消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(348) 韓国併合100年(26) 心なき人々(26)

2010-10-31 20:12:26 | 野崎日記(新しい世界秩序)
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野崎日記(347) 韓国併合100年(25) 心なき人々(25)

2010-10-30 20:11:38 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 引用文献

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野崎日記(346) 韓国併合100年(24) 心なき人々(24)

2010-10-29 20:09:43 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(10) 寺内正毅初代総督は、一九一一年に「寺刹令」(じさつれい)」を発布し、「寺刹の本末関係、僧規、法式その他必要なる寺法は各本寺においてこれを定め朝鮮総督の認可を受くべし」(第三条)として、当時約九〇〇あった朝鮮仏教の寺院を監督下に置いた。朝鮮仏教徒は抵抗した。そして、一九一五年の「布教規則」によって、「朝鮮総督は現に宗教の用に供する教会堂、説教所または講義所の類において安寧秩序をみだすのおそれある所為ありと認むるときはその設立者または管理者にたいしこれが使用を停止または禁止することあるべし」(第一二条)と、すべての宗教を統制しようとしたのである。そして、日本の宗教団体の朝鮮における布教を総督府は後押しし、朝鮮宗教の日本同化を図った。三・一事件は、朝鮮の民俗宗教の天道教(東学)やキリスト教、仏教の指導者が会合して「独立宣言」をまとめたことを発端としている。この宣言文は天道教印刷所で印刷され、宗教組織網で朝鮮の主要都市に運ばれた。この宣言が一九一九年三月一日に発表され朝鮮民衆の独立運動の烽火となった。総督府が、朝鮮人の埋葬慣習を無視し、墓地を取り上げ、荒れ地を共同墓地に指定して墓を移転させたことなどへの朝鮮人の怒りが大きかったと言われている(中濃[一九七六]、http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-12-15/2007121512_01faq_0.html)。

(11) 北部長老派は平壌を中心とした平安道(Pyeongan-do)と慶尚北道(Gyeongsangbuk-do)を布教の拠点にし、南部長老派は、全羅道(Jeolla-do)が拠点であった。メソジストは京畿道(Gyeonggi-do)、忠清北道(Chungcheongbuk-do)、江原道(Gangwon-do)南部に拠点を置いていた。このように、米国のプロテスタント教会は地域的な棲み分けを行っていたようである(朝鮮総督府[一九二一]の付録地図参照)。

(12) ブルーダー『嵐の中の教会』という本がある(Bruder[1946])。ナチス支配下、ドイツのある村の教会の牧師が戦争非協力者として捕えられ、小さな教会は厳しい試練に遭遇した。多くの教会が戦争に加担して行くことになったが、このような戦争をすべきではない。ポーランド人やユダヤ人などの弾圧を止めるべきだと訴えるクリスチャンたちは、告白教会を組織して、地下抵抗運動をも繰り広げた。『嵐の中の教会』には、この村の教会が受けた試練の数々と、聖書の教えに則り、神への信仰によって、苦難を乗り越えて行った様子が書かれている。告白教会は、ドイツ・ルター派(福音ルーテル派)の牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer, 1906 - 1945)によって、一九三四年に結成された"Bekennende Kirche"である。この教会は、ドイツの多くのプロテスタントがナチスに追随したことに反抗して組織されたものである。

(13) 米国留学から帰国した一八八八年の二年後の一八九〇年、内村鑑三は第一高等中学校の嘱託教員となった。翌、一八九一年一月九日、講堂での教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼を行わなかったことが同僚や生徒などによって非難された。敬礼はしたのだが、最敬礼でなかったことが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、二月に依願解嘱した(http://socyo.high.hokudai.ac.jp/LSci07/Uchi2.htm)。

 


野崎日記(345) 韓国併合100年(23) 心なき人々(23)

2010-10-29 20:08:28 | 野崎日記(新しい世界秩序)
(9) 周知の史実であるが、韓国併合に関する基礎的な流れを簡単に整理しておきたい。①一九〇四年。日露戦争中の二月二三日、「日韓議定書」。日本が韓国施政忠告権や臨検収用権などを確保した。八月二二日、「第一次日韓協約」。韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。②一九〇五年。高宗(Kojong)はこれをよしとせず、三月にロシアに、七月にロシアとフランスに、一〇月に米、英に密使を送る。日本政府は、大韓帝国には、外交案件について日本政府と協議の上、決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する意志がないと考えた。日露戦争終結後の一一月一七日、「第二次日韓協約」。韓国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上保護国となった。乙巳の年に締結したという意味で乙巳條約、乙巳五條約、乙巳保護条約、乙巳勒約と呼んだりする。締結当時の正式名称は「日韓交渉条約」。一二月二一日、漢城に統監府設置。③一九〇七年。七月一八日、ハーグ密使事件の発覚によって、日本政府は、高宗を退位させた。七月二四日、「第三次日韓協約」。高級官吏の任免権を日本の韓国統監が掌握すること、韓国政府の官吏に日本人を登用できることなどが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散、司法権と警察権の日本側への委任が定められた。④一九〇九年。六月一四日、韓国統監の伊藤博文が枢密院議長になり、副統監の曾禰荒助が統監になった。七月六日、適当な時期に韓国併合を断行する方針及び対韓施設大綱の閣議決定。憲兵・警察官の増派、日本人官吏の権限拡張が内容。七月二六日、「韓国政府の中央金融機関としての韓国銀行の設置を承認する」という日韓覚書。一〇月一八日、「警察署長・分署長に、拘留・科料以下の罪につき即決権を与える」という犯罪即決令公布。一〇月二六日、ロシア外相と会談のためハルビン駅に到着した伊藤博文(六九歳)が韓国人のクリスチャン、安重根(三一歳)に射殺された。⑤一九一〇年。三月二六日、安重根の死刑執行(三二歳)。二月二八日、小村寿太郎外相により在外使臣(外国駐在日本大使)に対し、「韓国併合方針及び施設大綱」を通報。五月三〇日、陸軍大臣、寺内正毅が韓国統監兼務。八月一六日、寺内正毅統監が韓国首相の李完用に韓国併合に関する覚書を交付。八月二二日、「韓国併合に関する条約」調印。「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」ことなどを規定。八月二九日、韓国の国号を朝鮮と改称し、漢城を改称した京城に、朝鮮総督府を設置、当分の間、統監府も併置。八月二九日、「法律を要する事項を総督の命令で規定することを認める」法令公布。九月一二日、韓国統監府は、朝鮮の全政治結社を解散させる方針により、一進会に解散を命じ、解散費一五万円を支給。九月三〇日、「総督は陸海軍大将とし他に政務統監を設置する」という朝鮮総督府官制を公布。九月三〇日、朝鮮総督府臨時土地調査局官制公布。一〇月一日、三代目の韓国統監の寺内正毅が初代朝鮮総督。寺内正毅は陸軍大臣も兼任。一二月二九日、朝鮮における会社設立には、朝鮮総督府の許可制とするという朝鮮総督府による会社令制定、当然、朝鮮人に不利。⑥一九一一年。四月一七日、朝鮮総督府が、所属不明の土地を国有地として没収し、日本人の地主・土地会社へ払い下げるという土地収用令制定、その結果、朝鮮人農民は土地を失い没落。六月、朝鮮総督暗殺計画発覚、米国人宣教師との関係が問題となった(一〇五人事件、宣川事件)。七月一三日、「米国を協約の対象から除く」という内容の第三回日英同盟協約調印。⑦一九一二年。七月八日、特殊利益地域の分界線を内蒙古まで延長し、東側を日本、西側をロシアとするという内容の第三回日露協約調印。⑧一九一四年。七月二八日、第一次世界大戦勃発。⑨一九一六年。七月四日、「中国が第三国の政事的掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行う」という内容の第四回日露協約調印。⑩一九一七年。一一月、ロシア一〇月革命。⑪一九一八年。八月二日、シベリア出兵宣言。八月三日、米騒動。⑫一九一九年。一月一八日、パリ講和会議。三月一日、京城・平壌などで朝鮮独立宣言が発表。示威運動は朝鮮全土に拡大(三・一独立運動、万歳事件)。四月八日、陸軍省は、朝鮮の騒擾を鎮圧するため、内地より六個大隊と憲兵四〇〇人の増派を発表。四月一〇日、朝鮮の民族主義者は、上海に大韓民国臨時政府を樹立、国務総理には李承晩(Rhee Syng Man)。四月一二日、関東庁官制・関東軍司令部条例の公示。関東都督府の廃止、関東庁の設置、初代関東長官に林権助(はやし・ごんすけ)、関東州と満鉄の警備に都督府の陸軍部を独立させて関東軍の設置、関東軍司令官に立花小一郎(たちばな・こいちろう)、司令部は旅順(Lushun)、兵力は一個師団一万人。四月一五日、朝鮮総督府は、政治に関する犯罪処罰の件を制定、その内容は、「政治変革をめざす大衆行動とその扇動と厳罰に処する」というもの。五月五日、間島(Kan-do)日本領事館放火される。六月四日、朝鮮における日本の常備師団は二一個師団となった。八月一二日、海軍大将斉藤実を朝鮮総督に任命。九月二日、朝鮮総督の斎藤実、京城南大門(Kyonson Namdemun)駅で爆弾を投ぜられた。犯人は羌宇奎(Gang U Gyu)とされ処刑(岩波書店編集部[一九九一]、参照)。

野崎日記(344) 韓国併合100年(22) 心なき人々(22)

2010-10-28 20:04:09 | 野崎日記(新しい世界秩序)
(6) 『京城日報』は、一九〇五年の日露講話のポーツマス条約によって、日本の支配下に置かれた韓国で、京城(Gyeong-seong)に設置された朝鮮統監府の機関紙として創刊された新聞である。初代統監に就任した伊藤博文は、韓国統治に必要な有力新聞が必要であるとして、旧日本公使館機関紙『漢城新報』(一八九五年創刊)と『大同新報』(一九〇四年創刊)を買収統合、統監府の機関紙として『京城日報』を一九〇六年九月一日に創刊した。初代社長は大阪朝日新聞出身の伊東祐侃(ゆうかん)。一九一〇年の韓国併合により、統監府は総督府に改組され、朝鮮統治における『京城日報』の役割を拡大させるべく、『國民新聞』社長の徳富蘇峰(猪一郎)を監督として迎えている。日本の敗戦により、一九四五年一〇月三一日をもって日本人の手を離れて韓国人が事業を引き継いだが、同年、一二月一一日付を最後に廃刊となった(http://newspark.jp/newspark/data/pdf_siryou/c_34.pdf)。親日的指向の強い論調を張っていて、社長の任命や運営に関しても、総督府が主導権を握っていた。『朝鮮日報』や『東亜日報』など民間紙と比較しても、規模や影響力は大きかった(李錬[二〇〇六])。

(7) 内田良平(一八七四~一九三七年)。福岡県出身。頭山満(とうやま・みつる)の門下生であった叔父の平岡浩太郎によって創設された「玄洋社」に入り、一八九四年に「東学党の乱」が発生するや、玄洋社の青年行動隊として韓国に渡り、これに参加した。フィリピン独立運動、中国革命の支援運動などにも参加。一九〇一年一月、「黒龍会」を設立し、一九三一年には「大日本生産党」を結成し、総裁となった。黒龍会は、玄洋社と並ぶ右翼運動の思想的源流となった(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%E2%C5%C4%CE%C9%CA%BF)。韓国の農業近代化に打ち込むべきであると、内田は、伊藤統監と一進会を説得したらしい(Lone[1988], pp. 117-20)。

 木内重四郎(一八六六~一九二五年)。千葉県出身。法制局参事官試補、貴族院,内務省、農商務省商工局長を歴任後、統監府農商工部長官になる。総督府を依頼免官後、貴族院議員となる。一九一六年京都府知事となるが、汚職の嫌疑、いわゆる「豚箱事件」で収監されるが無罪となる(http://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E5%86%85%E9%87%8D%E5%9B%9B%E9%83%8E)。

 杉山茂丸(一八六四~一九三五年)。福岡県生まれ、夢野久作(ゆめの・きゅうさく、本名・杉山直樹)の父。自由民権運動で頭山満と出会い玄洋社結成を助ける。日露戦争中にレーニンの帰国を計画し成功させるなど、明治維新以後の内外の大事件や運動の多くに関係していた。公職に就くことなく、あくまで黒幕として政財界で活躍した(http://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E8%8C%82%E4%B8%B8)。

(8) 当時の米国資本は、日本が得た満州の権益に割り込もうと活発な政治工作を展開していた。まず、米陸軍長官のウィリアム・ハワード・タフト (William Howard Taft)が、フィリピン訪問の帰途、一九〇五年七月二七日に来日し、日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と会談した。小村寿太郎がポーツマス条約締結のために、米国に出張していたので、桂が臨時外務大臣を務めていたのである。「桂・タフト協定」が両者間で交わされた(日付は七月二九日)。それによれば、米国は韓国における日本の支配権を確認し、交換条件として、日本は米国のフィリピンの支配権を確認した。しかし、これは、正式の協定ではなく、両者の秘密合意であったので、一九二四年まで公表されなかった。さらに、東アジアの秩序は、日、米、英の三国による事実上の同盟によって守られるべきであるとされた。桂は、この時に、韓国が日露戦争の原因であると明言した。そして、韓国政府を単独で放置し、他国と協定を結ぶことを許してしまえば、日本が再度、別の外国との戦争に巻き込まれることになるだろうとも述べた(長田[一九九二]、参照)。

 ポトマック河畔の桜は、タフトが大統領になり、その在職中に東京市長・尾崎行雄から贈られたものである。

 タフトの訪日に続いて一九〇五年八月三一日に来日したハリマンは、単に南満州鉄道を買収するだけでなく、それを起点にシベリア鉄道を経てヨーロッパへ、さらに汽船連絡によって世界一周鉄道を実現するという壮大な構想を持っていた。

 当時日本の政府には日露戦争の結果得た満州の権益を自力で経営する自信がなく、元老をはじめ桂内閣も米国資本の導入を渡りに船と歓迎したのである。話合いは、順調に進み、一九〇五年一〇月一五日には、日米平等のシンジケートを経営体とする南満州鉄道運営に関する予備覚書が、 桂首相とハリマンの間に交換された。ハリマンは喜び勇んで帰国の船に乗った。しかし、ポーツマス講和会議から入れ替わりに帰国した首席全権・小村寿太郎は、これに猛然と反対し、ついにその契約を破棄させた。満鉄の自主経営を可能にする資金の手当がモルガン系銀行によって保証される約束を小村が得ていたからである。ハリマンは船がまだサンフランシスコへ着く前に、予備協定破棄を電報で知らされて激怒した(袖井[二〇〇四]、一五ページ)。

野崎日記(343) 韓国併合100年(21) 心なき人々(21)

2010-10-28 19:25:50 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 注

(1) 朝鮮(Chosun)と韓国(Hanguk)との呼称について記す。李氏(I-si)朝鮮は、一三九二年、高麗(Goryeo)の武将、李成桂(Yi Seong Gye)太祖(Taejo)が恭譲(Gongyang)王を廃して、自ら高麗王に即いたことで成立した。李成桂は、翌一三九三年に中国の明(Ming)から朝鮮という名称を付与され(権知朝鮮国事)、国号をそれまでの高麗から朝鮮に改めた。一四〇一年、太宗(Taejong)が明から朝鮮国王として冊封を受けた。そして、日清戦争終結後、日本と清(Qing)国との間での下関条約によって、朝鮮に対する清王朝の冊封体制が廃止され、朝鮮は一八九七年に国号を大韓帝国(韓国)に改められた。朝鮮国王も韓国皇帝に改称された。しかし、一九一〇年の「韓国併合に関する条約」によって、韓国は日本に併合させられてしまった。この時の韓国は、いまの朝鮮人民民主主義共和国を含む半島全体の呼称だった。従って、併合は朝鮮・韓国併合ではなく韓国併合が正しい。ちなみに、日韓併合という用語は通称である。

(2) ハングルへの翻訳に携わったのは、スコットランド出身で、満州に赴任していたジョン・ロス(John Ross)であった(Grayson[1984])。

(3) 韓国併合前までの韓国におけるミッション・スクールについては、Paik[1919]がある。韓国でキリスト教が急速に普及した理由についての論争史については、Grayson[1985]に詳しい。

(4) 一進会は、一九〇四年から一九一〇年まで韓国で活動していた当時最大の政治結社。宮廷での権力闘争に幻滅し、外国勢力の力を借りてでも韓国の近代化を実現させようする「開化派」の人々が設立した団体。日清・日露戦争に勝利した日本に接近し、日本政府から特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である韓日合邦(日韓併合とは異なる)を唱えた。韓国併合後、統監府から金銭取引を行った後、解散した(ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%88%EA%90i%89%EF)。
 一進会の創始者、宋秉(一八五七~一九二五年)は、一八七三年から司憲府(Sahonbu)に務めた後、一八八四年、密命を受けて金玉均暗殺目的で日本に渡ったが、逆に説得されて金の同志になった。日露戦争時に、日本軍の通訳として親日に転向し、一進会を組織した。一九〇七年のハーグ密使事件の際には、高宗皇帝譲位運動を展開、高宗を退位に追い込んだ。同年、李完用内閣が成立すると、農商工部大臣・内相を勤めながら、「韓日合邦を要求する声明書」を曾禰荒助(そね・あらすけ)統監、李完用首相に提出した。併合後は、日本政府から朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院顧問になり、後に伯爵となった。没後に正三位勲一等を追贈された(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%A7%89%E7%95%AF)。

(5) 尹致昊(一八六五~一九四五年)は、李氏朝鮮末期の政治家。韓国併合後に男爵(朝鮮貴族)・貴族院議員。一八八一年、朝鮮初の日本留学生(慶應義塾に留学)。帰国後、甲申政変に開化派として参加するが、開化派が敗北すると上海に逃れた後に米国に留学。上海滞在時にメソジストの洗礼を受けたが、米国留学時に苛酷な人種差別を受けたと言われている。帰国後、一八九六年に独立協会(Tongnip Hyeophoe)を結成。『独立新聞』(Tongnip Sinmun)を創刊し、朝鮮人による自力の近代化を説いた。やがて政権に迎えられ、第一次日韓協約締結時には外部大臣署理を務めた。韓国併合後、一九一一年に一〇五人事件(本稿、注9、参照)の首謀者として起訴され、男爵位を剥奪されるが、一九一五年に親日派に転向して釈放される。三・一独立運動が勃発した際にも「もし弱者が強者に対して無鉄砲に食って掛かったら強者の怒りを買って結局弱者自体に累が及ぶ」と否定的なコメントを残している。その一方で熱心なクリスチャンだったため、朝鮮キリスト教界の最高元老としても影響力を保持していた。また、彼の説いた「実力養成論」は後の独立運動家にも多大な影響を残し、一方で民族資本家や民族教育機関を育てる契機にもなった。一九四五年の日本の敗戦によって、それまでの親日的姿勢・行為を糾弾されたために自殺した(梁[一九九六]、参照)。


野崎日記(342) 韓国併合(20) 心なき人々(20)

2010-10-27 19:51:07 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 おわりに


 神職の小笠原省三は言った。


 「日本人のあるところ必ず神社あり。神社のあるところまた日本人があった」(小笠原[一九五三]、三ページ)。

  そして、敗戦。一六〇〇社あった海外神社のほとんどが廃絶された。

 「終戦と共に暴民の襲撃を真っ先に被ったものも亦神社であったことを知らねばならない。・・・社殿は焼かれ財物は略奪された。中には奉仕神職及び家族が殉職した神社もある。・・・海外神社は遂に壊滅したのである(小笠原[一九五三]、四ページ)。

 朝鮮における日本の神社への強制参拝に対する告発は、数多く出されていた。中でもD・C・ホルトン(Holton)の著作は、連合軍の対日占領政策に大きな影響力を持った(Holton[1943])。占領下の日本の「神道指令」はこの書をテキストにしたものである。

 「神道指令」とは、一九四五年一二月一五日に連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters=GHQ)による「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という覚書のことである。信教の自由、軍国主義の排除、国家神道の廃止が指令された。「大東亜戦争」とか「八紘一宇」の用語も使用禁止になった(http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/kaisetsu/other/shinto_shirei.html)。

 韓国併合前後の東アジアを巡る国際関係を振り返る時、日本を悲惨な壊滅に導いた太平洋戦争は、強引な韓国併合に大きな原因があったことが分かる。歴史は常に複雑な要素を包み込んで進行するものなので、一刀両断的な歴史解釈は危険である。それでも、韓国併合とは何だったのかは問い続けられなければならない重要問題である。何故、強大国・米国に日本が戦争を仕掛けたのかという問いも大事だが、何故、韓国を併合しなければならなかったのかの問いの方がはるかに重大な意味を持つ。韓国を併合したいために清と、そしてロシアと、戦争をした。併合した韓国の利権を守るために、満州、華北をも統治下に置こうとした。当然、列強の反発を買う。

  反発を乗り切るべく、列強間の亀裂を利用した駆け引きに終始したのが当時の日本の外交であった。当然、友人はいなくなってしまった。世界からの冷たい視線に耐える唯一の支えが、「神国日本」という幻想であった。神が常にわが日本の危機を救ってくれるという逃避的思い込みに、権力者も多くの市井の人も耽溺していた。当時、隣国・韓国の歴史・文化・心を真剣に学ぼうとする日本人は少なかった。時代への抗議の文は、非常に少ない。

 日本人は、文化を伝えてくれた師たちを輩出してきた地、私たちの父祖の地の人々の心をついにつかめなかった。日本の権力者を批判することはたやすい。しかし、彼らを権力の座に押し上げたのは日本の庶民である。韓国併合一〇〇周年。同じことを私たち日本人は繰り返している。

 専門家だけでなく、素人も、自己の生活感覚に基づいて時代に異議申し立てをしなければならない時がある。いま、自分たちが冒してしまった行動に対する自省を言葉にしなければ、私たち日本人はかなりの長期に亘って、歴史の闇に押し込められることになるだろう。

   時代は、私たち日本人に対して苛酷な試練を与えている。こんな大事な時に、「坂の上の雲」?


野崎日記(341) 韓国併合(19) 心なき人々(19)

2010-10-26 19:49:01 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一九二五年、総督府は、崇実カレッジを大学から各種専門学校に格下げした。これに対して、崇実側は、朝鮮初の三年制の農学教科の新設を申請した。

 
そして、一九二八年九月、先述のマッカンが学長になった。一九三一年には農学部の新設が許可された。しかし、マッカン校長が退去させられた後、一九三六年、米国北部長老教会の宣教本部(mission headquarters)が、総督府の宗教政策に反対して同会が運営する学校閉鎖を決定した。一九三八年三月、崇実校は、最後の卒業生を送り出して閉校となった。総督府による神社参拝に強力に反抗し続けていた崇実校も、三九年の歴史を閉じたのである(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。

 北部米国長老派の朝鮮における学校閉鎖の決定を受けて、南部長老派も、一九三七年九月、同じく朝鮮における学校を閉鎖した。

 しかし、ミッション系の学校教育を完全に閉じてしまっていいのかとの論争がクリスチャンの間で闘わされた。一九三七年、朝鮮のメソジストは神道祭礼に形式的に参加することによって、学校を残す方針を採った。その方針は、翌、一九三八年六月、本国の伝道本部の承認を得た。神社参拝は信仰のためではなく、愛国的表現であるとの総督府の言い分を認めたのである。ただし、この方針は、朝鮮人の愛国心を逆撫でするものであった(Copplestone[1973], p. 1196)。

 メソジストよりも強硬派であった長老派に対しては、総督府は、猛烈な弾圧を加えた。一九三八年の韓国長老派教会総会は、日本の官憲の厳しい監視下で開催された。しかし、こともあろうに、そこで、神社参拝が決議されてしまったのである。反対意見を陳述できる雰囲気ではなかった。それは、韓国併合条約調印が武力による威圧下で実施された時の状況と同じであった(Blair & Hunt[1977], pp. 92-95)。

 融和的な姿勢を取っていた韓国メソジスト教会は自主規制策として、一九四〇年末、反日的・親米的傾向を持つ牧師たちを休職させ、一九四四年には旧約聖書と「ヨハネ黙示録」(Revelations of St. John)を禁書とした。それが政治的な破壊活動に資する恐れがあるというのが理由であった(Sauer[1973], pp. 101-109)。

 他方、一九〇八年のプロテスタント教会間の「棲み分け合意」(Comity Agreement of 1908)によって、朝鮮半島の北部に布教拠点を置くことが決められていた長老派は、半島南部の妥協的なメソジストに反発して、新天地、満州に拠点を移していた(Clark, Donald[1986], p. 13)。それは、ナチス・ドイツに反抗する「告白教会」(Confessing Church, Bekennende Kirche)を彷彿とさせるものであった(12)。

 ところが、朝鮮総督府によるクリスチャン弾圧に対して、日本のクリスチャンは激しい抗議の声を上げることができなかった。愛国心がないと政府から嫌疑を受けて、教会が攻撃されることを恐れていたからである(Best[1966]; Copplestone[1973], p. 1197)。一八九一年に起きた内村鑑三の不敬事件についても(13)、日本のクリスチャンたちが激しい抗議を示さなかったのも、当局によるキリスト教会への弾圧を恐れたからであった(Caldarola[1979], p. 169)。

野崎日記(340) 韓国併合100年(18) 心なき人々(18)

2010-10-25 19:44:00 | 野崎日記(新しい世界秩序)

  八 神社参拝を拒否した朝鮮のミッション・スクール

 こうした日本の権力者による内鮮化政策には、キリスト教宣教師たちが、当然だが、反対していた。一九二四年一〇月、中清南道(Chungcheongnam-do)江景(Ganggyeong)普通学校で神社参拝が問題となった。これを『東亜日報』が一九二五年三月一八日・一九日に「強制参拝」問題というタイトルの記事を掲載し、教育現場における神社への強制参拝を批判した。ただし、まだこの時点では、朝鮮総督は、宣教師の批判をあまり気にしていなかった(韓[一九八八]、一六〇~六二ページ)。

 神社参拝を拒否するミッション・スクールと宣教師たちの職を奪うという大弾圧が恒常的に行われるようになったのは、一九三〇年代に入ってからであった。平壌(Pyeongyang)にあった朝鮮における最初のミッション系四年制大学であった元、連合崇実(Soongsil)カレッジ(Union Christian College=戦後は崇実大学=SSUとして復帰)で、当時は専門学校に格下げさせられていた崇実学校の校長・ジョージ・マッカン(George S. McCune)博士が一九三五年に朝鮮から退去させられた(Grayson[1993], p. 20)。

 この連合崇実カレッジは、韓国・朝鮮におけるミッション・スクールとしては最大の成功例であった。これは、韓国における二大プロテスタントの長老派とメソジストの共同事業であったからでもある。韓国の布教活動で大きな足跡を残したウィリアム・ベアード(William M. Baird)が創設した。米国インディアナ州出身(一八六二年生まれ)のベアードは、米国北部長老派教会(Northern Presbyterian Church of America)の宣教師として、一八九一年九月、釜山(Busan)に上陸し、自宅で教育を始めた(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。一八九七年、平壌に移り、そこでも、自宅で教育した。これを舎廊房(Sarangbang、サランバン)教室(Class)という。「サランバン」とは、韓国語で「主人の居間を兼ねた客間のこと」であり、また、「サラン」は「愛」を指す言葉である(http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/526225.html)。これが一九〇一年一〇月に平壌における長老派の学校、四年制の高等学校、崇実学堂(Soongsil Hakdang)に結実する。「崇実」とは、SSUのウェブ・サイトによれば、「真実と尊厳の祈り」(worship of the truth and integrity)を意味する。それは科学的な心理と成熟した敬虔な精神を目標としていると説明されている(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。ベアードは、学校は単なる慈善事業ではなく、完全に教会の基盤の上で運営されること、つまり、クリスチャン養成を使命としていた(李省展[二〇〇六]、六四~六五ページ)。

 一九〇五年、崇実学堂は、崇実高校(Soongsil Junior High School)と崇実カレッジ(Soongsil College)に分離した。そして、一九〇六年、メソジストの宣教師がカレッジの運営に加わり、カレッジは、一九〇八年に上述の連合崇実カレッジと呼ばれるようになった。連合(Union)という名称があるのは、長老派とメソジストとが合同でこのカレッジを運営したからである(11)。

 二〇世紀に入って、プロテスタントを中心とするキリスト教の教会一致運動が、欧米で起こった。これをエキュメニカル運動(Ecumenical Movement)といい、「世界教会一致運動」と訳される。キリスト教の超教派による対話と和解を目指す主義をエキュメニズム(Ecumenism、世界教会主義)という。

 そして、一九一二年三月、朝鮮総督府はこのカレッジを正式に認可した。朝鮮初の正式認可されたカレッジであった。同時に、このカレッジの運営に、北部伝道本部だけでなく、北米南部長老派教会伝道本部(Southern Presbyterian Church Mission of North of America)も 加わることになった。

 しかし、崇実学堂は、民主主義、民族独立、革新の三原則の維持を標榜して、総督府に対立していた。そのために、正式に認可されたとはいえ、常に当局の監視下にさらされていた。一九一二年という認可されたまさにその時に、いわゆる一〇五人事件の嫌疑で多くの学生・教師が総督府に拘束された(本稿、注9、参照)。

 戦闘的な長老派と袂を分かつべく、メソジストは、一九一四年に同校の運営から身を引いた(李省展[二〇〇六]、一三五~三六ページ)。

 一九一九年の三・一独立運動にも、このカレッジの全校生徒が参加し、教師と生徒の多くが拘束されることになった。


野崎日記(339) 韓国併合100年(17) 心なき人々(17)

2010-10-24 19:39:48 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 民間レベルではなく、国家が全面的に普及に乗り出したのが国家神道である。国家神道は、宗教の上位に置く一種の国教的な色彩を持つものであった(佐木[一九七二]、二七〇ページ)。大日本帝国憲法では文面上は信教の自由が明記されていたが、政府は、上述のように、神道は宗教ではない(神社非宗教論)という解釈を押し通し、官幣社は内務省神社局が所管し、新たな官幣社の造営には公金が投入された。村社以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行われた。神道を梃子とする内鮮一体化の試みがが本格化したのである。

 「海外神社」という用語を創った小笠原省三は、率直に米国からの宣教師の活動が朝鮮人の反日感情を増幅しているとして、神道の朝鮮への導入を本格化すべきであると主張していた。そのためにも、「日鮮同祖論」による「内鮮融和」が必要だと説いた。そして、小笠原は、排日移民法を成立させた米国を「醜悪なヤンキーイズム」と侮蔑していた(小笠原[一九二五]、菅[二〇〇四]、一五五ページ)。

 「内鮮一体化」は、一九三〇年代に入って日本の支配層の主たるイデオロギーになった。とくに、一九三五年一月一六日、当時の朝鮮総督・宇垣一成(うがき・かずしげ)は「心田開発」という新造語によって、朝鮮人に、心の田を開発する運動を展開することを呼びかけた。物的生活の向上も大事だが、精神的な豊かさを持つことも大事である。物心両面において安心立命の境地に立って、半島は初めて楽園になるという、まことに得て勝手な思いつき論を臆面もなく現実の政策として実現させたのである。宇垣の命によって、一年後の一九三六年一月一五日、「心田開発委員会」が設置された。この委員会が神社への強制参拝の推進者になったのである(菅[二〇〇四]、一七四~七五ページ)。

 さらに、一九三八年四月、朝鮮総督・南次郎が、「内鮮一体化」を口実として、廬溝橋事件(一九三七年七月七日、七七事変=Qi Qi Shibian)一周年の一九三八年七月七日、「国民精神総動員朝鮮連盟」を結成した。この連盟は、各団体ごとに神社に強制参拝させる大きな力を発揮した(菅[二〇〇四]、一八七ページ)。

 御神体などが祀られている祠(ほこら)や社(やしろ)など、神道の形式に則って御神体が祀られている施設を神祠(しんし)というが、この神祠が、一九三九年以降、猛烈な勢いで朝鮮で創設された。菅が引用している資料によれば(菅[二〇〇四]、一八六ページ。原資料は、『朝鮮総督府官報』、韓国学文献研究所覆刻版、彙報欄)、一九一七~一九二六年までに創設された神祠は七〇であったのに、一九二七~一九三六の次の一〇年間には、一八二になった。その後、加速度的に増え、日中戦争に突入して行く時代になると、一九三九~一九四一年のわずか三年間で四五五も設立されたのである。如何に日本の権力者が、神道による内鮮一体化に血道を上げていたかが、この数値によって窺い知ることができる。

 当時、日本の権力者たちが重用していた日本の知性は、こうした精神総動員運動を賛美していた。例えば、柳田国男は書いた。

 「日本の二千六百年は、ほとんど一続きの移住拓殖の歴史だったと言ってもよい。最近の北海道・樺太・台湾・朝鮮の経営に至るまで、つねに隅々の空野に分かち送って、新たなる村を創出せしめる努力があったことは、ことごとく記録の上で証明せられてゐる。神をミテグラによって迎え奉ることがもしできなかったら、どのくらい我々の生活は寂しかったかも知れない。だから今でもその心持ちが、朝鮮神社となり、また北満神社となって展開しているのである」(柳田[一九四二]、八七~八八ページ)。

 ここで、「ミテグラ」と呼ばれているものは、「幣帛」と書く玉串のことであり、榊(さかき)に紙垂(かみしで)をつけて神に捧げるための供え物で、神への恭順の心を表し、神とのつながりを確認するためのものである。紙垂は神の衣を、榊は神の繁栄を表す象徴である。柳田は、朝鮮神宮に対して無邪気に高い評価を与えているのである。