズ」と「シティ・コープ」の合同が実現する。合併に投じられた費用は760億ドルという巨費であった。

 世紀の合併は、法的には許可されるはずのないものであった。銀行業務と保険引受業務、さらには証券業務を包含する事業は、それを禁じている1933年の「グラス・スティーガル法」に抵触するからである。

 当時のそれぞれのCEOのワイルとリードは法律そのものを議会に廃止させると豪語していた。こうした目標を実現させるために、まず、新興シティ・グループの重役に元共和党大統領ジェラルド・フォード(Gerald Ford)と民主党クリントン(Clinton)政権下の財務長官(Secretary of Treasury)のロバート・ルービン(Robert Rubin)を加えた。そして、あらゆる金融業務の兼営が認められる新しい「金融サービス法」(グラム・リーチ・ブライリー法=Gramm-Leach-Bliley Act1)が、1999年11月12日、クリントン大統領の署名の下にに成立し、「グラス・スティーガル法」(1933年銀行法)は66年ぶりに廃止されたのである。名実ともに総合金融機関になりえた。シティ・グループの総帥CEOはワイルが務め、エンロンの金融処理不適切で社会から糾弾された2003年の責任をとって、CEOの職をチャック・プリンス(Chack Prince)に譲り、2006年4月18日、ニューヨーク司法裁判所による大型合併禁止令を受けて、会長の座も辞した(ワイルの軌跡についてはWikipedia)。

際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 1

2006-11-24 01:17:26 | 時事
はじめに  

 本稿は、ますますクローニー・キャピタリズムの様相を強めている英米日の資本主義が、近い将来陥るであろう落とし穴を、摘出する作業の1つである。今回は中間的結論すら出せず、単に超巨大化する米銀とその華麗な人脈の表面を撫でただけのことしかできなかったが、この方向で今後も書き続けたいと願っている。

 世界を支配しうる巨大金融機関が誕生している。シティ・グループ(Citigroup)がそれである。2005年度の資産が1・5兆ドルもある(同社ホームページ)。

 米国の金融資本市場(株式時価総額、債券残高、銀行融資残高の合計)規模が2003年時点で41兆ドルだったのだから、ほぼその4%を同社が保有していることになる。銀行融資残高に限定すると米国の残高は21兆円強あった。この数値を基準とすればシティ・グループの資産は7%強に跳ね上がる。これはとてつもない大きな資産である。また、1・5兆ドルといえば、2003年3月末の米国財務省証券の海外保有額に匹敵する(米国財務省、Major Foreign Holders of Treasury Securities)。

 ちなみに、この時点における世界のGDP合計は36兆ドル、世界全体の金融資本市場は130兆ドルと、金融市場は実物市場の約3・6倍になる。金融資本市場がいかに水膨れしているかがこれで理解できるだろう。米国の金融資本市場は世界全体の31・3%である。ユーロ圏が35兆ドルで27%、日本が20兆ドルで15・5%、新興国15兆ドルで11・6%である。実物経済規模に対して金融資本市場規模が何倍あるかで見ると、米国が3・7倍、ユーロ圏4・3倍、日本4・7倍、新興国1・8倍である。

 最初から横道に逸れるが、米国と日本との金融資本市場の体質は対照的なものである。まず公的債務残高の構造が異なる。対GDP比では、米国が0・46倍、日本が1・36倍である。深刻な財政赤字を計上する国として危惧される米国よりも日本の財政赤字に方が深刻なのである。しかし、民間債務残高となるとこれまた対照的である。米国が今度は正反対に1・43倍に対して日本が0・52倍と米国に比べて極端に少ない。  銀行融資残高についても両国の性格は大きく異なる。米国が0・53倍なのに日本は1・68倍である。つまり、直接金融が主体の米国、間接金融主体の日本という、くっきりとした種別が見て取れる。米国の数値の低さはラテンアメリカと共通する(0・52倍)。

 銀行融資残高はEU圏で大きい。オランダ6・93倍(金融資本市場の対GDP比は6・93倍と世界最高値)、英国2・62倍(同、5・32倍)、フランス2・55倍(同、4・72倍)。総じて銀行融資残高比が高いほど金融資本市場の対GDP比は高い。

 株式時価総額面では日米は似ている。米国が1・3倍、日本が1・14倍であった。株式面ではドイツ、フランス、オランダが低い。それぞれ0・42倍、0・7倍、0・42倍である。つまり、金融の流れは直接金融に向かうと私たちは思い込んでいるが必ずしもそれは正しくないことをこの数値は語っている。直接金融体質の経済強国は米国のみであり、日本がその後を懸命に追っているだけで、ヨーロッパは頑固に間接金融の体質を変えていないのである。この構造の差を私たちは見落としてはならない。しかし、直接金融の国、米国で、世界最大のマンモス銀行グループが間接金融をも包含してしまう事態が出来したことは、旧来の金融構造を変化させてしまう巨大な衝撃である(金融資本市場に関するデータはIMF、大和総研/コラム:世界金融資本市場の将来像)。

本山美彦 福井日記 46 酒米

2006-11-16 02:32:22 | 酒(福井日記)
 また統計で申し訳ない。このまま酒文化は廃れるのだろうなとの寂しい思いを伝えたい。

 
清酒製造量は、平成15年度では、兵庫県が群を抜いて多い。17万3565klで全国の29%を占める。2位が京都府で14%、新潟県が3位の8%、愛知県が4位で4%、秋田県が5位で4%である。その他は41%である。

 清酒生産額の落ち込みは目を覆いたくなる惨状である。平成5年度には102万klあった生産額が平成15年度には60万klと半分近くに減ってしまった。ビールも半減している。同年度で696万klから395万klとなった。ウィスキーはもっとひどい。14万klから7万klとなった。ブランデーにいたっては半減どころか3分の1近くになった。2万6oooklから9800klしかなくなった。

 増えたのは焼酎で64万klから92万klと40%増、ワインが4万klから7万5000kl、リキュールも増えた。12万klから59万klと4倍である。そして、案の定、発泡酒がすごい増え方をした。1300klから18万3000klと爆発的に増えたのである。酒全体としては915万klから897万klに減っている。

 さて、酒の価格は正しいのだろうか。酒には大きく分けて3つある。純米酒、吟醸酒、醸造酒がそれである。純米酒には純米大吟醸造酒、純米吟醸酒、純米酒、特別純米酒の4つが区分される。

 吟醸酒は大吟醸酒と吟醸酒の2つ。醸造酒は特別本醸造酒と本醸造酒に分かれる。この区分は味によるものではなく、添加アルコールと精米の度合いといった、もっぱら原料面での区分でしかない。もっとも安い本醸造酒でも銘柄によってはもっとも高級とされる純米大吟醸酒よりもうまいこともある。

 醸造用アルコールを添加していないのが純米酒であり、添加しているのが吟醸酒と本醸造酒である。

 「大」がつくのとそうではないものとの差は単純である。精米を丹念に行い初期の酒米の大きさの50%以下にまで精米したものを「大」という。「大」がつかないものは、60から70%留まりの精米なのである。純米酒は白米1kg当たり1.8lの酒ができるが、普通の酒は3.6lという大きな差がある。

 精米した後の米を蒸す。麹菌を蒸米に振りかけ、発酵熱を水分蒸発で抑える。  その上で酒母造りが行われる。これには2つの方法が用いられ、自然に乳酸を生成させて酵母の雑菌を抑える方法を生もと(酒偏に元)造りといい極上の酒ができる。ほとんどは「速醸もと」造りで乳酸を前もって仕込む方法である。「生もと」には酒米が用いられ、「速醸もと」には一般飯用米が用いられる。最後に醪(もろみ)造りで2~3回の行程を経て清酒に仕上げる。こうした行程と職人の技で酒の味が決まるのであって、大吟醸とか純米という言葉に少なくとも酒をたしなもうとする人はだまされてはならない。

 そもそも、いつまでも放置いていても腐らない清酒などひどいものだ。昔の酒屋は酢の臭いがしていたものだ。蔵元は本当の清酒造りの原点に戻っていただきたい。

ギリシャ哲学 20 オルペウス(1)

2006-11-14 23:56:14 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 天空は「ウラノス」と呼ばれていた。鋼鉄の鉢が大地を被う。大地は丸い。イリアスやオッデッセイアにそうした記述がある。雲までは靄が被っている。靄は「アーエール」と呼ばれる。雲の上は輝く大気であり、「アイテール」と呼ばれた。大地の下も金属の鉢で被われている。大地から天空の頂点までの距離と、大地から下方の底までの距離は等しい。下方の底は「奈落の底」で「タルタロス」と呼ばれる。イリアスでゼウスが語り、ヘシオドス『神統記で語られている。地下世界は「冥府」(ハディス)であり、「闇」(エレボス)である。大地を取り巻く河が「オケアノス」であり、水の源である。ホメロスに語られ、ヘロドトスが神話として記述している。河の神が「アケロオス」である。

 

 こうした世界の観念はギリシャ以前からあった。ヒッタイト、メソポタミア、エジプトにもあった。オケアノスは輪という形容詞でもあった。

 

 太陽は「ヘリオス」と呼ばれ、「曙」が「エオス」、「夕闇」が「ヘスペリス」、大地は「ガイア」とも呼ばれた。オケアノスは神々の祖、オケアノスの妻がテテュス、この2神から万物は生まれたとの考え方もギリシャ以前からあった。イリアスには、ゼウス、ポセイドン、ハディスによる世界分割も記されている。さらに、クロノス、テイタン族もイリアスにはある。プルタルコスは「イシス」と「オシリス」という神のエジプト起源に言及している。プラトンはオルペウスが「流れ美しきオケアノスが妹のテテユスを娶った」と語っているとの紹介を『クラテュロス』で行った。プラトンはさらにオルペウス教を紹介している。「ゲー」(大地)とウラノスの子としてオケアノスとテテュスが生まれ、彼らからポルキュス、クロノス、レアが生まれてというのである。彼らがテイタン族である。

 

 オルペウス教によれば、オケアノスとテテュスが最初の完全に人間化された夫婦である。この人間夫婦はクロノスとレアよりも先に生まれている。

 

 どうも古代ギリシャのオケアノス観は古代エジプト、バビロニア人を起源としているようだ。そして、オルペウスの神々と重複する。

 

 神々も人間をも従わす「夜」は「ニュクス」である。ホメロスでは「ニュクス」は完全に擬人化されている。これもオルペウス教の観念である。アリストテレスもこのことに気づいていた。

 

 オルペウス教とは浄化の神アポロンを崇拝しつつ、トラキア地方の転生信仰と結びつけ、魂は清浄なままであれば生き続けることができると考えて、ディオニソス神を中心にすえながら独自の神話を創り上げてきた教団である。トラキア人のオルペウスは性的な清廉さ、音楽の才能、死後の予言力をもつ「聖なる言説」として記録されてきた。ヘロドトスは前5世紀においてオルペウス教にピタゴラスが染まっていたと紹介している。


本山美彦 福井日記 45 松岡火薬製造所跡

2006-11-09 23:26:55 | 路(みち)(福井日記)
 幕末の天保から弘化・嘉永にかけて、英・仏・露・米などの欧米列強が、日本沿岸にしきりに艦船を出没させていた。アヘン戦争が勃発し、天保13年南京条約によって、清国が強力な英軍の近代兵器の前に屈服させられた経緯は、いち早く福井へも伝えられた。そのため城下の蘭方医笠原白翁が、嘉永3年正月13日付で大坂の蘭学者緒方洪庵に宛てた書状(笠原家文書)の中に、「此節忌むべき、嫌ふべき、悪むべき、罵しるべき英夷」と記して、そうした英国に対する憎悪をむき出しにしたように、心ある人々は武力を背景とした欧米の野心を洞察して、警戒心を高めていた。

 福井藩は、弘化四年春、砲術師範西尾源太左衛門父子を江戸の高島流砲術家下曽根金三郎に入門させ、洋式砲術と銃陣調練の研究に当たらせた。また、翌嘉永元年8月には三国の富商三国与五郎の献金を得て、江戸から洋式大砲鋳師安五郎を招き、三国道実島の鋳物師浅田新右衛門の工場で、西洋砲13寸カルロンナーデ、15寸ホーウイッスル、15寸モルチールなどを製造し、その技術を新右衛門に習得させる。これが、福井藩における洋式砲術の導入と洋式砲鋳造の発端であり、全国諸藩に比して極めて早かった。



 嘉永6年には洋式小銃の製造も着手される。この年9月、江戸霊岸嶋藩邸内に鉄砲師松屋斧太郎を招き、ゲベール銃の製作を命じ、翌安政元年には、福井泉水邸内に製銃工場を設置したが、製法の未熟と資金不足から、3か年にようやく10挺を生産するに過ぎなかった。そこで安政4年正月に至り、佐々木権六、三岡八郎(由利公正)を製造所正・副の頭取に任命し、本格的な兵器生産を推進させることとなる。2人は種々研究を重ね、志比口に鉄砲製造所を、松岡に火薬製造所を建設し、工程を分業して職工の熟練を図るなど増産に成功した。他藩の注文にも応じて、維新後製造所閉鎖までに7000挺の洋式銃を製造したと伝えられる。

 このような洋式砲術や調練の導入と洋式兵器の製造は、当然刀・槍・弓矢を中心に編成された従来の軍制の改革へと発展する。まず嘉永3年12月には、西尾源太左衛門を中心に「御家流砲術」を制定し、一藩の射撃術を実用に重点を置いた洋法に統一した。とはいえ、その時点では藩の所有する洋銃も少数で、内実が伴わなかったから、藩の斡旋により代価を2、3年の年賦とするなど、藩士の小銃新調を奨励し、徐々に洋式銃の充足を図っている。さらに、諸隊の弓組や長柄槍組を順次洋式銃隊に編成替えし、仏式鼓吹笛による部隊教練を実施しながら、嘉永5年・安政元年・同4年と3次にわたる軍制改革を断行した(『福井県史』通史4近世2を参照した)。



 平成18年11月3日から11月26日まで福井県立歴史博物館で由利公正展が開かれている。5箇条のご誓文成立の裏話が説明されていて勉強になる。入場料はなんとわずか100円。私は10数メートルの強風と豪雨の下、大学から徒歩2時間かけて会場に行った。福井県の人は車で移動するが、私は頑固に自転車と徒歩の文化だけは死守しようとがんばっている。市内ならほとんど徒歩で行く。

 製造所跡は、松岡の神明にある。安政4年(1857年)4月27日と5年3月11日の2回爆発し犠牲者を出した。火薬の製造は、明治4、5年(1871、1872年)頃まで続いた。

本山美彦 福井日記 44 全国の主な酒米品種

2006-11-08 08:53:07 | 酒(福井日記)

酒米の銘柄は兵庫県が圧倒的に多く、15品種ある。

 愛山、五百万石、新山田穂1号、神力、たかね錦、田島強力、杜氏の夢、早大関、兵系酒18号、兵庫北錦、兵庫夢錦、フクノハナ、山田錦、山田穂、渡船がそれである。

全国第2位は山形県で13種類ある。

 羽州誉、改良信交、亀枠、京の舞、五百万石、酒未来、龍の落とし子、出羽燦々、豊国、美山錦、山形酒86号、山酒4号、山田錦である。

第3位は新潟県で9品種ある。

 一本〆、雄町、菊水、五百万石、たかね錦、新潟酒72号、八反錦2号、北陸12号、山田錦である。

第4位、秋田県で8品種。

 秋田酒こまち、秋の精、改良信交、吟の精、華吹雪、星あかり、美郷錦、美山錦である。

第5位は広島県と栃木県で7品種。

  広島県では、雄町、こいおまち、千本錦、八反、八反錦1号、八反錦2号、山田錦。
 栃木県では、五百万石、栃木鮭14号、華吹雪、ひとごこち、美山錦、山田錦、若水。

6品種を出荷する県は、茨城県、島根県、愛媛県と3つある。

 茨城県では、五百万石、ひたち錦、美山錦、山田錦、若水、渡船。
 島根県では、改良雄町、改良八反流、神の舞、五百万石、佐香錦、山田錦。
 愛媛県では、五百万石、八反、八反錦1号、八反錦2号、美山錦、山田錦。

第10位に4つの県が並び、5品種を出荷する。

 宮城県が、蔵の華、ひより、星あかり、美山錦、山田錦。富山県が、雄山錦、五百万石、玉栄、美山錦、山田錦。
 そしてわが福井県がある。わが県では、おくほまれ、越の雫、五百万石、神力、山田錦。
 長野県が、金紋錦、しらかば錦、ひとごこち、美山錦、たかね錦。

  多くの県で山田錦が王座を占めていることは前回でも述べたが、以外なのは、東京都、鹿児島県、沖縄県で出荷ゼロであることである。焼酎に制覇されている鹿児島県沖縄県は理解できるが、東京都がゼロとはかなり意外なことである。

  意外といえば、酒所として有名な京都府が、祝、五百万石の2品種しか出荷していないことである。 それにしても、造り酒屋の多い県ほど酒米の品種も多いということがこれで分かる。


民営化される戦争とグローバル企業(12) 広島講演より(9月24日)

2006-11-06 23:45:05 | 世界と日本の今

8、石油利権のためのイラク戦争

価格支配による利益の争奪戦

今、世界中で進展していることは、いわゆる石油メジャー、巨大資本が合併を繰り返してきて巨大石油会社がどんどん少数になってきています。価格統制をするためなのです。ちょうど王子製紙が北越製紙を乗っ取ろうとしたのと同じことです。増産に次ぐ増産により価格を下げることでシェアを増やす行動よりも、M&Aという形で競争相手企業を吸収合併して価格を吊り上げていく方法。文字通りカルテル的な行為が現在の石油産業に起こっているのだろうと思います。

 
だから1バレル90ドルとか100ドルという信じがたい程の高い値段が出てくることは、メジャーズや産油国が原油を増産しないという一言に尽きるのです。結局、価格支配が完成直前になったということです。実はサウジアラビアとアメリカの関係はよくないのです。スセインを叩き潰すことによってイラクを第2の石油基地にしてゆこうとアメリカは画策していたのです。サダム・フセインの登場と共にOPEC(石油輸出国機構)が形成された。そしてイラクのほかにはロシア、フランス、ドイツ、中国、そしてキューバなどが35ヶ国連合というものを形成した。そこではアメリカとイギリスが排除される構造になりかねなっかった。

 
父ブッシュがサダム・フセイン政権のイラクを攻めたのですが、バグダットへの侵入は父ブッシュでも恐くてしなかった。ちょうどナポレオンがモスクワを侵略して敗退したと同じように危ないというので矛を収めたのですが、チェイニーやラムズフェルドが今度は子ブッシュを説得した。バグダットへの侵入は民営化された戦争請負企業が行ったらいい。そういう連中を使えばアメリカの正規軍の被害は少なくて済むと言っておそらく説得したのだと思います。そして、バグダットへ侵入したのです。

アメリカとロシア・フランス連合の対立

 
イラクを攻める前のアメリカにとって一刻の猶予がならなかったのは、サダム・フセインがついに切り札を切ったからです。アメリカの生命線は石油であると同時に世界の石油取引がドルで行われていることに尽きるのです。つまりフセインがそのドル建てをユーロ建てに変えると言いましたら、それに何とサウジアラビアも賛意を表明した。インドネシアも賛意を表明したのです。しかもイラクの利権はフランスにほぼ握られていた。そういう状況の下では一刻も早くあらゆる口実を設けてイラクを攻めるしかなかった。

 
それで大量破壊兵器があるはずだということで攻めた。こんなことは言ってはいけないけれど、おそらく人の見ていない間に大量破壊兵器を運び込むチャンスがあったのではないかと思いますが、結局は全く発見できなかった。普通であれば大統領は引責辞任です。でも居座ってしまっているのです。

結局あそこでフセインを叩きのめしたために、世界の石油取引はユーロ建てに移らないでドル建てに戻ったのです。但し、今ご存知のように、ガスブロム(ロシア国営のガス会社)のロシア側が必死になってアメリカを追い出そうとしています。サハリン第2鉱区ではおそらくアメリカ・日本連合軍が追い出されるかもしれません。中国はまだアメリカと対決する自信はないはずです。というのは石油採掘はものすごく技術を要する。単なる資本力だけでなくて技術そのものがいる。この技術が一定程度中国に移転しない限り中国はアメリカとの対決を避けるだろうと思います。

 
そうしますと、世界はここ当分の間、アメリカ対ロシア・フランス連合という方向に行くのだと思います。わが日本は世界で最もアラブ側に尊敬されている国であってイランなどとは特に仲がよかったのです。その今までに築いたせっかくのいい財産を今度のアメリカとの軍事的一体化によって失っていくのであり、非常に危ないことになります。

日本の若者よ、声を上げよう

 
それに対して、日本ではどうしたものか若い人達がデモ一つ起こしてくれません。私の勤めている大学ではビラ一枚張られておりません。この間久しぶりに京都大学に行きましてほっとしました。ここにはまだビラが貼られている。若い人達はこういう話を嫌うのですね。それはものすごく恐ろしい現象なのです。世界で最も日本人は恥ずかしく思わなければいけないのは、世界中の若者達があちこちで反戦デモをやっているのに、わが日本だけは静かであるということです。ここのところに致命的な恐さがあります。

 
私が政治家だったらこの状況を利用しますね。教育基本法を変えます。憲法も変えます。それこそ「晋ちゃん」ブームです。そういう意味でこの私達のつらい状況、何とか皆さんの力で乗り切ってほしいと思います。

 
貧しさと若者の無関心さという今の状況が権力にとって有利に展開してしまっています。でもどのくらいかかるか分かりませんけれども、いずれ世界は、社会は平等になっていくでしょう。しかし少なくとも世界の人々の動き方に対して、我々は日本人の明確な意思を表明しなければ大変なことになるだろうと思います。今後も共に頑張りたいと思います。私も何とか生き延びたいと思っております。今日はこれで話を終わらせていただきます。