消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 53 アララギ派歌人の実業家

2006-12-29 18:44:06 | 人(福井日記)
  福井の街路樹は全国でも図抜けている。わが大学の周囲にも、桜、こぶし、ハナミズキとそれぞれの特徴をもつ道が続く。街路樹の足下には紫陽花、つつじ、椿が配置されている。それはそれは美しい道である。こうした町並みは、『北陸政界』(平成19年新春号)によると、熊谷組総帥・熊谷太三郎(くまがい・たさぶろう)によって作り出されたという。



 
雪残る 木立おぼろに 春の雨


            この街なかの 足羽川つつむ



 熊谷太三郎はアララギ派の歌人でもあった。この歌そのものは字余りでしまりがよくないが、歌には、町並みは自分が作ったのだとの自負が溢れている。

 太三郎は平成4年1月15日、福井市の済生会病院で亡くなった。85歳であった。 以下の記述は、上記の『北陸政界』に依拠している

 太三郎は、明治39年11月3日、福井市豊島上町に父三太郎の次男として生まれた。長男は生後1月足らずで夭逝していたので、事実上の長男であった。名前は父の名をひっくり返したものである。幼少の頃は病弱であった。

 一高に入学し、アララギ派の斉藤茂吉土屋文明などの薫陶を受けた。大学は東大ではなく京都大学に進学した。経済学部であった。ここでもアララギ派の結城哀草果に師事した。大学では河上肇の経済原論に傾倒したという。



 家業は土木請負業であった。幼児の時は、父の仕事の不調で貧しかったが、大学を卒業する頃には家業も上向いていた。大学卒業と同時に家業に就いた。

 昭和6年11月6日、根尾梅子(20歳)と見合い結婚した。太三郎25歳の時であった。

  昭和8年4月、父が勝手に応募した結果、福井市会議員に当選した。出張中の筑後から福井に入ったのは投票の2日前であり、選挙運動はまったくしなかった。26歳で市会議長になった


 家業は発展し、昭和13年1月に株式会社熊谷組になった。父が社長、太三郎は副社長であった。昭和15年社長になった。

 東京で空襲に遭うや否や福井に帰省し、焼け跡にバラックの熊谷組事務所を建てた。昭和20年10月、敗戦の混乱時に議会から推されて市長になった。38歳の時であった。

 まず着手したことは、焼け跡の清掃であった。駅前の闇市をバラックを建てて収容し、復興市場組合を作った。21年4月、幹線道路建設に着手した。

 22年4月には初の公選市長になった。全国初の下水道認可事業も始め、左内公園内に足羽ポンプ場を作った。

 
その後、佐佳枝ポンプ場も完成させ、下水道工事を推進した。昭和27年足羽山で福井復興博覧会を開催、翌28年数千本の桜の苗を足羽側の堤に植えた。これが全国でも著名な足羽側の桜堤である。


 昭和34年5月福井市役所を後にして、事業に専心していたが、昭和37年7月参議院議員に初当選した。56歳の時であった

 日本海を望む高台に三国出身の高見順の文学碑を建てた。除幕式には川端康成も参加した。



 佐藤内閣の時、椎名越三郎通産大臣の下で通産政務次官に就任したのが、昭和44年11月。この時、熊谷組の社長を辞任した。

 
昭和47年10月、新幹線ひかり号の米原停車が実現した。山陰線起点の京都、中央線起点の名古屋にひかりが停車するのに、北陸線起点の米原に停車しないのはおかしいと太三郎は当時の国鉄に詰め寄ったという。


 昭和49年の「電源三法」の成立に尽力したと『北陸政界』は記述している。これは田中内閣の時に成立したものである。

 
三法とは、「発電用施設周辺地域整備法」、「電源開発促進税法」、「電源開発促進対策特別会計法」である。福田内閣の下で科学技術庁長官になり、原子力船「むつ」の佐世保寄港を認めさせた。



 
昭和53年10月16日であった。むつ、4年間の迷走のはてであった。議員時代、福井の治山治水事業に尽力した。昭和61年の参議院選では過去最高の得票を得て5選を果たした。この5期を最後に30年間の参議院生活にピリオドを打った。

 北陸アララギ会を主催。『柊』を出版した。
 「くまがい公園」は市民の憩いの場である。

ギリシャ哲学 26 アルケー(始原)

2006-12-29 02:03:14 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 始原に「アルケー」という用語を当てはめたのはアナクシマンドロスであったとアリストテレスは言った。

 シンプリキオスによる『アリストテレス「自然学」注解』によれば、

「元のもの(始原)は単一であり、運動する無限のものであると語っている人たちの一人がアナクシマンドロスである。彼は、プラクシアデスの子でミレトスの人である。タレスの後継者にして弟子であった。
 彼は、存在するものの元のもの(始原)、すなわち基本要素はト・アペイロン(不安定なるもの、無限なるもの)であると語った。始原という名称を初めて用いたのはアナクシマンドロスである。
 彼は言う。それは、水でもなく、その他のいわゆる基本要素のうちのいずれでもなく、何かそれとは異なる無限なる本性のものであって、そこからすべての諸天界およびその内部の諸世界は生じる。そして、存在する諸事物にとって生成がなされる源となるもの、その当のものへと消滅することもまた必然に従って進行する」。

 無限の無形のものから有限の有形のものが生まれ、そして、また無限・無形のものに還って行く。そうした流転の時間的流れをアナクシマンドロスが重視したことをアリストテレスは説明するが、しかし、ここでもまた根性悪く、そのように「語っている人たちの一人」という表現をしている。

 
 アリストテレスにとって、自然学派は、まとめて、分析をしない非論理的輩として揶揄の対象になっただけである。

 ヒッポリュトス『全異端派論駁』(第1巻第6章)では、アナクシマンドロスが始原をト・アペイロンであると語ったと説明した後、

 「動は永遠である。それによって、諸天空の生成が起こるとも語った。・・・彼は言う。始原は無限なるものに由来するという本性をもっている。そこから諸天界、およびそれらの内なる世界(コスモス)が生じた。コスモスは永遠で不老であり、すべての世界を取り囲んでいる。 彼はまた、生成と存在、そして消滅を定めるものとして時というものを語っている」。

 ただし、「ト・アペイロン」を「空間的無限」であるとのアリストテレス派の通説的解釈には多くの疑問が出されている。

 ケンブリッジ派のコーンフォードなどは、ト・アペイロンとは、「内部的に限定のないもの、内部的区別のないもののことである」としている(1939年)。つまり、境界線の不明確な認識論的存在論を展開したのがアナクシマンドロスであったというのである。

 アリストテレスが、執拗にアナクシマンドロスを否定したのは、アナクシマンドロスが「知性とか愛のような他の原因を行使しようとしない」からである(アリストテレス『自然学』第3巻第4章)。

 アリストテレスは、無限なるものから相対立するものが生成し、相互の闘争から再度無限なるものに向かって消滅して行くというアナクシマンドロスの循環論が気に入らなかった(アリストテレス『自然学』第3巻第5章)。

 アリストテレスは、「相反する諸力は必然的に均衡する」という「特有の議論」に凝り固まっていたからである(チャーニス、1951年)。

 アナクシマンドロスの世界は、アリストテレスとは正反対のものであった。それは、ヘラクレイトスが「争いは正義」であるとアナクシマンドロスを擁護したのも、アナクシマンドロスの相反するものの運動を重視する宇宙生誕論を継承しようとしたからである。



 階級闘争を重視したマルクスがアリストテレスではなくソクラテス以前の自然学に接近したのも、けだし当然である。


本山美彦 福井日記 52 勝山城

2006-12-29 00:55:49 | 人(福井日記)
 以下は、2003 ココロワークス Produced by 大阪商工会議所に依拠している。

 越前大仏(臨済宗妙心寺派)と勝山城という大建造物を造った多田文化財団は、多田清の資財を基に設立された。


  多田清は明治 38 年、福井県勝山市で4人兄弟の末っ子として生まれた。多田家は、この土地で代々続く庄屋で、かつては苗字帯刀も許された家柄であった。

 父親の事業の失敗によって、清が3歳になる頃には代々受け継いだ豊富な山林や田畑をすべて散財し、逃げるようにして商都・大阪に移り住んだとされる。

 大阪では明日の生活もままならなかったが、当の清は体格もよく、天衣無縫の腕白小僧であった。

 気丈だった母親は、清に、「お前は偉くなって、多田家を昔のように繁栄させるのだよ。そして、みんなで力を合わせて、銀行を創業した野村徳七さんのような立派な人物になるんだよ」と励ました。野村徳七とは、野村証券を創業した人物で、同じ福井県出身であった。

 清は、小学校を卒業すると、早くも丁稚奉公に出て、「少しでも身入りのいい職場を」と職を転々とした。職種を選ばす、自分の体を酷使して働き始めるようになる。原料工場での荷物運搬、運送会社での日雇い労働、さらには、20歳で広島の電信隊に徴兵されてからも、2年間、厳しい軍隊訓練のかたわら休日を利用して働いた。

 彼は毎週土曜日に、訓練で疲れた体に鞭打って夜汽車に乗り、広島から神戸まで出ると、またそこから大阪港に来て沖仲仕の荷役労働を丸1日こなした。沖仲士と言えば、肉体労働の中でも最重労働である。毎日曜日に、清は港に姿を現した。

 軍務のかたわら、勉学に励み、自動車修理の免状と運転免許まで取得した。清は除隊すると、早速、地元の大阪・市岡にある相互自動車(現、相互タクシー)という小さなタクシー会社の一運転手となる。

 タクシー運転手になると、清は少年時代からの親分気質を見込まれ、社内に自分たちの労働組合を組織する。さらに、関西方面の中央組織である大阪交通労働組合にまで出かけ、ストライキの指導までした。

 入社3年後、労働組合は大阪交通労働組合のストライキに参加した。そこで、清たちは社長を前に、当時、多くのタクシー会社が実施していた名義貸制度(会社が名義を貸す代わりに、運転手から車庫賃を徴収するシステム)の不当性を訴えた。

 席上、社長は、車庫を車で一杯にしてくれたら車庫賃を下げてもよいといった。「よく分かった。それなら、われわれの力で車庫をいっぱいにしよう」と清は約束した。  清の交渉態度に信頼を深めた社長は、さらに会社の経営を組合でやってくれないか、と申し出た。清、26歳のことである。

 昭和6年11月6日、清ら 28名のタクシー運転手たちは、後に近代タクシー経営の一翼を担うことになる相互タクシーの前身「相互共済購買組合」を立ち上げた。まさに労働者管理の「協同組合」の設立であった。

 スタート時点から異例ずくめだった。当時のタクシー業界では、経営者が車両を1台も持たずに営業認可を得て、営業権を運転手に名義貸しする、いわゆる「名義貸制度」の会社が多かった。それに対して、「相互共済購買組合」はその名が示す通り、会社は同志的に集まった運転手たちが出資しあう共済組合であった。車両、ガソリン、タイヤ、自動車修理、すべてを共同購入するうえ、経営者が経営に関する責任の一切を負う「直営方式」を導入した。さらに、経営方針には「運転手の生活安定」、「利益はすべて運転手へ」というスローガンを掲げ、会社の利益を労使で折半するという画期的な経営手法が取り入れられた。

 清は、不足していた乗務員を広く募り、新車購入を計画。車両の購入には頭金を払っての月賦払いを活用し、組合員の稼ぎと新車購入の支払いを緻密に計算しながら毎月1~2台ずつ車両を増やし、拡大路線を敷いた。その結果、組合スタート時には 16 台しかなかった車両が、3年後には 70 台にまで増加した。

 また、運転手の生活安定を経営方針に掲げた相互タクシーは、タクシー業界で初めて公休制を導入し、それまで業界が全く手をつけなかった従業員の福利厚生面にも革命的な進化をもたらした。

 創業から5年後の昭和11年には、大阪・関目の地に3000坪の土地を購入し、車両100台を駐車できる大規模な車庫と従業員が居住できる社宅を建設して、“一大タクシー村”をつくり上げたの。手厚い従業員の保護と家族主義的経営が基本であった。他社が1~2年で新車を買い換える時代に、相互タクシーは4~5年もの長い間、車両を走らせることができた。

 昭和12年には日中戦争が勃発し、翌年には国家総動員法が公布された。その戦時体制化にあって、中小のタクシー業者は経営に行き詰まり、次々に大手企業に身売りするようになる。

 日中戦争で世間が日本の将来を案じている時、清は部下に「タイヤをぎょうさん買っておけ」と命じた。そして、清はオイル不足を見越して、いちはやく「木炭自動車」の研究に取り組み始めた。そのうち彼にも召集令状が届き、軍隊に入隊するが、それでも研究を諦めなかった。そして、ついに清は、多田式木炭車を完成させた。

 時を経ずして、太平洋戦争に突入すると、清の予見通り、ガソリンは急激に不足し、ついにはガソリンの配給が完全にストップした。そして、ガソリン車休車命令が発令された。この時にはすでに相互タクシーは600台の木炭車が稼動できる体制を整えていた。部下に大量購入を命じたタイヤも急速に不足したが、清は倉庫一杯にあふれるストックを抱えて、同業他社との経営体力に大きな差をつけた。

  また、一億総決起で戦意が最高の高まりを見せていた頃、清は会議で開口一番、「今日から経理、営業部長らは中之島の図書館に通って勉強をしてもらいたい。ドイツが第一次世界大戦に負けた直後の経済状況を調べて、1週間後に報告書を出して欲しい」と言った。

  「金、銀、の価値がどう変わるかも調べてくるんだ」と付け足した。「戦後のインフレ対策は、山林を買う、土地を買う、平和産業の株を買う」というものだった。

  清は、これらのインフレ対策をすぐに実行に移した。そして、山林は昭和38年頃までに京都府で58 山、大阪府で65山を買占め、平和関連産業の株購入に至っては昭和39年頃までに約6000株、93 銘柄に及び、当時の時価総額で約65 億円にも達した。

 後に、木炭車の燃料確保に端を発した山林の買占めは、植林事業として受け継がれ、戦後の地価高騰時代には計算のしようもないほど莫大な資産となる。さらに、一流上場企業の株主となったことで、その受取配当金は半期で5億円にも上る多大な収入源となった。

 こうした多田式経営は、ほどなくして経済界にも響き渡り、当時、経営の神様と言われた阪急の総帥・小林一三が、阪急バスの経営を頼み込んだという逸話も残っている。

  紺の詰襟と制帽を着用する乗務員

 「私が今日あるのは、あらゆる人達に有形無形の迷惑をかけ、そういう意味での借金をしてきたからだ。残された人生で、これらの借金を返してしまわなければ、人間としての価値はない」。

 戦前に一タクシー運転手から起業し、一代で大阪を代表する一大タクシーグループを築き上げた清は、晩年、「人生借金返済論」をしきりに説くようになる。

 そして、その言葉通り、「社会に対する当然の恩返し」として数え切れないほどの寄付行為や慈善事業を重ねるが、その最後の仕上げとして構想したのが、父祖が眠る生まれ故郷に大仏を建立する事業だった。

 清は、本社の敷地内のガレージを大仏工場に改造して、自ら大仏殿の設計や付属品の試作に取り組んだ。そして、実際に工事が始まると、天候に構わず1週間に一度は現場を訪れ、細部まで自分の目で確かめ、工事業者に厳しい注文を出した。

 昭和62年、実に1857日、延べ8万485人の作業により、大仏殿と五重塔、そして中国の国宝に指定されている装飾壁を再現した九龍壁が完成し、開眼落慶法要が執り行われた。


  越前大仏は身の丈17㍍、両脇に羅漢像と菩薩像を従え、3方を1281体もの仏像に囲まれた、座像では奈良の大仏をしのぐ日本一の大きさとなった。この大仏の完成により、清は地域社会への貢献を合わせた観光事業への進出を目指そうとしたのだった。


 そんな折、清は突然、病に倒れる。病状は重く、長期の入院生活の中で、志半ばの清は事業を後継に託すことを決意する。そして、平成3年7月、ついに清は帰らぬ人となる。葬儀は、清自身が建設した大師山清大寺越前大仏で、しめやかに執り行われた。



 地縁・血縁の大きな財産が福井にはあったものと想像される。


ギリシャ哲学 25 ミレトスのアナクシマンドロス

2006-12-26 00:27:38 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
  アナクシマンドロスは、前547年に64歳、その後、まもなくして没したとされている。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、アナクシマンドロスは、始原とは、「なにか形のあるもの」ではなく、「無限のもの」であるとした。 

つまり、彼にとって、空気も水も形があるゆえに始原とは見なされなかったのである。人間の認知能力は無限に対しては歯が立たない。無限を切断して有限の細片に加工しなければ認識できないのが人間なのである。彼の出発点は虚心に自然を観察するところにあった。結局は、記述しか方法はなかったのである。プラトン、アリストテレスから唾棄されたのは、こうした非演繹性にあった。

 彼は、夏至・冬至・春分・秋分を確定すべく、「グノーモーン」(垂針盤)を考案したと言われている。もちろん、確証はない。日時計も天球儀もこしらえたとされる。



 『スーダ』によれば、彼は、タレスの縁者にして弟子、そして後継者であった。大地が宇宙の真ん中にあるとした

『自然について』、『大地周行記』、『さすらわぬものたち=恒星について』、『天球論』
を著したとされているが、やはり、現物は残されていない。 彼は、人間の経験生活のあらゆる局面を記述しようとしていた。ピタゴラスの師であったという説が有力である。



 ヘロドトスによれば、天球儀とグノーモーン、さらには、昼を12分割にすることを、ギリシャ人たちに教えたのは、バビロニア人であったという。

 
よしんば、アナクシマンドロスがグノーモーンを発見したといえなくても、彼がそれをバビロニア人から学んでギリシャに伝えたという可能性は非常に高いと『スーダ』からは受け取ることができる。

 彼は、史上初の広範な地図を作成した。人間社会の広大な広がりを、できうる限り地図で表現したのである。先のディオゲネス・ラエルティオスが、アナクシマンドロスが初めて「大地と海洋の輪郭を描いた」というのはその意味においてである。

 ただし、イオニアの地図は、後世のヘロドトスによって揶揄されてしまった。 ヘロドトス『歴史』第4巻36節で、以下のように記述されてしまった。

 「これまで多くの人たちが大地一円を描いたが、誰も理に適った仕方で説明していない。これには笑ってしまう。彼らはオケアノスが大地の周辺を流れている様を、コンパスを用いたかのうように円く描いている。アシア(アジア)とエウロペ(ヨーロッパ)が同じ大きさとして描かれているのである」。

 「歴史の父」のヘロドトスに揶揄されてしまえばカタナシであるが、それでも私は抗弁したい。タレスにしても、アナクシマンドロスにしても、オケアノスをこのような平板な形で考えたわけではない。アナクシマンドロスは知りうる限りの人間社会を地図に映し込もうとしたのだと。当時、ミレトスは交易の中心地であり、植民都市の主たる開設者であった。したがって、ミレトスには世界の情報が集まっていた。そして、彼自身が黒海沿岸のアポロニアに植民都市建設に携わったのである。

 彼の行動半径はヘロドトスに比べると微々たるものではあるが、それを地図で表現しようとした努力は認められるべきである。

 ただし、周知のように、イオニア的な科学は、十把一絡げにアリストテレスによって「自然哲学的なもの」として侮蔑の対象に貶められたものである。

 ミレトスは地震帯であった。こうしたことから、彼は地震を予知して、スパルタ人を避難させたことがある。ピタゴラスも地震を予知した。

 おそらくは、コウノトリが騒ぐと地震が近いという類のものであったろうが、阪神淡路大震災を経験している私にはよく分かる。私の知り合いの漁師たちは地震が発生する1か月も前に、須磨から魚がいなくなってしまったと気味悪がっていた。



 人間が動物のなかでもっとも感覚能力が劣っているのは確かである。虚心に自然観察すれば、人間の劣った能力もある程度補正はできる。森を全滅させてしまったギリシャ・ローマ人には足下にも及ばない知恵をイオニアなどの東方世界はもっていたはずである。

ギリシャ哲学 24 タレスの幾何学

2006-12-17 16:41:39 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 アレクサンドリアの古代最大の図書館には、タレスとしてはレベルの低い『航海用天文誌』しか残されていない。少なくとも多くの広範な哲学者の証言によれば、タレスは膨大な著作を残したはずである。にもかかわらず、彼の真価を表す著作がなに一つ残されていなかった。それもこの図書館が焼き討ちされる前からである。



 これは何を意味するのであろうか。犯人が誰かはわかっていない。いいだもも氏はプラトンを疑っている。いずれにせよ、当時、タレスを初めとした自然学者に対する焚書があったことは確かである。



 栄光のギリシャ哲学者が、ソクラテス・プラトン・アリストテレスにのみ極限されたのは、彼らの偉大さばかりでなく、陰湿は政治的陰謀が働いていたことは容易に想像できる。

 ただし、ディオゲネス・ラエルティオスやアリストテレス注解者のシンプリキオスは、タレスが著作をなにも残さなかったと書いている。

 それと反対の証言もある。後10世紀に編纂された『スーダ』というギリシャ語語彙辞典では、タレスは多数の著作を残したとある。いずれが正しいのかは不明である。しかし、プラトンやアリストテレスによる激しい憎悪を考えれば、焚書の被害にタレスたちイオニア等東方に関係する先行者たちの著作が遭った可能性は、否定できないのである。



 ヘロドトスは、タレスをミレトスの人とし、祖先はフェニキア人と推定した。通常、フェニキア人というとき、それはセム系人種を意味していて、ギリシャ人ではないという意味に使われる。これも真偽のほどは分からない。

 ヘロドトスによれば、タレスはイオニア陥落前にイオニア人国家の改革を提言していた。全イオニア人が、イオニアの地理的中心であったテオス島に統一評議会を置き、その他の都市を各行政区にするという今日の中央集権国家を作ろうとしていた。

 また彼が日蝕を予言したのは、リュディア軍とメディア軍との交戦中のことであるが、彼の知識はバビロニアの記録文書から得たとされている。バビロニアの神官たちは、宗教的な必要性から太陽回帰周行の知識が豊富で、少なくとも前6世紀には日蝕の地点確定能力ももっていたと考えられる

 とくに、イオニアが陥落した時のサルディスは国際都市であり、ギリシャの知識人たちが多数勉学のために訪問していた。タレスはこの地でバビロニア人たちから天文学と60進法を学んだとされている。ディオゲネス・ラエルティオスは、タレスこそが天文研究をした最初の人であり、日蝕と太陽の回帰を予告した最初の人であるとしているが、バビロン人から学んだことは確かだとされている。

 タレスは、ピラミッドの高さを計測した最初の人でもあった。それは三角比を応用したものであった。直径が円を二等分し、二角挟辺が等しければその三角形は合同であるとか、対角線は等角であるとか、とにかく幾何学の定理をタレスはつぎつぎと確定していった。長距離の航海には北極星を目印とすべきだと航海士たちを指導したのもタレスである。それまでは、北極星のある小熊座ではなく、北斗七星のある大熊座をフェニキアの航海士たちは利用していたのである。星の測量器具もタレスの発明であった。



 アリストテレスもまたタレスへの憎悪を隠さなかった。少し長くなるが、アリストテレスの『形而上学』A巻第3章から引用しよう。

 「最初に哲学に携わった人たちの大部分は、もっぱら素材のかたちでのものだけを、万物の元のもの(始原)として考えた。すなわち、すべての存在する事物がそれから生じ、またそれへと消滅していくところのもの・・・その当のものを、存在する諸事物の基本要素であり、元のものである、と彼らは言っている。・・・このような哲学の創始者たるタレスは、水がそれであると言っている(大地が水の上に浮かんでいると主張したのも、そのためである)。彼がこうした見解をとったのは、おそらく、あらゆるものの栄養となるものが湿り気をもっていること、熱そのものさえ湿り気をもったものから生じ、それによって生きることを観察した結果であろう(ものがそれから生じる当のもの、それが万物の元のものにほかならない)。彼の見解は、こうしたことによるとともに、またあらゆるものの種子がしめった本性をもっていることによるものであろう。水こそが、湿り気をもったものにとって、その本性の元のものにほかならないのである」。

 そして、アリストテレスはタレスを批判する。彼はなにも解決しなかった。彼は、大地を支える水を支える何らかのものをさらに見出さなければならなかったはずだからであると。

 溜息が出てしまう。私の後代、私の理論を紹介する悪意ある人によって、このように低いところから私のオリジナルの理論が捏造され、揶揄の対象にされてしまうのであろうか。このような悪意の固まりのような文章に接すると、私は死ぬ前に私の著作のすべてを自ら焚書してしまおうか、という気持ちになってしまう。

 このブログで少し前、「ウラノス」(天空)、「奈落の底」(タルタロス)、「オケアノス」(大河)を私は紹介した。それは動きのない静止した世界像であった。そこには変化と時間がなかった。プラトンのアテネでは、そうした枠組みから外れた考え方はすべて異端として廃絶された。光と闇、不老なる「クロノス」(時間)の水、そして「カオス」、「卵」、「無形の神」につながる「オルペリウス」の臭いをプラトンとアリストテレスは毛嫌いしたのである。

 アリストテレスにとって、東方の異教徒の臭いをぷんぷんとさせているタレスは許せないものであった。アリストテレスは、自分の言う四つの原因のうち、素材という一つだけを始原とするタレスを侮蔑した。しかし、タレスは大地が水から立ち上がると考えたのであり、単に水が大地を支えていると考えたのではない。生成・発展・消滅のサイクルを問題にしたのである。けっしてアリストテレスが固着してしまった機械的静態論ではない。物質すべての相互作用を問題にしようとしたのである。

 たとえば、水と熱とを対立させるのではなく、水にも熱があるとしたのである。このダイナミズムは東方のものである。光にしか生活を見ないアポロン的世界とは対照的なものである。

 アリストテレスのタレスへの悪罵は、『魂について』第1巻にも現れている。

 「より粗雑な人たちの中には、(魂は)水であると主張した者もいた。・・・彼らはすべてのものの種子が湿っているということから、そう信じたようである」。

 アリストテレスにとって魂は血液と同じである。にもかかわらず、タレスは種子は血液ではないとして、人間の魂を否定したのである、という無茶苦茶な論法で、アリストテレスはタレスを糾弾したのである。

 エジプトの神話は、大地が水の上で静止しているというものであり、バビロニア創造詩は、すべての陸地は海だったというものである。ヤーベは、水の上に大地を述べ広げた。こうした地下水脈を重視する東方の感覚をギリシャ本土の人たちは理解できなかった。オケアノスは大地の周囲を環流するだけのものだからである。オケアノスは地下には存在しない。



  アレキサンダー大王が、東方の英知に感動して東方の学者をアテネに連れてきたが、そうした場面に直面したアリストテレスの屈辱はいかなるものであっただろう。思うに、ギリシャ哲学の専門家たちは、どうして、ギリシャ哲学が相次ぐ戦乱の中から生み出されたものであったという当たり前の史実について何も語らないのであろう。

 どうして、政治家、実務家、国際的交流といった現実の生活の営みとの関係でギリシャ哲学を語らないのか。そのように称揚されても、ギリシャこそは、そしてそれを継承したローマこそは、奴隷社会であった。徹底的な差別社会であった。どうしてそれがポリスなのか。どうしてこのような初歩的なことすらこの世界では議論しないのか。いまの新古典派経済学が戦争について無言を守っていることとそれは通じるものである。

 最近、すばらしい本が出た。トム・ホランド、小林朋則訳『ルビコン・共和制ローマ崩壊の物語』(中央公論新社)、本体3300円、税別)。



 タレスにとって、水はアリストテレスが執拗に攻撃するような、単なる「素材」ではなかった。水は、彼にとって、無限定な広がりを示す観念であった。厳密な二分法を守るアリストテレスにとって、タレスもまた、水の「濃密化」という「希薄化」から事物が生み出されるという二分法を取ったものと理解したがり、無限定な、つまり、明確に定義できない発想などそもそもできなかったのである。

 ディオゲネス・ラエルティオスは、タレスが「無生物と見えるものでも生きている。世界は神々に満ちている」と言ったと説明する。川も樹木も生気をもっている。霊を宿している。タレスは魂こそがものを動かすという。それは普遍的な意識と生命の源である。自己運動と変化の能力を魂がもつ。光と論理のみで世界を理解しようとして、それが新しい哲学だと自称し始めた青臭い、世間知らずの新興哲学者たちにタレスは、意図的にぶつかったのである。彼を突き動かしたものは、数学、とくに幾何学における神秘性への感嘆であった。まだまだ私たちの無意識の中にある未分化な思考法を、タレスは2600年も前に取り出して見せた。そして、案の定、合理的思考至上主義者である権威者によって抹殺された。


ギリシャ哲学 23 ミレトスのタレス

2006-12-16 02:25:12 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 古代ギリシャ人は、もっとも活躍できる年齢をほぼ40歳とし、そうした年齢の絶頂期を「アクメー」と呼んだ。言葉も時代によって変わるものである。

 ギリシャで最初の自然哲学者はミレトスのタレスとされている。彼は記録されている人類史上で初めて日蝕を予言した人であるとされている。

  紀元前585年に日蝕は生じたとされている。真偽のほどは分からない。それは第48オリンピア祭期の4年目に相当する。ここからはいい加減なもので、この年がタレスのアクメー(盛年=40歳)のはずだとされ、結局、彼の誕生は40年前の前624年にされた。没年はもっといいかげんなものである。

  小アジアのエーゲ海近くの要塞都市サルディスが陥落した祈念すべき年は前546年である。この栄光ある年にタレスは死んだことにされてしまった。  

  しかし、それでもいいではないかと私は思う。昔、人は、現代人ほど生没年を気にしていなかったのではないだろうか。カレンダーも生死の境も曖昧模糊のものであったのではないだろうか。著名人は神格化され、歴史的大事件に合わせて誕生日と没年を決定されたのであろう。おおらかな時代のおおらかな風習である。

 5と9を表す古代ギリシャ文字は間違いやすく、これが年代確定の障害になっているとも言われている。

 タレスは当時、必ず7賢人の一人に加えられていた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、7賢人はアテネの政務長官(アルコーン)であったダマシアスが前582年に制定したとされる。この年はピュテイア(デルポイ)祭が復活させられた記念すべき年であった。

 タレスは多彩な人であり、アリストパネスの『鳥』では、「タレスのような人」として都市計画などあらゆる実践的な技術と知識を有していた人として描かれている。実際、タレスは数学・幾何学で才能を発止し、軍事用道路・橋も建設を指揮した。

 前6世紀、ギリシャの学問はエジプトから導入されたものであった。ヘロドトスは、ギリシャの幾何学がナイルの測量技術が伝わったことを源としていると断言している。タレスもまたエジプトに遊学し、幾何学を修めたとされている。

 こうした「ソクラテス以前の哲学者」を貶める趣味をもっていたのがプラトンであった。プラトンは執拗にソクラテス以前の哲学者を馬鹿にする発言をしていた。プラトン『テアイテトス』では、タレスが星を観察しながら上ばかり眺めて歩いていたところ、井戸に落ち込んだ。それをトラキア出の下女がからかった。天空のことを知るのに熱中して、ご自分の後ろや足下のことに気が回らないのですねと。これが「上の空の大先生」の使用例第一号である。それを親しい者たちとプラトンは作品の中で笑い飛ばした。なんて意地の悪い場面設定なのだろう。ここからしてもプラトンの狷介な性格が読み取れる。

 アリストテレスもまたひどかった。金儲けにいそしむ俗物の典型として、アリストテレスはタレスを非難した。『政治学』第1巻においてである。恥ずかしながら、私も、デリバティブ批判の材料としてアリストテレスのこの文章を過去、無批判に引用してきた。

 タレスたちは哲学がなんの役にも立たない。したがって哲学者たちは貧乏をしていると言っているという。彼らは、それ見たことかと哲学者を馬鹿にする。タレスなどは天文という実践的な研究をして金儲けに結びつけることに成功したと豪語したという。

 私は、タレスはけしからん。アリストテレスは正しいとの文脈でこれまでも本に書いてきたが、いまさらながら自分の無知に愕然としている。

 
これはアリストテレスの権威の下に、ソクラテス・プラトン・アリストテレスといった新興正統派が、旧い多様でかつ快活な思想を抹殺することであった。タレスこそは、教条的思想を軽蔑していた人だったのである。

 
アリストテレスは、自分が哲学者であり、タレスは哲学ではない天文学にうつつをぬかしていると非難した。これはまさに経済学にこける現在の新古典派である。われこそは経済学者である、ディスクリプティブな散文ばかりを書く輩は経済学者では断じてない、という思考停止者とアリストテレスはどこが違うのか。

 過去の自らの無知の反省も込めて、アリストテレスの文章を引用する。それは私の傷口に塩をすり込む作業でもある

 「言われているところによれば」(アリストテレスが確認したのではなく、という話もあるというきわめて卑怯な紹介の仕方)、「彼(タレス)は、天文研究によって、来るべきオリーブの収穫を察知して、まだ冬の間に、わずかな金銭を調達してミレトスとキオス中にあるすべてのオリーブ搾油機を借りるための手付け金をまかなったが、誰も競り合わなかったので、わずかな賃料(手付け金)ですんだ。さて、時期が来ると、大勢の人たちが同時にそれを求めたので、彼は望み次第のやり方でそれを貸し付け、膨大な金銭を手に入れた。哲学者たちは、もしその気になれば容易に富を築くことができるのだが、ただそれは彼らが本気でいそしむことではない、ということを(彼が)示して見せた、とのことである」。

 最後も、「とのことである」と伝聞の形を取っている。実際にタレスがそんな馬鹿なことをしたのか否かは、アリストテレスは明言を避けている。実証もしていない。人々の犠牲の上にタレスがあくどい金儲けをしたとのデマ的な発言を、こともあろうに大権威者のアリストテレスがしたのである。以後、ほぼ800年後、ディオゲネス・ラエルティオスが再発見するまで、タレスはアリストテレスの権威の前に汚名を被せられたままだったのである。

ギリシャ哲学 22 ディオゲネスとディオゲネス・ラエルティオス

2006-12-14 23:22:42 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 いつも私のブログに貴重なコメントを寄せてくださる田淵太一氏からつぎのようなメールが届いた。氏の許可を得ぬままここに転載させていただく。

 「『古代ギリシャ哲学・消された伝統』を拝読しました。ピタゴラスのような消された伝統を復権させることが絶大な現代的意義をもっていることを,あらためてよく理解できました。そして『目の前のクライシスを無視し、とくとくと形式論理を振り回す、自称<理論家>への不信と怒り』を共有したいと、強く感じました。
 ディオゲネス・ラエルティオス著『哲学者列伝』という不思議な書物に、若き日のニーチェも魅了され、やがて文献学をかなぐり捨てることにつながっていったようですが、御論旨の通り、ディオゲネス・ラエルティオスが何者なのかにかかわらず、形式論理や文献的詮索を排して、『異論の余地のないもの』を原理としてそれを平明に語る、という立脚点に立つことの重要性は、疑い得ぬものだと存じます。(通常、ディオゲネス・ラエルティオスは3世紀ごろの哲学史家だとされていますが、私の漠然とした印象では、プラトン主義を痛烈に批判した犬儒派のディオゲネスに共感して名乗ったペンネームのような気がいたします。『哲学者列伝』で、犬儒派のディオゲネスにかんする記述が共感に満ちて生き生きとしていて、しかもエピクロスの項目に次いで長いからです)。とり急ぎ感想を申し上げます」。

 うれしいことである。田渕氏とともに京大で学んだ記憶が鮮明に蘇る。幸せな日々であった。師弟ではなく、戦友であった。いまは正統派、昔は教条派との戦いであった。

 それはともかく、氏のコメントを掲載させてもらったのは、前回の私の紹介があまりにも稚拙であったことに気づいたからである。さすがに田淵氏。それとなく私の不十分さを指摘してくれた。

 正確に紹介しなおす。前回に引用した文章は、ディオゲネス・ラエルティオスのものではなく、ディオゲネス・ラエルティオスが紹介した本家ディオゲネスのものである。

 ディオゲネスは紀元前3世紀前半にミレトス市民が黒海西沿岸に建設していたアポロニアで活躍していた「アリストテレス以前の哲学者」であった。クレタにも同名の都市があるがそこではないというのが通説である。紀元前440~前430年がもっとも活躍した時期であるとされている。

 新プラトン学派の哲学者たちは、彼のことを「アポロニアのディオゲネス」と呼んだ。自然学で著名であった。医師でもあったと言われている。彼の考え方は先行諸理論の折衷である。したがって書誌学的に軽く見られがちであったが、先行者よりもはるかに平明に、広範囲の適用可能な統一性をもった世界理論を構築した。そして、彼よりも800年も後の反新プラトン主義者のディオゲネス・ラエルティオスが惚れ込んでしまったのである。

 ディオゲネス・ラエルティオスは、後3世紀前半の小アジアキリキア地方のラエルテ出身で、著作は『哲学者列伝』しか発見されていない。

 元祖のディオゲネスは、年周・日周・季節等々の規則性に感嘆し、生物の諸器官の有機的統一性にも感動していた。そして、そうしたことを見出せる思惟の力を重視していた。

 彼は、海の塩辛さは太陽が真水を蒸発させるからであると説明し、夏期にナイルが氾濫するのは、太陽が大地から出る放散物をそこに向けるからであると考えた。万物の運動の濃淡があらゆる物質を生み出すという宇宙観をもっていた。生命としての機能と知性(知覚)としての機能の相互作用に運動と思惟の連動を見ようとしたのである。


ギリシャ哲学 21 消された伝統

2006-12-12 23:45:35 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 ソクラテス以前のギリシャ哲学に私のこだわるのは、ソクラテス以後の形式的な論理に沈静するよりも鋭い直感と観察力を備え、宇宙全体の関わり方を知ろうとした一群の哲学者が、ソクラテス以前には存在していたことに感動したからである。

 目の前のクライシスを無視し、とくとくと形式論理を振り回す、自称「理論家」への不信と怒りから、私は人間としての哀愁と共感を備えた理解力をそれこそ必死になって追い求めている。そこで見出したのがピタゴラス学派であった。彼らは、人間的「生」を真正面から見つめていた人々であった。

 ニーチェは、彼らを「悲劇時代の哲学」と呼んだ。ヘーゲル的な思弁性の形而上学にまだ汚染されていない彼らの魂の純粋さに彼は感動したのである。

 
ピタゴラス派の数理思想と宗教思想は、民衆の心の奥底で沸騰している情念を取り出して見せたものである。彼らを「非論理的」といって切り捨てる「理論家」の誰一人として、現在社会から阻害されている民衆(権力から疎まれている外観上の文人を含む)への共感をもたないのは、けっして偶然ではない。


 現在のクローニー的体制のぬるま湯を快適と感じている権力指向者の観念を砕き、暗闇に右往左往している虐げられた人々に光りをもたらす営為は、ピタゴラスのような「消された伝統を復権」させることである。


 
その思いを込めて、古代ギリシャ哲学で消されてしまったピタゴラス的伝統を復権させるべくこのシリーズを書いている。開花するまで、読者諸氏の忍耐におすがりする次第である。


 ただし、私は古代ギリシャ哲学の専門家になるつもりはない。実在したかどいうか疑わしい文献の真偽を検討する時間は、いまの私には残されていない。たとえば、ディオゲネスの著作が、本人のものとして信用できるのか否かの議論には立ち入らない。ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第957節が本当に彼の手になるのか否かは、いまの私にはどうでもいい。



 「およそいかなる言説を論じ始めるにあたっても、その原理すなわち出発点として、異論の余地のないものを提出しなければならず、また記述は平明かつ荘重なものでなければならないと、私は考える」
といった文だけですべてが語られる。こうした考え方がいつのまにか消えている。それだけで充分である。


 人が合理的に行動するはずだ、だから経済学には歴史学はいらない。正しい方向に歴史は動くはずなので、正しい経済学を理解すれば人間の行動様式は理解できるからであると、本気で信じている経済学者の多い米国にあって、「レフトビハインド現象」を正統派の経済学者はどう説明しようとしているのだろうか。正当派経済学者の一人でも、イラク侵略戦争に反対した人はいたのか。日本の経済学会でそうした議論をする人はいたのか。

 「異論の余地のない」ものを「原理」としてそれを平明に語る必要がある。こうした論点を、かつては堅持する哲学者たちがいた。私はこうした消された伝統にこだわりたい。


本山美彦 福井日記 51 福井県立大学の学章(シンボルマーク)

2006-12-07 02:09:02 | 花(福井日記)

 
 
 福井県立大学の学章は白樫に鶫(つぐみ)が駐まっているデザインである。

 シラガシ(白樫)は、ブナ科コナラ属の常緑広葉樹である。本州中南部から四国、九州に自生、また、朝鮮南部にも分布している。辺心材の区分は不明瞭で、材の色調は全体に淡黄色を帯びた灰褐色を呈す。柾目面には虎班が現れ、板目面には著しい樫目が見られる。 木質は国産材の中では極めて重硬で強靭である。そのためもあって、切削などの加工や乾燥は困難である。器具材、車両材、船舶材、機械材、枕木、薪炭材などに用いられ、特殊用途としては鉋台や農工具の柄、櫓などもある。

 あまり大径木にはならない。街路樹としてよく見かける高木である。葉っぱが細長いのが特徴であり、ギザギザ状である。

  材が白いカシの木なので「白樫」というが、見た目の樹皮は黒いので「黒樫」とも呼ぶ。表面はすべすべである。秋になるドングリは細めである。

 「白橿」とも書く。別名 「黒樫(くろかし)」


 あしひきの
  山道(やまぢ)も知らず 
    白橿の 枝もとををに 雪の降れれば


                
(万葉集・柿本人麿)。

 福井県立大学のホームページの説明によれば、「しらかし」をマークに入れたのは、「勇気と力」を学生にもってもらいたいとの願いを込めているという。  大学祭は「白樫祭」と称されている。素直な人たちである。

 鶫は、福井県が県鳥に指定した鳥である。大学のホームページでは、「ここで学んだ学生たちが勇気をもってつぐみのように飛翔する国際人に育ってほしい」という願いと、「研究においては国際水準を、教育においては全人類的視野を養成する」との決意が込められています、とある。

 福井県の花「水仙」は昭和29年に指定、県木「松」は昭和41年に指定、さらに冬の味覚「越前がに」が平成元年、県魚に指定された。そして、県鳥「つぐみ」が昭和42年に指定されている。

 県鳥「つぐみ」は再指定された2代目の鳥で、初代の鳥は「こうのとり」だった。初代は昭和39年の指定だが、すでに絶滅しつつあったため、再び県民からの公募で「つぐみ」に決まったものである。

 つぐみは日本に渡来する代表的な冬鳥で、全長約20cm前後の小鳥である。シベリア北部で夏を過ごし10月頃、日本に飛来して福井県をはじめ中部以南の日本各地と中国で越冬する。毎年晩秋になると約100万羽が福井県に来る。

 日本海の荒波を超えて渡ってくる勇気と厳しい寒さに耐えるたくましい生命力が、県民性に共通し学ぶところが多いことから、県鳥として指定されたという。

 かつては冬の味覚として捕獲し食用にされた時代もあったが、昭和22年に捕獲が禁止されたことから、国境をもたない渡り鳥をあたたかく迎え、密猟の悪習を根絶しようという、やさしい県民の気持ちがこめられていると福井ではいわれている。

 大学の学章を紹介したついでに学歌も紹介しよう。少なくともそんじょそこらのありふれた校歌ではない。
音声(MP3)「福井県立大学」HPより


  

 

  なんと美しい歌詞か。
 
作詞者は清水哲男、あの詩人の清水哲男なのか、同姓の別人なのかは知らない。わかればまた紹介する。

  とにかく詩情溢れる秀歌である。
  すごいでしょう。本当にすごい。

 悩みがいとしく、哀しみがまぶしい。
 なんという感性。

 そうなのだ。悩み悲しむことこそが青春なのだ。
 そうだったのだ


 わが大学の学長は歴代農学者であった。

 通じるものがある。いのちの深さに。


本山美彦 福井日記 50 酒と肝臓病

2006-12-06 00:51:56 | 酒(福井日記)

 肝硬変6割がアルコールの取り過ぎであるのが欧米人である。これに対して日本人は肝硬変の原因の2割しかアルコールが占めていない。日本では圧倒的にウィルス感染が肝硬変の原因で7割を占める。

 原因はともかく肝硬変の死亡率は西日本の方が東日本よりも多い。国立水俣病総合研究センター所長・滝澤行雄氏によれば、日本酒を飲む地域の方が蒸溜酒を飲む地域に比べて肝硬変になる比率が小さいという。同氏によれば、日本酒にガン細胞を死滅させる効果があるという。大腸菌・赤痢菌・サルモネラ菌などにも日本酒は抑制効果があったという。

 肝臓が
1合のアルコールを完全に分解するには3時間もかかる。

 

 酒を飲んでいると肝臓の本来の燃料である脂肪酸を燃やさず、アルコールを燃やしてしまう。燃えなかった脂肪酸が肝臓の表面にくっついて脂肪肝になるのである。

 ところが、近年、日本酒には「グルタチオン」という脂肪肝を予防する成分があることがわかった。これは、「還元型グルタチオン」という肝臓薬として市販されている。またこれは発ガン性物質と結合する性質をもっていて、発ガン性物質が細胞をガン化させる働きを抑制する効果ももつ。酵母中に含まれているので「にごり酒」、「搾りたて酒」がよい。酵母を大量に含む酒粕もよい。

 

 酒は静かに飲めばよい。ただし、告白する。酒で得た友人の数の数倍の友人を私は失ったことを。ほどほどに諸氏の達人的酒の飲み方を祈念する。