消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(213) 新しい世界秩序(30)アジアにおけるゴールドマン・サックス(2)

2009-08-31 20:21:44 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 トップを徴用されたゴールドマン・サックスは、命令系統の細分化を急いだ。トップがすべてを決定するという従来のシステムを、経営委員会(Management Committee)システムに替えた。初代の議長は、グス・レビー(Gus Levy)であった。彼は、のちに、ニューヨーク証券取引所社長になる。グス・レビーの加入によって、ゴールドマン・サックスは投資業務と証券業務とが二大柱になった。

 1956年11月フォード・モーターズが株式の公開に踏み切った。それまでは未公開株だったのである。ゴールドマン・サックスはフォード株式を1020万株、7億ドルで販売した。大商いであった。これもワインバーグの功績であった。この年、ワインバーグの強い進言もあって、ゴールドマン・サックスは投資部門を独立させた。1950年代は投資部門のワインバーグと証券部門のレビーが同行を牽引した。

 1967年10月、アルカン・アルミニウム(Alcan Aluminum)株の市場外取引(ブロック・トレーディング)の大商い。115万株2650万ドルと史上最大の取引であった。これは、レビーの功績であった。

 シドニー・ワインバーグは1969年11月に逝去。会長にはシニア・パートナーであったグス・レビーが就任した。レビーは「長期的視点」(Long-term greedy)という有名なスローガンを掲げた。短期的な損失などたいしたことではない。つねに、長期的視点でことに望めという意味である(Weinberg, Neil, "Short-Term Greedy?," Forbes, May 15, 2000, p. 170)。 しかし、1970年ペン・セントラル鉄道(Penn Central Railroad Company)が、コマーシャル・ペーパー残高8000万ドルを残して倒産した。このCPの大半はゴールドマン・サックスが引き受けたものであった。現在と同じく、このときも、格付け会社への批判が沸き上がった(Hahn, Thomas K.. "Commercial Paper". in Timothy Q. Cook and Robert K. Laroche editors (PDF). Instruments of the Money Market (Seventh Edition ed.). Richmond, Virginia: Federal Reserve Bank of Richmond. http://www.richmondfed.org/publications/economic_research/instruments_of_the_money_market/ch09.cfm. Retrieved on 2007-01-17)。

 1970年、シニア・パートナーのスタンレー・ミラー(Stanley R. Miller)によって、ロンドンに最初の海外支店が設立された。1974年には、インターナショナル・ニッケル(
International Nickel)とゴールドマン・サックスのライバルであるモルガン・スタンレーが仕掛けたエレクトリック・ストーレイジ・バッテリー(Electric Storage Battery)の買収劇を阻止すべくホワイト・ナイトの役割を演じた。このことがゴールドマン・サックスの評判を高めた。敵対的買収に与することがないという信頼を勝ち得たからである(Rosenkrantz, Holly; Newton-Small, Jay (2004-11-23). "Bush Economic Adviser Friedman to Resign, Aide Says". Bloomberg.com. http://quote.bloomberg.com/apps/news?pid=10000103&sid=a5PUdvzX0pXc&refer=news_index. Retrieved on 2007-01-17)。

 1976年、レビーの死後は、シドニー・ワインバーグの息子のジョン・ワインバーグ(John L. Weinberg)とジョン・ホワイトヘッド(John Whitehead)がシニア・パートナーズとなった。またホワイトヘッドは、レーガン政権下の国務次官補になり、ジョン・ワインバーグがチーフ・パートナー兼会長となった。

 ゴールドマン・サックスは、1981年末にアロン(J. Aron & Company)という商品取引会社を買収し、業務の多様化を図った。アロンは、希少金属、コーヒー、外国為替取引を得意とする会社であった。この会社の買収によって、ゴールドマン・サックスは南米で地歩を強固にした。

 1982年5月には、ジョン・ワインバーグの指揮下でロンドンのマーチャント銀行のファースト・ダラス(First Dallas, Ltd)を買収した。

 1985年、史上最大のREITを実現させた。ロックフェラー・センターの所有者であるリアル・エステート・インベストメント・トラスト(Real Estate Investment Trust)の発行する証券を引き受けたのである。また、この頃から世界の政府系企業の民営化のコンサルタント業務に乗り出した。

 1986年、ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント(Goldman Sachs Asset Management)を設立し、ミューチュアル・ファンドやヘッジファンドを顧客にするようになった。同年、マイクロソフトのIPOを保証した。さらに、RCAを買収するGEのアドバイザーを務めた。さらに、ロンドンと東京の証券取引所の会員になった。

 1986年8月日、ゴールドマン・サックスは、住友銀行からの約5億ドル(当時で約770億円)の出資を受け入れることで合意した。しかし、銀行と証券業務を分離しているグラス・スティーガル法があったために、住友出資分には議決権はつけず、役員派遣もしないという内容であった。住友側は、責任範囲を限定したリミテッド・パートナーという地位に甘んじる低姿勢だったが、FRBは厳しい条件を付けた。

 住友のパートナーシップ取得は25%未満にする、住友の名称使用を禁止する、役員派遣は禁止、議決権行使はしない、つまり、純然たる投資に限定するというものであった。この結果、1986年12月4日、住友はニューヨークに100%出資の子会社、スミトモバンク・キャピタル・マーケッツ(SBCM)という投資銀行を設立(グラス・スティーガル法に抵触しないため)、翌5日に出資契約に調印、同日付でSMBCを通じて12.5%分に当たる4億2500万ドルの出資を完了した(http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2008/09/23/3780469)。

 1990年、ロバート・ルービンとスティーブン・フリードマン(Stephen Friedman)が、共同シニア・パートナーズに就任し、本格的なグローバリズム展開を目指すことになった。ルービンは、1993年経済担当大統領補佐官としてクリントン政権入りして、その後はフリードマンが単独会長になった。主としてM&A仲介業務であった。1991年、ゴールドマン・サックス・コモでティ・インデックス(GSCI=Goldman Sachs Commodity Index)を創設した。


野崎日記(212) 新しい世界秩序(29)アジアにおけるゴールドマン・サックス(1)

2009-08-27 20:44:44 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 はじめに


 08年8月6日付新華社によると、FRBは前日の5日、中国国有大手の中国工商銀行のニューヨーク支店設立を承認した。

 中国銀行業監督管理委員会(CBRC)の劉明康主席は08年6月の米中戦略対話に出席するため訪米したさい、バーナンキFRB議長と会見し、中国工商銀行と、同じく米支店設立を申請中の中国建設銀行の審査を早めるよう促したとされる(
http://www.excite.co.jp/News/china/20080806/Recordchina_20080806026.html)。

 また、08年7月には、中国工商銀行の発行株式時価総額がシティグループを抜いて、金融業で世界一になった(http://j.peopledaily.com.cn/2008/07/11/jp20080711_91069.html)。

 ロイターの企業情報によると、おの銀行の中の取締役会名簿には、米国金融界の大物が3人いる。

 一人は、クリストファー・コール(Christopher Cole)である。彼は、06年6月から同行の重役を務めている。ゴールドマン・サックスのファイナンス投資部門議長(Chairman of Investment Banking in Goldman Sachs)でもある。

 中国人の頼錦松(Liang Jinsong)も重要人物である。05年10月から同行の社外重役を務めている。 ブラック・ストーン(Blackstone Group)のアジア・太平洋地域担当議長でもある。その他、香港の株式取引所(Hong Kong Exchanges and Clearing Limited)、中国モービル(China Mobile Limited)の社外重役、JPモルガン・チェース(JP Morgan Chase)アジア・太平洋地域担当議長でもある。

 そして、三人目の重要人物がジョン・ソートン(John Thornton)である。彼は、05年10月から同行社外重役を務めている。フォード、インテル、中国ネットコムグループ(China Netcom Group Corp. (HK) Ltd. )、ローラ・アシュレー(Laura Ashley Ltd.)、デレクTVグループ(DirecTV Group, Inc. )の社外重役、そして、1983年には、ゴールドマン・サックスの共同COO(ポールソン元財務長官と組む)であった。現在も重役である(http://www.reuters.com/finance/stocks/companyOfficers?symbol=601398.SS&viewId=bio )。

 ソーントンンは、清華大学(Tsinghua University)の教授でもある

 ソーントンは、ゴールドマン・サックスそのものの人である。ゴールドマン・サックスのヨーロッパ拠点を強化し、M&Aを盛んに手掛けてきたし、1995~96年には、ロンドンのゴールドマン・サックス・インターナショナル(Goldman Sachs International )の共同会長、96~98年には、ゴールドマン・サックス・アジア(Goldman Sachs Asia)会長であった。この時期は、まさにアジア通貨危機の真っ最中であり、ソーントンは、ゴールドマン・サックスの支店網を強化することに成功した(Wilipediaより)。

 清華大学の顧問委員会(Advisory Board))には、中国投資公司の楼継偉CEOとか、ビルダーバーガーの龍永図(ボアオ国際フォーラム理事長)、スティグリッツ、BPの執行理事のイエン・コン(Iain Conn)、国務院発展研究センター常務幹事の呉敬(Wu Jing Lian)らが名を連ねている。
 

 1 ゴールドマン・サックス史

 バイエルン(Bavarian)の学校の教師をしていたユダヤ系ドイツ人のマーカス・ゴールドマン(Marcus Goldman) が、1848年に米国に移住してきた。最初の数年間はニュージャージでセールスマンをし、次にフィラデルフィアに移って小さな衣料品店を開いた。南北戦争後はニューヨークに移り、1869年から約束手形(promissory notes)の売買に携わった。マンハッタン島南のメイデンレーン(Maiden Lane)横町にある宝石店や「スワンプ(swmp、湿地帯)と呼ばれていた地域の皮革店などから、午前中にそれぞれの顧客の約束手形を買い取り、午後になってそれらを商業銀行に安い口銭売りつけるということをしていた(Tarquino, J. Alex, "In Brief: Goldman Sachs Group Sells 69M Shares," American Banker, May 4, 1999, p. 28)。

 1882年、マーカスの娘婿、サムエル・サックス(Samuel Sachs)もこの商売に加わることになった。

 1885年、合資会社となり、会社名もゴールドマン・サックス&カンパニー(Goldman Sachs & Company)と改称(Spiro, Leah Nathans (1999-05-17). "Goldman Sachs: How Public Is This IPO?". BusinessWeek Online (The McGraw-Hill Companies Inc.). http://www.businessweek.com/1999/99_20/b3629102.htm. Retrieved on 2007-01-17)。

 この年、マーカス・ゴールドマンの息子、ヘンリー(Henry)と娘婿ルードリッヒ・ドレイフス(Ludwig Dreyfus)が加わる。このヘンリーが業績を大きく伸ばした。プロビデンス(Providence)、ハートフォード(Hartford)、ボストン、フィラデルフィアへと営業範囲を広げていった。

 1887年には、英国のマーチャント・バンクであるクラインウォート・サンズ(Kleinwort Sons)と提携し、為替の裁定取引に乗りだした。

 顧客は、中西部のシアーズ・ローバック(Sears Roebuck)、クルート・ペーボディ(Cluett Peabody)、ライス・スティックス・ドライ・グッズ(Rice-Stix Dry Goods)などの有力会社であった。支店もセント・ルイスやシカゴに設置し、強力な国内経営基盤を作り上げたのがヘンリーであった。

 19世紀末には、西部開拓のための鉄道投資が東部の金融界の最大の関心事項であったが、ゴールドマン・サックスは鉄道だけでなく様々な産業に投資し、ポートフォリオの多様化を一環して目指していた。

 1896年, サミュエル・サックスの弟、ハリー(Harry)が参加した直後、ニューヨーク株式市場に登録。このハリーがヨーロッパのマーチャント・バンクと組んで海外業務を拡大させた。そこでは、クラインウォートが大きく寄与していた。

 1906年、未公開株上場(IPO)業務に乗りだす。

 ユナイテッド・シガー・マニュファクチュアーズ(United Cigar Manufacturers)に株式を公開させて、わずか1年間で450万を集めることに成功した。その直後、今度はシアズ・ローバックの株式公開を実現させた。その機縁で、ヘンリー・ゴールドマンは、両社の重役に名を連ねることになった。以後、顧客の取締役会に人を送り込むことがゴールドマン・サックスの伝統的戦略となった。

 1910年代の工業ブーム時、ゴールドマン・サックスは小企業を積極的に育成した。メイ・デパートメント(May Department Store)、ウールワース(F.W. Woolworth)、コンチネンタル・カン(Continental Can)、グッドリッチ(B.F. Goodrich)、メルク(Merck)などを育て上げた。

 ヘンリーは1917年に引退した。有限責任のパートナーとなったサミュエル・サックスとハリー・サックスに経営権を禅定したのである。さらに、アーサー(Arthur)、ヘンリー(Henry E.)、ハワード(Howard J.)などのサックス家の人たちが参加した。当時、ゴールドマン・サックスは一族経営を原則としていた。

 第一次世界大戦中の金融業は不況であったが、終戦後は大好況が到来した。ハインツ(H.J. Heinz)、ピルスベリー(Pillsbury)、ゼネラル・フーズ(General Foods)などがゴールドマン・サックスに追加資金を仰ぐようになった。


 好況は1920年代を通じて持続し、ゴールドマン・サックスは投資子会社ゴールドマン・サックス・トレーディング・コーポレーション(Goldman Sachs Trading Corporation)を設立したが、1929年恐慌の直撃を受け、1933年には、当初1000万ドルの資本金のほとんどが毀損してしまい、本体もまた業績低迷にあえぐことになった。

 こうしたなかで頭角を現したのがシドニー・ワインバーグ(Sidney J. Weinberg,)である。1907年に事務助手として週給2ドルの薄給からスタートし、1927年には若干35歳の若さでパートナーに昇格した。一族外からパートナーになった第一号であった。彼が、ゴールドマン・サックスを株式仲介業務から投資銀行業務に転換させたのである。それは、M&A、不動産投資業務、大口市場外取引(ブロック・トレーディング)であった。

 ちなみに、1933年証券法(Securities Act of 1933)によって、証券取引委員会(SEC=Securities and Exchange Commission)が設立されている。

 シドニー・ワインバーグは、第二次世界大戦中に政府に徴用され、戦費調達業務を委託された。そのことによって、ゴールドマン・サックスの組織も拡大した。ワインバーグは、朝鮮戦争時にも政府の役職に就いた。


野崎日記(211) 新しい世界秩序(28)パックス・サイノ・アメリカーナの予兆(10)

2009-08-20 14:01:32 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(6) 03年に米国は、新しい20ドル札を発行している。03年10月9日ワシントン発の共同通信の配信では次のように記されていた。

 「偽造防止に工夫を凝らした米国の新20ドル紙幣の流通が9日始まり、ニューヨークのタイムズ・スクエアでイベントが開かれた。20ドル札はもっとも流通枚数が多い。新紙幣は初めて黒と緑以外の色を背景に用いたのが特徴で薄い桃色や青などの配色。プラスチックの垂直線が埋め込まれているほか、透かしや傾けると色が変わって見える数字で偽造防止を図った。ジャクソン第7代大統領の肖像や紙幣の大きさは変わらない」。

 これは、金兌換ができる新ドル貨発行の布石ではないかという見方が広がってい
る。米国が金本位制に戻るのではないかという噂はここ数年来ずっと出続けている(http://electronic-journal.seesaa.net/category/5295267-1.html)。

 国外の旧紙幣に区別を設け、国内の旧紙幣は新ドル札と交換できるが、国外の旧紙幣には新ドル札との交換は認めないというようなことにでもなると、国外の旧ドル札は無価値に近いものになってしまうだろう。これは、国外の米国債価格にも影響する。これにデノミネーションが加われば、完全な金融テロになってしまう。

 可能性が大なのは、アメロ(AMERO)という新通貨制度の創設である。米国単独ではドルの信認回復が無理であるとして、NAFTAを基礎とする新共通通貨が発行されるかもしれない。アメロを導入するさいに、米国は、借金を消滅させる目的で、内外で新通貨の交換比率を変えるなどいろいろ仕掛けてくるかもしれない(http://electronic-journal.seesaa.net/article/116472819.html)。

 荒唐無稽であると切り捨てきれないものがこうした噂にはある。アメロ、ないしは北米通貨に関するアイデアは、1999年にカナダの経済学者ハーバート・グルベル(Herbert G. Grubel)が提唱して以後、論争が沸騰している。以下、論争に参加した文献を挙げる。

1. Bennett, Drake[2007-11-25], "The Amero Conspiracy", International Herald Tribune.
          http://www.iht.com/articles/2007/11/25/america/25Amero.php
2.  Grubel, Herbert G. [1999], "The Case for the Amero: The Economics and Politics of a North
          American Monetary Union"PDF, The Fraser Institute.
          http://www.fraserinstitute.org/Commerce.Web/product_files/CasefortheAmero.pdf
3.  Pastor, Robert A. [2001], Toward a North American Community: Lessons from the Old
      .    World for the New, Peterson Institute
4.  Leger Marketing Group [August 30 2001],  A Study of How Canadians Perceive Canada-US
          Relations.
5.  Cohen, Benjamin J.[2004], "North American Monetary Union: A United States Perspective",
          Global & International Studies Program. http://repositories.cdlib.org/gis/29.
6.   McLeod, Judi[2006-12-14], "Debut of the Amero," Canada Free Press.
          http://www.canadafreepress.com/2006/cover121406.htm.

(7) 「米中戦略経済対話」(US-China Strategic Economic Dialogue=SED)は、06年12月から北京で第一回会議が開かれた。文字通りの中米経済政策の調整会議。米国の対中貿易赤字、中国政府による為替市場操作疑念が主題となている。原則年二回中米各地で交互に開かれている(http://jp.fujitsu.com/group/fri/report/china-research/topics/2008/no-81.html)。

(8) レノボ(联想集团)は、中国のパーソナル・コンピュータ (PC) メーカー。1984年、中国科学院の計算機研究所において設立された。設立時の名称は中国科学院計算所新技術発展公司。1988年香港連想集団公司設立、1989年北京聨想計算機集団公司設立。1994年香港聯想公司が香港株式市場に上場、1997年には聯想ブランドが中国内のパソコン売上トップを記録、2000年、『ビジネスウィーク』誌が聯想集団を世界IT企業100社中、8位に位置づけた。

 04年12月、レノボはIBMからPC部門を12億5000ドルで買収することを発表した。
レノボはIBMのPCのブランドであるThinkPadの商標を5年間維持するとしている。08年1月には低価格品IdeaPadブランドを導入した。

 04年のIBM社PC部門買収によりレノボのPCの世界市場シェアは、デル、ヒューレット・パッカードに次ぐ3位となったが、07年のエイサーによるゲートウェイ買収により、4位となった。

 株式の42.3%をレジェンドホールディングスという持株会社が保有しており、同持株会社の筆頭株主(65%)は中国科学院である。IBMは議決権のない優先株のみを保有する(  http://www.pc.ibm.com/ww/lenovo/investor_factsheet.html)。

   06年5月19日、米国国務省は、06年の3月20日にレノボから1300万ドルで購入した1万6000台のPCについて、安全問題を考慮して、機密文書を扱わない業務だけで利用するという発表をした。米中経済安全保障関係検討委員会(the U.S.-China Economic and Security Review Commission)から一斉にレノボPCの導入に抗議されたことに譲歩したのである(http://japan.cnet.com/column/china/story/0,2000055907,20122968,00.htm)。

(9) 1995年、中国最初の外国への投資会社として設立。出資者はモルガン・スタンレーで、当初、3500万ドルを出資していた。総裁は、朱云来(Zhu Levin)、1998~2003年まで首相を務めた朱鎔基(Zhu Rongji)の息子。中国最大の外国投資会社
http://www.cicc.com.cn/CICC/chinese/index.htm )。

 ブルームバーグによれば、CICCは、新規株式式公開(IPO)関係では、中国第一の座を保っているが、08年1月、34/3%の株式を保有しているモルガン・スタンレーがCICC株を売却し、提携関係を解消する準備を進めている。
http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=90003001&sid=awpGr4ZRMNbI&refer=jp_commentary)。

(10) 04年8月に合弁成立。ゴールドマン・サックスはまず、この月に合資銀行を設立し、さらに、苦境に陥っていた海南証券を救済、この再建計画の首謀者、方風雷に8億元を融資、この資金で方が高華証券を設立。この証券会社は、ゴールドマン・サックスが中国の現行規定では最高比率となる33%の株式を所有。「高華」はゴールドマン・サックスの中国語「高盛」と中国を意味する「華」から取られたものとされる。高華証券には、聯想集団(レノボ)も出資。実質的にはゴールドマン・サックス・チャイナともいえる高華証券となった
http://www.news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2004&d=0810&f=business_0810_001.shtml).

(11) 01年11月から開始されたWTO(世界貿易機関)加盟国による通商交渉。農産品、工業品の貿易自由化という伝統的な交渉課題以外に、サービス、途上国問題、紛争処理などの新たな問題が論じられてきた。1999年10~11月のシアトル閣僚会議では、ウルグアイ・ラウンド(1986~1994年)の結果に対して途上国の多くが反発し、新しい交渉の開始ができなかった。しばらく空白があったのち、2001年11月のドーハ閣僚会議でようやく新交渉開始の合意がなされた。この2001年11月から開始されたWTO加盟国による通商交渉を「ドーハ・ラウンド」という。しかし、2003年9月のメキシコ・カンクンでの閣僚会議では交渉が決裂し、新ラウンド(ドーハ・ラウンド)の「枠組み合意」の期限日、2004年7月31日には合意形成はできなかった。2004年7月31日にジュネーブのWTO本部で一般理事会が開かれ「枠組み合意」が論議され、農業自由化をめぐる対立が鮮明になったが、翌8月1日未明に枠組みだけは合意された。関税引き下げ方式や削減対象となる農業助成策などが交渉課題になったが、上限関税は「今後の検討課題」とした持ち越された。

 2001年11月のドーハ閣僚会議で最終合意期限とされた2005年1月1日は延長され、具体的な期日は2005年12月に香港で開かれる閣僚会議まで先送りされた。その後も、交渉は停滞しており、2009年4月現在、ドーハ・ラウンドは合意に達していない
http://www.wto.org/english/tratop_e/dda_e/dda_e.htm)。

(12) ガイトナー米財務長官は09年3月3日、オバマ大統領が、韓米自由貿易協定(FTA)をはじめ、パナマ、コロンビアとのFTAを進展させるため、議会と協力するとの認識を示した。ガイトナーは、米下院歳入委員会の公聴会で、「皆さんが期待できることは、大統領と政府がこうした重要な合意を進展させる方法を探すため、注意深く議会と協力するだろうということだ」と述べた。

 ガイトナーは、「米国としては単に市場を開放するという約束だけでなく、米国内の業界と労働者に利益になる新たな貿易協定を作るという約束を守ることが重要だ」と強調、韓米FTAに対する追加措置の必要性を訴えた
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090304-00000015-yonh-kr)。

(13) 国土安全保障顧問。2001年9月11日に米国で発生した同時多発テロによって、テロ攻撃の脅威に対応する重要性が認識され、米国内では、2002年7月に、「国土安全保障に関する国家戦略」(The National Strategy for Homeland Security)が作成された。さらに、2003年1月、「国土安全保障省」(DHS=Department of Homeland Security)が新設され、政府と民間が一体となってテロの脅威から米国を防衛する体制が整えられつつある
http://dictionary.rbbtoday.com/Details/term3027.html)。

野崎日記(210) 新しい世界秩序(27)パックス・サイノ・アメリカーナの予兆(9)

2009-08-19 13:47:21 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 おわりに


 既述のように、中国は09年2月から3月までのわずか1か月で米国債保有額を237億ドルも増やした。しかし、香港も中国の領土なので、香港を加味すれば、さらに26億ドル増える。日本の2倍、ロシアとサウジアラビアの4倍もの大量の米国債を中国は保有するようになったこtの意味は大きい。それは、外貨準備をドル以外の通貨を組み込む多様化を図ってきた、これまでの中国の政策の大転換があったことを意味している。

 09年の第1・四半期における米国債保有額の400億ドルもの増大は、過去最高記録である。ところが、その間の外貨準備額の増加は70億ドルしかなかった。つまり、中国は330億ドルの外貨を減少させる一方で400億ドルの米国債新規購入をしたのである。これは、おそらく膨大な外貨をCICなどの国家投資ファンドに移し変えたからであると思われる。 いずれにせよ、この膨大な米国債購入は、ドル価値の急激な低下を阻止する効果を結果的に持っている(http://www.taipeitimes.com/News/worldbiz/archives/2009/05/18/2003443843)。

 ウォーレン・バフェットによって憂慮された米国債バブルを、結果的なものであれ、中国策が助長してしまいかねない。

 バフェットは、つねに255.5億ドルもの現金を用意しているバークシャー・ハザウェイ(Berkshire Hathaway Inc)という投資会社の総帥である。彼は、09年2月27日、自社の株主に宛てた手紙で米国債投資は止めるように勧告した。エンストを起こした車のエンジンをかけるべくFRBと財務省は膨大な資金散布を継続しているが、これは必ずや激しいインフレーションを生み出す。米国債はボロ屑になってしまうだろうとバフェットはその手紙の中で強調している。

 バフェットはいう。

 「投資社会は、米国債価格を過小に付けていた段階から過大に付ける段階に移行してしまった。・・・現金による投資収益はかぎりなくゼロに近づき、その購買力は時間の経過とともに減少してしまうだろう」。

 「金融史を10年毎に整理すれば、次のようにいえることは確かであろう。1990年代はインターネット・バブル、2000年代初期は住宅バブル、・・・そして、08年からは米財務省バブルとなろう。いずれも等しく異常なできごとであると見なせる」
http://uk.reuters.com/article/businessNews/idUKTRE51R1Q720090228)(6)。


 

(1) ガイトナー米財務長官が、09年5月13日、「資産5億ドル以下の銀行向け資本買い入れプログラム再開」を計画したことを指す
http://www.nsjournal.jp/news/news_detail.php?id=157194)。

(2) 日本では30年国債が発行されており、フランスでは50年国債が発行されている。ところが、米国では30年国債(あるいはそれ以上の長期国債)は、2001年を最後に発行が停止されていた。米財務省が30年といった長期の債券はコストがかかると判断したことによる。現存する米国債でもっとも期間の長い債券は、2001年に発行された30年債で、償還予定は2031年である。しかし、06年第1・四半期に米国は、30年国債の発行を再開した(http://blog.livedoor.jp/kawase_oh/archives/20947163.html)。

 米財務省は、1年以内の償還期限の財務省証券を割引証券(ビル=bill)、2~10年までの償還期限のものはすべて利付証券(ノート=note)、10年超で発行されるものを利付債(ボンド=bond)と呼んでいる。

 米国国債の種類は、トレジャリー・ビル(T.Bill)(割引債 3カ月、6カ月、1年もの)、トレジャリー・ノート(T・Note)(利付債 2年、3年、5年、10年)、トレジャリー・ボンド(T.Bond)(利付債30年)である(http://www.nomura.co.jp/terms/japan/he/treasury.html )。

 (3)  CDSプレミアムとは、信用リスクの大きさを示す指標である。CDSとは、クレジット・デフォルト・スワップの略である。CDS取引は、債権を直接移転することなく、信用リスクのみを移転する取引である。CDS取引は、プロテクションの売買である。債券の保有者は、債券発行者の支払停止に会えば損失を被る。そのさいに、発行者に代わって債券の支払いをするという約束がプロテクションである。債券保有者は、このプロテクションを買う。プロテクションの買い手が、売り手に支払う対価がプレミアムである。このプレミアムは通常四半期ごとに支払われる。プレミアムは、年率12bp(ベーシス・ポイント)で表す。ベーシス・ポイントとは、1%の100分の1、つまり0.01%のこと。たとえば、10bpは、0.1%である(http://www.j-cds.com/jp/about_cds.html)。

(4)  CICは国営の投資会社であり、正式名は中国投資有限公司(China Investment Company)である。この会社は、08年9月29日に正式に活動開始したCICはSAFE(State Administration of Foreign Exchange)が保有する銀行株(建設銀行や中国銀行など)を継承する見通し。加えてPBOCの外貨準備額のうち、2000億ドルの資金を対外投資に用いるとされている。

 国家が経営する投資会社のことを国家投資ファンド(Sovereignty Investment Funds)いう。シンガポールのテマセクなどがそれである。大型投資で話題になったドバイやカタールの会社など、国策投資会社が、海外の証券取引所や資源関連の企業へ出資するようになった。 中国のCICはスタート時点の資金が巨大なので世界の注目を浴びている。CICは、ブラックストーンのIPO時に30億ドル出資した。これは、ゴールドマン・サックス・アジア太平洋地域法人の会長(前香港金融庁総裁)が中国政府に持ちかけて合意がなされたものである。ゴールドマン・サックスは、米国政府と関係が密接であり、CICは、米国金融機関と組んで、巨大な投資案件を進めている可能性は高い
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P1)(http://investbest.seesaa.net/article/59009034.html)。



(5) 英国の米国債保有の08年3月~09年3月の月別数値は以下の通りである。08年3月2001億ドル、08年4月2468億ドル、5月2712億ドル、6月2791億ドル、この月から集計方法が変わった。新しい集計方法の6月は550億ドル、7月661億ドル、8月825億ドル、9月1128億ドル、10月1332億ドル、11月1324億ドル、12月1309億ドル、09年1月1239億ドル、09年2月1291億ドル、3月1282億ドル(Major Foreign Holders of US Treasury Securities , http://www.treas.gov/tic/mfh.txt)。集計方法の変化も否定できないが、英国は長期的方針として米国債購入を控えているといえる。集計方法変化によって数値が増えた国の方が多かったからである。


野崎日記(209) 新しい世界秩序(26)パックス・サイノ・アメリカーナの予兆(8)

2009-08-18 08:28:25 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 6 米国の中・韓・日・駐在大使


 米国ホワイトハウスは09年5月16日、オバマ大統領が次期駐中国大使にユタ州のジョン・ハンツマン(Jon Huntsman)知事を指名したと発表した。同氏は共和党員である。商務次官補代理(東アジア・太平洋担当)、駐シンガポール大使、通商代表部次席代表などを経て04年にユタ州現職に初当選し、09年で2期目であった。中国語に堪能で中国出身の養女もいる。共和党のホープとして2012年の次期大統領選への出馬も取りざたされていた(『毎日新聞』2009年5月17日付)。ハンツマンは、洪博培(Hong Bopei)という中国名を名乗っているほど中国通である。

 韓国大使、キャサリン・スティーブンス(Kathleen Stephens)は、子ブッシュ政権下の駐韓大使であるが、オバマ政権下でも留任している。ブッシュ大統領による指名は08年1月10日であるが、赴任は08年9月23日であった。スティーブンスは、1975~77年まで、忠清南道扶余(チュンチョンナムド・プヨ)で平和奉仕団員として勤め、韓国語を流暢に話す。シム・ウンギョンという韓国名も名乗っている。1978年に国務省に入った後、駐韓米大使館や釜山総領事館などに勤務した経験がある。05年6~7月にはクリストファー・ヒル(Christopher Hill)国務次官補の下で首席副次官補を務め、北朝鮮の核問題などに取り組んだ
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=94812&servcode=A00&sectcode=A20
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=105657&servcode=200&sectcode=200)。

 ブッシュ大統領から指名されながら、赴任が大幅に遅れたのは、米国の大使は上院の外交員会全員の承認を得なければならないのに、クリストファー・ヒル嫌いのサム・ブラウンバック(Sam Brownback)上院議員の強烈な反対に遭ったからである
http://island.iza.ne.jp/blog/entry/601056)。

  オバマとスティーブンスとの直接的な接点はないが、就任直後のヒラリー・クリントン国務長官の訪韓を実現させて手腕をオバマが高く評価したからであるといわれている。

 駐中、駐韓大使について、ふさわしい人事であるのに対して、駐日大使指名の意味は不明である。

 オバマは、09年5月27日、次期駐日米大使に、08年大統領選で資金獲得に貢献した弁護士のジョン・ルース(John Roos)を指名したと発表した。上院の承認を経て09年夏に着任する見通し。

 しかし、駐中大使のハンツマンとは明らかにオバマの対応は違っていた。オバマが、09年5月16日に共和党のハンツマンを指名したさい、二人がそろって会見で発表したが、駐日大使はほかの英仏インドなど12か国・組織の大使とともに声明文の形式で発表され、「21世紀の課題に対処するため、米国外交を前進させることを確信している」と短くコメントしただけであった。

 ルースは、1985年にシリコンバレーで企業合併・買収を手掛ける国際法律事務所のソンシニ・グッドリッチ&ロサチ(Sonsini Goodrich & Rosati)に入り、05年から最高経営責任者(CEO)に就任していた。

 駐日大使人事では、クリントン国務長官らが推し、早くから名前が挙がった知日派のジョセフ・ナイ米ハーバード大教授(元国防次官補)から、ホワイトハウスが推すルースに差し替わった。ルースはオバマ陣営の有力な財務担当者で資金集めに貢献した「論功行賞」でもある」(http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20090528k0000e030022000c.html)。

 日本のメディアは駐日大使の人事に外務省が失望していると報じた。クリントン時代には、日米関係強化のためにハーバード大学教授のジョセフ・ナイ(Joseph Nye)を1994~1995年に安全保障担当国防次官補として起用し、この人がオバマで意見でも駐日大使として赴任するであろうと期待されていたからである。

 09年5月27日、資金集めの論功行賞人事、あるいは、金融界の大物として大使に指名された人は以下の通りである。

 まず英国大使に指名されたのは、選挙資金集めの最大の功労者で元シティグループ企業投資銀行(Citifroup Corporate and Investment Banking)副総裁のルイス・サスマン(Louis Susman)。71歳であり、電気掃除機と評されるほどの巨大な資金集めをした。

 フランス大使には、ジム・ヘンソン(Jim Henson Company)というIT事業会社の経営者で、金融アナリスト、さらにはホーム・セキュリティ・アドバイザー(13)のチャールズ・ルブキン(Charles Rivkin)が指名された
http://www.nytimes.com/2009/05/28/us/28envoy.html?_r=1&ref=world)。

 ドイツ大使に指名されたフィル・マーフィ(Phil Murphy)もゴールドマン・サックス重役で、オバマ選挙中の強力な集金マシンであった
http://www.asiankisses.de/?sc=goen22co&gclid=CImH6_7j3ZoCFYMvpAod2XmU0A

 09年6月10日付『ワシントンポスト』は、オバマ大統領の主要国大使人事を分析する記事を掲載し、過去の大統領に比べて選挙資金集めの大口貢献者への「論功行賞」の傾向が強いと指摘した。同紙によると、駐日大使のルースが過去3回の選挙で民主党候補に54万5000ドル(約5300万円)の献金を集めたのに対し、クリントン大統領時代のモンデール駐日大使(元副大統領)は1万2500ドルだった。

 また、駐英大使も、上述の投資銀行家サスマンは、過去3回の選挙で73万5000ドルを集めたが、クリントン政権時のクロウ大使は元軍人で選挙献金集めに携わらなかった。カナダ、イタリア、スペインなど主要国大使人事で軒並み、選挙献金の論功行賞の傾向があるという。そもそも、クリントン政権の大使人事は、献金による功労で大使になっても、赴任先は小国に限られていた。これ対してオバマは公然と集金功労者を重要国大使に任命してしまっているのである


 朝鮮の核脅威を鎮めるためにも、さらに、米国の金融危機を乗り越えるためにも、オバマは中国の協力を必要としている。


野崎日記(208) 新しい世界秩序(25)パックス・サイノ・アメリカーナの予兆(7)

2009-08-17 08:16:59 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 オバマ政権下のUSTRが、09年3月4日、467ページにおよぶ、大部09年年報(USTR[2009], 2009 Trade Policy Agenda and 2008 Anual Report of the President of the United States on the Trade Agreements Program.を出した。そこでは、オバマ政権の通商政策がかなり綿密に説明されている。

 「これまでの単純な関税引き下げ交渉は適切な貿易政策ではない」。「貿易自由化の進展が途上国にどのような影響を与えるかが重要な問題として認識されなければならない」という瞠目すべき文が配置されている。

 「重要なことは、労働者とその家族、そしてコミュニティにっとっての経済的帰結である」、そのためにも、「議会にもわれわれの労働者支援政策に対する協力を求める」とした。

 少なくとも、米国が追求してきた貿易政策は、一部の資産家をさらに富裕化させ、世界の貧しい人々に影響を与えてきたことを見過ごすべきではない」。

 行き詰まっているドウハ・ラウンド(Doha Round)(11)を打開するためにも、労働者の生活とその環境の重視が改めて強調されているのである。

 たとえば、NAFTAに触れ、米国の南北の境界線に接するメキシコとカナダの労働者に被害が及ぶような貿易はおこなわれるるべきではないとしている。これは、オバマの大統領選で、NAFTAが労働者にマイナスの影響を与えているとの批判に呼応するものである(Bridges Weekly, 6 November 2008, http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/32652/)。

 15年にもわたる貿易交渉のなかで、労働者の生活と環境問題を主たる討議事項にしたいとオバマは、カナダ首相のステーブン・ハイパー(Stephen Harper)と09年2月に語っていた(Bridges Weekly, 25 February 2009, http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/41648/)。 

 報告書は訴えている。「われわれは労働者福祉を犠牲にするような貿易拡大は望まないし、環境を無視するような競争力強化など望まない」と。

 こうした条件を組み込んだ自由貿易協定(Free Trade Agreement=FTA)の成功例として、同北書はパナマと米国との間に交わされたものであるとしている(12)。労働者福祉を前面に押し立てたFTAをコロンビアと韓国とも結ぶ積もりであることを同報告書は強調している。

 ただし、パナマFTAは上院議員の強い支持を得ているが、コロンビアについては、民主党議員のなかに強い不信感があり、韓国については、自動車労働組合の疑念もあり、すんなりとは合意されないであろう。

 大統領にとって、円滑な貿易交渉を進めるのはファスト・トラック権限を議会から与えられることがこれまでは必要であった。子ブッシュ政権は、02~07年、チリ、シンガポール、オーストラリア、モロッコ、バーレーン、オマーン、中米諸国、ドミニカ等との貿易交渉におぴて、ファスト・トラックの権限をフルに活用した。しかし、この権限は07年1月1日に失効し、今日まで議会は大統領にこの権限を付与していない。

 オバマもこれを望んでいるのは確かである。しかも、クリントン政権と異なり、オバマ政権は議会両院で多数を占めている。したがって、オバマはファスト・トラック権限を議会から付与される可能性はクリントンよりはるかに強い。しかし、そのオバマはUSTRにカークを選んだように、大統領権限の強化ではなく、途上国との対話、そしてなによりも議会との妥協を最優先しているように思われる
http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/42281/ )。

 事実、オバマな選挙キャンペーン中、ファスト・トラックを求めるよりも、貿易交渉において、議会の関与を重視すると説いて回っていたのである。

 オバマの貿易政策は、医療保険、地球温暖化問題、エネルギーの自立、金融部門などのサービス・センターの見直し、食料と製品の安全性、医薬品などの分野にシフトすることは間違いない。

 カークは、ビンソン& エルキンズ(Vinson & Elkins LLP)という法律事務所の経営者としてテキサスにおけるオバマの選挙を取り仕切っていた。そうした論功行賞としてUSTRの座を与えられたという側面を否定はできないが、少なくとも、オバマはファスト・トラック権限にはこだわっていないようである
http://www.ogilvypr.com/en/expert-view/obama-administration-china-what-does-future-hold)。

野崎日記(208) 新しい世界秩序(25)パックス・サイノ・アメリカーナの予兆(7)

2009-08-14 10:20:32 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 オバマ政権下のUSTRが、09年3月4日、467ページにおよぶ、大部09年年報(USTR[2009], 2009 Trade Policy Agenda and 2008 Anual Report of the President of the United States on the Trade Agreements Program.を出した。そこでは、オバマ政権の通商政策がかなり綿密に説明されている。

 「これまでの単純な関税引き下げ交渉は適切な貿易政策ではない」。「貿易自由化の進展が途上国にどのような影響を与えるかが重要な問題として認識されなければならない」という瞠目すべき文が配置されている。

 「重要なことは、労働者とその家族、そしてコミュニティにっとっての経済的帰結である」、そのためにも、「議会にもわれわれの労働者支援政策に対する協力を求める」とした。

 少なくとも、米国が追求してきた貿易政策は、一部の資産家をさらに富裕化させ、世界の貧しい人々に影響を与えてきたことを見過ごすべきではない」。

 行き詰まっているドウハ・ラウンド(Doha Round)(11)を打開するためにも、労働者の生活とその環境の重視が改めて強調されているのである。

 たとえば、NAFTAに触れ、米国の南北の境界線に接するメキシコとカナダの労働者に被害が及ぶような貿易はおこなわれるるべきではないとしている。これは、オバマの大統領選で、NAFTAが労働者にマイナスの影響を与えているとの批判に呼応するものである(Bridges Weekly, 6 November 2008, http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/32652/)。

 15年にもわたる貿易交渉のなかで、労働者の生活と環境問題を主たる討議事項にしたいとオバマは、カナダ首相のステーブン・ハイパー(Stephen Harper)と09年2月に語っていた(Bridges Weekly, 25 February 2009, http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/41648/)。 

 報告書は訴えている。「われわれは労働者福祉を犠牲にするような貿易拡大は望まないし、環境を無視するような競争力強化など望まない」と。

 こうした条件を組み込んだ自由貿易協定(Free Trade Agreement=FTA)の成功例として、同北書はパナマと米国との間に交わされたものであるとしている(12)。労働者福祉を前面に押し立てたFTAをコロンビアと韓国とも結ぶ積もりであることを同報告書は強調している。

 ただし、パナマFTAは上院議員の強い支持を得ているが、コロンビアについては、民主党議員のなかに強い不信感があり、韓国については、自動車労働組合の疑念もあり、すんなりとは合意されないであろう。

 大統領にとって、円滑な貿易交渉を進めるのはファスト・トラック権限を議会から与えられることがこれまでは必要であった。子ブッシュ政権は、02~07年、チリ、シンガポール、オーストラリア、モロッコ、バーレーン、オマーン、中米諸国、ドミニカ等との貿易交渉におぴて、ファスト・トラックの権限をフルに活用した。しかし、この権限は07年1月1日に失効し、今日まで議会は大統領にこの権限を付与していない。

 オバマもこれを望んでいるのは確かである。しかも、クリントン政権と異なり、オバマ政権は議会両院で多数を占めている。したがって、オバマはファスト・トラック権限を議会から付与される可能性はクリントンよりはるかに強い。しかし、そのオバマはUSTRにカークを選んだように、大統領権限の強化ではなく、途上国との対話、そしてなによりも議会との妥協を最優先しているように思われる
http://ictsd.net/i/news/bridgesweekly/42281/ )。

 事実、オバマな選挙キャンペーン中、ファスト・トラックを求めるよりも、貿易交渉において、議会の関与を重視すると説いて回っていたのである。

 オバマの貿易政策は、医療保険、地球温暖化問題、エネルギーの自立、金融部門などのサービス・センターの見直し、食料と製品の安全性、医薬品などの分野にシフトすることは間違いない。

 カークは、ビンソン& エルキンズ(Vinson & Elkins LLP)という法律事務所の経営者としてテキサスにおけるオバマの選挙を取り仕切っていた。そうした論功行賞としてUSTRの座を与えられたという側面を否定はできないが、少なくとも、オバマはファスト・トラック権限にはこだわっていないようである
http://www.ogilvypr.com/en/expert-view/obama-administration-china-what-does-future-hold)。

 


野崎日記(207) 新しい世界秩序(24)パックス・サイノ・アメリカーナの予兆(6)

2009-08-13 10:15:11 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 5 ガイトナーの役割


 オバマ政権下の財務長官ティモシー・ガイトナーは、米国の対中政策のキーマンになりそうである。彼は、財務長官になる前は、ニューヨーク連銀総裁であった。その前は、IMF。その前はクリントン政権で、国際部門担当財務次官(Under Secretary for International Affairs)であった。 ルービン財務長官、サマーズ財務長官の下で次官を務めたのである。

 ガイトナーの父は、中国でフォード財団中国事務所設立責任者で、フォード財団の主任研究員であった。ガイトナーは、父親の仕事の関係で、日本、中国、タイ、インドなどで暮したこともある。ダートマス大学でアジア研究、ジョンズ・ホプキンス大学大学院で日本と中国の研究をした。中国語に堪能である。また、米財務省に勤務していたときには、1990~92年、東京の米国大使館で勤務、実質的に同大使館における財務担当を務めた。また、その後成立したビル・クリントン政権時代には、ルービン長官およびサマーズ長官の下で国際担当財務次官も務めている。まさに、日本の大蔵省の橋渡し役として、頻繁に日米間を往復していた人物である。1990年代を通じてガイトナーは、日本の政財官人脈が豊富であることは間違いないが、中国共産党人脈も大きなものがあり、そのために、2001~03年の納税漏れスキャンダルでガイトナー降ろしが出たと原田武夫は指摘している
http://blog.goo.ne.jp/shiome/c/4377093b896823e2aef8a73e18f0dc37/1)。

 ガイトナーは、ペンシルバニア大学インド研究センターを作っている。彼の20年以上のキャリアには民間勤務の経験がないが、ゴールドマン・サックスとの関係は非常に濃密である。ゴールドマン・サックスは、後述するように米国投資銀行の要である。政府要人であったとき、彼は重要な地位にゴールドマン・サックスOBを多数つけた。中国への彼の傾斜にも同じくこの人脈が使われるであろうと中国側は認識しているようである
http://www.ogilvypr.com/en/expert-view/obama-administration-china-what-does-future-hold)。

 オバマ大統領は、通商代表部(USTR)に前ダラス市長のロン・カーク(Ron Kirk)を選んだ。上記の観測記事では、この人事は意外であったとしている。これまでのような大物の起用ではなかったからである。彼は、1981年、カークはテキサス州選出上院議員ロイド・ベンツェン(Lloyd Bentsen)の事務所に入り、ベンツェンの補佐官(aide)を務めた。カークは1983年にテキサス州に帰郷し、州議会でのロビー活動、ダラス市検事、法律事務所の経営を経たのち、1994年、テキサス州知事アン・リチャーズの下で州務長官を務めた。そして、1995~2001年ダラス初の黒人市長を務めた。市長として、カークは「ダラス計画」と呼ばれる25か年の都市改造計画を提起した。2001年、カークは連邦上院議員への立候補を表明し、2002年の2月にダラス市長を辞任、2002年の連邦上院議員選挙で敗れた。その後は、弁護士活動をしていた
http://www.ustr.gov/about-us/biographies-key-officials/united-states-trade-representative-ron-kirk)。

 カークは、通商問題の専門家ではない。しかし、02年の上院選挙での遊説のなかで、ファスト・トラック(Fast Track)問題にたびたび言及していた。

  名前通り「高速コース」である。通商交渉を迅速化させるべく、議会が、いちいち、議会と相談することなく相手国と交渉する権限を大統領に与え、交渉結果で作られた協定を議会がすべて認めるか全面拒否するかの一括審議方式をとるという 手続きのことである(木内恵『ITI季報』Autumun 2001/No.45, 「研究ノート」)。

 大統領にそうした権限を議会が与えるというのは、大統領への信任度合いによる。また一括審議方式とは、議会による修正動議を認めないという大統領の強い権限を意味する。

 この方式によると、大統領が締結した対外通商協定について、議会は90日以内に、これを全面的に支持するか、全面的に拒否するかの二者択一しか認められていない。通常の法案では、議会は提出された内容にいくつかの修正がなされ、一字一句も修正されないということなどまずない。ファスト・トラックではそうした修正がないというのが、重要なことなのであるが、これは大統領が、自分を信用しろという強い意志で相手国と交渉できるという意味を持っている。

 ファスト・トラックというのは通称であり、ただしくは「大統領貿易促進権限」(Trade Promotion Authority=TPA)という。

 1974年のフォード政権以降、大統領には、すべてファスト・トラック権限が与えられていた。クリントン政権では1963年5月時点で時効となった。クリントン政権は、1988年包括通商法で定められた権限を延長するなどしてNAFTA実施法およびびウルグアイ・ラウンド実施法を成立させたものの、それも、1994年4月に失効し、以降、クリントン政権下では、ファスト・トラック権限が与えられない状態であった。これは、上下院ともに共和党が多数派であったからである。

 そして、2001年に発足したブッシュ政権はWTOドーハ・ラウンド交渉、全米自由貿易地域(FTAA)交渉およびその他の二国間FTA交渉などとの関連で、TPA(ファスト・トラック)取得を重要な通商課題と位置づけていた。同年10月に議会に提出されたTPA法案は、同年12月6日に下院を通過し、2002年5月23日には上院を通過した。ただし、上院通過のさいに、いわゆる「デイトン・クレイグ修正条項」等の修正条項が付加された。これは、ファスト・トラックの適用のある通商協定の国内実施法案を上院で事後的に修正することを可能とする条項であり、TPAを実質的に骨抜きにするものであった。しかし、02年8月6日、ファスト・トラック法案は、ブッシュ大統領の署名により成立した(2002年超党派貿易促進権限法)。TPAは2005年6月に延長され、政権は再延長を議会に働きかけてきたが、議会の同意を得るには至らず、TPAは2007年7月1日に失効した
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/keizai/eco_tusho/tpa.html)。

 カークが、ファスト・トラックに反対したという実績は、オバマにとって好都合であった。オバマは、従来のファスト・トラックに替わって、議会との連携を模索しているからである。


野崎日記(206) 新しい世界秩序(23)パックス・サイノ・アメリカーナの予兆(5)

2009-08-11 16:00:24 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 4 中国の対外投資


 いまや米中間の貿易額は、双方向で3800億ドルを超え(US Census Bureau, US
International Trade Statistics. http://censtats.censUS.gov/cgi-bin/sitc/sitcCty.pl)、この年、両国のGDPの合計は世界の3分の1になった(World Bank, World Development
Indicators Database. "Gross domestic product, 2007."
http://siteresources.worldbank.org/DATASTATISTICS/Resources/GDP.pdf)。しかも、米国の対中借金は、公的・民間を合わせて、オバマ大統領就任時には2兆ドルを超す。

 これだけで見ても、米中間には大きな変化が生まれてくるはずである。

 まず、中国企業による米国市場での展開が活発になるだろう。

 中国は、すでに、米国内に膨大な投資をしている。とくに、中国投資有限責任公司(China Investment Corporation=CIC)という中国政府直轄の投資会社は、モルガン・スタンレーやブラックストーン(Blackstone)などの米系金融組織に投資している。CIC自体は、これら金融組織の株式保有を増やしてはいるが、中国政府の保有する外貨の外国投資は、09年には抑制気味に運営される方針である。中国国家外国為替管理局(State Administration of Foreign Exchange =SAFE)はそうした説明をしている。中国の保有するドル資産が目減りすることを警戒していたからである。事実副首相の王岐山(Wang Qishan)は、当時のヘンリー・ポールソン財務長官が訪中したときには、「中国の財米資産と投資の安全性を確保すべく米国は経済を安定すべきである」と申し入れた(Jacobs, Andrew,"Big Issues Unresolved in Paulson's Final China Dialogue,"International Herald Tribune, December 5th, 2008. http://www.iht.com/articles/2008/12/05/bUSiness/paulson.php)。

 さらに、CIC総裁の楼継(Gao Xiqing)も、米国の金融組織に投資している中国は不安感を増している、「わが人民は怒っている。彼らはやってきて口々にいう、『あなた方はどうして彼らを救うのか、あなた方は粥をすする貧乏人の代表者のはずだ、にもかかわらず、あなた方はフカヒレを楽しむ連中を救っている、なぜだ』と」。このように強い口調で財務長官を詰問した(Fallows, James, "Be Nice to Countries that Lend You Money," The Atlantic, December 2008. http://www.theatlantic.com/doc/200812/fallows-chinese-banker/2)。

 米中間には戦略的経済対話(Strategic Economic Dialogue=SED)というものがある(7)。
米国で金融危機が深刻化したお陰もあって、SEDの中心問題であった人民元切り上げ論は後退している。大統領選挙中の08年10月段階でのオバマは、「米中間の経済的不均衡を是正するという中心的問題は、中国の通貨政策の変化を通してでなくてはならない。・・・中国の通貨政策は米国企業と米国労働者にとってもよくない。世界にとってもよろしくない。結局は中国自身にインフレーションという害悪が襲うことにあんるだけである」と中国に関する論文に書いていたほどである(Obama, Barack, China Brief, U.S.-China
Policy Under an Obama Administration. October 2008)。

 しかし、人民元は、05年7月から08年8月までにほぼ18%切り上がった。それ以後は世界的な通貨混乱の渦中であり、適正為替レートなど存在しなくなってしまった。人民元のこれ以上の切り上げは中国の輸出が急減している中では、中国の耐えうることではない。事実、ポールソンジム長官の訪中時、人民元は対ドルで1%下落した。これは、中国政府が人民元切り上げに抵抗したものと受け取られている。

 中国人民銀行(PBOC)総裁の周小川(Zhou Xiaochuan,)などは、「米国は、貯蓄率を高め、貿易と財政赤字を 減少させるなどの国内調整を急ぐべきである」とポールソンにきつく当たった(Jacobs, Andrew,"Big Issues Unresolved in Paulson's Final China Dialogue,"
International Herald Tribune, December 5, 2008.
http://www.iht.com/articles/2008/12/05/bUSiness/paulson.php)。

 対米貿易において、中国側の膨大な黒字が米国から非難されるが、じつは中国の対米輸入は、メシキコ、カナダに次いで第3位なのである。日本は中国に第3位の座を明渡し、09年段階では第4位となっている。

 こうしたことから、米国の対中貿易規制は苦境に陥っている産業から急速に解除されているし、中国側も米国の苦境に立つ企業買収を真剣に模索し始めた。

 オバマ政権は、雇用増大を最高目標にしているようである。それは大統領首席補佐官のラーム・エマヌエル(Rahm Emanuel)の次の発言によく表現されている。「我々の第一目標は雇用である。我々の第二目標は雇用である。我々の第三目標は雇用である(Baker, Peter, "Economy May Delay Work on Obama's Campaign Pledges," The New York Times,
January 10, 2009. http://www.nytimes.com/2009/01/11/us/politics/11obama.html)。

 これは、確かに、オバマ政権が保護主義に傾斜していることを示すものである。ましてや、選挙期間中、オバマは「バイ・アメリカン」条項の導入をもほのめかしていたのである(Nichols, Hans, "Obama Says U.S. Must Act Swiftly to Address Economy ,"(Update1),
Bloomberg, January 3rd, 2009.
http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601103&sid=aeLGXDu_0Qiw&refer=news)。

 保護主義の台頭は、かつて、中国の聯想集団(Lenobo)によるIBMのパソコン部門買収時の経緯を想起させる(8)。当時は、国防上の理由から中国企業による米系ハイテク企業買収の是非をめぐって米国で議論が沸騰していた。しかし、結局はレノボによる米系ハイテク企業の買収は許可された。今回も、米国への外国人投資に関する委員会(Committee on Foreign Investment in the United States =CFIUS)が米国の国防上の観点から、どの程度、米国における中国投資の動向を精査してい
るかどうかは分からない。

 しかし、米資本もまた中国内に確かな足がかりを掴もうと懸命になっているので、そうした両国の折り合いが今後の米中投資協議の行方を決定することになろう。

 08年8月、中国では新しい独占禁止法が施行されるようになった。この法律によって外資系企業は中国での展開に足枷をはめられることになった。

 中国への貢献がに止められなければ投資活動が認可されないという厳しい内容を持つ法律である(Steve Dickinson,"China Oopposes Trade Protectionism Under Pretext of Product
Quality,"Xinhua News Agency, October 17, 2007.
http://news.xinhuanet.com/english/2007-10/17/content_6894990.htm)。

 この法律が携わる最初の審査は、コカコーラによる中国匯源果汁集団有限公司(China Huiyuan Juice Group Ltd)買収案件についてである。法律の施行以後、法律とは直接の関係はないが、09年に入って、外資系企業と中国企業とのいくつかの提携交渉が頓挫している。たとえば、日本の半導体メーカー、エルピーダ・メモリーと中国のベンチャーとの提携は延期された。クライスラーと中国の奇瑞汽车股份有限公司(Cherry Automotive)との提携話はクライスラーの倒産によって破談になった。

 そうした少数例はあるものの、米中間の資本提携は進んでいる。クレディ・スイス( Credit Suisse )と中国の方正株式会社(Founder Securities)は08年12月31日に中国での合弁会社の営業許可を取得した(http://www.founder.com/show-17-13796.html)。そしてその新会社は、クレディ・スイス・ファウンダー・セキュリティーズという名前になり、クレディ・スイス側が33.7%、ファンダー側が66.3%を出資した(
http://news.alibaba.com/article/detail/business-in-china/100036225-1-credit-suisse%252C-founder-s
ecurities-jv.html)。この新会社はさらに、ゴールドマン・サックスとUBSに資本参加して中国内外の証券ビジネスを扱うようになった。

 中国の証券会社は、04年の134社から08年には107に減少した。これは、M&Aを繰り返して巨大証券会社が誕生したことを意味する。

 なかでも、外資との合弁が巨大化に弾みをつけた。08年8月までに中国には7つの外資と合弁した証券会社ができていた。中国国际金融有限公司(CICC=China International Capital Corporation)(9)、ゴールドマン・サックス高華証券Goldman Sachs Gao Hua Secutrities)(10)、UBS, BOC, CESL, 大和SMBC証券(Daiwa SMBC-SSC Securities)、先述のクレディ・スイス・ファウンダー証券(CS Founder Securities)である。このうち、CICC、ゴールドマン・サックス、UBSとの合弁証券会社がIPO(新規株式公開)取り扱いの41.6%のシェアを占めたのである。中国系の証券会社は、株式売買などの伝統的業務に限定しているので、中国のIPOをはじめとする投資業務は、こうした外資系によって握られているといえる
http://www.infoshop-japan.com/study/rinc78270-cn-securities_toc.html)。

 こうして、クレディ・スイスを先鞭として、ゴールドマン・サックス、UBS、モルガン・スタンレー、シティ・グループなどの外資系投資銀行が競って中国市場を目指したのである。


野崎日記(205) 新しい世界秩序(22)パックス・サイノ・アメリカーナの予兆(4)

2009-08-10 15:51:54 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 これら上位5か国の05年12月時点での保有額と順位を見ておこう。

 09年で1位の中国は、05年では、3100億ドルで2位であった。05年12月から09年2月までのわずか3年と3か月で保有額を2.5倍弱に増やしたのである。

 09年で2位であった日本は、05年時点では6700億ドル、飛び抜けた1位であった。しかし、05年から09年にかけて日本は買い増すどころか、80億ドル強ほど保有額を減らしている。

 3位であったカリブのオフショア金融勢力は、772億ドルで5位であった。3年そこそこの間に、保有額を2.4倍強ほど激増させたのである。

 4位であった石油輸出国は、05年では782億ドルで同じく4位であった。これも2.3倍強と保有額を伸ばした。

 劇的な変化は、09年で5位であったブラジルである。05年では287億ドルと、じつに15位という位置であった。3年3か月の間に保有額を4.5倍強も激増させたのである。

 上位5か国から消えた国の代表は英国である。05年と06年はさすがに米国の盟友として英国はそれなりの米国債購入者であった。05年には1460億ドル、06年には2391億ドルと931億ドルも増やした。この両年とも、英国の保有額は日中につぎ3位であった。しかし、その後、英国は、保有額を減らす傾向を示している(5)。

 各国毎に06年と05年の保有額を記しておく。06年のランキングで並べる。括弧の外が06年、括弧内が05年である。

 1位は日本6443億ドル(6700億ドル)、2位は中国3496億ドル(3100億ドル)、3位は英国2391億ドル(1460億ドル)、4位は石油輸出国1009億ドル(782億ドル)、5位は韓国700億ドル(690億ドル)、6位はカリブ諸島の金融機関680億ドル(772億ドル)、7位は台湾631億ドル(681億ドル)、8位は香港539億ドル(403億ドル)、9位はドイツ525億ドル(499億ドル)、10位はブラジル521億ドル(287億ドル)、11位はカナダ478億ドル(279億ドル)、12位はルクセンブルク386億ドル(356億ドル)、13位はメキシコ345億ドル(350億ドル)、14位はシンガポール306億ドル(330億ドル)、15位はメキシコ297億ドル(309億ドル)、16位はスイス272億ドル(308億ドル)、17位はトルコ223億ドル(174億ドル)、18位はオランダ184億ドル(157億ドル)、19位はアイルランド177億ドル(197億ドル)、20位はタイ173億ドル(161億ドル)、21位はベルギー169億ドル(170億ドル)、22位はスウェーデン169億ドル(163億ドル)、23位はイスラエル162億ドル(125億ドル)、24位はポーランド142億ドル(37億ドル)、25位はイタリア141億ドル(154億ドル)、26位はインド140億ドル(99億ドル)、その他の諸国1536億ドル(1495億ドル)、総合計2兆2235億ドル(2兆339億ドル)であった。

 CIA World Fact Bookによると、2006年の為替レート・ベースで、世界のGDPは46兆6600億ドル、米国のGDPは13兆2200億ドル、米国を除く世界のGDPは33兆4400億ドルであった。

 日本のGDPは4兆9110億ドルで米国を除く世界のGDPの14.68%、2006年12月時の米国債の国外保有全体に占めるシェアは28.97%。ドイツのGDPは2兆8990億ドルで米国を除く世界のGDPの8.67%、2006年12月時の米国債の国外保有全体に占めるシェアは2.36%。中国のGDPは2兆5120億ドルで米国を除く世界のGDPの7.51%、2006年12月時の米国債の国外保有全体に占めるシェアは15.72%しかなかった。英国のGDPは2兆3410億ドルで米国を除く世界のGDPの7.00%、2006年12月時の米国国債の国外保有全体に占めるシェアは10.75%であった(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2815067.html)。

 09年3月のデータも示しておこう。括弧内は08年3月時点の数値である。09年3月時点での保有額の多い順に並べてある。

 1位は中国7679億ドル(4906億ドル)、2位は日本6867億ドル(5974億ドル)、3位はカリブ諸島の金融機関2136億ドル(1087億ドル)、4位は石油輸出国1920億ドル(1507億ドル)、5位はロシア1384億ドル(424億ドル)、6位は英国1282億ドル(2001億ドル)、7位はブラジル1266億ドル(1491億ドル)、8位はルクセンブルク1061億ドル(898億ドル)、9位は香港789億ドル(605億ドル)、10位は台湾748億ドル(408億ドル)、11位はスイス677億ドル(412億ドル)、12位はドイツ550億ドル(421億ドル)、13位はアイルランド547億ドル(176億ドル)、14位はシンガポール391億ドル(333億ドル)、15位はインド382億ドル(118億ドル)、16位はメキシコ363億ドル(383億ドル)、17位は韓国331億ドル(407億ドル)、18位はトルコ302億ドル(287億ドル)、19位はフランス271億ドル(15億ドル)、20位はノルウェー262億ドル(445億ドル)、21位はタイ260億ドル(257億ドル)、22位はイスラエル194億ドル(65億ドル)、23位はエジプト185億ドル(127億ドル)、24位はオランダ176億ドル(150億ドル)、25位はイタリア166億ドル(111億ドル)、26位はチリ155億ドル(97億ドル)、27位はベルギー154億ドル(128億ドル)、28位はスウェーデン125億ドル(132億ドル)、29位はフィリピン124億ドル(108億ドル)、30位はカナダ119億ドル(219億ドル)、31位はコロンビア112億ドル(67億ドル)、32位はマレーシア106億ドル(92億ドル)、その他1567億ドル(1207億ドル)、総計3兆2652億ドル(2兆5058ドル)である。

 列記された諸国の保有額が、総計の95%強を占めている。すでに指摘したこと以外に08年3月から09年3月までの変化には次のような特徴がある。

 ①ロシアの急浮上が目立つ。900億ドル強も積み増した。ロシアも本気で米国を支える政策に転換したようである。

  ②いままで米国のドル政策に冷淡であったフランスまでもが米国を支えようとしだした。ただし、経済力の大きさからすればフランスはまだ本気になっていないともいえる。

  ③英国、ルクセンブルク、ドイツ、スイス、アイルランド以外のヨーロッパ勢は総じて米国に冷淡で、おつきあい程度に米国債を保有するにすぎない。

  ④隣国カナダも冷淡である。

  ⑤そうはいっても7600億ドルも外国人による米国債保有が増えた。これは、30%もの増加である。

  ⑥当然ではあるが、米国債保有は米国との政治的関係を反映しているものと思われる。