消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

須磨日記(10) 古代ギリシャ哲学(42) ヒポクラテス(4)

2008-07-18 22:04:55 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 ピタゴラス

 「ヒポクラテスの誓い」は、ヒポクラテス自身の手ではなく、後生の、まだ残っていたピタゴラス派の誰かによって書かれたものらしいということが最近の通説になってきた。そこで、ピタゴラスのこともここで、書いておきたい。

 サモスのピタゴラス(Pythagoras of Samos、BC.569(?) ~BC.475(?))。最初の純粋数学者。ただし、著作が残されていないので詳しい理論は不明。科学者にして神秘的な宗教家。父、Mnesarchusは、ティレ(Tyre)出身の商人。サモスの飢饉のときに、食糧を持ち込み、サモスを救った功績で市民権を与えられた。母、Pythaisはサモスの人。幼児期、サモスで過ごしたピタゴラスは、長じると父とギリシャ各地を旅行、Tyreにおいて、Chaldaeansの教育を受けた。またシリアの学者たち(the learned men of Syria)からも学んだ。父とイタリアをも旅行した。



 Chaldaeanstという命名は、ギリシャの地理学者、Strabo of Amasia (BC.64 ~AD.23) による。バビロニア人の一群の哲学者たちを指す。バビロニアには哲学者が蝟集する居住区があり、いくつかの集団からなっていた。Orcheni [Uruk出身]、Borsippeni [Borsipp出身]などが著名な学者。ここで、訓練を受けた天文学者・哲学者・数学者たちが、アラビア半島各地に展開し、ギリシャにも居住していた。彼らのデータ管理と観測技法は緻密であった。天体の軌道計算はほぼ完璧な正確さであった。日食、月食日も2秒程度の誤差で的中させた。

  彼らは天体の運行に宗教的な神秘性を付与した。たとえば、月食はその地の王の廃位を求める天の配剤とした。月食に遭遇した王は廃位に追い込まれるか、天命として殺害された。王の殺生与奪を左右する月食を予言する天文学者たちは恐れられた。彼らは、暦も作っていた。バビロニアでは、陰暦の235か月は太陽暦の19年に相当すると計算されていた。この誤差はわずかに2時間であった。彼らは、太陽暦の19年を区分し、最初の7年間を収穫の年代とした。閏月は、天文学者からの助言によって、国王が国民に告知した。天文学者たちは、天文学の秘密の知識によって、権力者を支配したのである。

 しかし、ペルシャ王のCyrusが、BC.539年にバビロニアを支配するようになって、バビロニアの天文学官僚たちは追放された。

 ペルシャは、暦を秘儀化するのではなく、季節感に沿う暦を国民に与えた。BC.503年、時の大王、ダリウス1世Darius I the Great)が、そうした暦を完成させた。



 太陽を基準とする19年という周期は、陰暦の月の周期と交錯するので、ダリウス暦は、バビロニアの天文学そのもは継承した。19年のうち、陰暦で閏月を7回置く(確証はないが、この閏年はペルシャ語でUluluという。閏の語源かもしれない)。そして、立春が元旦になるように工夫されていた。この235月齢がメトニック・サイクル(Metonic Cycle)と呼ばれている。メトンとは、このサイクルを紹介したギリシャの天文学者の名前である。BC.433年、アテネの数学者メトンが発見したとされているが、メトンは、実際には、ペルシャ暦を伝えだけである。

 中国では、19年を1章と呼ぶことからダリウス暦は、章法(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。いまでもユダヤ暦はこのサイクルを踏襲している(http://www.livius.org/k/kidinnu/kidinnu.htm)。

 そうした彼らの姿勢がピタゴラスに大きな影響を与えたのであろう。青春時代のピタゴラスに大きな影響を与えた教師は3人いたと言われている。



   ペレキデス(Pherekydes)、ターレス(Thales)、ターレスの弟子、アナクシマンドロス(Anaximander)である

   ターレスとアナクシマンドロスはミレトス(Miletus)在住であった。ピタゴラスは18歳から20歳にかけてミレトスのこの2人をしばしば訪ねたという。ターレスはすで老人であったが、ピタゴラスに数学と天文学を勧め、エジプト旅行の必要性を説いた。アナクシマンドロスは熱心にピタゴラスを教育した。

 BC.533年、サモスは専制君主のポリクレイトス(Polycrates)の支配下に入った。ピタゴラスはポリクレイトスに気に入られ、王の紹介状を得て、エジプトにBC.535年に旅した。ポリクレイトスがエジプトと同盟していたからである。ピタゴラスは、エジプトの僧侶たちと会いたがっていたが、面会を許可されたのは、ディオスポリス(Diospolis)にある1寺院だけであった。

 このエジプトで、ピタゴラスの思考様式が形成された。エジプトの僧侶は豆を食さなかった。毛皮を着なかった。純粋さを渇望した。こうし習慣のすべてを彼は採用した。

 BC.525年、ピタゴラスのエジプト滞在中、ペルシャ王のカンビセス(Cambyses II)が、エジプトに侵攻した。サモスのポロクレイトスは、エジプトを裏切り、40隻の艦隊をエジプトに派遣し、ペルシャに与した。そして、ヘリオポリス(Heliopolis)とメンフィス(Memphis)を占領。そして、こともあろうに、かつての友人、ピタゴラスを捕虜として、バビロンに連行した。

 しかし、ピタゴラスは、学問の継続を許され、バビロンの地で本格的にバビロニアの学問に取り組めることになった。宗教上の秘儀、数学、計算法等々をこの地で学んだ。

 BC.520年、ピタゴラスは、バビロンを去り、サモスに戻れた。BC.522年の夏、ポリクレイトスが死去した。当時、サモスはペルシャのダリウスの統治下にあった。ピタゴラスがサモスに帰還できた理由は不明である。

 サモス帰還後、ピタゴラスは、クレタ(Crete)に旅する。法律を学ぶためである。サモスに帰国後、彼は、セミサークルという学校を作る。彼自身は、校外に洞穴を作り、数学を教えたと言われている。

 BC.518年、彼は、サモスを離れ、南イタリアに移る。サモスの人々に彼のエジプト的慣習が受け入れられなかったからだと言われている。

 ピタゴラスは、南イタリアの靴の踵部分の東側にあるクロトン(Crotone)に宗教的な組織を設立。真実とは数学的なものである。精神の純化のために哲学が使われるべきである。魂は聖なるものと結合する。秘儀は重要である。人々はこの組織に貢献すべきである。等々が彼の教義であった。

 ピタゴラスは、あらゆる関係性は数学的関連性に還元できると説いていた。それは、音楽、数学、天文学の研究から生み出されたピタゴラスの信念であった。和音の数式化を行う彼自身が竪琴の名手であった。楽器を奏でることで病人を癒したといわれている。

 偶数(even numbers)、奇数(odd numbers)、三角数列(triangular numbers、自然数を頂点として正三角形に並べることのできる数)、完全数(perfect numbers、nを除くすべての約数の我がnになる数、たとえば、6、28)。こうした数に神秘性を見ようとしたのである。

  たとえば、10という数値を最高のものとした。それは、最初の4つの整数の和になるうえに、これら数を点で表せば、正三角形を形成するからである。
 
  ただし、有名な「ピタゴラスの定理」(Pythagoras's theorem)は、彼よりも1000年以上も前にバビロニア人によって証明されていたhttp://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Pythagoras.html)。

須磨日記(9) 古代ギリシャ哲学(41) ヒポクラテス(3)

2008-07-17 13:07:12 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 ヒポクラテス誓い

 現在の『全集』は紀元前3世紀のアレキサンドリアで見つかったものを元に12世紀のビザンチンで編集された。ヒポクラテス学派の人々によって書き続けらてたものであろう。教科書、講義、研究、哲学等々、あらゆるジャンルをカバーしている。研究者、法律家、など多用な層を相手としたものである。

 「ヒポクラテスの誓い」(The Hippocratic Oath)、『前兆論』(The Book of Prognostics)、「劇症状態での養生」(On Regimen in Acute Diseases)、『金言』(Aphorisms)、「空気・水・場所論」(On Airs, Waters and Places)、「整腹術」(Instruments of Reduction)、「癲癇(てんかん)論」(On The Sacred Disease)等々、あらゆるジャンルを含んでいる(Encyclopedia Britannica (1911), HIPPOCRATES, vol. V13, Encyclopedia Britannica, Inc., 519, <http://encyclopedia.jrank.org/HIG_HOR/HIPPOCRATES.html>. Retrieved on October 14, 2006)。

 少し横道に逸れる。癲癇(てんかん)が「聖なる病」(the Sacred Disease)と古代で呼ばれていた理由は、癲癇の発作は、悪魔にとらえられたことによるが、病状の中に神の声が聞こえて、神により回復させられると信じらていたからである。

 古代、エジプトを含むギリシャ世界には二つの信仰があった。一つがイシス(女性で癒しの神)、もう一つがセラピス(伝統的オソラピス信仰)。この二つの信仰が主に絶望とされた患者を助けていった。

 
その後、エジプトのイムホテップとギリシャのアスクレピオスの医神が奇跡といわれる病気を治癒させていった。それが神聖な癒しの術を磨かせ神殿による医療として発展していった。つまり神と医療の共存が相互に成り立っていた。紀元前480年頃になってヒポクラテスが癲癇、錯乱、狂気、中風など人びとを悩ませた病気の説明に超自然(神)的なものを排した。確かにアスクロピオスによる神殿治療は実際に効果はもたらしたが、病は神がかりで治るものではないと、ヒポクラテスは信じ、治療効果は自然(本性)に潜む力であると見抜いたからである。そしてさらに「空気・水・場所」の環境が人間の健康と病気に関係していることを医学概念としたのである(http://www.nmnweb.net/hipo/hipo39.htmlDR.中島氏のブログはすごい。とくにヒポクラテスに関するものは目を見張らされる)。

 ヒポクラテスが「医学の父」と言われるようになったのは、12世紀イタリアのアナグニ(Anagn)においてである(Hanson, Ann Ellis (2006), Hippocrates: The "Greek Miracle" in Medicine, Lee T. Pearcy, The Episcopal Academy, Merion, PA 19066, USA, <http://www.medicinaantiqua.org.uk/Medant/hippint.htm>. Retrieved on December 17, 2006
Hippocrates (2006), On the Sacred Disease, Internet Classics Archive: The University of Adelaide Library, <http://etext.library.adelaide.edu.au/mirror/classics.mit.edu/Hippocrates/sacred.html>. Retrieved on December 17, 2006)。

 ヒポクラテスの死後の数世紀ほどは、ヒポクラテスの名声は廃れていた。しかし、ギリシャのガーレン(Galen,129 to 200 AD)がヒポクラテスの復権を果たした(Jones, W. H. S. (1868), Hippocrates Collected Works I, Cambridge Harvard University Press, <http://daedalus.umkc.edu/hippocrates/HippocratesLoeb1/page.ix.php>. Retrieved on September 28, 2006、p.35)。

 中世ではアラブ人がヒポクラテスを高く評価するようになった(Leff, Samuel & Vera. Leff (1956), From Witchcraft to World Health, Camelot Press Ltd, p. 102)。西欧では、ルネッサンス後、19世紀までヒポクラテスの名声は続いた。

 「ヒポクラテスの誓い」

 「医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う、私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
 私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
 頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。
 純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
 結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
 いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。
 医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
 この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい」(金沢医科大学・小川鼎三訳、
http://www.kanazawa-med.ac.jp/mic/rinri/hippocrates.html)。

 英文
 The Oath of Hippocrates
 I swear by Apollo the Physician, and Aesculapius, and Health, and All-heal, and all the gods and goddesses, that, according to my ability and judgment, I will keep this oath and this stipulation-to reckon him who taught me this art equally dear to me as my parents, to share my substance with him, and relieve his necessities if required; to look upon his offspring in the same footing as my own brothers, and to teach them this art, if they shall wish to learn it, without fee or stipulation; and that by precept, lecture, and every other mode of instruction, I will impart a knowledge of the art to my own sons, and those of my teachers, and to disciples bound by a stipulation and oath according to the law of medicine, but to none others. I will follow that system of regiment which, according to my ability and judgment, I consider for the benefit of my patients, and abstain from whatever is deleterious and mischievous. I will give no deadly medicine to anyone if asked, nor suggest any such counsel ; and in like manner I will not give to a woman a pessary to produce abortion. With purity and with holiness I will pass my life and practice my art. I will not cut persons laboring under the stone, but will leave this to be done by men who are practitioners of this work. Into whatever houses I enter, I will go into them for the benefit of the sick, and will abstain from every voluntary act of mischief and corruption of females or males, of freemen and slaves. Whatever, in connection with my professional practice, or not in connection with it, I see or hear, in the life of men, which ought not to be spoken of abroad, I will not divulge, as reckoning that all such should be kept secret. While I continue to keep this oath unviolated, may it be granted to me to enjoy life and the practice of the art, respected by all men, in all times ! But should I trespass and violate this oath, may the reverse be my lot!

須磨日記(8) 古代ギリシャ哲学(40) ヒポクラテス(2)

2008-07-16 18:58:08 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 コス島



 コス島(Κώς)は、エーゲ海南西部、ドデカネス諸島にあるギリシャの島。島の大きさは東西40km、南北8kmで、北緯36°51′東経 27°14′に位置し、ギリシャよりトルコに近い。先述のロードス島の北西に位置する。肥沃な平野と不毛な高地をもつ島である。人口は約31,000人。長い砂浜。観光が主な産業。住民の多くは農業に従事、小麦、とうもろこし、ブドウ、アーモンド、イチジク、オリーブ、トマトやレタスなどの栽培。港と島の人口の中心である町、コスは、観光と文化の中心であり、白い建物が建ち並んでいる。町の港の入り口には、ロードス島の聖ヨハネ騎士団によって1315年に立てられた要塞がある。



 コス島は、カリアン(the Carians)の植民地であった。トロイ戦争に巻き込まれたとされている。.紀元前11世紀にドーリア人(The Dorianss)の植民地になった。このとき、ギリシャのポリス、エピダウルス(Epidaurus)から多数の移住者が入ってきた。彼らは、アスクリーピウス(Asclepius、σκληπιός)という宗教を島に持ち込んだ。この神は、ギリシャ神話では医薬と癒しの神である。英語のaesculapian(医術の)の語源になっている。

 
アスクリーピウスの6人の娘たちも医学上の神である。まず、ヒギエイア(Hygieia)。彼女は英語のhygienics(衛生学)の語源になった。そしてメディトリナ(Meditrina)。いうまでもなく、medicine(医薬)の語源である。毒蛇を体内にもつという意味もある。 パナセア(Panacea)は、panacea(万能薬)。イアソ(Iasoa)はiatrics(治療の、癒しの)語源である。あと、アケソ(Aceso)、アグラエ(Aglaea)がいる。息子は3人である。マカイアン(Machaon、ギリシャ軍の軍医)、テレスホロス(Telesphoros)、ポダリヌス(Podalirius)である。アラートス(Aratus)という息子も別の女神との間にもうけている(Wikipedia)。



 アスクリーピウス(アスクレピオス)は、オリンポス十二神の一人である太陽の神アポロの子供。アポロは美女、美少年を恋人にした。美少年はヒュアキントス。ヒュアキントスは突然の事故で亡くなり、遺骸から可憐な花を咲かせ、後にヒヤシンスと名づけられた。美しい少女はコロニス(Coronis、Arsinoe) 、アスクリーピウスを生む。コロニスに恋をしたアポロは、彼女を見張らせるためにカラスをつけた。

  当時カラスは黄金色に輝く羽を持つ美しい鳥だった。コロニスはアポロの子供を宿した。それを知った彼女の父親は相手が神であるアポロだとは信じず、大慌てで親戚の青年と結婚させてしまった。結婚式当日、カラスは急いでアポロのところへ飛び、事態を知らせた。アポロはコロニスの結婚話を聞くや激怒し、火を放って、カラスの自慢にしていた金色の羽を熱で焼いてしまった。以来、カラスの羽は真っ黒になっ。アポロの怒りは花婿や父親ばかりか、コロニスにも向けられた。愛するコロニスはアポロの双子の妹、月の女神アルテミスの手によって殺された。しかしお腹の子は紛れもなく、自分の子供。アポロは密かに帝王切開で子どもを取り上げ、犬と蛇をつき添わせ、森の奥深くに潜む半人半馬の神の一種族ケンタウロス族のもとに送り、第一の知恵者といわれたケイロンに教育を頼んだ。

 アスクリーピウスと名づけられたその子は、木の実や草の持つ不思議な薬効を学び医者となった。彼の医者としての名声はいつしか世に広まり、勉強を続けた彼はついに死者までをも生き返らせるほどの腕となった。ところが彼があまりに何度も死者を甦らせたため、あの世の国へ行く死者がいなくなってしまった。あの世の国王ハーデスは怒りを覚え、全ての神々の王ゼウスに、「アスクリーピウスは神の権威を失墜させている」と訴え出た。

 ゼウスはこの願いを聞き入れ、雷によってアスクリーピウススを殺してしまった。アポロがゼウスの息子なので、アスクリーピウスは、ゼウスの孫にあたる。息子の処刑を知った父アポロはゼウスの元へ駆けつけ、懸命に息子の弁明をすると、ゼウスもやり過ぎたと後悔し、アスクリーピウスを蛇と共に天に上げて星座にしてやった。夏の夜、南の空にひときわ赤く輝くさそり座のアンタレス。そのすぐ横に見られるちょうど将棋の駒を横向きにしたような形の「蛇使い座」がそれである。

 アスクリーピウスはいつも杖を持ち、その杖には蛇が巻き付いていたとされる。ここからこの杖のことを アスクレピオスの杖と呼ぶようになり、いつしか医学のシンボルにまでなった。医神と崇められたのはアスクレピオスだけではない。長男マカオンは外科の、次男ボダイレイオスは内科の、長女ヒュゲイアは健康の女神として英語の衛生学の起源となり、次女パナケアは薬の女神として万能薬の名前に残る。まさに彼の家族は医学の神様一家となった(http://www.toranomon.gr.jp/sitemanage/contents/attach/111/2004_06.pdf、澤田祐介『面白医話』5、荘道社、2002年)。

 コス島では、こうして医学が宗教と堅く結びついていた。そこでは、蛇が癒しの儀式に使われた。毒を含まない蛇が病室の床に放されていた。そうした病院は、寺院に設けられていた。寺院は「アスクリーピエイオン」と名付けられていた。病人は蛇が這う病室で信者たちに囲まれ、眠りにつく。そしてその夜に見た夢を司祭に語り、その内容によって入湯したり、運動ジムで癒される。

 後述する「ヒポクラテスの誓い」は、初期のものには、「医者のアポロ、アスクリピウス、ヒギエリア、パナセア、そしてすべての神に誓う」という言葉から始められていた(L.R. Farnell, Greek Hero Cults and Ideas of Immortality, Chapter 10, "The Cult of Asklepios" Adamant Media Corporation 、2001, p.240)。

 医学の父ヒポクラテスは、このコスで紀元前460年頃生まれたと考えられている。町の中央にはヒポクラテスの木と呼ばれるプラタナスの巨木があり、この木の下でヒポクラテスが医学を教えたと言い伝えられている。そのヒポクラテスを記念して、この町に国際ヒポクラテス財団の本拠地とヒポクラテス博物館がつくられている。

 コス島の統治は、宗教によるものであり、リンドス(Lindos)、カミロス(Kamiros)、イアリソス(Ialysos)、クニダス(Cnidus)、ハリカマサス(Halicarnassus)などの近隣の都市国家と神殿や儀式の安全を保持するための「隣保同盟」(amphictyony)を結成していたらしい、が、詳しいことは不明である(Richard Stillwell, et al, eds, The Princeton Encyclopedia of Classical Sites , s.v. "Kos", Princeton Univ Pr, 1975)。

 紀元前6世紀、コスはペルシャのアケメネス朝(Achaemenid)の支配下に入った。紀元前479年、マイカル岬(Cape Mykale)でギリシャ軍がペルシャを破ったことから独立、一時、再度ペルシャに支配されたが、これもギリシャ=ペルシャ戦争(Greco-Persian Wars)によって押し返す。紀元前5世紀、デリアン同盟(the Delian League)を結び、ロードス島の暴動鎮圧後、エーゲ海(Aegean Sea)におけるアテネの重要要塞となった。

  以後、この地は、ヘレニズム時代まで、アテネとの角逐によって動乱を繰り返した。紀元前336年以降、ヘレニズム時代に入って交通の要所としてコスは繁栄していた。アレキサンドリア博物館の支所が置かれ、エジプトのプトレオマイオス朝(Ptolemaic dynasty)の王子たちのセミナーハウスもあった。

 彼らがヒポクラテスの薫陶を受けたのである。画家のアペレス(Apelles)、詩人のフィリタス(Philitas)、テオクリトス(Theocritus)などが門下から出た逸材である。.


須磨日記(7) 古代ギリシャ哲学(39) ヒポクラテス(1)

2008-07-11 00:03:20 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 Hic Rhodos, hic salta! (ここがロードス島だ、ここで跳べ!)

 マルクス『資本論』の貨幣論で出てくる言葉である。



元々は、イソップ寓話に収められた「ほら吹き男」の話に出てくる言葉である。



 古代競技のある選手が、遠征先から帰ってきて自慢話をし、「おれはロドス島では、五輪選手も及ばないような大跳躍をした。皆がロドス島へ行くことがあれば、その大跳躍を見た観客が快く証言してくれるだろう」と言ったところ、それを聞いていたうちの一人が、「そんな証言は要らない。君が大跳躍をしたと言うなら、ここがロドスだ、ここで跳べ」
と言ったという話である。

 ロードス島(Rhodes)はエーゲ海に実在するギリシャ領の島であるが、イソップの寓話を語る際には「ロドス」と記すことが多い(http://www6.plala.or.jp/symbell/book/story.htmhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119440446より)。

 堀江忠男は、Hic Rhodos, hic salta! を、「ここがロードス島だ、ここで跳べ!」ではなく、「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」と訳している(『マルクス経済学と現実』学文社)。 

  堀江忠男は、その著、『弁証法経済学批判』のなかで、意図的に「跳べ」ではなく「踊れ」を選択したことの理由を述べている。

 「余談だが、ここのHic Rhodos, hic salta! は、「ここがロードス島だ、ここで跳べ」と訳されている場合が多いのに、「ここで踊れ」と訳したのは次の理由からだ。ヘーゲルの『法の哲学』の序文に Hic Rhodos, hic saltus. という言葉がある。これが「ここがロードスだ、ここで跳べ」である。これは『イソップ物語』に出てくる寓話の一節で、あるほら吹きがロードス島でものすごい飛躍をしたと自慢したので、聞いた人が「ほんとだったら、ここがロードス島だと思って、跳んで見せろ」といったら、参ってしまったという話だ。
 さて、ヘーゲルはついで「さきの慣用句はすこし変えればこう聞こえるだろう。Hier ist die Rose, hier tanze!  これがローズ(ばら)だ、ここで踊れ!」(以上、両文とも Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, HW, 7, S. 26.にある。二章(8)の資料 『世界の名著――ヘーゲル』171~3ページ参照。)これをラテン語に書きなおせば Hic rodon, hic salta! である。マルクスはおそらくこの両方を知っていて、Hic Rhodos, hic salta! 「……踊れ」と書いたのであろう」。



 『世界の名著35ヘーゲル』を見てみると、 Hic Rhodos, hic saltus.(ここがロドスだ、ここで跳べ)には、次のような注が付いている。

 「『イソップ物語』にあるほら吹きが、ロドス島でものすごい跳躍をやらかしたこと、おまけにそれを見ていた証人がいたことを自慢したので、聞いていた人が「お前さん、もしそれがほんとうなら、証人なんかいらない、ここがロドスだ、ここで跳べばいい」といった話がある」。

 また、「ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ。」(Hier ist die Rose, hier tanze!) には、次のような注が付いている。

 「ギリシア語のロドス(島の名)をロドン(ばらの花)、ラテン語の saltus(跳べ)をsalta(踊れ)に「すこし変え」たしゃれ。ヘーゲルはここにギリシア語もラテン語も記してはいないが」。

 『資本論』では、Hic Rhodos, hic salta! となっているのに対して、ヘーゲルの『法の哲学』では、Hic Rhodos, hic saltus! となっている。

 "saltus" と "salta" の違いについて、森田信也(東洋大教授)は次のような見解をもっている。

 マルクスが資本論の中で使った salta は、salto「跳ねる、踊る」の命令形であるが、ヘーゲルが使った saltus は、「跳躍」という意味の名詞の対格(=直接目的格)で、おそらく ago「する」の命令形 age「~をしなさい」が省略されていると考えるのが、最も妥当かと思われる。

 ただし、研究社の『羅和辞典』では、salto に「踊る」の訳だけ、saltus に跳躍の訳だけが載っている。Cassell's Latin Dictionary では、salto には、to dance, esp. with pantomimic geatures。 また、saltus には、a spring, leap, boundとある。salto 自体は、踊るの意味が優先するようである。

 また、Hic Rhodos, hic salta! を「ここにロドス島あり、ここにて跳べ」、 Hic Rhodos, hic saltus! を、「ここにロドス島、ここに跳躍」と訳している辞典もある。『ギリシア・ラテン引用語辭典』岩波書店)。

 アイソフォスの寓話のなかに、ロードス島で他人が真似のできないほどすばらしく踊ったという人にむかって「ここでロードス島だと思ってもう一度踊ってみよ」といった話もある。

 フォイエルバッハには、Hic Athenae, hic cogita!(ここがアテナイだ、ここで考えろ!)という言葉がある(
http://dia.blog.ocn.ne.jp/shima/2007/11/post_31d9.htmlより引用)。

 ロードス島について、『ウィキペディア』の記述を転載させていただく。

 ロードス島(ギリシア語:Ρόδος、アルファベット表記:Rodos。英語:Rhodes)はエーゲ海南部ドデカネス諸島に属するギリシャ領の島である。

 アテネとキプロス島のほぼ中間、アナトリア半島から18km西方に存在する。2004年時点での人口は130,000人、内60,000人あまりがロードス市で生活している。ロードス市はドデカネーゼ地域の首府でもある。歴史的遺産が多く残る所であり、世界の七不思議の一つであるロードスの巨像が存在したことでも知られる。また、中世期の町並は世界遺産に登録されている。

 紀元前16世紀にはミノア文明の人々が、そして紀元前15世紀にアカイア人が到来し、さらに紀元前11世紀にはドーリア人がこの島へとやってきた。ドーリア人たちはのちに本土のコス、クニドス、ハリカリナソスに加えてリンドス、イアリソス、カミロスという3つの重要な都市(いわゆるドーリア人の6ポリス)を建設した。

 ペルシャ戦争後の紀元前478年にロードス島の諸都市はアテナイを中心とするデロス同盟に加わった。この後紀元前431年にはペロポネソス戦争が勃発するが、ロードス島はデロス同盟の一員ではあったものの中立的な立場をとりつづけた。紀元前357年にハリカルナソスのマウスロス王によってロードス島は征服され、紀元前340年にはアケメネス朝の支配下に入った。しかしその後紀元前332年に、東征中のアレクサンドロス3世がロードス島をアケメネス朝の支配から解放し、自己の勢力圏の一部とした。

 アレクサンドロスの死後、後継者問題からその配下の将軍らによる戦乱が起こり、プトレマイオス1世、セレウコス、アンティゴノスらが帝国を分割した。 このいわゆるディアドコイ戦争の間ロードス島は主に交易関係を通じてエジプトに拠るプトレマイオスと密接な関係にあったが、ロードスの海運力がプトレマイオスに利用されることを嫌ったアンティゴノスは息子デメトリオスに軍を率いさせてロードスを攻撃させた。これに対してロードス側はよく守ってデメトリオスの攻撃を凌ぎきり、翌年攻囲戦の長期化を望まないアンティゴノスとプトレマイオス双方が妥協して和平協定が成立した。この時デメトリオスの軍が遺していった武器を売却して得た収益をもとに、今日アポロの巨像としてその名を残している太陽神ヘリオスの彫像が造られた。

 ロードス島はエジプトのプトレマイオス朝との交易の重要な拠点となると同時に、紀元前3世紀のエーゲ海の通商を支配した。海における商業と文化の中心地として発展し、その貨幣は地中海全域で流通していた。哲学や文学、修辞学の有名な学府もあった。

 紀元前190年、セレウコス朝の攻撃を受けるもこれを退けた。この時の勝利を記念して、エーゲ海北端のサモトラケ島に翼をもった勝利の女神ニケの像が建てられた。
 紀元前164年にローマ共和国と平和条約を結び、以後ローマの貴族たちのための学校としての役割を担うことになる。両者の関係は、当初はローマの重要な同盟国として様々な特権が認められていたが、のちにローマ側によりそれらは剥奪されていき、ガイウス・ユリウス・カエサル死後の戦乱の最中にはカシウスによる侵略を受け都市は略奪された。

 紀元前後、後にアウグストゥスの後を継ぎ皇帝となるティベリウスがこの地で隠遁生活を送ったほか、パウロが訪れキリスト教を伝えた。297年、それまでのローマの同盟国という地位からその直接統治下に移ったが、ローマ帝国分裂後は東ローマ(ビザンティン)帝国領となった。ビザンティン領であった一千年の間には、ロードス島はさまざまな軍隊によって繰り返し攻撃された。

 ビザンティン帝国が衰亡しつつあった1309年、ロードス島は聖ヨハネ騎士団(別名・ホスピタル騎士団)に占領され、ロードス島騎士団と称されるこの騎士団のもと都市は中世ヨーロッパ風に作り変えられた。騎士団長の居城などのロードス島の有名な遺跡の多くはこの時期に造営されたものである。騎士団は島内に堅固な城塞を築き、1444年のエジプトのマムルーク朝の攻撃や1480年のオスマン帝国のメフメト2世の攻撃を防いだが、1522年にスレイマン1世の大軍に攻囲され遂に陥落した。騎士団の残った者たちはマルタ島へ移っていった。

 1912年、トルコ領だったロードス島はイタリアによって占領され、1947年にはドデカネス諸島ともにギリシャに編入された。

須磨日記(6) 古代ギリシャ哲学(38) クレーター(6)

2008-07-02 01:47:45 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)




(七五)セレウコス(セレウクス)(Seleucus、?~150B.)。
バビロニアの天文・哲学者。.地動説を支持した。月が干潮の原因であると理論付けた。



(七六) セネカ(Seneca、4B.~65A.D.)。古代ローマの物理・哲学者。ストア哲学。ネロの教師。執政官。彼がいなかったらネロの悪政はもっとひどかったといわれる。反逆の疑いで自殺。彗星は天体であると結論。



(七七)ソシゲネス(Sosigenes、?~46B.)。ギリシャの天文学者・年代研究家。シーザーの助言者、前46年、ユリウス暦修正をユリウス・シーザーに一任された。カリポス周期を利用して365日と1/4日とし、太陽の運行と一致するものを採用進言。「ソシゲネスの建議」でユリウス暦が確定した。



(七八)ストラボ(ストラボン)(Strabo、54B.~24A.D.)。ギリシャの地理・歴史学者。著書『geography(地理学)』。



(七九)スルピキウス・ガルス(Sulpicius Gallus、?~166B.)。古代ローマの執政官・弁論家・天文学者。マケドニアのビュドナの戦いの晩に月食が起こることを前日に予言。



(八〇)タキトス(Tacitus、55~120)。古代ローマの政治家、哲学者および歴史家。『Life of Agricola』や『Giamania』等の著者。



(八一)タルンティウス(タルンチウス)(Taruntius、?~86B.)。古代ローマの哲学・数学・占星術者。ローマ設立の日付を紀元前753年4月21日と計算。



(八二)タレス(ターレス)(Thales、636~546B.)。ギリシャの数学・天文・哲学者。ギリシャ七賢人・ギリシャ哲学の祖、自然哲学の創設者。「数学者のはじまり」「幾何学の祖」。万物を構成する根源・始源(アルケー)は水であると説いた。リディアとメディアの戦争を終結させるB.C.585年の日食を予言。1年の長さを365日とした。大地は水に浮かんだコルクのようなものと考えた。万物は神の力ではなく、自然自ら生じるとした。「三角形合同定理」。演繹的数学を開発してユークリッドの幾何学に影響を与え、ギリシャ哲学の基礎を作った。岸から船までの距離を求めた。ピラミッドの高さを求めた。「対頂角は等しい」、「二等辺三角形の底角は等しい」、「円は直径で2等分される」、「半円に内接する角は直角」。バビロニアとエジプトの天文学から大きな影響を受ける。



(八三)テアエテトス(テアイテトス/テェテトス/テアテトス/テーテトス)(Theaetetus、415~369B.)。ギリシャの幾何学者・哲学者。テオドルスとソクラテスの弟子、プラトンの友人、プラトンによって非凡な才能の人物として描かれている、プラトンの著『テアエテトス』。初等幾何学のかなりの部分が彼によるものである。ユークリッドが「幾何学原論」を著す際に用いたいくつかの資料は、テアエテトスからのものだろうといわれている。



(八四)テオン・ジュニア(後テオン)(Theon Junior、?~380)。ギリシャの数学・天文学者。アレキサンドリア学派の最後の天文学者、ユークリッドの『原論』を編纂し『アルマゲスト』の解説書及びプトレマイオスの『簡易表』の解説書を作る。分至点が黄道上を往復する現象の計算法。『アストロラーベの使い方』、犬星の出について』著。



(八五)テオン・シニア(テオン・セニヤ/先テオン)(Theon Senior、?~100)。ギリシャの数学・哲学・天文学者。地球は球状であり、宇宙の中心は地球である。惑星運動の順行、逆行の説明。離心円運動。周天円仮説を主張。水星と金星の太陽からの最大離角をそれぞれ20度、50度。惑星の太陽面通過、星食、黄道の中心と極を通る軸などにも言及。



(八六)ティオフィルス(テオフィルス)(Theophilus 、?~412A.D.)。ギリシャの天文学者。アレクサンドリアおよびアンティオクの法王及び司教。Coptic教会によって聖者とされた。



(八七)テオフラトス(Theophrastus、372~287B.)。ギリシャの植物・博物学者。."Theophrastus' On Herbs"『薬草誌』。アリストテレスの愛弟子。自然科学、論理及び形而上学。植物の博物学(320BC頃)。植物の一連のスケッチ、植物の論文(6冊)、『植物の歴史』(6冊)。



(八八) ティマィオス(チメウス/テマエウス/ティメウス)(Timaeus、?~400B.)。ギリシャの天文学者・哲学者。ピタゴラス派、プラトンの友人。宇宙起源論。『シシリーとギリシアの歴史』。



(八九)ティモカリス(チモカリス/チモカーリス)(Timocharis、?~280B.)。ギリシャの天文学者。.科学的天文学の先駆者の一人。角測定手段を用い、主要な恒星位置の精密な測定、約150個の測定値を収めた星表。のち、ヒッパルコスはこのうちのスピカを使って春秋分点の歳差を論証。



(九〇)ヴィトルヴィウス(ビドロビウス)(Vitruvius、?~25B.)。古代ローマの天文・物理・工学・建築家。船のドック、日時計に関心。『建築十書』(De Archtectura Libri Decem)、建築術、土木技術、兵器、築城術等の技術とその原理を記述。



(九一)クセノファネス(クセノファーネス/ゼノファネス)(Xenophanes、570~478B.)。ギリシャの詩人・哲学者。Eleeの学校創立者。理想主義者、汎神論信奉者。地球は無限に平ら、上端は大気に接し、下端は無限に下に延びている。太陽、月、星は火を取巻く雲、月以外は毎日新しい太陽、天体は火でできているという天文学理論。



(九二)クセノホン(Xenophon、430~354B.)。ギリシャの物理学者・自然学・哲学者・歴史家(430-354B)。ソクラテスの弟子。スパルタの軍隊勤務。 『Anabasis』、『Hellenica』(411-362)、『ギリシャの出来事』。      



(九三)ツエノ(ゼノン/ゼノ)(Zeno、335~263B.)。ギリシャの哲学者。日食と月食の原理を正しく説明。ゼノンのパラドクス。アキレスと亀。飛ぶ矢のパラドクス。“欲求の目的が道徳的に曖昧”であるように教えているギリシャの哲学者。Stoic の学校を創
設。


 以上、クレーターに見る古代ギリシャの自然哲学者のリスト・アップを行った。

 以下にみずみずしい天文学がはぐくまれていたかがお分かりだろう。

 とくに、ピタゴラス学派の功績を強調したい。

 本稿は、
http://www12.plala.or.jp/m-light/Geograph/Crater.html に依拠した。

(この項、閉じる)。


須磨日記(5) 古代ギリシャ哲学(37) クレーター(5)

2008-07-01 02:03:50 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)




(五五)マクロビウス(Macrobius、?~410)。古代ローマ 文法学者。
キケロの『星への旅』の注釈書の著者。『Saturnales』。新プラトン主義哲学者。地球中心説。



(五六)マニリウス(Manilius、?~50B.)。古代ローマの作家、詩人。Astoronomiconの著者、よく知られた星座についての記述。古代文明諸国の最も進歩的な天文学について。



(五七)マリヌス(Marinus、?~100A.D.)。ギリシャの地理学者。アジアとアフリカの調査。数理地理学の創始。「アジアとアフリカはヨーロッパより広いはずだから、ローマ皇帝は全世界を手中に収めることはできない」と指摘。



(五八)メネラオス(メネラウス)(Menelaus、?~98A.D.)。ギリシャ、地質学者 測定・天文学者。球面三角関数、メネラオスの定理。



(五九)マーキュリウス(メルクリウス/メルキュリウス)(Mercurius)。古代ローマ神話の足の速い伝令の神。商業の神ヘルメスにあたる。



(六〇)メトン(Meton、?~432B.)。ギリシャの天文・数学者。アテネで活躍。ギリシャで本格的な天文観測を始めた最初の一人。メトンの暦。メトン周期:紀元前433年、1年を365.263日として19年に7回閏月(3,6,8,11,14,17,19)を置くことを提唱(19太陽年が235朔望月に等しい)。



(六一)ネアルク(ナールヒ/ナーチ/ネアーク)(Nearch、?~325B.)。ギリシャの探検家、マケドニアの海軍大将、アレキサンダー大王の友人。



(六二)ネコ(Necho、610~593B)。エジプトの地理学者。アッ シリア帝国、バビロニア王国の歴史。スエズ運河プロジェクト。

 

(六三)オイノピデス(エーノピデス)(Oenopides、500(?)~430B.)。ギリシャの幾何・天文学者(500(?)-430B)。幾何学者、方法論学者。黄道と天の赤道との傾斜角24度を見つけた(地球の傾斜角)。黄道12宮の決定。ナイル川氾濫の説明をした。宇宙をその魂である生きている有機体、神と考えた。空気と火を宇宙の最初の原則であると理解した。



(六四)オシリス(Osiris)。エジプト神話。死の神、ゲブとヌトの息子。名ウシル。九柱神。穀物神。イシス・セトの兄にしてイシスの夫、ホルスの父。両手に王権の象徴である王笏を持つ。人間にパンとワインの製法を教えた。最初の神殿建築、神々の像の製作監督。町をいくつも建設、公正で正義にのっとった法を定めた。旅行から帰った時弟であるセトに殺される。イシスの魔法で復活。地下世界死者達の王、死者達の裁きを司る。



(六五)フィロラオス(フィロラウス)(Philolaus、?~400B.)。ギリシャの数学・天文・哲学者。ピタゴラス天文学の支持者。地球は動いていると説く。宇宙の中心は「中央の火」と信じていた。



(六六)プラトー(プラトン)(Plato、本名Aristokles、428~347B.)。ギリシャの哲学者、ソクラテスの弟子。プラトン哲学の三本柱、イデア、善、心魂。抽象的還元主義としての理論物理学の哲学。宇宙の中心には地球があり、太陽や月、惑星の複雑な動きも調和のとれた円運動。宇宙の調和としての「正多面体論」。定規とコンパスのみを用いるという幾何の作図問題の条件、ギリシャの三大作図不能問題①2倍の体積の立方体②角の三等分問題③円積問題。アカデミアの入り口に掲げられていたという「幾何学に通ぜざるもの、この門を入るを許さず」。



(六七)プリニウス(Plinius、23~79(?))。古代ローマの著述家、物理学者。37巻におよぶ百科事典『Historia naturalism』。博物学(50頃)。ボンペイ滅亡のとき死亡。



(六八) プルタルコス(プルターク)(Plutarch、46~120)。ギリシャの伝記作家。1世紀に月面についての理論を書いた『月面の表情』の本の中で月が山と谷の世界であると記述。



(六九)ポリュビオス(ポリビウス)(Polybius、204(?)~122(?))。ギリシャの歴史家・政治家。古代世界の『歴史』を執筆した。手紙の暗号解読法・Polybiusの正方形、及び暗号化。



(七〇)ポセイドニオス(ポシドニウス/ポシドウス/ポシドニオス)(Posidonius、135(?)~51(?)B.)。ギリシャの天文・地理・哲学者。後期ストア派に属する哲学者、シリアのアパメイヤ出身。太陽の直径や太陽と月の地球からの距離を推定。地球の子午線の周も測定。潮汐現象の原因は月にあるとした。観測について初めて大気差を考慮。霊魂の不滅を唱えた。地球の円周を29000kmとした。このため小さい地球が信じられコロンブスはインドに向かえた。



(七一) プロクロス(プロクルス)(Proclus、410~485)。ギリシャの数学・天文・哲学者。『神学の基礎』。



(七二)プロタゴラス(Protagoras、481(?)~411(?)B.)。ギリシャの哲学者、ソフィスト(詭弁家)の代表的な人物、「人間は万物の尺度である」という有名な言葉。



(七三)ピタゴラス(ピュタゴラス)(Pythagoras、560~480(?)B.)。ギリシャの哲学・幾何学者。ギリシャの科学者ターレスに学ぶ。直角関数に関する「ピタゴラスの定理」。数学的自然観の創始「万物は数である」、偶数奇数の区別、図形数の研究、三平方の定理、地球は平らでなく、丸いと考え、大地は球体であると考えた最初の人。宇宙の形も球形であると理解した。明けの明星と宵の明星が同じ金星であることを見つけた。惑星の研究。ピタゴラス学派。教えられたことの全てを口外禁止にした。しかし、弟子たちの発見は全て師のピタゴラスの発見であるとしたと言われている。



(七四)ピュテアス(Pytheas、?~308B.)。ギリシャの海洋探検家・地理学者。.遠くブリテン島の北部まで渡った航海士、潮汐と月を関連付けた最初のギリシャ人。

(この項、続く)