消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 31 山門

2006-07-31 01:29:02 | 神(福井日記)
「山門」とは、ここでは、天台宗延暦寺を指す。前回、荘園の請負を寺院が地方豪族から預かったと表現したが、これは、間違いであることに気づいた。申し訳ない。事実は逆である。寺院が武家に管理を預けることを言う。越前・若狭においては、平氏が支配権を確立した後、こうした荘園が激増した。それは、山門(延暦寺)系の所領が中心となっている。例えば、若狭の大田文で「山門沙汰」「園城寺沙汰」などと分類されている14か所、面積にして2991町152歩、この地域の荘園全体の面積に占める比率で21.4%にも及ぶ大荘園が、そうした請負の具体例である。この荘園は、平経盛家の国守が、延暦寺・園城寺などに対して請け負っていた所領らしい。

 後白河院は、厖大な家領荘園を統轄していた。平家は、後白河院と政治連合を形成した上で、延暦寺勢力と同盟関係を維持することを戦略としていた。越前・若狭において天皇家や山門が荘園を立てようとしたとき、それらを平氏が容認し、後押ししていた。

 牛原荘は、白河院の中宮賢子のために京都醍醐寺内に建てられた円光院の荘園である(『醍醐雑事記』巻十三)。一度、この荘園は縮小されたが、それを元の大きさにまで回復させたのは、国守の平忠盛であった。こうしたことに見られるように、院政時代には、天皇家と平氏は不可分の関係にあった。

 山門領については、日吉神人という日吉神社に抱えられた商人たちの活躍が目につく。保延年間(1130年代)大津の日吉神人たちは、日吉社が収納した神物である上分米(年貢米)を預かり、諸国に高利を取って貸し付けていた。貸付先は、公卿、諸国の受領、中央官衙の官人層、諸国の武士、荘園の住人、田堵(有力農民)層、京都の四条町の商人に至る広い範囲に及ぶ(壬生家文書)。借米を返済できなければ、荘園主の場合、抵当に取られていた田地を、神人を介して本所である山門の所領や荘園化に組み込まれる。越前・若狭の山門領は、そのようにして大きくなって行った。

 大津に本拠を置く日吉神人のほか、北陸道諸国の日吉神人もいた。彼らは海辺の津・泊・浦・浜に分布し、日本海ならびに琵琶湖・北陸間の交通路を担う廻船人たちであった。こうした船乗り兼商人たちは、遠隔地所領支配としての荘園制が円滑に機能するためには、不可欠の存在であった。私が、この日記で、各地に点在する日吉神社は、延暦寺に参拝する人々の安全を守る神であると言った。各地に点在していたのは、それだけではない。要するに、こうした商人たちが、貸金取り立て任務を果たす出張所であった可能性が強い。

そして、彼ら神人たちが、取り立てたものを本所の延暦寺に運び、日吉神社は、荷物の倉庫の役割を果たしていたと想われる。これは想われるというよりも断定したい。日吉神社には、きまって、堅牢な倉が敷設されている。神人たちが延暦寺に運ぶ荷物を保管し、旅の宿舎として使ったのが日吉神社である。だからこそ、日吉神社は各地に点在させられなければならなかったし、そうした日吉神社を線で結んで行けば、比叡山に到着するのである。そういうことだったのかと、私は独り合点している。ここでも、宗教組織と金の収奪組織の見事な絡み合いが見受けられる。

 若狭では平家が山門に請け負う荘園は多かったが、平安時代になって改めて増やされた直轄荘園はそれほど多くはなかったと言われている。越前でも、足羽郡足羽御厨、吉田郡藤島荘、丹生郡大蔵荘が知られているに過ぎない。多年にわたり知行国として確保している以上、改めて荘園を立てる必要がなかったからかもしれない。

 足羽御厨は、承安元年(1171年)に建てられた(立荘)(「伊勢大神宮神領注文」)、源平争乱後、平氏が滅ぼされてからは、平家没官領となり、他の19か所の荘園とともに一条能保の妻(源頼朝の妹)に与えられた(『吾妻鏡』建久三年十二月十四日条)。
 藤島荘は、平家没官領として頼朝が支配(領知)していたが、白山権現の神膳に充てるため大野郡平泉寺に寄進された。本家に延暦寺を戴くこの荘園は、平氏段階ではまだ多くの未開地を抱えていたらしい(「門葉記」二など)。

 大蔵荘も、元、平清盛領で、永万年間(1165~66年)の頃、摂津国山田荘(神戸市)との交換で京都最勝寺に寄進され、調庸租税以下臨時雑事が免除され不輸の地となった(東大寺文書)。山田荘とは、酒米として有名な山田錦の産地であり、日本一面積の広い村であり、箱木千年屋や農村舞台がいまでも残っている豊かな田園地帯である。

 ちなみに、越前の酒はそれこそ絶妙の味であるが、残念ながら、使用されている米は、ご当地自慢の「こしひかり」(越の光、つまり、越前の希望の星)ではなく、神戸の山田錦を使うことが多い。たんなる偶然なのか、平氏の本家が神戸の福原にあったことの名残なのか、調べて見ようと思う(清盛のときに山田錦があったとは思われないが、その祖先はあったはずである)。

 若狭では、遠敷郡玉置郷があった。玉置郷は、元暦元年(1184年)、平家没官領として頼朝より園城寺に寄進されている(『吾妻鏡』同年十二月一日条)。


 加賀・越前・美濃三方の白山馬場(登拝口)のうち、越前馬場の中心は、前回の日記で説明したように、白山中宮の大野郡平泉寺である。鳥羽院政期に平泉寺を支配していたのは、園城寺の僧である覚宗であった。覚宗は、『寺門伝記補録』十三に「北越白山検校」と記載されている。彼は、加賀白山宮も合わせ統轄していた可能性がある。つまり、一向一揆が主要な敵としたのは、戦国大名だけではなかった。荘園領主であった延暦寺系の寺院も最大の攻撃目標だったのである。事実、北陸の天台宗系寺院のことごとくが一向一揆によって焼き払われた。

 覚宗は、鳥羽院および待賢門院の熊野詣の先達の功で律師に補され、京都の法勝寺(炎上して今はない)・最勝寺・尊勝寺の別当職を務めたといわれるなど、院と密接なつながりのある人物である。彼の在職によって当時、平泉寺が、園城寺の末寺であったようにも見えるが、実際には、彼個人が上皇の命を受け手、平泉寺を支配していたに過ぎない。

 ところが、久安3年(1147年)、延暦寺の僧綱・已講らが院の御所に群参し、園城寺長吏・覚宗の平泉寺社務執行を停止して平泉寺を山門(延暦寺)の末寺にするよう訴える事件が起こる。その背景には、覚宗の独裁的な統制への住僧らの反発があったとされている(『本朝世紀』久安三年四月十三日条)。院は、覚宗没後に末寺化の宣下を行なうことを約束し(『台記』同年六月二十三日条)、仁平2年(1152年)9月の彼の死とともに、平泉寺は延暦寺の末寺に入った。

 平泉寺の組織についてはよく分かっていない。しかし、同じく延暦寺末となった加賀白山宮では、内部は寺家と社家からなり、両者を統轄し白山宮全体の運営を図る機関として政所があった。それを構成していたのが惣・院主・大勧進・大先達・修理別当・上座・寺主・都維那・神主・大宮司であった。惣から大先達までが貫主とよばれる。惣は加賀馬場全体の形式上の統轄者で、白山宮のがこれを兼ねた。(惣)・大先達はほぼ世襲化されており、の一族中より延暦寺が補任した。

 修理別当から都維那までは寺家の代表者で、彼らは白山宮政所の構成員であるとともに寺家の政所を構成していた。寺家政所は構成員から見ると延暦寺の政所と同一の形態を取っている。平泉寺も同じ内部構成であったのだろう。

 重要なことは、この組織形態は、宗教的論理に基づくものではなく、あくまでも荘園を支配し、管理するための純然たる行政組織であったということである。当時の本所・末寺関係は宗派としてのそれではなく、荘園制的な支配関係であった。延暦寺から別当が派遣され、以下を補任し、寺家政所を配下に収めて所定の上納物も収取していたのである。 一向一揆に参加した人たちの憎悪のすさまじさをこの一点に垣間見ることができよう。繰り返し言うが、天台宗系寺院のことごとくが、この越前で焼き払われた。

 単純に加賀の一向一揆として、加賀がその本拠であったように言われているが、私にはそうは思われない。荘園制度の苛酷な支配下にあった越前、そして、平氏なき後の延暦寺の強権支配がひどかった分だけ、一揆は、越前を、むしろ、本拠としていたのではなかったのか。一揆衆は、加賀では生き残ったが、越前では完膚無きまで叩きのめされた。この点もきちんと調べておきたい。少なくとも今までの叙述で明らかになったように、一向一揆は、「百姓の国」を作るべく戦国大名と戦ったのではない。既成宗教とも戦った。しかし、これも、最上層部の権力欲の犠牲になった。苦しいから宗教にすがり、そして、採取的には、命を捧げながら、宗教からボロ雑巾のごとく棄てられる貧困な民衆の古今、繰り返される悲劇に胸が塞ぐ。

 『福井県史』通史編2 第一章「武家政権の成立と荘園・国衙領・第一節 院政期の越前・若狭」を参照した。

本山美彦 福井日記 30 越前平泉寺

2006-07-30 06:14:11 | 神(福井日記)
 室町時代になっても、新興の鎌倉仏教に対して、天台・真言の旧仏教系寺院は旧荘園への支配力を依然として保持していた。前回にも述べたが、大野郡平泉寺は、10世紀以降、白山登拝の起点となった。こうした白山登拝の起点を越前馬場という。 

いわゆる源平の争乱は、1182年(寿永元年(1182年)の寿永の乱に始まる。この時、平泉寺斉明は、木曾義仲側についたが、後に平氏に鞍替えし、1183年、砺波山(小矢部市)の戦いで義仲郡軍に敗れる。敗れたのに、平泉寺は義仲から吉田郡藤島七郷を与えられる。つまり、平泉寺もれっきとした戦国大名に他ならなかったのである。

 平泉寺の武装化はますますエスカレートして行った。鎌倉幕府滅亡時には、大野郡牛原荘の地頭であった淡河時治(北条一族)を攻めて自害させた。南北朝の動乱時には、斯波高都経らの北朝方に与し、吉田郡藤島で新田義貞と戦った。戦国時には、朝倉氏と同盟した。これは一向一揆と対決するためであった。その朝倉が天正元年(1573年)に滅ぼされると、その翌年になって、平泉寺は一向一揆の復讐に遭い、村岡山に拠点をもつ一揆勢に攻められ、諸堂、寺院のすべてが焼き払われた。

 荘園領主として武力を養った財政的裏付けはどこにあったのだろうか。荘園からの収入ですべての軍事費を賄えたのであろうか。「平泉寺神物」と呼ばれていた平泉寺への供え米(初穂米という)を貸し付ける金融活動がかなり大規模に行われていたとも言われている。

 「平泉寺神物」は多い年で300貫文、年平均260貫文余に達していた。これを扱うのは俗人ではなく、これら寺社の僧や神人であった。平泉寺も大野郡内の荘園から正供とよばれる上分を徴する権限をもち(洞雲寺文書八号、白山神社文書二号)、それはさらに坂井郡や末寺格の今立郡大滝寺近辺にも及んでいた(龍澤寺文書二二号、大滝神社文書五号)。
平泉寺は、領地を9万石・9万貫持っていた。

 平泉寺の1つの坊である賢聖院は、寺領として大野郡内の大槻村・堂本村・護法寺村・井口村・滝波村・坂谷村・矢戸村・保田村などにおいて、米・494石余、銭・45貫文を知行しており、護法寺村・片瀬村・井口村については、人足徴収権・闕所検断権をも有していた(白山神社文書二号)。

 波多野玉泉坊は5000貫を知行し、飛鳥井宝光院は、8000貫を支配して、「日本一の法師大名」と言われていた(「朝倉始末記」)。大永4年(1524年)には、朝倉孝景の援助を得ながら、寺領の吉田郡藤島荘の荘官中村氏が惣都合485貫文余の費用を負担した御児の流鏑馬が、大々的な臨時の祭礼として挙行されている(白山神社文書一号)。

 さらに、戦乱で影響力を失った諸在郷の支配者たちのために代官職を幅広く請け負っていた。面も販売していた。三光坊財蓮などの面打師が著名であった。三光坊は能面師の祖である。吉崎道場の例の老女が被った面というのは、当時の人にはすぐさま白山信仰を想起させたのである。

 明応2年(1492年)、秘符と丸薬を携えて京都相国寺蔭凉軒を訪ねた平泉寺杉本坊栄祐法印は、修験の根本道場である金峯山(大和・紀伊国境の大峯山)に8回も修業のために峯入した「無双の験者」で妻帯せぬ「清僧」であるとされており、平泉寺山伏の活動の一端を伝えている(『蔭涼軒日録』同日条、同年3月25・26日条)。

 「大変大きな富を誇った。・・・そして平泉寺の中には48の神社、36のお堂、坊院(ぼういん)と呼ばれるお坊さんの家が6000建っていたといわれています。その建物の様子は、金や銀にきらびやかに飾り立てて、酒宴や歌声が一日中絶え間なく聞こえいたかもしれません」(冒頭の復元図はこのウェブサイトから転載)。

本山美彦 福井日記 29 泰澄

2006-07-29 14:50:09 | 神(福井日記)
白山信仰の具現者、泰澄にまつわる伝記が、越前には数多くある。しかし、いずれも、後世になって作成されたものなので、正しい伝記はないと言ってよい。しかし、伝記を追うと日本の宗教の原型が浮き彫りになる。正中2年(1325年)書写された金沢文庫『泰澄和尚伝記』が、数多くある伝記の中ではもっとも権威を獲得している。

 それによると、泰澄は越の大徳と言われていた。天武天皇時代の白鳳22年(682年)に越前国麻生津に生まれた。福井市三十八社町に泰澄寺がある。泰澄産湯の井戸がある。


持統天皇7年(693年)にこの地を訪れた道照によって、神童であると見抜かれる。道明は白雉3年(653年)入唐し、日本に法相宗を伝えた高僧で実存の人である。14歳の時、十一面観音の夢告を受け、越知峰の坂本の岩屋で修行。丹生郡朝日町にこの山はある(613メートル)。越知峰は明治初年の神仏分離までは修験の行場として栄えた。越知神社となった。白山の遙拝所である。またこの別当寺であった朝日町の大谷寺(天台宗)は、泰澄入定の地とされ、15世紀には白山中宮平泉寺に対して本宮と称され、11院32坊を擁していた。また、国の重要文化財である石造九重塔がある。元享3年(1323年)作られた。泰澄の廟とされる。十一面観音座像もある。

 大宝2年(702年)能登島より小沙弥が訪れ、以後、泰澄の身の回りの世話をする。この島は二と半島の東、七尾湾に浮かぶ島である。ここには須曽蝦夷穴古墳という高句麗形式の古墳が現存する。白山信仰は高句麗から来たという説の傍証にもなっている。この年、泰澄は鎮護国家法師になる。霊亀2年(716年)に白山神(貴女=農業の女神))の夢告を受け、養老元年(717年)母のゆかり地、大野隈苔川東伊野腹で庵を結んだ。この苔側は九頭竜川のことであるらしい。現在の勝山市猪野であると思われる。泰澄の母の供養塔がある。さらにこの地の林泉に貴女が現れ、自らを伊弉冉尊であると語った。林泉は、越前馬場として栄えた中宮平泉寺の地で、神仏分離後は白山神社となっている。林泉とは文字通り泉で、現在の御手洗池のことである。平泉寺は平安時代から中世にかけて北陸屈指の勢力をもった天台宗の大寺院で、6000もの坊があった。天正2年(1574年)一向一揆の焼き討ちを受け、灰燼に帰した。白山信仰の中心であり、ここから白山に至る禅定(霊山の頂点)道が続いている。

 さらに、和尚が白山天嶺の頂上に登ると、緑碧池の側で九頭竜王が、次いで白山神の本地仏である十一面観音が現れた。荒ぶる神、豊饒の女神、そして観音、ここに、しかるべき神仏が出揃う。これらの出現の順番は、白山信仰の序列であると理解できる。恐ろしい竜神、やさしい女神、そして観音に収斂させられていく。

 左孤峰で聖観音の現身である別山、右孤峰で阿弥陀如来の現身である大己貴を感得し、この峰に居を定める。白山は3つの山からなる。最高峰が御前峰(2702メートル)、左孤峰が別山(2399メートル)、右孤峰が大汝峰(2684メートル)である。最高峰が十一面観音、そして、聖観音、阿弥陀如来という本地垂迹そのままである。これらを総称して三所権現という。以後、都で天皇の病を治したり、行基に会ったり、僧の玄から十一面経を授けられたという様々のエピソードで飾り立てられた後、大谷寺で86歳で死んだとされている。

 泰澄は、天台宗延暦寺の末寺となったこの平泉寺の他、先の大谷寺、今立郡の大滝寺、坂井郡の豊原寺、千手寺をも開いたとされている。平安末期の源平の争乱時、平泉寺は木曾義仲についたが、すぐに平氏に寝返っている。しかし、一向一揆までは、したたかに生き延びて行った。土着の神、渡来人の神、そして渡来した仏、そうした変遷を経て軍事力と経済力をもつ大名的寺院にこの寺も突き進んだのである。

ギリシャ哲学 14 都市と辺境

2006-07-27 23:12:54 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 革命は歴史上つねに辺境から生じた。ここで、辺境というのは、都市に収奪される田舎を指す。ローマは都市建設を通して、その都市を首都として戴く民族を支配してきた。ギリシャが、ローマに軍事的に支配されてはいても、文化面でローマを支配したと言われているのは、ローマが誇る都市は、ギリシャ的植民都市であったからである。ローマは都市に依存していた。帝国の全盛時代には地中海に1000を超える都市が建設されていた。ゲルマニアやブリタニアでもローマは、都市を建設した。都市には必ず神殿、劇場、浴場が建設された。その都市にローマは傀儡政権を置いた。例えば、ユダヤではヘロデ王が、エルサレムに居を定め、民衆の支配を認められた。ヘロデ王は、ローマ帝国の威を借りて、ユダヤ全土を支配したのである。

 そうした構造の下では、田舎=辺境から反抗の芽が育てられる。イエスが生まれたガリラヤがそれである。この地の都市化は進められず、ローマ的要素はそれほど定着はしていなかった。富を都市に依存して獲得している富者の搾取場は、辺境にあった。イエスはほとんどエルサレムには寄り付かなかった。『ヨハネによる福音書』では、イエスはエルサレムに3回しか立ち寄ってはいない。ナザレに近い都市、セポリスにも立ち寄ってはいない。

 かれの活動の舞台は、ローマの圧政よりも、ローマに命令されるヘロデ王の暴虐さを憎む非都市の地域であった。

 辺境の地には、ユダヤ教の世俗化を批判する土壌があった。宗教復興運動は、貧しさから生まれるものである。バプテストのヨハネはその地で活動していた。ヨハネは神の国の到来の近いこと、その準備のために自らを悔い改めること、その証として洗礼を受けることを呼び掛けていた。イエスはヨハネから洗礼を受けた。彼は多くの階層の人たちと会話した。サマリア人とも、フェニキア人とも差別なく真心で接した。イエスは徹底して田舎で布教したのである。彼はガリラヤで熱狂的に受け入れられた。

 しかし、エルサレムの人々は彼に磔(はりつ)けの罰を要求した。ローマは、ヘロデ王を通して、そしてヘロデ王との結びつきによって、一定の恩恵のおこぼれを獲得する市民によって、容易にイエスを抹殺することができたのである。

 ユダヤ教が、ローマ皇帝属吏のピラトとに向かって、イエスを釈放すれば皇帝から罰せられるぞと脅したのも、支配されているはずの者の植民地根性をいかんなく示している。イエスは属州の治安を乱したものとして奴隷犯人に対する処刑、つまり、十字架による磔けの刑に処せられた。しかも、エルサレムにもっとも多くの人が集う過越の祭の日に合わせて。

 以後、イエスの弟子たちは、農民層、そして都市では下層民を伝道の対象とした。それがなぜ奴隷ではなく下層農民であったのかは不明である。奴隷があまりにも過酷に、反抗を許さぬほどの強圧でもって弾圧されていたからかも知れない。そもそも、革命を担う層は、最下層ではない。最下層から少し上の層である。なぜなのか。そうした意識で、ローマ帝国とキリスト教との関連を追った叙述はそれほど多くはない。ローマ史はある。しかし、キリスト教史はない。教会史はある。しかし、民衆の分析がない。詰めていかなければならない大きな領域がぽっかりと穴が空いている。宗教社会学の大きな課題である。

松本実郎『ガリラヤからローマへ―地中海世界をかえたキリスト教徒』山川出版社、1994年、および、今回も「いいだもも」氏の著作に依拠している。


ギリシャ哲学 13 ペルセポリス

2006-07-26 23:26:24 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
アレキサンダーが滅ぼした古代ペルシアの首都が「ペルセポリス」と呼ばれている。これは、ギリシャ語である。ギリシャ人たちは、「ペルシア人の都市」を「ペルサイ・ポリス」と表現していた。これが短縮されて、「ペルセポリス」になった。

 ペルシア人たちは、自分たちの首都をパールサと呼んでいた。漢字表現の「波斯」はそうした言語の発音に忠実である。他の国の首都をギリシャ風に言い換えている点に、当時のギリシャ人の傲慢さが現れている。

 ギリシャが東方からの文化を積極的に取り入れていたアテネ・ポリス確立以前の時代には、異邦人であるバルバロイには、まだ野蛮人の意味はなかった。しかし、アテネ的市民精神が確立するに至って、優秀で文明的なギリシャ人と、ギリシャ人より劣る野蛮人という二分法が時代精神を支配するようになった。この時代精神をアレキサンダーが破ろうとしたのである。

 そもそも、「ヘレニズム」という用語を作り出したのは、ドイツの歴史学者、J.G.ドロイゼンである。その著、『アレキサンドロス大王』は、「19世紀に現れたもっとも力強い歴史論の1つである」とまで賞賛された(ドロイゼンの原著のフランス語訳、1935年、序文、J.ブノワ・メシャンの言葉)V.ジスカールディスタン元フランス大統領は、1979年3月4日の『ル・モンド』紙でドロイゼンの本を褒め、歴史的構想をもつ政治家として最初の人は、ヨーロッパとアジアとを結びつけようとしたアレキサンダーであったと語った。
 エジプト、ギリシャ、マケドニア、地中海世界、インダス河流域に至る広大な版図を打ち立てたアレキサンダーがマケドニア王になったのは、父フィリッポス2世が暗殺された前336年、アレキサンダー20歳の時であった。なんと若いことか!彼こそが、師アリストテレスのポリス観をはるかに超えた世界国家の構想を実現させようとした人であった。
 プルタルコス『対比列伝』は、アレキサンダー支配下では、すべての民族が過去の怨念を忘れて1つになろうとしていたと賞賛した。

 P.ガニョール神父『古代史』(1902年)では、アレキサンダーはすべての民族の融合を夢見ていた。すべての民族の伝統的文化への敬意を払った。異邦人の宗教をも尊重した。民族の記念碑的遺跡を尊重した。征服後、直ちに大規模な公共事業、つまり、都市建設、港湾の整備、運河掘削を行った。商業や産業を奨励した、等々のアレキサンダーへの賛辞が散りばめられている。ギリシャのポリス世界では、アレキサンダーの偉業を達成できなかったであろうとまでガニョールは言い切っている。

 そのアレキサンダーが、ペルシャの首都に火を放ち炎上させた。40日間滞在し、いまからさらに東征に赴こうとした当日にである。民族の融和を図ることを最終目標にしていた彼としては、ペルシア人たちの心のよりどころである首都を焼き払うのは、自殺行為のはずである。なぜなのかはいまだに分かってはいない。

 アレキサンダーは、きっぱりと、プラトン、および自らの師アリストテレスと袂を分かった。プラトンの『国家』では、バルバロイは我々の「生まれながらの敵」であり、戦争をしかけて彼らを滅ぼしたいという感情をギリシャ人がもつのは「当然」だとした。師のアリストテレスは、戦場のアレキサンダーに宛てた手紙の中で、ペルシア人など、どこかに移住させてしまえ、バルバロイに対しては、アレキサンダーは、「主人」として振る舞え、ギリシャ人に対するような「友人」として接触するな。バルバロイに対しては、植物か動物として扱え、とアドバイスしている。
 あのヘロドトスですら、アテネ人からは、「バルバロイびいき」として軽蔑されていたのである。そして、アレキサンダーは、征服者ではあるが、ギリシャ人にとってはバルバロイのマケドニア人であった。彼は、自らが征服した民族の長に跪き、ペルシア人の多くを自らの軍に加えて重用した。自らの親衛隊にすら彼らを加えようとした。ここに、ギリシャ人ばかりでなく、マケドニア人たちも憤慨して、アレキサンダーを暗殺しようとした背景があった。

 アレキサンダーが、マケドニアの老兵を故郷に帰還させ、新たにペルシア人の精鋭を軍に加えたことから、マケドニア人兵士はアレキサンダーを見捨てようとした。当然、アレキサンダーは激怒した。プルタルコスによれば、「ディオニソス神のほか誰一人渡ったことのないインダス河を渡った」自分を見捨てて、私の身をバルバロイに委ねるというのか、そうすれば、「人間の間で褒められ」、「神を喜ばすことになろう」、「立ち去れ」と怒鳴りつけた。「人間」とはギリシャ人とギリシャ化したマケドニア人であり、「神」とはオリンポスの神である。

 プルタルコスによれば、アレキサンダーはギリシャ人の服装ではなく、ペルシア人の衣服を身につけていた。しかし、ペルシアの衣服の派手さを抑え、マケドニアの服を折衷した。アレキサンダーは、自らをバルバロイに位置づけたのである。そこに、プラトンやアリストテレスとの決定的違いがあった。その理念はついに、ギリシャ人には理解されなかった。
今回も「いいだもも」の恩恵を受けている。 

本山美彦 福井日記 28 越前の真宗

2006-07-22 00:27:01 | 神(福井日記)
 浄土真宗と聞けば、すぐに西本願寺東本願寺を思い浮かべ、単に本願寺と言えば、西本願寺のことを指すと言う程度の知識しかないのが一般的な私たちの実情ではないだろうか。越前の地で、浄土真宗が広がっていたということを、本願寺派の浸透と同じことであると簡単に理解してきたのではないだろうか。

 しかし、史実はそうではない。そもそも、蓮如が登場する前までの本願寺派は、著しく衰微しており、同じ真宗ではあっても、他の宗派が、まず、越前の地で布教を行っていた。 越前に最初に進出した真宗の宗派は、真宗高田派であった。こちらの方が、初期真宗教団の中では、主流であった。この高田派は、現在でも三重県津市一身町の専修寺を本山として全国に約640か所の寺院・布教所をもっている。

 宗祖・親鸞の門弟・真仏(1209~58年)を中心に、下野高田(栃木県芳賀郡二宮町高田)の如来堂に集う信徒が、高田門徒と呼ばれていた。如来堂は、嘉禄元年(1225)、親鸞が、善光寺如来(長野善光寺の阿弥陀仏)を感得し、翌年、帰洛した時、弟子の真仏にこれを継承させたと伝えられる。高田派の布教は、東北地方から東海地方に広がった。十世・真慧(1434~1512年)の時代になると、北陸や伊勢にまで布教活動が拡大し、伊勢国一身田町(三重県津市一身田町)に無量寿院が建立され、そこを活動の拠点とした。十二世・堯恵(1527~1609年)、十三世・堯真(1549~1619年)の頃に、無量寿院は、専修寺と改称された。そして、明治十年(1877)に高田派と公称するようになった。

 この宗派に三河の国の円善がいた。その門弟の如道(1253~1373年)が、越前足羽郡大町に西応3年(1290年)、大町専修寺を開いた。14世紀にかけて、遠江や三河から布教僧が数多くやってきて、大野郡や足羽郡の美濃街道付近や坂井郡に高田派の真宗を広めた。
 これに危機感を強めたのが、越前在来の白山天台系の寺院であった。例えば、14世紀初頭、この寺院の1つ、今立郡長泉寺の孤山隠士が如道を批判した『愚闇記』を著したこともその現れである。

 南北朝期、大町専修寺を拠点とした越前の高田真宗は、如道から道性(生没年不明)、さらに如覚(1250~1311年)へと受け継がれた。道性は三門徒系に編入される証誠寺を、同じく、如覚も、三門徒系の誠照寺を創建した。

 如道(如導)の没後、大町専修寺は二男・如浄、三男・了泉へと継承されたが、その頃、本願寺教団が越前に進出するようになった。そのことによって、大町門徒(高田派)は分裂した。了泉の子、浄一は専修寺を弟の浄光に譲って、足羽郡蕗野故中野に移り、専照寺を開いた。そして、この専照寺を中心に、現在の鯖江市の上記の証誠寺、同じく鯖江市の上記の誠照寺、武生市の毫摂寺の4寺が糾合して三門徒派を結成した。

 専照寺は、天正10年(1582年)、北荘(福井市)堀小町に移り、享保9年(1724年)現在地福井市みのり町に移転した。しかし、江戸時代中期には天台宗妙法院の所轄下に入れられ、さらに、明治6年(1873)大谷派に属することになった。そして、同11年(1978年)に真宗三門徒派として独立した。本山は、専照寺で、寺院・布教所数は全国に約40か所ある。

 ただし、この明治11年の独立は、先の4寺が連携して教団を作ったのではなく、それぞれが独立してしまう。

 証誠寺は、自己を本山とした真宗山元派を結成した。証照寺は、上で道性が創建したと説明したが、寺伝によれば、親鸞とその子、善鸞によって、現在の証照寺付近(福井県鯖江市横越町)に布教され、善鸞の孫浄如のときに証照寺の寺号を賜って勅願寺となったとされる。三門徒(大町門徒)の中で大きな勢力をもったが、本願寺八世・蓮如がその教義を否定したことや、織田信長の越後攻略で打撃を受け、江戸時代中期には天台宗聖護院の院家に強制的に組み込まれた。明治5年(1872年)本願寺派(西本願寺)に属し、同11年に真宗山元派として独立した。寺院・布教所は、全国に約20か所がある。

 誠照寺は、自らを本山として、真宗誠照寺派となった。誠照寺は親鸞が留錫した車道場に始まるとされている。先述の如く、如覚の創建であるが、はじめは、真照寺という名前であった。誠照寺と改称されたのは。永享9年(1437年)のことであった。戦国時代に発展し、本願寺と対立していた織田信長が助勢を求めた文書が残されている。その後、兵火を被るが、秀吉の好意で再建された。元禄6年(1693年)には、日光の輪王寺(天台宗)に所属させられていた。明治11年(1878年)、真宗誠照寺派として独立したのである。全国に寺院・布教所が、約80か箇所ある。

 毫摂寺も、自らを本山とした真宗出雲路派を結成する。本願寺三世・覚如の高弟・乗専(1295年~?)が京都出雲路(上京区寺町の北端)に毫摂寺を開設した。毫摂寺は、応仁の乱の頃、五世・善幸(1310~61年)が、越前横越の証誠寺を頼って、同国の山元に移転したが、その後証誠寺と対立する。そして、慶長元年(1596年)現在地に移った。元禄年間(1688~1704年)には天台宗青蓮院に属し、明治5年(1872年)に本願寺(西本願寺)所轄となった後、同11年(1978年)に独立したものである。兵庫県宝塚市小浜の毫摂寺は乗専の分流で本願寺派に属する。出雲路派の寺院・布教所は、全国に約70か所ある。

 一般に、真宗には10派があるとされているが、うち、4派も越前にある。高田派は、すでに説明したので、残りの5派についても説明しておこう。

 圧倒的な主流は言うまでもなく西本願寺派である。正式には浄土真宗本願寺派という。本山は、西本願寺で、寺院・布教所は、全国に、じつに、約 10,500か所もある。西本願寺は、京都市下京区堀川通花屋町下ルにある。本願寺は京都東山の大谷に親鸞の遺骨を改葬した廟堂にはじまる。その後、延暦寺僧徒や法華宗徒の攻撃、織田信長との争い(石山合戦)などによって変遷し、天正19年(1591年)、十一世・顕如の時に、豊臣秀吉から京都西六条の現在地の寄進を受けて、御影堂、阿弥陀堂が再建された。顕如没後、顕如の長男で本願寺十二世・教如(1558~1614年)と次男・准如(1577~1630年)が本願寺の継承をめぐって対立した。教如は慶長7年(1602年)、徳川家康から東六条に土地の寄進を受けて別立した。以後、准如が継承した本願寺を西本願寺と通称し、本願寺門徒は東西に分かれて所属する事となった。本願寺は顕如の時代に門跡(皇族の住する寺)に列せられて以来、院家・坊官の制によって事務を統括したが、一四世・寂如(1651~1725年)の時期に制度が完備され、諸国に録所・触頭をおいて末寺を統括した。教学面では寛永16年(1639年)に学寮(後の学林)を開設し、能化職を置いて教学に当たらせたが、「三業惑乱」が生じので、能化職は廃止された。以後、勧学が交代で講義に当たり、これが後に龍谷大学となったのである。

 東本願寺を中心とする教団は、真宗大谷派、あるいは、真宗本廟と呼ばれる。本山は東本願寺で、全国の寺院・布教所が約9,800か所に上る。東本願寺は、京都市下京区烏丸通七条上ルにある。以後、大谷派は教如の子孫が法主となって法灯を継いできた。教学面では一五世・常如(1641~94年)が学寮を設け、それが、後に大谷大学となる。昭和56年、宗憲を改めて、東本願寺を真宗本廟と称し、門主制を敷くことになった。その後、真宗大谷派は俗に「お東紛争」と言われる、大谷家と改革派の争いが続き、紆余曲折を経て昭和63年(1988年)2月29日、大谷光紹・新門が浄土真宗東本願寺派を結成し、大谷派から独立する事になる。つまり、真宗はこれで11宗派できたことになる。

 真宗興正派というのもある。本山は、興正寺で、寺院・布教所は全国に約490か所あり、かなり大きな規模である。興正寺は、京都市下京区堀川通七条上ルにある。名称の由来は、文明14年(1482年)、高田門徒の系統に属していた仏光寺十四世・経豪(1451~92年)が本願寺八世・蓮如に帰依し、仏光寺の元々の名称であった興正寺を用いて、興正寺蓮教と名乗ったことに由来する。仏光寺の末寺の多くも蓮教に従い、その一派は本願寺教団に於いて、特別の地位を保ち、永禄12年(1569年)には脇門徒となって、一門の筆頭としての地位を築くが、江戸時代初期頃から独立の動きを示し、文化8年(1811年)幕府の裁定によって西本願寺の末寺となった。明治9年(1876年)、真宗四派の大教院分離に際して独立した。

 さらに、真宗仏光寺派がある。本山は、仏光寺、寺院・布教所は全国で約390か所ある。仏光寺は、京都市下京区高倉通仏光寺下ルにある。親鸞の関東布教によって形成された高田門徒をはじまりとし、初期の法脈は、親鸞・真仏・源海・了海・誓海・明光と続き、第七世・了源(1295~1336年)が山科にあった寺を仏光寺とした。以後、京都を中心に布教し、その勢いは本願寺を凌ぐほどであったが、これに対し、本願寺三世・覚如(1270~1351年)が『改邪鈔』を著して批判した。その後、前述のように、仏光寺十四世・経豪(蓮教)が本願寺の蓮如に帰依して、自己と、自己の多くの末寺をも、本願寺末寺とした。明治14年(1881年)に独立して、仏光寺派を公称した。なお、本山は秀吉の大仏建立地域と重なるため五条高倉の地に移転させられた。その後二度、火災に遭い(1788年と1864年)、大師堂は明治17年(1984年)、本堂は同31年(1898年)に再建された。

 真宗木辺派というのもある。本山は、錦織寺で、寺院・布教所は全国で約250か所ある。この本山は、滋賀県野洲郡中主町にある。寺伝によれば、慈覚大師・円仁(794~864年)が開創した毘沙門堂(天安堂)に、関東から帰洛途上の親鸞が止宿して、この寺で『教行信証』を完成したとされている。錦織寺の名は、暦仁元年(1238年)、天女が錦を織る瑞夢を四条天皇に奏上し、天皇から「天神護法錦織之寺」という勅額を受けたことによるとも言われている。しかし、本願寺三世・覚如の長男・存覚(1290~1373年)の自伝『存覚一期記』に慈空を「本部開山大徳」としていることからみると、開創は南北朝の頃と考えられる。慈空は下総豊田庄(茨城県水海道市豊岡町付近)に起こった横曽根門徒の流れを汲む人で、後、存覚の子・綱厳(慈観)(1334~1419年)が慈空の養嗣となって錦織寺を継いだ。真宗10派には、高田門徒の系統が多いが、木辺派は唯一、横曽根門徒の系統に属する。その後、蓮如によって本願寺教団が発展するのに際し、錦織寺七世・慈賢の子勝慧(1475~1559年)が蓮如に帰依するなど、門徒の多くが本願寺に吸収された。また錦織寺は天正年間(1573~92年)の戦乱で焼かれ、再建後も、元禄7年(1694年)に焼けた。この時は、江戸幕府の援助によって復興した。 真宗10派については、geocitiesの真宗十派概要を参照させていただいた。

 蓮如は、戦国期の文明3年(1471年)、坂井郡吉崎に道場を建てたことはこの日記でも述べた。蓮如自身は一向一揆に対して批判的であった。この拠点から「御文」を発し、大野郡平泉寺、坂井郡豊原寺(これも日記で紹介)などの白山天台系寺院との妥協を説いていた。しかし、高田系や三門徒系に対しては厳しく批判した。彼らは「秘事法門」であるとしたのである。

 戦国時代、高田系と本願寺系は鋭く対立していた。加賀の高田系は、西軍の富樫幸千代陣営に加わっていた。そして、本願寺派は東軍に属していたのである。それぞれの派が兵力をもち、一向一揆の形を取って諸大名の領地を分捕る行動に走っていたが、一向一揆そのものも、主導する宗派によって、互いに抗争を繰り返していたのである。

 この日記でも紹介した「嫁威し肉附の面」は、単に嫁虐めをしていた老女の悔い改め話だけではなく、白山信仰を真宗信仰に変えたことを誇る、真宗側の創作と考えた方が分かりやすい。つまり、白山権現を信じていた老女が、産土神の社の面を着けていたことが重要になる。在地の老人たちの白山信仰や産土神信仰が、若い嫁などが信じる本願寺系信仰に屈服させられていく様を描いたのがこの逸話の裏の意味である。

 しかし、吉崎で4年間過ごした蓮如も、加賀の一向一揆が吉崎に迫ったことから1475年吉崎を去り、海路で小浜に逃れた。
 そもそも、現在の浄土真宗は自らを一向宗とは呼ばない。というよりも、そう呼ぶことを徳川時代に入って本願寺が禁止した。むしろ、真宗以外の人々がそう呼んでいるのである。

 「一向」とは、ひたすらとか一筋ということで、一つに専念することを意味している。『無量寿経 』にある「一向専念無量寿仏」から、阿弥陀仏の名号を称えることが、この宗派の特徴であるとされ、一向宗が浄土真宗の呼び名となったのである。
 東西本願寺の管長である「大谷」姓についても、説明しておきたい。明治に入る前には、管長は、大谷という姓をもっていなかった。いまの天皇家のようなものである。しかし、明治時代に名字が必称となったことから、親鸞の娘・覚信尼と京都の下級公家・日野広綱の間の息子・覚恵の子孫の家柄が、同家ゆかりの大谷の地名を取って「大谷」を姓としたのである。

 覚信尼は、1262年に親鸞が亡くなったとき臨終を看取り、1272年に京都東山の自宅の近くの大谷に遺骸を納める堂を建てた。大谷の堂は親鸞の廟堂として浄土真宗の門徒の尊崇を集める大谷廟堂となり、覚信尼の長男である覚恵が留守職としてその管理を行うこととなった。ところが、大谷廟堂は諸国の門徒の参詣と寄進を集めることから、後に留守職を巡って、覚恵の子・覚如と、覚恵の異父弟・唯善との間で争いとなり、覚如が辛うじて勝利して自己の家系による留守職の世襲を確立した。1312年、覚如は廟堂を寺院化し、大谷本願寺が生まれたのである。

 15世紀後半に入ると、第八代門主となった蓮如の活動によって本願寺教団は日本全国へと広がるが、1465年に大谷本願寺を破却された。蓮如は、越前吉崎、ついで京都郊外の山科に移っている。

 16世紀に入ると、戦国の動乱の中で、本願寺教団は零細な農民から地侍、土豪などの武士階層に至るその組織力を武器に、日本各地で活動を活発化させるが、山科本願寺は天文法華の乱により1532年に戦災に遭い、第十代・証如は、摂津に蓮如が開いた石山寺に移り、そこを石山本願寺とした。淀川河口の河川交通の要衝大坂に位置する石山本願寺を本拠地として、証如は諸大名や幕府、朝廷との緊密化を図り、本願寺の勢力基盤を安定させた。

一方で、証如の時代の末期から、北陸をはじめとする地方の本願寺教団では、本願寺の統制を外れて独自路線を歩み始めた。証如の子、第十一代・顕如のとき、事実上、自立した大名権力となっていた本願寺教団は、宗教勢力から領主権力を奪って統一支配を確立しようとする織田信長と対立することとなった。1570年から10年にわたって続いた本願寺と織田氏の抗争、いわゆる石山戦争は、要塞化された石山本願寺に立て篭もる顕如らと、各地で織田氏への抵抗運動を繰り広げる本願寺門徒との連携によって本願寺が優勢に立ち、信長を大いに苦しめた。しかし、1574年には伊勢国長島の願證寺が織田氏によって滅ぼされ、1575年に越前を織田氏から奪還した一向一揆が覆滅されるなど各地の抵抗が弱まり、1578年には木津川の合戦で本願寺と同盟する毛利氏の水軍が織田水軍に敗れるなど、本願寺派は、敗北に継ぐ敗北を重ねた。本願寺は、雑賀衆などの支援を集めはしたが、次第に孤立し、1580年、ついに信長に屈して石山本願寺を退去し、領主権力としての石山本願寺は消滅した。

 この時、顕如の意向に反して抵抗を続けることを主張した長子・教如と顕如は仲違いし、1593年に顕如が示寂すると、次男の准如が後継者に立てられた。これより門主の座をめぐって、本願寺は分裂の道を歩み始め、1602年に徳川家康が教如に准如の本願寺教団と別の寺地を与えて東本願寺を興させたのである。ウィキペディアによる。

 以後、両本願寺の管長は、代々公家と通婚を続け、公家の日野広綱の血を引く大谷家は、血統の上で、公家化が進んだ。このような経緯から、明治維新後、二つの大谷家は華族に列し、ともに伯爵を授けられたのである。そして、ついに天皇家まで繋がる高貴な血筋となった。庶民の宗教とされる浄土真宗の管長が日本で最高の血筋をもつ。教義の対立ではなく、権力と財力とのあまりにも見苦しい内紛を経て、つねに、権力の側に身を置こうとしてきたのである。

真宗教団連合のサイト

本山美彦 福井日記 27 土着宗教から大和朝廷へ――屈服か簒奪か?

2006-07-20 01:16:16 | 神(福井日記)
気比神社については、かつて、この日記で書いたが、外来宗教である気比の神が、その地位を上げることで、大和朝廷を支配するようのなった可能性が高いことを示すエピソードと、その反対に、気比神社が大和朝廷の国策神道の軍門に下ったというシナリオが、気比伝説に見られるので、ここで、気比神社について再論したい。

 『古事記』の「仲哀天皇段」や『日本書紀』の「神功皇后殺生十三年条」、「応神天皇即位前紀」の記述には、大和朝廷と気比神社との間に何らかの取引があり、気比側が大和政権を簒奪してしまったのではないだろうかとの想像を掻き立てるものがある。

 神功皇后が新羅を侵略しに赴いたとき、皇子・品陀和気命(ほんだわけ、誉田別王?)を九州の地で生んだ。皇子が大和に引き揚げてきた時、香坂王や忍熊王の襲撃に遭い、非常に苦戦した。これを皇子側は「穢れ」と受け取り、「禊ぎ」をするために、角鹿(つぬが、今の敦賀)にやってきた。伴なったのは、建内宿禰(たけのうちのすくね)であった。角鹿で参拝したのが、今の気比神社で、当時、伊奢沙和気(いざさわけ)大神であった。

しかし、禊(みそ)ぎをするのに、どうしてわざわざ若狭くんだりまで皇子たちが来たのかは記されていない。ここで、皇子は、不可思議な行動を取った。皇子は、この大神と名前を交換したのである。つまり、神社側が「ほんだわけ」となり、皇子側が「いざさわけ」となったのである。これはなぜなんだろう。「ほんだわけ」皇子が「いざさわけ」皇子になり、その「いさざわけ」皇子が、後の応神天皇になる。応神天皇の幼名が「ほんだわけ」であったことは何を意味するのだろうか。少なくとも、この行為は大和朝廷が行ったこととされているので、いかに、気比神社が大和朝廷ゆかりの神社であるかを、内外にアピールしたのであろう。

 さらに、皇子は、新たに「ほんだわけ」大神となった神に、朝廷に食料を供給するという任務を与え、「御食津神」とも読んだ。ここで、敦賀・若狭は「贅」(にえ)の国になった。この意味するところも重大である。朝廷に食料を供給する義務というのは、地方豪族が大和朝廷に服属することを意味していた。とすれば、気比の豪族、つまり、渤海人であろうと想像される角鹿氏が、朝廷に服属したと理解できるのだが、わざわざ名前を交換したというのはどう理解すればよいのだろうか。

 参考になるのは、岸俊男『日本古代政治史研究』である。同氏は、ここで登場する大和朝廷側の人物はすべて架空の者で、『記』『紀』の編者たちの創作であると断じている。推古天皇の後の7世紀の女帝たちの地位を高めるために、創作されたのが神功皇后であり、大化の改新の巧臣・藤原鎌足を顕彰する意図があって、7世紀後半に建内宿禰が創り上げられたのであり、応神天皇を挟む、それ以前の崇神天皇の系統と、以後の仁徳天皇の系統とをつなぐために、これも創作された天皇が応神天皇であるとされる。したがって、応神天皇には実体がない。「万世一系」とは、かなり強引に創り上げられた壮大な神話でしかないのかも知れない。疑えば切りがない。渡来人の地方豪族からはい上がってきた大和朝廷の正統性を謳い上げるには、大和朝廷側に都合のよい、あらゆる伝承が動員されたと見るのが、素直な神話の理解の仕方であるだろう。

 門脇禎二『出雲の古代史』によれば、出雲の地方豪族の神であった出雲の神々の祭祀権が大和朝廷に献上されたのは、7世紀の後半であった。気比の神も同じことであったろう。地元豪族の祭祀権が大和朝廷に献上されたのである。これを角鹿の屈服と見るか、大和朝廷の嫡出子の中に自らの血統を食い込ませた行為として見るかの、いずれが正しいかは、神話を検討するだけでは不明である。しかし、東アジア情勢が緊迫化する度に気比神社の地位が上がったという史実を私たちはどのように理解すればいいのだろうか。

 ただ、「ほんだわけ」皇子が、応神天皇であるという説には、結構、多くの異論が出されている。そもそも、「ほんだわけ」を「誉田別」としたことから、そうした誤解が生まれたという説もある。応神天皇の和風諱号が誉田別神であったのは確かだが、それが「ほんだわけ」皇子であるとするのは、混同であるという意見がそれである。

 気比神社が「けひ」と呼ばれるようになったのは、先の御食津神を大和朝廷が「笥飯」(けひ)神と呼ぶようになったからである。食料を折り箱(笥)で包むという意味である。『古事記』の「仲哀天皇段」に朝廷が笥飯神に封戸20戸を贈封したという記述がある(692年)その後、宝亀元年(770年)7月、気比神に奉幣があったことが記され、宝亀7年9月に従八位官に準じる気比神宮司が設置された。大和朝廷が包摂する前のこの神社は海の守り神であったと言われている。地方の神に中央権力の官位が与えられたのである。

 天平3年(731年)には、従三位に昇格している。神の位としては最高位であった。そして、遣唐使問題で大和朝廷に内紛が生じ、最後の遣唐使が帰朝した年、承和6年(839年)、気比神社は、従2位にまで上昇した。

 それとともに、気比神社の周辺にあった土着の神々までもが、気比神社に包摂されることになった。気比社7座、天利劔神、天比女若御子神・伊佐奈彦神が、気比大神の御子神(子供の神)に位置づけられるようになった。寛平5年(893年)には、正一位勲一等と、最高の地位にまで上り詰めたのである。

 単なる地方豪族の守護神であった一地域の無名の神が、最高官位にまで引き上げられ、国家の守護神になっただけでなく、気比神社の周辺の神々までもがそれに引き摺られて序列化され、気比神の下に「神の子供」として従属させられた。大和朝廷による国家的祭祀体制はここに完成したのである。しかし、そこには、巧妙な血の混淆が伺われる。以上は、『敦賀市史』通史編上、編411、編451を参照にした。 

本山美彦 福井日記 26 私度、白山、泰澄

2006-07-19 02:18:32 | 神(福井日記)
日本への仏教伝来は、百済聖明王が釈迦金銅仏と教典を欽明天皇に献上したことを指す。欽明天皇戊午の年(538年)とされる。これは、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』の記述による。『日本書記』では、欽明天皇13年としている。いずれにせよ、6世紀半ばに公的なルートを通じて仏教が伝来したとされている。これを「仏教公伝」という。

 しかし、どうだろうか。宗教の伝来を、権力による伝達に見るという発想自体がおかしいのではないだろうか。宗教は民衆に伝播するものである。とすれば、日本の権力に「学問」としての権力的宗教が伝来するよりもはるか以前から、私的レベルで日本に民衆宗教が伝えられていたはずである。そして、これが、越前・若狭の民衆宗教ではなかったのか。事実、538年より古い5世紀後半から6世紀前半のものであるとされる「仏獣鏡」が小浜市国分の国分古墳から発見されている。この鏡は、日本では数例しかない(『小浜市史』通史編上)。


 日本で最初の本格的な伽藍をもつ寺院は飛鳥寺であるとされている。蘇我馬子が造営したと言われている。崇峻天皇元年(588年)から推古天皇17年( 609年)の年代に建設されたものらしい。その後、聖徳太子による斑鳩寺(若草伽藍)や四天王寺、等々が建立されていく。持統天皇6年(692年)には、全国で545もの寺が存在していたとされる(『扶桑略記』)。全国の有力豪族が大伽藍を建立したのは、財力を誇ることだけでなく、中央政府が提供する仏教寺院への各種優遇措置、例えば、寺他の保有が認められるという特権を得ようとしたこともあったのだろう(『続日本記』和銅六年十月戊戌条)。

 伝来した仏教においても、それまでの日本の土着の神々信仰と同様、山は聖なる存在であった。事実、仏教伝来と同時に、「須弥山」信仰が出現している。

 「国家仏教」とは、僧は国が任命し、僧は、国家、国王のために働くことを義務づけられていたものである。とくに、天皇の病を癒すことが僧には期待されていた。病を治したり、国家の危機を救う祈りをするために、国家は、僧に山岳の修行を命じた。とくに吉野山での修行は有名であった。法王という空前の高い地位に昇った道鏡も山岳修行(密教的)で鍛え、権力者達の病を癒したということで、権力者の寵愛を得たのである(薗田香融『平安仏教の研究』)。

 国家の認可を得ない僧も多数存在していた。彼らは「私度」と呼ばれていた。今日の言葉の「支度」(したく)がこの「私度」に由来するのかどうかはまだ分からない。自前の費用で山岳修行に励む僧がこのように呼ばれていた。彼らは、初期から神仏混淆思想の持ち主であった。彼らの山岳修行は、この日記でも紹介したが、正式の「密教」に対して、「雑密」と言われる。正式なものと同じく、密教的な色彩を帯びていたのであろう。

 越前の白山信仰は、大和に仏教が公的権力の手で移植される以前から存在していた。中央からの指令以前に、民間レベルで神仏混淆の姿が民衆に受け入れられていた。それはかなり、道教的なものであったらしい。

 白山信仰では、十一面観音が非常に重要な位置にある。元来は、観音菩薩は女性を体現したもので、素朴な祖先崇拝の媒介神であった。祖先を追善するために、観音像が7世紀頃から民衆の手で彫られていた。天平時代に入ると、漢音は国家を護るという任務を帯びることになった。天平7年、玄という高僧が帰朝した時に、「十一面神呪経」を持ち帰った。つねに、変化を遂げる観音という受け取り方が民衆の中に広まり、それを象徴的に表したのが十一面観音であった(速水侑『観音信仰』)。

 奈良時代、十一面観音は、懺悔の対象であった。「十一面悔過」という。懺悔が仏事になったのである。そもそも、東大寺二月堂の「お水取り」は、この「悔過」を主たる仏事としていたのである。松明火のこぼれ火を浴びに参拝する善男善女は、本来は、自らの罪を懺悔するために集まっていることを忘れてならない(堀池春峰『南都仏教史の研究』上)。
 言うまでもなく、古来の日本には「禊ぎ」(みそぎ)や「祓い」(はらい)という、れっきとした懺悔行為があった。これを中央、地方、官寺、私寺、等々、全国レベルにまで「悔過」の仏事を広めることになったのは、じつにこの十一面観音の出現である。

 日本の神は仏が身をやつしたものであるとした「本地仏」としての神様として、十一面観音は、女性的たたずまいといい、変化する顔といい、神仏混淆の象徴的な姿であったのだろう。現在でも、無宗教の人の葬儀には、観音様が祀られている。

 奈良県桜井市に、大神神社がある。この神社の中に神宮寺がある。この寺の本尊が十一面観音である。大三輪寺本尊と呼ばれている。神仏習合の象徴である。これも道教と悔過が混淆したものであろう。白山の十一面観音はその嚆矢である。

 越前では、白山の美しさは女性のイメージとダブらされたのかも知れない。季節によって美しさの現れが異なる白山の姿が十一面観音になったのであろう。

 一口に白山といっても、地元では3つの山の総称である。その中心は「御前峰」である。ここの白山神が十一面観音なのである。それに対して、「大汝峰」が奥の院になり、この本尊は阿弥陀如来である。そして、越前側から見て一番近くが「別山」であり、ここの本尊は聖観音である。阿弥陀の脇侍が浄土教では観音とされているので、白山はかなり以前から浄土教と古来の神とが共存させられていたことになる(井上鋭夫『白山信仰』)。
 ちなみに、白山の神として、「白山比」(はくさんひび)という女神を頂いているという神話がある。この女神は、高麗生まれであるとも言われている。

 泰澄の創建になる大谷寺の本尊は、この十一面観音である。この日記の大安禅寺での項で説明した泰澄は、奈良時代に越前が誇った高僧であったが、詳しい経歴は分かっていない。官僧ではないが、地方で山岳修行して霊験を得た私度の僧が、都や地方の病人を直したという逸話がどこにもある。越前が生んだ修験者がついに都でも認知されたという誇りが、越前で多くに泰澄伝説が残る理由であろう。越前には、平泉寺、大谷寺、豊原寺大安禅寺の前の寺はじめ、非常に多くの寺を建立したとされる。おそらくは、数多くの泰澄的な僧がいたのであろう。

本山美彦 福井日記 25 行基

2006-07-15 00:00:12 | 路(みち)(福井日記)
 中央集権政権ができると、税を全国から調達し、都に運ぶ「官道」の整備が必要になった。官道は、大化の改新より少し前から整備されだしていたが、北陸道の整備はかなり遅れ、持統天皇の時代まで待たねばならなかった。当時の官道は、重要性に応じて、「大路」、「中路」、「小路」に分けられていた。大路は、都~太宰府の山陽道、中路は、東国、陸奥を結ぶ東海道東山道、そして、小路が北陸道山陰道南海道西海路であった。
 この道路作りには、宗教家の力が動員された。行基などがその代表格である。

 私たちがなにげなく、「智識」という言葉を、「ものを知っていること」と、受け取ってしまっているが、「智識」とは仏教用語であった。仏教興隆に協力する人、およびその行為が智識と呼ばれていたのである。仏教に協力することとは、寺院や仏像の造営はもとより、寺院に物資を運ぶための道路や橋の工事をも指していて、そうした行為のすべてが智識とされた。橋を造営するときに、動員された人夫の賃金をまかなうために、差し出された稲などは、智識稲と呼ばれるほどであった。

 行基は、奈良時代前半に活躍した。彼は、多くの信者を引き連れて、道路、池、橋を造営した。それはれっきとした宗教的行為であった。『行基年譜』(「天平13年記」)の1年だけでも、泉大橋、山崎橋、高瀬大橋、長柄・中河・堀江の橋を造成している。彼の行為、彼に従って労働力を提供した信者たちが、智識だったのである。

 京都宇治川にかかる宇治橋は、橋寺放生院の道登が造営したのか(大化2年、そこに建つ宇治橋断碑による)、元興寺道昭が建てたのかは(『続日本紀』「文武天皇四年三月巳未条」)、不明であるが、橋寺の碑には、「此の橋を構立し、人畜を済度す」とある。つまり、橋は人のみならず、家畜をも救済する、れっきとした宗教行為だったのである。「済度」とは、仏が、人々を、苦界の此岸から、悟りの彼岸に渡すこと、つまり、救うことを意味する仏教用語である。現実の世界で、橋をかけることは、死後の世界に彼岸に幸せに渡ることができる行為であった。智識として参加し、善行を積んで仏の御許に参りたいという願いを込めて、喜んで僧侶に率いられたのであろう。行基こそはその組織者であった。朝廷は、一度は行基を捕らえようとしたが、むしろ、行基のもつ民衆動員力を逆に利用するようになった。
 ここ、越前でも久米田橋の造営記録が残り、智識稲の記述が多く残されている。久米田橋は、いまの鳴鹿大橋と重なる。越前のみならず、加賀を含めたかなり広範な地域からこの智識稲が送られてきたという。

 道路が立派になっても、現地農民はさしたる恩恵を受けていたとは想われない。恩恵を受けたのは豪族であり、権力者たちであった。彼らの実益の「ために、宗教が動員され、損得勘定でなく、信仰心で動いた農民が、ここでも、宗教を介在させて、権力側にいいように利用されたのである。

本山美彦 福井日記 24 日吉神社

2006-07-14 00:00:35 | 神(福井日記)
 私は、永平寺町の兼定島という中州に住んでいる。この付近、やたらと日吉神社が多い。私のこれまでの常識は、同名の神社は地域に一つだけであるということにあった。しかし、この地域に多数の日吉神社があるはあるは。これは一体なんなのだろう。私の住んでいる吉田郡全体で15もある。兼定島から徒歩20分圏内に5つもある。隣の坂井市には12もある。足羽地区で8つ、大野地区で6つ。丹生地区で12、今立地区に3つ、南条地区に5つ、敦賀市には20もある。そこで、福井県神社誌(昭和11年)で調べた。

 日吉神社とは、比叡山の山岳信仰を源流とした地主神である。天台宗延暦寺が創建されたとき、日吉神社が鎮守神となった。天台密教が最初から鎮守という伝統的な日本古来の神様に守ってもらうのである。結構、ほほえましい。

 どうも、地元から比叡山に至る道筋に日吉神社が配置されたらしい。例えば、白山信仰の拠点である越前馬場と加賀馬場が延暦寺の傘下に入るや否や、白山から比叡山を結ぶ路に日吉神社が数多く設置された。これは、参拝者の安全を守護するための神社の配置だったのだろう。

 もし、それが正しければ、点在する日吉神社を結ぶと、比叡山に至る古道が描けることになる。例えば、丸岡から鯖江に至る路が『越前若狭地誌叢書』上「越藩拾遺録」に、「東は丸岡より鳴鹿へ至り、この川を越えて松岡に出、下吉野を経て小幡坂を越え、阿波が原より成願寺、渡村にて川を越え東郷へ出、榎木坂を越え粟田部・五箇へかかり、牧谷坂を越えて新河原の渡しより、鯖波に出る」とある。この名前の出ている地名に日吉神社が配置されているのである。

 山中温泉からは、上武田・山竹田を経由して鳴鹿で九頭竜川を渡るとある。
 仏教伝来前の古代日本では、神の降臨する聖地と見なす信仰が存在していた。自然には霊が存在する。その霊が人格化して神になる。神は、本来、空中を浮遊する存在である。そして、時々、地上に降臨する。神々が好んで降臨する地は、円錐形に尖った山の山頂である。神々が降臨する山頂を神奈備という。その場に神木や磐座が設置され、それが民衆の信仰の対象となる。

 さらに進んで、山そのものが神体であるという信仰が生まれる。日本最古の神社は大和の大神神社と言われている。この神社には拝殿はあっても本殿がなかった。三輪山全体がご神体だからである。人々は山に登るのではなく、遠くから拝殿で山というご神体を拝んでいた。

 白山などのような2000メートル級の雪山については、民衆はその神を恵みを与えてくれるが荒ぶる神として恐れおののいていた。山は人間が立ち入ってはならない恐ろしい聖地であると人々には意識されていた。したがって、この段階では、人々は峻厳な山を仰ぎ見ることのできる場所に社を設置し、そこから遙拝するという形式を取っていた。この点については、下出積輿「山岳信仰と仏教」(『古代日本の庶民と信仰』)がある。

 ここに、仏教と道教が到来する。これら宗教は、険しい山だからこそ、そこに近づけば神仙の高揚を得ることができ、常人にはない神秘的な力を聖地から得ることができるとした山を修行の場とする考え方を打ち出した。古来からの山の神性と外来宗教とが融合した。これが日吉神社のもつ意味ではなかろうか。

 密教の世界では、教義の世界を「純密」、山岳修行の世界を「雑密」と呼んでいた。最長の比叡山入山が日本の仏教の姿を変えてしまった。かぎりなく山岳仏教、神仏混交に傾斜したのである。

 国家が保護した仏教に対立する形で、民間には道教が広まった。仙人を理想とするように、道教は、深山幽谷での生活を理想とする神仙思想に彩られていた。祖役小角は8世紀、葛城山での修行の成果として空を飛べるようになったとされた。これは、『続日本紀』に記されている。

 天台真言密教が隆盛するにつれた、修験道が確立してきた。山こそは、古代神道、道教、密教とが融合する修験道という日本独特に修行継体を生み出したのである。
 神宮寺(神様が住むお寺!)が建てられるようになった。仏教の側は、神は仏典に説かれている「護法善神」であると位置づけた。そして、神は仏が化身したものとする「本地垂迹」説が出てきた。いずれも、山岳信仰がもたらしたものである。

 街道に配置されている多くの日吉神社が、それこそ多くのことを私たちに語りかけてくれる。日本という国は、要するに折衷につぐ折衷を繰り返した国である。いいではないかと。