消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(440) 韓国併合100年(79) 日本のキリスト教団(2)

2012-08-30 22:34:46 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一 組合教会の源流=ピューリタン
 

 日本のキリスト教各派で朝鮮布教にもっとも積極的であった会衆派教会(組合教会)(1)の源流はピューリタン(puritan=清教徒)である。

   ピューリタンは、英国国教会(Church of England、Anglican Church)の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント、カルヴァン(Jean Calvin、1509~64)(2)派の流れを汲むクリスチャンたちである。英国の市民革命の大きな担い手であった。"puritann"という言葉は、「清潔」、「潔白」などを表す"purity"に由来する。もともと蔑称的に使われていたが、自らもピューリタンと称するようになった。一六、七世紀には、英国教会の中にカカルヴァンの影響を受けた改革派が勢力を持つようになったていた。

 ピューリタンと一口に言っても、それは、けっして一様な存在ではなかった。英国国教会をその内部から改革すべく、国教会からの分離独立を拒否したグループが非分離派(non-separatist)ピューリタン、分離・独立を強く主張したグループが分離派(separatist)ピューリタンと呼ばれた。 非分離派で大きな影響力を発揮していたのは、長老派(Presbyterian)(3)の指導者、トーマス・カートライト(Thomas Cartwright、1535~1603)(4)であった。

 分離派の中心人物は、ロバート・ブラウン(Robert Browne, 1550~1633)であった。ブラウンは、ケンブリッジ大学でカートライトの影響を強く受けていた。後には、ブラウンはカートライトから距離を置くようになり、分離派としての信念を強く持つようになった。ちなみに、当時のケンブリッジはピューリタンに傾斜しており、オックスフォード大学は国教会に傾斜していたという(http://www.geocities.jp/kgjhaat/page/page_135.html)。ブラウンは、教会改革は王権に頼らず、教会自身の手によって実現されるべきで、教会は、神を信じて集った信者=会衆の自治を基本として運営されるべきだと説いた。一五八一年、ブラウンは、故郷のノーリッチ(Norwich)に分離派の教会を建て、分離派・会衆派としての説教を始めたが、国教会の許可なしに説教を行ったとして投獄された。そして、一五九三年には、ブラウンの協力者であったヘンリー・バロウ(Henry Barrowe, 1550?~1593)とジョン・グリーンウッド(John Greenwood, 1554~1593)が、国教会に刃向かったとして処刑された。彼らを慕う信者たちは、信仰の自由を求めて、アムステルダムに逃れた(http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Pilgrim_Fathers)。

 彼らの志を継いだのが、ジョン・ロビンソン(John Robinson, 1575~1625(5)である。彼は、イングランドの会衆派教会牧師、初期における分離派の中心人物であった。彼は、オランダで巡礼しながらヨーロッパ内外に布教をするという「巡礼始祖」(pilgrim fathers)になるという決意を固めた。

 信仰の自由を求めて新世界に脱出したいというピューリタンたちの意志の強さは、現在のほとんどの日本人たちの目からすれば、それは奇跡としか表現できないものである。

 一六二〇年には、分離派のピルグリム・ファーザーズの一〇二名がプリマス(Plymouth)に上陸した。一六二九年には、ジョン・エンディコット(John Endicott, 1601?~1664?)ら分離派のピューリタンが、セイラム(Salem)に三五〇名ほどで入植した。

 その後、陸続と会衆派の教会がニューイングランドに建てられ、「神の栄光と教会の福祉のため」、聖書に基づく国家建設が会衆派教会によって目指された(増井[二〇〇六]、六六~六七ページ)。一九三〇年には、ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop, 1588~1649)が、その前年に裕福なピューリタンたちの出資によって、「マサチューセッツ湾会社」(Massachusetts Bay Company)(6)の勅許を取得した。彼は、やはりセイラムに一〇〇〇人規模の移住者を伴って入植した(7)。

 一六四三年、プリマス、マサチュウセッツ、コネチカット(Connecticut)、ニューヘイブン(New Haven)の四つの入植地(コロニー)がボストンで「ニューイングランド連合」(New England Confederation)を結んだ。この時点の四つの地域の人口は二万人から二万五〇〇〇人であったと推定されている。

 しかし、初期の米国の入植地には、カルヴァンがジュネーブで行ったものと同じ性質を持つ神権政治(theocracy)が支配した。ボストン教会の牧師で、マサチューセッツの神権政治の指導者であったジョン・コットン(John Cotton, 1584~1652)の手紙には、<民主主義がよいものであるとは思えず、教会はもとより、国家においても神権政治が最適である>とのくだりがある(Cotton[1636], pp. 209-10)。

 ウィンスロップは、当時のコネチカット入植地の指導者、トマス・フッカー(Thomas Hooker, 1586~1647)宛に、<大衆には、強い指導力を持つ教会の指導が必要である>ことを力説した(Winthrop[1638], p. 290)。要約する。

<社会の最良の部分は少数であり、純粋なものはさらに希有です。恩恵を与えるにせよ、裁判で罰するにせよ、公民の団体に委ねることは非常に危険です>と言い切った。
 また、<夫は、妻にとっての「軛(くびき)」ではなく、妻に自由を与えるものである。「自由は、権威に対する従属の下で保たれ発揮できるものである」>との内容の発現をも裁判官に対して出している(Winthrop[1645], pp. 205~07)。
 ニューイングランドの教会は総じて会衆主義のものであった。

 「これらニューイングランド入植地に共通な特色は始めからピューリタン的な立国の精神に燃え、全生活にその情熱がみなぎっていたということである」(田村[一九六六]、一〇四ページ)。

 入植地初期には、カルヴァン的厳格な宗教的信念が入植者の多くに浸透していたことは確かである。例えば、リチャード・トーニー(Richard Tawney)は記述していた。

 「英語国民の社会のなかで、カルヴァン主義的教会国家の社会規律がもっとも極端におこなわれたのは、清教徒がニューイングランドにうちたてた神権政治のもとにおいてであった」(Tawney[1954], p. 135、邦訳、トーニー[一九五六]上巻、二〇七ページ)。

 急いで付け加えなければならない。純粋の神権政治、世俗を拒否するピューリタン的信仰もあくまでも、ほんの初期の時期のことにすぎなかった点である。この姿勢は、宣教師に受け継がれたが、市井の人間は、結局は信仰を建前のものだけに祭り上げ、原住民の虐殺を意に介しなかったということが事実であった。

 田村光三が指摘したように、「カルヴァンに発し、イギリスの風土と歴史的諸条件によって鍛えられ、補強された革新的ピューリタニズムのエトスが、何らの屈折、もしくは後退なくして、そのまゝアメリカの社会に引きつがれ、ウェーバーの設定したシェーマに一直線につながるものであろうか」(田村[一九六六]、一〇二~〇三ページ)という見方の方が自然であろう。

 田村は、植民当初のマサチューセッツの指導者たちの精神こそが、ピューリタニズムの一側面を結晶化させているとして以下のように説明している。至言である。

 「絶対正義なる神の予定の下に、自分ははたして救いに予定されているや否や、これがピューリタンの最大関心事であった。絶対者なる神と孤独なる自己との垂直的な対決は、神のみに対する真摯なる畏怖と自己の罪に対する限りない嫌悪と恐怖を自覚せしめ、<救いのたしかさ>に対する一切の疑惑をサタンの仕業として峻厳に拒否しつゞけることによって、自ら神に選ばれたものであることを頑強に確信するという構造を、この精神はもつ」(田村[一九六六]、一〇九ページ)。

 こうして、ニューイングランドには、「選ばれた人々」というエリート意識が指導者たちの間に定着したのである(田村[一九六六]、一一七~一八ページ)。
 しかし、宗教が厳格であればあるほど、そうした宗教がオカルト的なものに転化してきたことは史実の示す通りである。宗教の指導者が盲信しているものを信者に強制する時、宗教は非人間的にして残酷な暴力として信者に襲いかかる(丸山[一九六四]、四〇三~〇四ページ)。

 「殊にマサチューセッツ植民地においては、秩序に反するものを容赦なく罰し処刑した」、「彼らは自己以外の階級と集団に属する人々を排斥し」た(田村[一一四ページ)。

 そして、ついに、ジュネーブのカルヴァンが冒してしまった忌まわしい同じ悪しき軌跡、「魔女狩り」が勃発した。ニューイングランド・マサチューセッツ州セイラム村で一六九二年三月一日に魔女裁判が始まり、二〇〇名近い村人が魔女として告発され、一九名が処刑、一名が拷問中に圧死、五名が獄死した(8)。

 こうした忌まわしい事件を経験しても、会衆派の教会は着々と米国社会で地歩を築いた。

 


野崎日記(439) 韓国併合100年(78) 日本のキリスト教団(1)

2012-08-28 11:30:57 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 韓国併合と日本のキリスト教団
 

 はじめに


 いずれの組織にも、意見の相違がある。組織が大きければ大きいほど、組織内での意見は多様に分岐する。それゆえ、組織の機関誌がある主張を掲載したからと言って、その組織全体が掲載された主張によって支配されていたと見なすことは危険である。しかし、それでも、組織の指導者たちが、権力に媚びた時代はあったという事実に目を背けてはならないだろう。自らを権力による弾圧の受難者であったと位置付けることが一般的になったが、実際には、必ずしもそうとは言い切れないのである。いずれの組織であれ、辛い過去の事実は直視されなければならない。

 一八九〇年三月一四日(第一号)から翌年九一年二月二七日(第五一号)まで続いた『福音週報』という日本基督教会の機関誌があった(植村[一七九七]、http://www.library.musashino.tokyo.jp/aizo/aizopage2-a.htm)。この機関誌は、一八九一年三月二〇日号から『福音新報』に改称されて、一九四二年九月二四日まで続いた(http://sinbun.ndl.go.jp/cgi-bin/outeturan/E_N_id_hyo.cgi?ID=015090)。

 この『福音週報』第四二号(一八九〇年一二月二六日付)に次のような文が掲載された。要約する。

 <いま、まさに殖民の時代が開始されようとしている。この時にキリスト教徒にはなすべきことがある。これまでと同じように、国内布教でよしとしている時ではない。海外の殖民にキリスト教の霊魂を与えるべく海外布教すべきである。仏教はすでにそうした事業を開始している。西洋の宣教師も同じく海外に乗り出している。そうしたことを傍観すべきではない。日本のキリスト教も、日本人の海外移住者の霊魂を慰めるべきである。海外に移住する日本人はとくに優等な人たちだからである>(T・K「殖民と基督教」、『福音週報』福音週報社、小川・池[一九八四]、一六ページ所収)。

 その二年後の一八九二年一〇月二一日付の『福音新報』(第八四号)には、苦学生の海外移住を支援する「日本力行会」の創設者であった島貫兵太夫(しまぬき・ひょうだゆう)の露骨な朝鮮布教論が掲載された。これも要約する。

 <日本は東洋の盟主である。宗教・政治・教育・技芸などの百般において、日本は東洋における冠たる位置にある。我々は、東洋諸国を導く責任がある。私は、朝鮮に渡っていろいろなことを見聞してきた。その結果、東洋に伝道することが日本の天職であると確信するに至った。朝鮮を救うのに最適な国は日本をおいてはない>(「往て朝鮮に伝道せよ」、『福音新報』福音新報社、川瀬[二〇〇九]、六〇ページより転載)。

 島貫は続ける。<日本は、キリスト教の伝来によって大きく啓発された。日本はこの恩恵を朝鮮人に伝えるべきである>、<韓国人でも下等な階級は、日本人を加藤清正や小西行長のような恐ろしい人間と見なしている。しかし、少しでも教育のある韓国人は、日本人を支那人よりも進歩した人間であるとの認識を持っていて、日本人の真似をしている>(川瀬、同、六一ページより転載)。

 この二つの記事は、日清戦争前のものであった。すでにこの時点で、『日本新報』の機関誌の編集者たちは、日本の朝鮮支配の予感を持っていたのである。
 そして、日本は日清戦争で勝利した。その時点での『福音新報』には、天を仰ぎたくなる記事が掲載された。要約する。

 <戦争が破壊的なものであることは否定できない。しかし、戦争は、現実には文明の使徒である。文明国である日本は、野蛮な支那に打ち勝った。これぞ、日本が文明の使徒の役割を果たしたことである。戦争は、文明国が野蛮国に与える鞭である>(川瀬、同、六二ページから転載)。以下、国家の対外膨張と自らの布教の軌跡を一致させてるという性向をプロテスタント各派は、無意識にせよ持っていたことを示す。


野崎日記(438) 韓国併合100年(77) 廃仏毀釈(11)

2012-08-10 12:24:00 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 引用文献

家永三郎・松永昌三・江村栄一編[一九八五]、『明治前期の憲法構想』福村出版。
稲田正次[一九六〇]、『明治憲法成立史』(上)有斐閣。
井上円了[一八八七]、『仏教活論・第一篇破邪活論』哲学書院。
井上順孝ほか編[一九九六]、『新宗教教団・人物事典』弘文堂。
尾佐竹猛[一九八五]、「日本国憲法制定史要」、家永ほか編[一九八五]所収。
神坂次郎[一九九四]、『天鼓鳴りやまず・北畠道龍の生涯』中公文庫。
國學院大學日本文化研究所編[一九九九]、『縮刷版・神道事典』弘文堂。
小林志保・栗山義久[二〇〇一]、「排耶書『護国新論』、『耶蘇教の無道理』にみる真宗本
     願寺派の排耶運動」、『南山大学・図書館紀要』第七号。
桜井匡[一九七一]、『明治宗教史研究』春秋社。
菅田正昭[一九九四]、『古神道は甦る』(タチバナ教養文庫)橘出版。
朝鮮開教監督部編[一九二九]、『朝鮮開教五十年誌』大谷派本願寺朝鮮開教監督部。
中尾祖応編[一九〇二]、『甫水論集』東京博文館。
中島三千男[一九七六]、「大日本国憲法第二八条「信仰自由」規定成立の前史─政府官僚
     層の憲法草案を中心に─」、『日本史研究』一六八号。
西村寿行[一九八四]、『虚空の影落つ』徳間文庫。
萩原延壽[二〇〇八]、『帰国・遠い崖8・アーネスト・サトウ日記抄』朝日新聞社。
福沢諭吉[一八七三]、『改暦弁』慶應義塾大学出版会。
藤田正勝・安富信哉[二〇〇二]、『清沢満之』法蔵館。
二葉憲香・福嶋寛隆編[一九七三~七八]、『島地黙雷全集』(全五巻)本願寺出版協会。
三上一夫[二〇〇〇]、「護法一揆」、『日本歴史大事典2』小学館。
峰島旭雄[一九七一]、「明治期における西洋哲学の受容と展開(7)─井上円了の排耶論
     ─」、『早稲田商学』一二月号。
三宅守常編[二〇〇七]、『三条教則衍義書資料集』(全二巻)錦正社。
安丸良夫・宮地正人編[一九八八]、『日本近代思想大系5・宗教と国家』岩波書店。
吉田久一[一九八五]、「護法一揆」、『国史大辞典5』吉川弘文館。


野崎日記(437) 韓国併合100年(76) 廃仏毀釈(10)

2012-08-09 12:23:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(23) 当時の駐日英国公使のハリー・パークス(Harry Smith Parkes)が、一八七一年に賜暇のために英国に帰国中、アダムズが代理公使となった。パークスは、賜暇休暇中の一八七二年、訪英中の岩倉具視、駐英公使・寺島宗則と会見し条約改正問題について話し合っている(http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/kaigai/gov-england_02.html)。

(24) 周知のことだが、慶応四(明治元)年~明治二年(一八六八~六九年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った戦争である。慶応四年の干支が戊辰であったことに由来する。明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。

 この戊辰戦争が続いている慶応四(一八六八)年三月一四日(新暦では四月六日)、福井藩出身の参与・由利公正(ゆり・きみまさ)と土佐藩出身の参与・福岡孝弟(たかちか)が原案を書き、木戸孝允・岩倉具視・三条実美(さねとみ)が文章を編集した「五箇条の御誓文」が発布された。「五箇条の御誓文」は、京都御所の紫宸殿(ししんでん)において神道の形式である「天神地祇御誓祭」に則って発表されたものである。

 それより先の慶応三(一八六七)年一二月九日(新暦では一八六八年一月三日)に「王政復古の大号令」が出された。これは、薩摩藩などが、起こした一種のクーデターであったが、その際、朝廷側の岩倉具視は、天皇は神であると言い、「建武の中興」(注・後醍醐天皇の新政)ではなく、「神武創業」(注・記紀の神話時代)』が明治政府の主権理念として採用されるべきであると強く主張した。この主張から、天皇家は、神話時代の初代・神武天皇から続く「万世一系の系譜」に公式に位置付けられることになったのである。

 「五箇条の御誓文」の第五条には、「智識を世界に求め、大いに、皇基(こうき)を振起(しんき)すべし」とある。先進的・実用的な知識は、世界に求めるが、国の基本形は、天皇主権の統治の基盤を発展させようと主張したものである(http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/meiji001.html)。

(25) 赤松連城の娘・安子が、京都岡崎の本願寺派願成寺(がんじょうじ)の次男・与謝野照幢(よさの・しょうどう)と結婚した。照幢は赤松家の養子に入った。照幢の実弟が与謝野鉄幹である。照幢は、義父・連城の援助を受けながら、明治二〇(一八八七)年、「私立白蓮女学校」(後の徳山女学校)を創設した。この時に、国語教師として招かれたのが弟の鉄幹である。鉄幹は、徳山で、明治二二(一八八九)~二五(一八九二)年にかけて徳山の地に留まった(http://www.tokutuu.co.jp/tokuyama/tokuyama.htm)。

(26) 当時の西本願寺の改革派は、長州出身者が支配的勢力であったが、同じ改革派でありながら、長州閥に抵抗した僧侶もいた。北畠道龍(きたばたけ・どうりゅう)である。道龍は僧侶でありながら、軍事の才があり、第二次長州征伐の戦闘では一隊を率いて奇兵隊を蹴散らし、幕府軍の中で孤軍気を吐いた。維新前後には和歌山藩の兵制をプロシア式に改革した。紀州出身の北畠道龍は、西本願寺の改革派ではあったが、宗門内の長州閥グループと激しく対立していた。明治一二(一八七九)年、道龍は明如法主を東京に連れ去り、本願寺の東京移転と西本願寺派の大粛正を宣言し、宗門を大混乱に陥れた。この騒動は、明如の京都帰還によってひとまず治まったが、明治一四(一八八一)年、道龍は海外視察の命を受けて長期間外遊。帰国後、再び仏教改革の獅子吼を発した道龍ではあったが、僧籍を剥奪され、大阪の陋巷に逼塞してその生を終えた。伝記に(神坂[一九九四])がある(http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/eye5.html)。

(27) 井上円了(一八五八~一九一九年)は、現在の新潟県長岡市浦の真宗大谷派慈光寺の長男として誕生、新潟学校第一分校(旧長岡洋学校)で洋学を学ぶ。明治一一(一八七八)年、東本願寺の留学生として上京し、明治一四(一八八一)年に設立間もない東京大学文学部哲学科にただひとりの一年生として入学。勉学を通して「洋の東西を問わず、真理は哲学にあり」と確信する。ここでいう哲学とは、「万物の原理を探り、その原理を定める学問」であり、それは観念的演繹的な哲学ではなく、事実と実証にもとづく哲学であるというのが、井上の哲学観であった。

 「ものの見方・考え方」の基礎を身に着けることが日本の近代化につながると確信し、私立の教育機関創立へと行動を起こす。そして明治二〇(一八八八)年、二九歳という若さで「私立哲学館」(現在の東洋大学の前身)という哲学専修の専門学校を創設した。学校開設の翌年から「哲学館講義録」を発行して、通学できない者にも勉学に機会を与えた。

 全国各地を巡回し一般民衆を対象に講演活動を行った。迷信打破を説いた妖怪学者としても有名であった(http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/ijin/i-enryo.html 、および、http://www.toyo.ac.jp/founder/enryo_00_j.html)。


野崎日記(436) 韓国併合100年(75) 廃仏毀釈(9)

2012-08-08 22:21:58 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(17) 浄土真宗の宗派は、親鸞の血脈を継ぐ東本願寺と西本願寺の二派と、門弟の流れを継ぐ八派がある。明治維新後の宗教再編時、現在の浄土真宗本願寺派(西本願寺)のみ「浄土真宗」として、他は単に「真宗」として宗教登録されている。以下、一〇派を記す。括弧内は本山と所在地である。①浄土真宗本願寺派(本願寺(西本願寺)、京都市下京区)、②真宗大谷派(真宗本廟(東本願寺)、京都市下京区)、③真宗興正(こうしょう)派(興正寺、京都市下京区)、④真宗仏光寺(ぶっこうじ)派(仏光寺、京都市下京区)、⑤真宗誠照寺(じょうしょうじ)派(誠照寺、福井県鯖江市)、⑥真宗山元(やまもと)派(證誠(しょうじょう)寺、福井県鯖江市)、⑦真宗出雲路(いずもじ)派(毫摂(ごしょう)寺、福井県武生市)、⑧真宗三門徒(さんもんと)派(専照(せんしょう)寺、福井市)、⑨真宗高田(たかだ)派(専修(せんじゅ)寺、三重県津市)、⑩真宗木辺(きべ)派 (錦織(きんしょく)寺、滋賀県野洲(やす)市)(http://www.kyototsuu.jp/Temple/SyuuhaJyoudoSinSyuu.html)。

(18) 不発に終わった教導職の活動であったが、教導職階級名称は、教導職廃止後も、いくつかの教派神道や仏教宗派において教師の階級として残った。一四の階級は、以下の通り。①大教正(だいきょうせい)、②権大教正(ごんだいきょうせい)、③中教正、④権中教正、⑤少教正、⑥権少教正、⑦大講義、⑧権大講義、⑨中講義、⑩権中講義、⑪少講義、⑫権少講義、⑬訓導、⑭権訓導。

 なお、教派神道とは、教導職が廃止された時に国家によって統制されていた神道から分かれて独立した一三の派のこと。明治九(一八七六)年、①神道修成派と②黒住教が独立。明治一五(一八八二)年、③大成教、④神習教、⑤御嶽教、⑥出雲大社教、⑦実行教、⑧扶桑教が独立。明治一七(一八八四)年、教導廃に伴い、神道事務局の教導達は「神道局」という名の宗派を立てる。これが昭和一五(一九四〇)年に⑨神道大教となる。明治二七(一八九四)年、「神道局」から⑩神理教が独立。明治二九(一八九六)年、⑪禊教が独立。明治三三(一九〇〇)年、⑫金光教が独立。明治四一(一九〇八)年、天理教が独立(井上順孝ほか編[一九九六];國學院大學日本文化研究所編[一九九九];http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kyoha.htmより)。

(19) 廃仏毀釈の猛威と関連して生じた明治初期の信濃の一揆に関する西村寿行の感動的な小説がある。さわりを引用しょう。字数の関係で原文の改行を無視している。

 「千国街道は日本海の糸魚川から姫川沿いに松本平に至る塩の道である。名にし負う豪雪地帯だ。ために、千国街道は山の峰近くを通っている。雪崩、落石を避けるためだ。信濃では日本海から入る塩を北塩という。太平洋から運び込まれる塩は南塩と呼ぶ。海のない信濃国では、塩は貴重であった。塩は黒牛が運ぶ。馬では冬場の雪は越せないからだ。牛方は牛をだいじにする。宿駅では小舎に牛とともに眠る。塩を運んで家族を支えてくれる牛はいのちにも変えられないくらいたいせつであった。その牛が、死ぬ。吹雪に道を失って崖から落ちることもある。黙々と働きつづけて若死にするものもある。凍結に足をとられるのもある。牛方は号泣をあげる。牛の死体に取り縋って泣く。牛方は石工にたのんで地蔵菩薩を彫る。馬頭観音を刻む。牛の死んだ峠に建てて供養するのである。千国街道にはおびただしい石仏が祀られている。どの石仏にもものいわぬ悲しみがこもっている。ひとびとは通りすがりに、それらの石仏に野花を供える。ほとんど麦ばかりの握り飯を供えてゆく者もある。松本藩知事、戸田光則は、それらの石仏の首を打ち落とすように命じた。平田国学に心酔する大参事、稲村九兵衛、その部下の岩崎作造らが戸田の廃仏毀釈を補佐した。藩士は狂奔した。野にある石仏、街道にある道祖神、供養塔、念仏塔すべてを打ち壊して回った。明治二年七月、戸田光則は明治政府によって松本藩知事に任命された。それにすがるように、戸田は明治維新政府への迎合姿勢を露骨に示した。政府の神仏分離策に盲従したのだった。千国街道にあるおびただしい石仏はすべて破壊し尽くされていた」(西村[一九八四]、六~七ページ)。

(20) 高橋和己の小説『邪宗門』((全二巻)河出書房新社、一九六六年、のち新潮文庫、角川文庫、講談社文庫、朝日文庫)で人口に膾炙した「邪宗門」は、権力が正当性を認めない宗門のことをいう。豊臣秀吉が一五八九年に出した「伴天連追放令」以後、日本における正当な権力を認める宗門が「正法」(正しい宗教)であり、これを認めない宗門は日本の正統な国家秩序を破る「邪法」を信じる宗門、すなわち「邪宗門」であるとの位置付けが行われ、江戸幕府もこれを継承した。一般民衆は、キリスト教=邪宗門とする観念を植え付けられた。

 慶応四年三月一四日(新暦で一八六八年四月六日)、明治新政府は「五箇条の御誓文」を公卿や大名向けに発布したが、その翌日、全国に五つの高札を張り出した。これを「五榜の掲示」(ごぼうのけいじ)という。三つめの高札には、「切支丹邪宗門」の禁止という言葉があった。外国からの抗議を受けて、旧暦の閏四月四日に、「切支丹」と「邪宗門」を別々に書き分けて、それぞれを禁止すると言い換えたが、新政府の権力者は、明らかにキリスト教=邪宗門という認識を持っていた。「邪宗門」という名を冠した文芸作品には、高橋和己以外に、芥川龍之介、北原白秋のものがある。芥川龍之介の『邪宗門』は、一九一八年一〇月から『大阪毎日新聞』に連載されていたが、未完のままであった。北原白秋の詩集『邪宗門』は処女詩集(一九〇九年)であり、邪宗門に落ちた自らを父に対して謝った内容である(http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kou-moku-tougou1/kou-moku42/kou-moku42a0.htmなど)。

(21) 国立図書館憲政資料室に所蔵されている『青木周蔵文書』の「文書(その一)」には、以下のような目録が付けられている。「1. 帝号大日本政典草案(一八七二年八月一日、木戸公より依頼によりて起草せし憲法原案)。2. 大日本政規(一八七二年冬ロンドン客中、木戸公の命により起草)。3. 青木周蔵書簡草稿(一八七三年四月一五日、在伯林公署より井上伯へ回答)。4. 青木周蔵憲法制定の理由書。5. 青木周蔵独文書簡草稿(一八九二年六月一九日、ポツダムにてドイツ皇帝宛)。6. 青木周蔵宛封筒(空封筒、表に書入あり)。7.  青木周蔵政治意見書(一八八四年二冊)(http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/aokishuuzou1.php)。

(22) 中島三千男の言う「エタティスト」とは、下層階級から一気に政権の中枢に上り詰めた維新の獅子たち=「国家至上主義者」を指しているようである。


野崎日記(435) 韓国併合100年(74) 廃仏毀釈(8)

2012-08-06 12:21:31 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(11) 慶応四年九月三日(旧暦)に改元の詔勅(しょうちょく。注・天皇の意思表示のこと)が出され、慶応という元号が、明治に変えられた。しかし、改元は、九月三日からではなく、過去の慶応四年一月一日に遡(さかのぼ)って、慶応四年一月一日を明治元年一月一日とした。しかし、これは、改元されても依然として旧暦表示であったので、旧暦の明治元年一月一日とは、新暦に直すと明治元年一月二五日になる。天皇が即位したのは、旧暦の明治元年八月二七日(新暦では明治元年一〇月一二日)であるので、厳密に表現すれば、明治は一九六八年一〇月一二日(新暦)から始まる(http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/meijikaigen.htm)。

 日本におけるグレゴリオ暦(新暦)導入は、天保歴(旧暦)の明治五年一一月九日(新暦に換算すると一八七二年一二月九日)に公布された。従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された「明治五年太政官布告第三三七号、改暦ノ布告」では、当時の天保暦における明治五年一二月三日がグレゴリオ暦の一八七三年一月一日に当たっていたので、その日を明治六年一月一日と定められた。

 天保歴は、天保一五年(弘化元年、一八四四年)にそれまでの寛政暦から改暦され,明治五年(一八七二年)末に太陽暦であるグレゴリオ暦が採用されるまでの二九年間用いられた。正式には「天保壬寅元暦」(てんぽうじんいんげんれき)と言う。

 天保暦は、天球上の太陽の軌道を二四等分して二四節気を求める「定気法」を採用した。渋川景佑(しぶかわ・かげすけ)らが、完成させたこの暦は、それまで実施された太陰太陽暦としてはもっとも優れたものであった(http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm)。

 日本では、一八七三年以前の年代をグレゴリオ歴に換算するか、しないかは、執筆者各自に任されている。確実にグレゴリオ歴で表記されるのは、一八七四年以降である。

 ちなみに、福沢諭吉は新暦の採用で大儲けした。太陽暦への改暦を唱えていた福澤諭吉は、改暦決定の報を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時に慶應義塾出版局から刊行されたこの書は、「たちまち、一〇万部が売れた」(内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(明治一二(一八七九)年)三月四日付)(http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/fukuzawaya/21.html)。

 突然の太陽暦への改訂には、大隈重信による官吏給与カットの陰謀があったという説もある。真偽のほどは不明であるが、紹介しておく。

 改暦された明治五(一八七二)年は、政府の要人のほとんどは、岩倉具視使節団として一年半にわたる海外視察の途上にあった。使節団は、留守を預かる大隈重信に、使節団が帰国するまでは、重要な変革は行わないと約束させたのにもかかわらず、大隈は改暦という大変化を日本社会に起こしてしまった。これには、明治政府の深刻な財政難があった。旧暦のままだと、翌年(明治六年)は、閏年(平年より一か月多い)であり、政府は役人に一三か月分の給料を支払わねばならなくなる。新暦に直せば、一月分の給与が浮く。

 改暦の日も重要である。旧暦のままだと、一二月分供与を祓わなければならないからである。来年から太陽暦を採用すると発表したのは旧暦の明治五年一一月九日であった。そして旧暦は一二月二日までで、旧暦の一二月三日に当たる日が新暦の明治六年一月一日とされた。つまり、旧暦の一二月三日から大晦日まで、支払わなければならない日が消えたのである。事実、給与は支払われなかった(http://www.geocities.jp/guuseki/calender.htm)。

(12) 神祇省は、明治四年八月八日(旧暦。新暦では、一八七一年九月二二日)~明治五年三月一四日(一八七二年四月二一日)に神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって設置された。しかし、新しく設置された宣教使による大教宣布を強化するために、わずか半年で教部省に改称され、宮中祭祀は分離されて宮内省式部寮に移されることとなった(http://www.oit.ac.jp/japanese/toshokan/tosho/kiyou/jinshahen/51-1/02inoue.pdf)。

 キリスト教に見紛う明治初期の宣教師は、明治三(一八七〇)年正月に「神祇鎮祭の詔」と、「治教を明らかにし、以って惟神の大道を宣ぶべし」との「大教宣布の詔」に基づく神道教化を推進すべく設置されたものである。各藩に宣教担当が置かれるが、この宣教使制度はその後ほぼ機能することなく、短期間で廃された(http://www.nippon-bunmei.jp/tsurezure-40.htm)。

(13) 教導職とは、明治時代初期の大教宣布のために設置された宗教官吏である。明治五(一八七二)年から明治一七(一八八四)年まで存続した。明治三(一八七〇)年に設置された宣教使制度を前身とする。明治五年の教部省設立と同時に置かれた職。教部省の管轄下にあった。教導職は、無給の官吏で、当初は、神官、神道家、僧侶が任命された。教導職は、各地の社寺で説教を行った。講じられた内容は国家・天皇への恭順や、敬神思想家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵であった(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007054392)。

(14) 大教院は、明治五(一八七二)年、国民に対して尊皇愛国思想の教化(大教宣布)をするためのに設立された機関である。仏教各宗もこの政策に同調した。中央機関として、明治五年に、東京紀尾井坂の紀州邸を大教院に当てたが、翌明治六年、東京芝増上寺にこれを移し、全国に中、小教院を設け、祭神に造化三神、天照大神を奉斎した。しかし、この種の運動に仏教界を巻き込むこと自体が無理であった。神道と、仏教界との対立のために明治八(一八七五)年、神仏合同布教禁止の令が発せられ、大教院は解散させられた(http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/8206/1/N-07.pdf)。

(15) 三条教則は明治五(一八七二)年、教部省が大教宣布運動の大綱について教導職に通達した日常生活の倫理綱領である。第一条で「敬神愛国」、第二条で「天理人道」、第三条で「天皇の意志に従うこと」とある。条文は、三宅[二〇〇七]に収録されている。

(16) 明治二(一八六九)年に設置された中央官庁の一つ。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。明治四(一九七一)年に大蔵省に吸収された(http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/21794317834900/)。


野崎日記(434) 韓国併合100年(73) 廃仏毀釈(7)

2012-08-05 12:20:54 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(5) 平田派の明治維新期における影響力は短命に終わり、すぐに、津和野派に実権が移った。津和野派の福羽美静(ふくば・びせい)が実質的な権力を握ったものと思われる。
 平田派の祭政一致は神祇事務局設置で実現したが、その一か月後平田派は解任され、事務局の実権は福羽美静に移ったのである。おそらく神学上の対立と地域的に近い長州閥を利用した津和野派による政治的な追い落としがあったと思われる(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43_1.htm)。

(6) 権現とは仏が衆生(しゅじょう。注・生命あるものすべて)救済のために権(注・仮にという意味)に神となって現れたことを指す。その淵源は平安時代の中期(一〇世紀頃)にあるとされている。権現は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と関連している。本地垂迹説とは、仏や菩薩を本地、神を垂迹と言う。本来の姿(本地)の仏が、衆生を救うために姿を変えて迹(あと)を垂(た)れるものだとする考え方である。これは日本独特の神仏観である。権現の例としては、天照大神の本地が大日如来、八幡神の本地がは阿弥陀仏や観音菩薩などがある。春日権現や熊野権現などのように権現名で神を呼ぶこともある。家康は東照大権現と呼ばれた。明治政府の行った神仏分離により、これまで権現号を名乗っていたところが神社を名乗るようになり、多くの場所で権現の名称が削られた(http://www.ohaka-im.com/butsuji/butsuji-gongen.html)。

(7) 釈迦の寺院を祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)というが、その守り神が牛頭天王(ごずてんのう)であるという説もある(http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub3.htm)。
 牛頭天王は、日本伝来後、様々な要素が合体した。日本では、牛の神様とされ、京都では公家たちが牛車を使っていたため、八坂の地に牛頭天王を祀る祠が作られたのではないかとも言われている。同じ地に祇園寺と八坂神社もあり、平安時代の御霊会・祇園会などであがめられた。八坂神社は元々は高麗系の八坂氏の氏神で農耕神だったとも言われている。牛頭天王は全国の八坂神社・祇園神社・津島神社で祭られている(http://www.ffortune.net/spirit/tera/hotoke/gozu.htm)。

(8) 鰐口の多くは鋳銅(銅の鋳物)製であるが、まれに鋳鉄製や金銅(銅に鍍金を施したもの)製のものも見られる。通常は神社や仏閣の軒先に懸けられ、礼拝する際にその前に垂らされた「鉦の緒」(かねのお)と呼ばれる布縄で打ち鳴らすもので、今日でも一般によく知られている。その形態は偏平円形である(http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0305.htm)。

(9) 比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰に山王信仰(さんのうしんこう)があった。日吉神社(ひよしじんじゃ)、日枝神社(ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は、日吉大社より勧請(かんじょう。注・神仏を迎え奉ること)を受けた神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(おおものぬしのかみ)を祭神とし、日本全国に約三八〇〇社ある。神仏習合期には山王、山王権現、日吉山王などと称されていた。猿が神の使いとされている。比叡山は、もとは日枝山(ひえのやま)と呼ばれていた。初めは日枝山の神である大山咋神のみを祀っていたが、大津京遷都の翌年である天智七(六六八)年、大津京鎮護のため大和国三輪山(みわやま)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神を勧請した。
 比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神と大物主神は地主神(じぬしのかみ)として延暦寺の守護神とされ、延暦寺は、この両神を「山王」と称した。これが、「山王神道」を発展させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされた(http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/ooyamakui.htmlhttp://www.niigata-u.com/files/ngt2003/hie1.html)。

(10) 八幡信仰は、大分県の宇佐(うさ)を発祥地として日本全国に普及した。地域や時代によって、信仰対象が変化してきた。戦いの神、鍛冶の神、海の神、焼畑の神、等々である。北九州の地方神であった八幡神は、奈良時代の聖武天皇による東大寺大仏造立事業に貢献したとして、七五二年の大仏完成後、都に迎えられ、一品(いっぽん)という最高位を授けられた。七六九年の僧道鏡を天皇にしようとした事件などでも国家の危機を救ったとされて鎮護国家神になった。天皇の即位や重大な事業については、その報告が宇佐八幡宮に派遣されて祈願を受けた。八幡神は応神天皇であるとも解釈されるようになった。七八一年には、朝廷から大菩薩の神号が贈られた。東大寺をはじめ奈良、京都の大寺の境内に鎮守の神として勧請された。

 京都の石清水(いわしみず)八幡宮は、八六〇年に宇佐から勧請され、僧侶が運営する宮寺(みやでら)であった。さらに八幡神の本地仏は阿弥陀如来であると考えられるようになった。しかし、明治政府の神仏分離政策で仏教色が一掃され、僧侶の関与はなくなった(http://senmon.fateback.com/soukagakkai/shukyou/hachiman_kami.html)。


野崎日記(433) 韓国併合100年(72) 廃仏毀釈(6)

2012-08-04 22:04:11 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 

(1) 「不受不施」(ふじゅ・ふせ)の「不受」とは、謗法(ぼうほう。注・仏法をそしり、真理をないがしろにすること)の供養(くよう。注・仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること)を受けないということである。「不施」とは、謗法の人のために祈念・読経・唱題をしないということである。

 日蓮宗不受不施派とは、京都妙覚寺一九世仏性院・日奥(にちおう)を派祖とする日蓮宗の一つのことである。日奥は、一五六五年、京都に生まれ、二八歳の時、妙覚寺一九世を譲り承けた。一五九五年九月、豊臣秀吉が、先祖並びに亡父母追善のため、京都東山の妙法院に大仏を建立し、千僧供養(せんぞうくよう。注・一〇〇〇人の僧を招いて食を供して供養すること)を執行しようとして、諸宗に僧侶の出仕(しゅっし。注・緊急に参加すること)を招請した。しかし、未入信者・謗法者である秀吉の供養出仕に応ずることは、法華宗の行規である「不受不施」の宗義を破ることになるという理由で、日奥は秀吉の出仕命令を拒否し、妙覚寺を退出し、丹波小泉に蟄居(ちっきょ)した。その際、日奥は秀吉に『法華宗諌状』を提出した。一五九六年七月一二日、大地震が起こり、問題の大仏殿が崩壊した。

 一五九九年一一月、今度は、徳川家康が、大仏供養を受け入れた日蓮宗の他の宗派(注・出仕派・受派という)と日奥を論争させ、出仕させようとしたが、日奥は出仕を拒否し続けた。その結果、日奥は、対馬への流罪を言い渡された。一三年にわたる流罪生活の後、日奥は、一六一二年に京都に帰った。一六二九年、徳川秀忠が崇源院大夫人菩提のため、芝増上寺において、諸宗の僧侶に諷経(ふぎん。注・ 経文を声を出して読むこと)を命じた。これが発端となって、身延山(受派)と池上本門寺(不受派)との間に訴訟合戦が起こり、一六三〇年二月、、日奥は、幕府に逆らう不受不施派の首謀者と裁決され、再度、対馬に流されることになったが、その直前に日奥は、亡くなっている。これは、「死後の流罪」と言われている。

 一六六九年三月、徳川幕府は、不受不施寺院の寺請(注2で解説する)の停止を発令し、不受不施は明治に入っても禁制(注・法令によって禁止されること)であった。この禁制は、一八七六年に解除されたのであるが、じつに、この派は、二〇〇年にわたって禁制されていたのである(http://homepage3.nifty.com/y-maki/bd/bd09.htm)。 

(2) 仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となることを義務付けられた。寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという形が定まり、寺院は、一定の信徒と収入を保証される形となった。

 その目的において、寺請制度は、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙ったものであったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も寺院に担わせていた。こうして、仏教教団は、幕府の統治体制の一翼を担うこととなった(http://gankaiun.com/bukkyou/25.html)。

(3) 中山忠能は、明治天皇の生母・慶子(よしこ)の父。一八六四年七月、長州藩が武力上洛を支持、しかし、禁門の変で長州藩兵が敗北した直後、謹慎を命じられる。一八六七年一月の孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。長老として岩倉具視らと共に王政復古の政変を画策、政変後、三職制が新設されて議定(ぎじょう)に就任した。三職制とは、一八六七年の王政復古の大号令に伴い、定められた政治の最高幹部制度で、総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を指す。議定とは、議員のこと(http://www.memomsg.com/dictionary/D1367/485.html)。

(4) 飛鳥時代の仏教伝来以来、日本の古い神道は仏教と混ざり合った。これが、「神仏習合」である。神道には、根本聖典がないことが、神学を形成していく上で障害となっていた。江戸時代の国学者の平田篤胤(あつたね、一七七六年生まれ)は、法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れた「平田派国学」を作り上げた(菅田[一九九四]、一〇二~一〇四ページ)。この平田派国学の流れから明治維新の思想的一面が形成された。儒教や仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうというのがこの思想であり、明治維新の尊皇攘夷運動のイデオロギーに取り入れられた。彼らが、神仏分離、廃仏毀釈の運動を起こし、神道国教化を推進したのである。日本民族の固有の精神とは、明治時代に本田親徳(ちかあつ)や、本田の弟子・長沢雄楯(かつたて)らによって打ち出された思想である。人間の心は、根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が、「荒魂」(あらたま)、「和魂」(にぎたま)、「奇魂」(くしたま)、「幸魂」(さきたま)の四つの魂を統御するという日本古来の「一霊四魂」説を整理したのが、彼らの思想である。

 彼らが唱道する復古神道は、天之御中主神(あめのみかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の造化三神を根源神としている。『古事記』では、天之御中主神が、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。その名の通り天の真ん中にいる神である。その後、後の二神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)という。

 高御産巣日神は、天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。「産霊」(むすひ)は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。

 神皇産霊神は、死と再生を司る神でもあった。『古事記』の大国主命(おおくにぬしのみこと)の物語に異母兄弟の八十神(やそがみ・多くの神)に謀殺されて、蘇る物語がある。八十神たちは稲羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)に求婚したが、ことごとく断られてしまったのに、大国主命は助けた因幡の白兎の知恵を授かり、とうとう八上比売の心を射止めた。これに怒った八十神たちは、「山の赤い猪を追い落とすから、捕まえろ」と言って、猪に似た大石を真っ赤に焼いて落とした。待っていた大国主命は落ちてきた焼石に焼かれて死んでしまった。その母の刺国若姫(さしくみわかめひめ)は嘆いて、神産巣日之命に助けを乞うと、その二人の娘、蚶貝比売命(さきがいひめのみこと)、蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)という貝の精を遣わし、大国主命を作り活かしたとされる。このように、神皇産霊神は、いったんは死なせて、新たに生まれ変わらせる神でもあった(http://shrine.s25.xrea.com/sansingosin.html、および、   http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=515)。