消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.108 駆け抜けた今村仁司氏

2007-05-14 21:06:39 | 彼方へ(福井日記)

 平成19年5月5日、今村仁司氏が彼方に逝ってしまった。
 圧倒的な存在感のある人だった。怖ろしい人だった。

 私たちは、昭和36年に大学のE1クラスで机を並べた。当時のクラス分けは第2語学で行われていた。E1は、ドイツ語クラスであった。彼がフランス思想を書くようになったとき、いつの間にフランス語をマスターしたのだと驚嘆したことを覚えている。

 大学の受験勉強をほとんどせず、哲学・宗教書ばかりを読んで大学にきた私は、いささか、思想史面で自負があった。しかし、それは井の中の蛙であったことを思い知らせてくれたのが彼であった。

 というよりも、入学後1か月にして私は強いノイローゼに陥った。彼のすごさの前で、いかに自分が無知であるかを自覚せざるをえなかった。彼の語る思想のすべてに新鮮さがあった。生まれて初めて天才に出会った。衝撃であった。

 あらゆる学生運動のセクトが鎬(しのぎ)を削っていた頃である。ある新左翼の政治組織が分裂し、激しい論争が交わされていた。まだ忌まわしい相互のゲバルトはなかった。彼は一方の論客であった。卒業後も、経済学部の自治会である同好会は、彼を教祖のように敬っていた。



 私は、いつも、白川真澄氏とクラスの自治委員を争った。白川氏の方が闘士で、私よりはるかに政治思想で先んじていたにもかかわらず、なぜか私がいつもクラス委員をしていた。

 
 白川氏と言えば、まだ1回生でありながら、第4教室でガガーリンと握手をするほどの大物であった。



 恥ずかしながら、私は白川氏から毛沢東を学んだ。私が、いまだに白川氏に頭が上がらないのは、彼が政治思想面で私の師匠であったからである。ある党を離党し、いまなお地道な活動を続けている白川氏を私は心から尊敬している。

 クラスのメンバーをデモに動員すべくアジ演説をする私に対して、ニターと笑う今村氏の皮肉な眼差しを私はいつも気にしていた。「嫌な奴だな」と思いながら、真っ向から議論を吹きかけることなど私にはできなかった。

 彼は、すでにそびえ立つ高山であった。私が、思想や理論を脇に置き、ひたすら現状をえぐり出すことを自らの課題にするようになったのは、ただひとえに今村氏から受けた恐怖心からである。



 最近、いいだもも氏が、畢生の大著『主体性の世界遍歴』を出されたが、なんと今村氏がいいだ氏のモチーフを形成しているように思われる。

 
私が現在もっとも尊敬しているいいだ氏の心を今村氏が捕らえている。当然だとは思いながらも、いささか悔しかった。やはり今村は天才なのだなと納得するしかなかった。

 学部・大学院を通じて、キャンパスには女性はほとんどいなかった。私など9年間を通じて、キャンパスで女子学生と話す機会についに恵まれなかった。

 ところが、大学院に進んだ頃、彼がキャンパス内で、目が覚めるような、とてつもない美女と親しそうに話しながら私の前を歩いているではないか。私と目が合うと、彼は、またあの嫌なニターを浮かべ、「婚約者」だというではないか。

 思想面で負け、女性面でも負けたのかと本当にショックだった。

 後に奥様になるその女性は、高校の同級生で、東大を卒業後、文部省のエリート官僚としてわが大学の時計台官僚に赴任してきたという。大学院生の分際で、奥様を近くに転勤させるとは。悔しかった。その時の奥様は淡いピンクのブラウスに紫のフレアスカートを召されていた。あの時の光景がいまだに脳裏から離れない。



 私たちは、出口勇蔵先生のゼミでヘーゲルの『エンチクロペディア』をひげ文字で読まされていた。

 
深刻な顔をして意見を述べる今村氏と、あの美女をかしずかせていた今村氏とが、どうしても重ならなかった。ただ、ヘーゲルを読むのがそれ以来楽しくなった。なぜかいまでもその理由は分からない。



 彼は、マルクス主義者ではなかった。でも、マルクスを、意に反して、語らざるをえない世の中になった。嬉しかった。マルクスおよびマルクス主義者を揶揄することが流行しているこの忌まわしい思想情況に、彼が満身の力で抗議してくれていた。

 ジョン・デンバーをさらに漫画ティックにした風貌であった。愛嬌のある風貌からあの鋭い論理が機関銃のごとく発射されていた。 

 生き急いだ今村仁司であった。疾走しすぎた。立ち止まってもよかったはずなのに。

福井日記 No.102 天津国に駆け上った木村誠志

2007-05-02 01:43:35 | 彼方へ(福井日記)


 平成19年4月25日(水)午後1時半、木村誠志(きむら・せいし)氏が慌ただしく天国に旅立つた。脳内出血であった。享年(数え年表記)38歳。4月27日、福島で行われたお別れ会には100名も集まったという。氏の逝去を悼む記事がウエブ・サイトに数多く載っている。

 死は、神が我々に除けておいてくれた最大のプレゼントである。死という永遠の安らぎがあるからこそ、我々は、この忌まわしい世を生きていける。「しんどかったなァー」と大きく息をはいて永遠の眠りにつく。残された愛する人たちに、「ごめんね」と謝って。死は、本人にとっては、最後のやすらぎであるが、レフトビハインドの人たちにとっては、とてつもなく悲しいことである。でも、「休ませてあげよう」と思わざるをえない。ただし、せめて、心の準備を、残された人たち(レフトビハインド)にさせる時間的余裕が欲しかった。木村氏は、あまりにも脱兎のごとく、天津国に駆け上ってしまった。

 「良い奴だからよろしく」。松永達(まつなが・たつし)氏が、電話で頼んできたのは、数年前のことであった。彼のポスト・ドクターの指導教官になってやってくれとの依頼であった。

  ケンブリッジで一緒だったが、本当に良い奴なので、引き受けてくれとの電話であった。引き受けた。

  本当に良い奴だった。人を惹きつけてやまない笑顔。車椅子が不自然ではない、体の一部になっていた。

 
無事、学振PDに採用され、律儀にゼミ参加してくれた。神戸・六甲のカトリック教会での結婚式に招待された。件の松永氏と江頭(えがしら)氏が出席されていた。そのとき、初めて奥様を拝見した。奥様は、間もなく、京大のCOEの事務担当として、私たちのお世話をいただいた。不謹慎にも「とんでもない美人だ」と感嘆した。

 福島大学で教鞭を執ってまだ日も浅いのに、いつの間にか、多くの知己を得ていた。人が育つのは、人脈の豊富さによる。どんなに秀才でも、孤独の生活からは、大物にはならない。必ず、周囲に俊秀が集う人が大きく育つ。木村氏はそうした私の独断に沿う人であった。

 25日の11時半、妹尾裕彦(せお・やすひこ)氏から訃報を伝える電話があった。毎朝3時に起きて仕事をする習慣の私には、寝入りばなであった。寝ぼけていたので、事態の重さを瞬時には理解できなかった。翌日、大学で松永氏からのメールを受け取った。

  私の知り合いでは、妹尾、松永、  江頭、  広瀬(ひろせ)、  澤邉(さわべ)、 中島(なかしま)の各氏がお別れ会に出席されたという。

 
かくいう私は、当日、ある高校の社会科の先生方に話をしなければならなかったので、出席できなかった。前進化経済学会会長の塩沢由典(しおざわ・よしのり)氏が ホームページでお悔やみを書いた。共同通信が訃報を伝えた。

 木村氏は、小島清理論と、価値連鎖論とを結びつける努力をしていたと、千葉大学教育学部の妹尾氏が報告している。残念ながら、私は、そのことを知らなかった。

 
つい最近、尹春志(ゆん・ちゅんじ)氏の博士論文審査を終えたばかりである。氏の論文は、Japan and East Asian Integration: Myth of Flying Geese, Production Networks, and Regionalismで、小島理論と価値連鎖論を結びつけたものである。なんと、私の近くにいる人たちが、同じテーマを互いに知らないまま追っていたとは。

 木村氏の業績については、福島大学経済経営学類・大学院経営学研究科データべースで詳しい。さらに、妹尾氏が学会報告をも含めた業績一覧を作成中である。こんな短期間に、膨大な業績一覧を作成しえた妹尾氏の力量には感服する(http://home.att.ne.jp/theta/eurospace/kimura/index.html)。

 主著は、The Challenges of Late Industrialization: The Global Economy and the Japanese Commercial Aircraft Industry, Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007, Februaryである。

 木村氏は、勤務先のホームページで、研究テーマを次のように説明している。

 「各種産業が急速にグローバル化するなかで、後発企業はいかにして企業発展を図るのか。また、後発企業発展を実現するには、どのような経営戦略や制度、環境、産業政策が有効なのか。このような問題意識のもと、私の研究は、グローバル産業における後発企業発展モデルの構築を目的としている」。

 福島大学では、「国際経営論」を担当されていた。
 氏の人間的成熟とともに、企業のなかの「人」の研究に進まれるはずであった。企業研究だけで終わるはずのない人であった。