消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 72 松岡の馬の埴輪 

2007-02-16 00:01:16 | 人(福井日記)
 私が住んでいる松岡に、鳥越山古墳春日山古墳がある。

 松岡町(いまは合併して永平寺町松岡)に春日と神明という地名があることに不思議さを覚えて、周辺を足で歩いて調べ始めたのが昨年の3月のことであった。

 振り返れば、松岡にきてからの私は興奮の連続であった。
 水路のことも、荘園のことも、街道のことも、堰のこともなにも知らなかった町の雑踏の中で育った私が、農村の原型の力強さに開眼したのだから。

 その興奮によって、福井のことをできるかぎり正しく知りたいと、ノートを取るようこの福井日記を書き綴ってきたのである。1年でどれだけたくさんのことを知ったか。もちろん、私の若い友人たちの献身的な協力がなければ続く作業ではなかった。

 その松岡の2つの古墳から馬と馬具の埴輪が出土している。
 小松市矢田野エジリ古墳からは馬を使った儀式を表す埴輪も出土した。そうしたこともあって、5、6世紀の古墳時代の後期には日本で乗馬の習慣が定着していたことが推定されるようになった。俄然、江上波夫の大陸の騎馬民族による畿内の倭国を征服したという大胆な仮説が注目されるようになった。

 古代、血統の異なる王朝が交替したのではないかとの説を「地方豪族による王位簒奪説」という。こうした簒奪説を取る仮説では、第26代の継体からを新王朝とし、第15代応神から継体までの王朝を中王朝、第10代から応神までを古王朝としている。

 王の血筋が絶えたので、遠い古志の国にまで応神から5代も後の継体を探し出したとか、即位しながら、20年間も奈良に継体は入っていないという非常に自然なシナリオを説明するのに、王位簒奪説は説得性がある。論争はほぼ永久に決着がつかないであろう。

 古代史はだからこそ素人が論争に参加できる領域を提供してくれる。
 それはそれで楽しい。でも、王朝簒奪史だけではあまりにも寂しい。

 王ではない庶民たちはどのような生活を送っていたのだろうか。どんな産業があったのだろうか。どんな往来があったのだろうか。人口に伝えられた伝承をとにかく発掘すること、それから、わが福井には古い地名が残っている。

 この地名から多くのことを類推する。そうした作業が不可欠であろう。福井の地域史研究の水準は高い。この成果を多くの人に公開していただけたらと願う。

 こうしたことへの福井の取り組みを紹介しておこう。
 福井県生活学習館には、郷土学習講座ある。美浜町では生涯学習講座がある。
 2月10日には「古代若狭の銭とマツリ」がテーマになった。越前市南地区では、「みなみ今昔ものがたり」が越前市南公民会で開かれた。

 昭和初期ですら結婚式でお色直しなどなかったことなどが紹介された。
 
市教委市史担当の真柄甚松氏はいう。「昔話がどんどん消えていくのはもったいない。今後も教える場を設け、みんなあで共有してほしい」。至言である。

 今年は継体即位1500年、各種行事が盛り上がり、私たちが生活史を振り返る良い機会だと楽しみにしている。

 継体と関係ないが、このブログで福井の男性社員の賃金水準が低いといってしまったことに忸怩たる思いをしている。反省を込めて、福井の労働状況の良さを紹介しておきたい。

 
2005年の国勢調査の結果、夫婦のいる一般世帯数に占める共働き世帯数の割合は58.2%で、1995年以来、全国1位である。全国平均は44.4%である。

 15歳以上の労働力人口に占める女性の労働力率も53.5%で1980年以来、全国第1位である。女性の就業率も51.6%で、2000年では2位であったが、今回1位になった。すごいのは、就業者のうち、常勤雇用律は86.4%で、これも前回に引き続き1位になっている。

  若いうちは、東京や海外にでても楽しい。しかし、老人になればふるさとに帰りたい。帰って生活できなければなんいもならない。どうすれば帰ることができるのか。一所懸命考えたい。

  今回も『福井新聞』平成19年2月6日号に依拠した。

本山美彦 福井日記 71 継体と2月4日

2007-02-15 01:11:37 | 人(福井日記)
 近年、悪名が高くなった『日本書紀』によると、2月4日(継体元年2月4日、西暦では507年3月5日)は、継体が樟葉宮(くずはのみや)で即位した日である。

 丁度、1500年前になる。枚方市市民会館で、同日、「樟葉宮1500年記念事業、渡来人の里・枚方と継体天皇」が開催された。1200人も集ったという。

 福井県からは、坂井市の「越の大王祭保存会」が六呂瀬山古墳群(私の下宿の近く)に眠る越の王たちに捧げる「越まほろばの舞」を披露し、永平寺町(私の住む町)の「越の国・里づくりの会」が、越の四季をテーマにした創作歌を紹介した。

 大王を祭神とする足羽神社(福井市)では、継体大王即位1500年を記念した奉祝祭が同じく平成19年2月4日に開かれた。

 福井県は、継体即位1500年記念の年に当たる今年、かなり大々的に宣伝する意欲を示している。私も楽しみにしている。

 継体の力の源泉は、いうまでもなく、治水であるが、国際感覚と、国際交通の技術もあったのではないかといわれている。

 永平寺町には古志(こし)という地名がある。おそらく越という言葉を嫌ったのであろう。奈良の都から見て、木の芽峠を「越した」先が越前である。

 
越前という言葉も差別用語の臭いがする。そこで、地元の人たちは「古志」と自らを称したのであろう。

 出雲市の中央部に「下古志」という地名の地区がある。
 
この地区には、『出雲国風土記』に出てくる「宇加池」(うかのいけ)と記載された「宇賀池」がある。これは、いまの福井の古志の国からやってきた技術者たちが築いた堰堤の名残だとされている。同町や隣の古志町を総称して、一帯は、8世紀頃、「古志の里」と呼ばれていた。

 『出雲国風土記』は733年に編纂されたことが分かっている。
 
イザナミノミコトの時代に匹敵する、はるかに大昔、古志の国の人たちが、日淵川(現在の保知石川=ほじしかわ)を利用して池を作ったと記載されている。技術者たちの宿営地が「古志」と呼ばれるようになったのであろう。

 福井市では、継体の誕生前の時代、つまり、古墳時代前期に、すでに灌漑設備の遺構が発見されている。

 
曽万布遺跡では、数十本の杭に芦などを絡めた柵(しがらみ)を作り、石を積み上げて川の流れを変えた跡がある。

 少なくとも、当時の日本では、図抜けた治水工事の技術を、古志人たちは、もっていたのだろう。

 それに、出雲に招かれたということ、つまり、大和朝廷に対立していた出雲と濃密な接触があったということは、かなり古代史にとって暗示的である。

 1500年記念行事の中で、治水事業はもとより、継体の大陸との関係が明らかになってくれたらと胸を躍らせている。

 この文章は、平成19年2月5日の『福井新聞』による。

本山美彦 福井日記 55 古事記と日本書紀

2007-01-13 00:09:14 | 人(福井日記)

 私ごとで申し訳ないが、今日、私の新著『姿なき占領』(ビジネス社)が店頭に並ぶ。

 

初稿校正を出版社に提出したまま(昨年10月)、いきなり出版ということに大いに不安を覚えるものの、出版事情の極端に悪い時期に、出版していただいた版元には感謝している。

 この著のタイトルから、たんに「陰謀史観」であり、「米国非難の著」であると決めつけられてしまいかねないが、そうではない。

 本書は、個人であれ、組織であれ、国家であれ、力と権威はどこからくるのかを問うたものである。

 
いまの忌まわしい時代に対抗するには、「自覚した個々人の連合」の形成が不可欠である。

 どうすればそのような状況を創り出すことができるのか。どうしてもそうした状況を創り出さねばならない。しかし、それは、非常に困難な作業である。運動はつねに挫折し、夢は現実の荒々しさに玉砕してきた。そして、いまはニヒリズムが思潮を支配している。


 例えば、マルクス主義を揶揄することがインテリの条件にすらなってしまった。私は「主義者」ではないが、時代の流行に乗って、特定の思想を「揶揄する」、「苛め精神の卑しさ」だけは共有したくない。

 新著で、「運動に挫折し、心に傷を受けた、切ない人生を送る人たち」の哀しみを共有できればと、私は願っている。そして、「かさにかかって」、「抵抗勢力」を叩きつぶしている「権力」への侮蔑と、虐げられた者と自らの精神の高尚への願いを共有したく思う。

 話を本題に戻す。

 継体天皇が越前育ちであると記したのは日本書記である。そうではなく、生まれも育ちも近江であるとしたのは古事記である。

 どちらが正しいのか定説はない。記紀のどちらに依拠するのかで古代史研究家は分かれる。それに、地元贔屓もある。

 継体天皇は日本書記では82歳まで生きた。古事記では43歳で死んでいる。倍近い開きがある。それほど両者には違いがある。

 ベストセラー『謎の大王 継体天皇』(文春文庫)を2001年に出版した水谷千秋氏は、古事記説に立つ研究者であるが、日本書記を脚色が多いと退けられている。





 
揚げ足は取りたくないが、神話と史実とを区分けしようとしたヘロドトスがついに登場しなかったわが国において、脚色を云々することは、天に唾するものであろう。


 問われるべきは、どうして、古事記が、継体を越前と無関係なものとして描いているかということであり、日本書記になって、どうして越前が入り込んだのかという事情であろう。古代史研究とはそうした姿勢もつべきであり、特定の資料のフアンになってしまってはなんにもならない。

 こういうとき、私はつねに折衷説を採る。
 
継体は、越前、近江、美濃、尾張で築いた権力でもって、畿内に進出したのであろうと。それでいいではないか。大事なことは正確な継体の軌跡を得ることではなく、伝承から炙り出される古代権力の姿なのではないか。水運、そして大陸の影、大規模な土木事業、民衆の結集。それらを検証することではないのか。神話をヒントに史実を推量することが古代史研究の醍醐味であるはずだ。


 ちなみに、継体天皇については、記紀の他に、『上宮記』がある。これは、『釈(しゃく)日本紀』という、鎌倉時代に出された書物に引用されたものである。

  流れからすれば唐突であるが、福井にきて、パチンコ屋の巨大さに驚いている。

 新聞の折り込み広告の9
割は大パチンコ屋のものである。巨大な現金商売。地元経済を理解するうえで、もしかするとキー概念になるかも知れない。

 この巨額のカネが地元経済に潤いをもたらせてくれることを期待している。

本山美彦 福井日記 53 アララギ派歌人の実業家

2006-12-29 18:44:06 | 人(福井日記)
  福井の街路樹は全国でも図抜けている。わが大学の周囲にも、桜、こぶし、ハナミズキとそれぞれの特徴をもつ道が続く。街路樹の足下には紫陽花、つつじ、椿が配置されている。それはそれは美しい道である。こうした町並みは、『北陸政界』(平成19年新春号)によると、熊谷組総帥・熊谷太三郎(くまがい・たさぶろう)によって作り出されたという。



 
雪残る 木立おぼろに 春の雨


            この街なかの 足羽川つつむ



 熊谷太三郎はアララギ派の歌人でもあった。この歌そのものは字余りでしまりがよくないが、歌には、町並みは自分が作ったのだとの自負が溢れている。

 太三郎は平成4年1月15日、福井市の済生会病院で亡くなった。85歳であった。 以下の記述は、上記の『北陸政界』に依拠している

 太三郎は、明治39年11月3日、福井市豊島上町に父三太郎の次男として生まれた。長男は生後1月足らずで夭逝していたので、事実上の長男であった。名前は父の名をひっくり返したものである。幼少の頃は病弱であった。

 一高に入学し、アララギ派の斉藤茂吉土屋文明などの薫陶を受けた。大学は東大ではなく京都大学に進学した。経済学部であった。ここでもアララギ派の結城哀草果に師事した。大学では河上肇の経済原論に傾倒したという。



 家業は土木請負業であった。幼児の時は、父の仕事の不調で貧しかったが、大学を卒業する頃には家業も上向いていた。大学卒業と同時に家業に就いた。

 昭和6年11月6日、根尾梅子(20歳)と見合い結婚した。太三郎25歳の時であった。

  昭和8年4月、父が勝手に応募した結果、福井市会議員に当選した。出張中の筑後から福井に入ったのは投票の2日前であり、選挙運動はまったくしなかった。26歳で市会議長になった


 家業は発展し、昭和13年1月に株式会社熊谷組になった。父が社長、太三郎は副社長であった。昭和15年社長になった。

 東京で空襲に遭うや否や福井に帰省し、焼け跡にバラックの熊谷組事務所を建てた。昭和20年10月、敗戦の混乱時に議会から推されて市長になった。38歳の時であった。

 まず着手したことは、焼け跡の清掃であった。駅前の闇市をバラックを建てて収容し、復興市場組合を作った。21年4月、幹線道路建設に着手した。

 22年4月には初の公選市長になった。全国初の下水道認可事業も始め、左内公園内に足羽ポンプ場を作った。

 
その後、佐佳枝ポンプ場も完成させ、下水道工事を推進した。昭和27年足羽山で福井復興博覧会を開催、翌28年数千本の桜の苗を足羽側の堤に植えた。これが全国でも著名な足羽側の桜堤である。


 昭和34年5月福井市役所を後にして、事業に専心していたが、昭和37年7月参議院議員に初当選した。56歳の時であった

 日本海を望む高台に三国出身の高見順の文学碑を建てた。除幕式には川端康成も参加した。



 佐藤内閣の時、椎名越三郎通産大臣の下で通産政務次官に就任したのが、昭和44年11月。この時、熊谷組の社長を辞任した。

 
昭和47年10月、新幹線ひかり号の米原停車が実現した。山陰線起点の京都、中央線起点の名古屋にひかりが停車するのに、北陸線起点の米原に停車しないのはおかしいと太三郎は当時の国鉄に詰め寄ったという。


 昭和49年の「電源三法」の成立に尽力したと『北陸政界』は記述している。これは田中内閣の時に成立したものである。

 
三法とは、「発電用施設周辺地域整備法」、「電源開発促進税法」、「電源開発促進対策特別会計法」である。福田内閣の下で科学技術庁長官になり、原子力船「むつ」の佐世保寄港を認めさせた。



 
昭和53年10月16日であった。むつ、4年間の迷走のはてであった。議員時代、福井の治山治水事業に尽力した。昭和61年の参議院選では過去最高の得票を得て5選を果たした。この5期を最後に30年間の参議院生活にピリオドを打った。

 北陸アララギ会を主催。『柊』を出版した。
 「くまがい公園」は市民の憩いの場である。

本山美彦 福井日記 52 勝山城

2006-12-29 00:55:49 | 人(福井日記)
 以下は、2003 ココロワークス Produced by 大阪商工会議所に依拠している。

 越前大仏(臨済宗妙心寺派)と勝山城という大建造物を造った多田文化財団は、多田清の資財を基に設立された。


  多田清は明治 38 年、福井県勝山市で4人兄弟の末っ子として生まれた。多田家は、この土地で代々続く庄屋で、かつては苗字帯刀も許された家柄であった。

 父親の事業の失敗によって、清が3歳になる頃には代々受け継いだ豊富な山林や田畑をすべて散財し、逃げるようにして商都・大阪に移り住んだとされる。

 大阪では明日の生活もままならなかったが、当の清は体格もよく、天衣無縫の腕白小僧であった。

 気丈だった母親は、清に、「お前は偉くなって、多田家を昔のように繁栄させるのだよ。そして、みんなで力を合わせて、銀行を創業した野村徳七さんのような立派な人物になるんだよ」と励ました。野村徳七とは、野村証券を創業した人物で、同じ福井県出身であった。

 清は、小学校を卒業すると、早くも丁稚奉公に出て、「少しでも身入りのいい職場を」と職を転々とした。職種を選ばす、自分の体を酷使して働き始めるようになる。原料工場での荷物運搬、運送会社での日雇い労働、さらには、20歳で広島の電信隊に徴兵されてからも、2年間、厳しい軍隊訓練のかたわら休日を利用して働いた。

 彼は毎週土曜日に、訓練で疲れた体に鞭打って夜汽車に乗り、広島から神戸まで出ると、またそこから大阪港に来て沖仲仕の荷役労働を丸1日こなした。沖仲士と言えば、肉体労働の中でも最重労働である。毎日曜日に、清は港に姿を現した。

 軍務のかたわら、勉学に励み、自動車修理の免状と運転免許まで取得した。清は除隊すると、早速、地元の大阪・市岡にある相互自動車(現、相互タクシー)という小さなタクシー会社の一運転手となる。

 タクシー運転手になると、清は少年時代からの親分気質を見込まれ、社内に自分たちの労働組合を組織する。さらに、関西方面の中央組織である大阪交通労働組合にまで出かけ、ストライキの指導までした。

 入社3年後、労働組合は大阪交通労働組合のストライキに参加した。そこで、清たちは社長を前に、当時、多くのタクシー会社が実施していた名義貸制度(会社が名義を貸す代わりに、運転手から車庫賃を徴収するシステム)の不当性を訴えた。

 席上、社長は、車庫を車で一杯にしてくれたら車庫賃を下げてもよいといった。「よく分かった。それなら、われわれの力で車庫をいっぱいにしよう」と清は約束した。  清の交渉態度に信頼を深めた社長は、さらに会社の経営を組合でやってくれないか、と申し出た。清、26歳のことである。

 昭和6年11月6日、清ら 28名のタクシー運転手たちは、後に近代タクシー経営の一翼を担うことになる相互タクシーの前身「相互共済購買組合」を立ち上げた。まさに労働者管理の「協同組合」の設立であった。

 スタート時点から異例ずくめだった。当時のタクシー業界では、経営者が車両を1台も持たずに営業認可を得て、営業権を運転手に名義貸しする、いわゆる「名義貸制度」の会社が多かった。それに対して、「相互共済購買組合」はその名が示す通り、会社は同志的に集まった運転手たちが出資しあう共済組合であった。車両、ガソリン、タイヤ、自動車修理、すべてを共同購入するうえ、経営者が経営に関する責任の一切を負う「直営方式」を導入した。さらに、経営方針には「運転手の生活安定」、「利益はすべて運転手へ」というスローガンを掲げ、会社の利益を労使で折半するという画期的な経営手法が取り入れられた。

 清は、不足していた乗務員を広く募り、新車購入を計画。車両の購入には頭金を払っての月賦払いを活用し、組合員の稼ぎと新車購入の支払いを緻密に計算しながら毎月1~2台ずつ車両を増やし、拡大路線を敷いた。その結果、組合スタート時には 16 台しかなかった車両が、3年後には 70 台にまで増加した。

 また、運転手の生活安定を経営方針に掲げた相互タクシーは、タクシー業界で初めて公休制を導入し、それまで業界が全く手をつけなかった従業員の福利厚生面にも革命的な進化をもたらした。

 創業から5年後の昭和11年には、大阪・関目の地に3000坪の土地を購入し、車両100台を駐車できる大規模な車庫と従業員が居住できる社宅を建設して、“一大タクシー村”をつくり上げたの。手厚い従業員の保護と家族主義的経営が基本であった。他社が1~2年で新車を買い換える時代に、相互タクシーは4~5年もの長い間、車両を走らせることができた。

 昭和12年には日中戦争が勃発し、翌年には国家総動員法が公布された。その戦時体制化にあって、中小のタクシー業者は経営に行き詰まり、次々に大手企業に身売りするようになる。

 日中戦争で世間が日本の将来を案じている時、清は部下に「タイヤをぎょうさん買っておけ」と命じた。そして、清はオイル不足を見越して、いちはやく「木炭自動車」の研究に取り組み始めた。そのうち彼にも召集令状が届き、軍隊に入隊するが、それでも研究を諦めなかった。そして、ついに清は、多田式木炭車を完成させた。

 時を経ずして、太平洋戦争に突入すると、清の予見通り、ガソリンは急激に不足し、ついにはガソリンの配給が完全にストップした。そして、ガソリン車休車命令が発令された。この時にはすでに相互タクシーは600台の木炭車が稼動できる体制を整えていた。部下に大量購入を命じたタイヤも急速に不足したが、清は倉庫一杯にあふれるストックを抱えて、同業他社との経営体力に大きな差をつけた。

  また、一億総決起で戦意が最高の高まりを見せていた頃、清は会議で開口一番、「今日から経理、営業部長らは中之島の図書館に通って勉強をしてもらいたい。ドイツが第一次世界大戦に負けた直後の経済状況を調べて、1週間後に報告書を出して欲しい」と言った。

  「金、銀、の価値がどう変わるかも調べてくるんだ」と付け足した。「戦後のインフレ対策は、山林を買う、土地を買う、平和産業の株を買う」というものだった。

  清は、これらのインフレ対策をすぐに実行に移した。そして、山林は昭和38年頃までに京都府で58 山、大阪府で65山を買占め、平和関連産業の株購入に至っては昭和39年頃までに約6000株、93 銘柄に及び、当時の時価総額で約65 億円にも達した。

 後に、木炭車の燃料確保に端を発した山林の買占めは、植林事業として受け継がれ、戦後の地価高騰時代には計算のしようもないほど莫大な資産となる。さらに、一流上場企業の株主となったことで、その受取配当金は半期で5億円にも上る多大な収入源となった。

 こうした多田式経営は、ほどなくして経済界にも響き渡り、当時、経営の神様と言われた阪急の総帥・小林一三が、阪急バスの経営を頼み込んだという逸話も残っている。

  紺の詰襟と制帽を着用する乗務員

 「私が今日あるのは、あらゆる人達に有形無形の迷惑をかけ、そういう意味での借金をしてきたからだ。残された人生で、これらの借金を返してしまわなければ、人間としての価値はない」。

 戦前に一タクシー運転手から起業し、一代で大阪を代表する一大タクシーグループを築き上げた清は、晩年、「人生借金返済論」をしきりに説くようになる。

 そして、その言葉通り、「社会に対する当然の恩返し」として数え切れないほどの寄付行為や慈善事業を重ねるが、その最後の仕上げとして構想したのが、父祖が眠る生まれ故郷に大仏を建立する事業だった。

 清は、本社の敷地内のガレージを大仏工場に改造して、自ら大仏殿の設計や付属品の試作に取り組んだ。そして、実際に工事が始まると、天候に構わず1週間に一度は現場を訪れ、細部まで自分の目で確かめ、工事業者に厳しい注文を出した。

 昭和62年、実に1857日、延べ8万485人の作業により、大仏殿と五重塔、そして中国の国宝に指定されている装飾壁を再現した九龍壁が完成し、開眼落慶法要が執り行われた。


  越前大仏は身の丈17㍍、両脇に羅漢像と菩薩像を従え、3方を1281体もの仏像に囲まれた、座像では奈良の大仏をしのぐ日本一の大きさとなった。この大仏の完成により、清は地域社会への貢献を合わせた観光事業への進出を目指そうとしたのだった。


 そんな折、清は突然、病に倒れる。病状は重く、長期の入院生活の中で、志半ばの清は事業を後継に託すことを決意する。そして、平成3年7月、ついに清は帰らぬ人となる。葬儀は、清自身が建設した大師山清大寺越前大仏で、しめやかに執り行われた。



 地縁・血縁の大きな財産が福井にはあったものと想像される。