消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 40 寄進について

2006-09-16 14:44:39 | 寺社(福井日記)

 私の住んでいる松岡が属する吉田郡の名前が初めて文献で見られるのは、建久元年(宮内庁書陵部(その他)二号)であるとされている。その成立は平安末期であろう。郡名の由来は詳らかでない。大きな荘園が成立し、郡域のほとんどがこれらの荘園で埋められていたとされる。河合斎藤系の本拠地であり、彼らと平氏政権の関わりが荘園の成立に重要な要素であったと言われている。大野郡白山平泉寺の影響力も強かった。


 大荘園の1つが、志比荘(旧吉田郡志比谷村・上志比村・下志比村)である。これは九頭竜川中流南岸域にあった。高倉天皇生母建春門院が法住寺殿内に造営した御願寺最勝光院の当初の寺領とみられる。疋田斎藤系の一族に志比大夫と号した藤原為隆という人物がいた(『尊卑分脈』)。彼が当荘成立期の有力領主と思われる。鎌倉殿勧農使を務めた比企朝宗が地頭であった(『吾妻鏡』建久五年十二月十日条)。その後、波多野氏地頭となった。六波羅評定衆を務めた波多野義重が、道元を当荘に招請し、永平寺を開いたのである。鎌倉末期に志比荘の領家は二条家一族に移った(宮内庁書陵部(その他)四号)。


 その頃、荘園を保有していたのは、最勝光院であった。最勝光院は、承安3年(1173年)、建春門院(後白河院女御)御願として建立された寺院である。最勝光院の御所の障子絵には、女院・院の寺社参詣が描かれている。絵師は常磐源二光長、面貌ばかりは藤原隆信が分担した。このことを伝える玉葉の記事は、自身が描かれることを免れて「第一の冥加」と漏らすことで著名である。その述懐の内実については、自分の似顔絵が己の与かり知らぬところで作られ、見られることに対する忌避感が中核にあったと言われている。


 しかし、その寺院は、その後、衰微し、正中元年(1324年)に後醍醐が、最勝光院の本家職を東寺に寄進し、当荘もその1つとされた(せ函武九)。ところが、ここから東寺と波多野氏との間で諍いが起こる。波多野氏が、この身売りに抗議して、本年貢の綿1000両の納入を拒否したからである。翌2年末に後醍醐は地頭に本年貢の直納を命じ、以後長く東寺と波多野氏の相論が続いたと言われている。


 その他、吉田郡の地名に吉野保(旧吉田郡吉野村)がある。これは荒川の上流域で、梨本門跡領であった。


 藤島荘も、福井市街北部の九頭竜川以南にあった荘園で、荘域はほぼ旧吉田郡東藤島村・中藤島村・西藤島村にわたっていた。
平家没官領で当初源頼朝はこれを平泉寺に寄進し、藤島保もしくは藤島領とよばれた(『吾妻鏡』建久元年四月十九日条、宝生院文書一号)。ついで天台座主慈円延暦寺に始めた勧学講の料所となり、後には青蓮院の所伝によると右衛門尉藤原助近相伝の私領だったとされるが、また平重盛の所領であったとも言われている(「勧学講条々」)。


 そもそもこの荘園を開発したのは、河合斎藤系の本流に属するこの齋藤助近であるその子実近・実光はそれぞれ志原(松岡町芝原)・中村(福井市上中町・下中町)を苗字とした。その兄弟一族は越前の在地や有力寺社に重い地位を占めたが、源平の合戦で平家方に属して滅びた。助近も寿永二年六月の加賀国篠原(石川県加賀市)の合戦で木曾義仲に討たれたという。


 平泉寺はこうした在地勢力が依拠した地方有力寺院であるが、平安末期には延暦寺の末寺(別院)となった。慈円はそうした本末関係を利用して当荘を入手し、開発を進めて自分の門跡領に取り込んでいった。建暦2年の目録によれば、藤島荘の所当は米4800石・綿3000両という大きなものであった(「門葉記」)。藤島荘の在地は大きく上郷・下郷に分かれ、下司・公文が置かれていた(武田健三氏所蔵文書一号)。  今泉荘(福井市北今泉町・東今泉町)は藤島荘中村の南隣りに位置し、平安末期に摂関家一族の皇嘉門院領だった(九条家文書)。


 曾万布荘(福井市曾万布町)は11世紀中頃に成立し、法成寺東北院領で殿下渡領に編成された。鎌倉末期に春日社西御塔造営料所に寄進され、その後、長く興福寺西南院が知行した(宮内庁書陵部 九条家文書三号)。


 河北荘(旧吉田郡河合村・森田村)は九頭竜川以北の大荘園で、古代の足羽郡川合郷の名を継いで河合荘とも言われた。仁和寺相応院の僧隆憲が御室守覚法親王に寄進した所領がその前身となり、建久元年その見作田60町を二品守覚法親王の品田に充てて親王家領として立荘が認められた。この隆憲の生家はもと摂関家の家司の家柄に属したが、藤原頼長の外戚方であったために保元の乱ののちに家が没落したものである。兄の頼円も仁和寺の僧で、当時越前にもいくつかの寺領のあった法金剛院の執行を務めた。この河合の地は吉田郡・足羽郡一帯に大きな勢力をもった河合斎藤系諸氏全体の苗字の地で、稲津氏の祖実澄や平泉寺長吏斉命の子が河合と号したという(『尊卑分脈』)。


 河合斎藤氏に属する検非違使藤原友実は、元服する以前から殺されるまで守覚法親王に従い、仁和寺内に住んでいたという。彼は、仁和寺領の丹生郡石田荘地頭であり、法金剛院領の今立郡河和田荘の「地頭下司」を自称し、越前の寺領支配に深く関与していた。当荘の成立と支配にも彼が直接関係していたものと推定される。この守覚法親王の家領は河北御領もしくは河北御品田とも呼ばれ、御所の北院薬師堂領に編成されて隆憲の知行が認められた。二代将軍頼家の代までに地頭が補任され、頼家はその停止を請け合っている(仁和寺文書一・二号)。


 河南荘は妙法院門跡の管領する所領で、三郷からなっていた。河北荘に対して九頭竜川以南の地と考えられる(資2 妙法院文書四・九号)。


 以上の叙述は、『福井県史』第2編・中世編に全面的に依拠している。
 地元の権力者が、多数の人民を使って、荘園を開発する。このことが、福井にきて分かった。権力者が地元農民の零細な田畑を略取して荘園になったのではない。地元権力は、荒蕪地を開発し、その荘園に農民を賃金労働者として雇っていたのである。そして、中央の権力者が武力で地元権力者から荘園を奪う。しかし、露骨な権力施行を隠蔽するためもあったのか、寺院に荘園寄進させるという外観を取る。それはあくまでも外観であって、けっして、信仰心から出たものではない。貴族は寺院の本家職となり、皇族は門跡となってそれぞれ寺院を支配する。宗教心から地元権力者に荘園を寄進させるという外観を取って、実際には、中央の権力者は、地元権力に下級の職を与えて、荘園をまるごと略奪していたのである。


 中央権力者の権力闘争の結果、寺院に名目上、寄進されていた荘園が別の権力者によって奪い取られる。そうした混乱の中から、寺院が、自ら武力をもち、荘園の所有者であることを宣言する


 人間の物欲のエッセンスである荘園に依拠して繁栄した寺院とはなになのだろうか。人間として、そうした悲しい現実に心を痛めて、それこそ、自派から「出家」した僧もいたはずである。自派への反権力者を私は歴史の中に探している。本物の宗教者は必ずいたはずである。権力によって、そうした反権力者は、文献から抹殺されたはずである。私はそうした宗教家を探そうと思う。
  「消された伝統の復権」の義務を果たそうと決心している。