消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 86 琉球処分

2007-03-31 23:41:13 | 言霊(福井日記)

 フリー百科事典『ウィキペディア』の「沖縄の歴史」は素晴らしい記述である。非専門家による自由な書き込みが、専門家だけによる歴史書を上回った好例である。

 「沖縄とは、琉球に対する日本本土側の呼称。琉球処分後、日本の領土であることを明確化するため、琉球から沖縄に呼称が改められ、今日では一般化している」という叙述にまず圧倒される。さらに続く。「古来中国では沖縄を『大琉球』、台湾を『小琉球』と呼称していたため、両者が史書等で混同されることも多かった」と。

 ウィキペディアは、沖縄の呼称の出典として、伊波普猷の後継者、東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)、『南島風土記』沖縄文化協会・沖縄財団、1950年、16ページ、「地名『概説『沖縄』」を明記している。

 7世紀の中国の『隋書』に「流求」という表記がある。唐の『新唐書』で「流鬼」、『元書』で「瑠求」と書かれていた。そして、明時代になっていまの「琉球」の文字が見える。ただし、ここでの琉球がいまの沖縄を指すのかは分かっていない。

 14世紀、明と貿易する沖縄の王府が、自らを「琉球国」と呼称した。
 日本本土側では、鑑真の伝記、『唐大和上東征伝』(779年)に、「阿児奈波」という言葉が見られる。おそらく、いまの沖縄のことなのだろう。「沖縄」という文字は、新井白石が最初に使ったと言われている。『南島誌』(1719年)においてである。『平家物語』(長門本)にある「おきなは」の言葉に「沖縄」の字を白石が当てたとされている。平家物語には、読み本、語り本ごとに、いくつもの編纂本があり、長門本を白石が利用したものと思われる。

 1879(明治12)年、明治政府は、1872(明治5)年の琉球王国廃止・琉球藩設置を改め、琉球藩を廃して、沖縄県に編成替えした。この時、日本の中央政府が、「沖縄」という呼称を初めて用いたのである。

 沖縄の統一政府は、1429年、尚巴志(しょうはし)が首里城を王都にした時から始まる。

 
第6代尚泰久(しょう・たいきゅう、1453~60年在位)
は、それまで島であった那覇と本島を結ぶ長虹堤を建設した。この工事を円滑に遂行すべく、日本から天照大神を柱とする沖縄初の本土型神社「長寿宮」を建立し(1451年)、以後、「波之上宮」等の琉球8社を建立した。

 さらに、貿易立国を宣言する万国津梁之鐘を鋳造した。1470年に尚泰久の重臣、金丸(後の尚円王)が即位するまでを第一尚氏王統時代という。

 1470年に開始された、第二尚氏王統は、1477年に王位についた真嘉戸樽(まかとたる)時代に最盛期を迎える。この王は、第3代・尚真王(しょうしんおう、在位1465~1526年)として、活発な交易を行った。福建(福州)に拠点を置き、明との交易にいそしんだ。北方民族との戦に忙しい明に火薬の原料である硫黄や軍馬を輸出していた。

 この王は、女官が王と殉死する習慣を廃止、御獄信仰を中心とした宗教を整備した。御獄とは、地域によって異なるが、「うがん」、「おがん」、「うたき」などと呼ばれる島の聖地として、人々の信仰の場所、祭祀が行われる場所になっている。御獄の中には、お祭り以外は立ち入ることが禁止されていたり、木を切ったり、石を拾うことなども禁止されている箇所もある(美(ちゅら島物語、http://www.churashima.net/shima/hatoma/f_hatoma/1.html)。 尚真王は、刀狩りもしている。

 1609年、琉球は、薩摩藩の侵攻を受け、その支配下に入る。1610年、第二尚氏第7代尚寧は、薩摩藩主・島津忠恒(しまづ・ただつね)に伴われて徳川家康、秀忠に謁見、翌年、尚寧は、琉球に戻され、島津へ忠誠を誓う起請文を提出させられた

「掟十五条」によって、琉球貿易は薩摩藩の監督下に置かれることになった。王朝は薩摩への朝貢を義務づけられた。そうした重圧の下、琉球は、先島諸島の住民に人頭税を課すようになった。鎖国時代、薩摩藩は、琉球が行っている貿易の利益を搾取して潤った。

 そして、明治政府になって、いわゆる「琉球処分」が行われた。
 
1871(明治4)年、全国で廃藩置県を実施した明治政府は、1872(明治5)年、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。王府を日本の領土とする藩に変えたのである。これに清が反発。琉球は清領であると抗議。これに対して、明治政府は台湾出兵を行って対抗した(1874(明治7)年)。台湾人が琉球漁民を殺害したことへの報復、つまり、日本人殺害の報復という体裁を取ったものである。そして、1879(明治12)年、明治政府は、軍隊を琉球に派遣して、琉球藩を廃止して、鹿児島県に編入した。

 さらに、同年、沖縄県を設置、島民の抵抗を退けて、琉球を滅亡させた。この抵抗の中では、「サンシー事件」が有名である(後述)。琉球藩設置(王府廃止)から沖縄県設置までを「琉球処分」と島民は名付ける。琉球藩設置を「第一次琉球処分」、沖縄県設置を「第二次琉球処分」と区分している。

 清は、この処分に猛反発した。明治政府は、沖縄県設置の翌年、1880(明治13)年、先島諸島を清に割譲すると申し出た。しかし、一旦合意していた清が態度を変えて、その条約に調印せず、結局は、1894(明治27)年の日清戦争で、清は琉球の領有権を日本に認めさせられた。清が合意を翻した背景には、清にお亡命していた宮古・八重島島民の懇願が効をを奏したとも言われている(西里喜行、「琉球処分の前後」、『島のうつりかわり』、
www.napcoti.com/text/history/uturikawari.htm)。

 先島諸島は、明治政府には、島民の反抗にとって頭痛の種であった。とくに、人頭税廃止を求める島民決起集会が宮古島で開催され、1890年代に近代的法制を求める運動が高揚した(沖縄の歴史、ウィキペディア)。

 明治政府は、沖縄県の自治をほとんど認めていなかった。1888(明治21)年、本土では、地方自治を認める市制・町村制が施行されたのに、1889(明治22)年の勅令第1号によって、島嶼地域は、自治が認められず、県の支配下で、島庁が設置されることになった。

 沖縄でも、1896(明治29)年の勅令第13号「沖縄県ノ郡編成ニ関する件」によって、国頭(くにがみ)郡、島尻(しまじり)郡、中頭(なかがみ)郡、宮古郡、八重山郡の5つの郡が設置され、宮古郡と八重山郡には島庁と、その長である島司という職制が置かれた。島の自治など、はなから無視され、県の直接統治となったのである。また、那覇市の前身である那覇区、首里市の前身である首里区が置かれた。

 1907(明治40)年の勅令第46号は、沖縄に他の島嶼地域と同じく、「沖縄県及島嶼町村制」が示され、翌年の1908(明治41)年、それまでの間切(まぎり)が廃止された。

 間切というのは、琉球王国時代の行政区分の1つで、現在の市町村に相当するものであった。例えば、八重山諸島では、大浜間切、宮良間切、石垣間切の3つがあった。これらが、統合されて、八重山村になった。

 しかし、八重山諸島全体を1村にしたことはかえって不便を生じ、1914(大正3)年、八重山村は、石垣、大浜、竹富、与那国の4か村に分割された。この年、新たに誕生した竹富村の役場は竹富島に置かれていた。

 以後、24年間、竹富島が村行政の中心として機能していたが、竹富村に属する他の島々から交通が不便であるとの苦情が生じ、1938(昭和13)年、役場を石垣島の石垣町登野城に移転させた。いまでも、竹島町に属する島々(人が住む8つの島)に行くには、一旦、石垣島に渡る必要がある。

 1920(大正9)年、島嶼指定が解除され、本土なみの町村制が施行された(島嶼町村制、間切、ウィキペディア)。
 島の発展など、中央政府は意識していなかったのである。

本山美彦 福井日記 85 島の方言撲滅運動

2007-03-30 00:08:16 | 言霊(福井日記)

 沖縄学の創始者は、伊波普猷(いは・ふゆう)である。しかし、本当の創始者としての栄誉は、伊波の中学校時代の国語教師、田島利三郎に捧げられなければならない。田島先生がいなければ、沖縄学の伊波は生まれなかったかも知れないからである。

 1893(明治26)年、新潟県出身の田島先生は、沖縄に赴任した。琉球で師範学校の教師をしていた友人から、誰も研究していない琉球語の本が50冊ほどあるとの話を聞いたからである。先生の沖縄中学校時代の教え子に伊波普猷がいた。

 田島先生は、1900(明治32)年、「琉球語研究資料」を雑誌『国光』臨時増刊号付録に発表した。この論文は、はるか後に、『琉球文学研究』(第一書房)として1989(平成元)年に改題出版され、琉球文学研究の必読文献なっている(嘉手苅千鶴子、「21世紀の琉球文学研究」(http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/kyogikai/no43-p01.htm)。

 田島先生は、『おもろさうし』を研究した。これは、首里王府で編纂されていた神歌集である。「おもろ」とは、神、王、英雄、自然を歌ったものを指す。

 本土から赴任した中学教師の多くが沖縄の文化に差別感をもっていたが、田島先生は違った。生徒たちに沖縄文化のすばらしさを訴えていた。ところが、先に紹介した校長の児玉喜八が、生徒の前で、「皆さんは、標準語さえまともに話せないのに、英語まで勉強しなければならないのは気の毒だ」と語り、英語の授業をなくそうとした。それに反対した下国良之助・教頭と田島先生を校長は罷免しようとした。

 そこで、漢那や伊波が、校長追放運動に立ち上がったのである。戦いは学生側の勝利に終わったが、伊波は退学処分を受けた。1895(明治28)年のことであった。

 そこで、翌年の1896(明治29)年、上京し、明治義会中学に編入学、1897(明治30)年に卒業、3年のブランクを経て、1900(明治33)年、京都の第三高等学校に入学、1903(明治36)年、東京帝国大学文学科言語学専修課程に入学した。

 東京で、田島先生に再会し、強く沖縄研究を勧められた。政治家になろうとしていた伊波は、田島先生の沖縄への強い愛着に感動して、言語学の道に進路を変更したのである。「沖縄を知るには、まず古い言葉が分からなければならない」ことに気付いたからである(「沖縄県立図書館広報」、http://rca.open.ed.jp/city-2001/person/08iha/08iha_1.html)。

 伊波普猷は、1876(明治9)年、那覇市西村に生まれた。伊波3歳の時、1879(明治12)年に廃琉置県が行われている。琉球の帰属が日本になったことに清国政府が抗議し、それを受けて、なんと日本国政府は、翌年の1880(明治13)年に、宮古・八重島諸島、つまり、先島(さきじま)諸島を清国領とするという分割案を提出している。最終的には、日本は武力行使でこれら諸島を日本領とした。

 第二次世界大戦終結近くの1945(昭和20)年、米国のルーズベルト大統領が中国の蒋介石に、日本が敗戦すれば、沖縄を中国に帰属させようかと打診したとも言われている。

 ここで、日本の南西諸島の呼び名を紹介しておこう。
 
南西諸島は、九州の南方から台湾の東方にかけて点在する諸島の総称である。北から南へ、大隅諸島、トカラ列島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古列島、八重島列島、尖閣諸島、少し離れて大東列島がある。学術的に確立した呼称はないのだが、一般には、鹿児島県に属する諸島が薩南諸島、沖縄県に属する諸島が琉球諸島と呼ばれている。琉球諸島には、沖縄諸島、先島諸島、大東列島が含まれる。先島諸島は、宮古列島、八重島列島、尖閣諸島から成る。

 この八重島列島から、石垣島、与那国島、尖閣諸島を除く諸島が竹富町である。この町に属する主な島々は、西表(いりおもて)島、竹富(たけとみ)島、小浜(こはま)島、黒(くろ)島、波照間(はてるま)島、鳩間(はとま)島である。後に紹介するが、竹富町の役場は、なんとこれら諸島ではなく、石垣島に置かれている。つまり、自己の島々の外に役場がある。1938(昭和15)年に、竹富島に置かれていた竹富村役場が石垣島の石垣町に移転したのである。そして、1948(昭和23)年7月1日に竹富町になった(ウィキペディア、竹富町)。

 話を戻そう。
 1903(明治36)年、200年続いた人頭税がようやく廃止された。日本国政府は、琉球王朝を廃止したのに、その後、24年間も人頭税を沖縄に課していたのである。これだけでも、沖縄が本土によっていかに差別・搾取されていたかが分かるだろう。島民は芋ばかり食していた。裸足の生活であった。台湾に出稼ぎに出る島民が多かった。ここで、島民の芋にまつわる哀しいエピソードを紹介しておこう。

 1921(大正10)年、第一次世界大戦後の欧州の復興を学ぶべく、皇太子時代の昭和天皇の欧州外遊が決まった。皇太子が乗る船は「御召艦」と呼ばれた。この御召艦が、「香取」で、漢那憲和(当時海軍大佐)が艦長であった。漢那は貞明皇后に、外遊の途中、沖縄に寄港していただけないかと懇願した。皇后は賛成し、皇太子も快諾した。同年、3月3日、艦隊は横浜港から出発し、3月6日、沖縄の中城(なかぐすく)湾に入港投錨した。

 中城湾一帯は、景観に恵まれ、古くは貝塚時代(約3,500年前)から人が住みついていた。琉球王朝時代の中城間切(まぎり、琉球王朝の行政区域で、いまの村に当たる、後述)には、護佐丸や中城城などの歴史を彩る人物や史跡が登場し、琉歌にも、

 「とよむ中城 吉の浦のお月 みかけ照りわたりて さびやねさみ」
 とある。

 現代語に訳せば、「世に名高い中城城から、吉の浦を眺めると、月が美しく照り渡り、何と平和なことか、災いなどあろうはずがない」となる。

 1853(嘉永6)年、黒船でペリー提督一行が沖縄に立ち寄った際、中城城を測量し「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべき構造のものであった」と『日本遠征記』に記されている。琉球石灰岩を使った城壁は、沖縄では唯一完全に近い形で残された貴重な遺跡で、1972年5月に国の史跡に指定されていて、いまは世界遺産にも登録されている。

 申し訳ない。再度、横道に逸れる。
 上に記した護佐丸(????年~1458年)というのは、護佐丸盛春(ごさまる・せいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)のことである。15世紀の琉球の按司(あじ、宮家のこと)で、恩納村(おんなむら)出身である。

 中山(ちゅうざん)王尚泰久(しょうたいきゅう)(琉球王府)を脅かし始めた勝連城(かつれんぐすく)城主の阿麻和利(あまわり)の侵攻に備えて、護佐丸は中城城の兵力を増強していた。ある日、阿麻和利は変装して首里城に登り、「護佐丸が謀反を企てている」と王に讒言した。王は阿麻和利の言を信じ、中城城攻略を阿麻和利に命じた。1458年8月15日の夜、護佐丸が月見の宴の最中に、阿麻和利は王府の旗を揚げて中城城を攻撃した。王府への忠誠心に篤かった護佐丸は手向かうことができず、幼児だった三男の盛親のみを乳母に託して落ち延びさせ、妻子もろとも自決した。その阿麻和利も、その後には結局、王府軍に攻められて滅びてしまった。この乱は、後に「組踊り」などの題材にも取り上げられ、2005(平成)7年に開催された第一回中城城祭りにおいて、中城村の伝統芸能である組踊「護佐丸」が52年ぶりに上演された(http://www.vill.nakagusuku.okinawa.jp/content/castle/index.html)。

 組踊りとは『音楽、舞踊、台詞で構成される音楽劇』である。沖縄に古くから伝わる伝統芸能で、日本本土でいうところの能や歌舞伎のようなものである。実際にこれらの影響を強く受けている。それでも、音楽は沖縄の三絃(さんげん)を中心としたもの、舞踊は琉球舞踊、台詞も沖縄の言葉を使い、物語の構成なども独特で日本本土の芸能とはかなり雰囲気が違っている。今、100位の作品が確認されている。沖縄各地域の歴史や言い伝えなどを題材にしていて、とくに仇討ち物が数多くある。出演者は、最初に演じられた琉球王国時代はすべて男性であった。現在でもやはり男性が多いが、女性役などを女性が演じたりすることもある。逆に箏の演奏者は圧倒的に女性である。組踊りは、国指定の重要無形文化財に指定されていて、その技能保持者やそれに続く技能伝承者の公演が年に一回行われる。その他には不定期でいろいろな団体やグループ単位での公演が行われている(http://www2.odn.ne.jp/kanimachi/kumi/kumi-f.html)。

 さて、また、元に戻ろう。
 皇太子一行は、与那原(よなばる)駅から那覇駅まで列車で、那覇駅から人力車で沖縄県庁に向かうことになった。人力車の車夫選定は、一行到着の2、3か月から行われた。当時、沖縄本島には、900名ほどの車夫がいたと言われている。皇太子を乗せる人力車の車夫には、玉城という人が選ばれ、人力車の後押しとして、在郷軍人で金鵄勲章(きんしくんしょう、戦前の日本において大日本帝国陸軍・海軍の軍人、軍属に対してのみ授与された唯一の勲章。名前の由来は神武天皇の東征における伝説に基づく)を受けた2名が選ばれた。

 ここからが、哀しいエピソードである。当時の島民の多くは3食ともに芋であった。芋は「おなら」(屁)を作り易い。皇太子におならを放(ひ)ることは不敬に当たるとして、車夫たちは、県庁内での2週間に及ぶ合宿生活で、芋食ではなく米食を与えられた。県庁で、皇太子は有位有勲者から拝謁された。その中には、漢那の母、オトもいた。車夫の玉城は、一躍人気者になり、那覇港築港の現場監督に抜擢された。

 漢那憲和は、次のように記した。
 「余は、青春時代の羨望の的であった帝国海軍の将校として、今や郷国の海湾に、我が日本帝国のお若い殿下のお召艦『香取』を浮かべる時期に遭遇しては、感慨の尽きるところを知らなかった。しかも、そこには余を少年時代より、か弱き女の手塩をかけて育て上げた余の母が待っていたのである。思えば涙の滂沱(ぼうだ、涙がとめどなく流れるさま)たるものがあった」(「沖縄に軍艦旗ひるがえる、『沖縄』に尽瘁した漢那憲和の献身」、http://navy75.web.infoseek.co.jp/return8kanna.htm)。

 廃藩置県(1879、明治12年)から10年後の1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布され、形の上では、島民も琉球人から日本人になった。

 
永年、日本と中国の両国に帰属することを余儀なくされ、台湾と往来していた南の島民にとって、人為的に作られた、国とか国民といった概念は迷惑なことであっただろう。

 にもかわらず、強引な本土化が進められた。尋常小学校では、島言葉が禁止された。「方言絶滅運動」が本気で展開されたのである。方言を使えば、小学生は、「方言札」をつけさせられた。標準語を話すようになるとその札は外された。子供たちに言葉上の差別意識をそれは植え付けた。本土言葉を話す子供が、島言葉しか話せない子供を露骨に馬鹿にするようになった。

 現在でも、米国支配層の後押しで高い地位を得た権力指向者たちが、英語の使用を義務づけたがるのもこれと同じ精神構造である。

 
ちなみに、プロ野球で阪神フアンや、広島フアンが熱狂的にフアンになったのも、これら両球団の選手たちが、アンチ巨人意識でもって、大阪弁、広島弁を使おうとするからである。

 明治、大正、昭和の初期、島の娘たちは、台湾総督府のある台北に働きに出された。琉球人の下働き娘は「ねえや」と呼ばれ、本土からきた「ばあや」に監督されていた。「ねえや」の下に中国人、その下に朝鮮人、そして最下層に現地の台湾人がいた。差別は当たり前の時代であった(みやら雪朗、「天(ていん)ぬ群星(むるぶし)や数(ゆ)みば数(ゆ)まりしが―私の『親守歌』をめぐる数々の歌―」、『星砂(ほしずな)の島』第10号、特集・伝統文化と経済、全国竹富文化協会、平成18年8月、54~57ページ)。

本山美彦 福井日記 84  漢那憲和

2007-03-29 01:33:38 | 言霊(福井日記)
 
 最近、若者の人気スポット、沖縄県の竹富島が、観光メッカとして旅行業者によって、喧伝されている。観光客が増えることは、離島にとって結構なことである。

 しかし、あまりにも派手派手しく、もて囃されていることに、私は、かなりの危惧感を抱く。

 確かに、すばらしい景色である。後に激賞する積もりであるが、日本で忘れられつつある、人のつながり(結い)が、この島には残っている。

  しかし、いまの観光ブームには、この島の文化と歴史への配慮がない。レジャーのみに傾斜する観光ブームが、日本全体が、ミーハー的に流されてしまうのではないかと、私は、恐ろしくなる。

 事実、NHK連続ドラマ「ちゅらさんで有名になった小浜島には、広大なゴルフ場がオープンしている。贅を尽くしたクラブハウスが広大な敷地に配置されてしまった。

 僻地化の恐怖が、観光ブームによって解消されていることは本当に喜ばしい。しかし、この島に群がる若者たちが、精霊と共存するこの島の心の深さにまったく気づかずに、赤瓦、水牛行脚、星砂の旅を満喫し、「楽しかった」の一言で、にこにこと、帰宅する状況は、いまの日本の象徴のように私には思われる。

 今回から、言霊の連載を行い、フィールドとして竹富島を選ぶ。
 
その最初からぼやきを出す自らの精神の卑しさに自己嫌悪しながらも、あえて、私の悲しさの吐露から連載を始める。

 沖縄学の父、伊波普猷(いなみ・ふゆう、1876(明治9)~1947(昭和22)年の墓が、沖縄本島、浦添城跡に建てられている。その墓碑銘として、沖縄の人文・社会学を樹立した東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん、1882(明治15)年~1963(昭和38)年)が記している。

 「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛した為に憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」(ウィキペディア、伊波普猷)。

 この悲しみをどれだけの人が共有しているのであろうか。劣等感と優越感、差別と被差別、辺境と中央、脱出した誇りと嫌悪、こうした悲喜こもごもの感情を誰が共有しているのだろうか。つまり、沖縄の、しかも離島の屈折した感情を理解する観光客はどのくらいいるのだろうか。

 彼が3歳の時、つまり、1879(明治12)年、廃藩置県によって、沖縄県が設置された。彼は、現在の沖縄県立首里高校である沖縄県尋常中学校(第一中学)時代の1895(明治28)年ストライキ事件の指導者の一人として退学処分を受けた。このときの首謀者が漢那憲和(かんな・けんわ)であった。

 伊波普猷を紹介する前に、彼の生涯に巨大な影響を与えた、漢那憲和について書いておきたい。伊波の青春に強烈な影響を与えた傑物だからである。

  漢那は、1877(明治10)年に那覇で生まれた。漢那という文字を見れば分かるように、この姓は、琉球北部の漢那地区の地名を採ったものである。彼の祖先は、中国と薩摩間の交易で財をなし、その財で薩摩藩の士族の位を買い、漢那地区の地頭を務めた。父、憲慎は、琉球王府の税官吏であった。当時としては、この役職は高級官吏のものであった。

 しかし、1879(明治12)年の廃藩置県によって、琉球は沖縄県になり、父は失職した。憲和の母が、茶の行商をして、父に代わって家計を支えた。子供は2人で、長男の憲和5歳、弟の憲三3歳の時、父が結核で死亡した。母はまだ24歳であった。

 腕白であった。成績は図抜けてよく、2年も飛び級した。沖縄中学では、入学者中最年少で、首席、学費免除の特待生であった。

 琉球は、明治維新までは、日中両国に従属していた。1873(明治6)年、明治政府は、台湾に侵攻、琉球を日本領として中国に認めさせた。

 この中学時代に、明治政府の元老院議員を務め、後に日本赤十字の創設者(博愛社)となった佐野常民の息子で、戦艦、松島に乗っていた士官の佐野常羽と、彼は、その船で遭った。ボートで訪問したのである。後の海軍に入隊する決心がこのときにできたと言われている。

 憲和は、中学生のボスであった。1895(明治22)年11月、沖縄中学でストライキを指導する。憲和が、まだ3年生なのに、学生会長であった。沖縄で生じた初めての学生ストライキであった。

 当時の沖縄は、沖縄師範学校と、沖縄中学の2つしかなかった。この2つの学校の校長を兼任していたのが、児玉喜八であった。この校長が、沖縄への差別教育を行おうとしたのである。沖縄の本土同化を図るべく、英語教育を廃し、日本国語のみにしょうとしたこと、それに反対した下国教頭(日本で初めて修学旅行をさせた人、旅行先は京都・大阪。貧乏な憲和の旅費を出してやった)の休職処分、沖縄文化の教育に熱心であった田島利三郎教諭を罷免しようとした。

 漢那憲和は、下国教頭と田島教諭に迷惑がかからないように、退学届けを出して、校長排斥運動を起こした。3年生以上の全員が、彼に同調して、退学届けを出すことになった。さらに、1、2年生もその後、参加することになった。結果的に、退学届けを出したのは、総勢100数十名にも上った。学校当局は父兄を呼び出そうとしたが、応じる父兄はいなかったという。沖縄人の心をこのストライキが掻き立てたのである。

 漢那たちは、ストライキ中、民家を拠点として、上級生が下級生の勉強を指導した。そして、県は、校長を更迭した。

 当時の沖縄県知事は、維新の武断派志士、奈良原繁であった。この奈良原が、漢那に惚れ込み、自宅に呼んで海軍兵学校に入ることを勧めた。スト騒動で勉強できていなかったのに、わずか4か月の猛勉で、1896(明治29)年、沖縄出身者として初めて海兵学校に合格した。

 奈良原は、薩摩藩士で、示現流達人であり、寺田屋騒動で、有馬新七以下9名を切り捨てた人である。

 
生麦事件で、英国人を最初に斬りつけたのもこの奈良原である。こうした血塗られた過去をもつが、伊藤博文、松方正義に見込まれ、中央に呼び戻さないことを条件に、沖縄県知事に就任させられた。1892(明治25)年のことであった。奈良原は、「琉球王」として恐れられるほど、苛烈な行政を行ったと言われている。この知事が我が子のように、漢那の出世の梃子入れするようになったのである。

 海軍兵学校を卒業して、遠洋航海の訓練後、漢那は、1902(明治35)年、故郷に立ち寄り、県民の前で演説した。狭い土地の沖縄は海に眼を向けて、海に乗り出そうと青年を鼓舞したという。

 漢那は、海軍大学校を卒業後、出世街道をまっしぐらであった。最後の琉球王、尚泰侯爵の5女、政子と結婚した。漢那33歳、政子18歳であった。廃藩置県によって、琉球王、尚円王統は、19代尚泰で、400年におよぶ歴史を閉じさせられた。この時、尚泰は、公債20万円、現在の都立九段高校が建っている東京飯田町に広大な邸宅を構え、侯爵に列せられた。政子は、学習院女学部卒で、皇后陛下に御前講義した経験もある。

  下種(げす)の勘繰(かんぐり)で恥ずかしいが、王様に使えていた身分の高くない役人であった父をもつ貧乏な子が、出世して、ついに、気高い王様の娘を娶ったという構図に、私には映ってしまう。それこそ、余計なことだが。

 1914(大正3)年、漢那は海軍軍令部参謀、海軍大学校教官になった。教え子には、山本五十六元帥、豊田副武大将、古賀峯一元帥がいる。

 漢那は、1924(大正13)年、まだ48歳の時、予備役に編入させられた。つまり、軍を退役させられたのである。時の海軍大臣は、薩摩出身の財部彪であった。何らかの処分だったのだろう。

 退役後、1927(昭和2)年、沖縄県選出衆議院議員に当選し、以後10年議員を続けた。1946(昭和21)年、敗戦で公職追放、1950(昭和25)年、73歳、肺癌で死去。政子夫人は、1977(昭和52)年、85歳で、逝去。(「沖縄に軍艦旗ひるがえる、『沖縄』に尽瘁した漢那憲和の献身」、http://navy75.web.infoseek.co.jp/return8kanna.htmを参照した)。

 琉球処分、薩摩と沖縄との角逐という興味あるテーマを漢那論で進めることができるのであるが、ここでは、漢那憲和と伊波普猷との接点に注視しておくにとどめた。

本山美彦 福井日記 83  業績連動報酬批判

2007-03-19 23:02:13 | 金融の倫理(福井日記)

 平成19年1月7日、証券取引等監視委員会の勧告に基づき金融庁が、日興コーディアルグループの提出書類に虚偽記載があったとして、証券取引法違反の疑いで、同社に5億円の課徴金支払い命令を出した。平成17年3月期決算の内容が問題にされたのである。

 連結決算の仕方が問題にされたのである。平成16年4月、日興コーディアルの子会社、日興プリンシパル・インベストメンツ(NPI)が、さらにその子会社のNPIホールディングス(NPIH)コールセンター大手のベルシステム24を買収させた。

 その際、NPIHは、買収資金を得るために、EB債という債券をNPIに対して発行した。EB債とは、交換社債(Exchangeable Bond)のことで、他社の株券と交換できるものである。現金で償還するのではなく、他社の株券で償還するという債券である。そして、NPIHが発行したEB債は、買収対象のベルシステム24の株価に連動して価格が決まるという仕組みであった。そして、ベルシステム24の株価が上昇した。その結果、EB債をNPIHから買ったNPIは、利益を得た。

  しかし、売った側のNPHI は、ベルシステム24の株価が上昇した分だけ償還負担が増えるので、損失を抱えることになった。この2つの会社はともに、日興コーディアルグループなのだから、連結決算をすれば、NPIの利益は、NPIHの損失によって相殺され、グループとしては利益が出ないはずであった。

 ところが、日興コーディアルグループは、NPIを連結決算に加えたのに、NPIHは連結から外した。結果的に187億4900万円が過大利益として計上されたのである。あまりにも分かりやすい粉飾決算だったのではないのか。

 しかも、このEB債の評価を高めるべく、発行日を改竄した疑いもある。「株式会社日興コーディアルグループ特別調査委員会」による『調査報告書』(平成19年1月30日)によれば、EB債の発行決議が行われた日を、実際に行われた日ではなく、平成16年8月4日まで遡らせて、交換権行使価格を8月4日のベルシステム24の株価の終値である2万4480円にまで意図的に下げ、9月27日からTOBを実施して、9月末日の株価と交換権行使価格の差額によって算定される評価益を水増しした。

 さらに、ベルシステム24の株式を取得した直後である8月6日にEB債を発行した場合には、9月末までに株価が下落して、巨額の評価損を抱えるリスクがあった。9月下旬まで待ち、そうしたリスクは生じないだろうということが分かり、EBの発行日を後で、8月6日に仕立て上げた疑いがあると調査報告書は記している(同報告、17ページ)。

 日興の旧経営陣側は不正を否定していたが、証券取引等監査委員会が不正を認定、当時の有村純一社長らが引責辞任に追い込まれた。

 それだけではない、日興コーディアルグループは、こうして利益を過大に見せかけた虚偽の決算報告を背景に、平成17年11月、総額500億円の社債を発行した。利益が上がる会社という市場の信頼から、社債は、償還金利を安くしても売れた。

 虚偽の発表をして発行した有価証券の場合、発行額の100分の1が課徴金になるというのが証券取引法の規定である。日興の課徴金が5億円というのもそうした規定による。この虚偽報告については、町田徹氏が、すでに、平成18年2月号の『月刊現代』で指摘していた。

 ここで、問われるべきことは、虚偽報告はもちろんであるが、虚偽報告を行う誘惑に駆られる原因である。そもそも、会社には、実態よりも利益があるとの見せかけをする誘因と、実態よりも利益が上がっていないと見せかける誘因とがある。

 どちらの虚偽の誘因に会社が駆られるのかは、時々の事情による。これまでは、利益の上がった会社が、法人税を支払いたくないために、利益を隠すというのが粉飾決算の一般的な姿であった。

 しかし、近年の、粉飾決算の多くが、見せかけの過大利益を誇示している。ここに、問題の本質が横たわっている。利益が上がれば株価が上がる。株価が上がれば、他社を株式交換で吸収し易くなる。そして、なによりも、経営陣は、ストック・オプションによって、自社株が上がれば自己の報酬を増やせる。

 ここで、なによりも問題にされるべきことは、「業績連動報酬制度」である。会社の業績が上がれば、ストック・オプションだけではなく、経営陣の役員報酬がそのまま増えるという仕組みがそれである。エンロンも、このような粉飾決算によって経営陣が莫大な報酬を得ていたことが糾弾されたのである。

 「誠心誠意」の意味をもつ「コーディアル」の名を冠した日興の経営陣は、エンロンの経営陣と同じ誘惑に駆られていなかったと言えるのだろうか。

 また、今回で信用を失墜させたNPIは、投資先に西部ホールディングスや元ソニーグループの小売り事業などの優良企業が多い。NPIは、自己資金を投じて非上場企業の株式を取得し、企業の株式価値を高めて、数年後に上場や株式の外部への売却によって、利益を得ている会社である。欧米の投資ファンドがこのNPIの買収に意欲を見せているという(asahi.com/0309/)。

 シティグループは確かに世界最大の金融コングロマリットではある。総収益10兆円を超え、収益の40%を海外で稼ぎ出している。しかし、世界最大の個人金融資産をもつ日本では、同グループの利益の10%以下しか稼いでいない。平成16年に金融庁の処分を受けて、中核であった富裕層向け資産管理業務の撤退と消費者金融事業の縮小という失敗を繰り返した日本で、本格的に巻き返そうというのが今回の日興に対するTOBである。

 しかし、シティグループの業績は急速に悪化している。過去の強引な多角化が裏目に出ている。米国では個人向け業務に力を注ぐバンク・オブ・アメリカの猛追を受けている(mainichi-msn.co.jp/03/13/)。

本山美彦 福井日記 82 米国の1999年「金融近代化法」

2007-03-18 22:32:19 | 金融の倫理(福井日記)

  金融近代化法は、法案審議を主導した各委員長の名前を取って、「グラム・リーチ・ブライリー法」(GLBA=Gramm-Leach-Bliley Act)として知られている。

 この法律によって、戦後体制は一挙に大恐慌以前の体制に戻された。銀行、保険、証券を分離するという、恐慌を経験した後のグラス・スティーガル法」(1933年銀行法、Glass-Steagall Act)による金融業務を分けていた垣根が撤廃され、これら金融機関の相互提携・相互参入が可能になったからである。

 金融に関するあらゆる業務が、金融持株会社を創設することで、1つの母体で運営されることが可能になったのである。66年間続いてきた米国の金融制度がこの法律によって大転換した。以降、米国のみならず、世界中で、金融コングロマリットが誕生することになった。

 米国初の金融の自由化とは、グラス・スティーガル法を撤廃する動き以外のなにものでもなかった。

 大恐慌の教訓は、大胆にも踏みにじられてしまったのである。そして、日本は嬉々としてこの路線を踏襲している。

 
日興コーディアルという証券会社をシティグループという、銀行を含む巨大金融コングロマリットに売り渡すということは、活発な外資と提携して日本の金融市場を活性化させると、為政者は豪語するが、これは日本の憲法を改革することよりも巨大なインパクトをもつものである。

 つまり、シティグループによる日興の買収は、日本でも、銀行と証券、そして保険の垣根が木っ端微塵に破壊されることを意味している。日本人は、これを心底歓迎しているのであろうか。これで、金融機関はより安全になったと本気で考えているのであろうか。金融機関はますます脆弱なものになるべく奈落に落ちようとしているのではないだろうか。

 市場原理が貫徹する英米型というイメージとは正反対に、大恐慌以降の米国では、こと金融制度に関するかぎり、厳しい 規制下に置かれていた。それには3つの規制があった。

 預金獲得競争やハイリスクへの融資競争を抑制するために、金利には上限が課せられていた(1935年銀行法=Banking Act of 1935、レギュレーションQ)。
 銀行の過度の拡張を防ぐために州を超える支店設置は制限されていた(1927年マクファーデン法=McFadden Act of 1927)。

 高リスク・高利回りの危険な証券に投資していた銀行が大恐慌によって相次いで破綻したという経験から、銀行業務と証券業務の兼営は禁止された(グラス・スティーガル法4か条)。約50年間遵守された、こうした厳しい3つの規制が、1980年から次第に緩和され、ついに、1999年、規制のすべてが撤廃されてしまったのである。

 「1980年預金金融機関規制緩和・通貨統制法](Depository Institutions Deregulation and Monetary Control Act of 1980)で、レギュレーションQの、6年以内での段階的廃止を決めた。

 「1994年リーグル・ニール州際銀行支店設置効率法」(Riegle-Neal Interstate Banking and Branching Efficiency Act of 1994)で銀行の地理的業務規制がなくなった。そして、業務規制を定めていた「グラス・スティーガル法第20条」が1987年以降、相次いで修正され、金融機関の業務範囲も大幅に拡大させられた。そして、ついに、1999年の「グラム・リーチ・ブライリー法によって、巨大金融コングロマリット形成の道が掃き清められたのである。その目玉は、銀行持株会社に加え、保険会社と証券会社を子会社にする金融持株会社(financial holding company)の認可である。

 グラス・スティーガル法が廃止されて行く経緯を見ると、規制の網をくぐり抜ける新金融商品が市場を掴み、それに引きずられて、その事実に合わすべく法が変えられてきた、ということが分かる。

 金利規制については、1970年代に登場した金利規制外のCP(コマーシャル・ペーパー=企業が短期資金を市場から調達するために発行する無担保の約束手形)MMMF(市場金利連動型投資信託)等の証券新商品に向かって、金利規制のある預金金融機関から資金が流出したことによって、法に風穴が空けられた。つまり、証券化の進行が銀行規制を破壊したのである。証券に対抗して、銀行は、1978年にMMC(市場金利連動型定期預金で、金利は、6か月物財務省証券(TB)に連動する)の発行が認可された。

 地理的業務制限の緩和は、州銀行法が独自に規制緩和してしまえば、連邦法もそれに併せて変えられてしまうという、米国独特の構図から生じたものである。つまり、州間の銀行獲得競争の結果である。これには、「1977年地域再生法」(Community Reinvestment Act of 1977=CRA)の成立が大きく影響していた。CRAは、1970年代、米国で吹き荒れた市民運動、公民権運動、消費者運動が、勝ち取った法律である。それは、地域の経済発展や地域に居住する低・中所得者層への与信といった融資の地元還元を預金金融機関に対して奨励した法律である。十分な資本に裏付けられ、適切に運営されている銀行が、他州の銀行を取得して、それを支店とすることが、1994年の上記の法律で認められるようになったが、それでも、認可条件にCRAの検査を受けることが義務づけられていたのである。また、預金量の集中制限もこの時点では課せられていた。銀行は、全米預金量の10%以内、州預金量の30%以内という預金量制限もまだ存在していた。しかし、こうした市民の側に立っていた法律も次第に形骸化して行った。

 業務制限については、伝統的な預貸業務では利益が上がらなくなった銀行側の事情から、緩和されるようになったのである。1985年、銀行監督当局は、銀行持株会社の子会社ならば、ミューチュアル・ファンド(常時、換金できる投資信託)の仲買(ブローカレッジ)業務が認可された。ミューチュアル・ファンドは、株価上昇を受けて貯蓄商品として市場の人気をさらっていたのである。さらに、預金金融機関がその保有する金銭債権を分離し、証券化して発行するという債権の証券化が隆盛を見ることになった。とくに、住宅証券が大きな比重を占めるようになった。

 こうして、「銀行の証券業務への参入やその保有債権の証券化の進展は、銀行が、自らリスクをとって貸出を行う伝統的な間接金融から、投資家がリスクを負担する直接金融にその業務をシフトさせていることを意味する」(樋口修「米国における金融・資本市場改革の展開」、『レファレンス』平成15年12月号、59ページ)。

 樋口修氏の上記論文には、銀行収益の中身の変化が示されている。Federal Reserve Bulletinから採られた数値である。1985年の米国の商業銀行の粗収入に占める融資収入(ローン)の比率は65.7%であったが、2002年には52.2%にまで下落した。他方で、証券を扱う「その他の非金利収入」の比率は、同期間に、10.4%から20.4%に増大した。証券化の流れが、銀行業務を追いつめたのである。

 しかし、証券化の流れが自然かつ合理的なものであるので、その流れに沿うことは不可避であると本当に言えるのであろうか。生産と雇用確保につながらない、単にカネ儲けをするだけの証券化を、新金融商品として、金融当局が認可する必要性などそもそもあったのだろうか。銀行が、証券の膝下に屈するということは、いわゆる「銀行と証券の利益相反問題」の次元を超えて、銀行が証券の利益を擁護する事態を招くだけではないのか。結果的に生産に資金が回らなくなる。はたして、これが、金融の進化と言えるのであろうか。

 SEC(米国証券取引委員会)は、エンロンの最大の取引銀行であったJ. P. モルガン・チェースとシティグループが、同社の粉飾決算の手助けをし、同社株式の詐欺的高騰に関与したとして同社に罰金を言い渡した。モルガンは1億3500万ドル、シティは1億2000万ドルを支払ってSECと和解したという経緯がある。2003年7月のことであった(樋口論文、61ページ)。

本山美彦 福井日記 81 円キャリー取引の弊害

2007-03-17 16:58:33 | 金融の倫理(福井日記)

 円借り取引」という金融取引がある。「円キャリー取引」とも呼ばれている。

  低金利状態にある円を、その低金利で借りて、そうして調達した円資金を、円貸付よりも、より高い利回りを期待できる外国の通貨や株式、再建などに投資して利鞘を稼ぐ取引が、このように呼ばれている。現在の規模は20兆円程度ではないかと言われている。世界の株式の時価総額が6000兆円あると推定されている規模に比べれば、わずか(言葉の怖さ)20兆円しかない円キャリー取引は、株価形成に大した影響を与えるものではないと投資家には意識されている。

 日本経済新聞』(平成19年3月14日付)が、この取引を紹介している。円キャリー取引が、平成19年3月中旬に急激に進行した世界的な株価安と円高を生んだのではないかとの観測を意識して書かれたものである。
 
 この取引の残高が、17.7-23.6兆円(1ドル=118円)であると推定したのは、ドイツ銀行グループであった。シティグループも10-20兆円と試算している。海外のヘッジファンドがこの取引を行っている。一日に数10兆円が動いているのではないかと言われている。

 平成19年2月から、世界的に株価安・円高が進んだ背景には、この取引があるのではないかと観測されている。

 これまで、金利の安い円を借りて、ファンドは積極的に海外に投資していた。海外だけではなく、日本国内にも投資していた。円が他の通貨に転換されるのであるから、円安、そして、他国や日本の株式市場に投資されるのであるから、世界的な株高が進行していた。

 しかし、最近の日本の超低金利是正によって、ファンドは借り入れていた円を返済するようになった。つまり、他の通貨から円への転換運動が大規模に生じた。これが円高を生み出した可能性は否定されないのではないか。

 例えば、シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)の通貨先物取引が、そうした動きを表している。円高・株価安が始まったのは、平成19年2月27日であった。この日の円相場は、1ドル=120円台であった。それが、平成19年3月6日には、115円台と急上昇した。この間の円売り・ドル買い額は、半減した。

 つまり、それまでは、円をドルに替えるべく、円売り・ドル買いが大規模に進行し、それが円安・ドル高を生み出していた。ところが、こんも期間、その規模が半減したのである。円の対ドル売り越し幅が、約11万4600枚(1枚=1250万円)から約6万2900万枚に半減したのである。

 借り入れていた円をドルに替えて世界の株式に投資していたことが、円安・世界的株価高を作り出していたのに、円金利の上昇・米国景気への懸念から、そうした円キャリー取引を解消する動きにファンドが転換するや否や、円高・世界的株安というトレンドができてしまったというシナリオが、囁かれているのである。

 真相は不明である。
 しかし、少なくとも一日に数10兆円もの円キャリー取引が行われていたことは確かである。実需に直結しない膨大な資金が、手を換え、品を替えて世界中に跳梁跋扈している。そうした力が実態経済に巨大な影響を与えているのであって、その逆ではないということに、金融の一人歩き現象の恐ろしさが表現されているのである。

本山美彦 福井日記 80  三角合併

2007-03-16 00:27:19 | 金融の倫理(福井日記)

   三角合併の動向にも注目しておかねばならない。

 三角合併は、外国企業が、日本に子会社を作って、それと日本企業とを合併させ、合併した日本企業の株主に自社株と交換する枠組みである。つまり、自社株(本社)を通貨として活用できる。これによって、企業合併が容易になる。

 平成18年5月に施行された新しい会社法に盛り込まれたのが、この三角合併である。しかし、企業に、買収防衛策を導入できる時間的余裕を与えるために、三角合併の導入は1年間猶予され、平成19年5月に実施される予定となった。

 これに対して、「外国企業が現金を使わずに日本企業を完全子会社にする道が開かれる」という危惧を、日本の経団連は表明し、外国企業が三角合併を使う場合には、通常の特別決議よりも厳しい条件をつける、特殊決議を要件にするように、自民党法務部会に求めていたが、平成19年3月7日、この部会の小委員会は、「経営者にも競争が必要」(棚橋泰文委員長)との理由で、経団連の要望は退けられた。

 株主総会で、三角合併が了承される決議が必要になるが、通常の合併の承認の場合、「特別決議」で処理されていた。経団連は、これを「特殊決議」というより厳しい条件を課すことを提案していた。特殊決議というのは、株主総会に全株主の半数以上の出席が必要となる。政府は、これを事実上三角合併を不可能にするものとして、導入見送りを決めたのである。

  しかし、外国の企業にとって、日本でM&Aを行う環境は外国企業に有利に整ってきた。まず、現金でTOBを行い、買収先企業の株式の過半数を握っておき、その後、三角合併をするという、選択肢が用意されたのである。合併には、相手企業の取締役会と株主総会の決議が必要であるが、株式の過半数を握っておれば、そうした決議をクリアし易くなるし、税制上の障害も克服できる。つまり、2段目から現金を使う必要がないので、手持ち資金のない外国企業でもM&Aを手がけやすくなる(『朝日新聞』平成19年3月7日(水)付)。

 経済同友会の北城恪太郎代表幹事は、平成19年3月6日の記者会見で、自民党法務部会の商法に関する小委員会が、三角合併の決議要件厳格化を見送ったことについて、「三角合併を事実上できなくなるような法制度は導入すべきではなく、妥当な判断だ」と評価したという(『日本経済新聞』、平成19年3月7付(水))。

 私は、三角合併が日本経済を活性化させるとは信じていない。逆である。
 こうした手法が編み出される前に欧州に入った米国資本は現地化した。
 はたして、こうした、略奪資本が、真に現地化するとは大いなる夢想であろう。

 相次ぐ転売によって利鞘を稼ぐのが、最近横行するM&Aなのであり、そうした巨大な金儲けの露払いをしているのが、規制緩和に群がるハイエナなのである。従業員はたまったものではない。

本山美彦 福井日記 79 どの種類の株主を保護するのか?

2007-03-15 00:24:58 | 金融の倫理(福井日記)
 東京証券取引所は、平成19年3月12日、日興コーディアルグループの株式上場を維持すると発表した。

 西室泰三社長、「(不正会計が)組織的・意図的とまでは言ええない」と述べた。上場維持決定を受け、東証は、3月13日付で管理ポストの割り当てを解除した。

 東京証券取引所が、日興の上場廃止を決定すれば、それから1か月間は「整理ポスト」に割り当てられる。この整理ポストにある間は、通常通り売買の対象となれる。TOBも可能である。上場廃止後は、日興株を取引所で売買できないが、証券会社の仲介で売買はできる。

 ヘッジファンドは、平成18年末から先回りして日興の大株主になった。
 
現在、外資系ファンド4社が、日興株を合計25%保有していると見られ、外国人全体の保有比率も60%を超えている可能性がある。

 ハリス・アソシエイツ(7.23%保有)、オービス・インベストメント・マネジメント(6.75%)、サウスイースタン・アセット・マネジメント(6.08%)、マッケンジー・ファイナンシャル・コーポレーション(5.74%)、シティ・グループ(4.87%)、メロンバンク・トリーティー・クライアンツ・オムニバス(3.94%)、ステート・ストリート・バンク・アンド・トラスト(3.01%)等々の外資が並ぶ。ここで列記した外資だけで、37.9%にもなる(『朝日新聞』2007年3月7日付より)。

 現在の日本の証券会社の資本系列をも整理しておこう。
  野村證券は、野村ホールディングの100%出資である。大和証券は、大和証券グループ本社の100%出資である。大和証券SMBCは、大和証券グループ本社が60%、三井住友フィナンシャルグループが40%出資である。日興シティグループ証券は、シティグループが49%、日興コーディアルグループが51%出資である。日興コーディアル証券は、日興コーディアルグループの100%出資である。みずほ証券は、みずほコーポレート銀行の81.5%出資である。新光証券は、みずほコーポレート銀行の10.4%出資である。そして、平成20年1月には、みずほ証券と新光証券が、合併の予定である。三菱UFJ証券は、三菱UFGフィナンシャルグループの61.2%出資であるが、平成19年9月末には100%出資となる。

 米国の金融大手、シティ・グループと日興コーディアルグループは、2007年3月6日、シティが日興の株式の過半数を取得して、日興を子会社にするという、包括的な資本・業務提携を結んだと発表した。

 
その時点で、シティは日興株の4.9%を保有していた。シティは、1週間以内に50%超への出資引き上げを目指して株式公開買付(TOB)を始めると宣言した(『朝日新聞』、2007年3月7日付)。

 現行法制度の下では、企業の経営権を取得するために、市場内外で株式の3分の1以上を取得する場合には、事前に買い付け価格や株数を提示するTOBが義務づけられている。今回の日興株の過半数以上の取得を目指すシティのケースはこれに該当する。

 この時点での、シティのTOBによる買付価格は、1株当たり1,350円で、全株取得すれば、取得総額は、1兆2530億円になる。こうして、シティは日興を完全に子会社にできる。不正の発覚した平成18年12月の日興の株価は1500円であった。

 シティは、日興が上場廃止になる、ならないとは関係なく、TOBを実施すると断言していた。3月6日の日興株は、監理ポスト入り前に比べて、6%しか下がっていない、1340円であった。上場廃止だと1000円割れが予想されていたので、1350円は妥当な価格だというのが、この時点でのアナリストたちの一般的な反応であった。

 業務提携は、証券、預金、ローンまで幅が広い。しかし、じつは、日興は、すでにシティの傘下に、事実上、入っていた。日興の個人向け業務や資産運用業務を売却する際、シティに優先交渉権がすでに与えるというのが、両者のそれまでの提携関係であった。

 かつて、外資、メリルの傘下に入った山一証券は、ずたずたに切り刻まれて消滅して行った。シティも同じことをするであろう。

 にもかかわらず、例によって、例のごとく、山本金融相は、外資導入で証券業界が活性化すると歓迎の談話を行った。

 シティは、2004年に、富裕層向け資産運用・管理部門が違法行為で処分を受けて、日本からの撤退を余儀なくされていた。消費者金融業務も大幅な縮小を行っていた。

 日興と、シティは、1998年に資本・業務提携をし、法人向け業務の日興シティグループ証券を合弁で設立していた。シティが49%、日興が51%の出資であった。これがシティの残る数少ない重要拠点である。もし、日興が他に取られてしまえば、この虎の子をも失いかねない。そうすれば、日本での業務縮小は不可避となる。逆にもし、日興を吸収すれば、国内に100を超える店舗をもつ日興コーディアル証券の個人向け業務を引き継ぐことができる。

 そして、シティは、平成19年7月までに、日本で金融持株会社を設立し、年内にも東京証券取引所に株式を上場する方針である。

 企業買収や株式の引受業務は、預金・融資中心の事業が頭打ちの国内の大手金融グループにとって、新たな進出分野となる。特定グループとの関係の薄い日興は、大手金融機関からの絶好の狙い目であった。4.82%の株式を保有している、みずほフィナンシャル・グループは、日興からの要請があれば、過半数まで出資比率を引き上げる用意もあったと、幹部が『朝日新聞』に語った。しかし、日興は見向きもしなかった。政府も最初からまずシティ・グループありきだったのである。

 50%の株式取得には、100億ドル(約1兆2000億円)が必要であった。買収は現金で行う。東京証券取引所への上場はまだ決めていないとシティグループのCEO、チャールズ・プリンスが『日本経済新聞』社の電話インタビューに答えた。

 米国の法律では、Quiet Periodという期間が決められている。TOB計画を発表したばかりの段階では、その後の事業計画について細かく紹介することが禁じられている。しかし、運用会社の日興アセットマネジメントや自己投資部門の日興プリンシパル・インベストメントを売却するという観測がある(『日本経済新聞』、平成19年3月8日付)。

 M&A仲介のレフコの調べでは、外資による日本企業のM&Aで、過去最高の案件は、米GEキャピタルが1999年に買収した日本リースで、700億円であった。シティが買い取る株式数にもよるが、今回の買収は、この額を上回る可能性がある(『日本経済新聞』、平成19年3月7日付)。

 シティグループは、エンロン事件で苦況に追い込まれた。エンロンは、米エネルギー大手であったが、2001年、利益水増しなどの不正会計の発覚を契機に破綻した。このエンロンに、シティが資金調達面で関与していたことが明らかになった。

 エンロンの不正がありながら、エンロンの株式や債券を販売していたとして、投資家から損害賠償を求める集団訴訟が提起された。集団訴訟は、2005年、約5万人の投資家に20億ドル(約2100億円)を支払うことで和解したが、その係争中、CEO(最高経営責任者)のサンフォード・ワイルが退任した。

 このほか、日本でのプライベート・バンク部門の銀行法違反や、押収での債券取引疑惑なども取りざたされ、2005年に、米連邦準備制度理事会(FRB)から1年間、新たな大型買収を禁止されたこともある(『読売新聞』、平成19年3月7日(水)付)。

 そうし流れが発生する以前には、日興は、自らの組織的犯罪を公表する姿勢を示していた。

 日興は、不正会計の経緯を明らかにするために弁護士らで構成する「特別調査委員会」を設置し、平成19年1月30日には、『調査報告書』の提出を受けた。そこでは、旧経営陣の一部が不正会計に関与し、ほぼ組織的だったとする内容が記載されていた。

 これを踏まえて、日興は、特別調査委とは別に、弁護士らで校正する「責任追及委員会」を設置し、旧経営陣の法的責任を追及する可能性を探った。そして、同社は、平成19年2月27日、有村純一前社長らに対し、総額31億円の損害賠償請求を起こすことを決めていた。

 31億円の損害賠償請求訴訟を起こした2月27日の同日、日興は、、不正会計のあった過去の決算を訂正した有価証券報告書を関東財務局に提出した。

 『日本経済新聞』(平成19年3月14日(水))によれば、この2月27日時点では、東証幹部は、日本経済新聞の記者の取材に応えて、上場廃止やむなしとの感触を記者に伝えた。しかし、3月12日、逆の決定がなされたのである。なにがあったのかと3月13日の『日本経済新聞』は疑問を提出している。そして、そういう結論に逆転した背景を記事で追うと宣言した。

 3月13日、シティと日興は、TOB価格を当初予定していた1350円から1700円に引き上げると発表した。これで、シティが過半数を取得するための投資額は当初の約6000億円から約7500億円にふくらむ見通しとなった(『朝日新聞』、平成19年3月14日(水)付)。

 三大証券の一角を占める日興が外資の傘下に入ることで、大手金融グループを軸に、1500兆円の日本の個人金融資産の争奪戦が一段と激しさを増すであろう。

 2006年3月期の、日本証券業協会加盟288社の営業収益ベースによると、市場占有率は、野村37%、大和17%、日興10%、みずほ9%、三菱UFJ96%、新光3%、その他18%である。シティは、平成18年末の改正貸金業規制法の成立で、収益環境が悪化する消費者金融事業から事実上の撤退に追い込まれた。

 平成19年7月には、シティグループの、金融持株会社と日本法人銀行の設立が認可される見通しとなり、同グループが、本格的な再進出の機会を狙っていることは明白である。

 金融庁は、この事態を歓迎しているようである。市場を活性化するには、国内外の金融機関による競争の促進が欠かせないとみているようである。

 事実、山本有二金融相は、平成19年3月6日の記者会見で、「企業を守るのではなく、市場を守ると言ったサッチャー(元英国首相)の観点に立っている」と語った。またもそうである。

  確かに、日本の体内直接投資残高はGDPの2%で、30%を超す英国など欧米を大幅に下回っていて、これは投資鎖国に近いというのが自民党の考え方である(『日本経済新聞』、平成19年3月10日(土)付)。

  しかし、最近の『日本経済新聞』は、鮮明に、こうした考え方と対決する姿勢を見せるようになっている。

 「株主保護」と一口に言っても、様々な株主がいる。「同じ保護でも株主の種類を分けて考えないと混乱する。虚偽の財務情報を信じてしまった『過去の株主』。管理ポスト株主のように、虚偽を分かったうえで投資する『現在の株主』。そして、投資の初心者のような新たに市場に入ってくる『未来の株主』。市場を育てていくうえで重要な未来の株主を保護するために、過去の株主への罪を問うのが、上場廃止制度の趣旨ではないだろうか。その過程で生じた現在の株主には、自己責任を問えばいい」(『日本経済新聞』、「株主とは、第4部M&Aが忘れたもの」、平成19年3月14日8水)付)。

 至言である。拍手を贈りたい。

本山美彦 福井日記 78 「経済」とは「抑制」のことであり、「ポエム」である─ラスキンの感覚

2007-03-09 00:27:08 | 金融の倫理(福井日記)


 衆知のように、ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)は、政治学・経済学と芸術とを融合する理論の構築を目指した人であった。それは、彼が、初期の著作から一貫して希求してきたテーマであった。

 彼が、このテーマを最初に意識したのは、彼の述懐によれば、じつに満9歳の少年時代であった。彼は、後の The Queen of the Air(Ruskin's Works, vol. 19, pp. 396-97)にこの9歳の時に書いた詩を紹介している。

 
 
 きちんと韻を踏む英語の詩を日本語に訳すことは至難の業である。
  韻を踏むのが困難な日本の詩は、文字と字間、さらには、母音のつながり方に、美しさを表現するものだからである。

  拙い訳詞だが、たったこれだけの長さの翻訳に、とてつもなく膨大な時間を費やしたということで、諸氏の寛恕を乞いたい。

 9歳の少年の若い感性が描いた自然の恵みの中での人間の生活の営み。これが彼の終生のテーマとなった。

 彼の処女作は、The Poetry of Architecture, 1837-38である。ここで面白いことを彼は言った。建築の装飾のことである。

 経済上のコストだけを考えれば、建築物に装飾などはない方がいいに違いない。しかし、装飾を施すことによって、人間の満足度が違う。装飾にかけた金銭の額以上に、装飾が人に満足を与えるからである。装飾を施すのなら、立派なものにしなければならない。

 「ファージング(4分の1ペニー貨)を節約して、(駄目な装飾にしてしまえば)1シリングに匹敵する打撃を受ける。これは悪しき行為である」(Works, vol. 1, pp. 184-85)。
 
  これが、彼の言う「芸術の経済学」である。

 人はなぜ、建築物に、わざわざ費用をかけて装飾を施すのであろうか。人は、みずからの制作物に自然を取り入れたいという性質をもっているからであると、ラスキンは答える。

 この処女作にラスキンは、本名ではなく、ペンネームを使った。kata phusinという名前である。それは「自然に従う」という意味である。

 
ここで言う「経済」(economy)とは、自然が費やす費用のことである。自然は、必要最小限の費用で最大の効果を挙げている。それは、抑制である。装飾に費やされる費用は、自然に近づけるためのものである。その意味において、「経済」という用語が使用されている。

 過度に金をかけてゴテゴテとした装飾は野卑であるとも言い、自然が醸し出す調和が必要だというのである。

 「自然は、色彩をみごとに節約している」というのが、『絵画の基礎』(The Elements of Drawing, 1857)の主張点であった(Works, vol. 15, p. 153)。

 これは、『自然の色彩節約』(Nature's Economy of Colous)でも再論されている(Works, vol. 15, p. 217)。

 
1857年の『芸術経済論』に付け加えた論文に、「文学の経済」("Economy of Literature")とういうのがある。むしろ、「言葉の抑制」と訳した方がいいのかも知れない。文学では多様なレトリックを駆使するなというのが、その論文の内容である。これは、スペンサー(Harvard Spencer, 1820–1903)の『型の哲学』(The Philosophy of Style, 1858)を援用して、「最少の使用言語で最大の表現を実現させることが著者のもっとも崇高な目標であると認識すべきである」と言った(Works, vol. 16, Appendix 6)。



 『建築の七灯』(The Seven Lamps of Architecture, 1849; 邦訳、岩波文庫、1997年)、『ヴェネツィアの石』(The Stones of Venice, 1853)の一つの章「ゴチックの本質」(The Nature of the Gothic)、『芸術経済論』(The Political Economy of Art, 1857;邦訳、巌松堂、1998年)、『機能の数』(Munera Pulveris, 1862-63)、『胡麻と百合』(Sesame and Lilies, 1865)、等々の著作でも、「抑制」と品格の問題が、様々な旋律の下に奏でられ続けた。

 ラスキンは、仕事を遂行する環境の良否が、作品の質を決定するという意味で、経済と芸術は同じ論理をもつと考えていた。

 ある時代に、とてつもなく素晴らしい作品が輩出するのに、他の時代には凡庸な作品しか出ていない理由をラスキンは、『ヴェネツィアの石』で論じた。

 
芸術家や職人たちが、最高の仕事場と仕事環境に恵まれた場所と時代に最高の作品が出てくるのであり、他の時代は、仕事場所の環境の悪さが作品を駄目にしているというのである。

 画家にも、詩人にも、職人にもすべて同じことが言える。『近代画家』(Modern Painter)でも、ラスキンは、「詩人にせよ、職人にせよ、物を創り出す人々は、あらゆる物を人生に資する使い方をする。時計職人は鋼鉄を、靴職人は皮を、ただ素材として使うのではなく、生活の質を高めるために使用するのである」(Works, vol. 7, p. 215)。

 しかし、ラスキンのこのテーマは、マルク・シェル(Marc Shell)によれば、彼を崇拝する人たちによってですら、十全に理解されてきたわけではないという(Shell, Marc[1977], p. 65)。

 
例えば、マルセル・プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)。彼も、ラスキンを高く評価する人であったが、ラスキンのそうした姿勢には否定的であった(Proust, M.[1971], p. 106)。

  おそらく、現代になればなるほど、ラスキン的な矜恃は、鼻でせせら笑われるだけであろう(「松岡正剛の千夜千冊『近代画家論』ジョン・ラスキン」、http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1045.html)。凡庸ではない才能をおもちの松岡氏ですら、そのブログで、嘆息される。

 「トルストイやプルーストやガンジーが学んだラスキンを、いったいどのように今日の社会にふり向ければいいのだろうか。・・・ラスキンが同時代に背を向けてしまったように、ラスキンを現在の社会に向けるというそのことが、非ラスキン的なことだと、・・・そういうことだったのだろうか」。

 いや、待って欲しい。
 
昔、死の前夜にあった特攻隊員の多くが『歎異抄』を読んだという事実は限りなく重い。多くの人は、最後の瞬間には、酒で怖さから免れようとはしなかった。悄然と死を見つめた。それが、人間の「自然」(nature)であると私は信じたい。

 原爆を積んだ戦闘機のパイロットに白いハンカチを振って、攻撃を辞めろと言うと記者に語ったガンジーの心のすごさに私はやはり魂の震えを感じる。

 主よ、彼らは知らないだけなのだから、彼らをお許し下さいという、キリストの言葉は永遠の真理である。そうした真理の前に、私たちは素直にひざまずこうではないか。

 引用文献

Proust, Marcel[1971], Contre Sainte-Beuve, précédé de Pastiches et mélanges et suivi de
          Essais et article, ed. Clarac, P.
Ruskin, John[1903-10], The Works of John Ruskin, 39 vols, ed., by Cook, E. T. & A.
          Wedderburn, George Allen & Unwin.
          The Poetry of Architecture, 1837-38, in vol. 1.
          The Elements of Drawing, 1857, in vol. 10.
          "Economy of Literature," in vol. 16.
          The Queen of the Air, in vol. 19.


本山美彦 福井日記 77 ラスキンによる富の定義

2007-03-07 23:50:46 | 金融の倫理(福井日記)

 
  ラスキン(John Ruskin)は、「」(wealth)の理解が、経済学の目指すべき目標を明示するものであるとの認識を示した。



   彼は、J. S. ミル(John Stuart Mill)の「豊かであるということは、必要な品物を豊富にもっていることである」という言葉を発展させた。

 「もつということは、絶対的な力ではなく、相対的な力を表している。所有物の量や質が大事であることはもちろんであるが、それよりも大事なことは、財をもち、財を使う人にとって、その財がふさわしいということである」(Ruskin, J.[1903], p. 87)。

 彼は、そうした財のことを「役に立つ品物」(useful articles)と名付け、それを「効用」(utility) と同義のものとした。つまり、ラスキンは富を二つの側面から定義した。一つは、「役立つ」(useful)ものでなければならないこと。二つは、所有者がその品物を容易に入手でき、それによって、自らの能力を高めることができるものでなけれならないこと、というのである。後者のことは彼は「受諾能力」(acceptant capacity)という用語で表現した。

 「従って、富は、たくましく生きる人(the valiant)がもつ、役に立つもの(the valuable)
であり、そうした富が、国力の源泉である。物の価値と、その物をもつ人の活力とが、併せて評価されるべきなのである」(ibid., pp. 88-89)。
 「価値は、物自体の内在的なものだけではなく、富が有効に作用するには、所有者の活力にも依存している」(ibid., p. 166)。


 役立つもの、所有者の能力という二つの側面に加えて、ラスキンは、第三の側面として、正しく組織される生産をを重視する。信頼、活力溢れる産業によって生産される財に対して、すぐに廃れる奢侈とか、無慈悲な専制や詐欺に包まれた財はけっして富ではない(ibid., p. 52)。ラスキンは、こうした論点を打ち出すことによって、当時の正統派経済学への批判を行ったのである。注1

 富をこのように定義したラスキンは、価値(value)にも独特の定義を与える。
 「価値(valor)は、活力(valere)という面からすれば、・・・・(それが人間のことを指す場合)人生における(in)・・・健康(well)、つまり、健全さ(strong)を表す。それはたくましさ(valiant)のことでもある。(それが事物のことを指す場合)人間の生活にとって(for)の健全さ(strong)、つまり、役に立つ(valuable)ことである。ここで、『役に立つ』(valuable)ということは、『人生に資する』(avail towards life)ことである。真に役に立つもの、資するもの、とはすべての力能を動員して(with its whole strength)人生を高める(leads to life)ものである。人生を高めることなく、そうした力能が損傷される度合いに応じて、それは役立たない度合いを大きくする。人生を損なうものは役に立たないし、害あるものである」(ibid., p. 84)。

 「『価値』(value)は力能を表す。生活を支えるのに『資する』(availing)ものである。それはつねに二面性をもつ。価値とは、第一次的には内在的(intrinsic)、第二次的には実効的(effectual)な側面をもつ」(ibid., p. 153)。

 つまり、そもそも内在的には価値をもちうる物を、たくましい人間が人生に活かす実効あるものに仕立て上げることが価値なのである。

 「効用」(utility)の定義も、ラスキンのそれはユニークである。
 
既述のように、「効用」とは「役に立つもの」(usefulness)と同義である。それは、事物の内在的価値はもちろんであるが、人がそれを使う際に、生活にとって役立つということの方が重要である。

 「物が役立つということは、物自体の役立つ性質だけでなく、物を使う人にとって役立つ(in availing hands)ことである(ibid., p. 88)。

 役立つもの、それが富なのである。
 
こうした表現だけでは、ラスキンは、実態経済に即していない歯の浮くような美辞麗句を駆使しただけの人のように受け取られる可能性がある。

  事実、ラスキンを心から尊敬するホブソンですら、ラスキンに欠けているのは社会学的考察(social theory)であるとした(Hobson, J. A.[1898], pp. 104f)。

  ただし、ジョン・タイル・フェイン(John Tyree Fain)は、ホブソンの言い過ぎだとラスキンを擁護している(Fain, J. A.[1952], p. 302)。

 ラスキンは、生産者と消費者を別人格のものであるとする正統派経済学への果敢な挑戦を行おうとした。

 
生産過程が消費過程を決定するとの立場から、彼は、労働者が生産現場への指揮権をもつことを提言した。労働者が使い捨てられるような生産現場では、労働者自身が自ら生産する財への接近ができないばかりか、生存そのもを脅かされる。そういう悲惨な環境の下で産出された財は、けっして富(wealth)ではない。

 「どの国民にとってもそうであるが、富について、まず第一に研究されるべきことは、国民がどれだけ多くの財をもっているかではなく、財が有益に使用されているか、財が使用できる人の手元にあるかということである」(ibid., p. 161)。
 「政治経済学の究極の目的(the final object of political economy)は、それゆえに、よい消費方法を手に入れ、豊富な物資を得ることである。言い換えれば、あらゆる物を使い、それも優雅に(nobly)使用できるようになることが富である」(ibid., p. 102)。

 「経済学者たちは、よく、完璧な消費などはないと言う。そんなことはない。完璧な消費こそが、生産の目的であり、王冠であり、完成なのである。賢く(wise)消費することは、賢く(wise)生産することよりもはるかに難しいことなのである」(ibid., p. 98)。

 再々こだわるが、「効用」(utility)をラスキンはかなり広い意味で理解している。よい消費を生み出す生産が、効用をもつという言葉の使い方を彼はしている。

 「よい仕事は役に立つ(useful)。・・・これまで、私たちは、自分の仕事が、自分自身に対して、あるいは国家に対して、どのようなものになっているのかを自問してこなかった。仕事が優雅に遂行されたかということにも気にかけてこなかった。他の人たちの仕事が優雅であるかを気にしなかった。少なくとも、忌まわしい(deadly)ものではない、役立てるような仕事にすることに、私たちは、留意してこなかった」(ibid., p. 426)。

 「効用は、生産にも、消費にも、労働自体にも存在する。人生の中身を豊かにすること、彼はそれを効用と定義したのである。人生とは、仕事に生き甲斐を見出すべきである。仕事が地獄になれば、休日に浴びるほどワインを飲んで酩酊してしまうことになる。そうした狂気の世界は、効用の正反対の極に立つものである」(ibid., pp. 505, 542f)。

 ラスキンは、この効用の反対のものを「コスト」と理解する。人生の内容を貧しくさせてしまう負の労働(labor)がコストである(ibid., p. 97)。つまり、苦痛と感じる労働がコストである。つまり、物を生産するのに、多くの仕事(work)を必要としても、その仕事自体が楽しければ、費やした時間はコストではない。楽しくなく苦痛に感じる労働がコストなのである(ibid., p. 183f)。注2

 注

注1) Fain, John Tyree[1943]は、ラスキンが同時代の経済学者に吹きかけた論争を紹介したものである。

注2) ホブソンは、ラスキンを全面的に受け容れ、ラスキンを忠実に祖述した人であると一般には理解されている。フランク・ダニエル・カーティン(Grank Daniel Curtin)の論文はそうした一般的理解を代表するものである(Curtin[1940])。そうした理解に対して、少し違うと異議を申し立てたのが、ジョン・タイル・フェイン(John Tyree Fain)であった(Fain[1952])  

 確かに、ホブソンの価値理解は、ラスキンとの食い違いを見せている。
 「物の価値(the value of a thing)は、・・・考え方に影響されるものではない。・・・人がその物に対して何を感じようとも、・・・それによって物自体の価値が増減することはない。・・・酔っぱらいがジンにどれほどの高い価値を与えても、ジンが本来もつ内在的価値は変わらない」(Hobson[1898], p. 115)。

 ただし、私は、フェインのように、ホブソンのラスキン理解の誤りだとは見ない。ラスキンには社会学的力学の考察が、ホブソンが言うように、いささか弱かったと私は受け取らざるを得ない。

 引用文献

Curtin, Frank Daniel[1940], "Ruskin's Aesthetics in Subsequent Social Reform," in Davis, Bald  and DeVane, eds, Nineteenth-Century Studies,Fain, John Tyree[1943], "Ruskin and the Orthodox Political Economists," Southern Economic Journal, X, July.
Fain, John Tyree[1952], "Ruskin and Hobson," PMLA(Publications of the Modern Language  Association of America, Vol. LXVII, No. 4, June.
Hobson, J. A.[1989], John Ruskin, Social Reformer, Nisbet. Ruskin, John[1903-10], Unto This Last(1862) in Cook, E. T. & A. Wedderburn, ed, The Works of John Ruskin, vol. 17, in 39 vols. George Allen & Unwin.