消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(217) 新しい金融秩序への期待(162) 日本のゆくえ(1)

2009-09-11 05:06:35 | 野崎日記(新しい世界秩序)


  日本のゆくえ


 講演を前に、西島安則先生からお話をいただき、昔を懐かしんで聞いておりました。「西島節」と言って、いまのトーンだったのでございます。

 私が京都大学で学生部委員の寮小委員長をしていた時、西島先生の指揮下で、河合隼雄さんたちと一緒に寮問題で苦しんだ覚えがあります。その時に、尾羽打ち枯らしている私たちスタッフに対して、先生のお話がどれだけ勇気を与えて下さったか。西島先生のお話の内容が、今日私が皆さまにお伝えしようとしていることの趣旨と、全く重なっていますので、あら不思議なことだなと思っております。これも、学生は怖かったけれど、幸せな研究生活であった、その時の京都大学の雰囲気なんだなというように私には思えまして、今更ながら「ああ、懐かしい」と思った次第でございます。

 しかし、今日は緊張しております。やはり元総長の前でお話をするというのは大変なものです。よろしくお願いいたします。

 いまの日本の不幸は、若者が希望を失ってしまったことです。これは、私たち大人達の責任であります。どんなに貧乏な生活を送っても、将来に夢があり、現状変革を目指すところに若者の持つエネルギーが発揮されるのですが、いま、私どもは、彼らの将来の全てを潰してしまっているという閉塞状況を作っているのではないか。何とか若者に希望をもたらすような社会を早く作りたいと思っています。

 私は、経済学の教授を長い間しておりますが、経済学は嫌いで、早く哲学に移りたくて、ブログなどで随分とギリシャ哲学、とくに理系のギリシャ哲学をやっているのですが、世間が、私を引きずり戻してきて、この経済の修羅場をもっと勉強しろというようになっております。

 今日は、とくとくとお話をするつもりはございません。ものすごく痛みを感じております。とくに私の勤めている大学も、随分金融商品で大損をして、非常に大変な状況です。こちらもあちらも大変で、どうすれば良いのか。つらい時代に遭遇したものだと思っております。

 とにかく若者に夢を、そして私たち高齢者も、若者に夢を与える責務を果たすことによって、生きるという喜びを分かち合おうと思っております。

 
「経済学」のそもそもとは


 さて、まず「経済学」というものからお話をさせていただきます。「いろは」の「い」で申しわけございません。

 「エコノミー」という言葉には、「神の摂理」という意味があります。節約とか始末するとか効率的にするとかいう意味は、後に出てきた訳であり、「エコノミー」は「神の摂理」であります。

 神さまがこの世の中を創ってくれた時に、いろいろな法則的なものを創りました。それを発見することである、ということなのです。アジアでは「経世済民」、つまり世の中を立てて民を救うという、こういうものでありました。

 近代の経済学はこれを引っくり返すことから始まりました。神が作った世の中でなく、私たち人間が、とくに市民が作った世の中なのだと。ですから支配者とか権力者が民に命令するのではなく、まして強い国家を造るためではなく、市民生活の豊かさを創り出すものだという意味で、「エコノミー」を、「神の摂理」から「市民の動き方」という方向に解釈し直しました。これは未だ、アダム・スミス段階では無理でした。J・S・ミルから変わったと私は思っております。

 



 「経世済民」という意味ですと、経済学という言葉は、古代中国の時代からあります。ところが新しい意味においての「経済学」という言葉が日本語として定着したのは、福沢諭吉の恩恵であります。福沢諭吉が「経世済民」を説いたというのは間違いです。これほど可哀想な誤解はございません。「経世済民」的な、お上が民に命令するような学問であってはならないのだと、民が自分たちを律するという、そういうモラルに裏付けられた学問、これが「経済学」なのだと、彼は考えたのです。

 これがJ・S・ミルの思想と結びついてアジアに広まったのです。その福沢諭吉の思想に基づく「経済学」という言葉が、日本語の新しい造語として、アジアに定着したということであります。「エコノミー」も「ポリティカル・エコノミー」から「ピュア・エコノミクス」という形で、一応人民の、人々の生活だという方向に流れていったのです。これはいろいろ誤解されておりますので、是非分かっておいていただきたいと思います。


 金儲けの手段ではない「経済学」


  ずばり「経済学」とは、金儲けの学問ではございません。少なくともアリストテレスが喝破したように、お金を儲けてはいけないのだと。人々にどうすれば雇用を与えていくかという形でお金は統制されなければなりません。だからアリストテレスは、お金のことを「ノミスマ」と言っております。人々の合意の産物だと。つまり、皆が納得することによってお金は使われているのであって、金儲けはいけないことなのだと。このような考え方、これが「経済学」の基本形だと私は思います。

 ですから、あるファンドのマネージャーが「お金儲けは悪いことですか」と、目をくりくりさせ、可愛い顔で言いましたけれども、私は悪いことだと思います。いまのお金は暴走しすぎです。

 分かり安く申しますと、私たちはコメの値段が五分の一になったからといって五倍のコメを食べるわけではありません。車が安くなったからといって何十台も自分たちで車を乗り回すわけではありません。少なくともモノに対する欲望には限界があるのです。

 ところが、お金には限界がない。一億円儲けた人は一〇億円欲しいでしょうし、さらに一〇〇億円が欲しいと。バフェットのようにアメリカの全サラリーマンの給料をも上回るぐらいの大金持ちになっても、それでもまだお金は欲しいのです。

 お金とはそういうものです。少なくとも私たちの「経済学」は、その歯止めのない、とてつもなく肥大化していく欲望をどう抑制していくかという役割をもって発達してきたはずであります。ところが、この二〇年間、いつの間にか「経済学」は、お金を儲けることが素晴らしいことなのだという方向に変わりました。その結果が今日の惨憺たる状況であります。

 企業も大学もわけの分からない金融商品を掴まされ、あるいはそれを売った企業もよく分からないまま売ってしまったということで訴訟に怯えているというように、お金によって世中が振り回され、組織がずたずたにされています。こういう状態の、不幸な時代に私たちはいま、生きております。アメリカのお金持ちのトップ四〇〇人の資産を合わせるだけで、アメリカの全三億人の人口の半分である一億五千万人の資産に匹敵するのです。これだけの経済格差を作ってしまったということは、「経済学」の失敗であり、犯罪です。

 かつての原爆の開発者たち、例えばアインシュタインたちは、悪魔の兵器を作ったという反省から原水爆反対運動に立ち上がりました。私たちはどうなのでしょう。金融商品を売りまくった連中、またそれを理論化した連中、そういう連中の中から、中谷さんはちょっと反省していますが、金融工学を駆使して金融商品を作った張本人たちから、第二、第三のアインシュタインが、私は出るべきだと思います。口を拭って黙ってしまっているということは何事かと言いたくなります。

アルベルト・アインシュタイン



 そういう意味で、「経済学」はもう一度、基本形から叩き直さなければならないのだということを、まず冒頭にお話しさせていただきます。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (レオンロザ)
2009-09-15 16:18:51
ブログ「金貸しは、国家を相手に金を貸す」にも参加しているものです。

今回の講演は、是非、多くの人に知っていただくのが良いと思い、「るいネット」に引用紹介させて頂きました。
『マネー経済学への批判、本山先生による講演、その1.理念を逆転させた経済学』
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=215052

事後、了承をお願い致します。
返信する
了承します (編集部)
2009-10-11 09:20:18
遅くなりました。了承します。

編集部
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。