消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(285) オバマ現象の解剖(30) 金融権力(7)

2010-02-27 22:01:22 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 注


(1) ここで、共和主義を当時の文脈の下で説明しておきたい。リパブリカンとは、米国初期の政党である民主共和党(Democratic-Republican Party)を指す。一七九二から一八二四年まで存続した。一七九二年にジェファーソンとジェームズ・マディソンによって創設された政党であるが、この呼び名は政敵たちが使用したもので、自らは、リパブリカン(Republicans)とかデモクラート(Democrats)と称した。一八〇〇~二四年の政権党であった。しかし、一八二四年に分裂し、その一つが現在の民主党(Democratic Party)になった。政敵は連邦主義者(Federalists)たちであった。連邦主義者の党の連邦党(Federalist Party)は、民主共和党設立の一年前にアレキサンダー・ハミルトンによって創られたものである。

 リパブリカンたちは、当時フランスと戦争そしていた英国との一七九四年ジェイ条約(Jay Treaty)に反対し、フランスを支持した。彼らは、憲法の厳格な遵守を主張していた。憲法起草者の一人であったハミルトンに強く反対していた。とくに、ハミルトンの国法銀行(national bank)設立案と国家債務は国民のためになるという主張に猛烈に反対していた。それが憲法の精神に反するからという理由であった。彼らは、ジェファーソンの強烈な金融・商工業者への警戒感を巡って分裂することになる。マディソンや北部デモクラート(Northern Democrats)は金融・商工業者に対してそれほどの警戒感を示さなくなっていた。それに対して、ジェファーソンや南部リパブリカンたちは、依然としてそうした層への嫌悪感を維持していた。

 ジェファーソンたちは、旧いリパブリカン(Old Republican)と呼ばれ、低関税・州権・厳格な憲法・財政支出削減を求め、連邦政府の常備軍(standing army)の設立に反対した。これに対して、ヘンリー・クレイ(Henry Clay)、ジョン・カルハウン(John C. Calhoun)によって主導される国民リパブリカン(National Republicans)たちは、高関税・国防強化・公共投資などによる国内改造を訴えていた。そして政敵の連邦党が一八一五年に分裂し、元メンバーの多くが民主共和党の国民リパブリカンというナショナリスト分派に入った。

 一七九六年、ジェファーソンは、民主共和党の最初の大統領候補となるが、連邦党のジョン・アダムズに敗れた。初代大統領は無党派のワシントンである。アダムズは米国二代目大統領である。ジェファーソンは、アダムズの副大統領となった。これは、異なる政党から大統領と副大統領がでた数少ない例である(ほかに一八六五年のリンカーン(Lincoln)大統領(共和党)・ジョンソン(Johnson)副大統領(民主党)の例がある)。一八〇〇年の選挙でジェファーソンはアダムズを破り、民主共和党の最初の大統領で、第三代米国大統領となり、二期続いた。その後、アダムズ(一八〇八年、一八一二年)、ジェームズ・モンロー(James Monroe、一八一六年、一八二〇年)とリパブリカンが政権を握り続けた。しかし、その後、民主共和党は分裂を繰り返し、その中から、一八二四年、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)によって現在の党に連なる民主党(Democratic Party)ができた。また、クレイの国民リパブリカンはホィッグ党(Whig Party)になる。

 民主共和党の議席比率の推移を記す。一七八八年(下院四三%、上院三一%)、一七九二年(下院五一%、上院四七%)、一七九六年(下院四六%、上院三一%)、一八〇〇年(下院六三%、上院五三%)、一八〇四年(下院八二%、上院七一%)、一八〇六年(下院八三%、上院八二%)。米国の建国当初は、民主共和党と連邦党という二大政党対立時代であったが、連邦党は、一八〇四年のハミルトンの死後、指導者に恵まれなかったこともあり、急速に勢力を縮小させてしまった。そして、一八一五年ハートフォード会議(Hartford Convention)で党は分裂してしまった(http://franklinjefferson.blogspot.com/; http://www.history.com/encyclopedia.do?vendorId=FWNE.fw..de035500.a;   http://www.u-s-history.com/pages/h445.html)。

(2) 大陸会議(Continental Congress)は、英国からの自立を求めて開催された米国一三州からなる会議。一七七四年九月から一〇月まで続いた第一次大陸会議では、一三州のうち一二州が参加。ジョージア(Province of Georgia)は参加しなかった。英国製品ボイコットを含む各州の合意が形成された。参加州は、以下の一二州。①ニューハンプシャー(Province of New Hampshire)、②マサチューセッツ(Province of Massachusetts Bay)、③ロード・アイランド(Colony of Rhode Island and Providence Plantations)、④コネチカット(Connecticut Colony)、⑤ニューヨーク(Province of New York)、⑥ニュージャージー(Province of New Jersey)、⑦ペンシルバニア(Province of Pennsylvania)、⑧デラウェア(New Castle, Kent, and Sussex, on Delaware)、⑨メリーランド(Province of Maryland )、⑩バージニア(Colony and Dominion of Virginia)、⑪ノースカロライナ(Province of North Carolina)、⑫サウスカロライナ(Province of South Carolina)(http://www.britannica.com/EBchecked/topic/134850/Continental-Congress)。

 第二次大陸会議は一七七五年五月から一七八一年三月にかけて開催された一三州の会議。今度は、ジョージアも参加した。第二次大陸会議中に、一七七五年四月一九日のレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)によって独立戦争が開始された。大陸軍(Continental Army)が結成され、ワシントンが総司令官。一七七六年七月四日、独立宣言(Unanimous Declaration of the Thirteen United States of America)発表。大陸会議は第一次、第二次ともフィラデルフィアであったが、英国軍に占領され、一七七七年九月にヨーク(York)に開催地を変更。各州同盟の目的をはたした大陸会議は一七八一年三月一日にいったん解散し、翌日の二日に連合会議(Congress of the Confederation)が新たに結成され、同じメンバーで独立戦争を終結させる会議となった(http://www.u-s-history.com/pages/h656.html)。

(3) すでに財政危機にあったフランス国王は、英国の弱体化を狙って、米国独立戦争(一七七五~一七八三年)を支援した。一七七六年に武器販売によって、フランスは戦争に関与し始めた。武器は、ポルトガルの会社ロドリク・ホルタレス・エ・コンパニー(Rodrigue Hortalez et Compagnie)を通じて密かに米国に渡された。一〇〇万ポンド前後の援助であったとされる。米国は、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、アーサー・リー(Arthur Lee)などが、ヨーロッパ各国の関与を求めるロビー活動を展開していた。結局、一七七八年二月六日、ルイ一六世(Louis XVII)がベンジャミン・フランクリンと合意し、一三植民地と正式に同盟を結ぶことを決めた。直ちに参戦し、一七八一年一〇月一九日、フランス艦隊は、ヨークタウンでの米国の勝利に大いに貢献した。これで、米国に主要な戦闘は終わり、局面では、米国外での英国とフランス、さらにはフランスと同盟したスペインも加わる領土争いに転換した。英国は、一七八三年に休戦に応じ、同年のパリ条約に調印した(Treaty of Paris)。パリ条約で、フランスは、一七六三年に失った領土のうち、トバゴ島(Tobago)、セントルシア(Saint Lucia )、セネガル川(Senegal River)領域、ダンケルク(Dunkerque)を回復し、テラ・ノヴァ(Terra Nova)の漁業権を得た。スペインは、メノルカ(Menorca)を回復したが、ジブラルタル(Gibraltar)は英国の手に残った。
 フランスは、参戦によって、一〇億リーブル以上の戦費を使い、国家負債累計額は三三億リーブルにものぼった。この財政危機がフランス革命を呼び込んだのである(  http://people.csail.mit.edu/sfelshin/saintonge/frhist.html)。

(4) ジェファーソンは、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンとともに、対欧州政策を展開するために、一七八四年にフランスに渡った。米国は、独立しても、輸入品の八五%が英国からのものであり、この多様化を欧州に求めるために、初代大統領のワシントンが彼らを派遣したのである。翌年、彼らは、プロシア(Prussia)、デンマーク、トスカーニ(Tuscany)との通商協定の調印に成功した。その直後、ハミルトンは単独の駐仏米国大使になる。アダムズは駐英大使になった。このとき八〇歳になるフランクリンが引退した。ジェファーソンは、革命前後のフランスをつぶさに見たのち、一七八九年に帰国した(http://www.sparknotes.com/biography/jefferson/section9.rhtml)。

(5) 一七九一年、ハミルトンが課税強化の一つにウィスキーの酒税を引き上げたことから、ペンシルバニア(Pennsylvania)州西部の農民の大規模な反乱がおこった。この地域ではバーボンの原料であるトウモロコシの生産に特化していた。トウモロコシは、奥地の農民の重要な現金収入源であった。ウィスキー課税は奥地農民を追いつめた。彼らが暴動を起こし、連邦政府と全面対決した。この暴動を鎮圧するために、一七九四年八月七日、ワシントン大統領が一万三〇〇〇人からなる民兵(militia、一八歳以上四〇歳未満))を組織した。この人数は独立戦争時の人数に匹敵するものであった。この民兵組織もハミルトンが主導した一七九二年の民兵法(the Militia Law of 1792)に基づくものであった。これは、連邦政府の常備軍創設の最初の試みであった。この鎮圧には、ワシントン大統領とともに、ハミルトンも戦場におもむいた(http://www.earlyamerica.com/earlyamerica/milestones/whiskey/)。

(6) 第一次マナサスの戦いでは、北軍が敗退し、ワシントンまで敗走した。この戦いを北軍はブルランの戦い(Battle of Bull Run)といい、南軍は、マナサスの戦いという。南北戦争の最初の陸上戦である。マナサスはバージニア州の地域、ブルランはその地域の支流の名前。南軍が南北戦争の本格化とともに緒戦に大勝したことは、戦争を長期化させる要因になった(http://americanhistory.about.com/od/civilwarbattles/p/cwbattle_bull1.htm)。

(7) この二重銀行制度の下では、国法銀行については、OCC(通貨監督局=Office of the Comptroller of the Currency)、FRB(連邦準備制度理事会=Federal Reserve Board)、FDIC(連邦預金保険公社=Federal Deposit Insurance Corporation)が規制・監督するが、州法銀行は、原則として州の銀行局が権限を持つ。ただし、州法銀行であっても、FDICに加入が許され、その場合には、FDICの監督下に入る。同じく、FRBに加入しておれば、FRBの監督に従う(http://www.answers.com/topic/dual-banking)。

(8) 法律的には、主体を自然人という生きた人間と、非自然人(artificial-person)という人間が委託した間組織とに分けられる。法人(juridical person)が非自然人の代表格である。具体的には企業などがそれに当たる(http://www.natural-person.ca/artificial.html)。

 


野崎日記(284) オバマ現象の解剖(29) 金融権力

2010-02-25 21:57:50 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 おわりに


 ウエブ・サイトで広汎に引用されている、言葉がある。一九一三年の連銀法(Federal Reserve Act of 1913)に調印した直後に時の大統領、ウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領が語った内容とされている。この言葉は、ウィルソンのあちこちで語った言葉の寄せ集めであることが最近の研究で明らかになってはいる(Leonard、Andrew, "How the World Works -  The unhappiness of Woodrow Wilson," Friday, Dec. 21, 2007, http://www.salon.com/tech/htww/2007/12/21/woodrow_wilson_federal_reserve/)。

 しかし、真偽のほどはともかく、FRB法に署名した当の大統領が、この法に反対であったということが語り続かれているところに、米国の中央銀行、FRBへの根強い反感があることが見てとれる。

 「私はもっとも不幸な男だ。・・・私は、知らず知らずのうちに、わが母国を没落させてしまった。偉大な工業国民が、信用制度に従属させられている。我が国の信用制度は独占的なものになってしまっている。そのために、国民の成長、活動が、少数者の手に握られている。我々は、この文明化された世界のなかで、もっとも悪しく支配され、もっとも完璧に監督され、命令されている政府の一つを持つようになってしまった。その政府は、もはや自由な意見が戦わされる政府ではなくなった。もはや、信念によって動かせる政府ではなくなった。多数決で決める政府ではなくなった。政府は、支配する少数のグループの意見や脅迫に従うものになってしまった。・・・私は、政治の世界に入って以来、人々が私的に私に誠実に語ってくれる言葉に耳を傾けてきた。米国の商業界や製造業界の最高の位置に立つ人たちが、ある人たちを恐れ、あることを恐れている。彼らは知っている。あるところに、よく組織化され、巧妙にして油断のならない、相互に結びつき、完璧にして浸透力の強い権力があることを。したがって、彼らはこの権力を批判するときには、ひそひそと語らねばならないのである」。

 この言葉は、合成されたものである。しかし、少なくとも前半の言葉は、一九一一年の大統領選での演説を集めてた一九一三年に刊行された著作に見出される(Wilson[2008], p. 185)。

 「偉大な工業国民が信用制度によって支配されている。我々の信用制度は、私的に独占化させられてしまっている。それゆえ、国民の成長は、そして、我々の活動は、少数の人たちの手に握られている。この少数者たちは、たとえその行動が正直で、公衆の利益に資することを意図しているとしても、彼らのカネが投資されている大きな企画に心を奪われ、まさにその限界性のゆえに、どうしても、真の経済的自由を冷やし、妨害し、破壊してしまうのである」。

 後半部分は、同じ著作の別のページ(p. 201)にある。

 FRBへの疑念が米国では強い。事実上の中央銀行でありながら、それが政府組織ではなく、少数の巨大民間銀行によって所有されている民間組織であるという点に疑念の核心がある。FRBはけっして独立した存在ではなく、大きな影響力をもつ金融界の大御所によってコントロールされているのがFRBであるという思いから、米国の金融権力批判者の攻撃対象になっているのがFRBである。


野崎日記(283) オバマ現象の解剖(28) 金融権力(5)

2010-02-24 21:53:45 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 
四 リンカーンのグリーンバック紙幣


 一八六一年に第一六代大統領になった共和党のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)も、東部の銀行家への強烈な反感の持ち主であった。盟友ウィリアム・エルキンズ(Col. William F. Elkins)に宛てた一八六四年一一月二一日付のリンカーンの手紙はその反感が強く表されている。

 「金融権力(money powers)は、平和時にも国民を食い物にする。異常時には国民を欺く。君主よりも専制的であり、独裁者よりも傲慢であり、官僚よりも自己中心的である。我が国の安全を求める私をくじかせ、おののかせるような危機が近い将来にくるだろうと私は思う。企業が王位についた。その後には、汚職の時代がくるだろう。金融権力は、国民の誤った理解に乗じて自分たちの支配を強め、長続きさせようとするであろう。その結果、富は少数者の手に集中させられ、共和国は破壊されてしまうであろう」(Shaw[1950])。

 南北戦争(The Civil War、一八六一~六五年)は、地方分権=小さな中央政府賛美論から、レッセフェール(laissez-faire)を基調とするが、より中央集権化された国家体制が望ましいという雰囲気に変わる分水嶺だとよくいわれている(Bense[1991])。l

 その一例とされているのが、BEP(政府造幣局=Bureau of Engraving & Printing)である。BEPは、一八六二年八月に創設された。一八六一~六三年の三年間だけ、財務省は、民間の銀行券印刷会社を使っていたが、財務省の仕事だけをする国立の造幣局を作ったのである(Noll[2009], p. 25)。

 一八六一年七月の第一次マナサス(Manassas)の戦い(6)での大敗戦のほぼ一か月後の一八六一年八月中旬、当時の財務長官のソロモン・チェース(Salmon P. Chase)が北東部の大銀行に融資申込をし、一・五億ドルを金貨で三回に分割して融資を受けることに成功した。融資は三年物財務省証券(Treasury notes)の購入という形でおこなわれた。利率は年率七・三%、つまり、額面から二二%も割り引いて銀行は購入したのである。これは銀行にとってかなり有利な取引であった。最初の五〇〇〇万ドル相当の金貨が到着するまで、チェース財務長官は、五〇〇〇万ドルのデマンド・ノート(要求払い約束手形=Demand Notes)を発行した(Mitchell[1903], p. 23)。これは、政府が銀行を通さずに直接発行する一種の政府紙幣であり、のちに、グリーンバックス(Greenbacks)との愛称で呼ばれるようになったものである。この政府紙幣は、将来、持ち主が財務省事務所にそれを持参すれば金貨と交換するという意味で、要求払い紙幣なのである。そして、それは、発行に時間のかからない即効性を持つものであった。この種の紙幣が発行されるようになる南北戦争前には、財務省の資金調達は時間がかかるものであった。

 時間がかかっていたということは、以下の手続きが必要であったからである。まず、年間二万五〇〇〇ドル分の財務省証券を作成するには、ニューヨークのある銀行券印刷会社と契約する。印刷会社に依頼された財務省証券は、印刷されたものからワシントンに運ばれる。最初の到着便は早くても一か月後である。完了するには六~八週間かかる。証券は、一シートごとに一~四枚印刷されている。それらは大部の本のように括られている。証券が販売される段階になって初めて、財務省の記録局(Register’s office)の書記官によって、帳簿に記録され、シートから切り離される。さらに、記録責任者のサインを受けて、財務省証券は財務省の事務所に運ばれる。ここで、もう一度記録され、財務長官が証券にサインする。こうして正式のものになった証券は財務長官の事務室に運び直され、本物であることを証明するシールが貼られて、やっと発行されるという段取りである。チェース財務長官が七・三%証券を発行したのは、この手続きに沿うものであった。しかし、作成された証券は二一万枚もあった(Noll[2009], p. 26)。

 戦争遂行のためには、上のような手続きを踏む時間的余裕などない。他の民間機関に委託しないですむ政府直轄の造幣局が、緊急に必要になったのである。それだけではない、緊急に財務省証券を政府が自前で印刷しても、今度は北東部の銀行が財務省証券を引き受けてくれなくなっていたのである。戦争に勝つ見込みのない北軍政府にカネを貸したくなかったのが銀行の本音であっただろう。一八六二年の初めには、南北戦争の長期化は必至であることが明白になった。しかも、財務省の従来方式による資金調達の見込みは絶望的であった。

 そこで、やむなく踏み切ったのが、デマンド・ノートの増発である。議会は、一〇〇〇万ドルのデマンド・ノートの追加発行を決めた(Act of February 12, 1862)。さらに、新たな不換紙幣(兌換の保証なく政府が一方的に法貨として宣言した貨幣)(fiat money)を一・五億ドルの発行も議会は認可した(Act of February 25, 1862; Bayley[1970], pp. 153, 156)。財務省の職員たちは、四〇〇〇万枚のデマンド・ノート、二五五〇万枚のグリーンバックスを短期間に発行し終えたのである(Noll[2009], p. 27)。
 一八六二年末には、財務省は、印刷された札をシートからはがす作業の機械化に成功し、シールそのものも札の表面に印字する技術も確立した。技術開発に当たったのは、スペンサー・クラーク(Spencer Clark)という技術者であった(Scalia[2006], p. 6)。

 そして、一八六三年会計年度で、財務省は、新しい五・二%金利の財務省証券五億ドルを額面でグリーンバックス対価に売ることに成功した。一八六二年一〇月にチェース財務長官がジェイ・クック(Jay Cooke)という名の金融マンを財務省の代理人として雇い、銀行を経由せずに財務省証券の大量販売させたのである。クックは、財務省証券は儲かるという大宣伝を打った。彼は、じつに、一日で一〇〇万ドル相当の財務省証券を売りまくった。一八六三年春から五・二%金利の財務省証券の販売に勢いがついた。一八六三年三月の売り上げは七五〇万ドルであったが、同年六月になると、一億五六五〇万ドルも爆発的に売れたのである(Bayley[970], p. 156)。

 購入依頼を受けて四日以内に財務省証券を顧客に渡すというのが、チェースの夢であり、クックにさらにそのための技術開発に勤しむようにはっぱをかけ続けた。一八六二年冬頃は、まだ引き渡しに一か月かかっていた(Noll[2009], p. 29)。

 結局、チェース財務長官は、財務省内に印刷局の設置に踏み切る決心をし、一八六三年七月、技術者のクラークを通して印刷機の蒐集をおこない、独自の造幣局の創設に踏み切ったのである。一八六四年二月までには、印刷機四〇台、一日二五〇〇万部もの証券を印刷することができるようになった(Noll[2009], p. 30)。

 こうして、連邦政府は、金融権力そのものをひとまず押さえつけることに成功
した。そして、南北戦争時に発行されたデマンド・ノートは、現在の連銀券の原型をなしている。五ドル、一〇ドル、二〇ドルの三種類の紙幣が発行されたが、いずれも、裏面が緑色のインクでデザインされいるので、グリーンバックスと呼ばれた。表面には、"Freedom"、"Liberty"、"Art"、"Bold Eagle"という定型とともに、ハミルトン、リンカーンの肖像が印画されている。

 二〇〇六年四月にロバート・ルービン(Robert Rubin)がハミルトン・プロジェクトと銘打った新経済政策を作成しているのも、政府紙幣発行と連邦政府の権限強化というメッセージを秘めているのかも知れない。

 南北戦争時、連邦政府が認可する銀行はゼロであった。それに対して州政府認可の銀行は、全米で一六〇〇行ほどあった(Malloy, Michael P., "National Bank Act(1864)," http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-3407400212.html)。州政府認可の銀行を監督する連邦政府による本格的な国法銀行を設立しようとしたのが、チェース財務長官であった(一八六一年)。彼は、複数の国法銀行の設立を目論んでいた。国法銀行に連邦政府の赤字国債の買取と政府への融資をされたのである。チェースが、国法銀行を設立する前に、いきなり市場に国債を売却する方向に進んだことは、前節で見た通りである。

 チェースは、一八六三年に国家貨幣法(1863 National Currency Act)を制定したが、まったく機能できなかった。これを基に改訂されたのが一八六四年のNBA(国法銀行法=National Bank Act, 13 Stat. 100)である。この構想が、のちの米国の銀行制度の伝統となる二重銀行制度(dual banking system)の伝統を作ったといえる。つまり、連邦政府が認可する国法銀行(national bank)と州政府が認可する州法銀行(state bank)という二種類の銀行が併存するという制度である(7)。

 現在でも機能しているOCC(通貨監督局=Office of the Comptroller of the Currency)がこの法律に基づいて財務省内に設置された。しかも、このOCCのシステムは、一八六四年以降も変更されていないのである(Malloy, op. cit.)。
 国法銀行とは、このOCCに登録する銀行のことをいう。OCCの条文には次のような条文がある。

 「銀行業務を営む組織は、・・・五人を下らない自然人(natural persons)(8)によって設立されなければならない。・・・設立者は、組織設立目的を明示した趣意書を作成し、設立者たちの署名を付して、その趣意書の写しを通貨監督局に提出して、監督局の登録を受けなければならない」(http://chestofbooks.com/finance/banking/Banking-Law/Revised-Statutes-Of-The-United-States-And-Acts-Amendatory-Thereof-Part-2.html)。

 この条文によって、国法銀行が許可され、強力な全国的規模での銀行が輩出することになるのだが、その国法銀行は、当初は、依然として財務省証券を引き受けるだけの機能しか発揮できなかった。許可条件には、資本金の三分の一、ないしは、三万ドルの国債を準備として持つことが定められていたからである。この条件は、一九一三年まで維持され続けた。その後、この条件は廃止されたが、通貨監督局の監督に服することはずっと維持されてきた。

 この法律を強制すべく、チェースは、国法銀行と州法銀行との課税額で不公平な取り扱いをした。国法銀行に模様替えすれば、税を減額させるという強引な政策であった。課税額は発行銀行券の一〇%もの高額であった。それまでは一%だったのである。これにメイン(Maine)州のビージー銀行(Veazie Bank)がIR(内国歳入庁=Internal Revenue)の税務官のフェノ(Richard F. Fenno)を相手取って、一八六九年に訴訟を起こした。しかし、このときには、チェースは最高裁の裁判長(Chief Justice of the Supreme Court)を務めていて、連邦政府による州法銀行への課税も国法銀行への模様替えの催促も, ともに憲法違反にはならないとしてビージー銀行の訴えを却下した(http://www.encyclopedia.com/doc/1O51-VeazieBankvFenno.html)。

 一八七五年には、最高裁判所が決定的な判決を示した。一八六四年の国法銀行法は、セカンド・バンクといった国法銀行と同じ原理に基づいて成案されたものであり、憲法違反はいささかもない。憲法第一条第八項に基づいて国法銀行が認可されていることは、上述の一八一九年のマカロック対メリーランド(McCulloch v. Maryland)訴訟において認められたものである。同じ判決は、一八二四年のオブズボーン対バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ(Osborn v. Bank of the United States)でも出されている(http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-3401803112.html)として、農民と工業者の国法銀行対ディーリング(Farmer's and Mechanics' National Bank v. Dearing)訴訟を除けたのである(http://supreme.justia.com/us/91/29/)。

   少なくとも、リンカーン時代には、中央銀行までの設立はできなかったが、国法銀行の法的地位を定着させたかに見えた。しかし、以後、論争は止むことなく、中央銀行、国法銀行、州法銀行との諍いは続いたのである。

 


野崎日記(282) オバマ現象の解剖(27) 金融権力(4)

2010-02-23 21:50:38 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 三 セカンド・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ


 ファースト・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツの免許失効と同時に、センカンド・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ(Second Bank of the United States)が認可申請をしたが、同じく、国の認可銀行嫌いが多数を占めていた議会によって認可されなかった。しかし、一八一二年六月に米英戦争(War of 1812)が勃発した。戦争は、一八一四年一二月に集結し、両者はなんの成果もなく集結した。当然、膨大な軍事費が米国経済を圧迫することになった(http://www.users.kudpc.kyoto-u.ac.jp/~c53851/uk2a.htm)。

  やむなく、連邦政府は、中央銀行を創り、赤字の補填を銀行に託する道を選んだ。こうして、セカンド・バンクは認可されることになった。一八一七年一月のことである。免許更新期間は、前の銀行と同じく二〇年であった。

 ファースト・バンクとセカンド・バンクとの間には六年の空白があった。第四代大統領は、ジェファーソンと同じ民主共和党のジェームズ・マディソン(在任期間、一八〇九~一七年)であった。当時の米国の借金は、建国以来の最高額であった。一八一二年一月一日時点でのの公的借入は四五二〇万ドルであったが、戦争が終結した後の一八一五年九月三〇日には一億一九二〇億ドルにまで激増したのである(http://www.publicdebt.treas.gov/history/1800.htm)。

 この銀行も、建前としては民間銀行であったが、実質的には政府の御用組織でしかなく、連邦政府の歳入の保管場所という役割を担っていた。当然、各州で認可された州の認可銀行からの政治的標的になっていた。免許更新申請年は一九三六年であったが、やはり、リパブリカンの伝統を継ぎ、民主共和党の後継である民主党の第七代大統領のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson、一七六七~一八四五年、在任期間、一八二九~三七年)の、一八三二年の二期目の大統領選挙の綱領には、セカンド・バンクの許可を延長しないことが盛り込まれていた。ジャクソンの政敵は、金融マンで政敵のでもあったセカンド・バンク総裁、ニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)であった。

 銀行券そのもにに信を置かず、金貨・銀貨・金銀地金こそが真のカネであるとの認識を持つジャクソンは、特定の銀行にのみ銀行券発行という特権を与えることを批判していた。

 ジャクソンのセカンド・バンク批判は必ずしも荒唐無稽なものではなかった。この銀行の貸出が農地投機をあおっていたからである。一八一二年の米英戦争によって、連邦政府自体は膨大な借金を抱えてしまっていたが、農民は、空前の好景気を享受していたのである。ヨーロッパ大陸は、ナポレオン戦争によって、農地が荒廃し、食糧難で喘いでいた。米国の農産物輸出が、一八一〇年代後半には激増し、一大農地ブームが生じていたのである。米国の農業生産の拡大に応じるべく、セカンド・バンクは、土地融資に邁進した。これが農地投機をあおった。地価は二~三倍に急騰した。一八一九年の一年間だけで、五五〇〇万エーカー(約二二万平方キロメートル)の農地が売買された。

 州の認可銀行はセカンド・バンクに対して強烈な反感を持った。メリーランド(Maryland)州は、州法に基づかないセカンド・バンクの、首都、ボルチモア(Baltimore)での営業活動を拒否した。州権と連邦政府権のどちらが優先されるのかの大問題が蒸し返されたが、メリーランド州は敗退した(McCulloch v. Maryland, 17 U.S. 316, 1819)。しかし、背景には農地投機を押さえ込もうとした州と連邦政府の権威でそれを跳ね返そうとしたセカンド・バンクとの対立があった(Schweikar[1987])。州の了解なしに中央銀行がその支店を一八一七年に州内に設置し、派手な営業活動をすることは越権行為だとして、セカンド・バンクのボルティモア支店に重税を課して駆逐しようとしたメリーランド州に対して、セカンド・バンクのジェームズ・マカロック(James McCulloch)が州裁判所に訴えた。元最高司法判事であり、当時の州判事であったジョン・マーシャル(John Marshall)は、中央銀行に対する州の課税は連邦法に反する(「課税する権限は破壊する権限を含む」)として州の主張を退けた。連邦政府の機関に対する州による課税を禁止し、州政府に対する連邦政府の優位を認めた(http://www.landmarkcases.org/mcculloch/marshalllegacy.html)。

 しかし、連邦政府が州政府よりも優先するとのフェデラリストを喜ばす判決にもかかわらず、セカンド・バンクの派手な融資態度は全米の非難の対象となり、以後、土地バブルが急速に収束し、この年、恐慌が発生した。

 アンドリュー・ジャクソン大統領は、セカンド・バンクが選挙選で特定の候補者を支援していると非難した。この銀行が、政治的腐敗と米国の自由に対する脅威となっていると見なし、銀行を追い詰めていた。ジャクソンは、庶民の共感を呼び起こすことを意図して、激しい言葉使いで、銀行を支配する富裕層や海外株主を攻撃した(Ratner[1993], ch. 7)。

 ジャクソンは、一八三三年に、財務長官のロジャー・B・トーニー(Roger B. Taney)に対して、州銀行に連邦税収入を預託し直すように指示した。たとえば、同年九月、トーニーは、セカンド・バンクにあった連邦政府のペンシルベニア(Pennsylvania)州分預託金をフィラデルフィアのスティーブン・ジラール銀行(Bank of Stephen Girard)の後継銀行であったジラール銀行(Bank of Girard)に移した。

 ただし、このスティーブン・ジラール銀行が曲者であった。この銀行は、スティーブン・ジラールの個人銀行であり、免許更新を拒否されたファースト・バンクの資産を一八一一年に購入していた。その資産には、一八一二年の米英戦争時の一八一三年戦時貸付の大半が含まれていた。ジラールは、セカンド・バンクの当初の組織者であり、主要な株主であった。一八四一年に死去した(http://www.ushistory.org/people/girard.htm)。

 こうした政治的な圧迫によって、セカンド・バンクは急速に資金を失い、顧客から貸し剥がしなどの資金回収を急ぎ、顧客の怒りを買った。一八三六年の免許更新は提起されず、免許は失効した。国の認可銀行であることをやめても、普通銀行として存続を図ったが、一八四一年に倒産した(http://www.questia.com/library/book/jackson-versus-biddle-the-struggle-over-the-second-bank-of-the-united-states-by-george-rogers-taylor.jsp)。

 こうしたジャクソンの強引なセカンド・バンク苛めに激高した反ジャクソン派が、一八三三年にホィッグ党(Whig Party)を結成したが、多数を占めることはできなかった(http://dig.lib.niu.edu/message/ps-whig.html)。

 しかし、経済は、一八二〇年代末から不況の度合いを強めていた。セカンド・バンクの影響力が縮小するや否や、地方銀行が雨後の筍のように新設された。勝手に銀行券を発行するようになってしまったのである。その多くが不換紙幣であった。あっという間に悪性インフレーションが起こってしまった。そこで、ジャクソンは、一八三六年正貨流通法(Specie Circular)を制定した。国有地は金貨や銀貨などの正貨を対価でなければ払い下げないという法律である。そのことによって、正貨の裏付けのない銀行券は直ちに流通しなくなり、銀行倒産が激増した。それが、一八三七年の恐慌を引き起こしてしまったのである(http://coins.about.com/od/presidentialdollars/a/andrew_jackson_2.htm)。

 そして、国の認可銀行と州の認可銀行との棲み分けは、まだまだぎくしゃくしたままであった。


野崎日記(281) オバマ現象の解剖(26) 金融権力(3)

2010-02-22 21:45:37 | 野崎日記(新しい世界秩序)


二 ファースト・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ


 一七九〇年の第一回議会で、ハミルトンは、関税システムの強化、国立造幣所(United States Mint)の設立、後にアメリカ沿岸警備隊(United States Coast Guard)に発展する密輸監視隊(Revenue Cutter Service)の創設と並んで、ファースト・ナショナル・バンク(First National Bank)の設立を提唱した。この銀行は、米国の通貨混乱と中央政府の財政安定化を目指すものであった。

 財務長官として強引な政策を推し進めるハミルトンから、ジェームズ・マディソン(James Madison)、ウィリアム・ギル(William Gile)などの有力な政治家たちが離反した。フランスから帰国したばかりのジェファーソン(4)もハミルトン反対派側についた。

 この頃から、ハミルトン側の人たちが自らをフェデラリスト、反対派を民主リパブリカンと呼ぶようになった(http://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=mjm&fileName=05/mjm05.db&recNum=591; http://memory.loc.gov/cgi-bin/query/r?ammem)。

 反対したのは南部出身者の議員たちであった。造幣所にしろ、ファースト・バンクにせよ、それらは北部の金融業者や商工業者たちを利するだけで、南部農民には何らの恩恵も与えないというのがその理由であった。

 ジェファーソンは、合衆国憲法を楯にとって、ファースト・バンクの設立に反対した。
 合衆国憲法修正第一〇条(Tenth Amendment of the United States Constitution)には、「州または人民に留保された権限」(Powers of States and people)が記されている。その条文は、「この憲法によって合衆国に委任されず、また州に対して禁止していない権限は、それぞれの州または人民に留保される」とある(http://www.law.cornell.edu/constitution/constitution.billofrights.html)。

 ①国の認可銀行を設立し、そこに強大な権限を与えることとを合衆国(連邦政府)に委任することは、憲法違反である。憲法はそれらを連邦政府に委任するなどとは定められていないというのである。いわんや、それに伴う増税を上院で決議するこなど憲法的に許されるべきではないと非難した。

 ②彼らは融資決定権という強大な権力を握っていて、恣意的に運営される可能性がある("Jefferson's Opinion on the Constitutionality of a National Bank: 1971,"  http://avalon.law.yale.edu/18th_century/bank-tj.asp)。

 このような反対意見が飛び交うなかで、ファースト・バンクは、後述のように、一七九一年にいったんは成立された。「いったんは」というのは、第三代米国大統領になったジェファーソン(在任期間、一八〇一~〇九年)が、一八一〇年、ファースト・バンクの免許更新に反対して、この銀行を廃止したからである。

 「もし米国民が民間銀行に通貨発行権を与えてしまえば、最初はインフレーションを通じて、その後は、デフレーションを通じて、銀行は・・・人々から全財産を奪い、父たちが築きあげたこの大陸の地で、子供たちが朝起きれば家がなくなっていること気づくであろう。・・・通貨発行権を銀行から奪って、本来の所有者である人々の手に返すべきである(http://www.bartleby.com/73/1204.html)。

 このような反対意見に対して、ハミルトンは、連邦国家の力を強くすることは憲法違反ではないし、銀行設立はその手段なので、憲法に抵触するものはないと、突っぱね、米国初代大統領のワシントン(在任期間、一七八九~九七年)の裁断に委ねた。

 ハミルトンは、執拗に大統領を説得した。連邦政府は人々と企業のためにある。特定の企業だけを連邦政府の政策から外すことは許されない。しかも政府が五分の一の株式を保有しているが、なお多数の株式が民間人によって保有されているので、この銀行は国立銀行ではなく、民間銀行である。それは政府の機関ではないので、政府に委託されているとはいえない。いかなる政府も、主権をもち、その目的を達成することが、憲法によって妨害されてはならない、等々、強力な論陣を張った("Hamilton's Opinion as to the Constitutionality of the United States: 1971," http://avalon.law.yale.edu/18th_century/bank-tj.asp)。

 ワシントン大統領は、いずれが正しいのかきめあぐねていたが、結局、一七九一年四月二五日、この銀行を設立する法案に署名したのである(http://eh.net/encyclopedia/article/cowen.banking.first_bank.us)。

 そして、一七九一年二月二五日、ファースト・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ(First Bank of the United States)が、米国議会によってチャーター(特許状=Charter)を付与された。チャーターの期間は二〇年であった。

 当時、米国の各州には、英国、スペイン、フランス、ポルトガルのコインが併行流通していてたうえに、各州、各都市、さらには、奥地の商店、都市の大企業などが独自の紙幣を発行していて、全国的な統一はなかった。錯綜した貨幣状況は、地域間で貨幣価値格差を作り、そうした価値格差を利用した貨幣投機が横行していた。たとえば、額面一ドルの債券が、一五セントで買い集められ、投機を助長していた。中央銀行は、それを整理しようというものであった。しかし、上述のように、この銀行は、東部の金融業者や商工業者たちの利益に資するだけのものであるとの批判が沸騰していた。農業者の多い南部諸州では、中央銀行設立への欲求は希薄であった。

 ファースト・バンクは、一〇〇〇万ドルの株式で出発した。うち、二〇〇万ドルは、連邦政府が購入した。しかし、政府には金がないので、政府はまずファースト・バンクから二〇〇万ドルを借り入れ、それで株式を買い、その後は、銀行に一〇年分割で支払うという段取りであった。残りの八〇〇万ドルは、民間公募に付された。民間公募は外国人も含むものであった。しかし、民間人は、四分の一を金銀、残りは債券や受入可能な紙幣などでの支払い方法が認められた。

 銀行は、五〇万ドルの運転資金(real money)を持ち、上限一〇〇〇万ドルの貸付をおこなうことが決められた(McDonald[1979], p. 194)。

 しかし、この銀行は、連邦政府に奉仕するだけのものであった。税金を受け入れ、政府赤字を補填するために政府に短期融資し、政府国庫金を受け渡しするだけの機関であった。けっして、ハミルトンが模倣しようとしたイングランド銀行のように、産業界振興に直結するものではなかった。

 国の認可銀行であるにもかかわらず、これは、民間会社であった。一七九一~一八一一年に他の国の認可銀行は作らない、ただし、州の認可銀行は州政府の実情に応じて認可されてもよいと決められた。

 国債の購入は禁止された。理事は定期的に交代させる。資本金を超える銀行券発行や借り入れはできない。外国人は、この銀行の株式を購入してもいいが、外国人株主には議決権はない。財務長官は週単位の活動報告を銀行に求めることができる。連邦政府が引き受けた州債の金利払いは一七九一年末から始まることになっていた。その金額は年間七八万ドル以上が見込まれた。そのために政府は課税強化をおこなうが(5)、不足額を国の認可銀行が政府に融資することになっていた(Syrett[1961-1987], vol. 7, pp. 226-28)。

 ファースト・バンクは、当時の首都、フィラデルフィア(Philadelphia)に置かれた。そして、一八一一年に認可期限がきて免許は、上述のように、ジェファーソン大統領によって更新を拒否された(http://www.usapopulationmap.com/timeline.html)。


野崎日記(280) オバマ現象の解剖(25) 金融権力(2)

2010-02-19 00:01:58 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 一 リパブリカンとフェデラリスト


 米国には、ジェファーソニアン・デモクラシー(Jeffersonian Democracy)の伝統がある。強い自由競争指向とともに、州権の重視、金融独占への嫌悪、小さなコミュニティ尊重などがその内容である。この言葉は、トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、一七四三~一八二六年)にちなむものである。米国の歴史では、一八〇〇~一八二〇年代に理想として試みられた政策を指す。これは、その後に試みられたジャクソニアン・デモクラシー(Jacksonian Democracy)と対比される。

 ジェファーソニアン・デモクラシーは、以下のように一般的に理解されている。
 ①米国政治体制の核は代議制民主主義(representative democracy)にあり、市民は州政府(state)を支え、州政府が君主制(monarchism)や貴族制(aristocracy)などに堕落することに抵抗する義務を負う(Banning[1978], pp 79-90より)。

 ②都市の悪しき影響力に屈しない市民の徳と独立性を象徴するのが、自作農民(yeoman farmer)である。政府の政策は彼らの利益に資するものでなければならない。投資家(financiers)、銀行家(bankers)、工業家(industrialists)たちは、都市を堕落の汚水池にしてしまっている ので排除されるべきである(Elkins & McKitrick[1995], ch.  5より)。

 ③米国人は、「自由の帝国」(Empire of Liberty)を世界に普及させる努力を払わなければならないが、「紛糾をもたらす同盟」(entangling alliances)は避けなければならない( Hendrickson & Tucker[1990])。

 ④人々や国家・コミュニティの共通の利益・保護・安全を組織するために、連邦政府(national government)が必要であるが、そこには危険性もある。したがって、連邦政府はきちんと監視され、その力は制限されなければならない。

 このように、連邦政府の力の強化に反対する人たちが、「反連邦主義者」(Anti-Federalists)として、一七八七~八八年にジェファーソン主義に結集した。

 この思潮に反対していたのがフェデラリストであった。フェデラリストとは、広義には、連邦主義者のことであり、連邦制国家における中央政府の権限拡大を支持する人々で、狭義には米国建国直後に結成された政党名とその支持者を指す。ワシントン(George Washington)、ハミルトン(Alexander Hamilton)、ジョン・ジェイ(John Jay、一七四五~一八二九年)などが指導者であった(Banning[1978], pp 105-15より)。

 ⑤共和主義(Republicanism)が政府形態として最善である(Dilday[2007], p. 92)(1)。

 レパブリカンたちが憎悪したフェデラリストのアレキサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton、一七五五(七?)~一八〇四年)
について説明しておこう。ハミルトンは、カリブ海西インド諸島ネイビス(Nevis)に生まれる。ジョージ・ワシントン(George Washington、一七三二~一九九年)将軍の下で独立戦争(the American Revolution、一七七五~八三年)に従軍。初代大統領になったワシントンの下で、初代財務長官(United States Secretary of the Treasury)。財務長官時代に連邦党(United States Federalist Party)創設。建国の父(Founding Father)の一人。フィラデルフィア憲法会議(Philadelphia Convention)呼びかけ人。『連邦主義者報告』(the Federalist Papers)共同編集者。大陸会議(Continental Congress)議員に選ばれるが、ニューヨーク銀行(Bank of New York)設立準備のために辞任。英国の政治体制賛美者。強力な中央政府論者。国債・州債発行論者。国の認可銀行(national bank)設立論者。輸入関税・酒税(whiskey tax)導入論者。常備国軍設立論者(Chernow[2004], pp. 90-94)。

 一七八〇年、当時のニューヨーク州の大富豪で有力政治家のフィリップ・シャイラー(Philip Schuyler)将軍(General)の娘、エリザベス(Elizabeth)と結婚。孤児となり辛酸をなめてきたが、この結婚によって上層階級の仲間入りすることになった。

 ワシントンと行動をともにするうちに、ハミルトンは、大陸会議(2)の資金的裏付けに乏しいことに憤りを覚えていた。連邦政府は、独自の徴税力を持たず、各州からの献金とフランス国王からの援助金(3)、ヨーロッパ諸国からの借金等々に依存し、独立戦争を戦う軍備も財政難で思うようにならなかった(Rakove[1997], p. 324)。ハミルトンの中央政府強化論はそうした経験から出たものであろう。

 ヨークタウン(Yorktown)における勝利を収めたのち、ハミルトンは軍務を辞め、一七八二年、この年に新しく発足した連合会議(Congress of the Confederation)のニューヨーク選出議員になる。会議で、ハミルトンは、徴税権確保に奔走した。中央銀行設立案もそのときに提出されたものである。

   一七八三年に連邦会議を辞し、ニューヨーク弁護士会に登録(Chernow[2004], p. 160)。

一七八四年、ニューヨーク銀行(Bank of New York)設立。これは、現在でも存続し、米国最古の銀行である。一七八六年、アナポリス会議(Annapolis Convention)議員になり、そこで、憲法を制定し、それに基づく、強力かつ財政力あり、州政府からは独立した中央政府の設立を求める決意書を提出した。そして、一七八七年、米国の独立達成後、ニューヨーク地区議会から憲法会議(Constitutional Convention)メンバー.に選ばれた。これが、一七八七年五月~九月に開かれたフィラデルフィア憲法制定会議(Philadelphia Convention)である。ちなみに、この憲法起草に関わった五五人が建国の父と呼ばれる人たちである。

 ハミルトンは、会議の初期段階で、選挙の洗礼を受ける大統領と上院議員の制度を主張し、絶対的権限を有する強力な中央政府樹立を提言していた。州政府知事も中央政府によって指名されるとしたのである。ただし、彼の主張は大した影響力を持たなかった(Mitchell[1957], pp. 397 ff. )。憲法起草案には、ハミルトンの激しい主張は盛り込まれなかったが、それでも、彼は起草案に署名し、細部をつめるべく、計八五巻の『フェデラリスト・ペーパーズ』(Federalist Papers)を発刊した。これは、いまでも米国憲法を語るさいの一級の資料になっている(Lupu[1998], p. 404)。

 一七八一から八九年までは、米国一三州の連合規約(Articles of Confederation)が事実上の米国憲法であった。連合規約とは、独立戦争において一三の植民地の相互友好同盟を定めた規約であり、このとき、連合の名称を「アメリカ合衆国」(United States of America)と定めた。米国憲法ができる前の暫定憲法の位置づけであった。一七七七年に採択され、一七八一年までにすべての州で批准された。しかし、一七八七年に米国憲法が制定され、一七九〇年全州が憲法を批准するとともに、連合規約の効力が失効した(http://www.earlyamerica.com/earlyamerica/milestones/articles/)。

 一七八八年、ハミルトンは、ニューヨークで憲法批准を進める役割を担った。批准に大きな影響力を示したのが、妻の実家のシャイラー家であり、ハミルトンは、上院議員に妻の親、フィリップ・シャイラー(Phillip Schuyler)を新憲法に基づく上院議員候補に押し立てることに成功した。ただし、最終的に決闘することになるアーロン・バー(Aaron Burr)とは、この時点で不和の関係になった(Lomask[1979], pp. 139–40, 216–7, 220)。

 上述のように、ワシントン初代大統領によって、ハミルトンは、一七八九年九月に財務長官に任命され、一七九五年一月まで職務に止まった。財務長官時代に、ハミルトンは多数のレポートを書いている。なかでも、次のものが重要である。いずれも下院に向けたものである。①『公信用について』(一七九〇年一月一四日)(On the Public Credit)、②『公信用、国の認可銀行について』(一七九〇年一二月一四日)(On Public Credit: On a National Bank)、③『造幣局の設置について』(一七九一年一月二八日)(On the Establishment of the Mint)、④『製造業について』(一七九一年一二月五日)(On the Manufacturing)。

 『公信用について』は、ジェファーソン主義者たちの神経を逆なでするものであった。それは、独立戦争で負った各州の負債を、連邦政府が肩代わりし、連邦政府の財政基盤を強化するためにも大規模な国債を連邦政府に発行する権限が付与されるべきであるという内容であった。これは、当時の国務長官(Secretary of State)であったトーマス・ジェファーソンやハミルトンの盟友であった議員、ジェームズ・マディソン(James Madison、一七五一~一八三六年)たちによる猛烈な反発を招いた。各州の負債を連邦政府が一律に肩代わりするということは、ジェファーソンの出身州、バージニアのように戦費の大半を供出していた州も、ほとんど供出をしなかった州も区別なく救済されるということで、納税者たちは納得しないとか、憲法の厳密な適用を考えればこの案は憲法の精神からの重大な逸脱であるというのが反対の理由であった。

 また、独立戦争に参加していた軍人たちに、大陸会議は、十分な俸給を支払っていず、連邦政府になってからは、債券で退役者たちに未払いの報酬部分を肩代わりしていた。つまり、軍人たちに渡された債券は債務支払い証書であった。当然、この債券は大幅に価値低下していた。そうした情況を放置したままで、大量の国債を連邦政府が発行するということは、退役軍人に発行した債券をめぐる大きな投機が起こるだろうと、マディソンはハミルトンの政策を批判した。フランスから帰国したばかりのジェファーソンの反対に同調した人のグループがリパブリカン、ハミルトンに同調した人のグループがフェデラリストと呼ばれるようになったのである(Max, ed.[1937], vol. 3, pp. 533-34)。結局、一七九〇年七月二六日、僅差でハミルトンが下院を乗り切った(Miller[2003], p. 251)。

 しかし、ハミルトンが第二代米国大統領のジョン・アダムズ(John Adams、一七三五~一八二六年、大統領在任期間、一七九七~一八〇一年)と敵対したために、一八〇〇年、対立政党の民主共和党が大統領選で勝利。ハミルトンの影響力が急速に衰える。一八〇一年、連邦主義の主張を展開する『ニューヨーク・ポスト』(New York Post)を創刊(Nevins[1922], p. 17)。一八〇四年、ジェファーソン政権での副大統領、アーロン・バーとの確執の末に決闘、翌日死去(四九歳)("Today in History: July 11". Library of Congress. http://memory.loc.gov/ammem/today/jul11.html)。


野崎日記(279) オバマ現象の解剖(24) 金融権力(1)

2010-02-17 23:53:18 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 第三章 金融をめぐって対立してきた米国の二大思潮-リパブリカンとフェデラリスト

                         
 はじめに


 〇九年五月一六日、米国のモンタナ(Montana)州議会でドル以外の通貨発行を求める法案が提出された。FRBが発行する紙幣を唯一の通貨とせず、金・銀地金を基礎とする新通貨を発行しようというのである。モンタナ州だけではない。同様の法案が、インディアナ(Indiana)、コロラド(Colorado)、ミズーリ(Missouri)、ジョージア(Georgia)、メリーランド(Maryland)など、米国の各州で提起されている("State considers return to gold, silver dollars: Proposed bill slams Fed, allows payments in precious metals," http://www.worldnetdaily.com/index.php?fa=PAGE.view&pageId=92000)。これは大変なことである。FRBへの反感が全米に広がっていることの証左だからである。そして、建国当初のリパブリカン(Republican)の復活を予兆させるものだからである。リパブリカンは東部の金融権力(Financial Power)への強い警戒感を持つグループであった。

 米国の借金は、政府、自治体、民間を合わせてGDPの八倍もある。〇九年の米国財政赤字は、一兆四〇〇〇億ドルを超えた。GDPの八%強、さらに二〇一〇年には一兆七五〇〇億ドル、GDPの一二%にもなるだろうと予測されている。金融危機でFRBはドル供給を増やし続けている。かつての大恐慌時代にFRBは一九二九年から一九三三年までにドル供給を二〇%増やしたが、一九三四年には一〇%のインフレーションを起こした("Beyond the dollar," http://www.atimes.com/atimes/Global_Economy/KD01Dj02.html)。「今、金融危機対策として連銀が年率一七%増という膨大なドル増刷を続け、急増する連邦政府の米国債(財政赤字)の売れ残りを連銀が買い支える危険な事態の中で、モンタナなどの州議会の金貨導入法案は、せめてもの危機回避策」である(田中宇「連銀という名のバブル」、http://tanakanews.com/090519FRB.htm)。

 三兆ドルもの救済資金がウォール街に注がれた。これは確実にハイパー・インフレーションを呼び込むものである。中央銀行がインフレーションを引き起こす元凶である。このような批判が米国で噴出するようになった。FRBこそが、議会の監査を定期的に受けるべきだとの説も説得力を持ちはじめた。

 「議会が、Fedと選挙を経ない官僚の行動を監査することに失敗すれば、この国の経済を破壊し、炎上させるものとして非難されるべきである」(Paul, Ron, "Fed Up: Audit the Federal Reserve," http://www.forbes.com/2009/05/15/audit-the-fed-opinions-contributors-ron-paul.html)。

 元FRB議長(Former Federal Reserve Chairman、一九七九~一九八七年)で、オバマ(Barack Obama)が創設した経済再生会議(Economic Recovery Advisory Board)委員長のポール・ボルカー(Paul Volcker)ですら、史上最悪の金融危機の一つである現行の苦境に対処するためには、FRBの監査が必要であると語った。バランス・シートを二兆一九〇〇億ドルと倍増させたFRBだが、これは、財務省の行動と並んで、「政治体制に耐えられない負担を強いている」と、テネシー州ナッシュビル(Nashville, Tennessee)にあるバンダービルド大学(Vanderbilt University)での〇九年四月二一日のコンファレンスで語った("Volcker Says Fed's Authority Probably to Be Reviewed," http://benaiah.newsvine.com/_news/2009/04/21/2711916-volcker-says-feds-authority-probably-to-be-reviewed-update1-)。

 ボルカーは、さらに、〇九年四月二三日に語った。三兆ドルもの金融機関救済資金投与にもかかわらず、市場は機能を回復していない。市場のなんらかの規制が必要になるが、大恐慌時代(the Great Depression era)の産物である、一九三四年のグラス・スティーガル法(the 1934 Glass- Steagall Act)の復活まではいかなくても、少なくとも、一九九九年のグラム・リーチ・ブライリー法(the 1999 Gramm-Leach-Bliley Act)の書き直しは必要となるとボルカーは語った。ヘッジファンド(hedge funds)やエクイティ・ファンド(equity funds)への銀行融資は禁じられるべきである。銀行は巨大化すべきではないと語った(Benjamin, Matthew, "Volcker Says U.S., World in a ‘Great Recession’, "  http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601087&sid=ainh3qdHJuoM&refer=home).

 金融界に対する強い反感は、米国民が伝統的に持っていたものである。以下、金融権力をめぐる米国の論争史を振り返りたい。


野崎日記(278) オバマ現象の解剖(23) ハミルトン・プロジェクト(9)

2010-02-12 21:51:14 | 野崎日記(新しい世界秩序)
(14) オバマは、〇九年二月六日、経済再生会議を正式に発足させた。議長を務めるボルカー元連邦準備制度理事会(FRB)議長をはじめ、米経済界の大物が名を連ねた。大統領に直言できるブレーン機関として、足元の経済危機対応から長期的な米競争力の回復策まで、総合的な政策を練る場となる。委員は一五人。任期は二年。主立ったメンバーは、GE代表執行委員(Chief Executive)のジェフリー・イメルト(Jeffrey Immelt)、キャタピラー会長のジェームズ・オーエンズ(James W. Owens)会長(Head)、UBSグループ・アメリカスのCEOのロバート・ウルフ(Robert Wolf)、オラクル(Oracle)社長(President)のチャールズ・フィリップ(Charles E. Phillips, Jr)、AFLーCLO財務書記長(Secretary-Treasury)のリチャード・トゥルンカ(Richard L. Trumka)、元SEC(証券取引委員会=Securities and Exchange Commission )のウィリアム・ドナルドン(William H. Donaldson)、カリフォルニア大学バークレー校のローラ・タイソン(Laura D'Andrea Tyson)がいる。驚いたことに、マーチン・フェルドスタイン(Martin Feldstein,)も名を連ねていることである。少なくとも彼は民主党系経済学者ではないからである。彼はレーガン(Ronald Reagan)政権での大統領首席経済顧問であった(Chief Economic Advisor to Presiden)。しかも、渦中のAIGの現役の社外重役である。オバマ政権の性格が垣間見える人事である(http://blogs.abcnews.com/politicalpunch/2009/02/more-details-on.html)。

 オバマが、国家経済会議があるのに、なぜ似たような経済再生会議という組織を作ったのかは不明である。

 経済再生会議は、民間の有識者を中心に構成し官僚機構とは別の立場から、景気対策や米国産業の国際競争力の回復など広範な分野について大統領に提言する組織だという。一方、サマーズが委員長になったNEC(国家経済会議=National Economic Council)は、一九九九三年にクリントン政権時代新設されたもので、大統領のブレーンとして、大統領の考えを実現するべく、経済面での基本政策を立案し、各経済官庁の調整を図っていこうという組織である。当然その仕事には議会対策も含まれる。すでにある、安全保障、軍事問題を扱うNSC(国家安全保障会議=National Security Council)の経済政策版というべきものがこのNECであった。NECの初代ディレクターはロバート・ルービンであった(http://jp.truveo.com/christina-romer-wh-council-of-economic-advisers/id/1132941529; http://www.whitehouse.gov/administration/eop/nec/)。

(15) FRBの三つの主要な機構は、全国理事会(Board of Governors)、一二行からなる地区連邦準備銀行(Federal Reserve Districts)、一二人からなる公開市場委員会(FOMC=Federal Open Market Committee)である。地区連銀にも理事会(Boards of Directors)がある。

 全国理事会は上院の承認を得て大統領が任命する七人の理事(Governers)によって構成される。任期は一四年で、大統領の任期と重ならないようにずらされている。どの大統領も全員の理事を指名して理事会を支配することができないようにするためである。理事の一人が四年任期の議長(Chairman)に、もう一人が四年任期の副議長(Vice-Chairman)に任命される。

 地区連邦準備銀行の仕事は、FRBの支払準備金を保有すること、加盟銀行に通貨を供給すること、小切手の決済をすること、政府の財務機関の役目を果たすことである。一二の地域準備銀行は、アトランタ、ボストン、シカゴ、クリーブランド、ダラス、カンザスシティ、ミネアポリス、ニューヨーク、フィラデルフィア、リッチモンド、サンフランシスコ、セントルイスに置かれている。これらの銀行は、加盟銀行が株式を保有する株式会社である。加盟銀行は所属する地域準備銀行の理事(Directors)を選出する。持ち株数に関係なく、理事選出にあたっては銀行ごとに一票しかない。地区準備銀行には九人の理事がいる。加盟銀行は、銀行業界を代表するAクラスの理事三人と、一般市民を代表するBクラスの理事三人を選ぶ。あとの三人のCクラスの理事については、全国理事会に任命権がある。地区連銀の議長(Chairman)と副議長(Vice-Chairman)はCラスの理事でなければならない。議長が総裁(President)を選ぶが、その任命については、全国理事会が拒否権を持っている。地区連銀にはこのように議長と総裁という紛らわしい名前の役職があるが、全国理事会の公開市場委員会に出席する権利を持つのは、地区連銀の議長ではなく総裁である。公開市場委員会は全国理事会の理事と一二人の地区連銀総裁のうちの五人で構成され、地区連銀総裁は輪番で委員になる。ニューヨーク連銀総裁は例外でつねに委員を務める。こうして公開市場委員会も全国理事会にしっかりと支配され、ニューヨーク連銀総裁は他の地区連銀よりも大きな力をもっている。全国理事会の議長がもっとも強力な権限を持つ。全国理事会には総裁はない。そして、地区連銀の議長は、フリードマンも弁明したように、それほど大きな力を持っているわけではない(http://www.federalreserve.gov/より)。




野崎日記(277) オバマ現象の解剖(22) ハミルトン・プロジェクト(8)

2010-02-11 21:49:59 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 

(1) 柿(こけら)は、木の 削り屑、木片のことである。新築、改築工事の最後の仕上げとして、屋根や足組みなどに付着している柿(こけら)を払い落とすことから、新らしい劇場での初めての興行を意味することになった。こけらにはいろいろな漢字が充てられているが、常用漢字では柿しかないので、柿が使用されている(http://gogen-allguide.com/ko/kokeraotoshi.html)。また、ワープロに対応した漢字表記(文字コード)との関係で柿が使われるとされた。文字コード規格は、財団法人日本規格協会が日本工業規格(いわゆるJIS規格)の一つとして選定・公布している。「七ビット及び八ビットの二バイト情報交換用符号化漢字集合」がそれである。もともとは「JIS C 六二二六」として制定されたが、JISの情報部門の新設に伴って「JIS X 〇二〇八」に変更された。付属文書七「「区点位置詳説」では、「こけら」は柿のコードに編入された(http://www.shuiren.org/chuden/teach/code/main4.htm)。

(2) ゴールドマン・サックスは一九九九年五月の株式の一部公開までは、一三〇年間の創業以来、パートナーズ制をとっていた。つまり、共同経営陣には株式を与えるもので、株式は公開していなかった。膨大な持ち株を付与されている経営陣の報酬は莫大であった。歴代の経営トップが何度も挑戦して果たせなかった株式公開の陣頭指揮をとったのは、子ブッシュ政権で財務長官に就任したヘンリー・ポールソン(Henry Paulson, Jr.)であった(http://www.nikkei.co.jp/hensei/ngmf2000/speakers/05.html)。

(3) いまにして思えば、エンロン事件とは、「米国型資本主義の欠陥を浮き彫りにする歴押し的な事件であった」(吉崎[二〇〇二]、一ページ)。二〇〇一年一二月三日、米国第七位の巨大企業が、連邦破産法一一条(chapter 11 of the Bankruptcy Code)の適用を申請した。当時としては米国史上最大の倒産劇であった。電力自由化の追い風を受けて、エネルギー商品のデリバティブ市場を作り、ネット取引を梃子に巨大エネルギー企業に成長したエンロンは、「目に見える物を持たない」、「トレンディな企業」として、時代のヒーローであった。企業が持つ資産ではなく、油田も精油所も持たない石油企業や、工場を持たない半導体企業などが、経営の柔軟性のゆえに時代の寵児にされていたのである。しかし、「彼らがおこなったことは、トレンディな企業を作って、投資家の目を幻惑させただけのことであった」(Krugman[2001])。エンロンは、実物資産を軽蔑する企業の終焉の始まりを意味していた。

 エンロンは子ブッシュ(George Walker Bush、1946~)大統領に、総額七〇万ドルもの献金をした最大のスポンサーであった。上院議員の七割がエンロンから献金を受けていたといわれている(『毎日新聞』二〇〇二年一月一二日付)。会長のケネス・レイ(Kenneth Lay)は、エンロンの生命線がデリバティブの店頭取引にあると見なし、それを規制する機運を懸命に打ち壊す政治的な動きをしていた(http://scribblguy.50megs.com/enron.htm)。

 二〇〇〇年五月一六日に発表された子ブッシュ政権の「国家エネルギー政策」(National Energy Policy、全文は、http://www.whitehouse.gov/energy/)にもエンロンの影が噂されている(http://www.commondreams.org/views05/0702-25.htm)。京都議定書からの離脱などがエネルギー業界の圧力によって押し切られた(http://www.predictweather.co.nz/assets/articles/article_resources.php?id=43)。

 二〇〇〇年の大統領選挙では、エネルギー業界は二二五〇万ドルの政治資金を共和党に献金した。そこでは、エンロンが中核的役割を演じた(http://uspolitics.about.com/od/politicalcommentary/a/enron.htm)。

 エンロンの簿外取引に荷担していたと見なされたビッグ五の一角を占めていた会計監査法人のアーサー・アンダーセン(Arthur Andersen)は二〇〇二年に解散に追い込まれた。こうした状況のさなかに、ルービンがエンロン支援を要望したことへの世論の批判は厳しかった(http://www.commondreams.org/views02/0117-08.htm)。

(3) CDOとは、Collateralized Debt Obligationの略で資産担保証券と訳される。社債や貸出債権の資産を担保として発行される資産担保証券で、証券化商品の一種である。担保とする商品が債券の場合にはCBO(債券担保証券=Collateralized Bond Obligation)と呼ばれ、貸出債権の場合にはCLO(貸出担保証券=Collateralized Loan Obligation)と呼ばれる。CDOは、一九八〇代に米国ではじめて発行された(http://m-words.jp/w/CDO.html)。

(4) 中身は、大量の人の首を切った人、常軌を失した女性スキャンダルにまみれた人、上院議員の席を売ろうとした知事、大規模な賄賂を払って会社を窮地に追いやった人、逆に収賄罪に問われた上院議員、外国政府高官に賄賂攻勢をかけた大企業の重役、スパンメールで会社に損害を与えた人、大会社の幹部から名誉毀損で訴えられた人、ハッカーをおこなった人、そしてルービンである。

 (6) アレクサンダー・ハミルトン(一七五五~一八〇四年)は、一七八七年のフィラデルフィア憲法起草会議(Federal Convention; Grand Convention at Philadelphia)の発案者で、米国憲法の実際の起草者。米国の初代財務長官(United States Secretary of the Treasury、在任一七八九年九月~一七九五年一月)。一〇ドル紙幣の肖像画はハミルトン。他の建国の父たちは、名門富裕層であったのに、ハミルトンはそうではなかった。一七六八年に兄とともに孤児となった。一七七九年一二月から八〇年三月にかけて、独立運動の指導者に書簡を送り、合衆国銀行(Bank of the United States)設立の構想を示した。この考え方は、中央銀行設立に懐疑的な建国の父たちと一線を画すものであった。一七八九年九月一一日、ワシントン(George Washington)政権の財務長官に任命された。一七九〇~一七九一年にハミルトンによって連邦議会に提出された報告書には、公信用、国立銀行、貨幣鋳造所設立が謳われ、ジェファーソン(Thomas Jefferson)をはじめとする建国の父たちとは敵対関係になってしまった。一七九四年「ウィスキー一揆」(Whisky Insurrection.)をピッツバーグ(Pittsburgh)で制圧した。翌、一七九五年、財務長官を辞任、一七九八年から陸軍総監(Major General of the Army) として、新しく編成された連邦軍の軍制・兵制確立を遂行。一八〇三年には弁護士としての名声は最高潮に達していたが、女性問題のスキャンダルに見舞われた。一八〇四年七月一一日、政敵の一人、アーロン・バー(Aaron Burr)との決闘に敗れ、翌日死去した。マンハッタンのトリニティ教会(Trinity Church)墓地に埋葬された。

 ハミルトンに大きな影響を与えたのは、スコットランド哲学である。彼は、とりわけデイヴィッド・ヒューム(David Hume)に傾倒していた。「あらゆる人間は悪人である」という彼の人間観は、ヒュームからきているとされている。デモクラシーを危険視して、直接選挙の原則禁止などの制度作りを提唱した。ハミルトンは、コモン・ロー(common law)の米国への適用に腐心した。それは、州を超える連邦国家の「一般法」(general law)という意味で、フェデラル・コモン・ロー(federal common law)と称されたものである。

 ハミルトンは、新生国家の財政・金融・貨幣・通商・産業政策の基礎を整備した。米国初の中央銀行、第一合衆国銀行(First Bank of the United States、一七九一~一八一一年)の設立と、これまた初の米国造幣局(United States Mint)の設置(一七九二年)による初のドル硬貨(ダイム=Dime、1792 Half Disme)の発行(一七九三年)することに寄与した。この中央銀行の設立には、周囲の閣僚や肝心のワシントン大統領ですら反対であった。ハミルトン関係の文書として、Hamilton[1971]がある(http://americanrevwar.homestead.
com/files/hamilt.htm)。

(7) The Center for American Progressは、米国の進歩的保守思想を、とくにメディアを通して広めることを目的としている。テディ・ローズベルト(Teddy Roosevel)、FDR(フランクリン・デラノ・ローズベルト、Franklin Delano Roosevelt)、JFK(ジョン・F・ケネディ、John F. Kennedy)、マーチン・キング(Martin Luther King)を尊敬する。労働者の権利、勤労者の安全、市民権、女性問題、等々、二〇世紀型社会運動を二一世紀型に応用することを目指す。二〇〇三年創設。主宰者はクリントン大統領の首席補佐官(chief of staff )を務め、ジョージタウン・大学法律センター(Georgetown University Law Center)教授のポデスタ(John David Podesta)。以下の通りの追求されるべき四つの政策がある。①グローバル社会における米国のリーダーシップの回復、②環境持続的なクリーン・エネルギーの開発、③進歩的成長(progressive growth)の創出と成果の分配、④全米国人に等しい医療供与。

 センターの信条も四つある。①米国はあらゆる人々に開かれた社会であるべきこと、②狭い利害関係を超えた共通の善を政府が生み出すべきこと、③米国はつねに世界の希望の象徴であるべきこと、④進歩がつねに目標に置かれるべきこと(http://www.americanprogress.org/)。

(8) この書は、米国民主党が二期続けて子ブッシュ共和党に大統領選で敗れた原因に明確な経済政策がなかったことを反省し、赤い州(red state, 共和党に投票する人が多い州)や青い州(blue state、民主党に投票する人が多い州)の硬直的な区分を排して、党派を問わない大胆にして実現可能な経済政策を打ち出すべきだとしている。グローバル化の速度を落とし、外部調達を廃止する。そのために政府は市場に介入する。市場は重要である。しかし、教育、医療、貧困の撲滅、財政均衡は市場のみに委ねるのではなく政府の適切な介入が必要である。以上のことがこの書の内容である。スパーリングについては、以下を参照。http://yglesias.thinkprogress.org/archives/2009/01/gene_sperling_returns.php

(9) 米国の確定拠出型年金の一種。企業年金の恩恵を受けることができない自営業者などが老後資金を積み立てる制度。四〇一kプランと同様、税金面で、一定額までは所得控除が認められ、加入者が金融商品の中から選択する。金融商品の運用益は引出し時まで課税が繰り延べられる。六〇歳から引き出せる。また、四〇一kプランに加入していた人が失業すれば、資金をIRA口座に移すことができる。

 四〇一kプランも、米国の確定拠出型年金の一種。内国歳入法(Internal Revenue Laws)四〇一条(k)項の条件を満たす年金であることからこう呼ばれるようになった。①企業の拠出金は限度額まで損金参入が可能、②従業員の拠出分は所得控除の対象、③運用益は非課税である(http://www.acajp.net/kinyuu/2005/05/ira.html)。

(10) 資料的には重要な価値を認めることは困難なものではあるが、オバマの選挙戦術の一面の真理を伝えていると思われるので、次のウェブ・サイトを紹介しておきたい。〇八年二月一四日のオバマ演説の感想が吐露された内容のものである。

 二月一四日のウィスコンシン(Wisconsin)集会でオバマは、より左寄りな顔をして見せた。オバマは、エクソン(Exxon)の記録的な利益を、ガソリン・スタンドでの価格上昇と結びつけて、石油業界を罵り、熱烈な喝采浴びた。「仕事を海外に出してしまい、両親たちに最低賃金で、一〇代の若者とウォール・マート(Wal-Mart)で競うよう強いている」貿易協定を批判して、貧困にあえぐ若者の心を捉えた。「夜明け前に仕事に出かけ、夜中に一体どうやって生活費を支払い続けようか思案する父親」、「昼間大学の後、夜勤で働いても病気の妹の医療費が支払えないと語ってくれた女性」、「人生を捧げた会社が倒産し、年金がなくなってしまった退職者」、そして「生活の収支を合わせるために、授業を終えた後、ダンキン・ドーナッツ(Dunkin' Donuts)で働く教師」という事例を効果的に紹介しつつ、勤労者の減税、医療保険改革、賃金増加と「CEOのボーナスではなく、年金を守る」政府というイメージを、彼は、聴衆の脳裏に強烈に焼き付けた。そして、マーチン・ルーサー・キング(Martin Luther King, Jr.、一九二九~六八年)を真似て、「我々の夢は延期されることはない、我々の未来は拒否されることはない、そして我々の変化の為のときはやってきた」という名文句で、オバマは、演説を締めくくった。

 しかし、『ビジネス・ウイーク』(BusinessWeek, February 25, 2008)の記事は暴露した。〇八年二月一〇日の日曜日、メイン(Main)州民主党員集会での自分の勝利を知ってから、オバマは、UBSグループ・アメリカス(UBS Group AmericasのCEO、ロバート・ウルフ(Robert Wolf)に電子メールでやり取りをした。「責任ある政治センター」(Center for Responsive Politics)の推計によると、〇七年オバマ・キャンペーンで集められた資金の八〇%は、企業関連の援助資金供与者からのものであり、なかでもウオール街からのものが群を抜いているとした。ウォール街の資金の半分以上が、二三〇〇ドルの額面の寄付という形であったという。ウルフはそうした有力な献金者のひとりであった(ウルフは、オバマ政権の後述の経済再生会議のメンバーに推挙された。http://latimesblogs.latimes.com/money_co/2009/02/economic-recove.html)。

 オバマは、ウルフに加えて、全米最大の資産家のウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffett)ともつねに連絡をとっていた。彼の経済顧問には、シカゴ大学教授で、自由市場政策の著名な支持者である、オースタン・グールズビー(Austan Goolsbee)がすでに名を連ねていた。加えて、ポール・ボルカー(Paul Volker)をもオバマは陣営に加えた。ボルカーは、名うての金融界の保守派である。オバマが演壇では左翼的言辞を弄すなかで、舞台裏で構築されているのは、米国の金融資本の世界的な利害を確保することである(Auken, Bill Van ,"the Two Faces of Barack Obama,"    http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=8073)。こういう意見が、大統領選時の米国ですでに出されていたのである。

(11) NAFTA(北米自由貿易協定=North American Free Trade Agreement)は、米国、カナダ、メキシコ間で結ばれた自由貿易協定。一九九四年発効。一九九〇年六月のブッシュ(Bush)米大統領と、サリナス(Julio Salinas Fernández)メキシコ大統領との間で貿易協定の合意ができ、交渉開始の準備作業が始まった。その後、カナダのマルローニ(Martin Brian Mulroney)が参加を表明。一九九一年六月から具体的な交渉が開始された。協定に仮調印したのは交渉開始からわずか一年四か月後の九二年一〇月であった(http://www.econ.kobe-u.ac.jp/~kikuchi/oursemi/first/sansho/ronbun/5shou.doc)。

  急いだのは、次期政権がほぼ民主党のビル・クリントンになり、クリントンが選挙戦で強烈に反NAFTA感情をあおっていたからである。九二年一二月正式調印、九四年一月にに発効(http://kotobank.jp/word/NAFTA(North+American+Free+Trade+Agreement)。

(12) PBSは「公共放送ネットワーク」を意味し、米国の三五〇近いテレビ放送局を会員としている。本部はバージニア州アーリントン。一九七〇年一〇月から放送が開始された(http://www.pbs.org/)。

(13) ナオミ・クラインは、一九七〇年生まれのカナダのジャーナリスト。二〇〇〇年に『ブランドなんか、いらない』(Klein[2000])を発表し、グローバリゼーション反対運動の理論を提供した。〇二年には『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』Klein[2002])を刊行。Klein{2007]は、「災害資本主義」(Disaster Capitalism)という新語を生み出した(http://www.jewishindependent.ca/archives/Sept02/archives02Sept20-04.html)。