消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(447) 韓国併合100年(86) 日本のキリスト教団(9)

2012-10-08 18:03:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(17) グイド・ヘルマン・フリドリン・フルベッキ(フェルベック、1830~98)は、オランダの法学者・神学者、宣教師。オランダ・ザイスト(Zeist)出身。ユトレヒト(Utrecht)で工学を学んだ。日本では発音しやすいようフルベッキと名乗った。一八五九年に長崎に上陸。長崎では洋学校の済美館(せいびかん)の英語教師を勤め、一八六四年に校長となる。一八六六年、長崎に設けられた佐賀藩の致遠館(ちえんかん)で、大隈重信や副島種臣(そえじま・たねおみ)らを育成した。一八六九年、上京して開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となった。その後、太政官顧問を経て、東京一致神学校(明治学院の前身)や学習院の講師となる。一八八六年、明治学院の創設時に理事として関わり、明治学院神学部教授、明治学院理事会議長などを歴任した。一八八七年、明治学院の教授時代にフルベッキは、A Synopsis of all the Japanese Verbs with Explanatory Text and Practical Applicationという日本語の動詞活用の本を横浜の「ケリー社」(Kelly & Walsh)から出版している。

 一八六九年、明治政府の顧問、つまり、「お雇い外国人」となった。大隈重信に渡した文書で、信教の自由をはじめ、諸々の理解のため政府高官が直接欧米を視察するように建白したもので、岩倉使節団の米欧派遣の素案となった。また太政官顧問としてのフルベッキは主に各国の法律の翻訳や説明に当たった。

 一八八七年一二月三一日、『旧約聖書』の日本語訳が完成した。この中の「詩篇」と「イザヤ書」はフルベッキの名訳と言われている(http://shiryokan.meijigakuin.jp/archive/people/verbeck)。

(18) 安中教会は一八七八年、新島襄から洗礼を受けた湯浅治郎はじめ三〇名によって創設された(初代の牧師は海老名弾正)。群馬県では最初のキリスト教会であり、同時に、日本人の手により創立された日本で最初のキリスト教会でもある(http://www8.wind.ne.jp/a-church/profile/index.html)。安中は新島襄の生誕の地。

 安中教会創設者の湯浅治郎は、安中の醤油醸造業有田屋の当主。自由民権運動に参加。新島の没後、同志社の経営・発展に尽力する。また政府支援による日本組合教会の朝鮮伝道については柏木義円・吉野作造等とともに反対した。出版社警醒社の発起人の一人。後妻の初子は徳富兄弟の姉。詩人で聖書学・図書館学の湯浅半月は弟。国際基督教大学初代学長の八郎は子。一九一六年、安中教会に東大生の矢内原忠雄(後、戦後二代目の東大総長、東大出版会第二代会長)が訪れている。矢内原は新島襄、内村鑑三、柏木義円を生んだ「上州は日本に対して誇るに足る。」とその日記に記している(http://d.hatena.ne.jp/ya022978/20110419/1303221342)。


 引用文献


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野崎日記(446) 韓国併合100年(85) 日本のキリスト教団(8)

2012-10-06 17:17:31 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(12) リチャード・マザーは、最初の妻との間で、六人の男子を儲け、うち四人が聖職者になり、いずれもハーバード・カレッジの関係者である。

 長男のサムエル(Samuel, 1626~71)は、オックスフォード大学マグダレン・カレッジ(Magdalen College, Oxford)の卒業生であり、同カレッジ付き牧師(chaplain)であった。ハーバード・カレッジの最初の理事、ダブリンのセント・ニコラス(St Nicholas, Dublin)教会の牧師を歴任した。次男のナザニール(Nathaniel, 1630~97)は、ハーバード・カレッジ卒業後、デボン(Devon)、ロッテルダム(Rotterdam)、兄の跡を継いでダブリン、最後はロンドンの教会で牧師を務めた。三男のエレザール(1637~69)も、ハーバード・カレッジを卒業後、地元の教会牧師になった(http://www.1911encyclopedia.org/Richard_Mather)。

 そして、末の六男のインクリース(Increase, 1639~1723)。この変わった名前は、人々から忘れ去られないようにという父親の願いから付けられたという。やはり、ハーバード・カレッジを卒業した。一六九二~一七〇一年、ハーバード・カレッジ学長(President)を勤めた。彼は、英国の介入と戦う政治家でもあった。一六八六年、英国王・ジェームズ二世(James II)がニューイングランドを英国領(Dominion)にするとの宣言を出した。その方針に従って入植地総督になったのは、ピューリタン嫌いのエドムンド・アンドロス(Edmund Andros)であった。彼の統治は専制的であった。それまでの入植地の基本形であった「地区会議」(Town Meetings)は非合法化され、新入植地統治は、住民の合意を得る必要はないとし、牧師から結婚の儀式を執り行う権利を奪い、会衆派の拠点であった「オールド南部教会」(Old South Dominion)は、国教会の業務を押し付けられた。英国国教会の権利を向上させるべく、ピューリタン組織の弱体化を図った。インクリースは、国王に直訴すべく、一六八八~八九年のロンドン滞在中に「名誉革命」(Glorious Revolution)の成功という状況が幸いし、アンドロスは罷免され、新たな入植地への特許状が出され、議会が復活されマサチューセッツ湾入植地とプリマス入植地は合併した。また、新しい総督(Royal Governor)・ウィリアム・フィプス(William Phips)を同行してインクリースは帰還した。

 インクリースは、セイラムの魔女裁判事件での聴聞委員(oyer)をも勤めた。一六九二年半ば、魔女とされた人々を擁護し、地域住民の集団ヒステリーを諫める声明も出している(http://www2.iath.virginia.edu/salem/people/i_mather.html)。インクリースの息子、コットン・マザー(Cotton Mather, 1663~1728)もニューイングランドの著名人であった。やはり、ハーバード・カレッジを卒業し、政治家として活躍した(http://en.wikipedia.org/wiki/Cotton_Mather)。

(13) ハーバード・カレッジの世俗化を批判して設立したエール・カレッジの気概は、そのモットーにも表されている。ハーバード・カレッジが「真実」というモットーをラテン語で"Veritas"と正門に彫っていたのに対して、エール・カレッジはこれに「光」(Lux)を付け加えて、「光と真実」(Lux et Veritas)を掲げた。設立当初の名称は単に"The Collegiate School"であった。一七一八年に"The Yale College"、一八八七年に"Yale University"に改称された。エールという名称は、創立時に寄附をしたエリフ・エール(Elihu Yale, 1649~1721)にちなむ(http://www.yale.edu/about/history.html)。

(14) プリンストン大学の創設時の名称は「カレッジ・オブ・ニュージャージー」(College of New Jersey)で、この名称のまま一五〇年間続いた。一七五六年にプリンストンに移転、一八九六年に地域名を冠した「プリンストン大学」に改称(http://www.princeton.edu/main/about/history/)。

(15) メソジストとは、一八世紀の英国で国教会の司祭であったジョン・ウェスレー(John Wesley, 1703~1791)よって興されたキリスト教の「信仰覚醒運動」(Christian Revival Movement)の中核的主張である「メソジズム」(Methodism=几帳面に生きること)に生きたキリスト教徒を指す。信徒の集会を基礎とし、規則正しい生活が実践できているかどうかを互いに報告し合う、信仰のレベル別(バンド)ミーティングを重視した。ミッションスクールや病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心であった。当時は教育の機会に恵まれない子どもに一般教育を与える日曜学校や、口語による平易な讃美歌を普及させたのもメソジストの貢献であった。上流階級よりも中下層階級あるいは軍人への普及に力を入れた。信徒を軍隊的に組織した「救世軍」(Salvation Army)、「聖霊」(Holy Spirit)によって魂の清めがあるとする「ホーリネス運動」(Holiness Movement)、「聖霊の言葉」を「異言」(glossolalia)を重視する「ペンテコステ」(Pentecostes)派なども、メソジスト運動を出自としている。「異言」とは、宗派によって定義が違うが、新約聖書のルカやパウロの言葉を手がかりとして、<聖霊によって語らせられる、学んだことのない言葉、自分では何を語っているわからない言葉である。「使徒行伝」第二章の場合は、全世界から集まってきていた人々が、キリストの弟子たちが話していた異言を理解したとある>。「ペンテコステ」の原義は、ギリシャ語の「五〇番目の日)」である。キリスト教では、「聖霊効降誕日」を指す。キリストが十字架に掛けられた後に三日目に復活したとされる復活祭(Easter)から(その日を第一日と)数えて五〇日後に、聖霊が降誕してきた日のこと(http://christianity.about.com/od/devotionals/a/Methodist.htm)。

(16) ウィリアムズは、二一歳の時に、アメリカン・ボードの紹介業務に携わるべく、一八三三年、広東に赴任した。その地で、彼は、広東語と日本語の習得に努めた。一八三七年、日本人の船員を雇って、交易を開くべく日本に向かったが、上陸は許されずに引き返した。しかし、日本に連れて行った船員たちを広東に住まわせ、自己の日本語能力のレベル・アップを図った。広東で英字新聞(Chinese Repository)の発行をしていた。そして、一八五三年、ペリー提督(Commodore Perry)の対日交渉団の一員として、日本に上陸した。一八七七年米国に帰り、エール大学で米国で最初の中国語教授に就任した。一八八一年には「米国聖書協会」(American Bible Society)の会長を引き受けた(http://www.americanbiblehistory.com/samuel_williams.html)。


野崎日記(445) 韓国併合100年(84) 日本のキリスト教団(7)

2012-10-02 22:45:53 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(7) ジョン・ウィンスロップは、ピューリタンの牧師であり、裕福な土地所有者でもあった。マサチューセッツ湾会社の最高経営責任者が、植民地の知事や総督を兼ねていたのである。当然、経営責任者の彼が、植民地マサチューセッツ湾岸州の初代総督に選ばれたのを含め、以後も総督に一二回選出された。一六三〇年、ウィンスロップは新大陸上陸前のアルベラ(Arbela)号上で「キリスト教の慈愛のモデル」("A Model of Christian Charity"と題する説教を行った。その中で、「我々の目的は、神に対しいっそうの奉仕をし、キリストによる恵みと繁栄が与えられ、キリストによる救いを全うするという神との間の盟約に基づいて、神聖なる共同体を建設することである」と彼は述べた。<自分たちは、英国と袂を分かつのではなく、新天地で本国の手本となるような理想的な教会組織を建設しよう>、<腐敗に満ちた英国社会を贖い、改革し、どちらの地においても、よき英国の復興をかなえよう>。<これから築く新しい共同体は>、「世界中の目が注がれる丘の上の町である」(for we must consider that we shall be as a city upon a hill, the eyes of all people are upon us.)。

 ニュー・イングランドはそうした意味である。ただし、気になる個所も演説にある。
 「一〇〇〇人の敵に、一〇名程度の同志で抵抗でき、我々に祈りと栄光を下さる時、ニューイングランドの植民地のような植民地を次々と建設できるようにする時、我々はイスラエルの神とともにあることを知ることになるだろう」(we shall find that the god of Israel is among us, when tens of us shall be able to resist a thousand of our enemies, when he shall make us a prayer and glory, that men shall say of succeeding plantations: the lord makes it like that of New England:)。

 「丘の上の町」とは、新約聖書の「マタイによる福音書」に記されたイエス・キリストの言葉にある。「あなた方は世の光である。丘の上にある町は隠れることができない」(「マタイによる福音書」第五章第一四節(You are the light of the world. A city on a hill cannot be hidden; Matthew 5:14)。「灯火を点して枡(ます)の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。そのようにあなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである」。

 一九六一年一月九日、大統領選挙で勝利したジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy, 1917~63)は、就任前の演説で、一六三〇年のアベリア号のエピソードに触れた。一九八九年一月、ロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911~2004)は、「輝く町」(the shining city)をピルグリムの植民になぞらえて語った。

 そして、二〇一一年一月二五一日、オバマ(Barack Hussein Obama, Jr., 1961~)は、大統領の一般教書演説の中で、「輝ける丘の上の町」の代わりに、「世界の光」“Light to the World”という言葉を用いた(http://ocean-love.seesaa.net/index-2.html)。

(8) 一六九二年一月、一〇〇戸ほどの小さなセイラム村で、一〇~二〇歳の少女数人が、床をのたうちまわり悲鳴を挙げた。村人は、これを魔女のせいにした。少女たちの証言で、犯人とされたのが、黒人の家政婦であった。彼女は、裁判の中で、「他にも悪魔と契約した人間がいる」と「自白」したために、村はパニックに陥った(小山[一九九一]、参照)。

(9) ハーバード大学校門には、「学問を進め、これを子々孫々に不朽に残し、将来教会が無学の牧師に任せられるようなことがあってはならない」(一六四三年の文書)の文章が刻まれている。ジョン・ハーバードは、最初の寄付者であった。一六三六年でのマサチューセッツ湾入植地の代表者会議で、大学(カレッジ)新設のための資金募集が決められた。翌年の三七年に当時の地名、「ニュー・タウン(New Town)に開設することが同じ会議で議決された。三八年にジョン・ハーバードは死去している。彼は遺言で、新設されるカレッジに寄附をした。その翌年の三九年、カレッジは彼にちなんで「ハーバード・カレッジ」(Harvard College)と名付けられた。

 三八年には、「ニュー・タウン」が「ケンブリッジ」(Cambridge)に改称された。英国のケンブリッジ大学から取った名称である。これは、「ハーバード・カレッジ」の初代学長・ヘンリー・ダンスター(Henry Dunster)、そして、ジョン・ハーバード、初代校長(Schoolmaster)・ナサニエル・イートン(Nathaniel Eaton)、初代のマサチューセッツ湾入植地総督・ジョン・ウィンスロップが、ケンブリッジ大学出身であったからである。「カレッジ」でなく、「ユニバーシティ」になったのは、一七八〇年の「マサチューセッツ州憲法」が制定されてからである(http://www.harvard.edu/)。

(10) リチャード・マザーは、国教会の祭式の作法に従わなかったという理由で、一六三三年八~一一月に司祭補佐の職を停止され、さらに、国教会では、「カンタベリー大主教」(Archbishop of Canterbury)の次席の地位にある「ヨーク大司教」(Archbishop of York)であったリチャード・ネイル(Richard Neile、在職、1631~40)の使節団の調査を受け、聖職者としての在職一五年間で一度も白衣(surplice)を着用しなかったとして、一六三四年に再度、停職処分を受けた。彼は、反省をするよりも、「七人の暗黒の悪魔(Seven Bastards)に加えてもらう方がよい」とまで言い切った(http://matherproject.org/node/49)。

(11) 時代や地域によって異なるが、一般的には、会衆派の教会では、説教者としての「牧師」(minister, pastor, preacher)、宣教の純正維持を図る「神学教師」(teacher)、信徒の訓練に携わる長老(elder)、慈善事業に携わる執事(steward, deacon)の四種の奉仕者から成っている(児玉[一九九二]、一四一ページ)。


野崎日記(444) 韓国併合100年(83) 日本のキリスト教団(6)

2012-10-01 22:38:58 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(1) 会衆派教会(congregational church)とは、一六世紀に生まれた信者の直接民主主義で運営される教会組織。会衆とは、人々が集うこと。この派の教会に、契約関係(covenanted)で人々が集う。各教会は世俗的権威自由であり、ただ神の感化によって信仰の規範を定め、実践するということを目標としている。組合教会とは、会衆派教会の日本での名称。日本では、明治四三(一九一〇)年以後、「日本組合教会」として発足した。一九四一年六月二四日、プロテスタントの各派(三三派)と合同して「日本基督教団」(United Church of Christ in Japan」)になった(http://church.ne.jp/koumi_christ/shosai/doctrines.pdf)。

(2) カルヴァンは、北フランスに生まれ、パリ大学などで法学・神学・人文主義などを学ぶ。当時ルターの宗教改革の影響はフランスに及び、フランスでもルター派が広まっていた。彼の福音主義(Evangelicalism)は危険思想として弾圧されていた。福音主義とは、キリストの伝えた福音にのみ救済の根拠があるとし、律法主義や儀礼・制度・伝統などを軽視する立場である。カルヴァンはパリを追放され(一五三三年)、後にスイスの新教都市バーゼルに逃れた(一五三四年)。バーゼルに逃れたカルヴァンは、その地で有名な『キリスト教綱要』(Christianae Religionis Institutio)を著した(一五三六年)。その中でカルヴァンは、<魂の救済は、人間の意志によるのでなく、神によって最初から決められている>との考えか派を示した。これは、「予定説」(predestination)と呼ばれている。ただし、「予定説」といっても宿命的なものではない。<人は信仰によって「自分は救われる」と確信することができる。また救済の確証を得るために、人は禁欲的な生活を営み、職業を神から与えられた天職と考えて勤労に従事すべし>というものであった。『キリスト教綱要』によって一躍有名となったカルヴァンは、ジュネーヴに改革者として迎えられて宗教改革に従事したが(一五三六年)、一時反対派によって追放されてストラスブルクに赴いた(一五三八年)。後に再び請われてジュネーヴに帰り(一五四一年)、以後死ぬまで同市に留まった(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/12-kaikaku2.html)。

(3) 長老派は宗派によって定義が異なるので、簡潔な解説はできないが、上記、注(1)で説明した会衆派のような信者全体の直接民主主義ではなく、各教会内の人望の篤い信者代表が長老と呼ばれ、そうした長老が発言力を高くする教会の統治の仕方を踏襲する派のことを指す(http://www.church.ne.jp/yurinoki/choro.html)。

(4) カートライトは、ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジ(Trinity College, Cambridg)で神学を専攻していた。英国国教会はローマ・カソリック教皇の支配から脱したものの、それは単に教会運営が英国王の支配下に置かれただけで、体制はカソリックそのものであった。カートライトは、英国国教会の監督制を厳しく批判し、教会の国家からの自立を訴えていたために、つねに弾圧にさらされていた( http://enrichmentjournal.ag.org/200501/200501_120_cartwright.cfm)。

(5) ロビンソンは、一五九二年よりケンブリッジ大学のコルプス・クリスティ・カレッジ(Corpus Christi College)で学び、その後は同カレッジで教壇に立った。一二年間の学生・教員生活を経て、ノリッチ教会(Norwich Church)で牧師となるが、国教会の方針に従わなかったため解職された。その後もイングランドにとどまって分離派(英国国教会から分離・独立する)の教義を広めようとしたが、ジェームズ一世(James I)の治世の宗教的抑圧に耐えかねて、オランダへの移住を計画した。一六〇七年の脱出計画は失敗に終わり投獄されたが、翌一六〇八年に再び脱出を試みて、信徒とともにオランダのアムステルダムに渡った。しかし、華美な国際都市アムステルダムは、教団にとって望ましくないと考え、ライデンにその拠点を移した。その後、教団の行き詰まりを感じたロビンソンは、「ヴァージニア・カンパニー」(Virginia Company)の計画に乗って、北米大陸に移住しようとした。この会社は、「プリマス会社」(Plymouth Company)と「ロンドン会社」(London Company)との合弁会社(joint stock company)であり、北米植民地建設を目的として一六〇六年にジェームズ一世に勅許されたものである(http://www.virginiaplaces.org/boundaries/boundaryk.html)。

 ロビンソンは、「プリマス会社」と契約し、米大陸への移民を計画した。当時の船体では全員の信徒を一度で北米入植地へ運ぶことができなかったため、段階的に渡航することになり、高齢であったことや残った信徒をまとめるため、ロビンソンはライデンにとどまった。一六二〇年、まず先発隊が「スピードウェル(Speedwell)号」に乗って、イングランド経由で米大陸へと目指した。しかし、その途中で船が故障したため、イングランドから合流したもう一隻の船であった「メイフラワー(Mayflower)号」に乗り換えることになった。先発隊は多くの苦難を乗り越えて、植民を果たした「ピルグリム・ファーザーズ」(Pilgrim Fathers=巡礼始祖)と賞賛されるようになった。「巡礼始祖」という言葉は、『新約聖書』の「ヘブライ人への手紙」第一一章第一三節の叙述にちなむものである。
 しかし、留意しなければならないのは、ニュー・プリマス(後のニュー・イングランド植民地)を建設したのは、ピューリタンだけでなく、ヴァージニア会社の経営事業に参加すべく、入植者の半分はライデンから乗船した非ピューリタンのオランダ人であったということである(http://www.nd.edu/~rbarger/www7/puritans.html)。

 また、ピューリタンだけに限って言っても、指導者のロビンソンが不在のため、牧師を欠いた状態でその共同体を運営しなくてはならなかった。ロビンソンは、その後、米大陸への渡航を果たせぬまま、一六二五年に病死した(http://www.pilgrimhall.org/psnotenewpilgrimpuritan.htm 、大西[一九九八]、綾部[二〇〇五」。

(6) マサチューセッツという名は、当時の現地のインディアン部族の名で、「大きな丘のある所」の意味を持つ(http://www.holisticoptions.org/)。また、マサチューセッツの植民地開拓は、ピューリタンたちが出資し、イングランド国王に多額の支払いをして、国王から勅許を得て設立された合資会社のマサチューセッツ湾会社が独占権を持っていた。つまり、教会員でなければ、植民地建設の利益を分配されることがなかったのである。一般的には、会社の株主のみが「自由民」であると定義されていた(後述のように、マサチューセッツ湾殖民会社は自由民の資格を緩和した)(http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo11_2.htm)。

 会衆主義ピューリタンの内、国教会からの完全な分離を主張する分離派ピューリタンがプリマス植民地へ、国教会からの分離は主張しないものの教会改革の徹底を主張する非分離派ピューリタンが、マサチューセッツ湾入植地へと移住し、プリマスをはるかに上回る大規模な植民地建設に着手した。移住者の中には、ジョン・コットン(John Cotton,1584-1652)、トーマス・フッカー(Thomas Hooker,1586-1647)、ジョン・ダベンポート(John Davenport,1597-1670)といった当時のイングランド・ピューリタニズムの中心的な指導者たちも含まれていた。牧師達を慕い、時には教区民が一斉に集団移住する例もあった。

 マサチューセッツ湾会社は、画期的な植民地経営の方法を採用した。通常、出資者である株主を総会の構成員とするのが本来の経営方法なのだが、マサチューセッツ湾会社は、この構成員の枠を広げた。成人男子の教会員ならば、株を取得していなくても総会の構成員となることができるとしたのである。こうして、植民地では「自由民」の粋が拡大された。総会は、各タウンに土地を分譲し、その土地は、成人男子の自由民に分配される。各タウンでは、タウン・ミーティングがもたれ、その代表が総会に出席し、植民地全体の政治に参加する。これが、「ニューイングランド・ウェイ」と呼ばれたものである。マサチューセッツでは「教会員」が即「自由民」となるので、教会への入会が、肝要となる。新しく教会員となる者には、教会で公に神の救済の恵みの体験、すなわち、回心体験を語ることが求められ、「契約」を遵守することが誓わされる。

 教会員には、ピューリタン信仰と教義を守り、「聖徒」としての道徳的生活が求められた。ジョン・ウィンスロツプ(John Winthrop,1588-1649)が総督として政治的実権を握った植民地建設初期の二〇年間は、「ニューイングランド・ウェイ」はかなり有効に機能していた(http://www.info.sophia.ac.jp/amecana/Journal/17-5.htm)。