消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 54 紋

2007-01-12 19:01:42 | シンボル(福井日記)

 福井にきて、「伝統の権威」というものを強く意識するようになった。 都がつねに、日本の文化の担い手でありえたのは、その「公家文化」のもつ伝統的な洗練さという権威を保持していたからであろうとひとしお思うようになった。伝統的権威は権力でもある。誤解のないように弁明しておくが、私は京都の権威にずっと反抗してきた積もりである。伝統の権威のない神戸を動かなかったのもこのことへの反発からである。


 


 江戸幕府明治政府も、自らの権威を確立するために、京都の伝統文化を摂取する必要があった。


 


 徳川の家紋は、ご存じのように「」である。しかし、これは、先祖(松平)代々の家紋ではなく、家康が決めた紋である。しかも、この「葵のご紋」は京都の賀茂神社の神紋である。賀茂神社の祭りが「葵祭」と言われているのは、この紋を意識してのことである。


  


平安遷都以来、賀茂神社は代々の天皇家に敬われ、伊勢大社をしのぐ大社になっていた。この神紋は貴く、天皇家ですら跪いた。家康がこのご紋を採用したのは、天皇家をも跪かせる賀茂神社にあやかったものである。家康には政治的権威が必要であった。これが賀茂神社であった。 家康が「葵紋」を採用したことについては、浄観と名のった西垣源五右衛門の『浄観筆記』にある。



 
春日の局が家光(大猷院殿)の乳母になったことを同書では、徳川家のご紋が「神紋」であり、それを採用した頃に、春日の局が仕官させられたことから、同女は「神紋乳母」と呼ばれていたと記されている。


 家康は、京都の西陣におびただしい染織品を発注し、そこに葵のご紋を染め上げた。


 紋と言えば、継体天皇の紋は、二本マストの船ではなかったかとの説が最近出されている。 越の国を発った継体は、淀川水系に都を置いた。大和に都を置いたわけではないのである。まず即位したのは、淀川水系に位置する樟葉(くずは)であった。いまは枚方市に編入されている。


 次ぎに筒城(つつき)(綴喜、いまの京田辺市)に遷都、さらに、弟国(乙訓、いまの長岡京市)に遷都した。京都の人にはすぐに分かることであるが、いずれも淀川の湊である。つまり、継体は、越の国の伝統をそのまま機内に持ち込んだのである。淀川水系、瀬戸内海、そして大陸への海運の要所としてこの地を選んだのであろう。


  高槻市今城塚古墳がある。越の今庄を想起させる地名である。この古墳は継体天皇の墓ではないかとされている。この古墳から二本マストの船が描かれた大きな円筒形の埴輪が出土している。福井市内からも「井ノ向一号鐸」と銘々されている銅鐸が発見された。ここにも船の絵が描かれている。


  継体天皇の母は振媛(ふりひめ)とされる。同女の出身地が現在の坂井市丸岡町である。この地から春江町、三国町にかけての九頭竜川流域が継体の本拠地であったと言われている。この川には天然の潟や湊が点在していた。おそらく、日本屈指の寄港地であっただろう。ここから大陸への航路が開け、南に向かっては琵琶湖に通じる。つまり、越、畿内、大陸を結ぶ交通路を継体一族が整備したと考えることができる。


  船が継体の神紋だったのであろう。越しの伝統が機内に入ったと思われる。大和朝廷は越の権威が必要であった。これが東大寺のお水取り、「若狭の井」である。