消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(269) オバマ現象の解剖(14) オバマ現象(6)

2010-01-31 22:18:01 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 参考文献

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     September 3; http://shandresen.typepad.com/touchy_subjects/2009/09/obama-and-his-
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Brooks, Rosa[2008],"A national mood swing: Change isn't just a political slogan, it's a national
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          February 07.
Cooper, Christpher & Brody Mullins[2009],"Wall Street Is Big Donor to Inauguration: Obama
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Ehrenreich, Barbara[2008],"Unstoppable Obama," Huffington Post, February 14.; http://www.
          huffingtonpost.com/barbara-ehrenreich/unstoppable-obama_b_86677.html
Herbert, Bob[2008],"The Obama Phenomenon," New York Times, January 5.
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Obama, Barack [1995, 2004], Dreams from My Father: A Story of Race and Inheritance. Three
          Rivers Press. 邦訳、白倉三紀子・木内裕也訳『マイ・ドリーム』ダイヤモンド


野崎日記(268) オバマ現象の解剖(13) オバマ現象(5)

2010-01-31 22:13:13 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 


(1) スーパー・チューズデー(Super Tuesday)とは、米国の大統領選挙がある年の、政党の大統領候補をめぐる各州の予備選挙が集中する二月または三月初旬の一つの火曜日のこと。この日は、一日で多数の代議員を獲得することができるので、大統領選でもっと注目される日である。

 また予備選挙とは、州政府が公営選挙として実施するもので、大統領選挙や連邦議会議員選挙に先立ち、政党公認候補を決める選挙のこと。予備選挙で選ばれた各州の党代表が、党大会の場でそれぞれの持ち票を推薦候補に投じ、最多数の指名票を受けた者が党公認大統領候補となる(http://www.whytuesday.org/answer/)。

 〇八年は二月五日の火曜日がスーパー・チューズデーであった。CNNテレビの集計によると、投票参加者は民主党が一四四〇万人、共和党が八七〇万人と推計され、ヒラリー・クリントン上院議員とバラク・オバマ上院議員の激しい指名争いへの関心が高かったことを示した。投票率は、前回の七%台をはるかに上回る一二%台であった。米国では、選挙管理委員会が投票率を集計しないことが多い。〇八年も推計値であった。予備選段階での投票率は、一桁程度の低水準にとどまるのが通例である(http://www.yomiuri.co.jp/world/
news/20080207-OYT1T00465.html)。

(2) スーパーボールは、米国最大のスポーツ・イベントで、アメリカン・フットボールのプロ・リーグ(NFL=National Football League)の優勝決定戦である。NFLは、NFC(National Football Conference)とAFC(American Football Conference)から成り、この優勝決定戦のおこなわれる日曜日は「スーパーボール・サンデー」と呼ばれ、事実上の祝日になってしまっている。この日は、全米人口の三分の一がテレビ放映にかじりつき、食糧消費量は、感謝祭(Thanksgiving Day=米国では一一月の第四木曜日)に次いで多い日であるといわれている(http://www.ideafinder.com/history/inventions/superball.html)。この試合の放映におけるコマーシャル代は天文学的数値である。〇八年のスーパーボールでは、三〇秒ものCMで二八〇万ドルはかかったとされている(http://money.cnn.com/2007/01/03/
news/funny/superbowl_ads/index.html)。

(3) ブルックスは、オバマ政権の国防総省政策担当次官(Under Secretary of Defense for Policy)であるミシェル・フルーノイ(Michelle Fluornoy)のアドバイザーに採用された。ブルックスは、『ロサンゼルス・タイムズ』のコラミスト時には、ジョージタウン大学の法学教授を務めていた。ジョージ・ソロス(George Soros)が主宰するニューヨークの「オープン・ソサイエティ研究所」(Open Society Institute)の特別評議会(Special Counsel)への勤務経験もある。また国務省法律顧問・ハロルド・コー(Harold Koh)のアドバイザーをも務めた経歴を持つ。彼女の新しいボスのフルーノイは、アルカイダ(al-Qaeda)との戦争指揮の重要人物であり、アフガニスタンにおける戦闘を担当している(http://blogs.telegraph.co.uk/news/nilegardiner/9534208/Rosa_Brooks_the_Pentagon%C3%A2s_
far_left_adviser/)。

(4) このオバマの演説は以下のサイトで聴くことができる(http://www.americanrhetoric.
com/speeches/convention2004/barackobama2004dnc.html)。
(5) ジョージ・スミス・パットン(George Smith Patton, Jr.、一八八五~一九四五年)の指揮する部隊。文脈から判断すると、オバマの母方の祖父は、パットンがヨーロッパに進軍したいくつかの戦闘の一つに参加したのであろう。パットンが指揮したヨーロッパにおける戦闘は、一九四三年八月のシチリア進軍(米国第七軍)、一九四四年のノルマンディー上陸作戦では、米国第三軍の指揮を執り連合軍部隊の最西端を担った。強力部隊として有名。しかし、アイゼンハワーからは疎んじられていたらしい(http://www.generalpatton.com/
biography.html)。

(6) 「復員兵援護法」)(G.I. bill=Servicemen's Readjustment Act of 1944)は、フランクリン・ローズベルト(Franklin Roosvelt)の署名によって成立した法律であり、連邦政府によって、九〇日以上従軍したGIに、失業給付金を給付し、住宅・教育資金を貸し付けることを定めたものである(http://www.oise.utoronto.ca/research/edu20/moments/1944gibill.
html)。GIとは、米軍兵の俗称。官給品(government issue)からきた言葉で、豊富な官給品に恵まれた米軍兵を羨望を込めて他国兵から命名された言葉といわれているが定かではない(http://www.wordorigins.org/index.php/gi/)。

 また、退役軍人のために、"52/20 Club"(五二週の失業期間において、一週間当たり二〇ドルが支払われるという意味)という援助制度もできた。こうした法律の整備によって、従軍前までは、大学に進学できなかったり、アフリカからの移民のように、限定した職にしかつけなかったものが、退役後は、大学への進学が可能になり、就職できたり、住宅を入手したりできるようになった。この法律は、いまでも「モンゴメリーGI法」(Montgomery GI Bill)として、軍隊のリクルートの役割をはたしている(http://www.oise.utoronto.ca/
research/edu20/moments/1944gibill.html)。

(7) 連邦住宅局は、住宅ローンの債務保証をする米国政府機関であった。住宅ローンの貸し手(オリジネーター)が、住宅ローンを貸し出すさいに、ローンの債務者が債務不履行となった場合に、債務者に代わり、これを保証する業務をおこなっていた(http://www.
nomura.co.jp/terms/english/f/fha.html)。一九三七年に米国連邦政府によって設立。一九六五年には、連邦住宅・都市開発省(HUD=Department of Housing and Urban Development )に統合された(http://portal.hud.gov/portal/page/portal/HUD/)。

(8) ゲールスバーグは、東部ニューヨークの牧師、ジョージ・ゲール(George Washington Gale、一七八九~一八六一年)が、単純労働者のためのカレッジを作りたいと、教会関係者二五人とやってきて一八三六年に建設したイリノイ州西部にある労働者の町である。現在の人口は約三万人。町を作った翌一八三七年には、州はノックス・カレッジ(Knox College)の設立を認めた。カレッジは、奴隷を逃亡させる地下組織の役割を担い、リンカーンを支援していた(http://www.southwind.us/cinderella/galesburg.html)。

(9) メイタッグ社は、全米第三位の家電メーカー。イリノイ州ニュートンにある同社工場で、新労働協約をめぐる労使交渉が決裂。労働組合は、二〇〇四年六月一〇日(木)からストライキに突入。二〇〇四年七月一日(木)、労使間で暫定合意が成立。翌七月二日(金)に組合員投票。四年間有効の新労働協約が正式承認。七月六日(火)から職場復帰がおこなわれた。新労働協約は以下の内容。①二〇〇五年にCOLA(物価調整手当て)として四五〇ドルを支給、その後は毎年五〇ドル増額。②二〇〇七年六月まで基本給を据え置く。そして二〇〇七年六月に二・五%の賃上げをおこなう。ニュートン工場の二〇〇四年時点での平均時給は一九ドルであった。③企業業績に応じてボーナス支給。④これまで全額会社が負担してきた医療保険料の一~二割を労働者が負担する。⑤新規採用者は、もはや現役労働者が加入している確定給付年金に加入することができない。新規採用者には、四〇一(k)が提供される(http://www32.ocn.ne.jp/~everydayimpress/New_Folder/
article272.html)。しかし、オバマ演説に見られるように、多くの労働者が解雇された。

(10) ジョン・フォーブズ・ケリー(一九四三年生まれ)は、マサチューセッツ州選出上院議員。二〇〇四年の米国大統領選挙で、民主党の大統領候補に指名された。この年に大統領選を争ったジョージ・ウォーカー・ブッシュ(George Walker Bush、一九四六年生まれ)とは遠い縁戚にあたる(http://www.ancestry.com/landing/strange/bush4/tree.html)。

(11) 特命全権大使(Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary)とは、外交使節団の長で最上級の階級。受け入れ国の元首に対して、外交交渉、全権代表としての条約の調印などをおこなう。国連などの国際機関の政府代表部に対しても派遣される。職業外交官でない各国駐在大使のことを指す場合が多い(http://encyclopedia.farlex.com/Ambassador
+Extraordinary+and+Plenipotentiary)。

(12) ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)は、アルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel、一八三三~一八九六年)によって創設された五部門(物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞。ちなみに経済学賞はノーベル賞ではなく、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」である)の賞の一つであるが、アルフレッド・ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して、「平和賞」の授賞は、ノルウェーでおこなうことにした。

 セオドール・ローズベルトの授賞理由は、一九〇五年の日露戦争終結のポーツマス条約(Treaty of Portsmouth)の斡旋の功績による。ウッドロー・ウィルソン は、有名な一九一八年「一四か条の平和原則」で国際連盟創設につながった功績で授賞した(http://
nobelprizes.com/nobel/peace/peace.html)。

(13) コンゴ民主共和国(Democratic Republic of Congo、旧ザイール)の博士、医師であるデニス・ムケゲ(Denis Mukwege)が人権運動家の心を捉えている。パンジー(Panzi)に病院を建設し、同国で数十万人にのぼるといわれる性的暴力被害者の女性のケアをおこなっている。元国連人道問題担当事務次長でノルウェー国際問題研究所(Norwegian Institute of International Affairs)のヤン・エグランド(Jan Egelangd)によると、現在のアフリカ諸国には集団レイプという「忘れられた戦争」があると指摘している(http://www.
afpbb.com/article/life-culture/life/2526553/3411170)。

 二〇〇八年一月一三日、CBSの「六〇分」(60 minutes)で詳しく報道された("War Against Women-The Use Of Rape As A Weapon In Congo's Civil War"、二〇〇八年八月一四日、再放送)。かなりきわどい表現もあるので、端折って要約しよう。

 ここ一〇年、コンゴでは何十万人もの女性がレイプされている。多くは集団暴行だ。パンジ病院は、被害者等で一杯になっている。病院で治療しているのは大人だけではない。「子供もいる。一番若いのは三歳だったと思う」とデニス・ムケゲ医師はいった。

 一〇年以上も前に、隣国のルワンダ(Rwanda)で一〇〇万人近い人々が殺された大虐殺があった。それはコンゴにも波及した。それ以来、コンゴ軍、外国の支援を受けた反乱軍、地元の民兵がお互いに権力と土地を求めて戦っている。世界最大の金、銅、ダイヤモンド、錫の鉱脈をめぐるいさかいである。現在ではコンゴのミッションは国連史上最大の平和維持活動になっている。

 二〇〇五年以来、約一万七〇〇〇人の国連軍と職員が常駐しているが平和は訪れていない。戦闘に続き、略奪とレイプが繰り返されている。〇七年には五〇万人以上の人々が立ち退きさせられた。

 CNNの記者、アンダーソン・クーパー(Anderson Cooper)が訪れたあるキャンプは、二か月前にできたばかりなのに、すでに超満員であった。そして、まだ増え続けていた。戦争が広まったため、より多くの暴力が蔓延し、レイプは日常茶飯事になってしまった。レイプは大規模かつ組織的、残虐なものである。恐怖の見せつけである。レイプが戦争の武器として使用されている。

 クーパー一行は、ワルング(Walungu)と呼ばれる、コンゴ東部にある山の孤立した村に向かった。長年、武装グループがこの地域で戦闘を展開している。何千もの男が森から現れて、村人を脅して女性たちを奪っていく。ある村では、女性の九〇%がレイプされた経験を持つ。村の男たちはたいてい武器を持っておらず、反撃することができない。

 「私はかつて男たちが逃げるのは無責任だと思っていた。しかし、いまは違う」。ムケゲ医師はクーパーに語った。「男たちは、彼らの妻がレイプされたから逃げるのではない。彼ら自身がレイプされたように感じるから逃げるのだ。彼らはトラウマを抱え、屈辱を感じている。なぜなら、妻や子供たちを守るために何もできなかったからだ」。

 同医師はいう。「これは力、武力の誇示なんだ。人間を破壊するためだ」と。
 紛争が広まるにつれて、次第に一般市民もレイプするようになった。いくつかの色あせた看板にはレイプは犯罪であると書かれているが、コンゴ警察がこの問題を深刻に捉えているという証拠はほとんどない。これまでに裁判にかけられた事件はほとんどない。刑務所には、フェンスもなく、見張りもいない。ここでは、レイプをしても、まったくとがめられないし、殺人を犯してもとがめられない。逮捕される可能性はゼロである。

 パンジ病院では毎朝、みんな集って大声を上げ、礼拝で歌を歌う。我々の現世での苦しみは天国で解放される、と彼女らは歌う。


野崎日記(267) オバマ現象の解剖(12) オバマ現象(4)

2010-01-30 22:06:18 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 三 不透明な選挙資金
 

 バラク・オバマ大統領が大統領選で集めた選挙資金は、史上最高額の七億四五〇〇万ドルであった(http://www.fec.gov/DisclosureSearch/MapAppCandDetail.do?detailComeFrom
=mapApp&cand_id=P80003338&cand_nm_title=Obama,%20Barack)。それだけではない。公的助成を受け取らずに当選した史上初の大統領でもある。

 米国では、政党内の大統領候補を選ぶ選挙も含めて、企業や労組から候補者への直接献金が禁じられている。つまり、選挙資金は個人献金から賄われる。その個人献金もほとんどの場合、二三〇〇ドルが上限になっている。そして、献金者一人について、二五〇ドルが、米財務省の管理する特別基金(マッチング・ファンド=matching fund)から、候補者に助成金として支給される。しかし、公的助成を受けると、支出内容が法的に制約されてしまう(草野厚研究会第二班「大統領選挙から見る現在のアメリカ」、http://web.sfc.keio.
ac.jp/~bobby/klab/hokokusho/election.pdf)。

 共和党の大統領候補、ジョン・マケイン上院議員は、約二億八四〇〇万ドルを集め、それに対応する公的資金を約八四〇〇万ドル受け取り、総額三億六九〇〇万ドルの選挙資金を得た(http://www.fec.gov/DisclosureSearch/MapAppCandDetail.do?detailComeFrom
=mapApp&cand_id=P80002801&cand_nm_title=McCain,%20John%20S)が、オバマは受け取らなかった。公的助成を受け取らない方が、選挙戦での自由度が増すからである。

 米国では、どれだけの選挙資金を集めたかがジャーナリズムで大々的に宣伝され、多くの資金を集めた候補者がそれだけ有利になる。そのために、支持者は懸命に献金することになる。結果的には莫大な選挙資金が集まることになる(http://business.nikkeibp.co.jp/article/
topics/20090310/188698/?P=1~3)。

 大口献金者(big donor)というのは、上限二三〇〇ドルの献金しかできない個人を多数まとめ得た人のことを指している(http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-20080123-02.html)。

 オバマ陣営は、豊富な資金をテレビでの宣伝費に投入した。衛星放送のディッシュ・ネットワーク(Dish Network)に「オバマ・チャンネル」(Obama Channel)を設定し、大統領選挙の六日前、つまり、二〇〇八年一〇月二九日、地上波テレビのNBCやCBS、Fox、ケーブル・テレビのMSNBC、BET、TVワン(One)、スペイン語放送のユニビジョン(Univision)等々の米東部時間での午後八時のゴールデン・アワーズを買い取った。ただし、ABCは拒否した。

 選挙戦終盤でこれほど長時間にわたり、単独候補を前面に押し出した「放送枠買取り」は滅多に見られない。一九九二年にインディペンデント候補として出馬した大富豪のロス・ペロー(Henry Ross Perot)でさえ、オバマのようにケーブルテレビまで包括的に取り込む企画はできなかった。まさに前代未聞のテレビ広告戦略であった。

 選挙広告に使った費用を見ると、マケイン陣営の一億三〇〇〇万ドルに対し、オバマ陣営は三億九〇〇〇万ドルと圧倒した。

 米国の国民的スポーツであるメジャーリーグ(MLB)の頂上決戦ワールドシリーズ、フィラデルフィア・フィリーズ対タンパベイ・レイズの第五戦。フィリーズが二八年ぶりのシリーズ優勝に王手をかけたが、雨天のため六回表のレイズの攻撃で試合中止となった(http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/206)。

 ところが、〇八年一〇月二九日に再開された第六戦の開始時間は、八分間遅らせられた。米民主党の大統領候補オバマ上院議員のテレビ出演のためであった(http://sankei.jp.msn.
com/sports/mlb/081017/mlb0810170958003-n1.html)。

 オバマの選挙選は、史上最大の三〇〇万人を超える小口献金者達(平均献金額一〇〇ドル以下)によって支えられたものであると、オバマ陣営は豪語していた。しかし、この数値はごまかしであった。一〇〇ドル以下の献金者の比率は、連邦選挙管理委員会(Federal Election Commission)に提出されたデータで見る限り、二〇〇四年のブッシュ陣営の実績よりも小さかったのである("Obama Donors Pick Up Pace: A $32 Million Month,"
Washington Post, February 1, 2008)。

 法的には個人献金の上限は二三〇〇ドルに制限され、格別の個人的理由があればさらに二三〇〇ドルの積み増しが認められている。しかし、現実には膨大な金額が献金として選挙主宰者の手に渡っている。これは「合同基金募集委員会」(joint fundraising committees)なるものが抜け穴として積極的に利用されているからである。

 マケイン陣営は「マケイン勝利二〇〇八」(McCain Victory 2008)を利用した。オバマも「オバマ勝利ファンド」(Obama Victory Fund)を設立して、個人献金をここに集約させた。ここに集めた基金は選挙に直接回されるだけでなく、党運営に、あるいは地方組織にまわせることができうるという、使途に柔軟性が付与された資金である。この組織に献金するならば、個人の献金は二万八五〇〇ドルまで可能であるとされている。されに民主党は「変化委員会」(Committee for Change)というものを作った。この基金へなら、個人は、六万五五〇〇ドルを上限として献金できる(Washington Post, October 22, 2008)。

 これだけの膨大な金額が大統領キャンペーンでテレビ局に入る。しかも、オバマが勝利してもまだ莫大な金額をオバマ陣営は懐に入れている。いくらでもテレビ宣伝費用にそれらを支出することができるのである(Amy Goodman,"Change Big Donors Can Believe In,"http://www.truthdig.com/report/item/20081022_change_big_donors_can_believe)。

 オバマは、まさにウォール街の献金で大統領選に勝利したと、なんと、『ウォールストリート・ジャーナル』紙に書き立てられたのである(Cooper & Mullins[2009])。


 おわりに

  オバマが始めた戦争ではないが、米国は、少なくとも〇九年一〇月段階では、イラクで、アフガニスタンで戦争当事者であった。ところが、戦争の一方の当事者のオバマ大統領へのノーベル平和賞(2009 Nobel Prize)の授与が決定した。大統領就任後九か月も経っていなかったのにである。

 『ロサンゼルス・タイムズ』紙は、〇九年一〇月一〇日の社説でこの授賞決定を批判した。

 「私たちは、オバマ大統領を支持し、彼の前任者よりもはるかに好んでいるが、なぜ就任直後にノーベル平和賞の授賞が決定したのか分からない。ノーベル委員会は、オバマ大統領を当惑させて、賞自らの信頼を損なった」。

 翌日の11日に同紙がおこなったオンライン世論調査によると、回答者の四六%が「オバマ大統領は賞の受賞を断らなければならない」といっていた。

 九日の『ワシントン・ポスト』紙の批判も厳しかった。「(これは)慌てて授与したおかしな平和賞」であり、「イラン大統領選挙不正に抗議して亡くなったイラン女子大生などの、他の候補が明らかにいながら、なぜノーベル委員会が今回の決定を下したのか分からない」。

 同紙による九日の、三万七六七五人へのオンライン世論調査では、五六%が今回の受賞に反対していた。投票者の中には、「インドのマハトマ・ガンジーさえ平和賞を受け取れなかったのに、政治的には新人のオバマが受けたことにより、ノーベル賞の権威を自ら貶めた」という意見もあった。

 一〇日の『ウォールストリート・ジャーナル』紙は、一〇日付のコラムも酷評した。
 「今回の授与は邪悪で無知。ノーベル委員会は、たんに、オバマがジョージ・W・ブッシュでないだけで賞を与えた。平和賞が『尊敬の対象』から、『冷やかしの種』に転落した」(以上は、http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1012&f=national_1012_012.htmlによる)。

 ノーベル平和賞選考委員会の議長は、トルビョルム・ヤーグラント(Thorbjorn Jagland)である。彼が説明した授賞理由は、尋常でない国際外交と人々の協調を強化したことによる」とし、記者会見で「全会一致の決定だ。大統領が唱える政策こそ長年、委員会が目指してきたものだ」と語り、「これで大統領は世界を主導するスポークスマンになった」と話したhttp://news.goo.ne.jp/article/sankei/world/m20091010043.html)。

 出席した記者たちは辛辣な批判をヤーグラント議長に浴びせた。
 「約束を履行するだけの任期をオバマ大統領は与えられれていないではないか」という質問に対して、議長は、ノーベル賞はそうした姿勢を支持するというのが伝統であると答えたのみであった。

 「オバマはアフガニスタン侵攻の中心人物である。その点について選考委員はどういう見解を持つのか」という質問には、紛争が解決される機運が生じることを願っていると解答を逸らせた。

 ちなみに、オバマは、一九〇六年のセオド-ル・ローズベルト(Thodore Roosvelt、一八五八~一九一九年)、一九一九年のウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson、一八五六~一九二四年)に継ぐ三人目のノーベル平和賞受賞大統領である(12)。
 ベストセラー、『ザ・ショック・ドクトリン』(Klein[2007]の著者、カナダのナオミ・クライン(Nomi Klein)もオバマの授賞を酷評した。

 この授賞は、ノーベル賞を貶めるものだ。いままでもそうであったし、これからもノーベル賞委員会はノーベル賞を貶め続けるであろう。彼らは具体的な行動に対してではなく、単なる希望を述べただけの人(注、オバマのこと)を励ますために賞を授けた。世界には具体的な行動によって、平和を実現させようとしている人がいる。それも危険を冒して。そういった人々にノーベル平和賞は考慮を払うべきであった。

 たとえば、コンゴの残酷な女性レイプ問題に命を張って阻止しようとしている人たちがいる。ムケゲ(Mukwege)医師もそのひとりである(13)。もし、ムケゲがノーベル平和賞を授与されていたら、どれほど多くの難民に希望をもたらしていただろうかと、クラインは力説した(http://www.democracynow.org/2009/10/9/as_us_continues_afghan_iraq
_occupations)。

 国内政治も世界政治も巨大マスコミの手で操作されるようになって久しい。歴史は、マスコミ操作術で際だった技術を駆使した代表としてオバマ陣営を語ることになるだろう。時代は、まさに、「オバマ現象」の様相を呈している(http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/
2008/02/post_01be.html)。


野崎日記(263) オバマ現象の解剖(11) オバマ現象(3)

2010-01-29 22:02:21 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 二 バラク・オバマの経歴と閣僚人事のもたつき


 オバマは、一九六一年八月四日に、ハワイ州ホノルルで出生。実父のバラク・オバマ・シニア(Barack Obama, Sr.)(一九三六~八二年)はケニア出身。母親はカンザス州ウィチタ(Wichita)出身の白人、アン・ダナム(Stanley Ann Dunham)。上記の演説にもあるが、父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。二人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、一九六一年二月二日に結婚。

 息子のオバマ自身は現在プロテスタントのキリスト合同教会(United Church of Christ)に属していた(大統領選中に離脱)が、父はムスリム。ただし、ほとんど無宗教に近かった。

 両親は、一九六四年に離婚。ハワイ大学とハーバード大学を出た父は一九六五年にケニアに帰国し、政府のエコノミストとなる。一九八二年に自動車事故で亡くなった。四六歳であった。

 母は、離婚後に人類学者となり、その後ハワイ大学で知り合ったインドネシア人の留学生(のちに地質学者となったロロ・ソエトロ(Lolo Soetoro)と再婚する。

 一九六七年に、ソエトロの母国であるインドネシアで、スハルト(Suharto、一九二一~二〇〇八年)による軍事クーデター(九月三〇日)が勃発し、海外留学していたインドネシア人は、母国に呼び戻され、一家はジャカルタに住むことになった。子オバマは六歳から一〇歳までジャカルタで育った。一九七一年、子オバマは、母方の祖父母と暮らすためにホノルルに戻り、地元の有名私立小中高一貫のプナホウ・スクール(Punahou Schoo)に編入学し、一九七九年の卒業まで五年間の教育を受けた。

 一九七二年に、母のアンがソエトロと一時的に別居し、実家のあるハワイ、ホノルルに帰国、一九七七年まで滞在。同年、母は子オバマをハワイの両親に預け、人類学者としての仕事をするためにインドネシアに移住し、一九九四年まで現地に滞在した。一九八〇年、アンとソエトロとの離婚が成立。母のアンはハワイに戻り、一九九五年に卵巣癌で亡くなった。

 子オバマは、高校を卒業後、カリフォルニア州ロサンゼルスの私立オクシデンタル・カレジ(Occidental College)に入学。二年後、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入。、政治学、とくに国際関係論を専攻。一九八三年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社やNPOのビジネス・インターナショナル(Business International Corporation)、ニューヨーク・パブリック・インタレスト・リサーチ・グループ(New York Public Interest Research Group)に勤務。四年間のニューヨーク生活のあと、イリノイ州のシカゴに転居。一九八五年六月から八八年五月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP=Developing Communities Project )の管理者として勤務。一九八八年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。一九九一年、同ロースクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(voter registration drive)に関わったのち、弁護士として法律事務所に勤務。一九九二年に、シカゴの弁護士事務所で知り合ったミシェル・ロビンソン(Michelle Robinson)と結婚。二人の娘をもうけた。

 一九九五年には、自伝(Obama[1995]を出す。シカゴ大学ロースクール講師として米国憲法を一九九二~二〇〇四年まで講じた。

 貧困層救済の草の根社会活動で頭角を現し、一九九六年、イリノイ州議会上院議員に選出され、二〇〇四年一月まで務めた。二〇〇〇年には連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。

 二〇〇三年一月、イリノイ州上院議員選挙に民主党から出馬表明、二〇〇四年三月に七人が出馬した予備選挙で五三%を獲得し、同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、二〇〇四年一一月には、共和党候補を得票率七〇%対二七%の大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上五人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上三人目)であったが、この時点で現職アフリカ系上院議員はオバマ以外にいなかった。

 二〇〇四年の米国大統領選挙では、上院議員のジョン・ケリーを大統領候補として選出した〇四年民主党党大会(マサチューセッツ州ボストン)の二日目(七月二七日)に上記で説明した基調演説をおこなった。この時点では、オバマは、イリノイ州議会上院議員の席を持っていたが、まだ米国上院議員ではなく、単なる民主党指名候補であった。「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じ米国に忠誠を誓う『米合衆国人』なのだ」と語った上記演説模様は、全米にテレビ中継され、長年の人種によるコミュニティの分断、二〇〇〇年大統領選挙の開票トラブル、イラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立、等々を憂慮する米国人によりこの演説は高い評価を受けた。

 二〇〇四年以降、二〇〇八年の米大統領選挙の候補として推す声が、地元イリノイ州の上院議員や新聞などを中心に高まっていた。そして、〇六年一〇月、NBCテレビのインタビューに「出馬を検討する」と発言。翌〇七年一月に、連邦選挙委員会に大統領選出馬へ向けた準備委員会設立届を提出(出馬表明)。米上院議員の一期目でまだ二年しか経っていなかった。まったくの新人が大統領指名候補に名乗り出たのである。正式立候補声明は、〇七年二月一〇日、地元のスプリングフィールド(Springfield)にて出された。

 出馬の演説で、オバマは、医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度を取り組みが必要な課題として挙げ、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけた(Full Text of Senator Barack Obama's Announcement for President, Springfield, IL, February
 10, 2007; http://www.barackobama.com/2007/02/10/remarks_of_senator_barack_obam_11.php)。

 オバマは、グローバル資本主義に懐疑的であった。グローバル資本主義こそが、米国内にブルーカラーを中心に大量の失業者を生んだ原因であると認識し、新自由主義経済政策の象徴である北米自由貿易協定(NAFTA)に反対し、国内労働者の保護を訴えるなど、主な対立候補となったヒラリー・クリントンよりもリベラルな政治姿勢を示していた。選挙選の最中、オバマが頼みとするトリニティ・ユナイテッド教会(Trinity United Church of Christ)の牧師たちによる相次ぐ失言(政敵ヒラリーを人種差別主義者だとして糾弾)に失望したオバマは、二〇年間在籍していた同教会から、〇八年五月三一日に、「私は教会を非難しないし、教会を非難させたがる人々にも関心がない」が、「選挙運動によって教会が関心に晒され過ぎている」として、教会から脱退した(Sweet[2008])。二〇〇八年一一月四日におこなわれた米大統領選挙で勝利したのちになって、オバマは、同月一六日、上院議員(イリノイ州選出)を辞任した(http://www.biography.com/articles/Barack-Obama
-12782369)。

 しかし、政権発足後、オバマが指名したスタッフらによる不祥事の発覚が相次いだ。財務長官(U.S. Secretary of the Treasury)候補のティモシー・フランツ・ガイトナー(Timothy Franz Geithner)、保健福祉長官(U.S. Secretary of Health & Human Services)候補のトム・ダシュル(Thomas Andrew Daschle)、行政監督官(Head of U.S. Government Accountability Office (GAO)候補のナンシー・キルファー((Nancy Killefer)に納税漏れが発覚した。ダシュルに至っては、支持者からのリムジン提供も批判された。議会から糾弾されたダシュルとキルファーは指名を相次いで辞退した。批判を浴びたオバマは、ダシュル指名を「大失敗」だったと認めて謝罪した(『朝日新聞』二〇〇九年二月五日付)。ガイトナーは時間がかかったが、議会の承認を得た。

 商務長官(U.S. Secretary of Commerce)候補も、指名者が次々に辞退するという失態劇が繰り返された。最初に指名されたビル・リチャードソン(William Blaine "Bill" Richardson III)は、献金を受けた企業が捜査対象となり、連邦議会での承認手続き前に指名を辞退した(産経デジタル、二〇〇九年一月五日)。

 次に指名された共和党員のジャド・アラン・グレッグ(Judd Alan Gregg)は、オバマとの政策的な対立が解消せず、指名を辞退した(産経デジタル、二〇〇九年二月一三日)。

 また、国家経済会議議長(Director of the National Economic Council)のローレンス・サマーズ(Lawrence H. Summers)が、米国のヘッジファンド大手のD・E・ショウ(Shaw)から顧問料として年間五二〇万ドル超の収入を得ており、さらにリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)やシティグループ(Citigroup)から講演料との名目で年間約二七七万ドルを受領していたことが、ホワイトハウスによる資産公開で明らかにされた(米山雄介「米経済会議サマーズ氏、ファンドから五億円、政権入り前、政策へ影響懸念も」『日本経済新聞』二〇〇九年四月五日付)。

 大統領選挙中、オバマは、子ブッシュ政権の外交官(特命全権大使)(11)人事に対して「政治利用しすぎる」(古森義久「オバマ論功人事?、新大使候補六割外交経験なし、大口献金者多く」『産経新聞』二〇〇九年七月六日付)と強く批判していた。しかし、オバマも同じであった。オバマが指名した特命全権大使のうち、職業外交官以外が占める割合は、子ブッシュ政権では三割程度に過ぎなかったのに対し、オバマ政権では六割を占めている(上記、古森記事)。過去の歴代政権と比較しても、その割合は突出している。実際、オバマに対する大口献金者が主要国大使に指名された。以下に紹介する各国駐在大使はすべて五〇万ドル以上を選挙資金として集めた人達である。

 駐日大使のジョン・ルース(John Victor Roos)は、その代表的な人物。上院議員になったばかりのオバマは、二〇〇五年初め、「バラク・オバマと会ってみませんか」という会合を始めた。サンフランシスコでの会合には、二〇〇四年の大統領選挙で敗れたケリー候補の大口献金者二〇人が集まった。ジョン・ルースもそのひとりだった。二年後の二〇〇七年、大統領選挙出馬を決めたオバマを応援するため、ルースは自宅にシリコンバレーの実業家ら一〇〇人を招き、一晩で三〇万ドルを集めた。カリフォルニア州北部の資金調達責任者となった。カリフォルニア州は全米で最多の資金を集めたといわれている(http://
www.zimbio.com/John+Roos)。

 弁護士のルースは、一九八五年に、当時は小規模だった法律事務所ウィルソン・ソンシニ・グッドリッチ&ロサティ(Wilson Sonsini Goodrich & Rosati=WSGR)入りした。ルースは、IT(情報技術)、電機、バイオ分野に強い企業金融の専門家として頭角を現した。グーグル(Google)やアップル(Apple)など大手企業だけでなく、ユーチューブ(Youtube)などベンチャー企業も顧客として開拓した。WSGRを有力事務所に成長させた同氏は、二〇〇五年には最高経営責任者(CEO)に就いた。同社は、五〇社以上の日本企業とも契約している(『日本経済新聞』二〇〇九年五月二一日付)。
 フランス大使は、ジム・ヘンソン・カンパニー(Jim Henson Company)という有名なプロダクション社長のチャールズ・リブキン(Charles Rivkin)。ソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)出身(http://diplopundit.blogspot.com/2009/05/officially-in-charles-rivkin-to-
paris.html)。

 英国大使は、シティグループ・グローバル・マーケット(Citigroup Global Markets)元副社長のルイス・サスマン(Louis Susman)。「電機掃除機」と称されるほど、04年のケリー陣営で莫大な資金を集めた達人である(http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/
northamerica/usa/barackobama/5401840/Profile-Louis-Susman-the-new-US-ambassador-to-Britain.
html)。

 英紙『タイムズ』(Times)は、「クローニー資本主義を批判してきたオバマが、大口献金者のトップ一〇人を各国大使に指名した」と痛烈に批判した(http://www.timesonline.co.uk/
tol/news/world/us_and_americas/article6376633.ece)。

 スイス大使は、米国外国車ディーラー連盟(American International Automobile Dealers Association)会長で、ボルボやローバーの販売店を経営しているドナルド・バイヤー(Donald  Beyer)。ボルボを扱っているので、スウェーデン大使にすればよかったのにと、新聞で揶揄された(http://www.washingtoncitypaper.com/blogs/citydesk/2009/04/07/don-beyer
-also-not-named-ambassador-to-swedenyet/)。

 そのスウエーデン大使には、著名インターネット企業、ブリックパス(Brickpath)代表のマシュー・バーザン(Matthew  Barzun)(http://thevillevoice.com/2009/06/19/just-announced
-ambassador-matthew-barzun/)。

 ベルギー大使のハワード・ガットマン(Howard Gutman)は、巨大法律事務所、ウィリアムズ&コノリー(Williams & Connolly)のパートナー(http://www.huffingtonpost.com/
howard-gutman)であった。


野崎日記(265) オバマ現象の解剖(10) オバマ現象(2)

2010-01-28 21:56:40 | 野崎日記(新しい世界秩序)



 一 オバマ現象の発端となった〇四年七月の演説


 「『国の交差点』(crossroads of a nation)であり、リンカーン大統領を生んだ(Land of Lincoln)、偉大なイリノイ州(the great state of Illinois)の代表として、私に、ここで演説する栄誉を与えて下さったことに深い感謝の念を述べたいと思います」。(中略)
 「私が今このステージの上に立てることは、本当に驚くべきことです。私の父は外国からの留学生でした。彼はケニアの小さな村で生まれ育ちました。山羊飼いをしながら育ち、ブリキ屋根の掘っ立て小屋の学校に通いました。彼の父、つまり私の祖父は、英国人家庭の召使として働いていた料理人でした。しかし祖父は、息子に大きな夢を抱いていました。一所懸命勉強し努力して、私の父は魔法の土地(magical place)、米国で学ぶ奨学金を得ました。多くの先人にとって、自由と機会の象徴(beacon of freedom and opportunity)として輝いていた米国に。留学中に父は母と出会いました。母は、ケニアから見て地球の反対側、カンザスで生まれました。母方の祖父は大恐慌時に、石油採掘場と農場で働きました。真珠湾攻撃のあと、祖父は軍隊に入隊し、パットン隊(Patton's army)(5)としてヨーロッパに進軍しました。家では祖母が赤ん坊を育てながら兵器工場で働いていました。戦後、祖父母は『復員兵援護法』(G.I. Bill)(6)のお陰で学び、連邦住宅局(FHA=Federal Housing Administration)(7)を通して家を買いました。そして、機会を求めて西のハワイへと向かいました。彼らも、娘に大きな夢を託しました。共通の夢が、二つの大陸から生まれたのです。私の両親は、奇跡的な愛を分かち合っただけでなく、この国の限りない可能性への信頼も分かち合っていました。両親は私にアフリカの『祝福』という意味である「バラク」という名前を与えました。なぜなら寛大(tolerant)な米国においては、名前が成功を邪魔するものではないと信じていたからです」。(中略)

 「慈悲深い(generous)米国では、自らの能力を発揮するのに裕福である必要はないのです」。(中略)

 「今夜、私たちは、この国の偉大さを確認するために集まっています。偉大であるのは、摩天楼の高さでも、軍隊の力でも、経済力でもありません。私たちの誇りは、とても簡単明瞭な前提、つまり二〇〇年前の独立宣言に集約されています。私たちはこれらの真実を自明のものだと考えています。すべての人が、平等に造られ、奪うことのできない権利を授かっていると。人生において自由と幸福の追求する権利があると」。(中略)

 「そして親愛なる米国民の皆さん、民主党の皆さん、共和党の皆さん、無党派(Independents)の皆さん。私は、今夜、あなた方にいいます。われわれには、もっとしなければならないことがあります。たとえば、私がイリノイ州のゲールスバーグ(Galesburg)(8)で会った労働者たちのために。彼らは、メイタグ(Maytag)工場(9)がメキシコに移転したために、職を失ってしまいました」。(中略)

 「彼は、彼の息子の薬代のために毎月四五〇〇ドルをどうやって払ったらいいのかと悩んでいます。薬がないと息子さんの健康を保てないのです」。(中略)
 「誤解しないでいただきたいのですが、私が会った人々、小さな町や大都市で、食堂やオフィス街で会った人々は、政府に彼らの問題のすべてを解決して欲しいといっているわけではないのです。彼らは、前進するのに努力しなければいけないことはよく知っていますし、そうしたいのです」。(中略)

 「彼らは知っています。両親が教えなければならないことも、子供に期待をかけ、テレビを消し、若い黒人が本を持っているとは白人のようなおこないだという誹謗中傷を撲滅しなければ、子供が成長できないことも」。(中略)

 「人々は、政府にすべての問題を解決して欲しいなどとは望んでいません。ただ、彼らは、心の奥底で、優先順位を少しだけ変えて欲しいと感じているのです。私たちは、できる(we can)はずです。米国のすべての子供がきちんとした人生を送ることができ、機会がすべての人にきちんと開いているようにすることを。彼らは、私たちがよりよくできることを知っているのです。彼らはそれを選択したいのです」。(中略)

 「ジョン・ケリー(John Forbes Kerry)(10)は信じています。厳しい労働が報いられる米国を。彼は、仕事を海外に移転する企業が税金を逃れる代わりに、企業がここで仕事を作り出すことを勧めています」。(中略)

 「ジョン・ケリーは信じています。すべての国民が、ワシントンの政治家と同じ医療保障を受けられる米国を」。(中略)

 「ジョン・ケリーは信じています。エネルギーの自立を。そして石油会社の利益や産油国の妨害行為の犠牲にならないことを」。(中略)

 「ジョン・ケリーは信じています。憲法で保証された自由を。それは、世界から羨望のまなざしを受けています。そして、彼は、絶対に基本的自由を犠牲にしたり、われわれを分かつ楔として信仰を利用しないでしょう。ジョン・ケリーは信じています。危険な世界情勢において、戦争は、時々の選択肢の一つにはなるものの、第一の選択肢であるべきではないことを」。(中略)

 「ジョン・ケリーは米国を信じています。そして彼は知っています。それは何人かが繁栄するだけでは不十分だということを。米国は個人主義で有名ですが、米国の歴史の中には、別の要素があります。私たちはすべて、一つの国民としてつながっているのです」。(中略)

 「われわれが夢を追い、一つの米国の家族として結集することを、ケリーは信じています」。(中略)

 「ケリーは信じています。ここにはリベラルの米国も保守の米国もなく、米合衆国があるだけだと。黒人の米国も白人の米国もラテン人の米国もアジア人の米国もなく、米合衆国があるだけだと」。(中略)

 「イラク戦争に反対した愛国者も、イラク戦争を支持した愛国者も、私たちはみな、星条旗に忠誠を誓っています。私たちはみな、米合衆国を守っています」。(中略)

 「私は盲目的な楽観主義に与して話しているわけではありません。失業はいつかどこかに消えてなくなると楽観したり、問題を意図的に無視するつもりは私にはありません。医療の危機は、無視することによって、解決されるものではないでしょう。私が話していることは、そんなことではないのです。私が話しているのは、もっと実質的なことです。それは、火の回りに座り自由を歌う奴隷たちの希望であり、遠い国々へ旅に出る移民の希望であり、メコンデルタを勇敢にパトロールする若い海軍大尉の希望であり、不平等に屈服しない工場労働者の息子の希望であり、米国に自分の居場所があると信じるやせこけた奇妙な名前の子供(オバマ)の希望なのです。その希望とは、困難をものともせず、不確実性をものともしない希望です。希望がもたらす大胆さ(the audacity of hope!)を、私は、語りたいのです」。(中略)

 「私は信じています。われわれが中産階級に安心を与え、労働者階級に機会を与えられると。私は信じています。私たちが無職の人に仕事を与え、家のない人に家を与えることができると。暴力と絶望にある都市の若者を更生させることができると。私は信じています。私たちは正義の追い風を受け、この歴史の転換点に、正しい選択ができることを。そしてわれわれが直面する難題に立ち向かうことができることを」(
http://www.
americanrhetoric.com/speeches/convention2004/barackobama2004dnc.html)。

 以上がオバマを有名にした〇四年七月の演説の要旨である。貧富格差に苦しみ、正義がなくなりつつある米国を、自由・機会・繁栄という共通の価値観の下に、すべての人々に開かれた国にすべく、人々は連帯しようという、非常に分かりやすい言葉で語ったオバマの演説は、聴衆を驚喜させた。この「自由・機会・繁栄」というキーワードは、建国の理念であり、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の一九五一年の議会への年次報告でも用いられたように(Truman[1951])、多くの歴代大統領が繰り返し唱えてきたものである。


野崎日記(264) オバマ現象の解剖(9) オバマ現象(1)

2010-01-27 21:33:39 | 野崎日記(新しい世界秩序)



 第一章 オバマ現象が示したもの


 はじめに


 二〇〇八年の大統領選挙で沸き立ったバラク・オバマ(Barack Hussein Obama, Jr.)への米国人の熱狂的な支持は、「オバマ現象」(the Obama Phenomenon)と呼ばれている。『ニューヨーク・タイムズ』(New York Times)のコラミスト、ボブ・ハーバート(Bob Herbert)が使ってから、この言葉が定着したと思われる(Herbert[2008])。ハーバートは、歴史上例を見ないような「オバマ現象」(Obama Phenomenon)が起こっているとの興奮した記事を書き、「スーパー・チューズデー」(1)のオバマ人気の沸騰ぶりを伝えた。

 オバマ現象は、「自民党をぶっ潰す」と豪語して日本の若者と主婦を熱狂させた「小泉劇場」の米国版である。

 オバマは、現状に対する大衆の不平不満を非常に上手に自らの選挙キャンペーンに取り込んだ。二〇〇八年二月五日の「スーパー・チューズデー」での勝利によって勢いづいたオバマは、ヒラリー・クリントン(Hillary Rodham Clinton)との政治上の違いが明瞭ではないのに、若者を熱狂させる面では圧倒的にクリントとの差を見せつけた。

 『ロサンゼルス・タイムズ』(Los Angels Times)紙で、同紙コラムニストのローザ・ブルックス(Rosa Brooks)はオバマ現象を非常に高く評価した(Brooks[2008])。その要旨を以下に紹介する。

 オバマ陣営は、スーパー・チューズデーの二日前の日曜日に開催されたスーパー・ボール(2)の試合中継中に三〇秒ものテレビ・コマーシャルを流した。

 スーパー・ボールというスポーツ番組で、しかも、ビールを飲みながらテレビ中継を楽しむ茶の間に、硬派の政治スローガンが流されたのである。このこと自体が米国民の心理的変化を反映するものである。そこで流された「時代を変えよう」というスローガンは、以前の左翼陣営が常套手段としていたものであった。左翼が影響力を失っているなかにあって、リベラルとはいえ、間違いなく保守陣営に身を置くオバマが、左翼的言辞を使って、視聴者の心に訴えたのである。しかも、視聴者はそれに違和感を持たなかった。貧困の蔓延と環境破壊に抗議の声を挙げようと、そのコマーシャルは呼びかけた。視聴者の多くは活動家でもなんでもなく、広汎な層の米国民を包含するものであったのに、そのコマーシャルは受け入れられた。

 このことは大変なことである。それまでの負け犬的な民主党の姿勢を攻撃的なものに切り替える効果が、このコマーシャルにはあった。それは、周囲にすぐに同調してしまうこれまでの民主党の防衛的な「ミー・トゥイズム」(me-tooism)から積極攻勢に出る気迫を創り出すものであった。

 以上のように、ブルックスはオバマを絶賛したのである(3)。

 日本では、藤永茂がそのブログでこの言葉を早くから使っていた(「オバマ現象、アメリカの悲劇(一~四)」、http://app.blog.ocn.ne.jp/t/trackback/91124/7013941)。氏はいう。

 「ごく荒っぽく捉えれば、白人アメリカの『集団ナルシシズム』と表現できるかもしれません。(中略)白人アメリカが本当の自分の美しい姿を映していると信じ込んでいる鏡は、実は、悪魔がかざす魔の鏡であり、そこに映っているのはアメリカの本当の姿ではありません。(中略)『オバマ現象』は白人アメリカがバラク・オバマを待ちに待ったメシアとして熱狂的に迎えている現象ではなく、黒人の男をアメリカ合衆国大統領として擁立しようと熱心に努力する自分たちの姿こそ、アメリカ白人の心の正しさ、寛容さ、美しさを映すものであるとする自己陶酔、自己欺瞞こそが『オバマ現象』の真髄である-これが私の言いたい所なのです」(上記ブログ(一)のアップは、二〇〇八年二月二七日)。

 藤永はいう。

 「北アメリカに住むアングロサクソン白人の深層心理の中には、その暗い過去に北米大陸先住民とアフリカ系黒人に対して犯した重大な罪過の自覚が潜んでいて、それが時たま浮上して、無意識のうちに、彼等の個人的あるいは集団的行動を左右することがあるのはほぼ確かです。自分を善良な人間と思いたいという誰にもある思いに加えて、過去の罪過の償いをしたい気持、許しを乞いたい気持があるのでしょう。いまアメリカと世界を騒がせている「オバマ現象」の重大構成要素の一つはそれだと私は考えています」(上記ブログ(二)、〇八年三月五日)。

 事実、左翼的評論家として著名なバーバラ・エーレンライヒ(Barbara Ehrenreich)は、「とくに白人は、オバマに贖罪の意識を投影している」と書いた(Ehrenreich[2008])。

 『民衆の米帝国史』(Zinn[2008])の著者として著名なハワード・ジン(Howard Zinn)は、二〇〇六年の論文(Zinn[2006])で米国人の歴史感覚のなさを嘆いた。米国人は自国の歴史を知ろうとしない。建国の父たちの業績が学校で教えられるだけで、ありのままの歴史を知らない。そのせいで、

 「ずらりと並んだマイクロフォンの前で、大統領が『我が国が危ない、民主主義と自由の運命が賭けられている、だから、軍艦と飛行機を派遣して我々の新しい敵を壊滅しなければならない』と宣うたとき、我々には大統領を信用しない理由が見付からないのだ」。 

 
米国は、神によって特別に選ばれ、祝福された「自由と正義」の国であるという集団的幻想に取り憑かれているとジンは批判した。これはありもしなかった「大量破壊兵器」を理由にイラクを叩きつぶした米国の為政者を批判できなかった米国人の心理状態を糾弾する論文であった。

 藤永はいう。

 「ハワード・ジンが指摘する通り、アメリカという荒れ馬にはblinders が装着されているのです」。

 「バラク・オバマは、道を踏み外した今のアメリカを本当のアメリカ−そんなものは存在しない−に回復する救世主ではなく、アメリカを最終的に地獄の底に引きずり落とすべく、アフリカの地からやってきたアフリカ五百年の怨念の化身であるのかもしれない」(上記ブログ(四)、二〇〇八年三月一九日)。


 オバマが、有力な大統領候補者として米国の民主党員に意識されたのは、〇四年七月二七日にボストンで開催された民主党全国大会(Democratic National Convention)での鮮烈なデビューからであった。このときの演説(Keynote Address)は「希望がもたらす大胆さ」(The Audacity of Hope)という題であったが、この演説は、確かに、人の心を鷲掴みする見事なものであった(4)(Obama[2006]。

 貧困層救済の草の根社会活動をする人権派弁護士として頭角を現していたオバマは、この演説で、自らの生い立ちに触れながら、理想の米国の実現を訴えた。演説では、「米国という国家が素晴らしいのは、摩天楼の高さや、軍隊の強さや、経済の大きさにあるのではなく、『すべての人間には、平等で自由と幸福を追求する権利がある』という建国の精神に我々が誇りの基礎を置いていることにある」とし、職の海外流出や、最低賃金、健康保険、教育費など、格差が広がる米国社会で特に中流階級以下の人々が直面している問題の解決を掲げた。この演説で大成功を収め、一躍有名になったオバマは、〇四年一一月の上院議員選挙でイリノイの選挙史上に残る七〇%の得票を得て圧勝した。

 オバマの強さは、貧富、人種、イデオロギーの違い超えてあらゆる層から支持を集められる点にあると『USAトゥデー』(USA TODAY)は指摘した(Kiely[2006])。同紙は次のようにオバマを表した。オバマの元コミュニティー・オーガナイザーの経験が貧困層の人々を引き付け、ハーバード出身で「ハーバード・ロー・レビュー」(Harvard Law Review) 編集者という輝かしいエリートとしての経歴が企業家たちを安心させたと。

 億万長者の投資家、ウォーレン・バフェット(Wallen Buffett)は、オバマの政治団体に、「私が生きているうちに、早く大統領に立候補してくれないか」と持ちかけたという(http://www.wjwn.org/activities/naganuma/mypage/archive06_13.html)。

 オバマの力量の大きさは、多くの賞賛を得ていることからも明らかであるが、はたして、分裂含みの米国民を再統一するという米国民の希望だけで、オバマが大統領に押し上げられたのであろうか。上院議員一期目という新人、しかも任期六年のうち、後二年も残していきなり大統領に選ばれた背景には、なにがあるのかが問われるべきである。米国発の世界金融危機を引き起こしたのに、ウォール街のCEOが、いまだに、誰ひとりとして責任を問われていないという点に、オバマ現象を読み解く鍵があると思われる(Andersen[2009])。オバマ現象にはウォール街の仕掛け人がいた。それがロバート・ルービン(Robert Rubin)であった。

 そうしたことを明らかにする前に、オバマ現象の発端になった〇四年七月の民主党全国大会におけるオバマの演説を見ておこう。


野崎日記(263) オバマ現象の解剖(8) インペリウム(8)

2010-01-16 01:24:17 | 野崎日記(新しい世界秩序)

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野崎日記(262) オバマ現象の解剖(7) インペリウム(7)

2010-01-15 01:18:48 | 野崎日記(新しい世界秩序)


  おわりに


 カトリーナの惨事には奇妙なことがいくつもあった。ニューオリンズの被災者たちを助けようとする外部からの救援隊をFEMA(米連邦緊急事態管理局=Federal Emergency Management Agency)が阻止した。カナダのバンクーバー市が救援機を送り込もうとしたが、米国内に入ることを米国から拒否された。鉄道会社のアムトラック(Amtrak)が用意した避難用の列車も、被災地に入ることをFEMAによって阻止された。ハリケーン上陸四日前の八月二五日からルイジアナ州は、連邦政府に支援を要請していたが、実際にFEMAが動き出したのは、ハリケーン上陸の五時間後であった。そして、救援物資が届いたのはその四日後であった。そして、ブッシュは九月二日、ルイジアナ州知事のキャサリン・ブランコに対して、州兵に対する指揮権を大統領に渡せと迫った。ルイジアナ州知事とニューオリンズ市長はいずれも民主党員であった。有事には指揮権は州政府から連邦政府に移すというのがブッシュ政官の方針であったと思われる。

 ハリケーンの被災者は棄てられたのである。ブッシュの州政府支配欲の犠牲になって。そして、二〇〇五年九月二四日、イラクからの撤退を求める一〇万人の集会がワシントンで開かれた。プラカードには、イラクよりもハリケーン対策に出費すべきであるとの主張が数多く掲げられた(『日本経済新聞』、二〇〇五年九月二六日付)。このできごとが世界の流れを変える潮目であった。

 オバマ政権になって、イラクは荒廃したまま放置され、アフガニスタン戦争の泥沼にますます米国ははまり込んでしまった。にもかかわらず、戦争をも糧にした巨大金融機関が新興市場に侵入し、カネの強欲を世界各地で生み出している。

 注

(1) キリスト教世界では、四世紀頃から人間を堕落させる大罪についての議論が続いていた。大罪を七つに限定したのは、六世紀後半のグレゴリウス一世(Gregorius I、五四〇?~六〇四年)である。「傲慢」(Superbia)、「嫉妬」(Invidia)、「憤怒」(Ira)、「怠惰」(Acedia)、「強欲」(Avaritia)、「暴食」(Gula)、「色欲」(Luxuria)がそれである。また、キリスト教の正式の教義ではないが、民衆の間ではそれぞれの大罪に悪魔が配置されるようになった。傲慢には「ルシファー」(Lucifer)、嫉妬には「レヴィアタン」(Leviathan)、憤怒には「サタン」(Satan)、怠惰には「ベルフェゴール」(Belphegor)、強欲には「マモン」(Mammon)、暴食には「ベルゼブブ」(Beelzebub)、色欲には「アスモデウス」(Asmodeus)である(小林珍雄[一九六〇])。

(2)  人工雨を降らせるように、人工的な仕組みの下で大金を稼ぐ弁護士を意味している。もともとは、米国の小説家、ジョン・グリシャム(John Grisham)の小説, The Rainmakerからとられた言葉(Grisham[1995])。この小説は、一九九七年にフランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)監督によって映画化された。

 弁護士志望の青年ルーディ・ベイラーが苦労の末、悪徳弁護士のブルーザー・ストーンに雇われたが弁護士事務所の闇の世界に苦しむ。彼の初仕事は、白血病の子供のダニー・レイ対し、支払いを拒否している悪徳保険会社グレート・ベネフィット社を、その母ドット・ブラックに訴えさせたこと。示談を狙う会社側に対して、初めての法廷だけにルーディは苦戦。同僚の裏切り、人妻のケリーによる夫の殺人事件に巻き込まれたり、会社側の老獪な弁護士に翻弄されたりしたり、様々なサスペンスが盛り込まれて娯楽小説風に物語は展開する。裏切った同僚に隠されていた証人を探し出して逆転。陪審員が会社に有罪と多額の賠償金の支払いを宣告した。結局、社は直後に破産申告、賠償金は支払われなかったが、裁判には勝った。ルーディは司法関係の教育者になろうと進路変更を決め、正当防衛が認められて釈放された夫殺しのケリーと新たな人生を迎えるというあらすじである。

(3) ヘアの脚本による『同意させる権力』(The Power of Yes)が、二〇〇九年六月一七日にロンドンのナショナル・シアター(National Theatre)で上演され、大変な人気を博した。これは、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(Royal Bank of Scotland)の前会長、フレッド・グッドウイン(Fred Goodwin)の強欲さと公的資金を引き出す力を説明し、周辺の人脈を実名を挙げて糾弾したものである(http://www.nationaltheatre.org.uk/50093/productions/the-power-of-yes.html)。ヘアは現代社会の闇を告発できる最高のジャーナリストであるとの評判を英国でとっている(Billen[2009])。

(4) FSAは、預金や保険、株式など、ホールセールからリテールまでのすべての金融サービス業務を監督する英国の機関である。二〇〇〇年の金融サービス市場法(Financial Services and Markets Act 2000)に基づいて二〇〇一年に設置された民間組織である。監督対象は三万社と超える。調査や制裁などの面で強い権限を持つ。中央銀行であるイングランド銀行が持っていた銀行の監督機能やロンドン証券取引所の上場審査機能もFSAに移された。CEOなどトップの任命権は英大蔵省にあるが、運営費は規制対象である金融機関が負担している。関連する組織として、金融機関と投資家の紛争の仲裁を担当する金融サービス・オンブズマン制度などがある。伝統的に英金融街のシティは「業界自治」を尊重しており、FSA設立までは業界ごとの自主規制機関が大きな役割をはたしていた(『日本経済新聞』二〇〇四年一一月一〇日付、『日経金融新聞』二〇〇五年二月一六日付「ミニ辞典」)。

(5) そうした積極性の存在にもかかわらず、ネグリ&ハートの「帝国」論は、眼前で進行している米国の、あまりにも傲慢な世界秩序破壊に対して一顧だにしてない。このことは、彼らの「帝国」論が学問上の堕落だとの厳しい批判にさらされることになるのも当然であろう。ネグリ&ハートの弱点を克服するには、「インペリウム」概念の歴史的変容を確かめることであろう。馬場宏二は、彼らの「帝国」論は、「アメリカのヒステリー的破壊行動を」説明しようとせず、「歴史的構図がまるでピンボケ」である。こうした「呑気な帝国論」は、「自立的認識としての社会科学がなによりも警戒すべきで思想的俗化」であると酷評した(馬場[二〇〇四])。

(6) スミスは、古代ギリシャの植民地がは独立性を保証されていたのに、古代ローマ帝国の植民地がローマの支配下に編入されていたことを示す証左として、植民地の名称の差を挙げている。彼は、ギリシャ語の植民地が"apoichia"(分家、出立)、ラテン語のそれが"colonia"(栽培地、入植地)となっていることに注意を喚起している(Smith[1976], 邦訳、第Ⅱ巻、二九〇ページ)。

(7) 畠中訳では「架空論」(キマイラ)となっている。日本では、キマイラともキメラとも表記されている。欧文でも、"chimera"、"chimaera"、"khimaira"と、表記は確定されていない。キメラとは、ギリシャ神話に出てくる空想の動物で、ライオンの頭・ヤギの胴・ヘビの尾を持ち火を吐く雌山羊の怪物である(http://hp.vector.co.jp/authors/VA024828/Words/frameWords_main.html)。

(8) 米国では、平時には軍人の訓練をしないことで文民優位を確保していた。文民である国防長官の権力を高めることが文民統制(control)の強化になると理解されていた。しかし、それがいきすぎた。ラムズフェルド国防長官時代は、「統制」が「インペリウム」に転じ、国防長官があたかもかつて存在していた「戦争長官」であるかのごとく、軍事指令権を世界に向かって行使するようになった(村井「二〇〇五」、二二三ページ)。

 「ロバート・マクナマラのペンタゴン以来、文民当局がこれほど深く戦闘の指令に食い込んだことはなかった」(Time, December 29, 2003, p. 74)、「二〇〇三年、ドナルド・ハロルド・ラムズフェルド、七一歳が、戦争の代名詞だった。彼が戦争を計画し、売り込み、いまだ片付いていない戦後の情景の中をふんぞり返って歩き回った。・・・彼の権力は絶対の域に達し、ホワイトハウス高官の中で彼を御することができる人はいるのかと危惧されている」(ibid., p. 73)。

 ちなみに、戦争長官は、いまは存在していない。米国の建国当初、国防省はまだなく、「戦争省」(War Department)のみがあり、その長官が「戦争長官」(Secretary of War)であった。その後、海軍省、空軍省が新設され、三省は一九五七年に統合されて国防総省になった。一九四九年、戦争省は陸軍省となり、戦争長官は廃止され、陸・海・空の三つの省の長官は、閣僚ではなく、国防長官の指揮下に入れられた。国防省は、国防総省と呼ばれることが多いが、三つの省を統合して国防省ができた経緯からそう呼ばれたのである(村井[二〇〇五]、二〇三ページ)。

(9) サンキュロット(sans-culotte)とは「キュロット」(culotte=半ズボン)を持たない人の意味。フランス革命当時、議会の外で激しい運動を展開した民衆のことを指す。当時、キュロットは帰属やブルジョアが着用するものであったが、武装蜂起した民衆は、仕事着のパンタロンをはいていたので、そう呼ばれた(広辞苑)。


野崎日記(261) オバマ現象の解剖(6) インペリウム(6)

2010-01-14 01:02:26 | 野崎日記(新しい世界秩序)


五 マルチチュードの可能性


 一七八九年のフランス革命時、武装したサンキュロット(sans-culotte)人民大衆がフランス全国で放棄した(9)。彼らは、農村においては近代的土地所有に反対し、都市では資本主義の浸透に反対する職人、小商人たちであった。つまり、近代以前のコミュニティを防衛しようとしたのが彼らであった。そして、国民議会に、なおも、しがみついていたブルジョア自由主義者が彼らに貼り付けた言葉が「コミュニスト」であった。この言葉は、反近代主義・反資本主義の共同体主義者であるという嫌悪と軽蔑を込めたレッテルであった(岩田[二〇〇三]、一三六ページ)。

 つまり、コミュニストは、もともと、共産主義者を指す用語ではなく、近代化に反対するコンミューン運動に携わる人々を指すものであった。その意味では、イランで生じたイスラム革命は、れっきとしたコンミューン革命であった。それは、パーレビ国王( Mohammad Rezā Shāh Pahlavi)による石油キャピタリズムに抗したイスラムの反近代的コンミューン革命であった。そして、シリア、イラクのバース党軍部社会主義は、イスラム・コンミューン革命に対する最大の防衛堤であった。ブッシュ政権は、このせっかくの防衛堤を破壊してしまったのである。現在では、イスラム・コミュニズムに対抗するユダヤ・コミュニズム、ヒンズー・コミュニズムがある。こうしたコンミューン相互の闘争が歴史を動かしている(同、一三九ページ)。

 岩田[二〇〇三]は、しかし、人間が、ますますコンミューン的繋がりを失っていくと述べる。

 岩田によれば、現代社会は、デジタル革命の急激な進行によって、従来の部品内製化を基本とする垂直統合型巨大企業が一挙に奈落に叩き込まれてしまったことを特徴としている。デジタル革命とは〇と一の数値ですべての生産方式を接合してしまうことである。それは、三層のコミニュケーション構造からなる。まず、〇と一の文字、この文字が組み合わされて単語となる。そして、相互の単語が集合して文になる。この文が多様な製品の接合を可能とさせるのである。この接合によって、現在の生産体系は、分散・並列・ネットワーク型グローバル・システムに転化した。そして、コンテナ貨物の集積地である中国・香港・台湾がグローバル生産システムの集積基地として浮上してきた。韓国経済や華僑経済はこのネットワークに引き寄せられている(同、一四四~四五ページ)。

 世界の産業がますますこの方向に進むとすれば、古典的な労働者階級は、政治運動としての役割をはたせなくなるだろう。デジタル化に必要な専門家は一部の専門家だけでよく、圧倒的多数の労働者は機具を操作するだけである。定時制労働者(パートタイマー)の数が、全日制労働者(正規社員)を上回るようになるのも時間の問題であろう。しかも、専門家自体がノマドのように企業間を渡り歩くのである。岩田のこの視点は、さすが、かつて『世界資本主義』で一世を風靡した人のもので、貴重である。

 実際、社会を変革しようとするさい、重要なことは、現在進行している権力が、自身を爆破してしまうエネルギーを持つ対抗勢力を、期せずして生み出してしまうという論理を理解することである。その意味では、グローバル資本主義が、それこそ、グローバルな規模で、人間としての再生産を困難にしているという事実を重視することから、変革の論理は組み立てられなければならないであろう。

 生命を危うくさせる権力、つまり、頻繁に使われる概念である「生・権力」(bio-pouvoir)に対抗し得る「生・反権力」の姿がどのようなものかを確定する作業が必要となる。

 近年、これもまた流行語になった「マルチチュード」という用語は、そうした反権力のありかを探ろうとする営為の産物である。

 ネグリとハートは、マルチチュードを「群衆─多数性」の意味に使い、スピノザからその概念を借用したとされているが、少なくとも、私には、上述のように、彼らのマルチチュード論は、スピノザの深読みであって、オリジナルのスピノザには明示的にネグリの解釈を証左する個所はないとしか思われない。にもかかわらず、「国民」や「労働者階級」の範疇に組み入れられない層、そして、労働運動や組織的反権力運動からこぼれ落ちていて、しかも、生命の危機にさらされている一群の人々の中に醸し出されつつある抵抗のエネルギーを表現しようとするには、マルチチュードという言葉は便利である。各地で発生する抵抗運動が、国境を越えて結びつくようになった現在の多様な抵抗運動こそ、マルチチュードの形成であるといえるだろう。その意味で、ネグリ&ハート流のマルチチュード論は有益である。マルチチュードとは、いかなる地理上の力の中心も持たず、いかなる固定された境界線や障壁にも依存しない存在であり、その抵抗運動は、全地球上の領域を、開かれた拡張し続ける自らの協会の内部に統合していく。

 そのさい、スピノザの集団的力能の向上とか、人々が抱く「表象知」(imaginatio)という発想は受け継がれても良い。個々の抵抗よりもマルチチュードとしての抵抗の方が運動の質を向上させるからである。神の命令に盲従するのではなく、人間の内在的な力を高めるというスピノザを生かすことも可能である。しかし、そうした集団的力能、内在的力能、人間の持つ崇高な形質までもが、資本によって利用されているのが、現在の新しい生産システムである。浅野俊哉はいう。

 「資本主義は、今世紀に入って新たな価値増殖の手段にシフトしたのであって、それは、人間の身体と知性そのものを対象にし、それを自らに都合の良い形で支配し管理して、そこから直接的に価値を得るという方法であった。財ばかりでなく知識と情動、それぞれの生産と流通と消費という側面について、人間身体と知性の能力は、資本にとって最も効率の良い搾取形態に近づくよう極限までコントロールされ、訓育されていく。人々の想像力・創造力は極小にまで縮減され、身体の能力は資本側にとっての高性能な利潤創出マシンのレベルにまで貶められる」(浅野[二〇〇一]、九二ページ)。

 人間の尊厳までも搾取されるようになったいま、まったく別の生産と生活のシステムを社会の至るところで構築していく作業が大事になる。

 マルチチュードを定義することは難しい。しかし、次のような人々は、れっきとしたマルチチュードである。かつては、祖国で弾圧されている人々は外国に逃げようにも、外国で生きていくことは困難であった。しかし、いまでは、多様な生活が可能になり、国境を越えることのできる多様な人たちが生まれている。こういう人たちを特定の概念で括ることは難しい。かつて、日本の官憲の弾圧を逃れて米国西海岸に脱出したが、そこで人種差別に会い、今度は労働者の祖国のソ連に逃れるが、その地でも、日本人であるがゆえに、処刑された人々がいた。

  しかし、いまでは、祖国から脱出しても、人々は、生きていける。そういう人たちが確実に増えている。古典的な労働者階級と並んで、祖国から逃げてきた人々は新しい人類愛の連帯を作り上げる可能性を持つ。脱出してきた人々と共に歩む社会を私は「マルチチュード社会」と表現したい。戦火で苦しむ膨大な数の難民をどうすれば救出できるのか。祖国を逃れてきた難民を地域に吸収するにはどうしたらいいのか。米国が推し進めてきた戦争が、結果的に、難民の市民化という歴史的課題に私たちを直面させ、その文脈で国連が語られるようになると私は思っている。先述のデジタル化時代で輩出されるノマドと並んで、新しいマルチチュードが世界各地で形成されつつある。

 ハリケーン「カトリーナ」(Katrina)が米国南部に惨状をもたらした二〇〇五年八月二九日以来、米国民の世論は大きく変わった。国内対策も充分にできないのなら、海外の問題に膨大な資金と人員を投入するのは止めるべきであるとの意見が日増しに強くなっている(Hoagland[2005])。

 米国は、党派の区別とは別に、国際問題に対する介入主義と国際問題からの孤立主義が併存してきた国であるが、ハリケーン以降、孤立主義の声が日増しに高くなっている(Lobe, Jim,"Will Katrina Bring an Isolationist Revival?," http://www.antiwar.com/lobe/?articleid=7260)。

 カトリーナ被害に対する連邦政府の復旧予算が、二〇〇〇億ドル計上された。これは、一九九四年のカリフォルニア大地震の復旧費一五二億ドルに比べれば破格の多さで史上最大の額とされている(田中宇「アメリカ『カトリーナ後』の孤立主義と自滅主義」、http://tanakanews.com/f0918katrina.htm)。一方で、米国政府は、翌年度予算から対外援助を減額した(Pisik[2005])。

 こうした米国の孤立主義の台頭を予測する観測がある反面、むしろ、米国が国際社会との折り合いを、ハリケーン被害から模索するようになったとの逆の観測もある。二〇〇五年九月一四日の国連首脳会議における演説で、ブッシュは、ガボン大統領のオマール・ボンゴ(Omar Bongo)、スウェーデン首相のゴラン・パーソン(Goran Persson)のお見舞いの言葉に素直に謝意を述べ、米国国連大使のジョン・ボルトン(John Robert Bolton Ⅲ)がMDGs(ミレニアム開発目標=Millennium Development Goals)にことごとく反対していたのに、この目標が達成されることを望むとも発言した。こうしたブッシュの低姿勢から『ニューズウィーク』(Newsweek)誌は、ブッシュが国連外交に復帰したと報じた(Wolffe & Bailey[2005])。

 しかし、米国がますます国際的な孤立を深めつつあることは否めない事実である。米国民の八〇%がイラクからの撤退を望んでいるとの世論調査もすでに二〇〇五年時点で出されていた(Thee[2005])。

 ブッシュ政権は、米軍撤退後のイラクへのイランの影響力が強くなることを危惧して、イラン包囲網を形成しようと試みた。しかし、実際には、中国、ロシア、インド、ベネズエラが、こぞってイラン制裁反対の演説を国連の場で展開した。しかも、世界の石油利権は、ロシアと中国との急接近によって、かなり、「非米同盟」諸国にシフトした。このような情勢下では、米軍撤退後のイラクが「非米同盟」諸国陣営に与する可能性もゼロではないと思われる。