消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(432) 韓国併合100年(71) 廃仏毀釈(5)

2012-07-29 21:45:07 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 四 浄土真宗による執拗なキリスト教批判

 東本願寺派円光寺(えんこうじ)に樋口龍温(りゅうおん)という僧侶がいた。一八六五年から東本願寺高倉学寮において、当時の仏教を取り巻く思想状況を講義し、その講義録が生徒のノートとして残されている。「急策文」というノートがそれである(小林・栗山[二〇〇一]、一九ページ)。

 それによると、仏敵は四つある。要約する。

 <いまや仏敵が四方にいる。一つは、偏見による儒者。二つは、憶説(注・根拠のない推測よって説かれる説)だけで決めつける古道と称する神学者。三つは、地球が円く、星でなく地球が動くという説を唱える天文学者。四つは、海外から入ってくる耶蘇教。以上である」(小林・栗山「二〇〇一]、一九ページより転載)。

 小林・栗山[二〇〇一]の解説によれば、一つは、朱子学派、陽明学派、古学派、その他の儒学者を指している。



 朱子学派は、林羅山(はやし・らざん、一五八三~一六五七年)、山崎闇斎(やまざき・あんさい、一六一九~八二年)、貝原益軒(かいばら・えきけん、一六三〇~一七一四年)などが象徴的存在である。



 陽明学派は、中江藤樹(なかえ・とうじゅ、一六〇八~四八年)、熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん、一六一九~九一年)が代表格である。



 古学派は、伊藤仁斎(じんさい、一六二七~一七〇五年)、荻生徂徠(おぎゅう・そらい、一六六六~一七二八年)などが指導者であった。

 彼らを含めた儒学者たちは、来世主義・彼岸主義の仏教を否定し、現世・現実主義を重視する倫理観を持つ。幕末の儒者たちは、神儒一致観念に染まり、水戸学派の尊皇思想と結びついた政治的発言を繰り返していた。



 二つは、復古学派の荷田春満(かだの・あずままろ、一六六九~一七三六年)、賀茂真淵(かもの・まぶち、一六九七~一七六九年)、本居宣長(もとおり・のりなが、一七三〇~一八〇一年)などである。彼らは、古代の自然・世界観を重視し、仏教の反自然性を批判していた。平田篤胤(一七七六~一八四三年)の記紀神話に基づく宇宙創造説も仏教批判の急先鋒であった。


 三つは、本多利明(ほんだ・としあき、一七四三~一八二一年)、伊能忠敬(いのう・ただたか、一七四五~一八一八年)、山片幡桃(やまがた・ばんとう、一七四八~一八二一年)などの科学思想家。彼らの宇宙論が、仏教の須弥山(しゅみせん)説批判になっていた。つまり、仏教の地獄・極楽説が否定されたのである。



 四つは、開国後のキリスト教宣教師であり、とくに、J・L・ネビアス(John Livingstone Nevius, 1829~93)やJ・エドキンス(Joseph Edkins, 1823-1905)が主要な仏教批判者であった(小林・栗山「二〇〇一]、一九~二〇ページ)。



 新政府が、キリスト教禁圧に踏み切った時、東西本願寺はそれに追随した。キリスト教批判の風潮に乗ることによって、仏教を再起させようとしたのであろう(同、二〇ページ)。このことは、神仏分離令に対抗すべく、明治元年に宗派を超えて結成された「諸宗同道徳会盟」の「課題八ヶ条」の次の条文に表現されている。そこには、「王法仏法不離之論」と並んで、「邪教研窮毀斥之論」が配されている。前者では、仏教の持つ護国的意義が述べられ、後者では、護国を実践すべく邪教のキリスト教の排斥(毀斥)に努めようとするものである(同、二〇ページ)。

 明治元年から、東本願寺は学寮、西本願寺は学林、というそれぞれの付属研修所で、キリスト教の研究が始められた(同、二一ページ)。学林の講師に安國寺淡雲(あんこくじ・たんうん)という人がいた。

   小林・栗山[二〇〇一](二一~二二ページ)の紹介によれば、淡雲は、一八三一年生まれ、博多の西本願寺派明蓮寺の住職であった。その講義録、『護国新論』は反キリスト教色の強いものであった。この書は、一八六八年に刷られ、南山大学図書簡に所蔵されている。淡雲は、岩倉具視との人脈があり、西本願寺において、朝廷との交渉掛であった。慶応四(一八六八)年、新政府より「耶教門」の「取調掛」を命じられて、キリスト教排除活動に従事することになった。「諸宗同徳会盟」に参加し、明治五(一八七二)年、神祇省廃止とともにに新設された教部省に出仕、明治三〇(一八九七)年、本山の学林総理となった。排耶運動の重要な担い手であった

 淡雲の『護国新論』は、<非常に評判が高く、上辺だけのキリスト教批判ではなく、深くキリスト教研究をした結果として、七八枚の小さな冊子にすぎないが、非常に深い博識によって裏付けられたものである>(『中外新聞』四四号、慶応四年六月六日付、現代語に要約)という最大級の絶賛を受けたほど反キリスト教運動に大きな影響力を持った(小林・栗山[二〇〇一]、二二~二三ページに依拠)。

 ただし、淡雲の講義は、実際には、<キリスト教は人倫を破り、国家を害する邪教である>という「牽強付会」(けんきょうふかい、注・都合の良いように無理に理屈をこじつけること)なものでしかなかった(小林・栗山[二〇〇一]、二三ページ)。<十戒で父母を敬えというが、キリスト教に聖人で孝子が一人でも出たであろうか>、<十戒は、君主を敬えと教えていない>、<十戒は、天主を信じない者は、例え、親孝行しても、君主を敬わっても、地獄に堕ちると決めつけている>(同ページ)。しかし、淡雲のキリスト教批判は、かなりレベルの低いものであったと小林・栗山[二〇〇一]は、淡雲を切って捨てている(同)。

 「護法家としての淡雲の果たした役割は、新たな排耶論の形成に寄与したばかりでなく、邪教門一件諸家応接取調掛として、諸宗同徳会盟における結社活動の場で、あるいは教導職として実際の闢邪運動を指導し教化に努めたことである」(同、二三ページ)。

 しかも、その著『護国新論』は、末寺まで浸透していたらしい(同)。

 淡雲とともに、反キリスト教運動に大きな力を発揮したのが、藤島了穏(ふじしま・りょうおん)である。彼は、真宗西本願寺派の学僧で、明治一五(一八八二)年、から七年間、フランス、ベルギーに留学した。その間、フランスのインドシナ侵略を目の当たりにし、キリスト教国による植民地侵略に危機感を募らせた。帰国後、西本願寺に執務し、国家主義教学の主張を行うようになった。留学前の明治一四(一八八一)年に平易な文章で著した小冊子『耶蘇教の無道理』は仏教信者に対して大量に無料配布された。

 この小冊子は、三編からなり、一八八一年六月から一か月ごとに一編ずつが出された。第一編は、天地創造説を批判し、全能であるはずの天主はなぜに害悪な生物をこの世に創ったのかと問うた。第二編は、原罪説批判であり、禁断の木の実を食するアダムとイブ、それをそそのかす蛇の邪悪さをあげつらい、人間が子々孫々まで先祖の罪に苦しめられる不条理を非難している。第三編はノアの洪水説についてであるが、「天主暴虐洪水を降ろす」と批判している。<父たる天主にせよ、子たる耶蘇にせよ、世を救うことがあまりにも不十分である>というのが、この小冊子の基本的視点である。

 西本願寺は全国で反キリスト教の講座を開き、この小冊子を聴衆に無料で配った。京都の会所では、発行後すぐに数千部が配られ、一八八二年の一年間だけで、七〇万部が配布されたという(『開導新聞』一〇六号、一八八二年七月一七日付。一一一号、一八八二年七月二七日付;小林・栗山[二〇〇一]、一二ページより)。信者の中には、寄進として、一度に一万部、二〇万部も発注した人もいた(同)。

 西本願寺が設置した反キリスト教講座を持つ教院数は、一八七七~八三年に九四から一四八に増加し、講社数も、同期間に二九から五三〇まで急増した(『日本帝國統計年鑑』、「全國教院及講社」第四、五回。小林・栗山[二〇〇一]、一二ページより)。

 『仏教演説集誌』という刊行物がある。一八八二年の第二号は、博労町劇場では一八〇〇人の聴衆を藤島は集め、聴衆のすべてに件の小冊子が無料で配布されたと報じている。少なくとも排耶運動の先頭に立ったのは、真宗西本願寺派であった(小林・栗山[二〇〇一]、二四~二六ページ)。

 おわりに


 政治的判断を優先したがために、あまりにも心情的すぎ、けっして哲理的なものではなかった反キリスト教の護国・護法論であるが、これらは、キリスト教の哲理と深いところで格闘しなければならないという真摯な姿勢を仏教界にもたらした。それこそ仏教界は、腰を据えてキリスト教、ひいては、西洋哲学の深さに直面して、自らを省みなければならなくなった。成熟してくる市民社会において、新しい立脚基盤を仏教界は築く必要性に気付くことになった。もっとも激しくキリスト教に対峙した真宗内で、近代的哲理を獲得して行く努力が祓われるようになったのである。

 その代表的な人物が、井上円了(えんりょう、号は甫水(ほすい))である(27)。あらゆるジャンルにまたがるその著書は一〇〇冊を超える。中尾祖応(そおう)編集の『甫水論集』がある(中尾[一九〇二])。

 井上は、人間の認知できる範囲を「求心性」、その範囲外のものを「遠心性」と区分し、科学を含む一般の学術を求心的なもの、宗教を遠心的なものとする。この両者の間にあり、科学から宗教へと媒介するのが、「純正哲学」であり、それは、宗教的心理に至る「方便」であるとした(中尾[一九〇二]、一〇、二九~三〇ページ)。井上は言う。

 「純正哲学にて地定したる不可知的の門内に本領を定め、之を実際に応用して宗教の成立を見るに至る」(同、二六ページ)。

 人間が認知し得る領域を人間の認知範囲を超える領域との接点である哲学にこだわることによって、人知を超える宗教的な境地に達することができると井上は言っているのであろう。それまでのように、国家論ばかりを振り回してキリスト教を攻撃するだけでは駄目で、きちんとした哲学・科学によって、キリスト教を克服しなければならないという信条を井上は持っていた。

 井上は、「天地万物の変化作用一定の秩序和合ありて万物万化皆整然として条理ある」とも言う(井上[一八八七]、七二ページ)。

 万物の生成・流転は「大智大能」の神が生み出したものではなく、「天然に出るもの」、「自然にして進化したるもの」、「天然の理法」である(井上円了『真理金針・続々編』、一八八七年(三四、三六ページ)、峰島[一九七一]、六六八ページより転載)。

 天地は悠久無限のものであり、初めもなければ終わりもない。その世界はつねに閉じたり開いたりする。それが人智を超えた真理である。その真理を感得できるものこそ、仏教であり、神が天地を創造したというキリスト教ではないと井上は断じるのである(井上[一八八七]、一八五~八六ページ)。

 しかし、そうした観相的立場だけでは、現実を乗り切ることはできないとも井上は言う。「社会」の真理は競争にあるので、今日の日本は、「国権拡張国力養成」を急務とする。宗教といえども、この現実を無視してはならない、「宗教の本意は必しも世間に関せざるに非ざる事」、「布教の方便は時勢に応じて」変わる必要があることと説く。にもかかわらず、日本の仏教界は、理論偏重でありながら、その水準が低く、僧侶の道徳的精神は貧困であると井上は批判している(『真理金針続編』一八八七年、六~一〇ページ。峰島[一九七一]、六七〇ページより転載)。

 キリスト教が、世界を席巻しているのは、キリスト教国の国力が強いからである。仏教も布教するためには、日本の国力を増強しなければならない。これが、「護法愛国」である(同、一三ページ。峰島、同、六七一ページより転載)。

 巨人、井上円了ですら、国家から自立できる宗教を構築しなかった。この姿勢が、国家権力を背景にアジアに布教する韓国併合時の日本の仏教の基本形になってしまったのである。


野崎日記(431) 韓国併合100年(70) 廃仏毀釈(4)

2012-07-28 12:16:36 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 長州閥と浄土真宗本願寺派

 大日本帝国憲法(以下、明治憲法と略する)は、明治二二(一八八九)年二月一一日に発布され、翌年の明治二三(一八九〇)年一一月二九日に施行された。

 その第二八章は、「信仰の自由規定」の名の下に、「信仰の自由」どころか、いわゆる邪宗門(20)を取り締まる規定としてあまりにも有名になった条項である。

 「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限に於て信教の自由を有す」。

 そもそも、法律とはそういう性質を持つものであるが、ここでは、目的の「信教の自由」という文言よりもその前文の制限条項の方がより重い意味を帯びている。

 明治憲法は、公的には、一八八六年末から八八年にかけて審議されたものであるが、実際には、それ以前から専門家たちに草案作りが権力者によって依頼されていた。

 ここでは、明治六(一八七三)~明治七(一八七四)年に作成された青木周蔵「大日本正規」に当時の高級官僚層の宗教観を見る。青木は、一八七三年には外務一等書記官としてドイツに官費留学していた。この「大日本正規」は、留学中のベルリンで一九七三年二~三月に起草されたものとされている(稲田[一九六〇]、一九四ページ、草案の文章は、この文献に依拠した)(21)。青木の草案は、日本に憲法を作るという主張をもっとも明確に打ち出していた木戸考允(たかよし)の依頼によるものであるので、当時の支配層の宗教観を知る上で格好のものと考えられる。 

 現代語訳で要約しながら、青木草案を説明する。

 <日本の政治機構は、まだ幕末の公儀中心の政治体制から脱却していない>。<君も民も同じように治められるべきということが正しいことであり>、制限付きではあるが、<国民の権利、自由および平等が>確保されるべきことが憲法草案の冒頭に配置されている。その点では、正式の明治憲法よりも先進的なものであった(尾佐竹[一九八五]、八ページ)。

 しかし、青木の憲法草案には、仏教以外、とくにキリスト教を禁止するという条文がある。
 草案第一二章、<耶蘇教およびその他の宗旨を禁止するべきである>。
  草案第一三条、<日本国で主として信仰されるべき宗旨は釈迦教であるべきである>。

 憲法で、日本人が信仰してはならない宗教とか、信仰すべき宗教とかが明示されること自体が、今日の良識からすればとんでもないことであるが、しかし、ここでは、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていたまさにその時期に、高級官僚によって、声高に仏教を推進させることが唱えられたことを重視しておきたい。それは、明治中央政府の大教宣布運動を手直しする強い意志の表現であった(中島[一九七六]、五ページ)。

 中島三千男は、ここには、岩倉具視(ともみ)らを中心とする宮廷貴族層と、青木・木戸らの「エタティスト層」(etatists=国家至上主義者)との間にある宗教認識のズレが現れているとの認識を示している(中島[一九七六]、八ページ)(22)。



 駐日英国公使の通訳であったアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)の一八七一年九月三日付日記には、英国代理公使アダムス(Francis Ottiwell Adams)(23)が本国に送った「条約改正」に関する書簡の中で、岩倉具視との談話の内容が記載されている。

 アダムスによれば、岩倉は、「キリスト教禁止を解けば、この国に革命をもたらすことになり、近世の方針をそれまで採ってきた政府は打倒されることになる」と語ったという。アダムスは岩倉に言った。「わたしが予想するもう一つの危険は、宗教の問題である。維新以来、天皇の政府は、仏教に対して一種の十字軍的な行動をとってきた。わたしの理解するところでは、その目的は仏教を廃棄し、それにかわって、神道を復活させようというものである。このような政策はヨーロッパ人の観点から見ると、じつに危険に満ちている。どこの国でも、農民や下層階級は、それぞれの宗教を概して形式的な意味で遵奉しているにすぎないが、その宗教の中で生まれ育っただけに、その祭礼や儀式に愛着をいだいており、それを上から強制的に変えようとする試みに、つよく反発するにちがいない」。

 岩倉は答えた。「天皇の政府は仏教を廃棄せよという布告を発したことはない。維新以来、政府が追及してきたのは、二つの宗教が混合している場合を取り上げ、神道を純化しようとしたことである」、「仏教は死滅したも同然であり、僧侶は無為に日を過ごし、戒律を犯してばかり居る、身体だけが丈夫な人間である」、「その仏教は多くの神社に忍び込み、これを汚染してきた。そこで神道を司る御門がこの汚染を取り除き、神社を純化することになった」、「全体として政府が仏教に好意を示さなかったことは確かであり、各地で多くの仏教寺院が破壊されたことも事実であるが、御門の命令は、かかる措置は僧侶と農民を含む、関係者の合意の下に実施されるべきであるというものであった」。



 ここには、天皇を神に祀り上げたいという岩倉具視の意志が示されている(24)。さらに、アダムスは、越中富山、信州松本などで廃仏毀釈をめぐる騒動があったことの理由を質した。このことについての岩倉の弁明。「その理由ははっきりしている。それらの地方で、変革が民衆の同意を待たずに行われたからである。この点で、藩庁は政府の厳しい叱責を受けた」。

 それでは薩摩はどうなのか。薩摩では仏教の寺院が大量に廃寺に追い込まれたというが、多くの民衆は、依然自分の家で、ひそかに仏教の儀式を遵奉しているというではないかと、アダムスは詰問した。

 岩倉の答え。「元来薩摩には寺院の数はそれほど多くなく、廃寺は何の反対も引き起こさず、且つ僧侶の同意の下におこなわれた。僧侶は喜んで還俗し、新しい生活に入った」。「ここの家で仏教の教義が実施されているという点であるが、そのうわさは正しい。しかし、それは仏教の特殊な宗派の信者、「門徒」の場合に限られることである。この宗派は、薩摩では約三百年も前から禁止されてきた」(萩原[二〇〇八]、二九一~九三ページ)。

 このような、強烈な神道至上主義者であった岩倉具視に対抗していたのが、長州閥であった。彼らは、宮廷貴族を抑えるために、仏教勢力を利用しようとしたのであろう。長州閥の人脈があった島地黙雷が、効果的な大教院離脱運動を展開できたのも、こうした明治政府内の「宮廷貴族層」と長州閥の「国家至上主義者層」との角逐があったことの産物であると見なすこともできる。

 既述のように、明治五(一八七二)年一月、島地黙雷は、欧州歴訪の旅に出た。それは、当時の西本願寺の第二一代新法主・大谷光尊(こうそん、法名は明如(みょうにょ))の命令によって、法主の実弟・梅上沢融(うめがみ・たくゆう、法名は連枝(れんし))の補佐役として随行した旅であった。この時に、同じく欧州に派遣されたのが、赤松連城(れんじょう)であった。この赤松連城も周防徳山の西本願寺派・徳応寺(とくおうじ)の住職であった(25)。

 赤松連城も一八七三年に岩倉使節団に英国で会っている。彼は、明治七(一八七四)年に帰国し、寺法を定めた明治一二(一八七九)年の太政官布告の草案を書いた(http://episode.kingendaikeizu.net/40.htm)。彼も、島地黙雷とともに、岩倉使節団の一員として同じく欧州にいた木戸孝允と頻繁に会合していた。明治政府の宗教政策を転換させたがっていた木戸孝允が、島地たち西本願寺派僧侶の影響を強く受けていたであろうことは、十分に想像される(http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/eye5.html)(26)。


野崎日記(430) 韓国併合100年(69) 廃仏毀釈(3)

2012-07-27 09:02:07 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 二 大教院運動に抵抗した島地黙雷

 大教院運動を担う教導職に、上述のように、仏教界から結構多数者を参加させたが、その位は総じて低かった。教導職の職位には一四の階級があった(18)。しかし、僧侶の階級は、第六番目の「権小教正」(ごんしょうきょうせい)以下であった。

 まず、浄土真宗の僧侶たちが、大教院運動への反対運動を組織することになった。真宗の僧侶と門徒の農民が宗教一揆を起こした。これを「護法一揆」(ごほういっき)という。とくに、浄土真宗大谷派の僧侶・門徒による一揆が目立った。この一揆は、明治三(一八七〇)年から明治六(一八七三)年の間に集中している。大規模な一揆としては、明治四(一八七一)年に三河国の碧海(へきかい)郡と幡豆(はず)郡で発生した「三河大浜騒動」、明治五(一八七二)年に越後国の信濃川流域で発生した「新潟県分水(ぶんすい)一揆(19)、明治六年(一八七三)年に越前国大野郡・今立郡・坂井郡で発生した「越前護法大一揆)」などが挙げられる(吉田[一九八五」;三上[二〇〇〇]による)。

 西本願寺派の島地黙雷(しまじ・もくらい)は、一八七三年一〇月、「大教院分離建白書」を提出して、神道と仏教を合併させる意図で組織された大教院運動に反対する運動を開始した。島地は、大教院運動を「正教混淆」と批判し、信教の自由を訴えた。西本願寺は、島地の運動に強く反応し、大教院からの仏教の分離を申請した。そして、上述のように、一八七五年、信教の自由の獲得を理由に東西本願寺が大教院から離脱し、大教院は廃止された。

 教部省は、「信教の自由保証の口達」(教部省口達書」を発布し、一八七七年に自らを廃止した。それとともに、寺社を統轄する機関として内務省に寺社局が創設された(安丸・宮地編[一九八八]、五四二ページ)。 

 島地黙雷は、監獄布教など社会問題に取り組むなど、多方面に活動した僧侶である。一八三八年、周防国(山口県)の専照寺の四男に生まれた黙雷は、一八六四年に火葬禁止令を出した長州藩の廃仏政策に反対した。同じ頃、大洲鉄然(おおず・てつなん)らとともに真宗僧侶に兵士教育を施し、長州の倒幕運動を支援し、倒幕派との人脈を形成した。

 黙雷は、鉄然らと京都に上り、西本願寺に入る。江戸時代には、門主とその家臣によって運営されていた本山を改革すべく、門末(注・末寺)から優秀な人材を登用することを提案し、その提案は法主に採用された。

 西本願寺は、海外の宗教事情の視察のために、黙雷たちを欧米に派遣した。時期が、岩倉使節団の渡欧と重なったこともあり、パリなどで政府高官たちと黙雷は頻繁に接触していた。
 外遊中、大教院の設立によって、神主仏従という構図になっていた状況を伝え聞いた黙雷は、ただちに大教院の分離を訴える建白書を日本に送った(「三条教則批判建白書」、一八七二年)。帰国してからも、大教院やその管轄省庁の教部省への批判を繰り返した。大教院の廃止に黙雷は大きな影響を与えたのであるが、それには、彼の長州閥との人脈が功を奏したようである。
 その後も、監獄布教など社会問題に取り組むなど、仏教者そして啓蒙思想家として、多方面に活動し、明治三八(一九一一)年に亡くなった(http://www.ohaka-im.com/jinbutsu/jinbutsu-shimaji.htmlより)。島地黙雷の著作全集がある(二葉・福嶋編(一九七三~七八)。

 以下で、「三条教則批判建白書」を要約的に紹介する。

 <海外留学中の僧の身で謹んで書きます。我が国の宗教は廃れています。欧米の宗教が隆盛を誇っているのとは対照的なことです。私の意見を朝廷が聞き届けて下さるなら私は死んでもよいと思っているほどです。
 政治と宗教とは別物です。けっして混淆すべきものではありません。政治は人が作るものであって、一国に通用するだけです。しかし、宗教は神が作るもので、万国に通用するものです。政治は利己的なものですが、宗教は利他的なものです。国は、自分を割いて敵国に譲ることはありませんが、宗教は、自己を捨てて他人を救うことに本分があります。

 政治は自国を富ますべく、他国と争います。それは、虎狼の心です。宗教がこの心を制するのです。

 往々にして、人はこの異なる二つのことを混淆してしまいます。西洋もかつてはそうでした。しかし、いまの西洋ではそうではありません。しかるに、省令はこの二つを混淆してしまっています。

 三条教則の第一には、「敬神愛国の旨を体すべきこと」とあります。敬神とは、宗教であり、愛国とは政治です。ここには、政治と宗教の混同があります。そもそも宗教は万国人のものです。仏陀は、「平等の大悲一切衆生を救済す」と教えてくれます。真の道とはほど遠いキリスト教ですら、「愛神愛人」と言っています。そして、キリスト教は万国に普及しています。宗教とは、一国に限定されるものではありません。

 三条教則にある「敬神」とは我が国に限る神なのでしょうか。それとも万国に通じるものなのでしょうか。

 我が国に限る神であるとすれば、万国に普及しているキリスト教に勝てるはずはありません。神は神です。宗教によって説き方が異なるだけです。

 ところが、我が国の神なるものの教えを過去、何人(なにびと)が立てたでしょうか。我が国の神の宗教を開いた人はありません。それなのに、省令は、ただ神を敬することを勧めるだけです。神を詳しく説くわけではありません。神に仕えるわけではありません。どうしてこのようなことに民衆は心を通わすことになるのでしょうか。

 天神地祇、水火草木に存する八百万(やおよろず)の神を敬させるのであれば、これは、欧州の児童も蔑んで笑うでしょう。エジプト、ギリシャ、ローマ、イギリス、フランス、ゲルマンなどの諸国における古代の人々は、衆多の神を尊奉しておりました。しかし、紀元前四〇〇年代、ギリシャの偉大な哲学者ソクラテスは衆多の神を廃して単神説を立てました。それは、当時の論と違っていたので、ソクラテスは刑死になりました。古今東西、これを惜しまない人はいません。多数の神を信じる人は欧州にはいません。多数の神を崇めることを、欧州では「ミトロジー」(神話学)と称し、図画彫刻の玩物として扱います。

 多神教が存在していたのは、自然の摂理を人間が解明できなかったからです。文化が開明している現代、不思議が解明されるようになった現代、多神教は終わったのです。いまやアフリカ、南アメリカ、東南諸洋島、アジアやシベリアの野蛮な地においては、なお多神教が尊奉されています。しかし、文明が発達している欧州では、多神教は甚だしく卑しめられています。臣の私は、本朝のためにこれを恥じます。あえて忌み嫌われることを恐れずにこのようなことを申しますのは、そのためであります。

 三条教則の第二章「天理人道を明らかにすべきこと」について申し上げます。宗教には徳、功、情の三つが必要です。ところが、省令の第二章は、効、つまり実績だけを強調するものです。宗教は民心を掴むことが肝要です。ところが、「天理人道を明らかにする」ということは、学問の深さに依存してしまいます。これでは、どうして救済を求める愚民の心の中に入ることができましょうか。学識や学風に違いがあるからこそ、各国の文化の違いが生まれます。それでは宗教になりません。宗教は差異を超えるものです。「天理人道」は宗教ではありません。

 三条教則の第三章「皇上を奉戴し朝旨を尊守せしむべきこと」についても私は案じます。尊王は国体であり、宗教ではありません。いわんや、現在のわが国は、専制の形であり、立憲の体裁をなしていません。

 三条規則にある「教部省出仕の僧侶、その本山を旧主と称し、その宗門を旧宗と称すべき云々」にも私には納得ができません。教部省に仕える僧侶は、本山の支配を受けるべきではないというのが、この省令の趣旨なのでしょうが、私には解せないことです。僧侶と本山との関係は、君臣の関係ではなく師弟の関係です。旧主という言葉には昔の君という響きがあります。昔の君主を棄てて、新たに朝廷の臣になれと命じられるのでしょうか。私は二君に仕えることができません。

 欧州の新聞には、日本政府が新しい宗教を作り、人民にこれを押し付けようとしているとの記事がありました。私は、そのような馬鹿なことがあるはずはないと思っていました。しかし、後に、このことが真実であることを知り、驚愕してしまいました。宗教とは、神が作るものです。法律によって作られるものではありません。

 宗教には、神と人間の間に立つ開祖が必要です。日本の神道を日本の唯一の宗教とするには、誰が開祖になるのでしょうか。

 宗教は、和らいだ心の地に安んじ、開化をもたらすものでなければなりません。国の富強と文物を盛んにし、法制を詳しくし、学術を励ますのは、政治家の任務です。これを宗教家に頼もうとするのは間違っています。宗教は、こうした任務を担う政治家の心を正すものです。
 欧州開化の源は、宗教によらずして学により、キリストに基づかずしてギリシャ、ローマに基づいていることは、三歳の児童でも知っています(要約は、http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/55の現代語訳に依存した)。


野崎日記(429) 韓国併合100年(68) 廃仏毀釈(2)

2012-07-25 21:25:02 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 主な廃仏運動を、列記しておこう。

 一八三〇~四〇年代。水戸藩は、徳川斉昭(なりあき)が中心となって、神社を唯一神道に改め、一村一社の制を採り、宗門改めの廃止、氏子帳の作成、僧侶の還俗、家臣の仏葬の廃止、梵鐘の徴収、等々が計画され、徐々に実施された。しかし、この措置は、幕府による斉昭の処分で頓挫した。



①天保一三~四(一八四二)年。長州藩では、村田清風(せいふう)が主導して、寺院と村々の堂宇(どうう。注・お堂のこと)を淫祀(いんし。注・いかがわしいものを神として祀ること)として破却した。

②慶応三年六月(旧暦。新暦は一八六七年七月)。津和野藩が神仏混合を禁止した。

③慶応四年三月(旧暦。新暦は一八六八年三月)。王政復古の太政官布告。神仏分離に関する法令が出された。権現(ごんげん)号(6)、牛頭天王(ごずてんのう)号(7)の廃止、仏像を神体とすることの停止、本地仏・鰐口(わにぐち)(8)・梵鐘・仏器などの取除きが行われた。また、近江(おうみ)の日吉山王社(ひよしさんのうしゃ)(9)が破壊された。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)号(10)が停止された。旧暦の慶応四年九月八日が明治元年(新暦では、一八六八年一〇月二三日)(11)に改号されるまでにも、このような激しい廃仏毀釈の号令が下されていたのである(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm)。

 新暦明治三(一八七〇)年二月三日(旧暦一月三日)、には、「大教宣布の詔」(だいきょうせんぷのみことのり)が発布された。これは、天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とするという国家方針を示したものである(安丸・宮地編]一九八八]、四三一ページ)。
 しかし、廃仏毀釈による混乱、まだ地方政府としての機能を保持できていた諸藩の抵抗、神祇省(12)内部の国学者間の路線対立、欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なって、神道国教化の動きはスムーズには行かなかった。そのために、やむなく当時最大の宗教勢力であった仏教、とくに、浄土真宗の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれた。神祇官がなし得なかった国民教化を実現するために、教導職制度(13)が設けられ、新たな国民教化運動を組織する努力が重ねられた。その中心機関として大教院(14)が設立され、各府県単位の中教院、その下部には小教院が置かれた。これを「三条教則」という(15)。

 しかし、神道勢力と浄土真宗との深刻な意見対立によって、浄土真宗が大教院を離脱し、明治一〇(一八七七)年、大教院は廃止され、新たに教部省が、旧暦の明治五年三月一四日(新暦では、一八七二年四月二一日)に設置された。この教部省は、神祇省を改組し、民部省(16)の仏教を統轄する部局である寺掛を併合する形で設置されたものである。このことは、神祇官内に設置された宣教使の神道と儒教を基本とした国民教導が失敗したことを意味する。

 神道を押し立てていた新政府の混乱によって、神仏分離で劣勢に立たされていた仏教勢力、とくに、明治維新に際して倒幕側を支援した浄土真宗大谷派が、政治工作によって教部省を政府に樹立させたのである。

 大教院は、仏門の増上寺に置かれた。とは言え、それは、必ずしも仏教側の勝利を意味するものではなかった。明治七(一八七四)年時点で、全国における教導職は七二〇〇名を超えていたが、神道関係者の方が多かったからである。神道関係者が四二〇二人、仏教関係者は三〇四三人であった(桜井[一九七一]、五一ページ)。

 増上寺本堂が大教院として、神道の拝殿として用いられたことは、問題を複雑にした。神殿で行われる祭祀に教導職である僧侶の参列と拝礼が義務付けられた仏教勢力は激しく憤っていた。

 神道側も憤っていた。仏堂の中に神社が設けられたことに反発した廃仏主義者の旧薩摩藩士によって、明治七(一八七四)年一月一日に放火されて増上寺本堂が全焼し、神体は助け出されて芝東照宮に一時奉遷された後、神道勢力が新たに設置した神道事務局の神殿に遷されたという経緯がある(http://www.bukkyo.net/zojoji/)。

 明治八(一八七五)年には、仏教界で巨大な影響力を保持していた浄土真宗の東西本願寺派が大教院から離脱した(17)。これをきっかけとして、同年、大教院は廃止となり、神仏合同布教も停止された。明治一〇(一八七七)年には教部省も廃止、明治一五(一八八二)年には教導職の主要な担い手であった神官が教導職の兼務を禁止され、明治一七(一八八四)年、教導職も最終的に廃止された(安丸・宮地編[一九八八]、五四二ページ)。こうして、大教宣布の運動は成果なく終わってしまった。


野崎日記(428) 韓国併合100年(67) 廃仏毀釈(1)

2012-07-24 11:50:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

日本仏教の朝鮮布教と廃仏毀釈

 はじめに

 日本の仏教界が、政治権力との結びつきを深めることによって、朝鮮布教を推進したことが、日本の仏教界の命取りになってしまったが、それには、明治維新直後に仏教界を襲った廃仏毀釈攻撃の記憶が仏教界にあったからであると見なすこともできる。日本の仏教界は、新しく台頭してきた神道との死に物狂いの闘争を経験した。神道からの攻撃を避けるためにも、日本の仏教は日本帝国による朝鮮支配に積極的に協力する姿勢を示さざるを得なかったのであろう。
 <宗教は、政治と相補って、国運の発揚と国民の活動を促すべきである>(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一八ページ、要約)。

 一八六九年に「北海道開拓」を明治政府に申し出た際、真宗大谷派は、北海道の開拓と並んで、中国、朝鮮への布教(開教)を宣言した。新政府の国威発揚・富国強兵に呼応しようとしていたのである。

 日本の仏教教団が明治政府に従属せざるを得なかった背景には、仏教に対する苛烈な廃仏毀釈の運動があった。

 一 廃仏毀釈

 江戸時代の日本の仏教は、高麗王朝時代と同じく、幕府の手厚い保護を受けている特権的存在であった。

 一六六五年、第四代将軍・徳川家綱が、各宗派の本山に対して「諸宗寺院法度」を発布した。これは、全国に数多くある寺院と僧侶を幕府が直接統治するために設けたものである。幕府は各宗派ごとに本山と本寺の地位を公認し、末寺を統制する権限を与えることによって、全国の寺院と僧侶を支配した。これらは「宗門改帳」(しゅうもんあらためちょう )とセットになって末端層の統治を意図したもので、切支丹禁止、日蓮宗不受不施派(1)の徹底弾圧にもつながった。ちなみに、長野の善光寺は、上野寛永寺の末寺に定められた(http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/huroku3.htm)。

 江戸幕府は、各宗派を、本山を頂点とした全国組織に編成替えしたのである。寺院は、また、寺請(てらうけ)制度(2)や寺檀(じだん)制度(注・総ての領民はいずれかの寺院の信徒になるという制度)によって、幕府の管理下に置かれた。

 江戸幕府の崩壊とともに、仏教は新たに興隆した神道の攻撃対象になった。目まぐるしく官制が変えられる中で、明治政府は神道との祭政一致の方向を目指した。

 一八六八年二月一〇日、太政官(だじょうかん)の下に七つの科が設けられ、その一つが神祇(じんぎ)科であった。太政官とは、明治維新政府の政治を司る最高官庁で、複数あった最高官吏の総称であった。一八八五年内閣制度が発足した時に廃止された(http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description04.html)。

 「神祇」のうち、「神」とは、天の神(天津神)を指し、「祇」とは地の神(国津神)を指す。そうした祭事を取り仕切る部局が神祇科であった(http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/113640/m0u/)。神祇官は、古代の律令制で設置されていたが、明治維新に改めて設置を目指されたものである。神祇科には、宮家、公家、国学者などが重用され、神祇科の総督には、明治天皇の外祖父に当たる中山忠能(ただやす)
(3)が当たった。



 一八六八年二月三日、神祇科は総裁局の下に事務局として再編成されて、神祇事務局となった。同年六月一一日、古代の律令制に基づく官制に倣って政体書が公布されて、太政官制が施かれた。神祇官も正式に復興して太政官の下に置かれた。一八六九年六月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれた。この時に、従来、死者の穢れがあり神事から遠ざけるべきだとされた天皇陵の祭祀を、神事を司る中枢である神祇官が行うようになった。

 初期こそ、平田派の国学者(4)たちが勢力を振るっていたが、神祇官復興時には、より穏健な津和野派(5)が実権を持つようになっていた。

 明治維新の神仏分離や廃仏毀釈の意味は、記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に歴代天皇や南北朝期の功臣を加え、神話上のものであれ、歴史的実在であれ、皇統と国家の功臣を神とし、底辺に産土神を配し、それ以外の神仏は廃滅の対象とするというものであった。その神々の大系は水戸学や後期国学に由来する国体神学が作り出したものであった。神仏の峻別、神社からの廃仏、辻堂・石仏・村々の道祖神・祭礼なども廃棄の対象となった。神田明神の平将門なども逆臣として、祭神から追われた。

 明治維新の新しい政治スローガンとなった「尊王」・「勤皇」は、上記の後期水戸学や後期国学の影響を受けたものであり、維新政府は、そうした政治目的のために、「祭政一致」の「王政復古」という形で、国学を利用したのである。

 しかし、当然のことだが、新政府の復古主義は、古代の神聖国家時代ならいざ知らず、新生国家同士が激しく鎬を削っていた当時の世界政治の現実に適応できるはずもない時代錯誤のものであった。復古主義者が現実の政治で実権を持つことはありえなかったが、限られた世界における宗教政策の中で、彼らは燃焼していた。短い期間であったが、彼らは、廃仏毀釈の狂気的な運動に自らを駆り立てたのである。しかし、当然の結果として、廃仏毀釈運動は、明治三、四年には頓挫してしまった(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm)。それでも、短期間ではあったが、仏教界が被った被害は甚大であった。


野崎日記(427) 韓国併合100年(66) 日本の仏教(9)

2012-07-15 18:33:52 | 野崎日記(新しい世界秩序)

引用文献

大江志乃夫・浅田喬二・三谷太一郎・小林英夫・高崎宗司・若林正丈・川村湊編[一九九
     三]、『岩波講座・近代日本と植民地』(第四巻)岩波書店。
柏原祐泉[一九七五]、「明治期真宗の海外布教]、橋本博士退官記念仏教研究論集刊行会
      編[一九七五]、所収。
柏原祐泉編[一九七五]、『真宗資料集成・第一一巻・維新期の真宗』同胞舎。
鎌田茂雄[一九八七]、『朝鮮仏教史』(東洋叢書①)東京大学出版会。
川瀬貴也[二〇〇九]、『植民地朝鮮の宗教と学知─帝国日本の眼差しの構築』(越境する
     近代・8)青弓社。
姜東鎮[一九七九]、『日本の朝鮮支配政策史研究 ― 一九二〇年代を中心として』東京大
     学出版会。
彰如[一九一七]、「満鮮巡教所感(上)」、『中外日報』六月一七日付。
曹渓宗総務院編[一九五七]、『仏教訴訟事件参考資料』曹渓宗総務院。
朝鮮開教監督部編[一九二九]、『朝鮮開教五十年誌』大谷派本願寺朝鮮開教監督部。
朝鮮総督府[一九一一]、『朝鮮総督府官報』第二百二十七号。
朝鮮総督府[一九一五]、『朝鮮総督府官報』第九百十一号。
朝鮮総督府[一九二〇]、『朝鮮における新施策』朝鮮総督府。
朝鮮総督府編[一九一三]、『朝鮮総督府施政年報・明治四十四年版』朝鮮総督府。
戸村正博編[一九七六]、『神社問題とキリスト教』新教出版社。
中濃教篤[一九九七]、(研究ノート)「『宗教法』の歴史的変遷と社会変動」、『現代宗教研
     究』第三一号。
橋本博士退官記念仏教研究論集刊行会編[一九七五]、『仏教研究論集』、清文堂。
韓曦[一八八八]、『日本の朝鮮支配と宗教政策』未来社。
韓守信[二〇〇四]、「韓国併合および武断統治期における朝鮮総督府の宗教政策─非西欧
     系宗教と西欧系宗教の比較を通して─」、『基督教研究』第六六巻第一号。
菱木政晴[一九九三]、「東西浄土真宗教団の植民地布教」、大江志乃夫ほか[一九九三]所
     収。
平山洋[一九九二]、「朝鮮総督府の宗教政策」、源了円・玉懸博之共編[一九九二]所収。
源了円・玉懸博之共編[一九九二]、『国家と宗教、日本思想史論集』思文閣出版。


野崎日記(426) 韓国併合100年(65) 日本の仏教(8)  

2012-07-15 18:32:25 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(7) 二〇一〇年七月二二日、親日反民族行為者財産調査委員会が公開した白書「清算されなかった歴史、親日財産」によると、一九二五年前後の李完用は「京城(現ソウル)最大の現金富豪」と呼ばれ、少なくとも三〇〇万ウォン(現在の貨幣価値に換算すると六〇〇億ウォン相当、日本円に換算すると約四三億円相当)以上を保有していたことが調査により分かったという(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0723&f=national_0723_077.shtml)。

 しかし、二〇一〇年一一月一五日の韓国のテレビKBSは、次のように報道した。

 二〇一〇年七月に活動を終えた親日反民族行為者財産調査委員会が、国家帰属措置にした親日反民族行為者の財産について、日本の最高裁判所に当たる大法院は、国家帰属措置を取り消す判決を確定した。対象となった財産は、朝鮮王朝時代の王族だった李海昇(I He-sung)が日本の植民地支配に協力して蓄財したもので、時価三〇〇億ウォン相当の土地である。大法院は、李海昇の子孫が該当土地の国家帰属措置の取り消しを求めた訴訟で、国家帰属措置を取り消す判決を確定した。

 二〇〇五年一二月二九日に制定された「親日反民族行為者の財産国家帰属に関する特別法」は、親日反民族行為者の財産を国家に帰属するよう定めた。日本の植民地支配に協力して蓄財した財産を国家に帰属させるというものである。

 この特別法に基づいて二〇〇六年に親日反民族行為者の財産調査委員会が発足し、調査を進めた結果、李完用、宋秉(Song Byung-joon)など、親日反民族行為者一六八人の子孫が所有する土地一三〇〇万平方メートルを国家に帰属させる措置が取られた。

 王族の李海昇(I He-sun)は、韓国併合直後の一九一〇年一〇月に日本から公爵の爵位を受け、日本が敗北するまで積極的に日本の植民地支配に協力し、その過程で多くの財産を蓄財した。財産調査委員会は二〇〇七年一一月、李海昇を親日反民族行為者と規定し、李海昇が一九一〇年九月から一九三二年三月まで日本の植民地支配に協力して蓄財したソウルと京畿道一帯の土地、時価三〇〇億ウォン相当を国家に帰属させる措置を取った。

 李海昇の子孫はこの措置を不服とし、措置を取り消すよう求める訴訟を起こした。一審では国家に帰属させる措置は正当だという判決が出たが、二審では李海昇の子孫の要求を受け入れ、措置を取り消す判決が出た。そして、大法院はこのほど、措置を取り消す二審の判決を確定したのである。

 調査委員会の報告では、李海昇は、「韓国併合直後、併合に積極的に協力した功労が認められ、日本から公爵の爵位を受けた。一九一七年には李完用が設立した親日団体の仏教擁護会の顧問を務め、一九四一年には朝鮮臨戦報国団の設立に発起人として参加し、一九四二年には朝鮮貴族会の会長として朝鮮総督府に戦争資金を提供するなど、反民族行為を続けた」とされている。そして、李海昇は、「併合に協力したからこそ爵位を受けたという点に罪がある」というのが提訴理由であった。

 一審判決は、李海昇は一九一二年に「日本に協力した功績がある」という理由で朝鮮総督府から韓国併合記念勲章が授与されたが、これは単に王族だったという理由だけでなく、日本に協力したという理由で爵位を受けたことを裏付けるもので、財産の国家帰属は正当だとして原告の主張を支持した。

 これに対して、二審判決は、李海昇は当事、韓国併合と関係がある官職に就いていなかったし、当事、王族の多くが爵位を受けたことを考慮すると、爵位を受けたという理由だけで韓国併合の過程で日本に協力したと断定することはできない。よって財産の国家帰属措置を取り消すとの判決を出した。大法院でこれが確定したのである(http://world.kbs.co.kr/japanese/news/news_newissue_detail.htm?No=2226)。

(8) 「布教規則」の第一条には、「本令ニ於テ宗教と称スルハ神道、仏道及基督教ヲ謂フ」とある。川瀬貴也は、「興味深いことに、明治以降の全法令で「基督教」という用語を使ったのはこの条文が最初なのである」(http://homepage1.nifty.com/tkawase/osigoto/shisoushi01.htm)と指摘している。実際、日本国内ではキリスト教を取り締まる法律は一九一五年時点ではなかった。敗色濃厚となった一九三九年の「第二次宗教団体法」でやっとキリスト教を取り締まり対象に日本政府はできたのである。外国人宣教師は反権力者であるとの朝鮮総督府の嫌悪の強さが、この法律作成を急がせたのであろう(柏原[一九七五]、八四一ページ)。

(9) 李東仁は、金玉均の要請によって渡日し、東本願寺と浅草別院に長期滞在し、福沢諭吉やアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)たちとの交流を深めた。しかし、一八八一年三月頃に消息を絶った。暗殺されたらしい(柏原編[一九七五]、四六四ページ)。
 劉大致は、開化派の思想的指導者であった。資金集めにも活躍した。甲申政変の失敗後、逃走していたが彼も消息を絶った。暗殺されたらしいが、暗殺の正確な日時は不明である(柏原編[一九七五]、四七六ページ)。


野崎日記(425) 韓国併合100年(64) 日本の仏教(7)

2012-07-09 19:20:53 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 注

(1) 「以小事大」は、次の文章に見られる。
 「齊宣王問曰、交鄰國有道乎、孟子對曰、有、惟仁者爲能以大事小、是故湯事葛、文王事混夷、惟知者爲能以小事大、故大王事獯鬻、勾踐事呉、以大事小者、樂天者也、以小事大者、畏天者也、樂天者保天下、畏天者保其國、詩云、畏天之威、于時保之、王曰、大哉言矣、寡人有疾、寡人好勇、對曰、王請無好小勇、夫撫劍疾視曰、彼惡敢當吾哉、此匹夫之勇、敵一人者也、王請大之、詩云、王赫斯怒、爰整其旅、以遏徂莒、以篤周祜、以對于天下、此文王之勇也、文王一怒而安天下之民、書曰、天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之、四方有罪無罪惟我在、天下曷敢有越厥志、一人衡行於天下、武王恥之、此武王之勇也、而武王亦一怒而安天下之民、今王亦一怒而安天下之民、民惟恐王之不好勇也」。

 要約的に訳する。
 斉の宣王が孟子に質問した。隣国と交際する正しい道はどのようなものでしょう。孟子は答えた。大国の仁の王は小国を大事にします。大国の殷の湯王が小国の葛伯に仕えたこととか、同じく大国(周)の文王が小国の混夷に仕えたことがあります。逆のこともあります。小国の智の王は、大国と上手に交際できます。弱かった周の大王は、強かった国の王に仕え、同じく弱国の越王・勾踐が呉に仕えた例があります。大国なのに小国に仕えることができるのは、天を楽しむ王です。一方、小国で大国に仕えることができるのは、天を畏れる王です。天を楽しむ王は、勇気を持ち続けることができます。一方、天を畏れる王は、国を保ち続けることができます。剣を握って相手を威嚇するのは、匹夫の勇でしかありません(http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius02-03.html)。

(2) 海印寺(Haeinsa)は、統一新羅時代の八〇二年に建立された名刹。伽揶山(Gayasan)南側の深山の中に位置する。「海印」とは、「波の動きもない海に、万物の形象がそのまま映るように、煩悩が消えた心には万物の真理もそのまま現れる」という意味の華厳経の海印三昧にちなむ。釈迦の正しい悟りの世界と、何も汚れてない清浄無垢な心を表す意味である。「法宝寺刹」とも呼ばれるのは、釈迦の教えのすべてをまとめた経典を保管する寺だからである(http://www.tabijin.com/temple_haeinsa.html)。

 この経典とは、高麗大蔵経のことである。大蔵軽は、高麗時代に刊行された。三種類あって、初彫大蔵経は一〇一一年頃、続蔵経は一一〇〇年頃、数年にわたって彫られた大事業であった。この大きな文化遺産も、蒙古襲撃や国内動乱によって、燃やされてしまった。その後、高麗王朝の再建を願って、一二三六年から一二五一年まで、じつに一六年をかけて再彫大蔵経が彫られた。これが高麗大蔵経と呼ばれているものである。李朝時代の一三九八年には、日本の足利義満がこの大蔵経を所望したが断られた。その後、日本側は一五、六回にわたって入手を懇願したが断られ続け、やっと一四五九年に入手できた。これは、京都の建仁寺に保存されている。海印寺に保存されている高麗大蔵経は、板数が八万枚あることから八万大蔵経とも言われている。この大蔵経を収納している海印寺大蔵経板殿は、一九九五年世界文化遺産に登録された(鎌田[一九八七]、六四、一六八、二七〇ページ)。

  梵魚寺(Beomosa)も、新羅時代の六七八年に創建された名刹である。金色の魚が五色雲に乗って寺の山頂に降りてきたという逸話による。寺には、「曹渓門」と書かれた扁額と、その左右には「金井山梵魚寺」と「禅刹大本山」といった扁額がある。創建時には、教宗寺であったが、一九〇〇年頃、禅宗寺になった。当時の禅仏教を主唱した僧侶たちは、禅仏教の運動を通して思想的・信仰的に疲弊された仏教界の現実を取り戻すためのものであった。禅仏教の運動は当時封建秩序の打破と近代社会を指向する時代的状況と結び付けられ、抗日運動へとつながった。この寺を日本の東本願寺が末寺にしてしまったのである。韓国の独立以後は、梵魚寺から輩出された禅知識などが日本仏教の残存物を清算し、韓国仏教の伝統と正統を立てるため、浄化運動を導く主役となった( http://jp.koreatemple.net/travel/view_temple.asp?temple_id=17)。

(3) 当時、使われた「開教」という言葉は、まったく新しい地に布教するという意味を持っていた。布教とは、日本人に仏の教えを説くという意味を持っていたから、それと区別するためである(菱木[一九九三]、一五七~五八ページ)。

(4) 誘掖とは力を貸して導くこと(http://kotobank.jp/word/%E8%AA%98%E6%8E%96)。

(5) 彰如は法名(戒名)。本名は大谷光演(おおたに・こうえん、一八七五~一九四三年)。妻は、三条実美の三女・章子(ふみこ)。正岡子規の影響を受けたが、後に『ホトトギス』から離脱。生涯に多くの俳句(約二万句)を残し、文化人としての才能を発揮、日本俳壇界に独自の境地を開いた。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれる。句誌『懸葵(かけあおい)』を主宰した。句集に「夢の跡」、「我は我」などがある。一九〇六年に北海女学校を開校。一九〇八年、退隠した父・光瑩(こうえい)より第二三代法主を継承し、真宗大谷派管長となる。一九二五年、朝鮮半島における鉱山事業の失敗から、東本願寺の財政を混乱させ引責・退隠し、長男の光暢(こうちょう、法名、闡如(せんにょ)に法主を譲る(彰如『自然のままに』真宗大谷派宗務所出版部、一九九二年より。また、http://episode.kingendaikeizu.net/41.htm)。

(6) 寺刹とは寺院のこと。寺刹令(制令第七号)は、一九一一年六月公布、九月施行。
 第一条 寺刹を併合、移転又は廃止せむとするときは朝鮮総督の許可を受くべし其の基址又は名称を変更せむとするときは亦同じ
 第二条 寺刹の基址及伽藍は地方長官の許可を受くるに非ざれば伝法、布教、法要執行及僧尼止住の目的以外に之を使用し又は使用せしむることを得ず
 第三条 寺刹の本末関係、僧規、法式其の他必要なる寺法は各本寺に於いて之を定め朝鮮総督の許可を受くべし
 第四条 寺刹には住持を置くことを要す。住持は其の寺刹に属する一切の財産を管理し寺務及法要執行の責に任じ寺刹を代表す
 第五条 寺刹に属する土地、森林、建物、仏像、石物、古文書、古書画其の他の貴重品は朝鮮総督の許可を受くるに非ざれば之を処分することを得ず
 第六条 前条の規定に違反したる者は二年以下の懲役又は五百円以下の罰金に処す
 第七条 本令に規定するものの外寺刹に関し必要なる事項は朝鮮総督之を定む(朝鮮総督府[一九一一]、二二~二三ページ)。
 現在では、使われていない言葉の意味を説明する。第一条の「基址(きし)」とは、建物の基礎に当たる土地のこと。第二条の「伝法(でんぽう)」とは、師が弟子に仏の教えを授け伝えること。「止住(しじゅう)」とは居住のこと。第三条の「僧規(そうき)」とは、僧侶に科せられた掟。「法式」とは儀式の作法や決まり。第四条の「住持(じゅうじ)」とは住職のこと。


野崎日記(424) 韓国併合100年(63) 日本の仏教(6)

2012-07-08 14:13:10 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 五 朝鮮の宗教統制

 一九一五年一〇月、「布教規則」(朝鮮総督府[一九一五]、一五四~五五ページ)が施行された(8)。これは、仏教だけではなく、キリスト教も含む朝鮮における全宗教を対象とするものであった(川瀬[二〇〇九]、三七ページ)。

 この「規則」の重要な点は、各教団の布教管理者の解任権を朝鮮総督が握ったことである。「朝鮮総ハ布教の方法、布教管理者の権限及布教者監督ノ方法又ハ不適当ト認ムルトキハ其ノ変更ヲ命スルコトアルヘシ」(第四条)。

 一九一九年の三・一独立運動に恐怖した朝鮮総督府は、「安寧秩序を妨げる恐れがある」宗教団体への監視を強めるという条項(第一二、一四条)も追加された(朝鮮総督府[一九二〇]、八四~八六ページ)。

 川瀬([二〇〇九]、三八~三九ページ)での紹介によれば、一九一七年に朝鮮僧侶が東京に来訪したとき、時の前法主・現如(げんにょ)は次のような歌を詠んだという。



 「一筋に みのりの為めに つくさなん 照る日の本に 心あわせて」

 日の昇る日本のために、日本と朝鮮の仏教徒は力を合わそうというのである。
 同じ年、朝鮮と満州を訪問していた当時の現法主・彰如は次のように語ったという。

 「彼等を完全に教育し、彼等に大和民族の血を入れよ、而して後に初めて教えを説くべし」(彰如[一九一七])。

 朝鮮総督府による一九二〇年の報告によれば、当時朝鮮で活発に布教活動をしていた日本の仏教会は以下の宗派であった。真宗、浄土宗、曹洞宗、真言宗、日蓮宗、法華宗、臨済宗、黄檗宗。布教所は二三六、布教者数は三三七、寺院数六七、信徒数一四万八〇〇〇人余り、うち、朝鮮人一万一〇〇〇人であった(朝鮮総督府編[一九二二]、一四七ページ)。

 日本の仏教界は思うようには朝鮮人信徒を集めることはできなかったが、それよりも、韓国仏教会に親日派僧侶を多数作ろうとしていたのである。

 朝鮮総督について記せば、初代の寺内正毅(てらうち・まさたけ、在任:一九一〇~一六年)、第二代の長谷川好道(よしみち、在位:一九一六~一九年)は武断政治を強行していた。一九一九年の三・一独立運動の攻撃を受け、軍を動員したことの責任を取って辞任した長谷川の後任に就いた第三代の斎藤実(まこと、在位:一九一九~二七年)は、武断政治を引っ込めて、「文化政治」を掲げ、親日的な僧侶の育成に努めた(姜[一九七九]に詳しい)。

 一九二〇年に、朝鮮総督府から「朝鮮民族運動に対する対策」と題された秘密文書が作成された(国立国会図書館憲政資料室蔵、以下の中身は、平山[一九九二]、川瀬[二〇〇九]より転載)。

 これは、激しくなる一方の朝鮮人による反日運動を治める方策が検討された文書であるが、半日分子を押さえ込む親日分子の育成に朝鮮人仏教徒を積極的に育成しようと提言したものである。要約する。

 <朝鮮の仏教は、李朝によって五〇〇年もの間、圧迫を受け、社会的影響力を大きく失ってきた。しかし、それでも、民間の仏教信仰はまだ根強い。こうした国民の信仰を後押しすることが大事な政策になる>。
 <①そのためにも、寺刹令を改正して、京城に朝鮮仏教を統合する「総本山」を置き、すでにある地方の三〇本山を統括させることにする>。
 <②「総本山」には、親日的な管長を置く>。
 <③「総本山」を支えて、仏教を振興させる仏教団体を育成する>。
 <④「総本山」を支える上記団体の本部は総本山に置き、その支部も三〇ある本山に置く。団体会長と支部会長は、親日的な有徳の人でなければならない>。
 <⑤支援団体の役目は、一般人民に仏教を広め、仏教によって罪人を悔い改めさせ、慈善事業を行うことである>。
 <総本山、本山、支援団体の本部とその支部には相談役という顧問を置く。この顧問は人格の優れた日本人を置く>(川瀬[[二〇〇九]、三九~四〇ページより転載)。

 朝鮮仏教を支配するために、総督府のお膝元に「総本山」を置き、総本山、本山、仏教支援団体の指導は、すべて親日派でなければならないし、そうした組織のすべてに日本人を顧問として据える、等々を見れば、朝鮮総督府は露骨に朝鮮仏教を自己の権力の膝下に置くことを画策していたことは明白である。

 おわりに


 明治維新直後の権力を後ろ盾とした「廃仏毀釈」による攻撃への記憶が生々しく、攻撃の再来への不安もあったのであろう。日本の仏教界は、海外布教に、日本と現地の政治権力との結びつきを希求していた。

 「江華島条約」締結後、釜山居留地を日本政府が手に入れた一八七七年、大谷派東本願寺は、直ちに奥村円心を現地に派遣して、翌一八七八年、本願寺釜山別院を創建した(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一九ページ)。

 奥村円心は、はじめから朝鮮全国の寺院の「総轄」と朝鮮の僧侶の統制を意図していた。一八八〇年一月、奥村円心は、本願寺執事宛に「朝鮮弘教建言」を提出し、次のように述べた。要約する。

 <京城、仁川に本願寺の寺を速やかに建設して、八道(注:朝鮮全土のこと)の寺院を「統轄」(注:多くの機関を一つにまとめて支配すること)する姿勢を示せば、朝鮮政府もこれを無視することができず、呼応するであろう。いまや、本願寺の法の威力によって、八道の僧侶を「風靡」(注:なびき従わせること)する絶好の機会である。この機会を逃してはならない>(柏原編[一九七五]、四八一~八二ページ)。 

 一八八一年五月一日の奥村の日誌には、彼が朝鮮の政治家や朝鮮仏教界と接触できたのは、キリスト教の拡大を阻止する役割を真宗が担ったからであるとの叙述がある(柏原編[一九七五]、四八五ページ)。

 奥村は、朝鮮の政治家たちとの人脈によって、政治的工作にも従事していた。例えば、開化運動の中心人物であった漢方医の劉大致(Yu De-chi)、劉に仏教思想を吹き込んだ朝鮮の僧侶・李東仁(I Don-in)が奥村を支えた。彼らは、甲申政変の時、金玉均(Gim Ok-gyun )と福沢諭吉を結びつけた人たちである(9)。

 日本仏教界の朝鮮における布教活動が政治権力と結びついていたことが、甲申政変によって、多くの人たちが知ることになり、朝鮮では、仏教そのものへの反発が生まれ、朝鮮仏教界は内部抗争を韓国の独立まで続けることになったのである。


野崎日記(423) 韓国併合100年(62) 日本の仏教(5)

2012-07-04 20:22:59 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 この法案が提出される前年の一九二六(大正一五)年、神社を別扱いとしつつ、宗教を権力支配下に置く研究をする「宗教制度調査会」が日本に誕生している。この会は文部官僚と宗教側代表とによって構成され、文部大臣の任命によるもので、完全な御用団体であった。この会の提言を受けて、一九二七年一月、若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)内閣が、第五二回帝国議会(貴族院)に新「宗教法案」を岡田良平(りょうへい)・文部大臣案として提出した。これが、「第二次宗教法案」と呼ばれたものである。この法案は、非常に厳しいものであった。

例えば、「宗教の教義の宣布・儀式行事の執行が安寧秩序を妨げ、風俗を破り、臣民たる義務にそむくおそれがあると認めた場合には、監督官庁はこれを制限し、または禁止することができ、この処分に従わないときは、文部大臣は宗教団体の設立許可または宗教指定の取り消しをすることができる」とあった(第三条)。

 宗教界は猛反対した。反対する主要な点は六つあった。①文部大臣が宗教そのものを指定すること、②宗教教師の資格を法定したこと、③宗教結社の設置を地方長官の許可事項としたこと、④管長・教団管理者の就職を文部大臣の許可事項としたこと、⑤寺院・教会の離脱を文部大臣の許可事項としたこと、⑥「必要ナル処分ヲ為スコトヲ得」などと所轄庁の監督が厳しく罰則が重いことである。

 「第一次宗教法案」の際は仏教側の反対が強かったが、この「第二次宗教法案」では、キリスト教側からの批判が強く、この案も貴族院で審議未了となった。この頃を境として「神社は宗教にあらず」論が、一段と強められるようになったのである。

 日本政府は、「治安維持法」を一九二五年に施行し、反権力運動を厳しく取り締まることになった。それとともに、反権力に傾く可能性のある宗教の統制を執拗に志向することになったのである。

 二度も帝国議会で廃案となった「宗教法案」に代わって、一九二九年、田中義一(ぎいち)内閣の勝田主計(しょうだ・かずえ)文部大臣は、「宗教制度調査会」の協力を得て、「宗教法案」を「宗教団体法案」と改めて、第五六回帝国議会(貴族院)に提出した。
 この法案は、法を適用すべき対象を「宗教」そのものでなく、「宗教団体」にした。信教の自由という建前をかざして、実質的に反権力運動を行う宗教団体の取り締まりを狙ったのである。法案提出の理由には、「国民精神の作興」に貢献する宗教団体の育成を目指すことが挙げられた。

 「大体(この法案)ニ於キマシテ、取締ニ関係イタス事柄ハ成ルベク之ヲ制限イタシマシテ、小サクイタシ、最小限度デ以テ取締ハイタス。寧ロ此宗教団体ノ自治的発達、国家ノ保護、斯様ナルコトニ重キヲ置キマシテ、教化団体トシテ国民精神ノ作興ノ上ニ貢献セシムベキ趣旨ニ相成ッテ居ルノデアリマス」(  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_135.htm)。

 ここに「国民精神ノ作興」とあるのは、関東大震災直後に出された「国民精神作興ニ関スル詔書」に出てくる天皇の言葉(詔書)である。しかし、これも、宗教界の抵抗が強く、廃案になった。

 国内には、以後大きな反権力運動が盛り上がった。一九三〇年には、大本(おおもと)教団が、不敬罪、国体変革など「治安維持法」違反容疑により徹底的な弾圧を受けた。これは、大正時代に続く「第二次大本事件」である。一九三六年には二・二六事件。一九三七年には「国民精神総動員運動」が始められた。

 そして、ついに、一九三九年二月、平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう)内閣が、貴族院特別委員会に「第二次宗教団体法案」を提出した。その提案理由を平沼総理は次のように述べている。

 「いずれの宗教に致しましても我国体観念に融合しなければならぬということは、是は申すまでもないことでございます。我が皇道精神に反することはできないのみならず、宗教によって我が国体観念、我が皇道精神を涵養すると云うことが日本に行はる宗教として最も大事なことで……これがためには一面においては宗教の向上発展を図るということが必要であります。就てはこれに国家と致しまして保護を加へることは是非やらねばならぬことである。是と同時に宗教の横道に走るといふことは是は防止しなければならぬが、これがためには、これに対して監督を加えることが必要であろうと思います」(「宗教団体法案貴族院特別委員会議事速記録」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_135.htm)。

 法案の内容も、宗教団体やその教師が行う宗教行為が、安寧秩序を妨げ、日本臣民たることの義務に背く場合は、その宗教行為を制限し、または禁止することができ(「同法第一六条」)、この権限は、寺院、教会、教師に対しては文部大臣から地方長官に委ねられていた(「同法一九条規則五七条」)。文部大臣、地方長官は教派、宗派の管長、教団統理者、教会主管者、寺院住職等を解任することもできた(「同法一七条一項および一九条」)のである。神道一三派はそのままとしながら、仏教の五六派は二八派に、キリスト教の二〇余派は二教団にと強制的に統合させられ、敗戦を迎えたのである(中濃[一九九七]、一三七~四〇ページに依拠)。

 この、日本の「第二次宗教団体法案」は、一九一一年六月に朝鮮で発布された「寺刹令」と、同年七月に作成された「寺刹令施行規則」(本令、細則ともに施行は、一九一一年九月一日)と非常に極似している。抵抗の大きさから本国の日本では成立しなかった宗教統制が、植民地朝鮮で強引に施行し、ついに、それを戦争の敗色濃厚であった日本に再導入したのである。

 「寺刹令施行規則」は全八条からなり、第一条では住持の選抜方法や交代手続き、第二条では三〇寺に定められた朝鮮の本山の住持の就任には朝鮮総督の許可が必要なことと末寺の住持については地方長官の認可を得ること、等々がが定められた。住持の履歴提出を朝鮮総督府は義務化し(第三条)、住持の任期を三年に限定し(第四条)、反社会的行為をした住持は免職させられることになった(第五条)(朝鮮総督府[一九一一]、二二~二三ページ)。当時、朝鮮には一三〇〇余りの寺院が残っていたが、そのすべてが朝鮮総督府を頂点としたピラミッド構造に編成替えさせられたのである(韓[一九八八]、七八~八一ページ)。