消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.154 マイロン・ショールズその1

2007-08-30 01:10:43 | 金融の倫理(福井日記)

 マイロン・ショールズ(Myron S. Scholes)は、1941年、カナダ、オンタリオ州ティミンズ(Timmins)に生まれた。この地は、恐慌前は金鉱で賑わっていた所である。

 父は歯科医、母は叔父とともにデパート・チェーンを経営していた。叔父の死によって相続問題に苦しんだという。一〇歳のとき、五〇〇マイル南のハミルトン(Hamilton)に移る。一六歳のとき、母が癌で死ぬ。さらに本人も、目の角膜を傷つけ、視力を損なってしまった。活字を読めなかったので、よい聞き手となり、抽象的思考になじむようになったという。二六歳のとき、角膜移植に成功して視力を回復する。

 ビジネスにいそしむ母方家族の影響を受けて、一〇代の頃から利殖に興味をもつようになっていた。高校時代と大学には最初は母、後には父の口座を使って株式に投資していた。株価形成の理屈に興味をもち、成功した投資家の著作を読み耽っていた。

 地元のマックマスター大学(McMaster)でシカゴ学派の教授マッキーバー(McIver)の感化を受けて、ジョージ・スティグラー(George Stigler, 1911~91)、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman, 1912~2006)の著作に親しんだ。そして、一九六二年、シカゴ大学の大学院に進む。ここで、博士コースにいたマイケル・ジェンセン(Michael Jensen)やリチャード・ロル(Richard Roll)と出会う。

  いずれもファイナンス理論の大家として著名になった人であり、ショールズは、自伝で、彼らは長年の親友であり、理論的には最大の影響を受けたと述懐している。

 シカゴ大学大学院に入学した後の最初の夏、彼は、コンピュータ・プログラムの経験がないのに、学部長のロバート・グレイブ(Robert Graves)の好意で、中級のコンピュータ・プログラマーの職を得た。職を得てすぐに、教授連からプログラム作成を依頼されたが、もちろん、まったくそうした要望に応えることはできなかった。学部長に相談したが、他にプログラマーはいないと諭されて、大学の側のコンピュータ施設に通うように命じられた。四か月半でかなりのことをマスターし、すっかりコンピュータの虜になってしまった。

 もし、シカゴ大学にコンピュータ・サイエンス学科があれば、自分はコンピュータ学者になっていただろうと彼は述懐している。

 コンピュータの専門家になってからは、シカゴ大学のファイナンス理論を専攻する学者たちから多くのことを学んだ。彼にプログラムを依頼していた教授陣には、レスター・テルサー(Lester Telser)、ピーター・パシジアン(Peter Pashigian)、マートン・ミラー(Merton Miller)、ユージーン・ファーマ(Eugene Fama)がいた。

 ミラーは、手元にプログラマーとしてのショールズを必要としていたこともあって、ショールズに博士コースへの進学を勧めた。ミラーとファーマのファイナンス経済学、スティグラーの情報経済学、フリードマンのマクロ経済学が、彼を興奮させていたという。

 株式市場における相対的資産価格、裁定取引が株主の代理人としての経営者の法外な儲けをどの程度阻止できるかが、彼の研究テーマであった。博士論文は、取引される証券の需要曲線に関するものであった。

   証券ごとに異なるリスク・リターンを組み込む複数株取引の方が、個別的株の売買市場よりも大きくなる可能性を彼は信じていた。情報をもつ人による大取引が、市場に新しい情報をもたらして、証券価格を変化させるということも理論化すべき局面であった。ミラーとは、リターンに影響するリスクの計測とリスク間の格差の効果に関する研究を行った。

 博士論文がほぼ完成した一九六八年秋、彼は、MITの経営学スローン・スクール(the Sloan School of Management at MIT)の助教授に採用された。

 
そこには、ポール・クートナー(Paul Cootner)、フランコ・モジリアニ(Franco Modigliani)、ステュアート・マイヤーズ(Stewart Myers)がいた。スローンの一年目に、アーサー・リトル(Arthur D. Littleのコンサルタントをしていたフィッシャー・ブラック(Fischer Black)と出会い、以後、彼らは共同研究を続けた。

 一九六九年にポール・クートナーがスローンを去ったが、ロバート・マートン(Robert Merton)が加わった。マートン、ブラック、そしてショールズの三人がチームを組んで資産価格とデリバティブ価格のモデル化に携わった。

 マートンとの共同研究が中断するというマイナスを覚悟して、彼は、シカゴ大学のビジネス・スクールに移った。一九七四年である。一九七二年にブラックがシカゴ大学教授に転身していたからである。ところが、一九七四年、マートンが、ブラックをMITに呼び戻していた。ショールズは、シカゴに留まり、証券取引に及ぼす課税の影響を研究していた。どうも、ブラックがモデル開発の核心であったと思われる。

 一九八三年スタンフォードのビジネス・スクールとロー・スクールのスタッフになる。一九九〇年ソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)の特別コンサルタントになる。ここで、デリバティブ取引に協力した。スタンフォードでの職を兼任したままであった。そして、一九九四年、LTCMに参加する。一九九八年再婚したと自伝で述べてはいるが、LTCMの破綻のことは、まったく触れていないhttp://nobelprize.org/nobel_prizes/economics/laureates/1997/scholes-autobio.html)。

 LTCMの破綻については、『金融ビジネス』(二〇〇七年夏号)のインタビュー記事で語っている。まず、自分がリーダーでなく、旧ソロモンのトレーダーたちが実権を握っていたこと、彼らが「市場の方向性に賭ける」戦略を採用してしまっていたからであるとショールズは説明した。

 「市場の方向性に賭ける」というのは、ショールズによれば、β(ベータ)と称されるもので、市場の動きを予測して証券を売買するもので、マクロを中心としたヘッジ・ファンド業者が行っていることで、システマティック・エクスポ-ジャーとは区別される(同、三二~三三ページ)。要するに単純な手法である。鳴り物入りで創設され、自らが資金調達に邁進したTCMをこのインタビューでは単純なファンドとして切り捨てている。

 LTCM破綻後、ショールズは、プラチナム・グローブ・アセットマネージメント・エルピー(Platinum Grove Asset Management, L.P. =PGAM) を設立して、その会長になっている。

 自分の作った新しいこの会社は、ω(オメガ)という手法をとるもので、市場が上がるとか下がるとかを予測するのではなく、どちらかといえば「受け身的に動く」もので、リスクをヘッジしたいという顧客のリスクをとって仲介することにより、付加価値を高める方法、つまり、「リスク移転」のビジネスを戦略の中心に置いていると説明する(同、三二~三三ページ)。

 そして、一九九八年のアジア通貨危機などのひどい逆風が吹く場合もある、そうした事態における市場は正規分布ではなくファット・テール(fat tail)、つまり、裾野が広い分布をしている、この点を考慮して、ファンドが対処できるロスの大きさを、自分の主催するファンドは、つねに計測していると語った(同、三三ページ)。

 個々の投資家は自分のリスクは把握しているのであろうが、世界全体の総和としてのリスク量は把握するのが難しい。これは「集計問題」(aggregation problem)と呼ばれているものである。彼は言う。

 「クルマが事故を起こしたからといって、皆が運転をやめるわけではありません。市場は常に動き、そこから、われわれは常に何かを学んでいます。まったく心配がないなら、世界は極めて退屈なものになってしまう。むしろ失敗は次の成長をもたらす。理論と経験が相まってテクノロジーの発展があるのです。結局、ファイナンスの価値は何かと言えば、コストを減らすこと。規制当局も市場に対して、常に規制をすることの恩恵とコストを天秤にかけている。社会の発展、消費者あるいは貯蓄者にとって、金融工学は利益をもたらしていると思っていますよ」(同、三四ページ)。

 金融はコストを減らすのに資するべきである。これは正しい。しかし、ここで想定されているのは何のコストだろうか。今日のようにファンドが猛威を奮えば、企業は買収に怯えて長期的な企業戦略を採用できないでいる。あるいは、資金調達に非常な困難を覚えている。ファンドは、金持ちの金融取引コストを下げるのに貢献しているのは確かであろうが、社会における生産と生活のコストを逆に増加しているのではないだろうか。

 彼は、ファンドが流動性を供給するプラスの役割をはたしているという。

 「グローバルな市場には、年金、企業、ヘッジファンドなどさまざまな投資家のニーズがあるわけですが、何らかの理由で、彼らがポートフォリオを組み替えたいと考えた場合、すぐに、買い手が現れるとはかぎりません。一定の期間、リスクをヘッジしたい人(hedger)とリスクを取る投機家(speculator)との間に立って保有し、流動性を供給する仲介者が必要です」(同、三二ページ)。

 ここでイメージされている「流動性」とは市場をスムーズに機能させることであり、けっして、生産に必要な資金を供給するという意味で使われているわけではない。流動性という言葉が、ケインズ的な意味での「生産に必要な資金供給」からは大きく離れた使われ方をしているのである。

 流動性を、ショールズ的に解釈したのは、ロバート・C・マートンも同じである。LTCM設立に必要な資金を調達するのに、米国大手証券会社の協力を得ることに困難を覚えていたメリー・ウエザーが、資金調達用の外部向け看板として、当時の金融工学界の最高峰、ハーバード大学教授のマートンを入社させたのである。マートンは、教え子のエリック・ローゼンフェルト(Eric Rosenfeld)に請われてソロモンの顧問をしていたこともあり、学会から金融界に移ることにさして抵抗感がなかったようである。

 マートンは、時間を細かく分割し、時間の流れに沿って株式オプションの「適正価格」のモデル化に成功した。マートン自身はこれを「連続時間型ファイナンンス」と呼んでいた。

 マートンが華麗な数式で証明してみせたブラック=ショールズ・モデルは、一九七三年五月に発表された。一か月前の四月、シカゴ・オプション取引所が開設されている。これは、はたして偶然であろうか。効果があるタイミングを見計らって発表されたのではないだろうか。事実、テキサス・インスツルメント(Texas Instrum,ents)は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙につぎのような広告を打ったという。

 「これからは、わが社の電卓でブラック・ショールズ・モデルの計算ができます」(Lowenstein, Roger[2000]、邦訳、五九ページ)(ローウェン
スタイン自身は、その事実をBernstein Peter L.[1996]から得ている)。

 フィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズ両氏が発表したオプション価格の評価モデルの基本的考え方は、リスクを避けうるポートフォリオの構築が可能であるというものである。

福井日記 No.154 マイロン・ショールズその2

2007-08-30 01:09:43 | 金融の倫理(福井日記)

 原資産である株式の価格とオプションの価格は、ともに同じ要素である株式価格の変動に影響される。つまり,ごく短期間のコ-ル・オプションの価格は,原資産である株式の価格と非常に強い正の相関をもち,プット・オプションは強い負の相関をもつ。したがって、適切な株式とオプションの組合せを構築することで、株式のポジションとオプションのポジションをともに相殺することが可能になる。そして、コールとプット・オプション価格を算定する計算式を開発したのである。

 一九八〇年代、メリー・ウェザーを中核とするソロモンのデリバティブ部門は、時代の最先端を切っていた。マートンは、デリバティブの普及に伴って、銀行と投資会社との区分がなくなると信じていた。

 マートンは、LTCMをヘッジ・ファンドとは見ていなかった。そうではなくて、最先端の「金融仲介機関」であると考えていたのである。町の銀行は、預金者からカネを借りて、そのカネを地元の住民や事業者に貸し付け、借入金利と貸付金利の差(スプレッド)が銀行の利益になる。そうしたささやかなスプレッドを稼ぐのがこれまでの銀行である。LTCMも借り入れる。

  これは、先物での債券の売りという行為に相当する。先物での債券を売るということは、将来、その債券の現物を渡すということなので、先物売りとはカネを借り入れたことと同じである。そして、そのカネで、リスクが高いので、高い利率を払わなければならない信用に低い事業者の債券を買うことによって、彼らに流動性を供給する。つまり、なかなか事業資金を調達できない業者にカネを貸し付けるのである。これまでの銀行とLTCMが異なるのは、後者がリスクをあえてとるという点にある。

 流動性を供給することが銀行の仕事でありかぎり、同じく流動性を供給できるファンドはこれまでの銀行を進化させたとマートンは理解するのである。こうして、

 「輪郭が整い始めたヘッジ・ファンドは、マートンのおかげで、もっと壮大な文脈で我が身をとらえ始めた」(Lowenstein[2000]、邦訳、六〇ページ)。

 資金調達の看板としてハーバード大学から引き抜いたLTCMではあったが、実際には、マートンは集金活動には向かなかった。性格がまじめすぎて集金活動に身を入れてくれなかったからである。しかし、いずれ、ノーベル経済学賞をもらうであろうと噂されていた超重鎮、マートンを陣営に引き込んだことは、LMTCを世界に認知させる上でとてつもなく大きな価値をもつものであった。

 実際に、先頭に立って資金集めを行ったのが、もう一人のノーベル経済学賞受賞候補のマイロン・ショールズであった。

 
ショールズもまた大学を辞めてLTCMに参加した。彼は、弁舌さわやかで、比喩も美味かった。適度に相手を恫喝することもできた。とくに、大手保険会社のコンセコ(Conseco Fieldhouse)に出資を決断させたときには、コンセコ側の担当者を馬鹿呼ばわりをしてコンセコの主席者は激怒したが、結局はショールズに説得されてしまたことを、ローウェンスタインは描いている(同、六五ページ)。

 ローウェンスタインは、ショールズが若い頃からいかに金儲けに腐心していたかを書いている。兄弟と組んで怪しげな本を出版したこと、サテン(繻子織)というブライダル用の生地で作ったシーツを売り出したり、各種ビジネスに手を染めていた。

 ショールズが、在籍していた頃のシカゴ大学は新保守主義者のメッカであった。ユージン・ファーマ(Eugene Fama)は、一九七〇年に初めて「効率的市場仮説」という言葉を使った(Fama, Eugene[1970], [1991])。市場がつける株価はつねに適正であるという信念である。

 市場信奉者が集まるシカゴ大学で研究したショールズは、投機に熱中し、一九六〇年代後半には給与のすべてを株に注ぎ込み、相場の急落で銀行に泣きついたこともあった。

 各国の税法にも精通していた。「税金をまともに払うのは愚の骨頂だ」と言い放ったこともあるという(Lowenstein[2000]、邦訳、六七ページ)。お陰で、LTCMのパートナーたちは、儲けの税金を一〇年も納税を繰り延べることに成功した。

 収益から二五%を手数料としてとり、二五億ドルの出資を要求するLTCMの過大な要求も、ショールズの加入でその半分は実現することになった。結局は、外国銀行を巻き込むことに成功したのである。

 それは、クリントン政権が、宮澤内閣に金融自由化圧力をかけるようになった一九九三~九五年にいたる金融分野交渉の開始時期と完全に重なるのである。


福井日記 No.153 クオンツ

2007-08-28 20:00:41 | 金融の倫理(福井日記)


 「クォンツ」とは、「定量分析者」(quantitative analyst)のことで、金融機関で金融商品の数学モデル開発に従事する数学者を指す。日本では、一時、金融界に入ったロケット博士のことを意味していた。

 一九五二年、ハリー・マーコビッツ(Harry Max Markowitz, 1927~)が提出した博士論文、「ポートフォリオ選択」が、数学的な考え方を金融部面に適用した最初の試みであるとされている(Markowitz, Harry[1952])。

 
彼は、一九九〇年のノーベル経済学賞を受賞している。彼が初めて市場の分散を定式化した。「共分散」(covariance)と「平均収益」(mean return)をキーワードに、トレーダーがもっていた経験則を数式化したとされている。

 共分散とは、二つの変数の間の量的な変動の関係を示す指標のことである。共分散は、一方の変数の値が大きいほど他方の変数の値も大きい関係にあれば正とされ、逆に一方の値が大きいほど他方の変数の値が小さい関係にあれば負とされる。二つの変数間に共変関係がなければゼロに近づく。つまり、株式価格の連動を表す考え方である。

 投資には、特定の金融商品に集中させるのではなく、分散させることが重要であることについては、株式投資関係者の間では経験的に理解されていた。

 マーコビッツは、証券を個別的に分析するのではなく、適度に分散された「複数の証券の組み合わせ」(このことを「ポートフォリオ」という)に投資の主眼を置くべきだと主張した。

 それまでの主流は、当ブログでも紹介したベンジャミン・グレアムの「バリュー投資」論であった。株式の本来の価値より安いものを買うという考え方がそれであった。しかし、多くの人たちは、こうした理論があったにもかかわらず、特定の株式だけではなく、複数の株式に分散投資をしていた。経験的にその方が安全であったからである。これは、収益だけでなく、リスクも投資家の関心を引いていることの証左である。

 しかし、結論的に言えば、この「クォンツ」理論の隆盛が、最近の「サブプライム・ローン」問題を引き起こしたのではないかという見方もある(「日向清人のビジネス英語雑記帳:スペースアルク」;http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2007/08/post_400.html)。

 「サブプライム」とは、「プライム」という点からすれば劣る(=下=sub)という意味である。したがって、「サブプライム・ローン」とは、返済能力に不安がある人にも借りやすいように仕組まれたローンのことを指す。つまり、借り手の危険性を、多くの貸し手が分散して請け負うという仕組みのローンである。ローンを証券化して、投資家が分散してもつという商品である。

 米国の住宅金融にこのサブプライム・ローンが大々的に適用されていたが、米国の金利の上昇とともに、このローンの貸し倒れ率が急速に高まり、フランスの銀行系のクォンツ・ファンドが、親銀行の指示で運用を停止したことから、二〇〇七年八月の大騒動が世界的に拡大した。これは、危険な借り手から搾取するサラ金を待つ当然の報いである。

 そもそも、ファンドは、運用する原資産の価値を分割し、一口当たりいくらという価格をつけて投資家に売り出すものである。

 
当然、その価値(NAV=Net Asset Value)の上昇を期待して投資家は応募(subscribe)し、大きなリターンでの償還(redeem)を受け取る積もりではあるが、貸し倒れ率が高まると、ファンド側は、資産価値の確定ができなくなり、投資家の資金引き上げが発生することになる。

 他方で、株式市場では、大型M&Aの横行によって、活況を呈していたが、ファンド側が買収資金を出さなくなってしまうと、株式市場に流入する資金も先細りになるのではないかと市場の思惑から、株式相場が急速に下落してしまう。

 こういう情況下では、投機資金は優良株(blue chips)に逃避するのが過去の経験則であったのに、二〇〇七年夏には、優良株自体の価格が下落した。逆に、これまでの経験からすれば大幅に値下がりするはずの弱小株の値段が上昇している。これは大変なことであある。市場が迷走しだしたことを意味するからである。

 相場の下落局面では、大幅に値下がりしそうな株を借りて、市場で売り(空売り=short sale)、一定の現金を入手する。現物価格が十分に下がって時点でその株を買い戻し、借りた相手に現物株を返却する。そうすれば、現物株を買ったときの低い価格と、下がり前の相対的に高い価格との差額が儲かる。こういう操作で損失をカバーしようとするものだが、二〇〇七年夏に起こったことは、優良株を売って、弱小株を買うという逆の取引の横行であった。急いで損失を取り戻そうとする末期的狼狽が市場を支配しているのである。

 すでに説明したが、ヘッジファンドとは、会員制クラブで、大金持ちや機関投資家から一口数億円という巨額の出資を募り、巨額の運用資金をもつ。

 
個人が分散された市場とは違い、巨額の運用資金を駆使できるのだから、当然、市場そのものを振り回すことができるようになる。ファンドは、株式、債券はもとより、およそ儲かるものならなんにでも手を出す。とにかく、投機対象を分散させて投資する。

 もともと、「ヘッジ」とは安全を期待した「つなぎ」という意味であるが、ヘッジファンドは、安全性など無視して高い危険があるほど高い収益を得られるといった「ハイリスク・ハイリターン」の行動様式をとる。それでなくては年間二〇数パーセントという償還などできないからである。失敗すれば、さっさと解散してしまえばいい。その間、儲けるだけ儲ければいいという短期即効型の投機組織であり、さんざん儲けさせてもらった大金持ちたちは、ファンドを解散されても文句を言わず、次のファンドを物色するという構造にある。じつは、ファンドの数が少ないときには、ヘッジファンドは順調に収益を上げてきた。しかし、無数のファンドが雨後の竹の子のように現れてしまえば、市場自体のうま味がなくなって、ファンドの生きる場が消失してしまうのである。

 ブルドッグソースの買収騒ぎで有名になったスティール・パートナーズ(Steel Partners)もヘッジファンドであるが、ヘッジどころか、投資先に乗り込んで株主価値を振り回し、相手先をヘッジするどころか掻き回して、自分たちが注ぎ込んだ投機資金のリターンを向上させることだけを考えている。こうしたファンドは「アクティビスト・ファンド」(積極派行動ファンド)と呼ばれる。

 スティール・パートナーズは、米国に本拠地をおくアクティビスト・ヘッジファンドで、代表は、ペンシルバニア大学卒のウォーレン・リヒテンシュタイン(Warren Lichtenstein、1966~)である。ウォレン・リヒテンシュタイン自身が一九九三年に設立した「スティール」の名前は最初の投資先が鉄鋼株だったことに由来する。日本で一躍有名になった二〇〇三年一二月のソトー及びユシロ化学工業に対する敵対的TOB、韓国のタバコメーカー、KT&Gに対してM&Aを仕掛けた。二〇〇七年七月現在、スティールが五パーセント超の株式をもつ日本企業は三〇社以上ある。

 日本法人名は「スティール・パートナーズ・ジャパン株式会社」(SPJS Holdings LLC)で、二〇〇一年一一月に設立された。江崎グリコやブルドックソースといった食品関連銘柄への投資が目立つのも特徴と言える。

 二〇〇七年五月、サッポロ・ホールディングが買収意図や事業計画についての質問状を送ったが、スティール側は「時間の引き伸ばしに過ぎない」として回答を拒否した。

 同年同月一八日、ブルドックソースに対して全株取得に向けてTOBを行うと発表、五月一四日以前の一か月平均の株価に約二〇%のプレミアムを付けた価額で全株取得に向けたTOBを開始した。

 ブルドック側は、TOBに反対し、新株予約権割り当てを軸とする対抗策をとった。新株予約権割り当ての対抗策は株主総会で承認され、スティールは東京地方裁判所に対し新株予約権の差止めを求めたが却下、東京高等裁判所に即時抗告を行ったが七月九日転売目的で株を購入する濫用的買収者であるとして抗告を棄却された。スティールは、これを受けて最高裁判所に特別抗告・許可抗告したが、いずれも棄却された(ウィキペディアより)。

 そして、二〇〇七年八月二三日、スティール側はブルドク株のTOBを締め切った。ステール側は、二〇〇七年八月九日から買い付け価格を一株一七〇〇円から四二五円に引き下げた。ブルドックがスティール以外の株主に新株を交付したからである。これによって、ステールの持ち株比率は約一〇%から約三%にまで下がった。TOBに応じて、ステールに株を売った株主はごくわずかであった(発行済み株式の一・八%、二四日にパートナーズが公表)。

 『讀賣新聞』二〇〇七年八月二四日付「日本・第四部・揺れる経営③」の記事によれば、二〇〇七年六月一三日、ブルドックの池田章子社長と会見したさい、リヒテンシュタイン代表は、「私はソースが好きではない」、「味わったこともない」と言ってのけたという。同記事を引用する。

 「ブルドックは操業一〇五年の老舗だ。日本の食文化を担ってきた自負もある。約二七〇億円もの巨額を投じて手に入れようとしている会社の製品を否定したような発言に、池田社長は内心、怒りに震えた」。

 同記事の内容をさらに紹介しておこう。

 投資ファンドは信託銀行の名義で投資するケースが多く、会社側の株主名簿では実態がつかめない。敵対的買収で傘下におさめた企業の経営陣を入れ替え、従業員を大胆に削減するファンドも珍しくない。

 二〇〇四年三月に日系投資ファンドに買収された旧東急観光(現トップツアー)では、取締役会の過半数となる五人の取締役がファンドから送り込まれ、ボーナスの支給を取りやめたことから労使対立が激化し、最近一年間で全従業員の一割に当たる役二〇〇人が退社した。

 そして、ブルドック買収は、スティール側の全面敗北となった。以上が、讀賣新聞の記事である。日本の新聞もことM&Aに関するかぎり様変わりしたものである。

 さて、クォンツに話を戻そう。
 
普通、投資でどの銘柄を選ぶかを考えるとき、企業の過去の業績、今後の見通しというファンダメンタルズの分析と株価の動きをチャートで追うものだが、これを数式にモデル化する人がクォンツである。クォンツごとに実績が競われる。彼らが必要になったのは、扱う銘柄が旧来のアナリストでは把握不可能なほどの、数千という膨大な数になったからである。膨大な数の銘柄を期待される収益率ごとにランキング分けし、その中から投資しやすいポートフォリオに組み込むというのが、クォンツの役目である。

 数学的に処理されることから、ファンド・マネジャーの思い込みというマイナスのリスクを避けることができるのではないかと一般投資家たちが期待する。事実、クォンツたちの運用成績は市場平均を上回っていた。

 しかし、データがすべて過去のものであることにクォンツ運用の致命的な欠陥がある。既存データでは把握できない新しい条件変化に対してクォンツは鈍感にならざるを得ないのである。

 さらに大きな欠陥がクォンツにはある。そもそも、クォンツが実績を示せたのは、計算上の格差が、実際の市場で取引されている格差よりも小さいところにあった

 「あるべき水準」と「現在の実際の水準」との格差がクォンツたちが目指す運用益の源泉であった。

 ところが、クォンツ運用が普及すればするほど、この格差が縮小してしまう。多くの投資家が実態を見落としているからこそ、格差の間隙を突く儲けがあったのに、コンピュータを駆使する取引が増えれば増えるほど、肝心の格差が縮小し、儲け口が狭まるからである。

 たとえば、空売りはそうした格差をもっとも収益の大きい源泉として狙う取引である。その空売りが、二〇〇七年夏、過去一八年間でもっとも運用成績を悪化させたのであるThe Wall Street Journal, August 11, 2007)。

 おそらくは、先行きが不透明となって、ものすごい勢いで「手仕舞い」が始まっているのであろう。業界用語では、手仕舞いのことを "unwinding"という。上記の新聞は、「巨大な手仕舞いが進行している」(a massive unwinding is occuring)と表現した。

 引用文献

Markowitz, Harry M. [1952], "Portfolio Selection, " Journal of Finance , vol. 7, no. 1.


福井日記 No.152 歴史的因果律その1

2007-08-25 17:09:54 | 金融の倫理(福井日記)

 息子との格差の大きさに奇異を感じるが、市場を通すのではなく、予言が実現され得るとしたのは、ロバート・コックス・マートンの父、ロバート・キング・マートン(Robert King Merton, 1910~2003)であった。

 父のキングは「自己実現的予言」(self-fulfilling prophecy)という表現を生み出した人である。この父は、その他にも、「お手本」(role model)、「意図せざる結果」(unintended consequences)という、後に人々の日常会話にも登場するポピュラーな言葉を作った人として知られている。

 主としてコロンビア大学で教鞭をとった。キングの父は、東欧ユダヤ系移民労働者であった。フィラデルフィアで育った。フィラデルフィアのテンプル大学(一九二七~三一年)、ハーバード大学(一九三一~三六年)を卒業後、しばらく、ハーバード大学で教えた後(一九三九)、一九四一年からコロンビア大学に移り、一九七四年には、この大学の最高の名誉である「大学の教授」(University Professor)になる。

 全米科学アカデミー(the National Academy of Sciences)会員に推挙された最初の社会学者(sociologist)であり、スウェーデン、英国の外国人アカデミー会員にも選ばれた。一九九四年には、社会学者として初めて「全米科学賞」(the US National Medal of Science)を受けた。

 そもそも、「社会学」(sociology)は、フランスのオーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798~1857)の命名になるものある。



  コントは、人間社会を「あるがままに、実証主義的に」描く学問の必要性を主張し、そうした学問を「社会学」と称した。

  それまでは、社会を描く学問は「あるべき姿」にこだわりすぎた。コントは、「あるべき姿」と「あるがままの姿」の両者を探求することが重要であるとした。彼が造語したフランス語の"sociologie"は、ラテン語の「社会」(socius)とギリシャ語の「学知」(logos)を合わせたものである。コントの理論は、生物進化に社会の進化をなぞらえた「社会有機体説」であった。

 第二次世界大戦後、社会学は米国の三人の学者を中心として発達してきた。



 
タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons, 1902~1979)、アルフレッド・シュッツ(Alfred Schütz, 1899~1959)、そして、キング・マートンであった。

 
パーソンズは、「社会学的機能主義」という人間社会の大理論を、シュッツは、「現象学的社会学」の小理論を、そして、キングがその中間である「中範囲の理論」を作ったのである。

 パーソンズは、「諸部分の総和からなるが、諸部分には還元されない独特の全体存在=システム」論を展開した。

 
それは、システムの内部か外部かという軸と、目的か手段かという軸の二つの軸が織りなす「適応」(adaptation)、「目標達成」(goal-attainment)、「統合」(Integration)、「型の維持」(pattern-maintenance or latency)からなるAGIL図式(四つの頭文字をとったもの)を分析手法に採用した。



 パーソンズは、ノーバート・ウィーナー(Norbert Wiener, 1894~1964)の「サイバネティクス」(cybernetics)論を援用した。勢い(馬)と制御(騎手)をキーワードとしたシステム論を社会に適用しようとしたのである(Parsons, Talcott[1937], [1977])。

 ただし、パーソンズの理論には、人間の内面を無視した客観的機能主義の傾向が強かった。それへの反発からシュッツは、人間世界の意味を重視した。

 
意味とは象徴である。
これはこれで、大きな進歩を社会学にもたらしたものであったが、細かい小さな事例調査という物足りなさを生み出すものであった(Schütz, Alfred[1932])。

 マートンは、一般的大理論を作るのではなく、経験的な検証ができる範囲という中間的なものに理論を限定させるべくきだとした。

 マートンは、当事者の期待通りに結果を得ることができた「顕在的機能」(manifest function)と、意図してなかった結果をもたらした「潜在的機能」(latent function)とを区分し、さらに、役に立つ=貢献する機能を「順機能」(eufunction)、害を与えたり阻害する機能を「逆機能」(disfunction)と呼んで区分した。

 マートンの理論の特徴は、先験的に物事を決めつけない点にある。そして、意図せざる結果の分析こそ、社会学の課題とした。つまり、不確実性がもたらす不確実な諸結果に機能分析の意義を見出そうとしたのである。

 たとえば、人間関係がぎくしゃくしている共同体の人々が、干ばつに悩んで雨乞いの儀式を大々的に行ったとしよう。雨は降らなかった。したがって、「顕在的機能」はこの雨乞いにはなかった。しかし、共同体の成員はお陰で仲良くなった。つまり、意図しなかった結果という「潜在的機能」をこの行為がはたしたのである。

 パーソンズが多用してきた「機能的統一性」も疑う必要があると父マートンは言う。部分が全体にとって一定の機能をはたすからといって、部分相互が役にたつように配列されているわけではない。部分間の対立を無視して安易に全体の調和を云々すべきではないと、彼は言う。

 パーソンズの「機能的普遍性」という考え方も危険であると、彼は言う。部分のすべてが機能をもつという仮定が「機能的普遍性」の考え方にはあるが、部分によっては、機能せず、機能しても逆機能になっている可能性があることを排除してはならないと、父マートンは言う。

 パーソンズの、「機能的不可欠性」は、ある部分がなくてはならない機能をもつという仮定であるが、これも疑わしい。ある部分を不可欠な要素であると決めつけることは危険である。不可欠だとされた部分が、まったく機能していないという可能性すらあるからである。

 先決機能を社会のある部分に当てはめてはならない。社会全体が目指す理論を試みることは危険である。したがって、理論とは、経験的に検証可能な中範囲に自己限定されるべきだとマートンは言う。

 マートンの理論を分かりやすく説明するには、「あこがれの集団=準拠集団」(reference groups)、「比較されたときの不満=相対的剥奪感」(relative deprivation)、「予言の自己実現」という三つの比喩が有効である。

 「あこがれの集団=準拠集団」とは、タレントになりたい若者が、芸能界の「業界用語」を使って、芸能人の風体を真似するという、よく見られる光景をイメージしたものである。タレント志望の若者にとって、芸能界が「準拠集団」である。準拠集団は、その集団に憧れる外部の人間にとって生き甲斐をもたらすという「順機能」をもつ。しかし、あまり過度にのめり込みすぎると、そうした人々は現在属している集団との不適合を起こすという意味での「逆機能」をもつ可能性もある。

 「比較されたときの不満=相対的剥奪感」は、潜在的機能の代表例である。米軍の中で、空軍の将兵の昇進がもっと早いという客観的な事実があるのに、昇進に対する将兵の不満は空軍でもっとも強いという調査結果がある。なまじ昇進が早いという現実では、昇進に対する期待感は他の軍よりも大きくなる。このときに昇進が遅れると不満が非常に大きくなるというのである。期待の大きさに比べてそれが実現しないときの落胆が「相対的剥奪感」とされる。良い職場であるがゆえに、こうしたマイナスの不満を呼び起こしてしまうので、これは「潜在的機能」の一つである。

 さて、「予言の自己実現」が、マートン理論の精髄をなす。ある筋が、「どこそこの銀行が危ない」という噂を流したとしよう。この噂が増幅して、その銀行が取り付け騒ぎに巻き込まれる。そして、実際に倒産してしまうこともある。逆の事態もある。選挙で、絶対に当選するとの噂が流された候補者が実際には落選してしまうことも結構事例としてある(Merton, Robert King[1949])。

 予言が実現されることもあれば、意図せざる逆の結果を生むこともある。つまり、将来は不確実性に満ち、結果も不確実なのである。

 このように、人の行動が思わぬ結果をもたらすという局面に社会学の存在理由を見出した父に反して、市場は予測できる範囲で合理的に動くはずであるとした子マートンは、市場の痙攣に弾き飛ばされた。

 演繹理論と分析しか科学として見ない父ミルから、帰納理論と叙述に人間性を復活させようとした子ミルへの流れとは正反対の成長を、子マートンは、潜在的機能として担ってしまったのである。

福井日記 No.152 歴史的因果律その2

2007-08-25 16:58:12 | 金融の倫理(福井日記)

 ケインズに戻ろう。

 
ケインジアンたちは、財政問題のみにこだわり、貨幣問題を軽視しているというのがマネタリストたちからの批判であった(monetarisy vs keynsian; http://www.warnerblade.com/f/viewtopic.php?t=44)。おかしな批判である。ケインズの著作の多くには、「貨幣」という表題が付けているのにである。

 ただし、ケインズの貨幣論は、マネタリストたちのように購買手段として貨幣を見るのではなく、人の不安を表現する心理的な機能を問題にしていたものである。ケインズ的な不確実性は、貨幣にこそ如実に示されるからである。

 貨幣は購買手段としての機能以外に価値の保蔵手段としての機能がある。そして、貨幣を保蔵手段として手元に置こうとする人々の欲求こそが、

 「未来に関するわれわれ自身の予想と慣習とに対する不信の程度を示すバロメーターである」(Keynes[1937], pp. 115-16. 邦訳、二八四~八五ページ)。

 人々は、将来への不安感を強くもてばもつほど、貨幣を手放さない。企業が投資を行うには、貨幣を手放そうとしない人を誘導して貨幣を借りなければならない。そのインセンティブが金利である。金利は人が貨幣を手放すバロメーターになる(ibid., p. 116. 邦訳、二八六ページ)。これが、ケインズの言う「流動性選好」なのである。

 利子は、貸付をしたい貨幣供給と借り入れたい貨幣需要といった関係で成立するものではない。将来への不安が利子率決定の最大の要因である。

  したがって、将来の不安感、そして不確定性が増せば増すほど、貨幣の流動性は低くなり、金利が上がり、債券価格は暴落する。

 
債券の価格差よりも、より流動性(貨幣との交換可能性)が高く、より安全な資産選択が求められるようになるのである。間歇的に市場が痙攣する。このときに、金融市場は崩壊してしまうのである。にもかかわらず、金融市場の崩壊の分析は行われず、台風一過、ふたたび金儲けのための金融理論が華々しく登場するのである。



 ケインズのこのような不確実性を中心とした貨幣的経済学構築を引き継ごうとしたのが、J・R・ヒックス(John Richard Hicks, 1904~1989)であったと、小畑二郎氏は指摘されている(小畑二郎[2005]、一五ページ)。ヒックスの『経済学における因果律』(Hicks, J. R.[1979])という著作がそれである。

 ヒックスは、将来の不確実性に対応できるようには、これまでの経済学はできていないと言う。

 国民所得、固定資本投資、貿易収支、雇用量、等々の統計を経済学はその基礎に置いているが、経済学が扱う統計は不完全なもので、社会そのものを完璧に写し取ったものではない上に、統計数値自体に誤差や曖昧さがつきまとう。つまり、経済学は不完全な知識の上に打ち立てられたものでしかない(Hicks[1979], pp. 1-2)。

 人間生活を扱う経済学は、不完全性を克服できてはいないが、歴史的時間の経過に従わなければならない。

 
経済学では、物事が「なぜ起こったのか」を問うことを任務としている。
 
つまり、実現した結果を引き起こした原因を探るのが経済学の大きな任務である。結果には、必ず歴史的原因があり、因果律を研究するには、必ず時間的に先行する原因を探らなければならないとしたのは、デービッド・ヒューム(David Hume, 1711~1776)であった(Hume, David[1739], Pt. 3, Sct. 2. 邦訳、第三部第二節、四二九ページ)。



 ヒックスは、ヒュームの歴史的因果律論を踏襲する。

 経済学は、自然科学の模倣をしようとしてきた。自然科学、とくに物理学に近づくために、それほど変化しない係数を選んできた。変数間の諸関係が不変のままに持続するというテーマに、経済学は、その理論を限定する傾向があった。いまでもそうである。現実を抽象化するモデルではなく、モデル化できる分野のモデルにこだわり、本来の現実の方に条件をつけてしまうのである。経済学の理論は、「諸条件に変化がなければ」という括弧付きの局面に視野を絞ってきたのである(Hicks[1979], pp. 39-40)。

  しかし、その結果、経済学は豊かな現実を写し取ることに失敗した。経済学は、人の意思、なぜ、そのような結果が生じたのか、等々の問題に取り組むという点で、自然科学とは性質を大きく異にするものである。つまり、経済学は科学の一端に位置付けられる以上に、歴史学の一端に位置付けられるべきものである(ibid., pp. 2-4)。

 物事の実行を決断するには、決断に至る前史と決断後の後史がある。ヒックスは、この前史を「先行段階」(prior step)、後史を「後続段階」(posterior step)と名付け、現在の行動を決断させる原因は、前史にあるが、その原因を作り出す意思決定は、歴史上の経験に基づくものであって、単に、確率論で明らかになるものではないとした(ibid., pp. 87-91)。

 さて、ヒックスが、ケインズの確率論を踏襲した点は、確率論の中の「頻度理論」(frequency theory)を安易に経済学に適用してはならないとしたことである。

 頻度理論は、確率を無作為(ランダム)な実験に固有の概念としている。長期間にわたって、数多く反復される行為が、確率を数値化する基礎になっている。しかし、経済現象では、そうした無作為な反復実験はできない。事象が起こるのは一回こっきりである。その意味において、経済学でいう確率は、本来の確率ではなく、さまざまな状態で生じうる可能性のことを指すにすぎない。たとえば、今後一〇年以内にアジアで戦争が起こる確率はどの程度かという類のものであって、自然現象で生じる確率とは基本的に性質を異にするものである(ibid., p. 107)。とは言え、「原始的な観念」(primitive idea)に堕すことなく説得的な理論にまで高めるには、理論を歴史学で基礎付ける必要がある(ibid., pp. 107-108)。

 「頻度理論」と並んで、確率には「公理論」(axiomatic theory)的アプローチがあると、ヒックスは言う。これは、ハロルド・ジェフリーズ(Harold Jeffreys, 1891~1989)に依拠した考え方である(Jeffreys[1939])。



 公理論的アプローチとは、異なる事象間の確率に成立する命題を検証するものであり、各命題間に一種の序列を持ち込めるのか、そうではなくて序列のない確からしさを表現するだけのものであるか、そもそも、数値化できるものなのか、そうではないのかといったことを吟味する接近方法である。

 ヒックスによれば、経済学は、確率として数値化できる命題も、数値化できない命題も、同じような重要さで扱われるべきであるとする。理論は、ともすれば数値化できる確率を得る方向に傾斜するが、それではいけないと、ヒックスは言う。

 
ヒックスは、このことを経済学における「不完全な順序」(incomplete order)と名付けた。確からしさに序列がつくものが、「完全な順序」(complete order)である。それに対して、数値的には小さい確率ではあるが、そのことによって、事象の重要性はいささかも減じないというのが、「不完全な順序」である。経済学は、「完全な順序」も「不完全な順序」も同等の重要性をもって理論化されるべきであると、ヒックスは強調した(Hicks[1979], p. 115)。

 家計に関する標本調査は無作為になされ、平均値や分散は容易に計算できる。しかし、時間を通じて家計がどう変わるのかは、このような計算だけではできない。変化を数値的に表現することは非常に困難なのである。

 結局、経済学は、とくに応用経済学は、歴史学に戻るべきであると、ヒックスは主張した(ibid., p. p. 11)。

 「統計確率論的方法」の経済学への適用領域はきわめて限定的である。確率論を使おうとするとき、対象が確率論に妥当するか否かをまず吟味しなければならないが、答えは、多くの場合、否定的なものである。ヒックスはこのように結論した(ibid., p. 121-22)。

 とくに、金融ゲームに関する無邪気なモデルが、社会を破滅に導こうとしているとき、ナイト、ケインズ、ヒックスの確率論への疑問を思い起こすことは非常に重要なことであると言わねばならない。



福井日記 No.151 判断を慣習に委ねることの意味

2007-08-24 03:35:11 | 金融の倫理(福井日記)


 J・M・ケインズ(John Maynard Keynes, 1886~1946)も、その論文「一般理論」(Keynes, J. M.[1937]で、「リスク」とは区別される「不確実性」に特別の注意を払っていた。

 ルーレット、富くじ、戦勝公債、天候、寿命、等々は、「不確実」なものではなく、統計学的な確率計算によって、ある程度の知識の下で理解されるものである。しかし、ヨーロッパ戦争の見込みとか、二〇年後の銅貨の価格や利子率、ある発明が廃棄されること、三〇年以上先の富の所有者の社会的地位の見込み、等々がケインズの言う不確実性である。つまり、不確実性とは予測不可能なものである。

 にもかかわわらず、人々は、こうした問題に、都合のよい勝手な理屈をつけて行動しなければならない(Keynes[1937], pp. 113-14.邦訳、二八二ページ)。人は確実な根拠もなく将来に立ち向かおうとするのであるが、ケインズ以前の経済学は、将来のことがほとんど分かっていないということを無視してきたと、ケインズは言う。

 「新しい不安と希望とが、警告なしに、人間の行為を支配する。・・・見事に整理された市場のために造られた・・・上品な技術は、崩壊を免れない。つねに、漠然とした恐慌の不安と、同時に漠然とした理由のない希望の波は、真に鎮まることはなく、一皮むけば、一本の細々とした道が、通っているにすぎない。・・・
 これは、われわれが、市場においてどのように振る舞うかということであるが、この研究において、われわれが考案する理論は、市場の偶然に屈従すべきではない。古典派理論が、未来のことはほとんど分からないという事実を捨象し去ることによって、現在を取り扱おうとする綺麗な上品な技術の一種であることこそ、わたくしが、これを批判する理由である」(Keynes[1937], p. 186.邦訳、二八三―八四ページ)。

 ケインズによれば、古典派の理論は、現実のものと完全に異なる種類のものでありながら、それを意識せず、「未来に関する知識」を人々がもつとの仮定の上に成り立っていた。しかし、実際にはそうしたことは不確実なものであるという認識をもつことによって、経済過程の不安定さを理解することこそが重要であると、ケインズは主張していたのである。

 不確実性に対応する人間の考え方をケインズは三つに分類している。
 (一)過去の経験に立脚して将来の変化の可能性を無視する姿勢、
 (二)現在の経済的要素が将来の変化を十分に織り込んでいると見なす姿勢、
 (三)自己独自の判断を放棄して他人の慣習的判断に依存する姿勢、
がそれである(Keynes[1937], p. 114.邦訳、二八二~八三ページ)。
 
そのいずれにも明確な根拠はないとケインズは断定する。

 他人の慣習的判断の一例として、ケインズが株式市場における「美人投票」の比喩を出したことは、よく知られている。しかし、投機家たちが、大多数の他人の判断に頼ろうとすると叙述されていることの深い意味はあまり認識されていない。

 ここで問題にされている「慣習」は、単純な意味での過去から受け継いできたものではなく、パニックに直面したときに人々が次々と考え方を変えていく様を指している。小畑二郎氏は、このことを以下のように表現されている。

 「たとえば、はじめは、特定の投機家の株式投資に関する伝統破りの、新しい工夫にすぎなかったものが、やがて多くの追随者を得ることによって、流行のやり方となった場合、そのような新基軸は、確立された様式、すなわち新しい『慣習』となりうる。また、ある経済学者がある金融商品の価格の決定理論を公表し、その理論が広く受け入れられた場合には、関係者による価格予想に大きな影響を与えるかもしれない。そのような価格予想は、市場関係者の新しい『慣習』となるであろう。確率計算が不可能な真の不確実性の下であっても、人々は、何らかの頼りになる対応の仕方をつねに求めている。したがって、特定の対応の様式がもし多くの人に受け入れられていることが確信できるとするならば、われわれは、そのことを頼りに行動するのは、決して非合理なことではない」(小畑二郎[2005」、九ページ)。

 小畑氏が、ここで指摘されいるわけではないが、氏はおそらく、次のことを強調されたかっらのであろう。パニックがパニックを生むのは、多くの人々が依拠すべき考え方が急速に変化してしまうからである。不確実性への恐れから投機家は、他の多くの人の考え方に従おうとするのだが、その考え方自体が、目まぐるしく変わる。これは依拠したい専門家なるものが特定的に固定化されずに、ファッション的交代劇が起こるからである。このことを反映して、結局は狼狽売りで事態はつねに収束する。

 カリスマ的な学者の言葉が、市場関係者の心を支配するということは真実である。個人的なことで申し訳ないが、その威力をまざまざと見せつけられた現場に居合わせた。

 私が、京都大学経済学部・大学院の学部長兼研究科長を務めていた二〇〇〇年、京都大学経済研究所との共催、日本経済新聞社後援で、東京と大阪で、ロバート・コックス・マートン(Robert Cox Merton, 1944~)氏を招き、「金融工学、京都からの発信」という講演会を開催した。

 東京会場では一〇〇〇名程度、大阪会場では八〇〇人程度の聴衆を予想していたが、とんでもない。いずれの会場も収容し切れない多数の聴衆を得た。

 
溢れた聴衆の人たちには、別の会場に慌てて入っていただき、テレビ・モニターで会場の模様を流して我慢していただいたが、両会場ともに、私ども主催者側の予想を三倍は上回る聴衆者数であった。

 日本経済新聞の威力もあるのだろうが、ノーベル経済学賞受賞者の威力を思い知らされたものである。しかも、LTCMが破綻した後のことである。マートン人気は、破綻の影響を受けていなかった。聴衆の多くが食い入るように、マートンの講演に聴き入っていた。

 氏は、尊大ぶらず、終始笑みを浮かべ、日本の食事を褒め、私たちの小さな質問にも嫌がらず丁寧に応えていただいた。さらに、マートンがその正しさを証明したブラック・ショールズ方程式(後述)が、いかに京都大学数理解析研究所教授の伊藤清(1915~)氏の確率微分方程式から恩恵を受けているかを語る姿は、敬虔な学者の姿勢そのものであり、私は好感をもった。私は、氏の人間性の深さに魅せられた。

 カリスマが発言すれば、金融市場は動きうる。そのとき、心底からそのことを思った。ブラック・ショールズ・モデルが正しいから相場が、動くのではない。そうした理論を作ったカリスマを雇う組織の動きに合わせて相場は動く。つまり、マートン人気という新しい慣習の下で市場が組織化されたのである。そして、それが失敗した。問題の核心はここにある。



 引用文献


Keynes, John Maynard[1937],"The General Theory of Employment," Quarterly Journal of
     Economics, Feb.Collective Works(CW), vol. 14.邦訳、『ケインズ全集』第一四巻。
小畑二郎[2005]、「不確実性の論法:因果律と確率論―J・M・ケインズからJ・R・ヒ
     ックスへの発展」、『筑波大学経済学論集』第五三号、
     www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M79/M790559/2.pdf


福井日記 No.150 リスクと不確実性

2007-08-23 12:36:29 | 金融の倫理(福井日記)

 市場とは、個々人の営利行為の集合体である。個々人が自己の判断に基づいて行動するが、個人の行動は、それぞれ異なって現れる。市場とは異なる多くの行動を合わせて表現するものである。市場が発信するシグナルを見て、個々人はその行動を修正する。それがまた市場に反映される。

 そして、再度の個々人の行動の修正がおこなわれる。そうした繰り返しが市場の内容である。それゆえに、市場は、異なる諸個人の判断の開きをある点に収斂させる機能を結果的にもつ。

 金融でいえば、市場は、債券価格の開き具合を調整する場として意識されている。市場によって最終的に示される価格を先取り的に理解して、価格差が収斂する前に、本来の価格から離れてはいるが、いずれ市場の力によって本来の価格に収斂していく債券を売買することで利益を得るのが債券の売買である。

 予想の範囲内での価格差、その価格差が収斂していく方向に売買の方向を合わせることによって、利益は生み出される。予想の範囲内での収斂であるために、その過程によって得られる利益は微々たるものでしかない。微々たる利益を大きくするために、レバリッジが働かされる。

 いまはバラバラの動きをしているが、いつかは、均衡点に向かう流れが生まれる。そうした動きに売買を合わせることが合理的かつ安全な投資行動である。

 しかし、市場には、均衡化作用とともに、パニックを生み出す作用をも合わせもつ。今の流れに不信感をもつようになるとき、人は他の人とは正反対の行動をとる。そして、市場が、そうした行動をする人の数が多いことを示すシグナルを人々に送る。人はそれをみて慌てる。多くの人々がいままでの行動を大きく修正しようとしている。この認識が、いまの状態から逃避しようとのパニックを生み出す。それがまた市場に反映される。こうして、パニックが増幅される。このように、パニックを生み出し、増幅させる作用をも市場はもつ。

 ところが、どうしたことか、債券売買という金融の世界では、市場の二つの作用のうち、前者、つまり、均衡化作用をもつ市場の側面のみに照準が合わされてきた。

 
安全な投資という局面がここにあるので、関心が市場の均衡化作用に向かうのは、当然であるが、それにしては、強引ともいえる高いレバリッジを効かすとき、後者、つまり、パニックを増幅する作用をもつ市場の存在への恐怖心は、いつでも、もたれるべきではあった。そのときには、ファンドを解散させればいいとの思いがあるからなのかは知らないが、少なくとも、債券売買に関する投資理論では、後者の存在は無視ないしは軽視され、市場とは均衡をもたらし、価格差のない方向に収斂させるものであるとの信念のみが信仰のように語られてきた。

 リスク(危険)は統計的な確率で表現することができるが、確率が存在しないものがある。これが「不確実性」(uncertainty)であるとしたのは、フランク・ナイト(Frank H. Knight,、1885~1972)であった。一九二〇年代から四〇年代までシカゴ大学で教鞭を取り、同大学の「テニュア」(tenure=終身在職権)であった。



  ジェイコブ・バイナー(Jacob Viner, 1892 ~1970)、ヘンリー・シモンズ(Henry Simons, 1899~1946)とともに、経済学におけるシカゴ学派の創設者とされている。



 大学側からの厚遇は、ハーバード大学のヨーゼフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter, 1883~1950、LSE(London School of Economics)のライオネル・ロビンズ(Lionel Robbins, 1898~1984)に並ぶものであった。

 ミシガン大学、テネシー大学を経て、コーネル大学で学位を取得。コーネル大学講師、シカゴ大学講師、アイオア大学准教授を経て、一九二八年にシカゴ大学教授、一九五〇年アメリカ経済学会会長になった。

  彼は、確率として把握可能な分散を「リスク」(risk)と定義し、確率的にも把握できない分散を「不確定性」(uncertainty)としてリスクと区別した(Knight, F.[1921])。これは、「ナイトの不確実性」と呼ばれる。

 将来を予測するということは、不確定な状態下でどの程度の「確かさ」で期待が生じるかを当てる作業である。これには、三つの可能性がある。

 一つは、数学的に先験的に確率として予見できるもので、「先験的確率」というタイプに属するものである。たとえば、二つのサイコロを振って、目の和が一〇になる確率は数学的に出てくる。その確率の範囲で将来は予測される。

 二つは、統計的に検証できるもので、「統計的経験的確率」という種類に属するものである。たとえば、来年の出生率とか、平均寿命の予測などがこれに属する。予測は経験的に検証されている数値に基づいておこなわれる。

 三つは、数学的確率も経験的検証もできないもので、一回限りの発生で、繰り返されないものを予測することである。そもそも予測を可能にするようなデータが存在しないので、予測はあくまでも「推定」でしかない。数学的先験的確率も経験的統計的確率も存在せず、「大数の法則」も作用しない。そうしたことの発生を予測することである。

 この第一と第二のタイプが「リスク」であり、第三のタイプが「不確実性」である。つまり、第三のタイプは、「なにが起こるかは予測できない」といった事象を扱う。ナイトは、この三つ目のタイプが、経営者が対応しなければならないものなのであり、経営者の報酬とはこの行動に対するものであるとした。

 「大数の法則」とは、統計上の母集団の平均値とこの母集団から無作為に抽出された標本の平均値とを比較し、標本が大きくなればなるほど、標本の平均値は母集団の平均値(真の平均値)に近づくというものである。

 真の平均値と標本の平均値との誤差の大きさは正規分布に従うものとして統計的には処理されている。

 統計的に面白いのは、母集団が正規分布になっていない場合でも、無作為標本の標本平均は、標本が十分に大きくなれば真の平均との誤差が正規分布をなすということである。母集団が正規分布であろうとなかろうと、誤差は正規分布に従うという数学上の定理は「中心極限定理」と呼ばれる。この定理がLTCMなどの投資を客に信頼させる理論として多用されたのであるが、これは、上で見たナイトの「リスク」の範囲内でのことでしかない。

 
第三のタイプの「不確実性」は考慮外に置かれ、実際には、アジア通貨危機、ロシアのデフォールト危機という第三のタイプの不確実性に見舞われ、一瞬にしてLTCMは吹き飛ばされてしまったのである。

 現実は、起こりうる確率など計算できない不確実性に満ちている。したがって、将来への行動の決断は、確率ではなく、経営者の主観的楽観に依存するしかない。そしてその楽観はしばしば現実に裏切られる。したがって、企業社会はつねに過剰生産と過少生産との間で揺れ動かざるを得ない。これがケインズの「不確実性」理解であった。

 ナイトのいう不確実性はまだ破局を意味していない。しかし、ケインズになると、社会の激動・恐慌などの存在を認知しているのである。



 ナイトは、コーネル大学時代のハーバート・J・ダベンポート(Herbert J. Davenport, 1861~1931)からもっとも大きな影響を受けている。



 ダベンポートは、ジェヴォンズ(William Stanley Jevons, 1835~1888)、ウィックスティード(Philip H. Wicksteed, 1844~1927)、オーストリー学派などの限界理論に、ヴブレン(Thorstein Veblen, 1957~1929)の人間行動の心理を相対的に扱う手法を組み合わせた「米国心理学派」(American Phychologicak School)の創始者である。ナイトは、限界理論を奉じてはいたが、けっして数理主義者ではなかった。

 非常に論争好きの学者ではあったが、いろいろな学派から積極的なものを採用する、J・S・ミル(John Stuart Mill, 1806~1873)のような偉大な折衷主義者であった。



 たとえばワルラス派からは市場の複数理解を受容したが、彼らの数学への傾斜を非難した。

 
オーストリー学派からは代替コスト理論を評価したが資本理論を退けた。マーシャル学派からはその文学的香りを受け継いだが実質コスト理論を批判した。リカードウ学派からは社会階層論を受容したが彼らの客観主義的傾向を非難した。マルクス学派の資本主義に対する倫理的批判を受け入れたが労働価値説は退けた。制度学派からは社会制度のもつ意味を重視したが、彼らの経験主義的な歴史観は批判した。歴史とは感得するもので、なぞるものではないとしたのである。

 ナイトは、経済学だけでなく、哲学、社会学、歴史学を重視した。
 
そして、資本主義の倫理の喪失を生涯を通じて批判していた。とくに、「競争の倫理」(一九二三年、Knight[1923])では、資本主義は、人々が必要とするものを生産しないで、資本主義が生産するものへの需要を作り出すだけであるという強烈は資本主義批判を行った。

 「もっとも自由でいる人ですら経済環境の産物である。この環境は人の欲求と必要を形成してしまい、市場で売れる生産物を人に作らせて人に与える。こうして、資本主義は、人の機会をもほとんど管理してしまうのである」(同)。

 ナイトは続ける。まるでマルクスを彷彿とさせる資本主義への厳しい告発である。

 曰く。市場は独占を生む。市場が効率的であるというのは嘘である。市場は社会に有益な産物を供給していない。限界生産力説は道徳的に誤った含意をもたらす。所得は生産要素に帰属しているとこの理論は説くが、実際に所得を得るのは要素ではなく要素の所有者である。したがって、生産設備の所有者が所得を得る権利をもつと軽々に弁護されてはならない。所有とは相続されたもの、幸運で手に入れたもの、努力で獲得できたものの複合的な所産でしかないからである(同)。

  こうして、彼は「弁護論的経済学」(apologetic economics)を侮蔑したのである。しかし、彼は経済過程に権力が介入することには反対していた。

 経済は複雑にして不安定なものである。そうした複雑性に対処するには、政府の経済計画は単純すぎる。権力の経済過程への介入は、なにもしないよりも危険である。したがって、自由放任(レッセフェール=Laissez-faire)が望ましい。これは、レッセフェールが有効に機能しているからではない。レッセフェールそのものが有効に機能しないのは明らかである。しかし、レッセフェールは個人の自由を最高善と見なし、それ以外のものを害悪と理解するから重要なのであると彼は主張した。



 フリードマン(Milton Friedman, 1912~2006)やスティグラー(George J. Stigler,  1911-1991)たちがシカゴ学派の第二世代とされ、一九六〇年代の経済学を牽引したが、彼らとは明確に一線を画す道徳的経済学者であった。



福井日記 No.149 格差を生む元凶一いつまで続くマネー・ゲーム

2007-08-17 23:39:16 | 金融の倫理(福井日記)

                                       
 「お金儲けは悪いことですか?」と尋ねられたらこう答えよう。「悪いことです。あなたの巨額の儲けの陰で、無数の人々が露頭に放り出された」と。少々罰金をくらっても、はるかに多くを貯め込めた人たちが、今後とも輩出するであろう。

 金儲けが悪いことであることを戦前の日本の農村の悲惨な状況で説明しよう。



 不在地主が農村を破壊した



 戦前の日本を破産に導いたのは、農村の貧しさであった。不在地主一人の収入が、村のすべての小作人の収入を上回っていた。人は、絶対的には低くても、平均線上に自分の収入があるとき、それほどの怒りに駆られることはない。しかし、突出した少数の人たちに収入が独占され、圧倒的多数の人々が平均線上よりはるかに少ない収入しか得られないとき、人々は強烈な貧しさの感情に打ちのめされる。戦前の日本の農村の多くは、後者の状態にあった。

 そもそも、農業は儲からない代表的な産業である。農民は借金を重ね、借金返しのために、農地を手放した。悪辣な金貸しが農地を取り上げた。金貸しは大地主になった。土地を手に入れた金貸しは、土地なき農民に農地を貸し出し、小作料のつり上げに血道を上げた。土地なき貧農が増えれば増えるほど、小作料はつり上がった。農民の貧困が不在地主の懐を潤した。そして、地主に転がり込んだ莫大な小作料収入は、農地の改良事業に投資されず、さらなる農地の買い占めに投資された。

 小作人も、永年の小作権を保証されないために、短期で目一杯の収益を得るべく、土地を酷使した。契約が保証されている短い期間に最大の収穫を得るべく、土地の生産能力の長期的維持という観点を脱落させて、土地の能力のすべてを消費し尽くすという略奪的農業に、小作人たちは向かわざるを得なかった。こうしてわずかの温度変化にも耐えられない農地が増えてしまった。貧困の悪循環に戦前の日本の農村は陥っていた。

 しかし、戦前の為政者たちは、農村の改善よりも、植民地の農地を零細な日本の農民に分配する政策を選択した。貧しい農民ほど好戦的にならざるを得なかった。

 


 金融が社会を破壊する


 金融業のみが繁栄し、圧倒的多数の給与生活者が将来を保証されなくなるとき、戦前の農民と同じく、従業員の現場が崩壊する。職場が生き甲斐ではなく、恐怖の場となり、対話の場でなく、他人を蹴飛ばす地獄の場となる。

 市場は合理的であると、金儲け至上主義者から、お題目のように語られる。しかし、市場はけっして公平ではない。栄耀栄華の生活を送っている人々の職業を見れば、もっとも端的にそれが分かるであろう。

 一攫千金のチャンスを生かした人々の中で、何万人の人員を雇用している「モノ作り」の経営者はいるのであろうか。豪邸を誇るのは、特定の産業のオーナーだけである。金融を生業とし、人の射幸心を煽る産業部門の経営者に金持ちが集中している。

 産業は、二種類に区分される。素人相手の産業は、素人が正確なコストを知らないという事情もあって、供給者が、価格決定の主導権をもつ。それに対して、玄人相手の産業では、製品価格は、寡占度の高い購買者によって決定される。このような状況があるために、玄人相手の産業は儲からない。

 もし、市場が、完全に自由になり、儲けが市場の唯一の価値判断になってしまえば、儲からない玄人相手の産業部門は衰退し、素人相手の産業部門だけが生き残るであろう。

 市場経済が、全面開花すれば、社会は儲かる産業のみが残存することになる。儲かる産業とは、従業員を酷使し、設備投資も行わず、ビルのような不動産も、工場ももたず、ひたすらマスコミにおもねる身軽な産業に限りなく傾斜する。その典型が金融業である。

 このぬかるみはいつまで続くのか。社会に英知があれば、早晩悪徳金融は廃絶されるだろうに。 

  戦後の日本は、儲かる産業と、儲からない産業とを区分した、それぞれの業態に応じた金融組織の棲み分けがあった。

 このような合理的な金融組織が、護送船団方式の打破という、米国発のスローガンによって破壊され、金融のデパート化を目指した自由化によって、金融組織は、儲からない「モノ作り」から離れ、儲かるファンド投資に傾斜することになった。


 日本の金融組織は、儲からない産業部門を見捨てて、儲かるファンドに急速に投資するようになった。

 金融庁が、平成十九年三月十五日、国内金融機関のヘッジファンドへの投資実績の数値を発表した。金融機関によるヘッジファンド商品投資は、平成十七年度で、約三兆円と、前年よりも約四〇%増えた。平成十二年度では約〇・三兆円であったのだから、わずか五年で、六倍にも増えたのである。

 ファンドの主役は、M&Aである。しかし、転売目当てのM&Aは、従業員の首切りを、大前提にする。

 ゴールドマンサックスのCEO(最高経営責任者)の平成十八年のボーナス以外の報酬は七千万円、ボーナスは六十三億円もあった。つまり、報酬のほとんどは、業績連動型のものであった。経営陣が、マネーゲームで巨額の報酬を得ているという事態を、額に汗して働く庶民が、平静に受け止めることは不可能である。

 これは、戦前の日本の寄生地主と水呑み百姓の構図そのものである。農地に匹敵する企業の職場が崩壊してしまうことは不可避である。



 「業績連動報酬制度」が経営者のモラルをゆがめている


 日興コーディアルの不正会計が世上を賑わしている。この不正行為は、主としてコールセンター大手の「ベルシステム二四」の増資、吸収を巡る過程から発生したものであることは明白である。 

 平成十九年一月七日、証券取引等監視委員会の勧告に基づき、金融庁が、日興コーディアルグループの提出書類に虚偽記載があったとして、証券取引法違反の疑いで、同社に五億円の課徴金支払い命令を出したのは、平成十七年三月期決算の内容が問題にされたからである。

 日興コーディアルグループは、こうして利益を過大に見せかけた虚偽の決算報告を背景に、平成十七年十一月、総額五百億円の社債を発行した。利益が上がる会社という市場の信頼から、社債は、償還金利を安くしても売れた。虚偽の発表をして発行した有価証券の場合、発行額の百分の一が課徴金になるというのが証券取引法の規定である。日興の課徴金が五億円というのもそうした規定による。

 ここで、問われるべきことは、虚偽報告を行う誘惑に駆られる原因である。そもそも、会社には、実態よりも利益があるとの見せかけをする誘因と、実態よりも利益が上がっていないと見せかける誘因とがある。どちらの虚偽の誘因に会社が駆られるのかは、時々の事情による。これまでは、利益の上がった会社が、法人税を支払いたくないために、利益を隠すというのが粉飾決算の一般的な姿であった。

 しかし、近年の、粉飾決算の多くが、見せかけの過大利益を誇示している。ここに、問題の本質が横たわっている。

 利益が上がれば株価が上がる。株価が上がれば、他社を株式交換で吸収し易くなる。そして、なによりも、経営陣は、ストック・オプション(価格が上がった株を売却して利益を得る権利)によって、自社株が上がれば自己の報酬を増やせる。

 結論を言えば、諸悪の根源は、「業績連動報酬制度」にある。会社の業績が上がれば、ストック・オプションだけではなく、経営陣の役員報酬がそのまま増えるという仕組みが悪である。エンロンも、このような粉飾決算によって経営陣が莫大な報酬を得ていたことが糾弾されたのである。


 米国の金融近代化法に従う日本


 シティグループという金融コングロマリット(銀行、証券、保険、クレジットカードといったあらゆる金融業務を傘下にもつ金融組織)が日興コーディアルを傘下に納めようとすることは、日本の巨大証券会社が、外資の軍門に下るということ以上に巨大な意味をもつ。これで、銀行、証券、保険、クレジットカード間の垣根が事実上撤廃され、金融の縦横無尽の拡大領域が切り開かれたことになるからである。

 米国の金融近代化法は、法案審議を主導した各委員長の名前を取って、「グラム・リーチ・ブライリー法」(一九九九年)として知られている。この法律によって、戦後体制は一挙に大恐慌以前の体制に戻された。銀行、保険、証券を分離するという、恐慌を経験した後の「グラス・スティーガル法」(一九三三年)による金融業務を分けていた垣根が撤廃され、これら金融機関の相互提携・相互参入が可能になったからである。金融に関するあらゆる業務が、金融持株会社を創設することで、一つの母体で運営されることが可能になったのである。六十六年間続いてきた米国の金融制度がこの法律によって大転換した。以降、米国のみならず、世界中で、金融コングロマリットが誕生することになった。

 米国発の金融の自由化とは、グラス・スティーガル法を撤廃する動き以外のなにものでもなかった。大恐慌の教訓は、無惨にも踏みにじられてしまったのである。そして、日本は嬉々としてこの路線を踏襲している。

 日興コーディアルという証券会社をシティグループという、銀行を含む巨大金融コングロマリットに売り渡すということは、活発な外資と提携して日本の金融市場を活性化させると、為政者は豪語するが、これは日本の憲法を改革することよりも巨大なインパクトをもつものである。つまり、シティグループによる日興の買収は、日本でも、銀行と証券、そして保険の垣根が木っ端微塵に破壊されることを意味している。日本人は、これを心底歓迎しているのであろうか。これで、金融機関はより安全になったと本気で考えているのであろうか。金融機関はますます脆弱なものになるべく奈落に落ちようとしているのではないだろうか。

 株式が購買力となる。現金を使わずに株式の交換で企業を買収・転売できる。しかも、外資の親企業の株を使って(三角合併)。金融なって雇用が滅ぶ時代に入ってしまった


福井日記 No.148 宮澤元首相への米財界人の恫喝

2007-08-16 22:37:02 | 金融の倫理(福井日記)

 ここで、国内金融機関への緊急救済措置を訴えた宮澤喜一元首相を恫喝した米国保険業界のトップの姿勢を反芻しておこう。

 日本経済は政治主導で自主性がないといわれる。それは、「護送船団方式」の言葉に表されるように、官が指図して民がそれに従い、民が官の保護を受けるというイメージで語られる。

 官に依存するのではなく、企業が自らリスクをとって果敢に市場経済に対処しなければ日本経済の未来はないとの文脈で、米国贔屓のエコノミストたちがしたり顔でとくとくと語る場面によくでくわす。米国企業は、官などを当てにせず、雄々しく市場経済に立ち向かっているというニュアンスもそこには込められている。

 しかし、事実はそうではない。米国の企業は、日本の企業など足下にもおよばないほど、官を利用しているのである。

 
米国の企業が活躍しやすいように、げんこつで他国市場の明け渡しを迫るのが、米国の官であり、政である。米国には、よく「回転ドア」人事といわれるように、財界と政界をいったりきたりするエリートが結構多い。業界のボスが関連省庁の長になるのがむしろ普通のことである。そうでないことの方が珍しい。財務長官は必ず金融界からだされる。農務省はアグリビジネス出身の長官を戴く。

 日本では、財務大臣に大銀行の会長が就任すれば大問題になってしまう。米国の企業は、自分たちの利益を生み出すために、政治を支配しようとする。政治を動かすことができる経営者が、業界のトップになる。そうした事態を誰も不思議には思わない。にもかかわらず、米国企業は政治から独立しているとまでいわれてしまうのである。これは、まことに奇妙きわまりない神話である。実際には、米国では財界のボスが政治に口だしをする。

 一例を「アメリカン・インターナショナル・グループ」(AIG)という保険会社の会長であったモーリス・グリーンバーグの発言にみよう。

 田中直毅が理事長を勤めている「二一世紀政策研究所」というシンクタンクがある。この研究所は、日本経済団体連合(経団連)が一九九七年三月に創設したものである。この研究所が、米国の「日本協会」との協賛で、一九九八年三月五日に開いたニューヨーク・セミナーで、元首相の宮澤喜一衆議院議員が「日本経済の現状」という基調講演をおこなった。当時、宮澤は、「自民党緊急金融システム安定化対策本部長」であった。

 この宮澤講演にコメントしたのが、グリーンバーグであった。以下にみられるように、グリーンバーグの発言は米国の政治家と見紛(みまが)うほどの米国の対日基本姿勢を率直に述べたものであった。日本の財界人だったら、まるで自分が日本の対外政策の基本線を作っているかのような発言はしなかったであろう。グリーバーグはまさに米国の対日政策の担い手のように、語ったのである。

 宮澤元首相の講演内容を要約しておこう。
 日本の金融システムの危機を脱する施策を担う「緊急金融システム安定化対策本部長」として、宮澤は、日本の金融システムが深刻な危機に陥っていることを強く語り、しばらく、緊急避難を試みる日本の政策を許容してほしいと米国に要望した

 一九九七年一一月以降、大型の金融機関の倒産が相次ぎ、国民は不安感に駆られて、よしんば銀行が倒産しても、預金の全額が保護されているにもかかわらず、預金を解約して、自宅の金庫に現金をしまい込むという異常な行動にでている。こんなことは、戦後の日本では初めてのことである。金融機関同士も疑心悪鬼になって、互いが互いを信頼せず、相互に信用を与えなくなった。国際金融市場で借り入れようとしても、日本の金融機関は「ジャパン・プレミアム」といって、他の国々よりも一段と高い金利を取られるようになってしまった。

 金融機関の整理・淘汰(リストラ)を促すべく、政府は、金融機関の自己資本比率を政府が定める水準に適合するように、早期是正措置を一九九七年の夏頃から実施するようになった。しかし、その結果は、銀行による貸出の回収を加速させてしまった。

 しかも、銀行が保有する他社株の価格が下がるという打撃を受けた。保有株は銀行の資本の一部を形成しているのであるが、その価格が下がるということは、銀行の自己資本が小さくなることを意味する。そのために、ますます政府の定める自己資本比率に達することが難しくなった。

 それがさらに、銀行による貸出回収(貸しはがし)に拍車をかけてしまった。中小企業のみならず、大企業も資金調達が困難になってしまった(クレジット・クランチ)。それがまた株価を下げてしまい、金融機関の資本不足を加速するという悪循環に日本経済は陥ってしまった。

 加えて、一九九七年七月からアジア通貨危機が発生した。これは、中国が人民元を三分の一も切り下げて、アジアの他国の輸出市場が中国の安い輸出価格によって奪われてしまったことに端を発したものである。対抗的に、各国は自国通貨の対ドル相場を切り下げた。その結果、各国の輸出品価格が下落し、輸出競争が激化した。アジアの輸出先は日本と米国である。

 日本は未曾有の経済危機に苦しんでいるために、アジアからの輸入を充分吸収することはできない。そうはいっても、米国に向かえば、米国の貿易収支赤字がさらに深刻になってしまおう。とすれば、日本は財政再建を先延ばしにして、金融緩和、内需刺激策に踏み切るしかなくなるだろう。金融機関には公的資金を投入して、金融機関の救済に乗りださなければならないだろう。それは、市場経済の原則から外れることを意味する。

 「こういう措置をとることが、止むをえなかった日本の現状を、先進各国にもまた国際機関にも理解してほしいと考えています」。

 預金者保護のために、二〇〇一年四月まで預貯金を一〇〇%保護するために、一七兆円の公的資金を用意している。金融機関には資本を増強するために、一三兆円を短期間だけ投入する用意をしている。

 日本企業の資金調達は圧倒的に銀行を通じるものである。自己資本規制や取引先の破綻によって、先述のように、日本の銀行の貸し渋りは甚だしくなっている。そのために企業の資金調達が困難になっている。そうした弊害をなくすために、公的資金を銀行に注入しなければならないのである。

 以上、みられるように、日本経済の惨状を「資産デフレ」と理解して、日本の金融組織の中核である銀行を救済しようと宮澤はいうのである。すべての銀行を救済するのではなく、市場から退場を宣告された銀行の倒産は止むをえないこととして放置するが、立ち直る可能性があるものは早期に救済しようというのである。

 日本経済の強さが銀行にあり、その組織をたたきつぶすことによって、つまり、日本経済を銀行を基礎とする間接金融から、株式を基本とする直接金融に変えてしまおうという米国の圧力に敢然と抗する議論を展開したのが宮澤演説であった。当時は橋本内閣の時代であったが、この段階までは、日本の政治的指導者たちは、まだ米国のいいなりにはならなかったのである。宮澤講演の重要性はここにある。

 ただし、宮澤も親米の政治家である。米国政治家の気に入りそうな文言をいくつか列挙している。

 「セキュリタイゼーション」、「金融監督庁の新設」、「消費者主権」、「日米安保宣言」などがそれである。

 一九九八年三月から、日本は「セキュリタイゼーション」を積極的に進める方針であると宮澤は述べた。セキュリタイゼーションとは、銀行がもっている不良債権を証券化して投資家に買ってもらうことである。そうすることで銀行の重荷は軽くなる。日本には、こうした市場がまだ発達していない。この面では、米国の投資銀行に期待したいと宮澤はいう。

 一九九八年六月に大蔵省から独立した金融監督庁を新設して、金融機関の透明性を高めることも語られた。これまでは、行政機関と金融機関とが癒着していた。行政による過剰介入があった。そして、解決されなければならない問題を先送りしてしまった。この弊害は早期に改められなければならないと、宮澤はいった。

 「消費者主権」という言葉もだされた。消費者が主人でなければならない。貯蓄や投資に関して数多くの選択肢が与えられなければならない。選択肢を与えるのが、日本の金融機関であろうと、外国のものであろうとどちらでもよい。日本の消費者の利益になればそれでよいのであると宮澤は発言した。

 宮澤はいう。官に頼ってはならない。頼れば必ず規制が伴う。日本が採用しなければならない最重要なことは、「ディスクロージャー」と「トランスバランシー」である。前者は「透明性」、後者は「官から民へ」を意味する。

 「日米安保宣言」の重要性にも宮澤は触れた。それが、アジアの平和を維持するからであると。しかし、中露の接近という政治状況に、日本も参加すると明言することによって、中露敵視姿勢をもつ米国を牽制することも忘れてはいなかった。この点において、宮澤と、後の小泉内閣との格差は歴然としたものであった。

 グリーンバーグは、銀行救済の緊急措置のために時間をくれという宮澤の発言を徹底的に無視し、金融改革の約束は守れと迫った。さらに、アジア通貨危機の責任は日本の円安政策にあると検討違いのことをまくし立てた。

 グリーンバーグは、日本が輸出依存型経済から脱却すべきであることをもっとも強く主張した。日本がこのまま輸出依存型経済を続けるのなら、米国は、それに対抗して保護主義に傾くであろうとの脅迫的な言辞を弄した。米国を成長のエンジンとするのではなく、日本が成長のエンジンになるべきである。つまり、日本が世界の輸出を吸収すべきであるとした。

 そして、無茶苦茶な議論を吹きかけた。
 「一九九五年には一米ドルにつき約九〇円だったドル/円レートが一九九七年には約一三〇円に下落したことがアジアの金融危機を引き起こす火種になったのであり、これについて言及いたします」。

 中国元は一九九四年に対ドル・レートを切り下げた。しかし、当時の人民元は兌換性はなく、アジア各国も人民元にリンクしていたわけではなかった。アジアはドルにリンクしていた。そこに日本の大幅な円安があり、これがアジア各国を直撃したというのである。つまり、アジアの通貨危機は日本の円安が引き金になったというのである。

 実際には、一九九五年の円高が異常なことだったのである。これは投機以外のなにものでもなかった。この異常事を正常な基準として捉える強引さ、そして、アジア通貨危機に直撃されて日本円が売られるようになったのである。

 こうした異常事態を無視し、グリーンバーグは、論理の方向を反対に設定した。アジア通貨危機の結果、円安が進行したのに、円安の進行がアジア通貨危機の原因だというのである。

 東南アジアの輸出の三〇%は日本向けである。これを日本が吸収しなくなれば、そうした輸出は米国に向かうであろう。そんなことになれば、米国は歴史的な貿易赤字に苦しむことになる。そうならないためにも、日本は円レートを対ドル一〇〇円程度にまでもっていくべきである。日本は輸入大国になるべきである。消費税も法人税も大幅に減税すべきである。一八%という高貯蓄率も、もっと消費を高めて引き下げられるべきである。そうでなくては、米国で台頭しつつある保護主義が米国を支配することになってしまうであろう。それも短期間で台頭してしまうであろう。そうならないためにも、日本は内需拡大路線を早期に確立すべきである。

 さて肝心の銀行システムの改革について、グリーンバーグは、すぐに荒療治をやれと迫った。

 「われわれとしましては、何年にもまたがるのではなく、米国で大きな成功をおさめましたパターンを真似て進めるように望むものです」。

 つまり、不良債権の早期処分を急げというのである。弱い銀行は一挙に清算してしまえ、整理信託公社を創設し、そこに銀行整理の権限をもたせるべきだというのである。

 そして、過去、日米間で交わした協定を遵守せよと迫る。
 「規制撤廃と市場アクセスは不可欠な問題です。米日両国間で議題上がった問題は、長年日本と取引を交わしてきている私が記憶する限りでも多岐にわたっています。最終的に合意に達した通商協定は、交渉されたままの形で承認され実施されるべきです。問題が起こるたびに協定の再交渉をすべきものではありません。協定を交わした限り、それに従うべきです。これもまた現在進行形の問題です。日本の官僚制度は、この国で取引する米国や他の外国企業にとって難題でした。
 以上述べたようなことが当面の問題です。それらは東南アジアの危機によっていっそう高まりました。また落日を続ける日本の経済ゆえに高まったものでもあるのです。ここでマクロ経済政策に転換があれば日本は一助をはたすことになり、アジアも安定化され、われわれもまた深いな問題の進行をくい止めることができるでしょう」。

 銀行システムが機能麻痺に陥っているので、緊急対策を講じる時間的余裕が欲しいといっている宮澤に対して、約束を即刻履行しろと迫っているのがグリーンバーグ発言である。そして、悪名高いIMFの指令を反省することもなく、グリーンバーグは日本はIMFを全面的に支持せよと迫ったのである。

 諸氏はこの発言を「そうだそうだ」と頷いて受け止められるだろうか。私など、「なんと失礼なことをいけしゃーしゃーというものなのか」と怒りを覚えてしまう。これでは、宗主国が植民地に、暴君が忠実な家臣に命令しているようなものである。逆に日本側が米国にこの種の発言をしたことを想像してみよ。米国の政財界人がどれだけ怒り狂うであろうか。このような失礼な物のいい方に対して、いつの間に日本人は怒らなくなってしまったのだろう。

 「お前の経済政策は根本的に間違っていて、アジア諸国が迷惑している、官僚制度を含めて経済体質を抜本的に改めよ」と一介の財界人が外国の元首相に命令しているのである。

福井日記 No.147 公共性というご都合主義的区分

2007-08-15 22:34:51 | 金融の倫理(福井日記)


 米財務省証券取引で不正を犯した部下の監督不十分という罪状で、ソロモン・ブラザーズからの退社に追い込まれたジョン・メリウェザーが、新たな陣容の下でLTCMを発足させたのは、一九九四年二月二四日であった。それがわずか四年後の一九九八年九月に解散に追い込まれたのである。

 LTCMは、「ドリーム・チーム」との尊称を投資家たちから賜った。発起人自身が超人気トレーダーであったし、二人の一九九七年のノーベル経済学賞受賞者をはじめとして、著名な数学者を多数抱え、しかも、連邦準備制度理事会(FRB)の元副議長デビッド・マリンズを重役陣に擁していたのである。

 ウォール街の天才トレーダーであるメリウェザーが、取引手法のアイディアを提供し、ノーベル賞受賞者が取引手法を自動化するプログラムを作り、FRBのナンバー二を経営陣に加えて箔を付ける。

 こうした豪華な陣容は、発足当時から人気を集めた。世界有数の証券会社、銀行、富裕層がこのファンドに参加し、資本金として一二億五〇〇〇万ドルも集めた。破綻寸前時には、当初の四倍もの一〇〇〇億ドルを運用していた。破綻時の資本金は六五億ドル程度であった。

 LTCMは、田中宇氏によれば、「これ以上の組み合わせはない、といえる『神々たち』の集団であった。・・・ウォール街は、巨額の利益をあげる人々を神格化してしまう場所である」。世界からLTCMに資金が殺到し、LTCM側が断るほどであった(田中宇「神々の崩壊:世界を揺るがすヘッジファンド危機」一九九八年一〇月一三日、http://tanakanews.com/981013LTCM.htm)。

 破綻後、メリウェザーは、再度、「JWMパートナーズ」というファンドを創設した。
 LTCM清算時に、LTCM本体に三六億ドルの緊急出資が実施され、その九割が一九九九年中に返済された。LTCMだけでなく、LTCMとの取引で経営が行き詰った金融機関には何千億ドルもの緊急融資が実施された。グリーンスパンFRB議長の決断であった。ただし、この巨額の緊急融資は、正式の手続きを踏んでいないという批判がある。

 すでに触れたが、LTCMは、流動性の高い債券に照準を絞った。流動性が高い債券ならば、相互間の価格差(スプレッド)分散(ボラティリティ)が小さいので、利益は、小さいが、「相対価値取引」(レラティブ・バリュー取引)で確実に確保できる。本来の価格からすれば割安と判断される債券を大量に購入し、割高と判断される債券を空売りする。市場の動きによって、債券は本来の価格に近づく。割安によって購入した債券価格は将来値上がりする。割高の債券は値下がりする。割安で購入した債券を売却することによって利益を生み、割高な債券を空売りすることによってここでも利益を得る。ボラティリテイの小さい債券を組み合わせたのだから利幅が小さくなるが、ここに、大規模なレバリッジを効かせる。証拠金の二〇から三〇倍ものレバリッジであった。

 異なる債券の価格差が一時的に開いても、市場は、そうした格差をありうべき水準に戻すという市場原理を信奉したがゆえに、流動性の高い安全な債券の売買に取引を限定していたのである。

 繰り返しになるが、ヘッジファンドは一〇〇人以下の・プロ集団・富裕層から資金を集めて、高い配当を支払うために運用する金融会社である。

 金融の世界では、おかしな理屈がまかり通っている。不特定多数の人々から資金を集める組織は公共性が高く、少数のプロ集団から資金を集める組織は公共性がきわめて低いとされる。実際には、国家をも打ち負かせる力をもっているのに、資金の出し手が少ないという理由で、そうした組織は公共性が低いとされる。無数の個人から資金を集めた組織は、実際には、国家など敵に回せるものではない、弱い力しかないのに、公共性が高いとされる。

 そして、力がないのに、公共性が高いと決め付けられた組織は、無力な個人を保護するという口実の下に、監督官庁から厳しい監視を受ける。逆に、力があるのに公共性が低いとされた組織は、監督官庁の規制を受けない。前者の行動が規制され、後者の行動は自由である。

 たとえば、空売りは公共性の高い組織では原則禁止されている。公共性の低い組織は、少なくとも空売りは原則認められている。この空売りによって、世界の国民経済は大打撃を受けた。国家経済に巨大な影響を与えるヘッジファンドは、公共性が低いとされるがゆえにほとんどの投機行動を当局から黙認される。

 下落しそうな通貨や倒産しそうな会社の株を空売りしておいて、そうした状況を生み出す仕掛けを後で施すというあくどいことをおこなう。それによって、狙われた通貨の国民経済は悲惨な目に合い、会社は、実際に倒産に追い込まれ、多くの従業員が露頭に迷うようになりながら、攻撃に成功したファンドは、目もくらむような暴利を得る。倫理的には許し難いファンドのこうした投機行動は、しかも、違法ではない。成文法で認められているとはいえないにしても、現行法で違法と決めつけられることはないのである。

  ライブドア事件にせよ、村上ファンド事件にせよ、関連する企業や個人に被害を与えたという理由からではなく、虚偽決算、インサイダー取引疑惑で起訴されただけなのである。

 やるせないのは、公共性が高いとして、膨大な利益を上げることが許されない銀行などが、国内の雇用を増やすための生産的企業に融資するのではなく(利益率が低いので)、より高い収益を確保すべく、他のヘッジファンドに資金を託することによって高い収益を得るように行動してしまうことである。

  公共性とは、人々に雇用を与えるために融資する金融機関にこそ与えられるべき性質であろう。

 
公共性の高い金融機関が、雇用確保ではなく、金持ち階層の資産をさらに増やすための資金運用を目指す。公共性の低い金融組織なみの自由な行動を求めることが金融の自由化なのである。公共性の高い金融組織が、公共性の低い金融組織に運用資金を委託する。これもまた違法ではないのである。


 公共性の低いLTCMに資金運用を託していた、公共性の高い世界の金融機関は、LTCMへの委託金だけでなはく、自らもロシア債などに投資していて大損を被った。アジア経済の破綻、ロシア経済の破綻によって、世界の金融機関の資金は行き場を失った。「広がった格差は必ず縮小する」とのLTCMの信念は通用しなくなった。

 アジアやロシアの新興市場から資金が米国や日本に逆流し始めた。LTCMが危険水域に入ったのではないのかとの疑念が、利害関係者たちを取られた瞬間に、LTCMは幕引きを図った。一九九八年九月、事態はあっという間に悪化した。まさに急転直下の悪化であった。

 一九九八年九月二〇日、ニューヨーク連銀が欧米の金融機関に救済融資を呼び掛け、二日後の九月二三日、集められた一五行が三五億ドルの緊急融資を決意した。公的資金は使われなかったものの、それは、米国金融監督官庁による金融機関の指導以外のなにものでもなかった。

 市場関係者は、LTCMの具体的な資産内容、取引内容についてはなにも知らされなかった。それは、日本の日本長期信用銀行が一年近くも財務内容・取引内容を内外に明白にさせられた上に、リップルウッドに転売されたことと正反対であった。リップルウッドは公共性の低い組織である。したがって、乗っ取る側のリップルウッドの資産内容を日本人はなにも知らされなかった。

 公共性の低い金融組織は、取引内容を完全に開示する必要はないからである。リップルウッドへの出資者の名前も明らかにされることはなかった。しかし、日本長期信用銀行に関する情報はなにもかもが明白にされた。

 香港、マレーシア、タイなど、ヘッジファンドの攻撃によって大打撃を受けていた金融当局は、米国がヘッジファンドを救済することに対して強く批判した。 

 日本政府が、苦難にあえぐ国内銀行を救済しようとしたときに、もっとも強く反対したのは米国の金融当局だったのである。