消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.125 天津条約

2007-06-27 12:56:30 | 福井学(福井日記)

 1840年のアヘン戦争によって、清に上海などの5港を開港させ、アヘン取引を黙認させたが、中国人の反英意識が高揚し、英国の商業的利益は期待されたほどのものではなかった。中国奥地への進出も許されなかった。もう一度、戦争を起こして清にさらなる開国をさせるべく圧力を加えるべきだとの議論が英国で沸き上がったいた。アロー号事件が格好の口実を英国に与えた。それはなりふり構わぬ恐喝事件であった。



 1856年10月8日、清の官憲がアロー号を臨検し、清国人乗組員12名を海賊行為の疑いで逮捕した。英国籍の船を臨検し、乗組員を逮捕するとは条約違反であるし、逮捕劇のさいに、官憲が英国国旗を引きずり降ろしたと、当時の英国の広東領事であったハリー・S・パークスが抗議した。これはとんでもない言い掛かりであった。アロー号は、英国籍に登録された過去はあった。しかし、1856年には契約は切れてた。英国籍でもないアロー号は、英国国旗など掲げてはいなかった。

   清の両広総督で、欽差大臣であった葉名は英国に抗議の権利はないと拒否したが、パークスは執拗に抗議し続け、清駐在全権大使兼香港総督のバウリングは、現地の英国海軍に命令して広州周辺の砲台を占拠させた。これに抗議した民衆は、外国人の居留地に放火した。



   当時の首相、ヘンリー・パーマストンは、本国軍を現地の戦闘に派遣しようとしたが、議会の反対でできなかった。そこで、パーマーストンは、議会を解散し、総選挙で絶対多数を実現し、今度は議会の承認を得て、5000人の軍隊を派遣した。フランスにも応援を求め、ナポレオン3世はこれに応じた。



 1857年12月29日、英仏連合軍は広州を占領、葉名を逮捕、翌58年2月、英仏露米の全権大使たちが連名で南京条約の改訂を求めた。しかし、清政府は拒否。英仏連合軍は天津を占領。このときに結ばれたのが天津条約だったのである。

 天津条約は、以下のことが認められた。これら4か国の公使の北京駐在。キリスト教布教。内陸河川の4か国の商船の航行の自由。英仏への賠償金。アヘン輸入。新たに10港の開港。




 この条約締結にウィリアムズが大きく貢献したのである。以降、彼は、米国と清との交渉に深く関与していた。1876年、彼が米国の公的役務を辞任したとき、米国務省は感謝状を贈っている。

 中国人の性格についての正しい知識、中国人たちとの人脈、中国人と中国政府の要望、中国語の堪能さ、キリスト教精神、市民意識の向上、中国語辞書・中国研究書、なによりも、中国との条約にキリスト教布教の自由を挿入させたこと、等々に米国政府は感謝しているという内容であるop.cit.,  The Life and Letters, p. 412)。

 英仏連合軍は、天津条約を締結後、一旦軍隊を引き揚げたが、中国人民の怒りは大きく、その声に圧された清朝政府は条約の批准を渋りだした。

 
そこで、1859年6月17日、英仏の艦隊は再度天津の入り口にある白河口に出動したが、そこには、河を遡上するさいの障害物が設置されていた。障害物を撤去中に英仏軍は清の軍隊(モンゴル人、サンゴリンチンが将軍)の砲撃を受け、慌てて上海に引き揚げた。今度は、1万7000人の大軍で清の砲台を英仏軍が占拠。

   しかし、ここでも、サンゴリンチンの活躍によって、パークスが捉えられ、使節団も11名が殺害された。連合軍は今度は北京を攻めた。清の皇帝・咸豊帝は熱河に逃れた。10月18日、連合軍は、円明園に放火。1860年、連合軍は北京を占領。ロシアの仲介で北京条約が結ばれた(11月)。天津の開港、九竜半島を英国に割譲、中国人の海外で欧米が使役するために、中国人の海外移民の合法化、ロシアには沿海州を割譲した。

 ウィリアムズは、1833年に広東に到着し、1884年に中国を去ったのであるが、中国語は、ロバート・モリソン(Robert Morrison, 1782-1834)から習った。ただし、ウィリアムズは広東にきた最初の米国人宣教師ではない。彼の到着の3年前の1830年にリヤ・ブリッグマン(Elijah C. Bridgman, 1801-61)が広東にきていた。ブリッグマンもモリソンから中国語を習っている。ブリッグマンは、中国人が知的興味に乏しいと歎いていた(Lazich, Michael C., E. C. Bridgman(1801-1860): America's First Missionary in China, The Edwin Mellen Press, 2000, p. 112)。

 中国人の知的興味を喚起するには、キリスト教の中国語訳をもってするしかないと考えた、ブリッグマンとモリソンは、広東にモリソン出版を設立することにした。

 
これに、米国の伝道局(the American Board)が賛成し、在広東の米国商人のD. W. C. オリファント(Olyphant)が資金を提供した。Chinese Repositryが1832年5月に発刊することになる。月刊であった。

 1833年からウィリアムズもこの編輯に参画した。もちろん、清政府による妨害が頻発した。1834年8月、ウィリアムズは、出版社の継続は不可能であると米国伝道局に手紙を送っているThe Life and Letters, op.cit., pp.76)。

 しかし、同時に、ペリー提督の日本での交渉に多大の期待を表明していた。砲艦外交とキリスト教の布教が軌を一にしていたことをそれは雄弁に物語っている。ぺりーの日本への来航の直前に米国伝道局に宛てた手紙には以下のことが書かれていた。

 「現在、この地(広東)には、多数の艦隊が待機している。ペリー提督がまもなく日本を訪問するであろう。将軍と会見し、米国の鯨取りたちを文明的に取り扱うという条約を結ぶように説得するであろう」(ibid., p.181)。

 この時点で、ウィアムズは、日本においてペリーの通訳を務める気持ちになっていた。

 そして、一切の威嚇をせずに平和的な条約を交わせたし、その文面は自分が書いたことを誇らしげに語っている(Williams, S. W., A Journal of the Perry Expedition to Japan, 1853-1854, ed., by Williams, F. W., Kelly & Walsh, 1910, pp. 224-25)。ただし、ウィリアムズは代表者/
大学頭・林韑(はやし・あきら9を「リン」と発音したままであった。

福井日記 No.124 アヘン戦争と南京条約

2007-06-26 01:05:30 | 福井学(福井日記)

 日本でキリスト教伝道において巨大な足跡を残したS. W.ウィリアムズ(Williams, 1857-1928)が、伝道、そしてその任務遂行のために、中国語学習者であったことは、当然であるが、彼はまた有能な外交官でもあった。

 彼の息子のフレデリック・ウェルズ・ウィリアムズ(Frederic Wells)による父の伝記には、副題として、伝道師(Missionary)、外交官(Diplomatist)、中国研究者(Sinologue)という単語が使われている(Williams, F. W. Williams, The Life and Letters of Samuel Wells Williams, LL.D.: Missionary, Diplomatist, Sinologue, G. P. Putnam's Sons, 1889)。

 彼は、1833年、米国海外伝道事務局(the American Board of Commissioners for Foreign Missions)の広東通信員として広東に派遣された。

 
その後、30年以上に亘って、中国と日本の開国のために奮闘した。そして、1856年、在中米国公使館に職員兼通訳として採用された。北京大学と復旦大学とエール大学が学術提携したさいに、彼の功績が称えられた(Tao, De-min, "The Charitable Man from Afar: A Reappraisal of S. W. Williams'(1812-1884)Involvements in the Mid-19th Century East Asia; http://www.sal.tohoku.ac.jp/^kirihara/public-html/cgi-bin/shibusawa/Tao.pdf)ことから類推しても、彼の中国における存在は大きかったと思われる。



 1854年の神奈川条約をペリー提督(Commodore Perry)が結んださい、ウィリアムズが通訳を務めた。

 
そのことに、ペリーは、1854年9月6日、香港から、感謝の手紙を彼に送っている。日本における成功は、貴方(ウィリアムズ)の類い希な素晴らしい通訳と知識のお陰であるというのである(Williams, F. W., ibid., pp. 229-30)。さらに、ペリーが帰国後、交渉経過を作成するときに、ウィリアムズの協力を強く要請している(1855年3月13日、ibid., p.231)。

 1856年から20年間、ウィリアムズは中国で外交的な仕事に携わった。米中間の1858年の天津条約(the Tientsin Treay)締結に大きく貢献する。ウィリアムズは、条約の中に、キリスト教布教の自由を挿入させたのである。

 キリスト者としの使命感は理解できる。しかし、後の中国に対する列強の植民地的政策を定着させた天津条約の中身について、ウィリアムズは良心の呵責を感じなかったのであろうか。キリスト信者を中国で増やすことができれば、帝国主義の暴虐を神は許してくれると信じきっていたのであろうか。



 天津条約に至る経緯をかいつまんで説明しておこう。

 清は、嘉慶元(1797)年、アヘンの輸入禁止令を出す。
 
中国からの銀流出が、銅に対する銀価値を高め、契約が銀、支払いが銅であった中国経済に物価騰貴をもたらし、経済破綻の様相を呈していた。銀建契約の下で、銀高騰・銅減価という状況は、通常の使用貨幣が銅貨であるために、中国民衆が支払わなければならない銅貨数が増えることになる。これは物価高騰である。

 アヘンの輸入激増が中国国内から銀貨流出を引き起こし、その結果、銅貨に換算した深刻な物価騰貴が進行してしまう。銀貨1枚が銅銭1000文であったのに、2000文に高騰したのである。もちろん、アヘン吸引による人間の廃人化が進む。こうした状況を阻止しようとしたのが、1797年のアヘン輸入禁止令であった。

 「弛禁論」といった妥協策も検討された。現実的にもアヘン輸入を禁止するのは困難なので、むしろ、輸入を認めて輸入関税を高くすればよいという類の現実妥協論がそれである。しかし、当時の皇帝はそうした妥協策を退けた。当時の道光帝は、林則徐を欽差大臣(特別任務を帯びた皇帝任命大臣)に任命して、アヘン吸引者の死刑を内容とするアヘン取り締まりの任務を林則徐に託した。



 林則徐は、道光19(1839)年、アヘン商人たちに、アヘンの中国持ち込みをしないという誓約書の提出を命じた。そして、英国のアヘン商人たちが持ち込んだアヘンを没収し、消却した。

 因みに、日本の史学者の多くは、東インド会社への反感が強すぎて、これらアヘン商人たちを自由貿易を行う私商人として賞賛した経緯がある。ジャーディン・マセソンやグラバーへの無神経な賞賛も軌を一つにしたものである。とくに、東大系に多かった。私の処女作はこのことへの反発から始まっている。長い長い私の研究はアヘン貿易の検討から始まった。




 林則徐はアヘンに海水と消石灰をかけてアヘンの毒素を中和した。この化学反応には煙が出ることから、林則徐がアヘンを焼却したという誤解が常識になってしまった。林則徐が英国アヘン商人から没収したアヘンは1400トンを超えた。そして、誓約書を出さないアヘン商人を港から退去させた。

 英国の監察官のチャールズ・エリオットは、退去しようとする英国船を押しとどめて、林則徐に抗議した。米国船は誓約書をいち早く提出して、広東貿易の独占権を確保しようとした。これに英国が反発したのである。エリオットは軍艦を出して林則徐を威嚇した。林は動じなかった。

 1839年、エリオットは武力行使に出た。広東港にいた清国の船はことごとく破壊された。後に首相になるが、当時は野党であったウィリアム・グラッドストーン、「こんなに恥さらしの戦闘はない」と反対したが、清への出兵費用は、英国議会で、賛成271票、反対262票で承認された。

 
英国の艦隊は、広東ではなく、首都北京に近い天津に急行した。これに驚愕した清政府は、林則徐を解任した。

 1840年1月7日、英国艦隊は中国各地を砲撃した。そして、1842年8月29日、江寧(南京)条約によって、清国は多額の賠償金の支払い、広東・廈門(アモイ)・福州・寧波(ニンポウ)・上海の5港が開港させられ、翌年(1983年)の虎門寨追加条約によって、清は英国に対して、この地域での治外法権を認め、清側の関税自主権の放棄、英国の最恵国待遇を認めさせられた。アヘンに関する条文はなかった。英国も歴史に残る公式文書にアヘン貿易の自由化といった恥ずべき文章は残せなかったのであろう。

 他の列国は、これに便乗した。米国は望廈条約、フランスは黄埔条約を結んだ。内容的には南京条約と同じであった。

 清国高官は、事態を深刻に受け止めていなかったのかも知れない。しかし、林則徐は非常に正確に事態の深刻さを認識していた。



 彼を崇拝する部下の魏狄(この名を見てもただ者ではないことが分かる)は、『海国図誌』を表し、西欧の技術を修得して、西欧を倒すという「夷の長技を師とし、以て夷を制す」というスローガンが出され、以後のアジアの政治的指導者の共通認識となった。

 当然、この書物と、アヘン戦争(*)の結末は清国商人によって日本に伝えられてた。しかも、日本の学問を支えていたのが、英米仏からの圧迫に呻吟していたオランダの知識人であった。この歴史の偶然から日本はどれほど恩恵を被ったか。英米に跪く、旧幕臣・明治新政の高官に対して、事態の正確な認識を訴えていた蘭学を修めた知識人たちの苦闘を私たちはもっと遡及的に研究すべきである。

(*)動画あり(上記をわかりやすく説明したプレゼン動画です)

福井日記 No.123 モリソン 

2007-06-25 00:53:16 | 福井学(福井日記)


 ロバート・モリソン(Robert Morrison, 馬禮遜、1782-1834)は、スコットランド長老教会派の牧師であり、プロテスタントとして最初の中国での伝道師である。

 1807年、中国で宣教しようと願うが、中国行きのイギリス東インド会社の船に乗船を拒否され(当時の同会社は宣教師の乗船を好まなかった)、やむなくニューヨーク経由で中国を目指すことにし、1807年5月12日、トリデント号(the Trident)でニューヨークを出発し、同年9月4日にマカオに到着した。



 しかし、マカオでも、カトリック教によって、布教を禁じられ、広東郊外の13行(英国商社)の居留地に向かう(1807年9月7日)。しかし、馴染めず、病気になって1808年6月1日、マカオに引き返す。

   しかし、その間に北京語と広東語を修得した。マカオで最初の妻(Mary Morton)と遇う、1809年2月20日に結婚、再度、単身で広東に向かう。当時の広東では外国の女性の居住が禁じられていたからである。広東でイギリス東インド会社に雇われる。




 広東での布教活動中に、聖書の中国語訳を12年かけて、英中辞書を16年かけて作成した。ただし、広東では外国人が中国語を学ぶことと、キリスト教関係の書物を中国語で刊行することが禁じられていた。そのために、モリソンは、マラッカに移住し、印刷所を作った。1818年には中国人とマレー人の子供を対象とした学校を設立した(the Anglo-Chinese College)。



 この学校は香港の英国領有とともに、1843年香港に移設された(ただし、モリソンンの死後)。この学校は、いまでも英華書院(Ying Wa Collrge)として香港にある。



 また、シンガポールのラッフルズ学院(Raffles Institution)も、設立後すぐ、モリソン・ハウスと呼ばれるようになった。これは、中学校で、名門中の名門である。1823年にラッフルズが創設した。ラッフルズは、モリソンを崇拝していた。



 モリソンは、1834年、広東で客死した。墓所は、マカオのオールド・プロテスタント・セメトリー。墓碑銘を拾い読みする。

 「最初の中国伝道者。この地で17年間、神の王国を広げる。中国語辞書を作成。マラッカに英華学院を創設。一人で数年かけて聖書の中国語訳を作成。1807年、ロンドン伝道協会(the London Missionary Society)によって中国に派遣された。東インド会社の雇用人として25年間、通訳として勤務。1834年8月1日、広東で死去」。

 膨大な著作を残している。詳しい著作の一覧は、英文のWikipedia(Robert Morrison)参照。

 幕末の日本に巨大な影響を与えたモリソン号事件の船、モリソン号は、もとより、モリソンの名に因んだものである。この船は、ゴスペル・シップ(福音の船)と呼ばれていた。建造したのは、当時、広東貿易で巨利を得ていたオリファンド商会の共同経営者、C.W.キング(King)である。アヘン貿易で巨利を得ていた他の英国商社と異なり、キングは、林則徐と協力して、アヘン廃棄に立ち会っている(『有鄰』第445号、平成16年12月10日、p.3、http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_445/yurin3.html)。

 当時の米国の宣教師たちが、アジアの地にくるさいには、ほとんどこのモリソン号を使用していた。この船は、宣教師たちに無償で提供されていたのである。

 先述の、日本人漂流民7名を伴って、モリソン号が、江戸を目指して、マラッカを出港した日は、米国独立記念日の1837年7月4日であった。キングも同乗した。船の装備からすべての武器が撤去されていた。丸腰であることをアピールしていたのである(同上)。

 キングは、漂流民を日本に送還するだけだと弁明していたが、送還するだけなら、日本の領土ならどこでもいいはずであった。わざわざ江戸を目指したのは、布教の自由とキング自身が通商権を得たかったのであろう。



 既述のように、モリソン号には、S. W. ウィリアムズ、K. F. H. ギュツラフ、P. パーカー(Parker)等の宣教師たちが乗船していた(Cary, Otis, A History of Charistianity in Japan, Vol. II, Tuttle, 1976, p. 14)。

 19世紀半ばまでに、プロテスタントの布教活動ができなかった地域は、アフリカ奥地と日本のみであった。米国の伝道教会の日本への関心は異常なほど高かった。ペリーは言った。

 「(日本人が)キリスト教徒の仲間たらしめる日の明け初めんことを」(土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』(1)岩波書店、1948年、24ページ)。

 しかし、それは、純粋なキリスト教精神の発露ではなかった。米国は、1846年にオレゴン、48年にカリフォルニアを武力で領有した。西へ西へと向かうことが、米国の支配者の共通の野望であった。「全世界を巡って、すべて主によって造られたものに福音を伝えよ」という聖書のマルコ伝16章1節の言葉が、悪辣な暴力的奪取の言い訳になった。我々は略奪しているのではない。キリストの真理を伝えているのだと。

 東アジアでは、捕鯨の隆盛(いまは、米国は日本の捕鯨を非難している)、広東貿易の巨大な魅力が米国の支配者をして、宣教師を最大限利用した。それは組織的であった。考えてもみよ。多くの宣教を野蛮なアジアに派遣する費用を誰が出し、彼らの身の安全を誰が守ったのか。それにしても、日本のキリスト教史研究の、いかに、悲しいほどの牧歌主義か。

 少なくとも、信夫清三郎編『日本外交史』(1)毎日新聞(1874年)のような研究は、希有の存在である。

 キングは、キリスト教布教を通じて、日本との通商関係を強化しようとした。だからこそ、大量の宣教師を自分の建造した船、しかも、カリスマのモリソンの名を最大限利用した船で、運んだのである。キングは商社の経営者であった。この点、とくに強調されるべき論点である。

 モリソン号事件に関するかぎり、キングは失敗した。しかし、彼は言った。
 「よしかかる企図が個人の努力で出来なくてとも、合衆国政府は本問題を採択して日本通商の為の国力を以て日本の開国に対処しなければばらない。・・・基督教の聖書其の他の書籍を日本語に訳出して、何等かの方法で日本国内に配布し、日本国民に真の開国の意義を知らしめ、自由通商の門戸を開かしむる様努力をしなければならぬ。福音の光のみがそれをなし得る」(高谷道男『ドクトル・ヘボン』牧野書店、1954年、79~80ページ)。

 中国で伝道した宣教師たちが、非常に多くの中国語による宗教書を出した背景には、将来、日本で布教すべく、日本人が当時は読めた中国書を多数出版することによって、日本人に読んでもらうことを意識していたのではないだろうか(町島豊「明治前期キリスト教女学校史管見―プロテスタント宣教師の開拓者的役割―」http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf).。

 


福井日記 No.122 郭実猟

2007-06-20 11:29:22 | 福井学(福井日記)

 世界最初の英和・和英辞典は、1830年バタビアでメドハースト(Walter Henry Medhurst 麥都思, 1796 - 1857)が編纂した『英和和英字彙』である。



 メドハーストは、オランダ伝道教会の伝道師で、今後、オランダから派遣されるであろう宣教師たちのために、バタビアで、アジア各国の言語を学んでいた。

 日本語は、オランダ東インド商会から借りた日本語文献から学んだ。



 この辞書を頼りに、日本初の聖書和訳を試みたのがギュツラフ(Karl Friedrich Ausut Gützlaff, 1803-51)である。



 ギュツラフは、北ドイツのポンメル(Pyritz, Pomerania)に、織物会社の子として生まれた。1820年ハレ(Halle)の神学校(Padagogium)、1821年、イェニッケが設立したベルリンの宣教師養成学校(Janike Institute)に転じ、神学と医学を修めた。

 そして、1824年、ロンドンで中国伝道で著名な聖徒モリソン(Robert Morrison 、馬禮遜; 1782- 1834)に出会う。

 
モリソンに感動したギュツラフは、オランダ伝道教会宣教師としてバタビヤに赴任、メドハーストの家に寄宿し、そこで、中国語とマレー語を学んだ。天保3(1832)年、琉球に到着。1834年、モリソン没。



 モリソンは父子ともに中国で活躍した。アヘン戦争との関わりも深い。Godを神と訳すか、上帝と訳すかで一大論争があった(柳父章『「ゴッド」は神か上帝か』岩波文庫、2001年)。

 ギュツラフは、1835年、英国商務庁の主席通訳官として採用され、マカオに滞在。そこで、尾張小野浦の猟師たちを保護する。彼らは、1832年秋、江戸に向かう途中遭難、1834年北米に漂着、ハドソン湾会社に拾われ、ロンドン経由でマカオに送り込まれた人たちであった。

  小野浦は愛知県知多半島美浜町小野浦が現在の地名で、日本最初の聖書翻訳に貢献したとして、これら猟師たち(岩吉、久吉、音吉)の顕彰碑を日本聖書教会が美浜町字福島に建てている。

 ギュツラフは、彼らの力を借りて、怪しげな日本語ではあるが、日本最初の聖書和訳『約翰福音之伝』、『約翰上中下書』を1837年、シンガポール堅夏書院から木版刷で出版している。



 
前書は、同志社大学などに7冊が日本に保存されているが、後者は日本にはない(解説がある。高谷道男・秋山憲兄解説、ギュツラフ訳『約翰福音之伝・約翰上中下書』覆刻版別冊、新教出版社、1976年。海老澤有道『日本の聖書』講談社文庫、1964年)。

 ギュツラフは、有名なモリソン号事件の当事者でもある。モリソン号事件というのは、1837年7月、7名の日本人漂流民(先の尾張の3人と新たに肥後の4名)をオリファント商会の船、モリソン号で日本に送ろうとしたが、浦賀港で激しい砲撃を浦賀奉行と薩摩藩から受け、撤退する運命になった事件を指す。砲撃は異国船打ち払い令に基づく。

 新しい4名とは、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松で、1835年11月、天草を出向し、長崎に向かっていたが漂流して、1836年ルソン島に漂着、スペイン官憲に保護され、オリファント商会の好意によって、マカオに送られ、ギュツラフの家に引き取られていたものである。浦賀で砲撃されたモリソン号は、マカオに帰港した。



 ギュツラフは、日本での伝道を夢見て同船に乗り込んでいた。S. W. ウィリアムズも同乗していた。


 モリソン号は、軍艦ではなかった。そのために、異国船打払令の安易な適用に対して日本側でも批判が高まった。



 とくに、『慎機論』を著した蘭学者の渡辺崋山、『戊戌夢物語』を著した高野長英らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件(蛮社の獄)が起こった。

 1839年のアヘン戦争以降、ギュツラフは、外交上の顧問、通訳として中国に滞在、中国名を郭実猟として、1844年、中国人の伝道師を養成する学校、「漢会」(Chinese Union)を設立。欧州に一度帰国し、中国での伝道の必要性を謳え、再度、中国にやってきたが、1851年、香港で客死。

 ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 1812-84)も中国での伝道のために、衛三畏と名乗った。ニューヨーク州ユーティカ生まれ、1833年アメリカン・ボード宣教師として広東に到着(1833年)、ミッション系の印刷所に勤務の傍ら布教活動。しかし、中国官憲から布教を禁止され、1835年マカオに移住、そこで、ギュツラフと知り合い、彼の家に寄宿し、すでに、同宅で寄宿していた件の日本人7名と知り合った。浦賀で追い返された後、天草漂流民の3人を印刷所で働かせ、彼らから日本語を学び、彼もまた、聖書の和訳を行っている。『馬太福音伝』がそれである

 ウィリアムズは、ペリーが来航したとき、通訳として同行している。その手記が、洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』雄松堂、1970年、である。

 1859年、日本の開国とともに、S. R. ブラウン(Samuel Robbins Brown, 1810-80)が日本に来航する途中、香港でウィリアムズと再会(最初は、後述のように、マカオで、ウィリアムズの家に寄宿)した。このときに、ウィリアムズは、ブラウンに自らの訳本の写しを手渡した。



 
写しというのは、1856年に、マカオの印刷所の火事によって、ウィリアムズの自らの稿本が消失していたからである。しかし、この写しも、1867年、ブラウン宅の火災のために消失。気か滴に1850年の庄蔵写本のみが残された。

 ウィリアムズは、長崎にもきている。その地で、サイル(E. W. Syle)、ウッド(H. Wood)
と連名で、米国の3つのミッション本部、つまり、聖公会(Anglican Episcopal Church)、長老教会(Presbyterian Church)、改革派教会(reformed Church)の伝道部に日本への宣教師派遣を訴え、以後、陸続と日本に宣教師が派遣されることになった。

 聖公会からは、J. リギンズ(Liggins)、C. M. ウィリアムズWilliams)、長老教会からJ. C. ヘボン(Hepburn)、D. トムソン(Thompson)、改革派教会からC. R. ブラウン(Brown)、D. シモンズ(Simmons)、J. H. バラ(Ballagh)、フルベッキたちが来日した(http://www.christ-ch.or.jp/4_torinashi/back_number/2003/2003.06.pdf)。
 ウィリアムズは、1876年、エール大学で東洋近代史・中国語教授となり、米国聖書協会会長を務め、1884年72歳で没した。 

  ブラウンもまた、米国のオランダ改革派教会派遣の宣教師である。コネティカット州イースト・ウィンザーに生まれる。ピルグリム・ファーザーズの子孫である。母、フィーベは、賛美歌319版の作者である。エール大学、ユニオン神学校卒、ニューヨーク市の長老教会に属した。中国モリソン記念学校(マカオ)長も務める。マカオ(ウィリアムズの家に寄宿)、香港に移り、8年間の中国での伝道の後、日本で伝道することになった。

 シンガポールでブラウンに出会い、それが機縁で20年間も一緒に日本で伝道することになったのが、ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)である。



 ヘボンは、米国長老派協会派遣の医者である。
米国ペンシルバニア州ミルトンに生まれる。プリンストン大学、ペンシルバニア大学医学部卒、ミルトンの米国長老派教会に入る。1841年東洋に向かったヘボンは、シンガポールでギュツラフの『約翰福音之伝』を入手、マカオのモリソン校からきていたブラウンと知り合う。シンガポールで中国語を学んだ後、1843年マカオに移り、その地でウィリアムズから中国での伝道方法を学び、アモイに移り、医療伝道に従事したが、夫人の病気で1845年一時帰国。1859年、日本開国とともに、同年10月来日、神奈川の成仏寺に住む。同年11月ブラウンも来日。聖書翻訳に両者は従事。格調の高い日本文を目指した。

 そして、1867年5月『和英語林集成』出版、8年間の労苦。明治20(1887)年、壮大な翻訳作業完了。じつに20年に亘るヘボンの辛苦。ヘボンは1889~91年明治学院初代総理、92年帰国。1911年ニュージャージー州イーストオレンジで没す。
 以上の資料は、ttp://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/kato6/kato_6.htm;  http://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/kato7/kato_7.htm

 日本最初のプロテスタント教会は、1872年に設立された「横浜(耶蘇)公会」(現・日本キリスト教会横浜海岸教会)である。これは、米国オランダ改革派(現RCA)の宣教師、フルベッキ、ブラウンおよびバラによる。

 また、米国長老教会の宣教師ヘボンおよびルーミスによる1874年創立の指路教会(現・日本基督教団横浜指路教会)は、明治初期のキリスト教伝道基地となり、横浜バンドと呼ばれた。

 日本におけるプロテスタント全教派の一致と協力を理想とした合同教団「日本基督公会」(1874)の構想が出され、それを踏まえて、米国オランダ改革派、米国長老教会、スコットランド一致長老教会の宣教師たちが、1877年に設立したのが、日本最初の改革・長老教会教団である「日本基督一致教会」である。

 日本基督一致教会は、日本基督公会の理想を再現すべく組合教会との合同を画策するがこれは不成立に終わる。それが決定的になったのち、日本基督一致教会は長老制に立つ改革教会としての憲法および規則の刷新を行い、1890年に「日本基督教会」(旧日基)と改称した(ウィキペディアより)。

福井日記 No.121 フルベッキ

2007-06-18 23:38:06 | 福井学(福井日記)

 フルベッキは、彼自身が、日本人に発音しやすく、フルベッキと自称したが、正しくは、グイド・ヘルマン・フリドリン・ヴァーベック(Guido Herman Fridolin Verbeek、1830~1898)である。オランダのザイスト市に生まれる。両親は、敬虔なルター派の信徒であった。モラヴィア教会で洗礼を受ける。同派の学校で蘭・英・独・仏語を習得し、ここで得た宗教的感化と語学力は生涯の活動の柱となった。

 ユトレヒトでエンジニアリングを学んだ。1852年、22歳の時、義兄の招きで渡米、ウィスコンシン州の鋳物工場で働く。1年後にニューヨークに移動、重症のコレラに罹ったが、完治した暁には宣教者になることを誓い、1855年、ニューヨーク州オーバン神学校に入学。

  安政4(1857)年、S. W. ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 中国名、衛三畏 、1812-1884)らによる日本宣教の呼びかけに応じ、米国オランダ改革派教会より最適任者として選ばれ、按手礼を受ける。

 按手(あんしゅ)とは「手を置くこと」である。按手礼は、神の祝福や力を伝えるための象徴的な行為であり、聖霊を受けることである。按手礼を授かって「正教師」となる。聖礼典(聖餐式と洗礼式)は正教師しかできないとされている(http://church.ne.jp/chitose/minister.html )。


 フルベッキは、安政6(1859)年にブラウン(Samuel Robbins Brown, 1810-1880)、シモンズ(Danne B. Simmons, 1834−1889)の3人で長崎に着いた。



 ブラウンは、米国オランダ改革派教会派遣の宣教師。コネティカット州イースト・ウィンザーに生まれる。アメリカ開拓のピルグリム・ファーザースの子孫であり、敬虔篤信な母フィーベは讃美歌319番の作者。1932年エール大学卒業。ユニオン神学校に学び、ニューヨーク市の長老教会に属した。選ばれて中国モリソン記念学校長となる。1839年マカオ、のち香港に移り、8年間中国青年のキリスト教化に尽くしていた。

 シモンズも、オランダ改革派教会の派遣宣教師兼医師とし到着した。しかし、翌年の春には宣教師を辞して、完全なる医師としての道を選び、居留地82番に開業した。



 フルベッキは、長崎で済美館の英語教師を務め、元治元(1864)年、校長となる。このとき、大隈重信副島種臣が塾生であった。フルベッキに惚れ込んだ大隈重信は、慶応2(1866)年、長崎に設けられた佐賀藩の致遠館にフルベッキを招き、自らも学び・教える。

 また、オランダで工科学校を卒業した経歴から、工学関係にも詳しく本木昌造の活字印刷術にも貢献している。来日時、長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。上野彦馬が撮影した写真県立長崎図書館に残っている。

 明治2(1869)年、大隈の招きで、上京して開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となった。

 フルベッキは、同年、明治政府の顧問となり、政府の諮問に答え献策した。大隈重信に手渡したBrief Sketchは、信教の自由やその他の理解のため政府高官が直接欧米を視察するように建白したもので、岩倉使節団の米欧派遣の素案となった。また太政官顧問としてのフルベッキは主に各国の法律の翻訳や説明にあたった。

 その後、東京一致神学校(明治学院の前身)や学習院の講師となる、明治19(1886)年、明治学院の創設時に理事として関わり、明治学院神学教授、明治学院理事会議長などを歴任した。

 明治20(1887)年、年明治学院の教授時代にフルベッキは、A Synopsis of all the Japanese Verbs. with Explanatory Text and Practical Applicationという、日本語の動詞活用の本を横浜Kelly & Walshから出版している。

 明治20(1887)年12月31日、『旧約聖書』の日本語訳が完成した。この中で「詩篇」と「イザヤ書」はフルベッキの名訳と言われている。

 
また宣教師として日本各地を伝道して歩き、余暇には数々のキリスト教入門の書を出版した。『人の神を拝むべき理由』もその一つである。

 フルベッキは7男4女をもうけた。息子のギュスターヴ(Gustave Verbeek, 1867-1937)は米国に渡り、ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家となった。

 孫のウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック(William Jordan Verbeck, 1904-)は陸軍士官学校を卒業後、米陸軍第24師団歩兵第21連隊長として太平洋戦争に従軍、レイテ島・リモン峠で第一師団と戦った。彼については、大岡昇平の『レイテ戦記』に紹介されている。



 明治政府の教育制度の出発点となった「学制」の立案については、政府顧問であったフルベッキの貢献が、森有礼のそれと共に大きなものであった。


  しかし、その具体化の段階において、政府内に深刻な意見の対立が生じた。井上馨らは、有力政治家で構成された岩倉使節団の留守中に、重大な改革を実施すべきではないと反対し、一方の大隈は即刻の学制実施を主張した。その結果、明治5(1872)年6月、案文が成立したが、この段になって再び閣内で方針対立が顕在化した。案文を直ちに実施したいと考える大木喬任(たかとう)ら文部省側に対して、井上馨ら大蔵省側は、国庫が逼迫しているので実施を急ぐべきでないと強く反対した。

 大隈が強引に押し切り、四民平等かつ女性をも対象にした「学制」に結実した。この「学制」は余りにも理想的に過ぎて、7年後には「教育令」にとって代わられたが、フルベッキが大きく関わっていたのである(『早稲田学報』2002年11月号『大隈重信の義務教育実施への貢献』、http://www.waseda.jp/jp/okuma/educator/educator03.html )。

 このフルベッキが、福井での教育を行う人材の派遣を米国オランダ改革派教会に要請し、グリフィスが志願したのである。



 そして、甥の兄弟をフルベッキに預け、米国に留学させた横井小楠との推薦で、松平春嶽もグリフィスの招聘に同意し、ここに、福井とグリフィスとの接点ができたのである。

福井日記 No.120 ラトガース大学

2007-06-17 10:17:46 | 福井学(福井日記)

 幕末の日本人留学生を多数受け入れ、グリフィスをはじめとした教師を日本に派遣したことで知られる米国のラトガース大学は、オランダ改革協会との関係が深かった。



 この大学は、米国がまだ英国の植民地であった1766年11月10日付けの英国王・ジョージ3世(George the Third of Great Britain, France and Ireland)の勅許状に基づき、1771年11月、ニュージャージー州ニューブランズウィックの地に開学されたクィーンズ・カレッジ(Queens College)の後継である。

  このカレッジの設立を申請していたのは、ニューヨークとニュージャージー州に居住していたオランダ生まれの人々と、彼らが依拠していたオランダ改革派協会である。このカレッジは州立である。

 このカレッジは、1825年11月に、校名をラトガース・カレッジ(Rutgers College)に変えた。それも、ニュージャージー州議会法によってである。

   これは、ニューヨークの富豪で、独立戦争時に大尉として活躍し、同校に多額の寄付をしていたヘンリー・ラトガース(Henry Rutgers)の名を付けたからである。当時の学長、ミレドラー博士(Dr. Mikkedoler)はオランダ改革派協会に所属していて、ヘンリー・ラトガースが、その協会の先輩であり、同校の評議員でもあったことから、校名の改称が同校理事会で承認されたのである。同校は、さらに、1924年にラトガース大学(Rutgers University)と校名を変更している。



 熊本藩の横井小楠の甥兄弟の横井左平太(海外渡航禁止令がまだあったので、伊勢佐太郎との偽名を使った)と横井太平(同じく、沼川三郎の偽名)が同校に留学したのが、慶応2(1866)年。

   日本初の米国への留学生であった。しかし、彼らは病を得て、やむなく帰国し、明治初年に病死している。



 不幸なことは重なるもので、福井藩の日下部太郎(くさかべ・たろう)が、1866年5月21日、幕府が渡航禁止令を撤回したことを機に、正式の海外旅行免状をもって、慶応3(1867)年、遊学先の長崎からラトガース・カレッジに留学し、数学では首席を通していたが、卒業目前の1870年4月13日、同地で客死している。結核であった。25歳であった。

 日下部はあまりにも成績優秀であったために、正式に卒業していないにもかかわらず、卒業者として認定され、金の鍵(ゴールド・キー)が遺族に贈呈されている。グリフィスがそれを携えて来日し、遺族に渡した。日下部は、ニューブランズウィックのウィロー・グローブ墓地(Willaw Grove Cemetry)に埋葬されている。

 しかし、同墓地には、同大学在学中に死亡した日本人留学生が他に8名も葬られている。いかに、結核が当時の日本の青年の国民病であったとはいえ、これは多すぎる。1866年に初めてこの大学に入学した日本人留学生は、1870年代になっても累計約40人にしかすぎなかったのに、その2割が客死したのである。

  なにがあったのだろう。単なる偶然の重なりなのだろうか。私には気になる。

  水が合わなかったこともあろうが、藩の運命を担って荒々しい米国の地で、なにかを掴もうとした青年たちの強迫感はいかばかりであったろう。秀才たちであったという総括はなにも語らない。過度の期待を背負う真面目な青年たちの悲壮感に私たちは思いを馳せるべきである。

 幕末、それも、日本の開国前夜、オランダ改革派教会海外伝道局ニューヨーク本部は、オランダ生まれのフルベッキ(Guido Flidlin Verceck, 1830-98)を長崎に派遣した。外国人は長崎にしか居住できなかったからである。安政6(1859)年のことであった。



 このことは、非常に重要なことである。米国は、市場開放をはじめとした開国を相手国に圧力をかけながら、タフなネゴシエーターを現地に派遣して、相手国民衆の心を掴むという米国の手法は、南北戦争後から定式化されていたことをこの事態が示しているからである。

 ネゴシエーターは、カルバン派の改革・長老派教会(Reformed & Presbyterian churches)から派遣されることが多かった。

 
つまり、米国の外交には、必ずといっていいほど、米国の主流のキリスト教宣教師の派遣を伴うものであった。この手法は、現在でも変わっていない。まず、自国企業を現地に進出させ、その企業を十全に活動させるべく、外向的圧力を加えると同時に、進出した企業が進出先の有力者を取り込む。

 お雇い外国人の研究は、わが福井では先進的な位置にある。しかし、先人の大きな業績に対して、申し訳ないが、米国政府の外交姿勢との関係、および、日本国内の権力機構との関連でお雇い外国人が分析されることなく、先生と弟子たちという局面のみに照準が合わされてきたことに、私は、いささか不満を覚える。

 フルベッキは、森有礼の学制改革にもっとも大きな影響を与えたカルバン派のクリスチャンである。日本のキリスト教系大学の創設には彼が大きな役割をはたしている。彼はまた、日本最初のプロテスタント教会、「横浜(耶蘇)公会」(現・日本キリスト教会横浜海岸教会)の設立の中心メンバーであった。

 以上の、資料は、Burks, Ardath W.{1985], The Modernizers- Overseas Students, Foreign Employee, and Meiji Japan, Westview Press, Boulder and Londonの邦訳、梅渓昇「緒言―ラトガース大学と日本―」、バークス、アーデス・梅渓昇監訳『近代化の推進者たち―留学生・お雇い外国人と明治―』思文閣出版  1985年、3~9ページ、による。



 この著作は、ラトガース大学創立200周年記念、日本との交渉開始100周年記念行事として、1967年4月26~28日にかけて同大学で行われた「文化交流100年記念祝賀・ラトガース・日本会議」の成果である。

福井日記 No.119 簑田胸喜の平凡な愚痴

2007-06-11 23:31:08 | 福井学(福井日記)

 佐藤優(さとう・まさる)と竹内洋(たけうち・よう)の対談、「いまなぜ簑田胸喜(みのた・むねき)なのか―封印された昭和思想」が、『諸君!』(2007年7月号、文藝春秋)に掲載されている。

 竹内は、昭和6(1931)年の満州事変が左翼文化全盛時代を国粋主義全盛時代に一変させた事件であり、その転換を演出した一人が簑田であったと理解する。竹内によれば、簑田の『原理日本』の論文がリベラル派学者を追放する力となっていた。

   簑田論文を参考にして政友会の宮澤裕滝川幸辰処分を導き(昭和8年、滝川事件)、同じく、昭和8年の『原理日本』の簑田による天皇機関説批判論文が、美濃部達吉を辞任に追い込んだ(昭和10年、天皇機関説事件)。

   昭和13年の大内兵衛有沢広巳が追放された人民戦線事件、昭和13年の河合栄次郎発禁事件、昭和15年の津田左右吉発禁事件、すべて簑田論文が起爆剤であった(『諸君!』当該対談、132ページ)。

 佐藤は、重要なことを言っている。毅然たる国家を作りたいといういまの思想状況に鑑みると、戦前の日本を閉塞情況に追い込んでいった簑田たち悲劇的な知識人のあり方に共感をもつというのである(136ページ)。

  しかし、日本のファシズムを醸成したすべての責任を簑田個人のせいにするのではなく、東大や京大のアカデミズムがはたしたマイナス面を虚心に分析すべきであるとした竹内の発言が光っている。戦後作られ、歪められた知識人論を、簑田胸喜を再考することによって、見直すべきだとする(143ページ)。この対談が、日本の論壇で大きく取り上げられるようになることは間違いない。

 竹内の協力者で、『簑田胸喜全集』第7巻(柏書房、2004年)の編集担当者の佐藤卓己氏が、第7巻の解説をしている(『毒書亡羊記』、「第31回・学者の処世を考える―竹内洋ほか編『簑田胸喜全集』始末」;http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-31.html )。

 第7巻には、簑田が主筆を務めていた『原理日本』の全目次と簑田の手になる「編輯消息」全文、原理日本社の宣言、綱領、会則などの資料が収められている。

 この機関誌は、1925年11月~1944年1月と約20年間、全185号という長期かつ膨大なものであった。しかし、資料は散逸してしまっていて、この機関誌の全巻を所蔵している図書館はない。

 佐藤卓己は、『原理日本』第6号(1926年4月号)「短歌欄」に掲載された簑田の「採点と編輯」という文を紹介してくれている。

 「かゝなべて七日余りは夜も昼も 答案をしらべたり二千近くの 機械的作業に近くはさけがたし かくも多くを一度に見れば 及落のまた一生のわかれめとなることあらんと思へばかしこし さまざまの事情あらもあらはれし結果につきて定むるほかなし 訴へくるものもあれど訴ふるに由なくもだへくるしめるもあらん それら一々顧る由なければあらはれし結果につきて定むる外なし いまの世の大量生産といふことをつくづく感じぬ採点しつゝ 現在の学校教育試験制度の欠陥を痛感す されどすべなし こゝに新聞雑誌の任あり また協会結社の任あり そを補ふべき あゝされど学校は増し知識は広まりゆけど思想はみだるゝ われらこゝにもだ<ママ> ありがたく社を結びこのすりぶみによりて叫ぶ ひろき世にかくれひそみてもだへつゝ国をうれふるはらからよたて 採点ををはりもあへず編輯にとりかゝりたり息つくまもなく 学校の勤務と雑誌の経営に原稿をかくひまもなかりき 日一日おくるゝ編輯をまへにしてあはただしくも原稿をかきたり ひたむきにつとめんとすれどはかどらず もどかしきかな時はすぎゆく ありがたきみたよりいたゞけどわが思ひかへすひまなしおしはかりたまへ 辛じて編輯を終へ頁をばかぞへて心やゝおちつきぬ 編輯はをはりたれども校正にまたひまどりて 発行おくれむ」

 佐藤はいう。善人ではないか。ファシストが悪人だったらわかりやすいのにと。歴史には善意も悲劇になりうると。そうだろうな。

 大学教師は、すべて採点の憂鬱を知る。血肉になっていない学生の思想の硬直性を憂う。才能ある学生を取り出そうとあがくが、答案の数が膨大すぎて、才能の発見は不可能である。時間がない。論文の期限は迫っている。雑用が追いかけてくる。

  懸命に採点を終え、懸命に論文を書き、そして雑用と雑誌の資金の心配をする。だれでも経験すること、自分と同じ感覚に住む人、いい人ではないか。この人が人を殺してしまう。ファシズム研究の難しさはここにある。

 国家社会主義運動に邁進し、赤尾敏たちと「建国会」を作った津久井龍雄は、『昭和維新』(85ページ)で述べている。現物を見つけられないので、「狂喜乱舞」と書かれたブログから転載させていただく( http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/minoda.html)。

 「蓑田といふ人は、個人としてはきわめてまじめな礼儀正しい人であったが、ひとたび反対者に対する闘いとなると、異常に近い情熱をおび、たんに言論文章の上でこれに攻撃するのみでなく、検事局や憲兵の力を借りても相手を克服しなければやまぬという気概を示した」。

 死をもって時代に殉じた。熊本の人であった。

福井日記 No.118 非力な学者を追放できた暴力ある簑田胸喜

2007-06-08 23:20:15 | 福井学(福井日記)

 「『蓑田胸喜!』あゝこの名は軍の抬頭以来学界の泰斗たちの間で如何に恐れ戦(おのの)かれたことだらう。彼は蛇蝎の如く嫌はれた。何故なら、この慶大教授はひどい神憑りの右翼の御用学者で大変な精神家。(中略)軍部のファッショ派から莫大な機密費をせしめて、雑誌『原理日本』を発行し、この雑誌で学界の気に喰はぬ有名な自由主義者の著書やプリントの一章・一句を補へて、やれ『赤化教授だッ』やれ『不敬罪を構成する「学匪」だッ』と勝手なレッテルを貼りつけ、右翼のごろつきどもを嗾かして軍へ売りつけ、学界の泰斗を次から次へと屠り去った元凶であるからだ。(中略) 彼の最初の槍玉に挙げられ、反動派の犠牲に供せられた学者は彼の有名な京大事件の発端となった瀧川教授であり、後には三卅年来唱導せられて来たわが憲法学界の権威、美濃部博士を社会的に葬つたものも、彼蓑田胸喜が火つけ人である」(森正蔵『旋風二十年』(上)、鱒書房、1945年、143~44ページ)。

  簑田胸喜(明治27(1894)年~昭和21(1946)年、首つり自殺)。五高、東大法、文学部に転学、宗教論、慶応大学国士舘大学教授。ドイツ語ができ、流布されているマルクスのカウツキー版批判、エンゲルス版を元に日本のマルキストたちの浅薄なマルクス理解を批判した((『暗河4号』蓑田胸喜小伝;http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/minoda.html)。

 慶応での講義ぶりは、名物であった。

 「人類の歴史は民族闘争の歴史であって、階級闘争のそれではない!マルクスは、民族闘争を、階級闘争に詭弁を似て変えたのである。何故かというと,彼は、ユダヤ人であったからである」(「学園名物教授を描く、三田、慶應義塾」、『国民新聞』、昭和6年5月11日)。



 昭和5年、東京駅で浜口雄幸首相が狙撃され重傷を負ったことを聞き、あちこちの教室の黒板に「狂喜乱舞」と書き記したと言われている(慶大予科の同僚・奥野信太郎「学匪・簑田胸喜の暗躍」、『特集・文藝春秋』昭和31年12月号)。



 簑田が京大で講演した時の模様を、松本清張は『昭和史発掘6』(文春文庫、2005年)で述べている。



 学生が、簑田の講演があると学生主事が言っているが本当かと滝川幸辰教授に聞きにきた。簑田を恐れていた滝川は、主事に詰め寄った。主事は、軍部の圧力で総長がやむなく引き受けたと解釈できる話をした。滝川は、講演担当であたので、講演の承諾書を書かなかった。しかし、講演予定当日、簑田は現れ、第四番教室で講演をした(経済学部が使用していた教室)。

 彼は演壇に登る時からすでに芝居がかっていた。助手のような青年に十数冊のドイツ書を壇上に運ばせ、口を開くなり、

 「河上肇氏の資本論の訳はカウツキー版によるからいけない。カウツキーはエンゲルス版を故意に変更して宣伝に利用した通俗本である」と切り出し、マルクスを論ずる以上は、この本を度外視するのでは話にならない、といって、カール・ムース著『カール・マルクス』を右手で高くかざし、河上攻撃をはじめた。

 
聴衆は騒ぎ、その罵声のために蓑田の言葉は一語も聴きとれなかった。滝川は、いうだけのことはいわせるがよい、と司会者に注意したが、いきり立っている聴衆は司会者の言葉にも耳をかさなかった。蓑田は小一時間も立往生したのち講演場を去った。

 そのあと座談会を開いたが、学生たちは分担を決めて蓑田理論を追求し、蓑田をいじめつけたため、蓑田は「抑留されている人が監視者の眼を偸んでこそこそ逃げるようなかたちで」京大を出ていった。



 その後、滝川は京大を追われ(1933年)、美濃部達吉は東大を追われた(1935年)。

 1933年7月14日の東京朝日新聞の投書欄「鉄箒」に「先憂子」という名で「学者の態度」と題した投書が載っている。

 「天下を論議する政客はいくらでも転がっているが、一身を国家に捧げる志士はない。諸学説を講義する教授はざらにあるが、真理に殉ずる学徒は少ない。常に動揺せる文部当局に比し、真理の忠僕、正義の使徒として終始一貫微動だもせず所信に生き、大学のために玉砕されし京大法学部諸教授の態度に私は満腹の敬意を表し、その立派な最期に近来になき感激を覚ゆる。
 滝川氏の学説が真に国家に有害ならば、京大法学部の閉鎖は云うもさらなり、これに和する全大学の全滅もまた厭うべきではない。また法学部の主張が是なりとせば、文相の即時辞職も内閣の更迭も避くべきでない。大学の自治と云い、研究の自由と云うも、滝川問題より派生したものである。かくも重大な問題となったにもかかわらず、本家本元の京都大学ですら問題の核心たる滝川氏の学説についての批判を聞かないのは吾人の深く遺憾とするところである。
 私は『刑法読本』を一読し、これが何故にかほどの問題を起したかを怪しむ。文部当局によって盛んに宣伝された滝川氏の内乱激成、姦通奨励の説のごときも、その実は吾人の常識に一致している。この書の発行当時、牧野前大審院長が本紙の読書頁でこれを推奨した事実よりみても、その危険思想でないことくらい見通しがつくと思う。
 今日の社会の通弊とするところは、正邪善悪の判明せざるということよりも、判明しながらこれによって去就を決せず、長きものには巻かれよという態度をとることである。滝川氏の学説の危険性を認めず、文部省の処置の不当を百も承知しながら、立って京大法学部を助けようとしない大学教授は救われざる輩である。
 学者の真理に対する態度はあくまで厳粛でなければならない。眼前を糊塗するは政治家の常であるが、学者のすべきことではない。今となっては致仕方なしなどとは学者として云うべきことではない。事件の根本に眼を向け、滝川氏の学説の正邪を明らかにして、あくまでも良心的に行動すべきである」。




 この「先憂子」と名乗った投書の主は、実は岩波書店主の岩波茂雄だった。

福井日記 No.117 オルコット『仏教問答』を邦訳した今立吐酔

2007-06-06 12:44:43 | 福井学(福井日記)

 國柱会の動きを、当時の仏教界は重く受け止めた。吐酔もまた、吐酔という名前そのままに、宗教的情熱に猛然と覚醒した。キリスト教に支配されようとしている日本仏教界にあって、仏教は無力でしかも堕落しているとの思いを吐酔は強くもったのである。すでに、グリフィスに師事していた時から吐酔は仏教界の現状に怒り狂っていた。

 『歎異抄』を翻訳する前は、吐酔たち浄土真宗の僧たちは、「白い仏教徒」を求めていた。明治10年代から20年代にかけてのことである。



 こうした時に、オルコット(Henry Steel Olcott 、1832-1907)が弥勒のごとく、日本の仏教界の前に現れた。神智学(しんちがく、Theosophy)を西洋世界に紹介したそのオルコットを吐酔は高く評価していた。

  そして、セイロンで書き、ベストセラーになった、オルコットの著書、A Buddhist Catechism, Madras ,1881 を吐酔は、『仏教問答』として、訳出している。



 
京都中学校校長時代にである(米国人エッチ、エス、ヲルコット氏著、日本京都中學校長今立吐醉譯『佛教問答』佛書出版會、明治19(1887)年4月)。 

 神智学というのは、心霊、および霊的世界を研究することによって、人間の精神の内部に潜む「宇宙の根元と同質のもの」を掘り起こそうとするものである。その意味では、1970年代の米国で「対抗文化」として流行した「ニュー・エイジ・ムーブメント」と思想的には同質のものである。それは、人間の中に、「神的なもの」を見出し、神の奴隷であることをやめ、東洋のあらゆる古代宗教を摂取して瞑想にふけることを心がける宗教思想である。オルコットは、1882年にセイロンで仏教に改宗している。



 さて、京都に同志社を建て(明治8(1875)年)、キリスト教を布教すべく、日本の仏教の偶像崇拝を容赦なく攻撃する新島襄(天保14(1843)年~明治33(1890)年)対する京都仏教界の憎悪は相当に大きなものであった。京都の教育界に奉職していた今立吐酔も例外ではない。



 明治10年代後半から20年代初頭にかけて、日本の仏教界は、消滅の危機に立ち、脱出口を国粋主義に求めていた。後に、石原莞爾が漂っていく、日米決戦をキリスト教対日本仏教という対立軸を生んだのは、このときの日本仏教界の他力本願の姿勢であると言ってもよい。しかし、当時、攻めるキリスト教世界も亀裂を見せていた。



 当時の日本仏教界は、国粋主義の勃興を挺として、井上円了の『真理金針』(西村七兵衛、1890年)を先頭に、いわゆる破邪顕正運動という体勢を取っていた。

 明治思想史における井上円了(安政4(1857年)~大正8(1919)年)の位置づけは難しい。

 山崎正一『近代日本思想通史』(青木書店、1957年)では仏教護法運動としてかなり大きく取り上げられているが、最近の松本三之介『明治思想史』(新曜社、1996年)では井上は無視されている。

 山崎正一は、仏教の護法運動を3期に分ける。第1期は明治元年から5年頃、神仏分離・廃仏毀釈運動に対抗するもの、第2期は明治6年から10年の教部省廃止まで、第3期は明治11年から23年頃までとする。その第3期を代表するものとして井上が挙げられる。

 井上は、強い危機意識をもって反キリスト教的な主張を展開した。それは明治20年代に勃興する国粋主義的な動向に先鞭をつけるものであった
http://www.transview.co.jp/24/text.htm)。

  井上円了は、水木しげるの元祖であった。井上の妖怪論はよく読まれていた。彼は、東洋大学の創始者でもあった。



 一方、キリスト教では、内村鑑三(文久元(1861)年~昭和5(1930)年)らの不敬事件から「教育と宗教の衝突」事件にかけての国粋主義陣営からの攻撃、チュービンゲン学派やユニテリアン等の自由神学の渡来によって、小崎弘道(おざき・ひろみち、安政3(1856)年~昭和13(1938)年、日本基督教団創始者、同志社大学学長)が言う「信仰試練の時期」を迎え、かつては聴衆の群がり寄せた教会も、人が退いた(吉田久一『日本近代仏教史研究』、1959年;吉田久一著作集第14巻、『日本近代仏教史研究』川島書店 1992年)。



 内村鑑三の不敬事件とは、明治23(1890)年から第一高等中学校の嘱託教員となった内村が、翌1891年1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼をしなかったことに対して、世間が激しく糾弾した事件である。この事件によって内村は同年2月に同校を依願退職した。

 チュービンゲン学派とは、聖書の中の奇跡や十字架の贖罪を非科学的迷信と見なし、すべてを合理的に解釈することによって、聖書が神の言ではなく、人間の言であることを主張した。小崎弘道がこれに大きく共鳴した(日本のためのとりなし会『日本のためのとりなし』(ニュースレター)2003年8月号、1ページ)。

 ユニタリアン主義(Unitarianism)とは、父と子と聖霊という三位一体の教理を否定し、イエスの神としての超越性を否定し、イエスは、類い希なる優れた宗教的指導者であったとする説を採る(ウィキペディア)。

 つまり、聖書にある神話的要素を、歴史的事実ではなく、宗教上有益な寓話と見なすのが、これら2つの流派を代表とする自由神学である(ウィキペディア)。

 前回で紹介した、「宗教が科学で置き換えられてしまった」と嘆く宮沢賢治の受け取り方は、宗教心を重視するファンダメンタリストたち(キリスト教、仏教を問わない)の共通の危機意識の表現であった。オルコットの著作が日本で紹介されたのは、こうした流れからであって、真の神智学に由来するものではなかったであろう。

 仏教徒にとって、とにもかくにも、新島に対抗するには、西洋人の仏教徒を探し出せということになっただけのことであった。その点、オルコットは格好の人材であった。事実、野口復堂(のぐち・ふくどう、元治元(1865)年~?)なる人物が、明治22(1889)年、オルコトットを日本に連れてきた。

 当時、同じく浄土真宗の僧で、水谷仁海という人がいた。彼は、中西牛郎・北畠道龍らとともに「仏教革新」のアジテーターとして知られていた。大言壮語と奇行で知られる名物坊主であった。明治21(1888)年2月17日付の『国民新聞』に「大菩薩出現」と題する揶揄した記事がでている。

「水谷師なる一僧、四輪車に跨がり、水谷仁海大菩薩の旗を立て、東京の市中を馳回り、路傍演説を為し、頻りに佛教改良の事をぞ主張しける…改良又改良、佛法の改良は如何にして行はるる可きや、佛法は猶ほ古き錦の如し、其破損用ゆ可からざるに至て、金帛木綿を以て之を補綴す、果して効能ある可きや否や…」。

 この水谷が、オールコックに手紙を書いた。明治15(1882)年11月1日の日付である。そして、明治16(1883)年初頭、その水谷仁海の許に、マドラスからオルコットの返信の書簡が届けられた。オルコットは、1875年米国のニューヨークに神智学協会(The Theosophical Society)を設立、代表者になっていた。
 その手紙には、

 「…拙著 A Buddhist Catechismの最新版を一部、差し上げます。本書を翻訳することが、社会に有益と認められるのであれば、翻訳の特権を貴方に御譲します。本書の扉にあるとおり、この問答は現在セイロン島で一般に信仰されている純粋の佛教大意であることは、当地の僧正スマンガラの保証するところです」。

 手紙には、笠原研寿のことも記されていた。笠原は、前年の10月、英国から帰国途中セイロンに寄港し、神智学協会分会の会議に出席してスマンガラ僧正らとも会見した人である。そして、

 「私は元アメリカ人で、以前は陸軍に奉職していました。しかるに仏教徒となってより以来、当地(アディヤール)に在住を定め、終焉まで我が一身もってアジア人民の公益に供したく決心した次第。私が日本仏教の役に立てるなら、何なりと申し出て戴いても、私個人は一円の報酬も願いません」と記してあった。

 米国で神智学協会を設立したオルコットはインドを経て、1880年、スリランカに上陸。キリスト教会の布教活動に対抗してシンハラ仏教復興を指導して『白い仏教徒』として南アジアで救世主のごとく大活躍していた。

 彼はクリスチャンがセイロン島内に大量にばらまいたキリスト教布教用の教理問答集(カテキズム)に目をつけ、その仏教版をみずから執筆したのである。これが、書簡で紹介されている著書である。

 
その著書は、当時スリランカ仏教界の長老格であったスマンガラ僧正のお墨付きをえて、シンハラ語をはじめ20か国以上で翻訳された。現在でもスリランカの学校で英語テキストとして利用されているロングセラーである。

 明治18年頃、水谷は熊本の赤松連城(天保11(1841)年~大正8(1919)年、浄土真宗西本願寺派。宗門の近代的な改革を行い、後進の育成にも努めた)と会見し、その席でオルコットの書簡と『仏教問答』を差し出した。一読した赤松は、京都中学校校長の今立吐醉氏に依頼して本書を翻訳し、仏書出版会より出版することに決した。和綴じで45ページの短いものであったが、知恩院法主が題辞を寄せ、赤松連城による緒言、オルコットから水谷への書簡、訳者の凡例まで添えられた本格的な翻訳書である。

 以上が、神智学の翻訳書が日本で出された出されたいきさつであるhttp://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/chap1.htmlに依存させていただいた)。

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2007-06-06 02:49:38 | information

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