消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 61 京福電鉄事故

2007-01-31 23:57:04 | 路(みち)(福井日記)
 ある出版社の女性編集者から、福井のことを、津村節子さんが愛情をもった筆致で描いていますよと、教えられ、早速、津村の『似ない者夫婦』(河出書房新社、2003年)を手にとった。福井をどういう眼で観察しているのかの興味に惹かれて読んだ。

 津村節子は、1928年福井に生まれ、1965年『玩具』で芥川賞を取り、先日亡くなった吉村昭の伴侶であった。

 『似ない者夫婦』(!?ー私の感想)の中の「私のルーツ」(!!!ー私の感想)に「福井の織物」がある。これは、私が日頃感じていることと同じである。

 「福井の織物」というタイトルであるが、内容は京福電鉄の、あの痛ましい事故のことである。



 
京福電鉄は、京都の人には馴染みの深い叡電と嵐電の関連会社であった。
「あった」というのは、いまでは、
越前鉄道(エチテツ)という第三セクターになっているからである。私は、福井駅に出るのに、いつもこの電車を使っている。

 それに、永平寺町・坂井市のバスはすべて京福バスである。
 これも、京都では、赤バスとして大原や比叡山に通じる郊外バスとして京都の人達に親しまれている。私の場合、とくに愛着が深くて、大事な私の若い後輩のご父君がこのバスの運転手をしておられて、大原の風景をよくその後輩から聞かされていた。下宿のある松岡で、京都で見慣れた赤バスが、けなげに走る光景は、棄てたものではない。ただし、一日、数本しか走ってくれない。

 2000年12月17日、「本来なら東古市駅’いまの永平寺口ー私)が終点となる永平寺発の電車が、同駅を通過して、そのまま越前本線に乗り入れ、反対方向から来た福井発電車と正面衝突したのである」。「原因は、電車の制動力を車輪に伝える主ロッドが破断していたのだという(???-私の感想)。赤字のため老朽化した車輌を、十分と言えない安全装置のまま運行していたのである。東古市駅は、勝山方面と永平寺方面に分かれる分岐点である(???ー私の感想)」。

 かに、大変な悲劇であった。これを契機として、この鉄道の永平寺線が廃止された。

 
ずっと以前は、越前本線は勝山を超えて、遠く大野まで伸びていた。永平寺線も東古市を超えて丸岡まで伸びていた。それが、いまでは、勝山が終点、そして、丸岡線は廃止になっている。もったいない。越前平野を環状に被うこの鉄道がいまでもあれば、福井の産業はこうも衰退しなかったであろうに。

 「福井県人は勤勉で、共働き率が高い。大野、勝山からお手伝いさんが引き続き来てくれているが(!!ー私の感想)、彼女らは全く無駄遣いせず、貯めたお金でまっ先に買うのは車である。各家の家族たちは一台ずつ車をもっていて、一家に五台もある家も少なくない。車が増えれば、電車に乗る人は少なくなる。利用者は通学の学生か、病院へ行く老人ぐらいにしぼられている。ダイヤは間引かれ、車輌も一輌になり、無人駅が増え、人員削減も行われ、福井ー東古市間に路線を縮小したいという申し入れも会社から出されるようになった。沿線の自治体は、”乗る運動”を展開し、恐竜エキスポの効果もあって、下げ止まりの傾向が見えてきた矢先であった。この度の事故が、京福電鉄にどういう効果をもたらすか、祈るような気持ちである」。

 本当にそうである。せめて、わが県立大学福井大学医学部が学生と教職員の自動車通学・通勤を禁止し、その代わりにバス・電車の増車を懇願して見るべきではないのか。それか、神戸や富山のような新しい交通システムを開発すべきではないのか。

 福井県は家族当たり自動車保有率日本一などを自慢している場合ではない。

 
融雪の水道水の噴射で全身ずぶぬれになる私のような歩行者は、水しぶきあげて平気で疾走する車が地獄の使者に見えて、忌々しくなる。公共交通システムの整備がないかぎり、福井は産業はおろか、人間のコミュニケーション能力を際限なく低カさせるであろう。

 一人、車で大学に来て、また人と会話することもなく、ノン・アルコールでまた一人、家路に車で帰る生活から他者が心に住みつく環境は生じないであろう。このまま行けば、我が大学の学生諸君は、いつかは、無感動、無表情の表情になりかねない。なんとかしなければ大変なことになる。打倒!車社会。


 福井の車社会の悪口をもうひとつ。ねずみ取りがないのか、とてつもなく、猛スピードで車が走り、車間距離も取らず、嫌みで接近してくる。最低の交通マナーである。携帯、くわえタバコ、片手運転。女の子まで!ライトはアップ、信号で止まってもライトを消さない。本当に嫌になる。

本山美彦 福井日記 45 松岡火薬製造所跡

2006-11-09 23:26:55 | 路(みち)(福井日記)
 幕末の天保から弘化・嘉永にかけて、英・仏・露・米などの欧米列強が、日本沿岸にしきりに艦船を出没させていた。アヘン戦争が勃発し、天保13年南京条約によって、清国が強力な英軍の近代兵器の前に屈服させられた経緯は、いち早く福井へも伝えられた。そのため城下の蘭方医笠原白翁が、嘉永3年正月13日付で大坂の蘭学者緒方洪庵に宛てた書状(笠原家文書)の中に、「此節忌むべき、嫌ふべき、悪むべき、罵しるべき英夷」と記して、そうした英国に対する憎悪をむき出しにしたように、心ある人々は武力を背景とした欧米の野心を洞察して、警戒心を高めていた。

 福井藩は、弘化四年春、砲術師範西尾源太左衛門父子を江戸の高島流砲術家下曽根金三郎に入門させ、洋式砲術と銃陣調練の研究に当たらせた。また、翌嘉永元年8月には三国の富商三国与五郎の献金を得て、江戸から洋式大砲鋳師安五郎を招き、三国道実島の鋳物師浅田新右衛門の工場で、西洋砲13寸カルロンナーデ、15寸ホーウイッスル、15寸モルチールなどを製造し、その技術を新右衛門に習得させる。これが、福井藩における洋式砲術の導入と洋式砲鋳造の発端であり、全国諸藩に比して極めて早かった。



 嘉永6年には洋式小銃の製造も着手される。この年9月、江戸霊岸嶋藩邸内に鉄砲師松屋斧太郎を招き、ゲベール銃の製作を命じ、翌安政元年には、福井泉水邸内に製銃工場を設置したが、製法の未熟と資金不足から、3か年にようやく10挺を生産するに過ぎなかった。そこで安政4年正月に至り、佐々木権六、三岡八郎(由利公正)を製造所正・副の頭取に任命し、本格的な兵器生産を推進させることとなる。2人は種々研究を重ね、志比口に鉄砲製造所を、松岡に火薬製造所を建設し、工程を分業して職工の熟練を図るなど増産に成功した。他藩の注文にも応じて、維新後製造所閉鎖までに7000挺の洋式銃を製造したと伝えられる。

 このような洋式砲術や調練の導入と洋式兵器の製造は、当然刀・槍・弓矢を中心に編成された従来の軍制の改革へと発展する。まず嘉永3年12月には、西尾源太左衛門を中心に「御家流砲術」を制定し、一藩の射撃術を実用に重点を置いた洋法に統一した。とはいえ、その時点では藩の所有する洋銃も少数で、内実が伴わなかったから、藩の斡旋により代価を2、3年の年賦とするなど、藩士の小銃新調を奨励し、徐々に洋式銃の充足を図っている。さらに、諸隊の弓組や長柄槍組を順次洋式銃隊に編成替えし、仏式鼓吹笛による部隊教練を実施しながら、嘉永5年・安政元年・同4年と3次にわたる軍制改革を断行した(『福井県史』通史4近世2を参照した)。



 平成18年11月3日から11月26日まで福井県立歴史博物館で由利公正展が開かれている。5箇条のご誓文成立の裏話が説明されていて勉強になる。入場料はなんとわずか100円。私は10数メートルの強風と豪雨の下、大学から徒歩2時間かけて会場に行った。福井県の人は車で移動するが、私は頑固に自転車と徒歩の文化だけは死守しようとがんばっている。市内ならほとんど徒歩で行く。

 製造所跡は、松岡の神明にある。安政4年(1857年)4月27日と5年3月11日の2回爆発し犠牲者を出した。火薬の製造は、明治4、5年(1871、1872年)頃まで続いた。

本山美彦 福井日記 38 雁渡来

2006-09-08 00:15:44 | 路(みち)(福井日記)

 わが下宿周辺の広大な田圃は、いま稲刈りのたけなわである。機械のすごさに驚嘆して見ている。刈り取り機の周囲には、カラスやサギがちょこちょこついてきて、なかなかユーモラスな雰囲気を漂わせてくれる。

 

 

 早朝、ジョギングしていたら、素晴らしい光景に出会った。なんと、まだ9月というのに、雁が渡来したのである。雁は、稲が刈り取られた後の田圃に舞い降りる。例年、11月前後に渡来するものであると聞く。しかし、今年は、まだ残暑厳しい9月初めに渡来した。なぜなのだろう。

 

 私が見ているのは、「真雁」であろうと思う。体長は70センチ程度。やや灰色を帯びた茶褐色で雄雌同色らしい。嘴はピンクがかったオレンジ。足はオレンジ色。嘴の付け根の額の部分は白い。白い腹部にベルト状の黒い模様がある。鴨川の鴨にどことなく似ている。

 

 夏、シベリアで暮らし、9月にいったん北海道に渡り、その後、11月前後に本州に渡来する。そして、3月ごろに北上し、いったん北海道にとどまった後シベリアに帰る。主たる繁殖地はシベリアである。本州の滞在地は、日本海側は島根県の宍道湖以東、太平洋側は日本最大の伊豆沼などがある宮城県まで合わせて約40か所あるという。夜はねぐらの湖沼にいて、昼、近くの水田に食事に向かう。主に水田の落ち穂を食べ、さらに水田に生えている植物の根を食べる。

 

 朝、雉を良く見る。ケーンという甲高い声を出す。雁の声は、雉と同じである。

 いい光景だ。いつまでもこうした神の恵みに浸ることができるようにと祈りながらジョギングした。


本山美彦 福井日記 25 行基

2006-07-15 00:00:12 | 路(みち)(福井日記)
 中央集権政権ができると、税を全国から調達し、都に運ぶ「官道」の整備が必要になった。官道は、大化の改新より少し前から整備されだしていたが、北陸道の整備はかなり遅れ、持統天皇の時代まで待たねばならなかった。当時の官道は、重要性に応じて、「大路」、「中路」、「小路」に分けられていた。大路は、都~太宰府の山陽道、中路は、東国、陸奥を結ぶ東海道東山道、そして、小路が北陸道山陰道南海道西海路であった。
 この道路作りには、宗教家の力が動員された。行基などがその代表格である。

 私たちがなにげなく、「智識」という言葉を、「ものを知っていること」と、受け取ってしまっているが、「智識」とは仏教用語であった。仏教興隆に協力する人、およびその行為が智識と呼ばれていたのである。仏教に協力することとは、寺院や仏像の造営はもとより、寺院に物資を運ぶための道路や橋の工事をも指していて、そうした行為のすべてが智識とされた。橋を造営するときに、動員された人夫の賃金をまかなうために、差し出された稲などは、智識稲と呼ばれるほどであった。

 行基は、奈良時代前半に活躍した。彼は、多くの信者を引き連れて、道路、池、橋を造営した。それはれっきとした宗教的行為であった。『行基年譜』(「天平13年記」)の1年だけでも、泉大橋、山崎橋、高瀬大橋、長柄・中河・堀江の橋を造成している。彼の行為、彼に従って労働力を提供した信者たちが、智識だったのである。

 京都宇治川にかかる宇治橋は、橋寺放生院の道登が造営したのか(大化2年、そこに建つ宇治橋断碑による)、元興寺道昭が建てたのかは(『続日本紀』「文武天皇四年三月巳未条」)、不明であるが、橋寺の碑には、「此の橋を構立し、人畜を済度す」とある。つまり、橋は人のみならず、家畜をも救済する、れっきとした宗教行為だったのである。「済度」とは、仏が、人々を、苦界の此岸から、悟りの彼岸に渡すこと、つまり、救うことを意味する仏教用語である。現実の世界で、橋をかけることは、死後の世界に彼岸に幸せに渡ることができる行為であった。智識として参加し、善行を積んで仏の御許に参りたいという願いを込めて、喜んで僧侶に率いられたのであろう。行基こそはその組織者であった。朝廷は、一度は行基を捕らえようとしたが、むしろ、行基のもつ民衆動員力を逆に利用するようになった。
 ここ、越前でも久米田橋の造営記録が残り、智識稲の記述が多く残されている。久米田橋は、いまの鳴鹿大橋と重なる。越前のみならず、加賀を含めたかなり広範な地域からこの智識稲が送られてきたという。

 道路が立派になっても、現地農民はさしたる恩恵を受けていたとは想われない。恩恵を受けたのは豪族であり、権力者たちであった。彼らの実益の「ために、宗教が動員され、損得勘定でなく、信仰心で動いた農民が、ここでも、宗教を介在させて、権力側にいいように利用されたのである。

本山美彦 福井日記 22 越前の地から遠く京の祇園祭を想う――京の町衆とは?

2006-07-11 23:51:00 | 路(みち)(福井日記)

日蓮宗は、つねに、内部分裂と内部抗争を起こしてきた。その戦闘的な性格が他宗派からの敵視を招き、その対応面で分裂を余儀なくされたという事情もあった。それでも、この宗派は、室町幕府の懐に入り込むことを方針にしていたように見える。京都に妙満寺(現・顕本法華宗)を創建した日什の弟子たち(日仁、日実、日行)が応永5年(1398年)に将軍・足利義満と面会し、以後、その膝下に入った。寛政6年(1465年)、京都本覚寺の日住が同じく将軍・足利義政の厚誼(こうぎ=心からの親しいつきあい、手厚い親切)を得た。織田信長は日蓮宗の本能寺に本陣を張った。つまり、本能寺が信長に忠誠を誓った。この本能寺は、元、本応寺といい、日隆が応永22年(1415年)に建立したものである。その後、本能寺は、徳川家康の懐刀として湯名になった茶屋四郎次郎を大旦那にしている。日隆は、八品派を立てている。


 本能寺の変は、天正10年(1582年)であるが、その2年前の天正8年(1580年)に石山本願寺が信長によって焼き払われている。この時、日蓮宗各派は信長に協力した。その前年、天正7年(1579年)、信長は、浄土真宗と日蓮宗とを論争させ(安土宗論)、日蓮宗側の敗北を宣言して、日蓮宗から「詫証文」を取り、日蓮宗の京都での布教活動を禁止していた。その禁止令も、天正13年(1583年)、秀吉が詫証文を廃棄して、日蓮宗の活動の再開を許している。信長や秀吉の一向一揆弾圧政策に協力したことの報償という面があったものと思われる。

 いまから述べる天文の動乱以前の歴史に残る大一揆と言えば、1428年の近江・山城の一揆、1488年の加賀一向一揆、1506年の全国の一向一揆、1531年の朝倉とぶつかった一向一揆、等々があった。そうした一揆のことごとくに対して日蓮宗は弾圧側に荷担した。


 細川晴元は、天文元年(1532年)8月、浄土真宗の山科本願寺を焼き払った。日蓮宗がそれに協力した。加賀から急遽帰洛した本願寺の下間筑前頼秀・下間備中頼盛兄弟は(これだけでも、当時の寺院が戦闘のプロ、武将を傭兵として使っていたことが分かるであろう。本願寺では、こういった傭兵の隊長を『家宰』と呼んでいた)、大阪の石山本願寺に拠点を移した。細川晴元は、同じく、京都の法華衆を動員して石山を攻めている。

 同年9月、摂津国の一向一揆勢力が山崎付近の法華勢力を撃退した。しかし、同年末、法華宗側は河内の本願寺、富田同上を焼き討ちした。

 翌、天文2年(1533年)、晴元は、法華衆とともに、摂津国山田市場の一向一揆勢を焼き討ちした。同年3月、一向一揆側が盛り返して、河内の富田に盤踞する法華衆を駆逐し、細川晴元を淡路に追いやった。さらに、一揆側は勢いを駆って細川領の摂津伊丹城を包囲した。

 同年4月、畠山氏を裏切って細川晴元方に寝返った木沢長政が法華衆を動員して伊丹から一向一揆勢を追い出し、淡路から晴元を帰還させ、摂津の池田城へ入城させた。

 ところが、晴元の敵、細川晴国が同年5月、丹波から山城国高雄に攻め入ってきた。晴元に協力していた法華衆は、梅ヶ畑で敗北した。晴元側の摂津守護代・薬師寺国長も討ち死にした。

 慌てた晴元は、同年(1533年)6月、本願寺の証如と和睦した。仲介したのは、かつて晴元が本願寺に要請して堺南荘で滅ぼさせた三好元長の嫡男で淡路に逃れていた三好長慶であった。

 じつは、三好家は法華宗の大旦那であった。元長自身は、堺南荘の日蓮宗・顕本寺で自害している。

 こうして、日蓮宗は、京都の商人階層を信者とし、洛中21か寺を中心として、法華衆の町衆による自治権を獲得したのである。

 京都の人は、祇園祭りが最高潮に達する7月17日、必ず、町衆が権力側から自治権を獲得したことを誇らしげに語る。はたしてそうであろうか。権力側と結託して、真に権力と戦った一向一揆の農民たちを虐殺して権力からご褒美として与えられた自治権ではなかったのか。事情は、本願寺も同じである。本願寺は、一向一揆という身内を殲滅させることによって、宗門の巨大化に成功した。日蓮宗といい、本願寺といい、一向一揆を「撲滅したことの報償」を共有したのである。歴史にはつねに表裏がある。

 加賀・越前の一向一揆は見捨てられた。私にもその傾向があるので、自らを諫めなければならないのだが、私たちは、百姓一揆という言葉のイメージから、いとも簡単に圧政に苦しむ百姓が、政治権力に対して、命をかけた反抗を挙行した。しかし、権力側の圧倒的武力の前に、尊い夢を破砕されてしまったという シナリオを描いてしまう。

 そういう側面があったのは確かである。しかし、本願寺の指令で動いた一揆は、必ずしもそうは言い切れないものがある。戦国大名と同じく、本願寺も自己の領土を、他者から奪う武力攻勢に積極的に参加していたのである。本願寺の命令に従って武器を取らない農民は、容赦なく、本願寺から破門された。 現在では、破門されても、ただ出入り差し止めという次元のものに留まり、命に関わることではない。しかし、村全体が本願寺の門徒であるという時代で、破門されるということは、農業のもつ特性を考えれば「死ね」ということに等しい。「結」(ゆい)を基本とする日本的稲作の農業では、仲間の村人の協力なしには、人は、一刻たりとも生きてはいけないのである。

 「村八分」(むらはちぶ)ということは、それこそ死の宣告を意味していた。村には「十分」(じゅうぶ)の人間的つきあいがある。農作業の共同というのがそのうちの八分を占める。村八分とは、この付き合いを止めることである。残り二つのつきあいとは、死者の埋葬と火事の消火である。埋葬と消火という二分まで放置してしまうと、伝染病とか大火とかの害悪を村全体に及ぼすので、この二分は残すが、もっとも重要な八分は取りやめるということである。本願寺から破門されるということは、自動的にこの村八分が発動されることを意味していた。

 農民は、本願寺に反抗することはできなかった。本願寺の要請は、武士権力の命令よりも恐ろしいものであった。もっとも身近な、もっとも頼りになる仲間から見捨てられることだからである。権力に背いたとしても、仲間を背いたわけではないので、まだ一緒に戦ってくれる仲間がいる。しかし、本願寺から破門されることは、誰も助けてくれはしないことなのである。ここに、宗教のもつ古今東西を問わない恐ろしさがある。

 天文元年(1532年)から、越前・加賀では、農民の自発的な一揆が、本願寺から派遣された下間兄弟の指導する一揆(自然発生的農民一揆の撲滅と本願寺の画策する他者からの田畑の奪取を目指す武力行動)によって殲滅されようとしていた。下間兄弟から追討された加賀農民一揆勢は、越前に逃れてきた。彼らは加賀牢人と呼ばれていた。加賀牢人たちは、越前から加賀に帰還するために、繰り返し、本願寺派遣の下間勢と衝突を繰り返していた。

 天文3年(1534年)5月、本願寺と細川晴元との和平が破れた。本願寺は、石山本願寺を要塞化して、守りを固めた。しかし、同年6月、下間兄弟が畠山勢に敗れ、石山に逃げ込んだ。再度、本願寺は細川晴元の力に頼るしかなかった。本願寺は再度の和睦の地ならしとして、こともあろうに、子飼いの下間兄弟を追放した。兄弟は逐電した。本願寺は各地に書状を出し、下間兄弟を発見した時には、彼らを誅殺せよとの檄を飛ばしたのである。それだけではない。刺客が派遣された。3年後、兄・頼秀が摂津の一揆指導中に(今度は本能寺に刃向かうために)刺殺された。翌年、弟の頼盛も堺で殺された。兄弟を刺殺することに成功した刺客たちは、本願寺から一人当たり千疋の褒美を得た。

 天文3年(1534年)11月、青蓮院尊鎮法親王の仲介で本願寺は晴元と再度和平した。本願寺側が近江門徒を破門することで、室町政権との和睦を図ったのである。

 本願寺は、かつて、越前・加賀の一向一揆を下間兄弟を派遣して叩き潰し、今度は、近江の一揆勢をも破門してしまったのである。つまり、加賀・越前・近江を「一揆もちの国」から「本願寺もちの国」に切り替えたのである。

 法華衆は、京都支配を維持していた。これに反発したのは、一向一揆勢だけではなかった。比叡山天台宗が日蓮宗への憎悪をむき出しにしたのである。

 天文5年(1536年)、比叡山は、全国の大寺と大名に呼び掛けて、日蓮宗撲滅の武力行使を呼び掛けた。元来が、京都を地盤として繁栄してきた天台宗にとって、京都の利権を日蓮宗に奪われることには耐えられなかったのであろう。この呼び掛けに応じたのは、越前では平泉寺であった。興福寺、日光山、粉河寺、根来寺、それに山科本願寺を日蓮宗によって焼かれた本願寺、大名では近江の佐々木六角も呼応した。

 それに対抗する日蓮宗側の主勢力は、妙覚寺、本能寺であった。町衆としては、西陣の織物商、本阿弥家であった。

 戦闘は1536年7月22日に開始された。日蓮宗側の3万5000人に対して比叡山側は12万人を超えていた。圧倒的な兵力の格差の前に、たった5日間で日蓮宗側は敗北した。日蓮宗は京都に21もの本山をもっていた(これも、日蓮宗がまとまっていなかったことを示す、すごい数値である)が、そのことごとくが焼かれてしまった。京都の大半が灰燼に帰し、法華衆たちは堺に逃げた。これが「天文法難」と言われるものである。

 戦が終わっても比叡山側は法華衆の残党狩りをしていた。幕府も法華衆の洛中俳諧を禁じ、日蓮宗の寺院の再建を許さなかった。それが解かれたのは5年以上も経った天文11年(1542年)の後奈良天皇の勅許が出されてからである。その条件として、日蓮宗側は比叡山に1千貫の銭を寄進しなければならなかった。このときから、宗門は武家と権力争いを行うべく僧兵を強化して行った。それとともに、越前と加賀の一向一揆勢は、明確に本願寺側から見捨てられた。

 その頃、つまり、天文3年(1534年)、織田信長が生誕した。それから27年後(永禄14年、1571年)比叡山延暦寺が信長によって焼き討ちされた。民衆が戦乱の世に、もっとも衷心から仏を求めていた時に、宗門は堕落の道を疾走していたのである。

 本日の日記は、「坂東千年王国、一向一揆が行く」のウエビサイトの資料に依存した

本山美彦 福井日記 21 徳川幕府の寺院統制令――永平寺の文書に見る

2006-07-11 01:22:26 | 路(みち)(福井日記)
 徳川幕府は、体制確立の重要な要素として、京都を本拠とした宗教勢力を押さえ込むことを重視した。京都には、皇族を中心にした各種宗教団体があった。全国に散る大宗教団体もまた京都に本拠を置いていた。こうした宗教団体が改組される対象となった。もちろん、日本の既存の権力を認めないキリスト教は禁圧された。要するに、徳川幕府は、宗教統制を徹底的に行おうとしたのである。

 幕府と宗派との関係については「寺院統制令」が、本寺と末寺については「寺請証文」が、寺院と檀家との関係は「宗門人別改張」が、威力を発揮した。以前のこの日記で、宗門人別改張が浄土真宗のみに委ねられていた業務であるかのような印象を与える記述をしてしまったので、ここで訂正させていただきたい。「改張」はすべての宗門に義務づけられていた。

 日本人全員がいずれかの宗門に入る義務を負わされた。つまり、檀家制度がここに確立したのである。人々は、生者だけでなく死者まで人別帳で管理されることになった。

 ただし、当時の寺院が信仰だけの集団であったと見なすことは歴史を見誤ることになる。中世荘園制度の崩壊過程では、農地は暴力による収奪の対象であった。膨大な寄進地を所有していた寺院もまた暴力でもって、下克上でのし上がってくる武士集団から自分の領土を守らねばならなかった。それだけでなく、寺院までもが他の宗門、他の領主から新たに田畑を奪おうとしていた。一向一揆につては、また後に詳述するが、「単純に百姓の支配する極楽浄土」とは言い切れない生々しい要素をもっている。本願寺と越前・加賀の地元寺院との領土分捕り合戦すら日常茶飯事で見られたのである。戦国領主と異なり、一向一揆側は、仏の意志という御旗を立てることができたが、実際に行ったことは、寺院に武装集団を召し抱えただけのことであった。宗門の多くもまた下克上の戦国暴力集団以外の何者でもなかった。もちろん、兵隊として命を投げ出した農民たちは、自分が帰依する宗門の指導者たちを生き仏様として尊敬していたのであるが。宗門といえども、れっきとした権力であり、そうした権力が無辜の人たちの真心を利用しただけに、ひとしお、忌まわしさを拭うことができない。

 家康は、関ヶ原の合戦(慶長5年、1600年)の翌年(慶長6年、1601年)から直ちに、寺院の経済力と軍事力を削ぎ落とす政策を推し進めた。「寺院法度」と呼ばれる寺院統制令は、この1601年から1615年(元和元年)にかけて相次いですべての宗門宛に出された。寺院法度は、宗教一般に関するものではなく、宗門ごとにきめ細かい指示を幕府は与えたのである。

 法度が宗門毎に異なると言ったが、共通点があった。京都の本山としての地位を各宗門から剥奪したのである。それは、「一宗二分政策」と言われるものである。つまり、関東に新しい中枢部を作り、行政的機能の多くを関東に移させたのである。しかも、関東の行政的機能は、過去の京都の本山がもっていた機能よりもはるかに重かった。中央集権、宗門の学問化=教義の体系化、朝廷の無力化という三原則が、いずれの法度にも貫かれていた。

 曹洞宗関係では、越前国吉田郡志比にある従来からの本山の永平寺に加えて、新たな本山に、能登国鳳至郡櫛比庄にある總持寺が指定された。両本山では、ひたすら修行に勤しむこと、修行年数に応じて法衣の色を変えること、紫の法衣がもっとも高位のものであるが、それを着るのは勅許の時だけで、寺院の外での着用は禁止された。宗教者らしからぬ行いをした僧は直ちに流罪となるとされた。つまり、幕府の指示に従い、ひたすら仏教を興隆させる努力を行うことが命じられたのである。

 本山を学問修行の場として位置づけた上で、曹洞宗の行政的機能は関三刹と現在の静岡県の可睡齋に委譲された。関三刹とは、現在の千葉県の總寧寺、埼玉県の龍穏寺、栃木県の大中寺のことである。見られるように、行政的機能はすべて関東に移転させられた。

 寛永15年(1638年)に各寺に「寺請証文」が義務づけられた。そのデータを基に、責任を任された大きな寺院が、「宗門人別改帳」を、村・町単位でまとめた。これが江戸時代の戸籍である。つまり、江戸時代の戸籍とは寺院が作成したのである。

 さらに島原の乱の鎮圧(寛永15年、1638年)後の寛永17年(1640年)、幕府直轄地に宗門改役が置かれた。そして、寛文4年(1664年)全国的に宗門改制度が実施された。

 人別帳には、菩提寺の名と印鑑が捺されていた。この戸籍は、キリシタン取り締まりだけではなく、年貢計算の基礎にもなっていた。原則として毎年作成されていた。これで檀家と菩提寺との関係が固定されたのだが、檀家を変えることは禁止されていた(離檀の禁止)。

 宗門の中央集権化をも幕府側は画策した。曹洞宗は、主として授戒会を通じて布教し、安土・桃山時代に隆盛し、中世末期には各寺院を中心とした信者集団が自然発生的に成立していた。しかし、江戸幕府は寺院の新規設立を制限するようになった。元和8年(1622年)より数回法度が出され、新寺建立は全面禁止にされた。そして、寛永10年(1633年)、各宗派に本山の保証で、「諸宗寺院本末帳」を提出させた。この本末帳に掲載された寺院のみに寺請証文を作成させた。つまり、本末帳で本寺・末寺の支配従属関係が明記され、寺請証文で菩提寺による檀家支配が確定したのである。

 檀家支配の内容は、もはや自主的な宗教的信仰は二の次であった。各宗派に対して、「御条目宗門檀那請合之掟」が幕府から頻繁に出された。

 それによると、祖師忌、仏忌、盆、彼岸、先祖の命日に菩提寺に参詣することを怠れば、人別帳から外し、処罰する。菩提寺をさしおいて、他の寺から葬儀を出せば罰する。檀家は菩提寺の維持・新たな建設費用を負担しなければならない。等々であった。これで、寺院による檀家の管理は完璧になった。

 幕府は、150戸から200戸について1か寺の設立を認めた。つまり、現代に下って配給時代の米屋や酒屋のような扱い方をして寺院の経営の安定を図ったのである。
 曹洞宗については、延享2年(1745年)の本末帳が總持寺に残されている。それによれば、全国の約1万7500か寺が登録されていた。

 幕府権力はこのように、宗教を通じて、民衆を管理したのである。

 仏教側は、このような権力の横暴に対して抵抗をしなかったのだろうか。各宗派は、競争することなく、安定化させられると、唯々諾々と権力の統制に従う。そして、教義はいたずらに民衆感覚から離れて、高遠な哲学的体系として推し進められたのである。

 この文章は、曹洞宗宗務庁『曹洞宗人権学習基礎テキスト・これだけは知っておきたおQ&A』(2002年9月20日)を参照にした。永平寺関係の人たちが自戒を込めて書かれたものである。この文書に接しただけでも、私は、つくづく福井に来てよかったとの思いを強くした。読者諸氏もその点について頷いていただけるのではないだろうか。

本山美彦 福井日記 18 私の下宿周辺

2006-07-05 00:14:22 | 路(みち)(福井日記)
いささか、晦渋(かいじゅう)なギリシャ哲学、しかも、論議を呼びそうな内容のものを、いいだもも氏の提示する資料を勝手に解釈して書き連ねて、読者諸氏にいささか退屈な思いをさせてしまったお詫びをかねて、今日は、私の下宿周辺(すべて徒歩圏内)の景色の美しさを宣伝させていただきたい。素直にこの美しさへの感動を私と共有していただきたい。

私の宿舎の近くには、史跡六呂瀬山古墳群がある。九頭流川中流域の鳴鹿大堰右岸(下流に向かって右手、北側)の山腹に位置する。東から西に流れている九頭竜川の対岸の南側には手繰ヶ城古墳福井平野が広がる。、そして、その奥に永平寺がある。古墳群の眺下には鳴鹿の田園地帯総合グリーンセンター(私が愛してやまないすばらしい空間。毎朝、ジョギングを楽しみ、草木の名前を覚える。一日で最高の時間帯)福井大学医学部(私はここで夕食をとる)県立大学私の勤務先(ここで昼食をとる。残念ながら学生食堂で食事をするのに、肝心の学生諸君が遠巻きにして近寄ってくれない。一人寂しく、学生たちの会話を聞いている)が鎮座している。広大な)キャンパスである。そして、福井平野が広がる。

北側は、国道365号線から丸岡町の竹田に通じ、加賀(山中・山代温泉)へと続く山間部となっている。 山中温泉の「道の駅は私がたびたび利用する温泉である。入浴料500円也。

六呂瀬山古墳郡の遠望


六呂瀬山古墳郡の舞台(鳴鹿大堰付近上空からの航空写真)

私の下宿は、上の写真の左上部にある路を左(西)にいったところで、この写真の左外側にある。
平成元年から、地元では、地域興しとして、「越まほろば物語」という古墳群に纏わる儀式を営んでいる。平成11年からは「越の大王祭り保存会」が、越の大王祭を主催している。上久米田三ケ区神社境内の「越まほろばの舞台」 では、巫女の舞(久米田庭火)を中心にした催しが、毎年9月23日の夜に実施されている。初秋、椛(かば)の下、かがり火の中で厳かな雰囲気で行われている。

三ケ区八幡神社(越まほろばの舞台会場)

神社のまほろば舞台での巫女の舞

神社のまほろば舞台での巫女の舞
継体天皇に関わる数々の史跡が地元には存在する。

六呂瀬山古墳群より眺めた福井平野
継体天皇の擁立に貢献し、即位後も尽力をつくした大伴金村も祭られている。

式内 久米田神社(祭神/大伴金村)

式内 横山神社(祭神/継体天皇)

式内 高向神社(祭神/振媛)


式内 国神神社(祭神/椀子皇子)

天皇堂(女形谷)

椀貸山古墳(坪江)

日本人は瑞穂2000年の歴史を経た農耕民族である。ここ、福井は、九頭竜川中流域の鳴鹿大堰から一気に広がる福井平野で古代から稲作が営まれていた。今も、水と米と酒が美味しく、しかも海の幸と山の幸に恵まれた全国に数少ない農林漁業大国である。特にお米は、20年以上日本一の銘柄で君臨しているコシヒカリを福井県の農業試験場が昭和31年に育成し作った品種である。繰り返し訴えるコシヒカリは福井が発祥の地である。越の国(福井県)に光り輝くようにと「コシヒカリ」と命名されたのである。 越まほろば物語大祭保存会と地元農協が、1600年前の当時(平成19年は、継体天皇即位1600年とされている)、越の大王に捧げたであろう古代酒をまねて、酒米を栽培管理して、平成の酒づくりに取り組んでいるという。

越の大王祭保存会による御田植式(上久米田区内の宮の前献上田にて)



純米吟醸酒 越まほろば物語
720ml詰 小売価格2,000円(消費税別)
お取扱い先:JA花咲ふくい鳴鹿支店 (福井県坂井郡丸岡町楽間3-15)
TEL.0776-66-2604 FAX.0776-66-2652
※越前竹人形の里でも販売している。
(現時点で「楽天市場」等では販売されていない)

 今日の日記は、「六呂瀬山古墳群を愛する会」のホームページからとらせていただいた。


本山美彦 福井日記 17 渤海使

2006-06-26 23:31:02 | 路(みち)(福井日記)
東大寺荘園や春日大社荘園が越前で拡充しだしたころ、日本の対外交流でもっとも盛んであったのは、朝鮮半島の北東の渤海であった。この地域は、後の高句麗と重なり、中国と韓国との間で、北朝鮮崩壊後の領土確定の意味もあって、高句麗の出自争いがあったことは記憶に新しい。その論争がいつの間にか沙汰止みになったことから察するに、北朝鮮崩壊後の事態に備えて中国・韓国間になんらかの合意が形成されたものと想像される。

 それはさておき、渤海が8世紀では、日本のもっとも緊密な交流相手であった。
 渤海側の正式の使節は、727年(延喜19年)であるとされている。若狭、越前がもっとも渤海人が数多く到来した地である。762年(天平宝字6年)、渤海使、王新福ほか22名が越前加賀郡に3か月滞在したという記録が残されている。776年(宝亀7年)には、187人の渤海の一行が難破し、141人が死亡、生き残った45人が越前に漂着した。彼らは3か月間、越前に留まった。大和政権の命令もあって、越前側は漂着した水死体を手厚く葬ったとある。渤海使を日本側は、越前の人間に渤海に送り返させ、送って行った越前人は、今度は、渤海の正式使節を伴って、三国湊に帰還したという。

 名勝、気比の松原(写真参照)には、外国人をもてなす松原駅館が設立されていた。しかし、919年11月に三方郡丹生浦に105人の渤海人が到着し、日本側が、彼らを松原駅館に移そうとしたが、この館の設備が悪すぎるというので、渤海側が難色を示し、その苦情を重視した中央政権は改善を越前に命令したという記録もある。ちなみに、気比の松原は聖武天皇のころ、黒い装束を身にまとった外国人が攻め寄せてきたとき、一夜で松林が出現し、松の上には白い鳥の大群が留まり、それを見た侵略軍は迎撃対隊が多数待機していると錯覚して、慌てて逃げ出したという言い伝えもある。当時は、渤海使とともに悪霊が海を渡ってくると本気で心配されていて、気比の松原では、疫神を防ぐために、渤海人が到着する度に、鎮火儀礼が行われるのが常であった。

 気比の松原の美しさといったら、ちょっと他にはない。長さ約1.5キロ、広さ約40万平米という広大さと、白砂青松のコントラストが印象的である。赤松、黒松約17,000本が生い茂る。三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の1つで、遊歩道も整備されて、ジョギングに最適な市民の憩いの場である。
 敦賀は古くは角鹿(つぬが)と呼ばれていた。これが、なまって敦賀になったのである。角鹿は、渡来人、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に因んでつけられた名前である。

 芭蕉の句がある。

 古き名の角鹿や恋し秋の月

 古い「角鹿」という地名がこんな秋の月の夜には相応しい感じがする、という意味である。

 渤海からは、宣明暦(せんみょうれき)が伝わっている。この暦は861年(貞観3年)から1684年(貞享元年)まで実際に、日本で用いられていたものである。823年もの長期にわたって、同一の暦が使われていたということは世界史的にも希有な例である。

 宣明暦(せんみょうれき)は、正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言い、唐の徐昴が編纂したものである。とくに、日食と月食の予報に優れ、中国では、唐の長慶2年(822年)から景福元年(892年)までの71年間使用された。日本へは、天安3年(859年)に渤海使がもたらし、それまでの大衍暦に代わって使用が開始された。その後、朝廷の衰退や暦学の停滞などにより改暦が行われなかった。長く使用されたために誤差が蓄積し、江戸時代初期には24節気や朔などが実際よりも2日早く記載されるようになっていた。

 そもそも、暦の編纂は本来は朝廷が独占して行うものであり、暦の算出法に関する書物は陰陽寮以外には部外秘とされていたが、宣明暦があまりにも長く使用されていたために、次第に民間に流布され、出版されるようになった。さらに、鎌倉時代以降は朝廷の力が弱まり、京で作られた暦が地方へ伝達しにくくなったことから、各地で独自に宣明暦の暦法によった暦(民間暦)が作られるようになった。暦とは、権力側が作るものであるが、これについては後日、陰陽師との関連で解説することにする。また、陰陽師は権力の一翼を担っていて、単なる不可思議な占いばかりを行っていたのではないことにもあわせて注意を喚起しておこう。

 すでに紹介した730年の『越前国大税帳』では、渤海使を送り返すのに、食糧50石を使ったと記載されている。そのうち、渡来人が地方の権力者になったのであろう。『日本書紀』には、景行天皇の時に、天皇の支配に従わない越の国を抑えるために、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)によって吉備武彦が派遣されたとされている。そして、この地の豪族、つまり件の渡来人の子孫が角鹿海直であり、彼が、後に大和から派遣されてきた吉備武彦の孫を角鹿国造におし戴いたとされている。継体伝説と並んで、越前の豪族が渤海起源ではなかったのかという仮説がますます信憑性を帯びる伝承である。

本山美彦 福井日記 16 律令時代にもあった賃金労働

2006-06-23 23:16:23 | 路(みち)(福井日記)
奈良の正倉院には、奈良時代の越前国の農民の貧しさを示す資料が3つ残っている。730年(天平2年)の「越前国大税帳」と「越前国義倉帳」、732年の「越前国郡稲帳」がそれである。これらは中央政府(民部省)に提出され、不用になった段階で反故紙となり、裏が写経所で再利用されたものである。こうした農民及び税に関する文書が残されているのは、全国では、越前だけである。

 当時、中央政府の地方役所は国衙(こくが)と呼ばれていた。国衙の財政収入は、田に課され、稲で納める租と、地方の正倉という備蓄倉庫に蓄えられた稲を5割の利子付きで強制的に農民に貸し付ける出挙によって賄われていた。おそらくは、当時の農民は籾を私有することは許されなかったのであろう。この2つが「大税」とされ、その収支を記録したのが、「大税帳」である。それによれば、大税のうち、中央に送る舂米(稲をついて精米したもの)は1万束余があるくらいで、後は、22万7000石もの厖大な籾が備蓄されていた。とてつもなく高率の税であったことが分かる。

 「越前国義倉帳」は、農民の貧しさを記載しいたものである。これは、災害や飢饉・疫病などに備えて、戸の資産によるランクに応じて粟を徴収して蓄え、非常時には支給するという義倉の収支決算書である。記載されているのは、わずか1019戸分しかないが、大半が貧窮状態であったことが分かる。上上戸、上中戸、上下戸、中上戸、中中戸、中下戸、下上戸、下中戸、下下戸、等外戸の10等級に区分されている。

 9割の920戸が等外戸であった。義倉穀を負担したのは中中戸以上であったが、この地の負担戸は29戸にすぎず、大半が貧窮戸であったことになる。
 ちなみに、酒に弱い人を下戸というが、それは、この課税の等級制からきている。婚礼時の酒の量が、上戸は八瓶、下戸は二瓶であったことから、酒が飲めない人を下戸と呼ぶようになり、酒をよく飲む人を上戸と呼ぶようになったのである。貧富の差から飲酒量を喩えた言葉は中国にもあり、大戸や小戸と呼ばれている。

 とんでもない貧しい農民たちであったが、彼らは賃労働者であったことが、東大寺に残された文書で分かる。越前における東大寺の荘園は、自らの荘民をもたず、荘園の外の農民を1年契約で出挙にいよる賃金雇用をしていた。用水路の開削・維持もこれらの雇用労働にたよっていた。

 東大寺が越前国に荘園としての墾田地を求めて本格的に進出し始めるのは、749年(天平勝宝元年)からのことである。この年、造立途上の東大寺大仏の完成の目処が立ち、その造立・維持費用として東大寺に100町の墾田地が認可された。同年閏5月には国司と一緒に大規模に占定作業が進められたほか、足羽郡大領(だいりょう)の生江臣東人(いくえのおみあずまひと)や坂井郡大領の品遅治部君広耳(ほむちべのきみひろみみ)などの現地の郡司といった有力者から土地の寄進を受けた。東大寺の荘園は、これら地元有力者との共同経営であった。

 坂井郡にあった東大寺領桑原荘に関する文書として、755年から59年にかけての4通の収支決算書が残されている。桑原荘(写真参照)は、755年に、東大寺が都に住む貴族より土地100町を銭180貫文で買収して開墾したものである。

 東大寺には、「東大寺越前国桑原庄券第三」に「越前国田使曾祢乙万呂解」という文がある。これは、東大寺から田使として桑原荘の経営を命じられて派遣された曾祢乙万呂の757年(天平勝宝9)2月1日の報告書である。そこには、見開(開墾された田)42町のうち、この年の開田(開墾田)は10町であるとか、収支決算や、建物の状況などが記載されている。しかし、東大寺の文書には、この報告書には、越前国史生の安都雄足と足羽郡大領の生江東人の署名がなかったため、東大寺は受理しなかったとされている。ここから、東大寺の荘園は地元の有力者との共同経営であったことが分かる。

 共同経営したのは、もっぱら労働力の調達が必要だったからである。こうした工事や労働力の提供を地元有力者が担っていたのである。東大寺側は史生を派遣し、大領と交渉させていたのである。

 大領とは地方豪族である郡司の大本締め、つまり、長官である。史生(ししょう)とは、都・地方のあらゆる役所に置かれ、公文書を繕い写し、文案を整理・作成し、四部官(四等官・四分官)の署名を得ることを担当している下級書記官のことである。この史生の下がいまでもその名が残る召使(めしつかい)である。
 
ここで、大和政権と越前の緊密な関係を示すために、生江臣東人のことを詳しく紹介しておこう。
749年(天平勝宝元年)、藤原仲麻呂は大納言となった。同時に、仲麻呂は東大寺の荘園を越前に造るべく、部下の生江臣東人を越前に派遣する。しかし、仲麻呂は、764年(天平宝宇8年9月、四畿内・三関国(さんげんこく―伊勢・美濃・越前)・近国3か国の軍事権を統括する官になったときに、私兵を密かに集め出した。クーデターを企んでいたのであるが、これが、道鏡に牛耳られていた孝謙上皇側に漏れた。

 同月11日、上皇派は、仲麻呂の息子、藤原久須麻呂(くずまろ)を射殺した。仲麻呂は、平城京から脱出し、近江国府に向かったが、上皇派に阻まれ、やむなく、琵琶湖西岸を通って越前国府に向かったが、ここでも、上皇派は先回りして、越前国府にいたやはり仲麻呂の息子、藤原辛加知(しかち)を殺害した。そこで、仲麻呂は、琵琶湖西岸の三尾崎(みおさき―高島町明神崎)に向かった。そして、9月18日、三尾崎近くの勝野(かつの―高島町勝野)の鬼江(おにえ)での両軍は相まみえた。仲麻呂はこの戦いに敗れ、息子の真先(まさき)、朝猟(あさかり)、小湯麻呂(おゆまろ)、薩雄(ひろお)、執棹(とりさお)が殺された。

 仲麻呂は、越前に子供をはじめ、配下を派遣していて、東大寺の荘園経営にも関与していた。事実、仲麻呂が滅びた後、東大寺領として有名な道守(ちもり)荘では、道鏡政権になって行われた検田によって、船王(ふなおう)・田辺来女(たなべのくめ)の墾田が没収された。船王は淳仁天皇の弟、父は舎人親王で仲麻呂派の人物。田辺来女の一族は仲麻呂の家司(けいし)になっている者もいて、やはり仲麻呂派であった。仲麻呂自身も越前国に墾田を所有しており、この墾田200町が、乱後、西隆寺に接収された。

 仲麻呂は大仏造営や東大寺建立に大きく貢献しているのだが、結局は、自らの懐刀であった造東大寺司の裏切りに遭ったのである。乱の直前に反仲麻呂派の吉備真備が造東大寺司長官に就任して仲麻呂との抗争の指揮を執った。また、琵琶湖に浮かぶ竹生(ちくぶ)島に所在する都久夫須麻(つくぶすま)神社は、仲麻呂の乱の鎮定に霊験があったということで従五位上勲八等を授けられていることが、『竹生嶋縁起』に見える。

 造東大寺司とは、東大寺建設のための役所である。
 さて、生江東人は、越前国足羽(あすは)郡の在地首長である。生江東人は、先述のように、天平勝宝元年(749年)、東大寺が越前国内に荘園を設定するために、造東大寺司から派遣された者の中に名前が見える。このとき東人は造東大寺司の官人であったが、その後、天平勝宝7年には足羽郡大領として名前が見えるので、この6年の間に足羽郡大領に就任したことになる。東人の前の大領は生江安麻呂という人物である。つまり、東人は安麻呂の嫡子である可能性が高く、安麻呂の後を継いで大領に就任したものと見られる。地方豪族が中央政権の官吏に登用されていたことをこれは物語る。

 東大寺の初期荘園は90以上あり、北陸には30ほどが所在する。その中でも、規模の大きな荘園の1つが足羽郡にある道守荘(ちもりのしょう)である。東人は道守荘経営に大きな役割を果たした。東人は約7キロメートルの用水路を自らの力で開削して開発した墾田100町(未開地も含む)を、先述のように、東大寺に寄進し、この墾田を中心に道守荘を発展させた。道守荘は当時の絵図が現存することでも有名で、その絵図を見ると荘域内南西部に荘所がある。荘所は、荘園の管理事務所であり生産物の収納倉庫もともなっているもので、現地での経営拠点である。この荘所も東人が寄進したものである可能性がある。

 藤原仲麻呂政権下で東人は先に寄進した用水路を私的に使用して墾田の開発を進めた。仲麻呂失脚後、この件に関して東大寺から追求されることになり、この新たな墾田も東大寺に寄進し、謝罪した。この謝罪の上申書が、天平神護2年(766年)の「越前国足羽郡大領生江東人解」(『東南院文書』)である。

 なお、藤原仲麻呂と東人については、WEBサイト、「時事スコープ」、歴史探訪、第3回(98.6)藤原仲麻呂の乱(開成高校講師 小市和雄)、第4回 (98.7)生江東人開成高校講師 小市和雄)を参照した。

本山美彦 福井日記 15 豪族の閨閥

2006-06-22 18:21:25 | 路(みち)(福井日記)
福井県は、『図説福井県史』という出版物をネットで公開している。これは、なかなかのできばえである。そこでは、継体天皇の妃たちの出身地を記載してくれている。すでにこの年代から、豪族たちは姻戚関係をなるべく広範に結ぼうとしていたことが示されていて興味深い。

 『日本書紀』と『古事記』とでは、継体天皇に関する記述が異なるので、どこまでが史実であったのかは疑わしい。それでも、神話の中に、おそらくはそうであったろうなと思われる可能性が垣間見られる。大和政権がすでに最高の権威をもち、その血筋を地方の豪族は欲していたらしいということ、すでに越前、とくに三国の財力は図抜けていたであろうこと、越前から見れば大和への路も尾張への路も同じ程度の重要性をもっていたこと、姻戚関係はなるべく遠くの地域をも含むものであること、等々が『日本書紀』の記述から類推できる。

 『日本書紀』によると、子供のいない大和政権の武烈天皇の死後、皇位継承者が周辺にいなかったことから、大連であった大伴金村が全国に候補者を探し周り、応神天皇の五世孫、越前の三国にいた男大迹(おほと)(57歳、後の継体天皇)に白羽の矢を立て(507年)、樟葉宮で即位させたとされている。この記述は限りなく怪しい。武烈天皇に子供がいなかったのは事実であろうが、さりとて、周囲に後継者候補が払底していたというのは信じがたい。それこそ、数え切れないほどの妃をもつ当時の風習の中で、それこそ何百人も天皇家に連なる血筋が存在していたであろうに、まったく、それらのことごとくが絶えていたという記述は信じ難い。

 この点は、多くの人が研究してきたのであろうから、軽々に仮説を出すのはいいことではないとは思いつつ、事態は逆ではなかったかと思わざるをえない。逆というのは、継体が天皇家を簒奪したのではなかったのかということである。簒奪に当たって大伴金村が大きな役割を果たしたのであろう。大連とはいえ、皇族でないものが天皇の後継者を捜しまわるという事態そのものがありえないことである。

 即位後、継体は、仁賢天皇の娘であった手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、彼女を皇后にした。その後、山背の筒城(綴喜)宮、弟国(乙訓)宮を転々とした後、三国を出てから20年後、ようやく大和、磐余の玉穂に都を定めたとある。

 『日本書紀』によると、継体の父は彦主人王といい、近江の三尾の別業にいたときに継体の母、振媛(ふりひめ)(三国の坂中井=高向出身)を妃に迎え、継体を産ませた。父、彦主人王の死後、母、振媛は子を連れて故郷の高向に帰った。母は、垂仁天皇の七世孫とされ、三尾という氏(うじ)の一族であったとされる。

 五世孫、七世孫といっても、きちんとした戸籍制度のない時代に、そんなことを事実として認定するわけにはいかない。七世といえば、それこそ、150年以上も昔の話である。皇族の血筋は限りなく希薄である。重要なことは、直前の天皇の実際の娘と継体が結婚して、天皇家の血筋を継承したということである。

 この点だけは事実のようである。『古事記』では、応神天皇の五世孫、袁本杼(おほど)が近江にいたところ、大和に呼び出され、元天皇の娘、手白髪命と結婚させられて、皇位につかされたとされている。

 女系天皇の擁立が現在、かまびすしく論議されているが、継体天応は限りなく女系天皇に近い可能性がある。

 継体の父は、近江湖東の豪族、息長氏とも言われている(『上宮記』の継体の系譜)。母は、いまの丸岡(高向)出身であるが、この付近には、六呂瀬山1号古墳、九頭竜川対岸の松岡、手繰ケ城や古墳、同じく、二本松山古墳など、いずれも石棺をもつ北陸最大級の古墳である。松岡の古墳は山そのものである。これらは、広域首長墳と言われ、4世紀から6世紀まで綴喜、6世紀以後は、碗貸山1号墳などの横山古墳群という前方後円墳が密集している。これが継体一族のものになることはあきらかである(写真参照)。

 さらに、確認できる継体の9人の妃は、遠方の豪族の娘である。最初の妃、目子媛(めのこひめ)は、尾張の地名の基になった尾張氏の一族である。越前からの路は、大野を越えて、尾張に連なっていたのである。尾張への路、湖東地区、そして大和というように、継体は姻戚関係を広げていた。そうした布陣でもって大和政権を乗っ取った。そういうように、律令時代前の勢力地図を読み解くことも可能なのである。