消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.139 必要な非人口論的処方箋

2007-07-30 08:53:14 | 老齢化社会を生きる(福井日記)

 それにしても、人口論も様変わりをしたものである。初期の人口論は、過剰人口を解消するのに、出移民と産児制限のどちらが効果的かという発想からの経験論的研究であった。そして、産児制限の方が過剰人口対策には効果があるというのが、初期の一般的な結論であった。それが、ここにきて、人口減少を止めるために移民を呼び込もうという人口論が出現することになった(人口論の系譜については、Feichitinger & Steinmann[1990])。 

 しかし、少なくともヨーロッパ諸国では、人口減少をそれほど気にしていない。
 英国などは、公的文書で、人口増加の停止を歓迎したほどである(UK[1973])。英国では、出生率が高まり、移民依存の度合いを急速に小さくしているのである。

 オランダ王室人口委員会(the Dutch Royal Commission on Population) は、「出産率低下による人口の自然増の停止は望ましいことである」とまで言い切った(Netherlands Staatscommissie Bevolkingsvraagstuk[1977])。

 ロシアでは、1999年新生児の数が志望者数を93万人上回った。
 ドイツでは、低出生率による人口減少を補うには、年間30万人の入移民が必要であると試算されていたのに、それよりもはるかに多くの入移民があって、ドイツの人口は増加してしまった。ドイツでは、大量の入移民が国内の人種構成を大幅に変えてしまうとの議論すら出ている。人口に占める自国民の比率は、急速に低下している。

 
1998年、ドイツ人の自然減は15万4,000人であった。しかし、外国生まれの母親が生んだ新生児は8万6,000人であった。その上に、30万人を超える入移民があったのである(Coleman D. A.[2001], p. 5)。

 ドイツで生じた問題は、かなり以前からEU委員会では危惧されていた。EUでは、補充移民で人口構成を調整することの危険性がつとに意識されていた。

 通常、入移民の出生率は、移民先の国民のそれよりも高い。それゆえに、補充移民受け入れ国では人種構成が激変する。移民の数の方が受け入れ国民よりも大きくなる可能性がある(Colman, D. A.[1994])。しかも、移民の出生率は、移民が出てきた母国の出生率をも上回るのである(Steinmann & Jäger[1997])。

 米国では、2050年には、ヒスパニックではない白人は、現在の多数派から転落するであろうとの公式推計が出されている(US Bureau of the Census[1992])。

 ただし、入移民が、移民先の人口構成に大きな影響を与えることはないだろうとの、上記とは正反対の展望も出されている。

 これは、流入する移民の年齢が、移民先の年齢構成を変えるほどの若さではなく、移民先の中位年齢よりもほんの10歳程度若いだけであることを重視する立場である。それに、持続的な大規模移民はなく、アトランダムな移民であったことによる。

 しかも、移民が低出生率の国に流入したところで、移民自体の出生率が早期に現地に適応してしまうという統計結果すら出されている(Coleman D. A.[2001], pp. 7-8)。

 重要なことは、依然として、人口高齢化が不可避であるという事実である。20世紀後半、先進諸国は、人口の年齢構成で異例の好条件に恵まれていた。

 
生産年齢人口が扶養しなければならない幼年者数も高齢者数も少なかったからである。しかし、その好条件も、20世紀末から急速に失われることになった。人口構成が変化する過渡期の初期には、年少者の扶養負担が増え、その後に老年の扶養負担が増えた。第3世界も出生率低下がすでに始まっているので、21世紀半ばには先進国と同じ悩みをもつことになるだろう。

 19世紀初頭、1家族当たりの子供の数は5~6人であったが、いまでは2人ないしはそれ以下にまで減少している。平均寿命(expectation of life)は35歳から75歳にまで伸びている(Coleman D. A.[2001], p. 5)。

 最近の先進諸国では、新生児の98%が50歳まで生きると計測されている。これは人口の平均年齢(average age of the population)を超えている。また、死亡率も年間1~2%の比率で低下し続けている。出生率と死亡率の低下が人口の高齢化を加速させるのは不可避である(Kannisto et al[1994])。

 高齢化社会をもたらす要因のうち、死亡率の低下の方が出生率の低下よりも大きなものであるという研究がある。以前よりも晩婚傾向があり、高齢出産の比率が増えているために、出生率の低下が高齢化社会をもたらす影響は、一般に信じられているほどには大きくはない。出生率の一時的な大きな低下は、過去、幾たびも見られたが、早期に回復し、持続的な低下傾向があっても、その比率は緩やかである。それに対して、死亡率の低下は持続的に大きなものである(Calot & Sardon[1999])。

 人口構成には、一種の惰性がある。出生率が死亡率を下回った最初の年からほぼ60年後に、出生率が死亡率を上回るようになるという傾向がある(Coleman D. A.[2001], p. 6)。

 こうした人口減少過程の中で、まず出生率の低下が効いてくる。そして、出生率の低下が緩和された後も、死亡率の低下効果が持続的に効いてくる。

 結局、人口構成を以前の有利な状態に戻すには、高い出生率を実現しなければならないが、これが実現したとしても、実効が生じるには20年間はかかる。しかし、それも人口爆発という負の側面をも生み出してしまう。つまり、人口論的には、解決策などないのである。移民で人口構成を維持するという政策を採用してしまえば、もとからの国民は少数者になり、移民のみがはびこる社会になってしまうだろう。国民のアイデンティなどすっ飛んでしまうだろう(Coleman D. A.[2001], p. 8)。実際には生じないであろうが、理論上は、人口の年齢構成を維持するために必要とされる補充移民の数は、天文学的な数値になるという研究が、国連報告が出されるよりずっと以前にあったのである(Lesthaeghe et al[1988]。)

 結局、人口論的に問題を解決することは不可能であるとの結論を出さざるをえない。人口減少という事実に社会体制を適合させるしかないのである。人口構成からくる社会的な困難さは、人口論的ではなく、口論的に解決されなければならない。

 1つは、生産人口を現実的に増やすことである。たとえば、英国では人口論的な生産年齢人口のうち、実際に働いているのは78%にすぎない。引退が早期に行われる、大学進学率が高い、等々の理由からである。つまり、人口論的には年金受給者を支える納税者は、年金受給者1人に対して4.1人であるが、現実には3.2人にすぎない。しかも、15歳以上の働いていない人数は、働いている人数の1.67倍もある。そして、この数は、傾向的にますます大きくなる。これをまず下げなければならない。

 子育て中の女性が育児と勤務とを両立させているスカンディナビア諸国のような施策を講じることも重要である。EU内では、オランダの労働参加率がもっとも高いが、この水準にEU諸国が達すれば、それだけで労働者数は大幅に増える。男性の労働力化率を1971年の水準にまで戻し、女性の労働力化も65歳にまで延長させる。こうしたことによって、生産者数を84%にまで増やすことができるし、15歳以上で働いていない人数の、働いている人に対する比率を1.54に下げることができる(ただし、2050年、Coleman「2000], Table10)。

 兎にも角にも、労働意欲を高め、働ける環境を改善することである。陳腐すぎる処方箋ではあれ、これ以外には解決策はない。



福井日記 No.138 国連の移民論=「世界は1つ」

2007-07-29 15:09:35 | 老齢化社会を生きる(福井日記)

 先進諸国が、出生率と死亡率の低下によって、軒並み世代維持に困難を覚えるとした国連報告は、かなりセンセーショナルな受け取られ方をされた。

 たとえば、India Abroad という新聞には、「ヨーロッパはもっと多くの移民を必要とする、国連報告」というタイトルの記事が掲載されたし(January 14, 2000)、イマニュエル・ウォーラスティンは、自らのホームページで以下のように書いている。

 「富裕な国は、自国の引退者(それも空前の比率で増大している)の生活水準を引き下げるか、貧しい国からの異例なほどの膨大な数の移民を認めるかの選択に直面している」(Wallerstein, Immanuel,"Comment" No. 32, 2000)。

 EU閣僚会議では、フランスの内務相が、国連報告の線に沿って、EUは2050年までに5,000万~7,500万人の移民を受け入れなければならないと発言した(Guardian, July 28, 2000)。

 国連報告は、必要補充移民という概念について、政策提言ではなく、単なる数値的な算定作業を行っただけであると幾度も弁明してはいるものの、国連の常設機関には、人々は好む所、どこでも移り住む権利を認められるべきだとの考え方が強くもたれている。

 一般に、「世界は1つ論」(one-worldism)と呼ばれる思想がそれである。

 富と人口を地球的規模で再分配すべきであるというのである。たとえば、国連環境計画の報告は、かなり、直截的に人と富の再配分の必要性を訴えている。

 「人はすべて、自分の好む所に自由に移り住み、そこで働くことが認められるべきである」、(そうすることによって)「現在の不安定をもたらしている諸国間の経済・社会面における格差を急速に削減することができる」(UN[2000])。

 国際連盟時代の初代ILO理事(director)のアルベール・トーマ(Albert Thomas)は、かつて次のようなことを言った。

 「優れた一種の超国家的権力ができて、移民の動きを管理し、それぞれの移民の流れに対して、ある国に門戸を開かせ、別の国には門戸を閉ざさせることによって、人口を合理的に、公平に再配分することができるようになればいい」(Thomas, Albert[1927])。

 人種の拘束を離れて、国籍を選択することができ、世界のどこにでも住むことができ、どこでも公平に扱われるという社会は人類の究極の夢である。EUにそれに似た社会が出現しつつあるが、まだまだ夢のほんの入り口でしかない。

 もし、そうした夢のような社会が出現すれば、現在、世界中で展開されている殺戮は陰を潜めるようになるであろう。

 こんなことを言えば、リアリストたちは、移民を生み出す社会的混乱と移民がもたらす社会的緊張を、まったく無視する素朴な議論であると一笑に付すであろうが、現実に移民は増えているし、歴史的にも、移民がもたらした文明化作用は巨大ななものであった。移民自身が異国の地でその才能を鍛え上げることができたという事実は否めないことである。

 実際、世界では、すでに異民族の混在が普通のものになっている。
  1999年時点で、オーストラリアでは、外国生まれの人々が人口の23.6%を占めている。しかも、その比率は大きくなりつつある。1990年では、23.4%であった。

 米国でも、1990年では7.9%であったのに、1999年では10%前後にまで高まった。
 カナダも1910~30年代の15%から、いまでは15.5%になっている。

 スイスも、1990年の16%台から現在は19%台に高まっている。スイスのこの高まりは、今では人口の4.5%を占める旧ユーゴからの逃避者の激増のせいである。スイスは、2000年9月に外国生まれの人口を18%以内に抑えようとした移民削減法の成立を目指したが失敗した。

 主要都市人口で見ると、その比率はぐんと大きくなる。1990年のデータでは、ニューヨーク28%、ロサンゼルス38%であった。1996年のデータでは、シドニー32%、メルボルン30%であった。しかし、日本は0.7%、ハンガリーは0.3%でしかない(数値は、UN[1996]のシリーズより)。

 もちろん、移民の増大をもって、単純にそれはいいことだと言い切ることはできない。高度な技術をもつことから競って世界から招聘される恵まれた一群の人々がいる一方で、故郷を追われて異国の地に移り住んでも、そこでまた苛酷な生活に打ちのめされる人々の群れがある。

 「世界は、すでに2つのカテゴリーに分かれている。コスモポリタンの考え方をもち、世界を我が家と見なすグローバルな人々がいる。その一方で、どの地に行こうとゲットーに住まねばならず、自らを閉ざし、他から排除されるさまよう人々がいる」(Bauman, Zigmunt[1998])。

 たとえば、1989年以降、ブルガリアから100万人が国外に出た。ブルガリアの人口は800万人であったのだから、人口の16%も国外に移住した。

 ブルガリア人の海外移住には、2つの流れがあった。1つは、1990年から99年にかけてのものである。

 
この時は、ベルリンの壁の崩壊によって、国外に新天地を求める若者たちが海外に流出した。18歳から20歳の若者が自己実現を目指して流出した。その後、30歳から40歳の高等教育を受けた専門家たちが流出した。彼らは、より高い地位を求めて海外に移住した人々であった。比較的恵まれた層であった。

 2つめの流れは、社会主義の崩壊とともに、企業破産が続き、職を失ったブルーカラーの海外脱出である。

 
この層は、29~40歳の男性であった。第1陣は成功組であったが、第2陣は脱落組であった(Reytan-Marincbesbka, Tania[2006])。 

 「他から排除されるさまよう人々」の悲惨さを直視しないかぎり、単純な移民賛美論を云々することは犯罪である。

 研究者の多くは、国連報告のような、安易な補充移民依存論には否定的である。

 
そもそも移民は、社会の緊張から生み出されるものであって、先進国の都合によって引き起こされるものではない。難民も含めて、移民は、移出国と移入国との政府間協定で行われるものである。そうした社会的制約を無視して、単に人口変動という要因からのみ、必要な補充移民を算定するというのは、あまりにも「手前勝手な人口論」(privileging demography)であると退けるのが、一般的な反応である(McNicll, Geoffrey[2000], p. 1)。

 確かにそうである。しかし、私は、世界の貧困を直視する国連の良心的な研究者たちが、「世界は1つ論」を出したくなるせつない気持ちを理解できる。研修員制度という、まやかしの建前論の裏で、膨大な移民が生み出されている。彼らは法の保護もなく、企業のむき出しのエゴの犠牲にされている。いまは、現実に増大している移民という「現実」を直視し、彼らの人権を保護する方策を模索すべきときなのである。移民が必要か否かという牧歌的な議論はもうよそう。現に目の前で悲鳴をあげている外国人に手をさしのべようではないか。

 ここで、少し横道に逸れて、ILOの事務局長について説明しておこう。
 ILO(国際労働機関、the International Labour Organization)は、第1次世界大戦が終結した1919年、最初にパリ、次いでベルサイユで開催された平和会議において誕生した。1901年の国際労働立法協会(本部バーゼル)の理念を継承するものである。ベルサイユ平和条約第13編が後のILO憲章になった。

 労働者の数が増え続けていたにもかかわらず、彼らの健康、その家族の生活、発展には何の配慮も払われず、搾取が続けられ、その状況はもはや見過ごせなくなっていた。そのことは、ILO憲章前文に「不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在」していると明記されている。さらに、労働者に対する使用者側の不正が、「世界の平和及び協調が危うくされるほど大きな社会不安」を起こすと憲章前文にはある。しかし、社会改革を行う国や産業は、それが生産コストに直結するため、競争相手より不利になることから、社会改革を政府が行わなくなることを怖れたILOは、同じく憲章前文に、「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」と記している。

 そして、憲章冒頭には、「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」とある。

 ILO憲章は、1919年1月から4月にかけて、パリ平和会議の設置した国際労働立法委員会によって起草されたものである。米労働総同盟(AFL)のサミュエル・ゴンパース、Samuel Gompers、1850~1924年)会長を委員長とするこの委員会は、日本(落合謙太郎オランダ駐在公使と農商務省前商工局長の岡実が参加)、ベルギー、キューバ、チェコスロバキア、フランス、イタリア、ポーランド、英国、米国の9か国15名の代表から構成され、執行機関に政府、使用者、労働者の代表が参加するという唯一の三者構成の国際機関を生み出した。

 1919年10月にワシントンで開会された第1回ILO総会では、労働時間、失業、母性保護、女性の夜業、労働者の最低年齢と年少者の夜業を扱う6本の条約が採択さた。

 総会によって選出されるILOの最高執行機関である理事会は、半数が政府の代表、4分の1が労働者の代表、そして4分の1が使用者の代表で構成されているが、ILOの常設事務局である国際労働事務局の初代事務局長としてアルベール・トーマ(Albert Thomas、1878~1932年)を選出した。彼は、戦時政府で軍需を担当したフランスの政治家であった。

 1920年の夏、ジュネーブにILOの本部が設置された。しかし、ILOを推進する世界の熱意は急速に冷め、一部の政府から条約が多すぎ、出版物は過度に批判的で、予算が高すぎるとの批判が出たため、すべてが縮小された。それでも、1926年のILO総会では、重要な画期的展開として今日まで存続する基準適用監視機構が設けらた。こうして誕生した専門家委員会は独立した法律家で構成され、毎年、基準の適用状況に関する政府報告を審議し、委員会自体の報告を総会に提出している。

 13年にわたりILOの存在を世界に強く印象づけた後で、1932年にトーマ事務局長が急死した。後継者は、ILO創設以来事務局次長を務めてきた英国のハロルド・バトラー(Harold Butler)であるが、着任早々大恐慌下の大量失業の問題に直面した。この時期、労使団体は労働時間短縮の問題で対立したが、大した結果は得られなかった。それでも、1934年にルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、1882~1945年)政権下の米国が、国際連盟非加盟のままでILOに加盟した。

 1939年に、辞任したバトラー事務局長の後任として、ニュー・ハンプシャー州知事、米国社会保障庁初代長官を務め、当時ILOの事務局次長であったジョン・ワイナント(John G. Winant、1889~1947年)が第3代事務局長に着任した。

 1940年5月、戦火が広がる欧州の中心にあって孤立し、脅威にさらされていたスイスの現状を見た事務局長は、ILOの本部を一時的にカナダのモントリオールに移転させた。

 1941年、ワイナント事務局長は米国の駐英大使に任命され、ジョゼフ・ケネディ(Josef Kennedy、1857~1929年)の後任としてロンドンに赴任した。

 1941年に第4代事務局長に任命されたアイルランドのエドワード・フィーラン(Edward J. Phelan、1888~1967年)は、憲章起草に関わった人である。

 
第2次世界大戦のただ中の1944年5月、41か国の政労使代表が出席してフィラデルフィアで開かれたILO総会で採択されたフィラデルフィア宣言(国際労働機関の目的に関する宣言)は、ILO憲章の重要な付属文書となっている。その最初の部分には以下のようなことが記されている。

 「総会は、この機関の基礎となっている根本原則、特に次のことを再確認する。
 (a) 労働は、商品ではない。
 (b) 表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
 (c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
 (d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する」。

 さらに、フィーラン事務局長時代の1948年のILO総会では、結社の自由と団結権に関する第87号条約が採択されている。

 1948年にトルーマン(Harry S. Truman、1884~1972年)政権で重要な役割を演じていた米国人デイビッド・モース(David A. Morse、1907~1990年)が第5代事務局長に就任した。モース事務局長は1970年まで在任しが、その22年間で、加盟国数は倍増し、先進国は途上国に埋没した少数派となり、予算は5倍に増え、職員数も4倍になった。

 ILOは、1960年にジュネーブの本部内に国際労働問題研究所を、1965年にはトリノに国際研修センターを設置した。

 1969年、創立50周年を迎えたILOはノーベル平和賞を受賞した。
モース事務局長時代に、ILOは本格的な技術協力に乗り出した。

 第6代事務局長となった英国のウィルフレッド・ジェンクス(Wilfred Jenks)は1970年に就任し、在任中の1973年に死去したが、この間、東西問題から生じる労働問題の政治化に直面することとなった。フィーラン第4代事務局長共々フィラデルフィア宣言の起草者の1人であり、著名な法律家でもあったジェンクス事務局長は人権、法の秩序、三者構成主義、そして国際問題に関するILOの道徳的権限を強く擁護した。ジェンクス事務局長は基準並びにその適用監視機構の開発、とりわけ、結社の自由と団結権の推進に多大に貢献した。

 ジェンクス事務局長の後任となったのは、フランスの上級政府職員であったフランシス・ブランシャール(Francis Blanchard)。ブランシャール事務局長は1974年から1989年の15年間、事務局長を務めたが、任期中、米国が脱退(1977~80年)により、予算の25%の削減を余儀なくされた。米国は、レーガン(Ronald Wilson Reagan、1911~2004年)
政権初期にILOに復帰した。この間、ILOは、ポーランドの労組「連帯」を支持した。

 1989年、冷戦後の初の事務局長としてベルギーの雇用労働相、公務相を務めたミシェル・アンセンヌ(Michel Hansenne)が第8代事務局長に就任した。アンセンヌ事務局長のもとで、ILOは、積極的パートナーシップ政策を採用し、活動や資源のジュネーブからの分散を図った。

 1999年に、第9代事務局長として就任したチリ出身のフアン・ソマビア(Juan Somavia)は、社会と経済の開放は、「普通の人々とその家族にもたらす真の利益が均衡する限り」認めると、開かれた社会と開放経済の推進に条件をつけた。初の南半球出身の事務局長として、ソマビア事務局長、「世界の新たな現実の中で、ILOの価値を普及させるため、政労使の三者体制を刷新し、その舵取りを支援」していくと言明した(http://www.ilo.org/global/lang--en/index.htm)。



福井日記 No.137 従属人口比率

2007-07-28 12:05:19 | 老齢化社会を生きる(福井日記)

 平成2(1990)年6月に「1.57」ショックが日本に起こった。平成元(1989)年の合計特殊出生率が昭和41(1966)年の異常に低かった出生率1.58をさらに下回って1.57になったのである。

 合計特殊出生率とは、正確には期間合計特殊出生率のことである。女性の出産可能な年齢を15歳から49歳までと規定し、年齢ごとの出生率を出し、それを足し合わせることで、人口構成の偏りを排除し、1人の女性が一生に産む子供の数の平均を求めることができる。これを期間合計特殊出生率という。

 死亡率が不変で、合計特殊出生率が高ければ、将来の人口は自然増を示し、低ければ自然減を示すことになる。

 仮に、調査対象における男女比が1対1であり、すべての女性が出産可能年齢以上まで生きるとすると、合計特殊出生率が2であれば人口は横ばいを示し、これを上回れば自然増、下回れば自然減となるはずである。 しかし、実際には生まれてくる子供の男女比は男性が若干高いこと、出産可能年齢以下で死亡する女性がいることから、自然増と自然減との境目は2.08とされている。

 一方、期間合計特殊出生率は、ある年における全年齢の女性の出生状況を、1人の女性が行うと仮定して算出する数値であるから、調査対象のライフスタイルが世代ごとに異なる場合には、その値は「1人の女性が一生に産む子供の数」を正確に示さない。具体的には、早婚化などにより出産年齢が早まると、早い年齢で出産する女性と、旧来のスタイルで出産する女性とが同じ年に存在することになるので、見かけ上の期間合計特殊出生率は高い値を示す。逆に、晩婚化が進行中ならば、見かけ上の期間合計特殊出生率は低い値を示す。

 厚生労働省が発表する「人口動態統計特殊報告」によると、終戦直後の第1次ベビーブームの頃には期間合計特殊出生率は4.5以上の高い値を示したが、1950年代には3を割り、1975年には2を割り込むようになって将来の人口減少が予測されるようになった。

 さらに、2004年の合計特殊出生率は1.2888で、2003年の1.2905より低下し過去最低を更新し続け、2005年の期間合計特殊出生率も、1.26となり2004年の水準からさらに低下した(ウィキペディアより)。

 昭和41(1966)年の出生率が1.58と異常に低かったのは、その前年が丙午(ひのえ・うま)だったからである。

 丙午(「へいご」とも読む)は干支(えと)の1つである。干支とは、十干(じっかん)の甲(きのえ)、十二支(じゅうにし)の子(ね)の組み合わせから始めて(甲子、きのえ・ね)、乙丑(きのと・うし)、丙寅(ひのえ・とら)と続き、癸亥(みずのと・い)で終わる、60通りの組み合わせで年を表記する方法である。丙午は43番目に当たる。また、西暦年を60で割って46が余る年が丙午の年となる。陰陽五行では、十干の丙は火、十二支の午は火で、火が重なる(比和)のが丙午年である。

 五行には、「相生」「相剋(相克)」「比和」「相乗」「相侮」という関係のあり方が配置されている。

 「相生」は、順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。
 「相剋」は、相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。
 「比和」は、同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。

 「相侮」は、相剋とは異なり、互いに侮り合い、ともに駄目になっていく、反剋する関係にある。

 「相乗」は、互いに陵辱(乗)する、相剋が度を過ぎて過剰になったもの(ウィキペディアより)。

 丙午の年は、このように、火性が重なることから、「この年は火災が多い」、「この年に生まれた女性は気が強い」などの迷信が生まれた。

 さらに、「八百屋お七」が丙午の生まれだと言われていた(実際には戊申の生まれという説が有力)こともあって、この「迷信」がさらに広まることとなった。


 この年生まれの女性は、気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮める(「ひのえうまの女は、男を食い殺す」)との迷信があった。弘化3(1846)年の丙午には、女の嬰児が間引きされたという話が残っている。

 明治39(1906)年の丙午では、この年生まれの女性の多くが、丙午生まれという理由で結婚できなかったと言われている。

 この迷信は昭和時代にも尾を引いており、昭和41(1966年)の丙午では、子供を設けるのを避けた夫婦が多く、出生数は136万974人と他の年に比べて極端に少なくなった。その余波により1966年の前年、翌年の出生数は増えた(ウィキペディアより)。

 1990年の「1.57ショック」を受けて、政府が少子化の問題を初めて公にしたのは、1992年の『国民生活白書』(経済企画庁[1992])であった。副題に、「少子社会の到来、その影響と対応」という文言が配置されたことからも分かるように、政府は、少子化傾向に対して危機感を強めていた。

  この危機感に追い打ちをかけたのが、国連の補充移民報告だったのである。

 しかし、日本の実際の人口減少・高齢化社会の進展ぶりは、国連報告よりも深刻である。年齢別の人口と比率を列挙しよう。

 まず、15歳未満の年少者人口。1995年では2,003万人で総人口に占める比率は16.0%であった。2000年には1,851万人、14.6%に下がっている。いずれも国勢調査による実績である。ところが、国立社会保障・人口問題研究所が発表した「日本の将来推計人口(平成18年12月推計)」(http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/suikei07/suikei.html)によれば、出生率の中位推定で見たとき、2050年の15歳未満の人口は、1,084万人、10.8%にまで激減する。

 15歳から64歳の生産年齢人口は、1995年8,726万人、69.5%、2000年8,638万人、68.1%、同研究所の推計で、2050年5,389万人、53.6%となる。
 そして、65歳以上の高齢者人口は、1995年1,828万人、14.6%、2000年2,204万人、17.4%、2050年3,586万人、35.7%である。

 総人口は、1995年1億2,557万人、2000年1億2,693万人、2050年1億59万人にまで減少する。

 2050年の推計値は出生率を中位と見たもので、特殊合計出生率は、2012年から1.5台になり、2019年から1.6台に回復するとの条件で、この数値は、推計されたものである。

 出生率の低位推計では、総人口は、2050年に1億人を割り込み、9,200万人程度にまで減少する。中位推計では、総人口は2006年の1億2,774万人をピークにしてその後は減少する。生産年齢人口は、すでに1995年をピークつぃて、すでに減少している。

 2050年には、生産年齢の人1.1人で年少・高齢者を養うことになり、事実上不可能なことである。2100年になると日本の総人口は、現在の半分の6,700万人にまで激減する。

 65歳以上の高齢者人口比率は、1980年代前半までは、先進国の中で日本がもっとも低い数値であった。しかしいまや、先進国中もっとも高い20%台に達している。

 高齢化の進行を測る指数として「倍化年数」というものがある。65歳以上の人口比率が、たとえば、7%から14%台に到達するまでの年数である。日本は、7%から14%になるのに、1970年から1994年までの24年かかった。これは世界最短時間である。先進国の中では、日本のつぎに倍化年数の短いドイツでもこの水準の変化に1932年から72年までの40年を要した。フランスにいたっては、1864年から1979年まで115年もかかっている。日本の高齢化の進行が際だって早かったことをこの数値は示す。ただし、この数値は実績値であり、推計値で見れば、シンガポールは16年、韓国は17年と予測される(石川達哉「ニッポンの内と外で始まる人口減少」、http://www.nli-research.co.jp/report/econo_eye/2005/nn051107.html)。

 「従属人口比率」という考え方もある。15歳未満の年少者人口と65歳以上の高齢者人口は、消費には関与するが、生産には従事せず、生産年齢人口によって、これら2つの層が支えられているという側面を重視して、社会における相対的な扶養負担を測ろうとする尺度が、この「従属人口比率」である。年少人口と高齢者人口の合計を生産年齢人口で割った値がこの比率である。高齢者人口を生産年齢人口で割った値を、ニッセイ基礎研究所の報告(ニッセイ基礎研究所[2005]、http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/1708dankai.htm)は、「老年従属人口比率」と呼び変えている。おなじく、年少者人口を生産年齢人口で割ったものが、「幼年従属人口比率」である。

 それによれば、2050年の日本の老年従属人口比率(1人の若者が何人の老人を養うかの比率)は67%と推計される。これは、1人の若者が0.67人の老人を養う姿である。生産年齢人口のすべてが労働者ではないので、実際の労働者の老人扶養負担は非常に大きいものになる(同報告、16ページ)。2005年時点の水準でさえ、30%であるから67%という数値のもつ意味はとてつもなく怖ろしい。

 同報告の調査によれば、この比率は、米国では、2030年代半ば以降は上昇せず、32%という水準で安定化する。米国も高齢化が進行し、日本よりも幅広い世代のベビー・ブーマーたちの引退が間近であるとはいえ、長期的に見た米国の人口構成は他の諸国に比べて非常に安定したものになっている(同、17ページ)。

 老年従属人口比率とは反対に、日本の幼年従属人口比率は、1960年以降、APEC諸国の中では低位グループに属している。

 
出生率が急速に低下して、幼年従属人口比率が低下傾向を示し、しかも、老年従属人口比率も低いまま安定的に推移した1950年代から1970年代までは、生産年齢人口の、他の2つの層を支えなければならぬ負担は小さいままであった。同報告は、これを「人口ボーナス」と呼び、1960年代の高度成長は、このボーナスがあった時期と重なると指摘している(同、18ページ)。

 しかし、2000年を過ぎた頃から、生産年齢人口が減少する。幼年人口比率が低下し続けても、それよりも生産年齢人口比率の減少幅が大きくなる。つまり、幼年従属人口比率が上昇するのである。老年従属人口比率も急速に高まるのだから、両者を含めた従属人口比率は急速に高まり、生産年齢者層の扶養負担は、非常に大きなものになる。こうした推計値を踏まえて、同報告は、補充移民の導入に前向きな姿勢を示している。



福井日記 No.136 補充移民

2007-07-27 22:15:18 | 老齢化社会を生きる(福井日記)

 補充移民(Replacement Migration)とは、出生率の低下がもたらす高齢化社会を回避するために必要とされる国際人口移動のことを指す。

 2000年3月、国連経済社会局人口部(Population Division, Department of Economic and Social Affairs, United Nations)が、『補充移民:人口減少・高齢化の解決策か?』という報告書を出している(公刊は2001年、UN[2001])。

 それによれば、1995年から2050年の間に、日本とヨーロッパのほとんどの国が人口減少に直面する。イタリア、ブルガリア、エストニアなどでは、人口が、現在よりも4分の1から3分の1ほど減少するであろうと推計されている。

 加えて、高齢化が急速に進行する。それは、中位数年齢に表現される。たとえば、イタリア。中位数年齢は2000年には41歳であったが、2050年には52歳にまで伸びると予想される。高齢者を65歳以上、若者を生産年齢人口(15~64歳)と定義しよう。高齢者人口に対する生産年齢人口の比率を扶養人口指数とする。つまり、それは、高齢者1人を何人の若者が支えているかという数値である。イタリアの現在地は4~5である。これが2050年には2になる。つまり、高齢者を支える若者数が半減するのである。

 国連人口部の報告書は、少子化で悩む8か国と2つの地域の推計を行ったものである。8か国とは、フランス、ドイツ、イタリア、日本、韓国、ロシア、英国、米国であり、2つの地域とは、ヨーロッパ、欧州連合(EU)である。

 これら諸国は、低出生率と寿命の伸びによって、急速に高齢化が進行する。ただし、米国だけは、今後50年間に人口は4分の1ほど増加する。1995年時点で米国の人口を1億5,000万人ほど上回っていたEUの総人口は、2050年には1,800万人ほど下回る。

 ヨーロッパの中では、イタリアがもっとも深刻な人口減少に見まわれる。総人口は、1995年から2050年にかけて28%ほど減少しそうである。

 少なくとも、かなり長期にわたって、先進国では人口が増加する展望はほとんどない。それゆえに、国連報告書は、補充移民なしに将来の人口減少を回避することができないと主張している。ただし、必要とされる補充移民の規模は、国、地域によって異なる。

 EUでは、1990年代の移民の純流入を維持することによって、人口減少を十分阻止できる。しかし、ヨーロッパ全土では、この倍近い移民の流入が必要となる。

 韓国は、必要補充移民数は多くはないものの、これまでの移民送出国から移民受入国に転換する。イタリアと日本の必要補充移民数はかつてないほど大規模なものである。フランス、英国、米国は、近年の水準の入移民数をやや下回る数で人口規模を維持しうる。

 高齢者を支える若者を増やすためには、人口規模を維持するのに足りる補充移民数だけでは足りない。より大規模な補充移民を必要とする。

 その結果、総人口に占める入移民とその子孫たちの割合は、日本、ドイツ、イタリアでは30~39%にも達すると推計されている。

 補充移民なしに、扶養人口指数を現在のレベルに維持するには、生産年齢人口の定義を変えなければならない。15歳から75歳までを生産年齢人口としなければならない。つまれい、10歳上限を引き上げなければならなくなる(同報告書に関するプレス・リリース、http://www.un.org/esa/population/unpop.htm)。

 もちろん、報告書は、補充移民だけでこと足れりとしているわけではない。定年の年齢を引き上げ、高齢者の医療保障を充実させ、労働力を保護し、年金・医療保険を拡充させるべく、雇用者・被雇用者の負担を増大させる、等々の施策を呼びかけている。しかし、移民と地元民との共生が可能となるような社会建設を、報告書は、もっとも重視しているのである。ただし、容易に想像されるように、ことはそれほど簡単なものではない。

 人口減少と高齢化の進展という2つの流れを摘出するのに、この報告書は、6つのシナリオ(ケース)を置いている。

 シナリオ1は、1998年の『国連人口予測』(UN[1998])の想定に基づく推計値。これは、入移民を含めた単なる人口推計値である。2000~2050年までの推計であるが、ここでは、日本は、50年間にわたって入移民ゼロと想定されている。入移民は米国とヨーロッパに集中する。米国では、50年間で3,800万人、年平均76万人の入移民がある。ヨーロッパ全体では、50年間で1,880万人、年平均37万人強の入移民があると想定されている。

 シナリオ2は、シナリオ1に、1995年以降は入移民ゼロという想定を加えたものである。当然、人口減少・高齢化の進展はシナリオ1よりも急激になる。

 シナリオ3は、2000年時点での人口規模を維持するために必要とされる補充移民数である。米国を除き、シナリオ1で推計される入移民の数よりも、必要とされる補充移民の数の方がはるかに大きい。たとえば、イタリアでは、シナリオ1の50年間の入移民数30万人、年平均6,000人に対して、シナリオ3では、必要補充移民数は、それぞれ、1,260万人、25万1,000人と格段の大きな数値になる。EUで見ると、シナリオ1ではそれぞれ1,300万人、27万人に対して、シナリオ3では、4,700万人、94万9,000人になる。

 シナリオ4では、生産年齢人口数を維持するのに必要な補充移民数である。この数値は、シナリオ3よりも大きい。たとえば、ドイツでは、シナリオ3の1,700万人、34万4,000人から、シナリオ4では、2,400万人、48万7,000人になる。生産年齢人口100万人を維持するためには、イタリアはもっとも多数の補充移民を必要とし、年平均6,500人が必要である。次がドイツで6,000人、もっとも補充移民を必要としない米国ですら、100万人の生産年齢人口当たり、年平均1,300人を補充する必要がある。

 シナリオ5では、高齢者1人を支える若者(生産年齢人口)の数が3人に維持するのに必要な補充移民数である。こ数値は、シナリオ4よりも大きい。たとえばフランス。50年間に必要な補充移民数は、シナリオ4の500万人に対して、シナリオ5では、1,600万人になる。日本も、3,200万人から9500万人になる。

 シナリオ6では、1人の高齢者を支える若者の数を2000年時点のその国数値を維持するのに、必要な補充移民数である。この数値は、シナリオ5よりも格段に大きい。たとえば日本では、5億2,400万人(年平均1,050万人)という、とてつもない巨大な数値になってしまう。EUでは、6億7,400万人(年平均1,300万人)。もちろん、報告書は、こうした想定は非現実的なもので、単なる例証だけだとことわっているが(UN[2001], p. 3)、2000年時点の高齢者人口を支える生産年齢人口比を将来50年間にわたって不変とするためには、こうした天文学的数値となるのである。


 日本のみを抽出すれば、以下のようになる。

 総人口は、1995年の1億2,547万2,000人から2050年には1億492万1,000人にまで減少する(ibid., p. 126, Table A.8)。同時期、生産年齢人口は、8,718万8,000人から5,708万7,000人に減少する(ibid.)。高齢者人口は、1,826万4,000人から3,332万3,000人に激増し(ibid., p. 127, Table A.8)、総人口に占める高齢者人口の割合は14.6%から31.8%に激増する(ibid.)。高齢者人口に対する生産年齢人口、つまり、扶養人口指数は、4.77から1.71に下がる(ibid., p. 126)。

 そして、2050年、必要な補充移民とその子孫が総人口に占める割合は、人口規模を2005年現在の水準に維持するというシナリオ3では17.7%になり、同じく2005年水準での生産年齢人口を維持するというシナリオ4では30%、扶養人口指数を3.0の水準に維持するというシナリオ5では54%、1995年の扶養人口指数4.8を維持するというシナリオ6では87%にもなる(ibid., pp. 53-54)。



福井日記 No。135 ギャンブル

2007-07-24 01:23:21 | 金融の倫理(福井日記)

 
 日本語でいう一攫千金が「ギャンブル」(Ganble)である。つまり、労せずして大金を掴みたいという人の欲望が、「賭」(ギャンブル)を生み出す。ギャンブルの歴史は古い。すでに古代エジプトのピラミッドの墳墓から、サイコロを振る人や神が描かれた陶器が発見されている。

 なぜ、人はギャンブルに熱中するのかの疑問に対する解答は、人類以外の動物がギャンブルをしないという点にあるだろう。

 動物は自足ということを知っている。必要なもの以外を獲得するための動きはしない。ましてや、快楽のための殺戮(さつりく)などはしない。狩猟を快楽のためにおこなう動物は人類だけである。ギャンブルに興奮するのも人だけである。自足を知らない人類だけが動物の中でギャンブルに興じる。ギャンブルとは、人の飽くなき欲望の産物である。

 ギャンブルは、完全なゼロ・サム・ゲームである。
 
つまり、一人の勝者が多数の敗者の犠牲の上に利得を貪(むさぼ)ることである。そして、敗者は没落する。敗者は、没落の恐怖から殺人すら犯す。そのために、古代からギャンブルは権力者によって禁止・弾圧されてきた。それでも人は、隠れてギャンブルをしてきた。賭博場を隠れて経営する闇の暴力団が、古今東西、世界各地で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)してきた。

 しかし、現代社会の金融、とくに、株式の売買で成り立つ経済は、ギャンブルを基本とする。現代経済は、人の持つギャンブル指向を基礎にしている。

 このギャンブルが、権力者によって認知されたのは、近代の多くの基礎を築いたフランス革命からである。権力者がギャンブル場を認知する代わりに、そこに課税をするようになったのである。

 課税から上がる国家収入は莫大なものであり、権力は、ギャンブルを禁止するどころか、自己の監視下に入ることを条件に大々的に奨励してきた。カジノ、競馬、宝くじ、等々、ギャンブルが権力を支える重要な手段となった。ラスベガス(Las Vegas)の市税収入の半分はカジノへの課税からもたらされている。

 ギャンブル場で営まれるギャンブルは、このゲームに参加する人たちだけが影響を受ける。ギャンブル場で勝者が出ようと、敗者が没落してしまおうと、ギャンブル場の外の世界にいる人々は、なんらの利得も受けないが、少なくとも被害を被ることはなかった。

  昔の博徒たちは、大手を振って陽のの下を歩くようなことはなかった。

 
ところが、現代社会の金融は、リスク・テイキング(Risk-taking)という新語の下、一般人を巻き込んで、社会全体をギャンブル場にしてしまった。しかも、ギャンブル以外の何物でもない金融ゲームの勝者が、時代の変革者として尊敬されるという、いびつな状況に、現代社会は陥ってしまった。

 ギャンブルが少しばかり理論的に高度化したものが投機である。
 「投機」(Speculation)とは、短期的な将来の予測に基づいて、物品や権利の価格の変動から利益を)得ようとする取引を指す。

 
安く買って高値で転売したり、逆に、高く売っておいて安値で買い戻すことができれば、利益が得られる。ここで短期とは、いわゆる即日取引(デイトレード)から長くて半月程度の期間をいう場合が多い。短期ではなくても、きわめて危険性(リスク)の高い取引も投機といわれる。ただしこれは、あくまでも抽象的な定義であって、実際には、「投資」との区別をできない場合が多い。



 事業を起こす、シュンペーターがイメージした「起業家」(アントレプレナー=entrepreneur)も、最初は、投機家であったといえなくもない。

 誰が見ても確実に儲かる事業ならとっくに誰かが手につけている。誰も手をつけていない未知の領域で、危険性の高い新事業への投資であるからこそ、成功すれば、起業家は、創業者利得が手に入れることができる。とはいえ、投機を意味するフランス語や英語の'speculation'は、もともと、「空理空論の実体を伴わない思弁」という意味を持っている。

 事実の裏づけのない屁理屈に従っておこなうことが「投機」と見なされていた。近世初期には、投機は、錬金術(alchemy)との類似するものとして意識されてきた。それでも、錬金術が「化学」(chemistry)を確立する不可欠の投機行為であったように、経済社会における投機も、大きく見れば、社会的革新をもたらしたことも確かである。ただし、投機の成功例だけをいたずらに強調することは誤っている。過度の投機が深刻な経済不況をもたらしたという歴史的事件は、非常に多いからである。

 「バブル」(泡沫=bubble)も実体のないものへの投機のうねりによって引き起こされた投資物件の急激な値下がりであり、投機と同義として語られている。

 
バブルは豊かな国で起こる。チューリップ投機の17世紀初めのオランダは世界一豊かな国であった。オランダ東インド会社は空前の富を集積し、人々の射幸心をあおった。17世紀後半には富の覇権国は英国へ移った。18世紀の国債とのバーターを餌とした南海泡沫会社への投機が英国社会に破滅的な打撃を与えた。



 18世紀から19世紀にかけての米国の、鉄道株ブームもバブルをはじけさせた。投機は、つねに苦い記憶を人々に植えつけた。にもかかわらず、人々は、「今度ばかりは違う」という言葉を何度も口にし、懲りもせず大やけどを繰り返してきたのである。

 投機はけっしてきれいごとだけで営まれるものではない。多くの場合、詐欺がその行為に付随するのである。

 「詐欺」(fraud)とは、騙(だま)して人から金銭を奪い取ることである。日常的によく使われ、きわめて簡明な単純な言葉である。しかし、経済の世界で詐欺という場合、ことはそれほど単純ではない。経済行為においては、本当に騙したのか、結果的に人との約束をはたせなかっただけのことなのかの判定は難しい。騙す意思があれば、詐欺であるが、多くの場合、失敗してしまった経済的行為が詐欺として糾弾される。

 投資を募る事業家が精確な情報を投資家に開示しないで、投資家に損を与える行為を詐欺というが、そもそも、投資家を信用させる情報の精確さが具体的になにを指すのかがいまひとつはっきりしていない。

 現在では、四半期ごとの財務諸表の作成、公開が義務づけられているが、17世紀の英国東インド会社は、めったに財務内容を公開しなかった。それでも、投資家たちは競って、この会社に投資していたのである。

 
多くの場合、投資家から出資を得る企業は、不利な情報の開示などしないものである。にもかかわらず、その企業の人気なり信用なりが、投資家の出資を促している。情報開示が精確におこなわれていても、精確な情報が、投資家に怯(おび)えを生み出してしまえば、投資は活発にならない。明白な虚偽報告は論外だが、ある程度の曖昧さが活発な投資には必要なのである。

 そもそも、投資家が投資選択をするのに、自らの判断に頼ることはほぼない。裏書きがどの組織によってなされているか、格付け組織がどの企業を推奨しているかといった、信用のある第3者の判断に従うのである。投資家の多くは、投資物件の真の価値を知らないし、物件そのものの真の価値を知ることもない。誰が、投資を推奨するかといったことが決定的な投資決意になるのであって、投資物件の内容を詳しく知ることは投資決意にほとんど影響を与えない。

 影響を与えるものは、投資の仲立ちをする組織の社会的信用である。しかも、その信用は四半期ごとの財務諸表で決定されるものではない。長い時間的経過をたどった後に残る信用がその決定因なのである。

 情報が複雑化するとき、個人でそのすべてを掌握することは不可能になる。情報に関しては、蒐集、加工、分析、要約、発信、推奨の各段階が分離し、それぞれに専門家が輩出する。そうした一連のプロセスの上に、信用は成り立つ。その連鎖の下で、投資家は意思決定する。しかし、連鎖はつねに堅固であるというわけではない。ときには綻(ほころ)びが生じる。このとき、損失を被った投資家が詐欺だと司法に言い立てるのである。

 たとえば、米国証券取引委員会(SEC)に、インターネット取引に関して寄せられた苦情は、1996年では1日平均 20件にすぎなかったのに、2000年にはその10倍になっている。この事実が、詐欺の意味を如実に示している。詐欺とは、欺瞞が横行したために発生したものではなく、システム断層が生じたことに起因しているのである。

 詐欺の中には隠匿もある。
 「隠匿」(Concealing)は、隠匿物資(goods hidden)、隠匿財産(property hidden)といった合成語で使用される場合が一般的である。故人や団体が、所有ないしは占有しているモノやカネを公にせず、私物化してしまう行為が隠匿である。倫理に反する行為なので、この行為が公に発覚すると、必ず、社会的制裁が古代より伴ってきた。

 その制裁が慣習的な掟から近代法に基づくものになったのは、1673年のフランスの「サヴァリー法典」(Code Savary)である

 サヴァリー法典とは、通称で、正式には「承認の商業のための規則として役立つフランスおよびナヴァルの王、ルイ14世の王令」(Ordonnance de Louis XIV。 ROY DE FRANCE ET DE NAVARRE、 Servant de Reglement pour le Commerce des Marchands)という長ったらしい名称を持つ。



 
この法典を起草した
ジャック・サヴァリー(Jacques Savary、 1622-1690年)の名を採って「サヴァリー法典」と呼ばれている。サヴァリーは、二年後の1675年にこの法典の注釈である『完全なる商人』(Le parfait negocian)を著している。これは、1807年の「ナポレオン法典」(Code Napoléon)に引き継がれた。

 当時のフランスは、ルイ14世の法外な乱費によって、経済状況は最悪で、企業倒産が相次ぎ、財産隠匿、詐欺が横行していた。こうした混乱からフランスを立て直したのは、「重商主義」(Mercantilism)の道を開いたジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert、 1619-1683年)である。



 コルベールは、社会で失われた相互信用を回復させようとし、頻発していた詐欺破産、財産隠匿の防止を主たる目標とした商法整備に乗り出した。その整備された商法がサヴァリー法典である。

 サヴァリー法典こそは近代法によって、初めて、会計帳簿、財産目録の作成を商業従事者に義務づけたのである。同法典・第1章第4条で、複式簿記、単式簿記の作成が義務づけられ、第3章第1条では、商人は、自己のすべての取引債権、債務、家事に支出した金銭を記載した帳簿を備え付けなければならないと宣言している。

 他の章で、財産目録は半年ごと、そして2年ごとに当局によって照合されることが決められている。そのうえで、詐欺破産者は死刑に処せられるとされた。帳簿を作成しない場合は、破産を宣告され、死罪になった。財産目録は現在の貸借対照表に匹敵するものであった。近代の会計帳簿の先駆となったのが、この法典であった。サヴァリーは、商法の祖であり、同法典は近代商法の基礎となっている。


福井日記 No.134 英国近代競馬のステークスとミューチュアル

2007-07-22 15:38:01 | 金融の倫理(福井日記)

 英国の初期の競馬のスタイルは、一対一の勝負であった。馬主の貴族が自ら騎乗して、相手と競走するというもので、「マッチ・レース」と呼ばれた。



 1377年、ニューマーケット競馬場で、リチャード2世が、まだプリンス・オブ・ウェールズという皇太子時代に自ら騎乗して、同じく自ら騎乗するアランデル伯という貴族と一騎打ちの勝負をしたという記録が残っているhttp://homepage3.nifty.com/hr-univ/class/history/race.htm)。

 このマッチ・レースを行うさいに、先述のように、馬主(この場合、2人)が供出する出馬登録料が「ステークス・マネー」と呼ばれていた。勝った方が、供出されていた登録料を頂くのである。マッチ・レースは1回勝負である。

 このマッチ・レースが、複数の出場馬に次第に取って代わられる。 ただし、1回勝負であることには変わりはない。

  出場馬数が多くなると、1頭当たりの出馬登録料を安くすることができるし、優勝場の馬主が登録料のすべてを獲得するという決まりを変えなければ、優勝場の馬主の取り分は、マッチ・レースよりもはるかに大きくなる。

 登録料を賞金として優勝馬主が独り占めすることを認めたレースは、「スウィープ・ステークス」(sweep stakes)という。

 この言葉が転じて、現在でも使われている、複数の馬が1回限りの勝負を行う競争スタイルを、単に「ステークス」と呼ぶようになったのである。つまり、ステークスとは、競走のスタイル名であると同時に、賭け金の分配方法を表す競馬用語だったのである。

 賭け金の話からは横道に逸れるが、「ヒート制」という競走スタイルもあった。同じ条件、同じ出場馬で数回競走し、一位の回数の多い馬を優勝とするものである。スタミナを競う、文字通り「ヒート」(heat=熱い)な戦いだった。

 国王が、優秀な馬を育成する目的で、優勝馬に優勝盾(plate=プレート)を贈る場合もあった。現在の「キングズ・プレート」、「クイーンズ・プレート」はその名残である。

 競馬が人気を得るようになるにつれて、競馬に関係するルールを整備すべく、誕生したのが、「ジョッキー・クラブ」であった。これは、他の群小のクラブと違って、非常に人気と権威のあるクラブであった。1750年頃のことである。

 競馬を行う施設の整備、検量、勝負服の指定、公正さを確保するための規則の整備、競走馬の育成、競走馬のセリ市の開催、血統登録書の発行、成績の記録、等々が、クラブの事業であった。

 以後、このクラブの関係者が主催するクラシック・レースといわれる5つのレースが行われるようになった。すべて、ステークス方式である。

 古い順に列挙すると、1776年のポイントレジャー・ステークス、1779年のオークス・ステークス、1780年のダービー・ステークス、1809年の2000ギニー・ステークス、そして1814年の1000ギニー・ステークスである。

 セントレジャーは、ドンカスター競馬場の馬主グループが行ったもので、馬齢面で画期的なものであった。出走を3歳馬にしたのである。3歳馬レースいまでは普通のものだが、当時としては珍しかった。

 当時は、出走馬は6~8歳程度の年齢であった。競技馬の完成が9歳程度とみなされていたので、競走馬も同じであろうと理解されていたのである。それを一挙に3歳に引き下げた。実力が不確定な若駒を競わすという試みは、実力が確定しない分、ギャンブル性が大きく、人気は沸騰した。

 セントレジャーというのは、馬主グループの人気者、セントレンジャー中将の名前にちなんだものである。

 セントレジャー・ステークスは、牡馬に重量2ポンドのハンディを背負わせる形で公平さを考慮した牡・牝両方の出馬が認められた。

 セントレンジャー・ステークスの成功に刺激された第12代ダービー卿が、3歳牝馬だけのスウィープ・ステークスをエプソン競馬場で企画した。これが、オークス・ステークスである。

 この名前は、この地のダービー卿の別荘「オークス邸」にちなんでつけられた。これも成功した。


 ダービー卿は、この成功に気をよくして、今度は、牡・牝両者が参加する3歳馬のステークスを開催した。上記、2つのクラシック・レースが2マイルであったが、今度は、当時としては異例の短距離である1マイルにした。これがダービー・ステークスである。もちろん、ダービー卿名前にちなむレースである。競馬場は、同じくエプソンであった。

 ニューマーケット競馬場でも、3歳馬のスイープ・ステークスが開催された。2000ギニー・ステークスである。

 
最初のレースの出馬登録料は100ギニー、登録馬23頭、勝ち馬の持ち主が獲得するステークス・マネーが2000ギニーであることから、このレース名がつけられた。牡・牝両者の参加であった。

 そして最後に、牝馬だけの3歳馬のスィープ・ステークスが、ニューマーケットで開催される。最初の出馬登録料が100ギニー、出走10頭であった。ステークス・マネーが1000ギニーであったことから、このレース名となった。

 産業革命後、これらレースに庶民も賭けてよいことになった。庶民を惹きつけるべく、規則、免許制等々の整備が進行した。

 レース参加者たちの裾野も広がり、レースを面白くする工夫が重ねられ、庶民もギャンブルとして競馬を楽しむようになった。


 ギャンブルとして競馬が盛んになるにつれて、勝ち馬予想を専門に行うブック・メーカー」という民間会社が設立された。この予想屋はあまでも活躍している。

 競馬協会も創設され、「トータリーゼ」という機構も作られた。これは競馬協会が直接運営するものである。競馬観戦者から賭け金を集め、競馬レース開催の必要経費、賞金を払ったのち、馬券を的中させた人に報酬を払うということを行う機構である。

 この方式は、現在の配当システムとほぼ同じであるが、フランス人のJ.オラーによって考案されたものである。このシステムを「パリ・ミュチェル(mutuel)方式」という。

 なんと現在の投資信託「ミューチュアル(mutual)・ファンド」と同じ名称である。

 ステークといい、ミューチュアルといい、現在世界で猛威をふるっている投資ファンドの用語が、英国競馬のクラシックレースの時代から使われていたのである。アングロサクソンのギャンブル嗜好の強さをこれは物語るものである

 エリートたちが画策し、庶民の射幸心を刺激して、ちゃっかり儲けるという現在の投資ファンドの姿にクラシック・レースはダブって見えるのである。

福井日記 No.133 競馬とステークス

2007-07-19 23:02:11 | 金融の倫理(福井日記)

 会社は、株主のものではなく、ステーク・ホルダーのものだと最近よく耳にするようになった。

 株主は、ストック・ホルダー、シェア・ホルダーと呼ばれているので、スターク・ホルダーとは、確かに株主を表す言葉ではないのだろう。



  1998年版のランダムハウス英語辞典では、ステーク・ホルダー(stakeholder)には、「(事業・産業への)投資者(グループ)」という説明がある。しかし、これは、もともとのスターク・ホルダーの使い方からすればかなり変形されたものである。



 ウエブスター辞典によると、この言葉は、名詞としては、あるものに対する法的権利、レースの出発点または最終点を表す印、火あぶりの刑で責められること、掛け金に供されたカネ、等々の意味である。

 動詞としては、次の使われ方をしている。「私はこのことに自分の評判を賭ける」、「私はこの馬に賭けてみる」、「道標を立てる」、「山羊の首輪を締める」、「刺し殺す」。

 「あるものへの法的権利」という意味なら、現在のステークの使われ方とほぼ同義である。「道標を立てる」とか、「首輪を締める」などは、同じく権利の確保を表し、「法的権利」を指すのに使われている。

 その他、「賭ける」という意味がある。こちらの方が古い使われ方であろうと森弘之「すぐに使える日常英語」http://allabout.co.jp/study/basicenglish/closeup/CU20051114A/)は説明している。



 「火あぶりの刑で責められること」の意味がステークにあるというのも不思議である。"at stake"は、「審議に賭けられる」という意味であるし、"burn at stake"は、「責め苦を受ける」という意味である。ともに、火あぶりから派生した言葉である。

 火あぶりの刑といえば、カトリック教会が異端者をこの刑に処してきたと理解されているが、それは間違っている。この刑は、ローマ帝政が、キリスト教徒たちを迫害するために多用したものである。カトリックがそれを模倣した。

 1184年のベローナ宗教会議(the Synod of Verona)は、異端者を罰する好適な処刑が火あぶりであるとまで決議している。しかも、1215年第4回ラテラノ公会議(the Council of the Lateran)がこれを追認している。ラテラノはローマ法王が居住する宮殿である。1229年トゥールーズ宗教会議(The Synod of Toulouse)でも同じく追認された。

 14、5世紀、スコットランド、イングランド、スペイン、オーストリア、スイス、ドイツでよく行われた魔女裁判で、400万人は火あぶりの刑に処せられたのではないかとされている。



  この刑に賭けられた著名者は、ヤン・フス(Jan Hus)(1415年)、ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno)(1600年)である。

 イングランドのメリー女王(Queen Mary)の治世下(1553-58年)では、277人が火あぶりの刑で殺された(Wikipediaより)。

 火あぶりがステークと関係していたことはひとまず差し置いて、経済的な用語のステークホルダー(stake holder)に限定しよう。

  この言葉は、もともとは、賭け金、ないしは、賞金を勝者に手渡すまで保管する人という意味であった。

 それが、1990年代に入ってから、「利害関係者」、つまり、「権利を同じくする人たち」という意味で使われるようになった(Wikipedia")。

 Wikipediaによると、組織に関わるすべての利害関係者とは、組織の事業主、雇われ人、顧客だけでなく、事業所が存在する地域の人々を含む。

 ステークが、ステークスと複数になれば、競馬のステークス競走になる。

 これは、イングランド生まれの言葉である。馬術競技には、本来、様々なものがあったはずなのに、単純に駈けっこをするだけの競馬レースがイングランドで発祥したのは、イングランドに騎馬の伝統が乏しかったので、単純な競走だけで、貴族たちは喜んだからであるし、そもそも、賭けを罪悪視しないイングランドの風土があった。それで、賭け金を獲得する競馬が流行したのであろう(http://homepage3.nifty.com/hr-univ/class/history/race.htm)。

 ステークス・レースというのは、各馬主が出馬登録料を持ち寄り、そのカネを勝ち馬の馬主に渡すというレースのことである。

 ここで、ステークス(当然、単数はステーク)は、馬主、つまり、貴族たちが、差し出す出場料のことである。初期の競馬は、貴族だけが参加していた。それを王室競馬というが、リチャード1世の創設といわれている。1634年の「ニューマーケット・ゴールドカップ」がそれである。ニューマーケット競馬場で春秋2回の開催であった。



 チャールズ2世も競馬好きで、彼の愛称「オールド・ローリー」は、彼の持ち馬であった優勝馬の名からきている。いまでも、ニューマーケット競馬場の直線は、「ローリー・マイル」と呼ばれている。



 アン女王も、皇室所有のアスコット競馬場で1711年に競馬を開催した。これが、ロイヤル・ミーティングという貴族の社交場になったのである。年4回開催であった。

 ステーク・ホルダーは、まさに賭け金の所有者、または、賭け金をもらう資格のある人を意味していたのである。現在のもっともモダンな経済用語の出自は、古い英国貴族の競馬の賭けにあった。つまり、アングロサクソン出自とした言葉なのである。

福井日記 No.132 ペリー財閥

2007-07-16 19:03:18 | 対日工作員たちの人脈(福井日記)


 1994年1月の米国クリントン政権の国防長官に就任したウィリアム・ペリーは、日本をこじ開けたあのマシュー・ペリー提督の末裔である。ペリー一族は、巨大な富を蓄積して「ボストン財閥」を形成している。

 マシュー・ペリーよりも、米国では兄のオリバー・ハザード・ペリーの方が有名である。兄は英国と戦った米海軍の提督で、米国では、ペリー提督といえば、この兄を指す。



 兄のひ孫にアリスがいた。彼女がボストン上流階級のジョセフ・グルーに嫁ぐ。

 
グルーの親友がフランクリン・ルーズベルトである(グルーが2歳年上)。1931年の満州事変の翌年、グルーが日本大使として赴任し、三井・三菱財閥と接触する。中国における石油利権を狙っていたとされる。

 グルー一族のジェーン・グルーは、J.P.モルガン・ジュニアの妻である。

  弟のマシューの娘にキャロライン・ペリーがいた。

 
彼女が、オーガスト・ベルモントと結婚した。このオーガストこそ、ベルモント財閥、つまり、ボストン財閥を創始した初代オーガスト・ベルモントの父である。、

 初代ベルモント商会会長の父は、もともと、ドイツのロスチャイルド兄弟商会の社員であり、この商会の命令で、1837年、フランクフルトからニューヨークに派遣された。

 
その長子が、ベルモント商会を設立したのである。つまり、ベルモント商会の出自はロスチャイルド米国支店であった。ロスチャイルドの資金を使って、ベルモント商会は、企業買収を繰り返し、全米の金融機関を支配下に収めていった。

 ベルモント一族が飛躍したのは、ベルモント商会を設立した初代オリバー・ベルモントが、全米一の大富豪、バンダービルト家のウィリアム・バンダービルトの最初の妻、アルバと結婚したことによる。アルバは莫大な慰謝料をもらって、1895年にウィリアムと離婚し、ベルモント商会を創った初代オリバー・ベルモントと再婚したのである。

 バンダービルド一族には、「風と共に去りぬ」、「スター誕生」、「レベッカをプロデュース、つまり、投資したコーネリアス・バンダービルト・ホイットニーがいる。

  このアルバの娘が母の命令で嫁がされた先が、英国貴族、モルバラ公爵のチャールズ・スペンサー=チャーチル。英国首相、ウィンストン・チャーチルの従兄である。

 このモルバラ公爵の妹にリリアンがいた。

 
このリリアンが、セシル・グレンフェルに嫁ぐ。セシルのまた従兄がエドワード・グレンフェルである。

 エドワードは、モルガン・グレンフェル投資銀行(1909年)の創業者である。

 
エドワードは、イングランド銀行総裁の息子である。1900年、ロンドン・モルガン商会の支配人になった。

 さらに、1904年、モルガンでなく、ロスチャイルドの「パートナー」という高い地位を得た。

 つまり、モルガン・グレンフェル銀行は、モルガンとロスチャイルドとが合体したという歴史的に重要な意味をもつ。

 エドワードは、商船会社の買収に勤しむ。インターナショナル商船を買収、そして、あのタイタニック号を所有する英国のホワイトスター汽船を買収。1912年、処女航海のタイタニック号が氷山と衝突して沈没したのである。



 モルガン・グレンフェル銀行は、1989年にドイツ銀行によって買収された。ドイツ銀行が、企業買収を果敢にするようになった背後には、モルガン・グレンフェルの力があった。

 そして、英国首相・チャーチルの息子、ランドルフ・チャーチルの妻があの有名なパメラ・ディグビーである。

 パメラは、チャーチル首相の息子と離婚後、バンダービルドと同じ鉄道王、W.アベル・ハリマンと3度目の結婚をする。

 
ハリマンの死後、彼女は巨額の遺産を相続する。この彼女が、ロバート・ルービンと組んで、アーカンソー知事のビル・クリントンを大統領に押し立てたのである。

 彼女は、民主党全米議長としてクリントンの選挙戦を支え、クリントン政権下ではフランス大使を務めた。

 
ルービンは、クリントン政権下、財務長官を勤め、金融界の利益代表として、銀行・証券・保険の垣根を取っ払って、1998年「金融近代化法」を成立させて、今日の巨大なシティ・グループの出現に最大の貢献をしたのである。

 ベルモント財閥の、組織の一つ、ディロン・リード投資銀行の会長が、1988年のレーガン政権、89年からの父ブッシュ政権で財務長官を務めたニコラス・ブレイディーである。

 この財務長官の日本人嫌いは有名である。平気で日本人に対する軽蔑用語を乱発した人である。

 
ニコラスは、4代目のオーガスト・ベルモントに可愛がられて、4代目が経営していたリード銀行(1973年まで、4代目が10年間会長をしていた)の会長に指名されていた。

 ベルモント財閥は、代々長子相続で、長子は、必ず、オーガスト・ベルモントと名乗っていた。

 2代目は、30を超える企業の社長と重役を務めた。1904年には、ロスチャイルドと組んで、2代目は、米国最初の地下鉄、ニューヨーク地下鉄建設に出資した。野球の大リーグ、ニューヨーク・ジャイアンツの前身、メトロポリタン設立資金もベルモントの出資である。

 ため息が出てしまう。今回からこうした人脈を追う作業を行うコーナーを追加する。

  広瀬隆『アメリカの経済支配者たち』、『赤い楯』に依拠している。


福井日記 N0.131 阿蘭陀別段風説書

2007-07-15 20:52:55 | 福井学(福井日記)

 福山藩主・阿部正弘が天保の改革に失敗した水野忠邦に代わって老中になったのが天保14(1843)年、その後、水野配下の老中たちが次々に辞職したために、2年後、阿部は老中首座になる。



  ペリーが来航したのは、阿部在任中であた。それまでに、オランダ国王による開国勧告、英仏船の琉球来航、米ビッドル艦隊の浦賀来航があった。

 オランダがなぜ日本に開国を促したかということに私は昔から不審に思っていた。

 対日貿易独占の利益は、オランダにとってとてつもなく大きなものであったはずなのに、もし、日本が開国してしまえば、オランダは独占権を失い、膨大な貿易利益も失うのだから、オランダとしては、日本が開国してくれないほうがいいにきまっている。なのに、開国を促してきた。天保15(1844)年のことであある。

 長崎に来航したオランダ国王の使者が、開国を促す国書をもって立山の長崎奉行所に向かう絵図(御役所及施設応接絵図)が財団法人鍋島報效会(佐賀県立博物館寄託)によって所有されている。

 幕府は、阿部正弘以下、老中の連盟によって勧告拒否の返書を送ったが、オランダは、この答えを期待していた。つまり、これは、幕府がオランダ貿易独占を保障したことを意味するとオランダ側は受け取ったのであるこのように解釈するのが、広島県立歴史博物館「阿部正弘と日米和親条約」展図録http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00035/contents/0001.htm)である。

 阿部正弘の子孫が保存している『阿蘭陀別段風説書』(嘉永5(1852)年写本、司天台訳、神奈川県立歴史博物館寄託)という写本がある。



 
これは、新しくオランダ商館長として赴任した、ドンケル・クルティウス(Jan Hendrik Donkre Curtius)が、幕府に提出した別段風説書であり、ペリーが来航すると伝えたものである。



 阿蘭陀風説書(オランダ・ふうせつがき)というのは、毎年、長崎に入港するオランダ船が幕府に提出する海外事情報告書のことである。

 年々、内容が簡略され、提出も遅れ気味であったのだが、アヘン戦争をきっかけに幕府が詳細な報告を求めた。つまり、「別段」に詳しい内容を要求したのである。そこで、風説書は、天保13(1842)年から別段風説書が出されるようになった。

 嘉永5年の別段風説書は、1851年の世界情勢を記した後、米国が日本に通商を求めるべく中国で活躍中の軍艦とペリー率いる本国からの艦隊が合流して日本に派遣されることになったと報じた。

 司天台訳というのは、長崎で翻訳(崎陽訳)された風説書に添えられたオランダ語原文を江戸の浅草にあった天文台(司天台といった)で幕府の天文方が翻訳したものである。ただし、司天台訳は、この1冊しか残存していない。



 通常、風説書は、長崎のオランダ通詞が訳詞、これを崎陽訳といっていた。

 じつは、シーボルトが結構きな臭い動きをしている。日本とオランダとの通商条約の草案を起草していたのである。シーボルトは、むしろ、非オランダ的動きをしていた。当然といえば当然であるが。

 これは、『都督職之者筆記和解・甲必丹差 出候封書和解』(かるばととくしょくのひっきわげ・かぴたんさしだしそうろうふうしょわげ)にある。



 この書は、日蘭通商条約草案、バタビア総督の書簡、クルティウスの書簡の翻訳を1冊にまとめたものである。嘉永5(1852)念写本、神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)。

  天保15(1844)年以来、英仏両国は、琉球に軍艦を寄港させた。これに対して、幕府は琉球が日本ではないという立場を取り、フランスとの貿易は黙認しようかという考えであったらしい。

 弘化3(1846)年、阿部正弘は薩摩藩主の世子・
島津斉彬(なりあきら)を問題処理のために、帰藩させた。



 阿部は、自分が気に入っている斉彬を藩政に参加させ、阿倍の外交方針に従わせようとしていたのである。これに対して、藩主の
斉興(なりおき)は、阿部が斉彬を通して藩政に介入されるとの恐れを抱き、翌春には、自らも帰藩を願った。こうして琉球の開国は結果的に阻止された(同上ウェブサイト)。



 ビッドルは、終始友好的な姿勢で幕府に臨んだ。弘化3(1846)年閏5月27日、ビッドル(James Biddle, 1783-1848)率いる米東インド艦隊帆走軍艦2隻(コロンバスとビンセンス)が浦賀に来航、通商の意志が幕府にないことを知ると直ちに引き下がろうとしたのだが、あいにく凪ぎで帆船は動けず、諸藩の御用船に曳航される有様であった。これを屈辱とみたペリーは、居丈高に交渉に臨んだのである。曳航されるこの模様を描いた図絵が、横浜市自然・人文博物館に保存されている(同上サイト)。



 阿部はいったん廃止されていた異国船打ち払い令を復活し、大船建造の解禁を試みるが、幕府内の反対意見で実行できなかった。

 嘉永5(1852)年、オランダから米艦隊の日本来航の情報を阿部は得たが、幕府内で対策を立案することもできなかった。翌、嘉永6年3月M.C.ペリー率いる米海軍東インド艦隊が江戸湾に乗り付けた。ペリーは威嚇して開国を求める米大統領の国書を手渡した。開国の返事を1年後にもらいに来るといって、いったん立ち去る。

 同年、7月18日にはロシアのE.V.プチャーチンが長崎に来航して開国を求めた。



 ペリーを日本に派遣した米国大統領のフィルモアの国書とペリー書簡の和訳は、『亜墨利加大合聚楽国国王書簡和解』は全国で見られる。

 
阿部正弘が写しを全国の大名に配布して、広く意見を求めたからである。福井藩主の松永慶永と佐賀藩主の鍋島直正は、国書の拒絶、直ちに開戦論を唱えた。



 薩摩藩主の島津斉彬は、回答を延期・武力充実、その後に開戦を主張した。これは、『諸家上書写』(しょけじょうしょうつし、嘉永6(1853)念、神奈川県立歴史博物館所蔵)に見られる。



 約束通り、嘉永7(1854)年1月16日、再度、ペリー艦隊が江戸湾に現れた。交渉は、2月8日から始まり、横浜応接所と米艦上とを使って進められた。その間、互いに接待を繰り返した。そして、同年、3月3日に日米和親条約が締結された。ペリーはこれで日本を開国させたと受け取り、幕府は、ひとまず、通商関係を避けることができたとそれぞれ別の解釈をしていた。

福井日記 No.130 『世界を壊す金融資本主義』NTT出版、2007年、に思う

2007-07-12 02:40:11 | 金融の倫理(福井日記)

               
 「万国の市民よ!団結せよ」という呼びかけでジャン・ペイルルヴァッド、林昌宏訳『世界を壊す金融資本主義』NTT出版、2007年、は終わっている。

 しかし、もっともその実現性を疑っているのが本書の執筆者である。全編、*ペシミズムに貫かれている。

*厭世論(えんせいろん)。厭世主義。悲観論。⇔オプティミズム

 個人が、小市民が、目先の利益を追い求め、そうした力の総合化が世界を倫理なき社会に追い込んでいる。

 公共性も社会性も、金融によるグローバル化がすべてを破壊した。このままでは世界は破滅する。そうさせないためにも、政治が市場を手なずけなければならない。

  しかし、政治もまた劇場国家化していて、大衆迎合的である。打つ手はない。にもかかわらず、著者は、言葉だけでそれが可能なような形で処方箋を求める読者に肩すかしを食わせてしまう。フランスのエリートの一つの典型なのであろうか。厳しく言えば、レトリックが過剰であるのに、言葉の一つ一つに重みがない。言葉が衒学的に上滑りしている。

 第1章の「ドイツ型資本主義モデルの終焉」では、間接金融体制が自壊したのは、企業の社会的責任というありもしないドグマの欺瞞性が白日の下になったからであるという。

 第2章の「株主が握る力、その理論と実践」は、ドイツとは対照的な米国型直接金融体制もまた、えせ民主主義であり、社会との調和はおろか、株主と経営者の基本的利害対立を克服していないと切り捨てる。

 第3章「株主とは何者か?」では、小口株主ではなく、ファンドが権力を握り、金儲けさえすればいいという、現実の利益にどん欲な、ファンドマネジャーによって、世界は、金を持つ者と持たざる者とに二極分解し、ますます不安定化すると指摘される。

 第4章「市場と経済成長」では、株主資本主義を前にして、国家が市場と関わること役割を放棄してしまったことが指摘される。

 第5章「何をなすべきか?」は、グローバル化の暴走を止めなければ世界は崩壊すると警告する。

 そして、「結論」。
 「瞬時に移動する資本は、労働組合を、そして政治権力さえも骨抜きにした」、「労働組合はグローバル化に敵対し、矛盾に満ちた不平不満を述べ、事態をきちんと考察するよりも社会的動乱を好み、また、行動するというよりは騒ぎを起こすだけの存在となってしまった」、「彼らは、ダボス会議のような世界サミットからポルト・アレグレ(ブラジル)で行われた反グローバル主義者の集会において、支離滅裂で、きわめてユートピア的なメッセージを発信しながら、自らの純粋さを維持しようと努めている」。

 破壊者は、特定の人物ではない、特定の階級でもない、いわんや特定の政治家でもない、顔の見えない世界中を瞬時に動き回る資本なのである。敵の姿は見えない。見えない敵に集団行動で立ち向かうわけにはいかない。

 現代は、「トータルキャピタリズム」の支配下にある。地球的規模で資本主義が拡大しているのはもちろんのこと、教育や医療といった公共部門さえ金融資本主義の餌食になってしまっている(訳者解説)。

「恐るべき順応主義が世界を脅かしている 。これは、顔の見えない全体主義の脅威である」。どうすればいいのか?「政治の領域に市場を飲み込むことである」。なんたる肩すかしぞ!

 著者は、フランスの元大臣にして、クレディ・リヨネ銀行の元CEO。