消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(201) 新しい世界秩序(18)世界恐慌と危機の真相(4)

2009-07-30 06:35:08 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 4 辺野古新基地協定 ― 結集される沖縄民衆の怒り


 ソマリアは、資本主義システムの闇の世界に追いやられた典型であるが、こうしたシステムからこぼれ落ちた地域と人々は世界の至る所に存在している。沖縄とグアムもそうである。

  09年1月、オバマ政権が発足したが、その直後の2月16日に、ヒラリー・クリントン国務長官が来日し、翌17日に中曽根弘文外務大臣と会談した。このクリントン・中曽根会談、海兵隊のグアム移転・辺野古での新基地建設・普天間基地返還の三点セットがパッケージとして決められた。パッケージというには、三つのうち一つでも実現しなければプロジェクトそのものが凍結されるというものである。

 沖縄の米海兵隊8000人をグアムに移す。嘉手納基地以南の普天間基地などを返還するが、辺野古には新しい基地を作る。この三点がパッケージとして協約となった。

 この協約には、おかしなことが多々ある。まず、沖縄には1万8000人の海兵隊が存在し、沖縄の負担を減らすために、うち、8000人をグアムに移すというのである。しかし、沖縄県の基地統計資料など各種統計で見ると、海兵隊の現員は1万2~3000人でしかない。1万人を沖縄に残すのなら、せいぜい、2~3000名程度しかグアムに移転しない。数値のごまかしがまずこの移転案にはある。

  実際にグアムに移るのが何名かが確定されないまま、8000人分の住居が日本の費用で作られる。その費用は6100億円である。協定では、そのうち2800億円を真水部分としてまず支出される。しかし、おかしなことである。グアムは米国の国連委任統治領であり、米国の支配下に属する地域である。この米国の支配地域に日本の税金で施設が建設される。受注した日本の設計事務所が国会に提出した設計書では、単身者用住居を何棟作るのかは黒塗りである。米軍の家族住宅は3500棟作ることは以前の国会において明らかにされているが、建設費だけで1棟当たり7000万円もかかる。そこには土地代は入っていない。現地では上物だけだと5~600万円で建設できるはずであるという。にもかかわらず、日本の建設計画によれば、上物だけで七〇〇〇万円もかかる。限りなく不透明な日本の支出額である。

 辺野古の新基地問題も不透明である。新基地建設は、本来の手続きであれば、環境アクセスにパスしなければならない。海を埋め立てる許認可権は県知事が持っている。もし、知事が許可を出さなければ協定違反になる。これは、米国大使館のメアー総領事が明言したことである(衆議院外務委員会への発言)。結局、政府が沖縄県の意向を無視して、環境アクセスもせず、公有水面の埋立許可も必要ないということで押し切る姿勢である。

 グアムでは、現地人が土地を米軍に接収されている。沖縄で起こったことがグアムで再現させられている。建設労働者もフィリピンや米国、沖縄から連れていき、現地への経済効果は非常に小さい。住民が増えるための光熱費の高騰も馬鹿にならない。

 米議会がグアム移転関連予算を否決してしまえば、すでに真水部分として出してしまった2800億円が返却されない可能性もある。

 新基地建設の最大の問題は土木工事の巨大さにある。辺野古基地建設には2100万立方メートルの土砂が必要である。そのためには、延べ525万台の10トンダンプが動員されなければならない。沖縄の海からこれだけの土砂を採集するということは大変なことである。深さ1メートル、幅100メートル、長さ170キロメートルに渡って海岸線から採集しなければならない。170キロメートルというのは沖縄本島の海岸線の3分の1にもなる。これは、日本全体の海砂採取量の13年分に匹敵する。これだけの量を2014年までにとり尽くさなければならないのである。

 漁業はもとより、魚の産卵場所の破壊など深刻な環境破壊問題が発生するのは明らかである。これだけの破壊事業が環境アクセスの対象になっていない。砂は業者から買うので対象にならないというのが、政府の見解である。

 しかし、日本には海砂採取を禁止している自治体が結構ある。兵庫、和歌山、岡山、広島、徳島、香川、愛媛といった瀬戸内の各県は禁止している。禁止していない県でもすべて総量規制がある。たとえば、熊本県では年間20万立方メートルに制限されている。

 ところが、沖縄県では総量規制すらない。事実、07年では121万立方メートルが採取された。もし、沖縄県が年間総量規制を100万立方メートルに新たに制限することにすれば、計画の1700万立方メートルを沖縄だけで調達すると17年はかかることになる。沖縄県の住民が辺野古新基地建設に抵抗するには、県議会で海砂採取日法を強化すればよい。それは、地元で抵抗できる有力な手段になりうる。

 しかし、そうすれば、政府は世界に土砂を探すようになるだろう。日米安保体制の問題が海外住民に迷惑をばらまいてしまいかねないのである。ここでも、国家の保護からこぼれ落ちてしまっている貧しい住民の地域が狙われるであろう。こうして問題は国際化し、資本主義の新たな提供力も生み出されることになる。県知事が影響力をもつにのは、公有水面に対してだけではないのである。

 辺野古の新基地は、普天間基地の代替であるとこれまでは説明されてきた。しかし、普天間基地は宜野湾市の真ん中にあり、そもそも港などない。ところが、辺野古基地には港を作るという。これは、普天間基地の移転ではない。完全な新しい機能を持つ新基地である。普天間にいた空中給油機は岩国に移転した。ヘリ基地機能だけなら陸上のキャンプシュワブの中にヘリパッドを作ればいいではないか。海の中にわざわざ滑走路付きの基地を作るということは、まったく新しい機能を持つ基地を作ることを意味する。

 新基地は護岸の長さが200メートルもある。これは、06年4月に米国が日本に要求していた214メートルの岸壁案の再提出である。この要求を日本政府は公開していなかった。たまたまジュゴン裁判で米国防省が資料を日本の裁判所に出したことからこの214メートルの護岸のことが明らかになった。これは06年4月の日米協議における合意事項であった。人々の追及に応えた日本政府の説明は、ヘリコプター基地に軍港を作るのではなく、ヘリコプターが故障したときに船に積んで出発するためであるという人を食った説明をしただけである。しかし、今回は準備書で政府は200メートルの長さの岸壁を公開した。06年の米国の要求よりも14メートル短いが、海兵隊基地として使われることは明白である。

 海兵隊というのは、攻撃用のヘリを積載した船で相手国に近寄って、上陸作戦をするのが任務である。海軍は海に留まるが、海兵隊は海から上陸する侵略体である。上陸用の船は揚陸艦と呼ばれる。佐世保にはジュノーという揚陸艦が停留している。長さ187メートルである。辺野古の新基地にヘリと兵員を乗せる揚陸艦を直接着ける機能を持たせようと米軍はしているのではなかろうか。このような基地を作らせてしまえば、米軍が自由にここを使用できることになる。岸壁が200メートル、陸地内の滑走路が1800メートルの基地に、米国から兵員を積んで輸送してくるであろう。建設の準備書や報告書が出るたびに米軍は基地に新しい機能を付加してくる。普天間基地は返還する。しかし、もっと戦闘的な機能を持つ新基地を沖縄の地に作ろうとしているのである。

 給油タンク、飛行機を洗う洗浄設備、使用した薬品による海の汚染、弾薬をヘリコプターに搭載する設備、こうしたことが環境を破壊しないはずがない。

 V字型滑走路というのは、飛行機が離着陸するさいに、陸上を飛ばなくてもいいように工夫されたものと説明されてきた。海に向かって離陸し、海から着陸するために滑走路を別々にしたというのである。しかし、普天間基地ではタッチアンドゴーという訓練が1日300回もおこなっているという。これは着陸して停止せずにそのまま離陸するという訓練である。これでは、V字型滑走路は無意味になる。海から着陸してきた飛行機はそのまま陸地に向かって飛び立つからである。住宅上空を弾薬を積んだ戦闘機が飛び回ることは必須である。そして、09年5月15日、住民意見書が締め切られた。09年2月17日の「在沖米海兵隊のグアム移転に関する協定」が実質化される寸前にいまはある。

 琉球侵略400年、琉球処分130年、沖縄問題は世界の問題になってくる。


 おわりに ― 作ろう新しい世界を


 グローバリズムには、「普遍性強制」が決定的にまといついていた。それは、西洋中心史観、最近では米国普遍性史観として人々の心を捕らえていた。しかし、いまや私たちは、公然と、米国的普遍性を「似而非(えせ)普遍性」、米国的グローバリズムを「虚偽の共同性」として拒否することができるようにうなった。

 いまでは、真の変革を生み出す人々の真の連合を生み出すことができる。「結」(ゆい)の共同作業による「舫」(もやい)の場を作りだすことができる。

 人類は、「アソシエーション社会」の大道を紆余曲折を経ながらも確実に歩んできた。自然と人間、人間と人間、そうした折り合いが世界的に人類史的に実現されようとしている。

 私たちは、「資本の商品化」がもたらす金融の暴走を十分に経験してきた。いまや、労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかし、それには、資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない。

 人間には人間の行があり、動物には動物の行がある。植物にも、水土にも行がある。そうした「天地人三才の徳」を会得して、私たちは人間の行として「変革のアソシエ」を推し進めよう。


「変革のアソシエ」(仮称)発足記念講演、2009年6月6日午後6時、於:総評会館208号室にて                             本山美彦

 


野崎日記(200) 新しい世界秩序(17)世界恐慌と危機の真相(3)

2009-07-29 06:06:38 | 野崎日記(新しい世界秩序)


3 ソマリア ― システムからこぼれ落ちた民衆の惨状


 金融権力によって支配される末期的な資本主義のグローバリズムは、世界各地でじつに多くの国家を破綻させた。不安定な弧として軍事用語で表現される地域がそれである。父ブッシュを重役としていた巨大ファンドは、米軍の展開と轡(くつわ)を揃えてきた。巨大軍事会社を所有し、資源争奪競争で民兵を駆使している。アフリカで、中東で、ラテンアメリカで、中央アジアで、資源争奪のために、内乱を煽(あお)り、次々と破綻国家を生み出してきた。

 その象徴がソマリアである。ソマリアは、東アフリカのアフリカの角と呼ばれる地域で、ジブチ、エチオピア、ケニアと接し、インド洋とアデン湾に面する地域である。1991年勃発の内戦により、無政府状態が続いている。

 1886年、北部が英国に占領された後、ソマリアは英国とイタリアとの領土争奪戦の舞台となり、その抗争は第二次世界大戦を挟んで1960年まで続いた。1960年、旧英領と旧イタリア領とがそれぞれ独立して合邦したが、英領ソマリランドになり、1908年、南部がイタリア領ソマリランドとなる。第二次世界大戦で、英国とイタリアが領有権を争う。1969年10月、クーデターでモハメド・シアド・バーレ少将が実権を握り、国名をソマリア民主共和国に変更し、翌1970年10月に社会主義国家を宣言、1977年、エチオピアのソマリ族によるオガデン州分離独立運動に端を発してエチオピアとの間でオガデン戦争勃発、1988年の両国の停戦合意まで続く。1991年5月、ソマリ国民運動が北部の旧英領ソマリランドの分離・再独立を宣言し、新生ソマリランド共和国が発足。1998年7月にソマリア北東部の氏族が自治宣言をし、ガローウェを首都とする自治政府・プントランド共和国を樹立。

   しかし、残された本体地域のソマリアはついに無政府状態に追いやられた。 1992年以降、ソマリアには中央政府が存在しない状態が続いている。内戦で経済は壊滅状態である。世界最貧国の一つで、平和基金会が発表した破綻国家ランキングでは3年連続で第1位に位置している。また、内戦で大量の難民が発生しており、各国からの援助が頼りの状態である。主要輸出品はバナナ、家畜、皮革。主要輸入品は原油、石油製品、食料品、機械類など。地下に石油・ボーキサイトなどを含有する地層が存在する。主産業は、バナナを中心とする農業、ラクダの飼育数は世界1位である。

 1993年、米軍が軍事介入した。その時、首都モガディシュで激しい戦闘が繰り広げられ、米軍のヘリコプターが撃墜されて20名近い米兵が戦死、ソマリア人は数百名が殺されたが、作戦は失敗であった。この戦闘は「ブラックホーク・ダウン」という映画になった。以後、この地域は、ゲリラとの闘争に米軍を貼り付けることになった。

 無政府状態になっているので、他国のトロール船が沿海でマグロを乱獲している。ソマリアの漁民が自ら警備活動を始めたのが、海賊の出発点であるとも見なされている。

 無政府状態であることから、ヨーロッパの企業がソマリア沖に大量の核廃棄物を廃棄したこともある。2004年12月のソマリア沖地震で判明したことだが、ヨーロッパの企業がソマリア沖に大量の核廃棄物を含む産業廃棄物を廃棄していた。ソマリア海岸が放射能汚染されたことで、国連が調査に入った。

 ソマリアの漁民は無政府状態ゆえに、食えなくなってしまった。しかも、2001年11月、米国はソマリアで唯一のインターネットと国際電子取引を扱うバラカート社を、アルカイダに資金提供をしているという疑いで閉鎖させた。内戦のため、政府が銀行や郵便といった機能を果たせない中、バラカート社の役割は重要だったのに、海外からの唯一の送金手段が途絶えたのである。内戦で仕事を失った人々は海外へ出稼ぎにいき、故郷の家族に送金しなければならない。ソマリアの人口の約8割が海外からの送金に頼って生活しているという。ソマリアへの海外援助が年間6000万ドルに対して、出稼ぎによる送金は2~5億ドルにもなる。この送金システムが閉鎖されて、内戦と飢餓に苦しむソマリア住民に追い打ちをかけているのである。

 日本は、09年3月13日に閣議決定し、海上自衛隊が翌14日に呉港から海賊対策のために、この地域に出港した。それまでの自衛隊の海外派遣は2年間の時限法に基づくものであった。しかし、今回の派遣は、海賊対策法が成立するであろうとの見込みの下に閣議決定だけで決められたという超法規的なものであった。これは違法ではないのかとの論戦すら日本では起こらなかった。自衛隊法82条には、海上自衛隊は海上警備行動ができると記載されている。しかし、そこには領海の限定はない、つまり、日本の領海に限定されるとは記されてはいない。今回の閣議決定はこの盲点をついたものであった。拡大解釈して海上自衛隊が、アフリカにまで出兵するという既成事実が作られてしまったのである。悲しいことに、日本ではこのことへの抗議行動はほとんど取り組まれなかった。そして、ソマリア派遣を恒久化する海賊対策法案が、09年4月23日に衆議院を通過し、5月27日から参議院で審議されている。これは否決されるであろうが、憲法の60日規定によって、衆議院の3分の2の採決で09年6月22日に成立するという段取りになっている。

  日本の現行法で初めて自衛隊の海外派遣が恒久化されたのである。しかも、停船命令に従わなければ武器の使用も認めるという海外で初めて殺人する権利を自衛隊に与えたのである。この法律によって、自衛隊は世界のどこにでも展開できることになった。

 そもそも、ソマリアという無政府地域を生み出したのは米軍である。ソマリアは、軍事戦略的に重要な場所に位置している。インド洋―紅海―スエズ運河―地中海航路の出入り口に位置している。このルートが封鎖されると船は南アフリカの喜望峰を回らなければならなくなる。

 少なくとも米国は、この海域で海賊対策指揮系統と対テロ対策の指揮系統を持っている。米国と共同行動をとるとき、海賊対策のみに限定することが現実的にできりかとなると非常に心許ない。集団的自衛権問題が論議される前に実質化されてしまうであろう。

 隣国のジプチには、現在、自衛艦二隻がヘリを積んで寄港している。さらに、将来はP3C哨戒機を派遣するという。これは水平翼を持つ普通の飛行機であるから現地に常駐することになる。そうなると、補修部隊も常駐しなければならなくなる。

  結局、大規模の自衛隊が海外基地に長期にわたって常駐することになる。事実、09年4月3日、日本はジプチとの間で地位協定を結んだ。自衛隊史上初めて恒久法の下で海外長期滞在が合法化されるのである。


野崎日記(199) 新しい世界秩序(16)世界恐慌と危機の真相(2)

2009-07-28 06:51:57 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 2 金融寡頭制 ― 資本主義精神の消滅


 金融は、その出自からグローバルなものである。債権・債務の移転を各種証券を通じておこなうことからグローバルな性格が生みだされるのである。ロンバード街の由来となったフィレンツエの金融家たちは、そのグローバリズムのゆえに、英国の重商主義的権力によって、軍事的に制圧されて滅びた。フランドル地方の金融家族も、同じくフランスの軍事力によって追いつめられて英国に逃れた。英国が自ら金貸し業を営むようになるや否やユダヤ人の金融家たちは、ヨーロッパの東方に放逐された。そして、ヨーロッパ各地の列強が覇権争いをするようになると、ヨーロッパの金融貴族たちは米国に新天地を求めた。彼らがFRBを創ったのである。

  創設者は、ロスチャイルド、ラザール・フレール、モーゼス・シフ、ウォーバーグ、リーマン・ブラザーズ、クーン・レーブ、ゴールドマン・サックス、チェース・マンハッタン、等々の名門金融貴族であった。FRBは民間銀行であり、現在でも国際的な金融機関によって株式は持たれている。

 09年5月4付『ウォール・ストリート・ジャーナル』が、08年9月のゴールドマン・サックス(以下、GSと表記する)救済に疑惑があると報じた。GSは、経営危機回避策として銀行持株会社に模様替えしろという財務省から勧告を直ちに受け入れ、FRBから100億ドルの資本注入を受けた。投資銀行形態ならFRBの国債引き受けからの資本援助を受けることができないから、預金銀行形態に転換したのである。

 しかし、ここに問題が生じた。ティモシー・ガイトナーが08年11月24日に財務長官に転身したことによって、ニューヨーク連邦銀行議長になったスティーブン・フリードマンが現役のGS重役であったうえに、GSの大株主でもあったからである。預金銀行監督機関であるFRBの幹部が監督対象である預金銀行の経営者であるということが、FRBの基本線を崩していることになる。フリードマンは08年12月に3万7300株ものGS株を購入した。その後、1年期限の辞職勧告(解雇ウェーバー制)をFRBから受けたのであるが、勧告を受けた直後の09年1月さらにGS株を買い増した。これはSECによって明らかにされた。FRBの救済を受けたGSの株価が反騰し、フリードマンはこの二度の購入で300万ドルもの利益を帳簿上ではあるが得たことになる。社会的な批判で追い詰められたフリードマンは、09年5月7日、ニューヨーク連銀議長を辞任した。米国の金融機関の倫理喪失を象徴する出来事であった。

 さらにある。08年決算で米国史上最大の993億ドルの赤字であったのに、経営陣に高額のボーナスが支払われると物議を醸したAIGの会長、エドワード・リディもGS出身者である。03~08年にGSの重役であった。AIGのCEOに就任する前は、オールステートの会長であった。彼をオールステート会長とAIGのCEOに推薦したのは、これも、GS会長で子ブッシュ政権下の財務長官を務めたヘンリー・ポールソンであった。

 09年3月15日、AIGが幹部社員に対して総計1億6500万ドルにもわたるボーナスを支給したと報じられた。『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、幹部への支払いは、3月13日、対象は400人であっった。うち、73人が各100万ドル超を支給された。支給額200万ドル超が22人いた。最高額は640万ドルであった。

 09年3月18日、この問題を巡ってリディ会長が米議会公聴会での証言を求められ、ボーナス支給は、AIGを破綻寸前に陥れた住宅ローン担保証券に絡むデリバティブ取引を処理する人材の流出を防ぐためやむを得なかったと釈明した。さらに、ボーナスを受け取った社員の情報開示要求にも、「従業員、家族が死の脅迫を受けている」と断固拒否した。議員の追及も空回りした。政府が80%の株式を保有しながら、税金の流用に等しい高額ボーナス支給を制止できなかったのである。当時のニューヨーク連銀総裁として08年9月のAIG救済に携わりながら、ガイトナー長官が知ったのは、支給の3日前の09年3月10日であった。「法的権限は政府にない」として、財務省は支給を撤回させることができなかった。

 もはや、金融界は目を覆いたくなるような強欲資本主義の巣窟と化している。

 金融権力の人脈の一端を知るために、GSの人脈を見ておこう。
 米国の金融関係の政府高官には、GS出身者が多い。異常なほど多い。


 クリントン政権下の財務長官、ロバート・ルービンは、1990~93年までGSの会長であった。上述のヘンリー・ポールソンは1999年から05年までGSの会長兼CEOであった。同じくブッシュ政権下の財務次官補、ニール・カシュカリも、06年7月、ポールソンが、財務省入りをしたときに、GSから同行させた人である。カシュカリは、08年10月6日、緊急金融安定化法で定められた7000億ドルの実行のための不良資産買い取り業務の責任者に財務省・金融安定化担当次官補に任命された。この時点で、35歳という若さであった。

 子ブッシュ大統領の首席補佐官ジョシュア・ボルトン、元USTR(通商代表部)で、世銀理事のロバート・ゼーリックもGS出身である。

 上述で辞任の経緯を紹介したフリードマンもGS出身。ティモシー・ガイトナーの08年11月24日の財務長官への転身によって、ニューヨーク連邦銀行議長になったフリードマンは、長年GSに勤務し、1990から92年までは共同会長、1992~94年の単独会長であった。彼は、02~05年、子ブッシュ政権下の経済政策の大統領補佐官、国家経済会議理事、ブルッキングズ研究所理事、外交問題評議会のメンバーでもあった。

 AIG取締役のスザンヌ・ノラ・ジョンソンもGS出身である。07年に辞めるまでに彼女は20年以上、GSに勤務し、最後は副会長であった。

 ガイトナーをニューヨーク連銀総裁に推薦したのは、GS会長のジョン・ホワイトヘッドである。

 このように、米国の政治と経済は、GS出身者が、強力なネットワークで米国の金融界に君臨しているのである。これでは、米国発の金融危機の元凶である米国型金融システムの根本が改革されないはずである。

 1960年代、金融関係の所得は、米国のGDPの10%程度を占めるにすぎなかったのに、2000年代に入ると30%にも激増した。金融は資本主義の王座に座った。その王座が根本から腐食してしまったのである。マックス・ウェーバー流の資本主義の精神は雲散霧消してしまった。

 米国の歴代大統領の多くが、米国東部の金融権力を批判した。

 第3代大統領になったジェファーソンは、1810年、ファースト・バンクの免許更新に反対した。「もし米国民が民間銀行に通貨発行権を与えてしまえば、最初はインフレーションを通じて、その後は、デフレーションを通じて、銀行は・・・人々から全財産を奪い、父たちが築きあげたこの大陸の地で、子供たちが朝起きれば家がなくなっていること気づくであろう。・・・通貨発行権を銀行から奪って、本来の所有者である人々の手に返すべきである」。

 1861年に第16六代大統領になった共和党のエイブラハム・リンカーンも、東部の銀行家への強烈な反感の持ち主であった。盟友ウィリアム・エルキンズに宛てた1864年11月21日付のリンカーンの手紙はその反感が強く表されている。

 「金融権力(money powers)は、平和時にも国民を食い物にする。異常時には国民を欺く。君主よりも専制的であり、独裁者よりも傲慢であり、官僚よりも自己中心的である。我が国の安全を求める私をくじかせ、おののかせるような危機が近い将来にくるだろうと私は思う。企業が王位についた。その後には、汚職の時代がくるだろう。金融権力は、国民の誤った理解に乗じて自分たちの支配を強め、長続きさせようとするであろう。その結果、富は少数者の手に集中させられ、共和国は破壊されてしまうであろう」。

 1913年の連銀法に調印した大統領、ウッドロー・ウィルソン大統領は語っている。1911年の大統領選での演説である。「偉大な工業国の人々が信用システムによって支配されている。我々の信用システムは、私的に独占化させられてしまっている。それゆえ、国民の成長は、そして、我々の活動は、少数の人たちの手に握られている。この少数者たちは、たとえその行動が正直で、公衆の利益に資することを意図しているとしても、彼らのカネが投資されている大きな企画に心を奪われ、まさにその限界性のゆえに、どうしても、真の経済的自由を冷やし、妨害し、破壊してしまうのである」。

 「私は、政治の世界に入って以来、私は人々が私的に私に誠実に語ってくれる言葉に耳を傾けてきた。米国の商業界や製造業界の最高の位置に立つ人たちが、ある人たちを恐れ、あることを恐れている。彼らは知っている。あるところでは、よく組織化され、巧妙にして油断のならない、相互に結びつき、完璧にして浸透力の強い権力があることを。したがって、彼らはこの権力を批判するときには、ひそひそと語らねばならないのである」。

 しかし、現在のオバマ政権は、ルービンが主催するハミルトン・プロジェクトに支配されている。ハミルトンとは、アレキサンダー・ハミルトンのことで、上述のジェファーソンに対立する建国の父の一人であった。中央政府の権力を制限し、州政府の自立を強調し、東部金融権力を嫌悪したジェファーソンの対局にあったハミルトンは、中央政府の命令に州政府は従うべきであり、東部の金融機関による中央銀行を創るべきであることを主張して、初代大統領、ジョージ・ワシントン政権下の初代財務長官を務めた筋金入りのフェデラリスト(連邦主義者)であった。

 ロバート・ルービンは、米国はこのハミルトンの手法を復活させることによる米国の再生を主張して、06年4月、ブルッキングズ研究所でのプロジェクト披露コンファレンスの最初の演説者に上院議員1期目のバラク・オバマを仕立てた。その後、オバマは、1期目の上院議員をわずか2年務めただけで大統領選に立候補し、ルービン人脈によって大統領選で圧勝したのである。金融を基盤とする米国資本主義の支配者が、自らの地盤を掘り崩すことなど不可能である。もはや、米国資本主義、それにぶら下がる世界の資本主義には未来はない。


野崎日記(198) 新しい世界秩序(15)世界恐慌と危機の真相(1)

2009-07-27 06:50:41 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 はじめに ― GM破綻=金融資本主義終焉の象徴


 2009年6月1日、GMが米連邦破産法11条の適用申請をした。これは、製造業分野では世界史上最大の大型破綻である。GMは、2008年時点で、世界34か国に生産拠点を持ち、従業員も世界全体で24万人いた。年間売上高2000億ドル、09年末資産910億ドル。北米に限定すると、売上高は約861億ドル、米国内の工場従業員だけで約6万1000人いた。負債は1728億ドル。製造業では世界史上最大の経営破綻である。米国の倒産劇としては、リーマン・ブラザーズに次ぐ第2位の規模である。 

 破産法11条というのは、企業を整理・倒産させるためにある法律ではなく、債権者に債権の多くを放棄させ、不良部分を売却ないしは清算させて、優良部分を再建するという趣旨のものなので、普通の言葉でいう倒産とはかなり異なる。行き詰まった企業に、公的資金の導入、リストラクチュアリングの実施、株式の政府保有、債権放棄、等々の荒療治が裁判所の監督下でおこなう。そして、再建計画が具体的に提示され、新しい会社として再生ができると裁判所が判断すれば、新会社は、裁判所や管財人の手から独立できる。この期間が、60~90日である。

  裁判所の管理下で、GMは旧GMと新GMに分離され、旧GMには、売れないブランドが押しつけられ、それらを売却する。売却できなければ清算される運命にある。新GMには優良ブランドを残し、債権者は債権の9割を放棄する代わりに、新GMの新規株式が割り当てられる。米政府は、新GMの株式の約60%を取得、301億ドルの追加支援、取締役の指名権を持つなど、GMを実質的に国有化した。GM本体への米政府による支援額はすでに約500億ドルに上っていた。これに新たな支援額が供給されるが、総計1500億ドルを超えるといわれている。カナダ政府とオンタリオ州政府も、両者併せて新株式の約12%を取得し、9.5億ドルの追加支援と取締役1人の選任権を取得した。全米自動車労組(UAW)は、新株の17.5%を取得したが、退職者向け医療保険の会社側負担の減額に同意してしまった。債権者は10%の新株の割り当てを受ける。

 裁判所がGMの再建計画を承認すれば、GMは裁判所の管理下から外れる。新GMは、新旧分割後6~18か月後に新株を上場する。

 米国内の労働者数は、2010年までに破綻時の6万1000人から4万人に縮小される。新GMの負債は、破綻時の規模の5分の1、つまり、170億ドルにまで圧縮される。08年末時点で米国内にあった47工場のうち、09年内に14工場を閉鎖する。09年内に事務系従業員の22%にあたる7900人を削減する。 

 いずれにせよ、米国の象徴であった、自動車産業の巨人が、クライスラーとともに頓死状態になってしまったことに現代資本主義の宿痾が表現されている。

 サブプライム・ローン問題をきっかけとして世界を震撼させた金融危機は、資本主義の深部で基本的な変化が発生していたことを示している。これが、製造業などの非金融組織を瞬時に破綻させてしまったのである。

 GMの金融子会社融GMACがGM車購入者に融資して新車購入を支援した。融資資金を得るために、この金融会社自身が各種証券を発行し続けたが、この業務からまず破綻した。ローンは焦げつき、手持ち証券の価格が暴落した。CPの引き受けてがなくなり、肝心の資金調達ができなくなってしまった。そして、製造業の金融子会社でありながら、独立した金融機関として、08年12月、商業銀行に模様替えさせられた。GMACは、そのことによって、FRBからの資金援助を受けることができるようになった。しかし、同時にGM車販売支援は露骨にはできなくなってしまったのである。

 GM本体の車はローン供与の縮小、返済停止の煽りをうけて突然の販売不振に見舞われた。

 同社の株価は暴落した。社債の評価も急落した。CDSのプレミアムも急上昇した。つまり、自社車が売れなくなったことも否定できないが、米国で猛威を振るった金融ハリケーンによって瞬時にして飛ばされてしまったのである。


1 現代資本主義の最終局面=証券化 ― 時間搾取システムとその変形

 
  資本主義の原理は、生きた人間の豊かな多用性を、狭いひからびた商品に追い込めることにあった。その基本的原理はいまも変わってはいない。

 
しかし、いまやそうした原理を上回る壮大なシステムが1970年代から世界を支配するようになった。それが、2008年に崩壊したのである。外部の要因ではなく、自己破産したのである。

 それは、資本、それも、金融資本による時間の搾取というシステムである。現金をもつ時期が早いほど、大きな価値を取得できる、現金を遅れて手にいれた人は、価値低下した現金を掴まされるというのが、そのシステムである。

 財政赤字補填のための国債の大量発行、中央銀行による積極的な買いオペレーション、等々、あらゆるルートを通じる通貨増発が、時間搾取システムの基本である。

 持続的な大量の通貨増発は、通貨価値の下落を進行させる。この場合、債権者から債務者に価値が移転する。まだ高い価値を有していた金額を借りた企業は、通貨価値が十分に下落した時点で借りた額面額を返済すれば、濡れ手に粟の大儲けをすることができる。たとえば1ドルが120円のときに、1万ドルを借り、そのドルで円を120万円と交換して、じっと保管していただけの企業が、1年後、1ドルが100円と値下がりした時点で、100万円を投じて1万ドルを調達し、それを返済に充てるだけで、20万円が儲かる。なんの労働もせずに、ただ、通貨を借りて異種通貨と交換するだけで20%もの利益を得ることができるのである。

 時間搾取システムはこの単純な基本線を軸としている。

 持続的な通貨増発とその結果生みだされる物価投機は、借金してでも、なるべく早く物を購入したいという衝動を生みだす。インフレーションが進行すれば、物価も上がるが金利も高くなる。金利の動向を見ながら物の購買時期が決められるにしても、先行き通貨価値が下落するという大前提は長期的にはゆるぎない。

 インフレーションの進行とともに、債権者から債務者に価値が移転するというシステムができてしまい、それが基本線になってしまえば、社会において、営利目的で債権者になろうとする組織は出なくなってしまう。貸せば貸すほど損をするのなら、この世から貸し手はいなくなってしまう。

 こうした価値の強制移転のシステム、時間搾取システムを資金の出し手にも儲けが出るように設計されたのが、最近破綻した証券化によるリスクビジネスである。

 銀行が、大衆の遊休資金を大量に集めて、それを資金需要のある企業に貸すという間接金融システムは、時間搾取システムが効用を持つことが金融権力に認知されたとたんに、古臭いものとして揶揄の対象になった。長期信用銀行、無尽的相互銀行、信用組合、都市銀行、外国為替専門銀行、住宅金融公庫、各種政府系金融公庫といった日本型棲み分け機関が、米国の金融権力によって「護送船団方式」として馬鹿にされたのは、アングロサクソンを主要メンバーとする国際的金融寡占=金融権力のリスクビジネスに奉仕するように、日本型金融システムを変容させる意図から出されたものである。

 こうして、預金を原資として企業に融資するという旧い型の間接金融方式は棄てられ、米国型の直接金融方式にシステムが切りかえられ、経済は投資銀行の全盛時代となった。

 間接金融的預金銀行とことなり、投資銀行は預金ではなく富裕層からの出資金を元にリスクをビジネス化し、梃子で大きなものを動かすように、借金を元手に巨大な取引をおこない、巨額の利益を出資者に配当するようになった。投資銀行は、金融当局の保護を一切受けないという建前の下で、あらゆる業務が「闇の金融組織」として秘密裏に運営されてきた。管理されるのではなく、一切の自由をよこせというのが、投資銀行のいう金融の自由化のことであった。

 貸し手責任はなくなった。もはや投資銀行は融資をおこなわなくなった。持続的インフレーションの状況化で長期の資金を貸し出すのは、銀行に損失をもたらすからである。貸し手は、ローン返済の権利を投資銀行に売る。こうして、インフレーションに不可避な債権者の不利を瞬時にして避けることができる。返済リスクは、第三者の投資銀行に移ったからである。

 投資銀行は、買い漁った再建を一つの大きな塊にする。固まりは一つ当たり1000を超える債権からなる。この大きな塊を信用にランクを付けて細かく区分けして、仕組み債として顧客である投資家に売る。ここで重要なことは、スローガンとして市場絶対論がありながら、仕組み債は市場によって価格づけされていないことである。顧客は投資銀行や投資銀行がオフショアで設定したSIVから言い値で買わされてきたのである。価格は三つのルートによって形成される。一つが、各付け会社。安全な仕組み債ほど、価格は高い。つまり、得られる利子に比べて証券価格が高いために、収益率は小さくなる。ローリスク・ローリターンである。逆は逆である。安全性を基準として、で仕組み債は三つのランクに大別される。最上級はシニア、真中がメザニン、最下等がエクウィティである。これは、リスクが大きすぎて、販売を自粛するものであるが、高いリスクのために、高いリターンが得られることから、販売競争を勝ちぬくために、投資会社がメザニンと称して売りまくっていたことが、CDS問題が深刻化したときに白日の下にさらされたものである。

 仕組み債価格を設定する二つめがモノラインである。モノラインとは、顧客が持つ債券がデフォールとしたときに、債務者に替わって債券の保有者に支払い保証を提供する組織である。価格を設定する三つめの要素が金融工学である。投資会社が抱える金融工学博士たちが、専門的知識で価格付けの権威化を図る。ブランド力の高い投資銀行が、格付け会社、モノライン、金融工学という箔付けで、市場価格ではない人為価格の金融商品を売りまくったのである。

 格付け会社は、上位二社で世界の80%のシェアを持っている。モノラインもAIGをはじめとした高い権威を持つ超一流企業を親会社に持つ信用度の高い組織であった。金融工学はいうまでもなくスウェーデン銀行銀行賞(通称、ノーベル経済学賞)で権威づけられていた。

 インフレーションが持続化すれば、債権者は債務者に価値を強制的に移転させられる。しかし、それが価格を持つ証券になれば、その証券価格はモノの商品と同じく、持続的な価格上昇が実現する。それは株価を見れば自明のことである。企業は借りるという形でなく、株式や社債の販売という形をとれば、システムは露骨な時間搾取という姿をとらなくてもすむ。証券化とはそういう意味である。


野崎日記(197) 新しい世界秩序(14) 米国国法銀行をめぐるリパブリカンとフェデラリスト(7)

2009-07-22 06:59:04 | 野崎日記(新しい世界秩序)


(3) すでに財政危機にあったフランス国王は、英国の弱体化を狙って、米国独立戦争(一七七五~一七八三年)を支援した。一七七六年に武器販売によって、フランスは戦争に関与し始めた。武器は、ポルトガルの会社ロドリク・ホルタレス・エ・コンパニー(Rodrigue Hortalez et Compagnie)を通じて密かに米国に渡された。一〇〇万ポンド前後の援助であったとされる。米国は、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、アーサー・リー(Arthur Lee)などが、ヨーロッパ各国の関与を求めるロビー活動を展開していた。結局、一七七八年二月六日、ルイ一六世(Louis XVII)がベンジャミン・フランクリンと合意し、一三植民地と正式に同盟を結ぶことを決めた。直ちに参戦し、一七八一年一〇月一九日、フランス艦隊は、ヨークタウンでの米国の勝利に大いに貢献した。これで、米国に主要な戦闘は終わり、局面では、米国外での英国とフランス、さらにはフランスと同盟したスペインも加わる領土争いに転換した。英国は、一七八三年に休戦に応じ、同年のパリ条約に調印した(Treaty of Paris)。パリ条約で、フランスは、一七六三年に失った領土のうち、トバゴ島(Tobago)、セントルシア(Saint Lucia )、セネガル川(Senegal River)領域、ダンケルク(Dunkerque)を回復し、テラ・ノヴァ(Terra Nova)の漁業権を得た。スペインは、メノルカ(Menorca)を回復したが、ジブラルタル(Gibraltar)は英国の手に残った。
 フランスは、参戦によって、一〇億リーブル以上の戦費を使い、国家負債累計額は三三億リーブルにものぼった。この財政危機がフランス革命を呼び込んだのである(  http://people.csail.mit.edu/sfelshin/saintonge/frhist.html)。

(4) ジェファーソンは、ジョン・アダムズ(John Adams)、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)とともに、対欧州のために、一七八四年にフランスに渡った。米国は、独立しても輸入品の八五%は英国からのものであり、この多様化を欧州に求めるために、初代大統領のワシントンが彼らを派遣したのである。翌年、彼らは、プロシア(Prussia)、デンマーク。トスカーニ(Tuscany)との通商協定の調印に成功した。その直後、ハミルトンは単独の駐仏米国大使になる。アダムズは駐英大使になった。こおとき八〇歳になるフランクリン は引退した。ハミルトンは革命前後のフランスをつぶさに見たのち、一七八九年に帰国(http://www.sparknotes.com/biography/jefferson/section9.rhtml)。

(5) 一七九一年、ハミルトンが課税強化の一つにウィスキーの酒税を引き上げたことから、ペンシルバニア(Pennsylvania)州西部の農民の大規模な反乱がおこった。この地域ではバーボンの原料であるトウモロコシの生産に特化していた。トウモロコシは、奥地の農民の重要な現金収入源であった。ウィスキー課税は奥地農民を追いつめた。彼らが暴動を起こし、連邦政府と全面対決した。この暴動を鎮圧するために、一七九四年八月七日、ワシントン大統領が一万三〇〇〇人からなる民兵(militia、一八歳以上四〇歳未満))を組織した。この人数は独立戦争時の人数に匹敵するものであった。この民兵組織もハミルトンが主導した一七九二年の民兵法(the Militia Law of 1792)に基づくものであった。これは、連邦政府の常備軍創設の最初の試みであった。この鎮圧には、ワシントン大統領とともに、ハミルトンも戦場におもむいた(http://www.earlyamerica.com/earlyamerica/milestones/whiskey/)。
(6) 第一次マナサスの戦いでは、北軍が敗退し、ワシントンまで敗走した。この戦いを北軍はブルランの戦い(Battle of Bull Run)といい、南軍は、マナサスの戦いという。南北戦争の最初の陸上戦である。マナサスはバージニア州の地域、ブルランはその地域の支流の名前。南軍が南北戦争の本格化とともに緒戦に大勝したことは、戦争を長期化させる要因になった(http://americanhistory.about.com/od/civilwarbattles/p/cwbattle_bull1.htm)。

(7) 五ドル紙幣の下部右側にはハミルトンの肖像が、左側には、自由の像(Statue of Freedom)が議会の屋根にいる姿が描かれている。像の台座には、"E PLURIBUS UNUM"(多数から一つへ)の文字が描かれている。裏面には、「この紙幣持参人には政府が支払う」(THE United States PROMISE TO PAY TO THE BEARER FIVE DOLLARS ON DEMAND)という文が記されている。

 一〇ドル紙幣は、表面の左側にリンカーンの肖像、右側には、「アート」(Art)という文字とその象形が描かれている。アートという言葉の意味は説明困難な内容であるが、理知に基づく創造とでも訳すべきものであろう。禿鷲(Bald Eagle)と"E PLURIBUS UNUM"という上述のラテン文字が鷲が加えるリボンに記されている。政府支払い約束の文字も記されている。
 二〇ドル紙幣には人物の肖像はない。鷲、楯、自由(Liberty)を表す画像が配置されている。政府支払い保証の文字も記されている(http://www.frbsf.org/currency/civilwar/demand/c119.html)。

(8) この二重銀行制度の下では、国法銀行については、OCC(Office of the Comptroller of the Currency=通貨監督局)、FRB(Federal Reserve Board=連邦準備制度理事会)、FDIC(Federal Deposit Insurance Corporation=連邦預金保険公社)が規制・監督するが、州法銀行は、原則として州の銀行局が権限を持つ。ただし、州法銀行であっても、FDICに加入が許され、その場合には、FDICの監督下に入る。おなじく、FRBに加入しておれば、FRBの監督に従う(http://www.answers.com/topic/dual-banking)。

(9) 法律的には、主体を自然人という生きた人間と、非自然人(artificial-person)という人間が委託した間組織とに分けられる。法人(juridical person)が非自然人の代表格である。具体的には企業などがそれに当たる(http://www.natural-person.ca/artificial.html)。

(10) Leonard、Andrew, "How the World Works -  The unhappiness of Woodrow Wilson," Friday, Dec. 21, 2007, http://www.salon.com/tech/htww/2007/12/21/woodrow_wilson_federal_reserve/)。

 


野崎日記(195) 新しい世界秩序(12) 米国国法銀行をめぐるリパブリカンとフェデラリスト(5)

2009-07-17 06:56:10 | 野崎日記(新しい世界秩序)


四 リンカーンのグリーンバック紙幣

 一八六一年に第一六代大統領になった共和党のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)も、東部の銀行家への強烈な反感の持ち主であった。盟友ウィリアム・エルキンズ(Col. William F. Elkins)に宛てた一八六四年一一月二一日付のリンカーンの手紙はその反感が強く表されている。

 「金融権力(money powers)は、平和時にも国民を食い物にする。異常時には国民を欺く。君主よりも専制的であり、独裁者よりも傲慢であり、官僚よりも自己中心的である。我が国の安全を求める私をくじかせ、おののかせるような危機が近い将来にくるだろうと私は思う。企業が王位についた。その後には、汚職の時代がくるだろう。金融権力は、国民の誤った理解に乗じて自分たちの支配を強め、長続きさせようとするであろう。その結果、富は少数者の手に集中させられ、共和国は破壊されてしまうであろう」(Shaw[1950])。

 南北戦争(The Civil War、一八六一~六五年)は、地方分権=小さな中央政府賛美論から、レッセフェール(laissez-faire)を基調とするが、より中央集権化された国家体制が望ましいという雰囲気に変わる分水嶺だとよくいわれている(Bense[1991])。l

 その一例とされているのが、政府造幣局(BEP=Bureau of Engraving & Printing)である。BEPは、一八六二年八月に創設された。一八六一~六三年の三年間だけ、財務省は、民間の銀行券印刷会社を使っていたが、財務省の仕事だけをする国立の造幣局を作ったのである(Noll[2009], p. 25)。

 一八六一年七月の第一次マナサス(Manassas)の戦い(6)での大敗戦のほぼ一か月後の一八六一年八月中旬、当時の財務長官のソロモン・チェース(Salmon P. Chase)が北東部の大銀行に融資申込をし、一・五億ドルを金貨で三回に分割して融資を受けることに成功した。融資は三年物財務省証券(Treasury notes)の購入という形でおこなわれた。利率は年率七・三%、つまり、額面から二二%も割り引いて銀行は購入したのである。これは銀行にとってかなり有利な取引であった。最初の五〇〇〇万ドル相当の金貨が到着するまで、チェース財務長官は、五〇〇〇万ドルのデマンド・ノート(Demand Notes)を発行した(Mitchell[1903], p. 23)。これは、政府が銀行を通さずに直接発行する一種の政府紙幣であり、のちに、グリーンバックス(Greenbacks)との愛称で呼ばれるようになったものである。これは、将来、持ち主が財務省事務所にそれを持参すれば金貨と交換するという意味で、要求払い紙幣なのである。この政府紙幣は、発行に時間がかからない即効性を持つものであった。この種の紙幣が発行されるようになる南北戦争前には、財務省の資金調達は時間がかかるものであった。

 まず、年間二万五〇〇〇ドル分の財務省証券を作成するには、あるニューヨークの銀行券印刷会社と契約する。印刷会社に依頼された財務省証券は、印刷されたものからワシントンに運ばれる。最初の到着便は早くても早くても一か月後である。完了するには六~八週間かかる。証券は、一シートごとに一~四枚印刷されている。それらは大部の本のように括られている。証券が販売される段階になって初めて財務省の記録局(Register’s office)の書記官によって、帳簿に記録され、シートから切り離される。さらに、記録責任者のサインを受けて、財務省証券は財務省の事務所に運ばれる。ここで、もう一度記録され、財務長官が証券にサインする。こうして正式のものになった証券は財務長官の事務室に運び直され、本物であることを証明するシールが貼られてやっと発行されるという段取りである。チェース財務長官が七・三%証券を発行したのは、この手続きに沿うものであった。しかし、作成された証券は二一万枚もあった(Noll[2009], p. 26)。

 戦争遂行のためには、上のような手続きを踏むことができなくなっていることは明らかであった。他の民間機関に委託しないですむ政府直轄の造幣局が緊急に必要になったのである。それだけではない、緊急に財務省証券を政府が自前で印刷しても、今度は北東部の銀行が財務省証券を引き受けてくれなくなっていたのである。戦争に勝つ見込みのない北軍政府にカネを貸したくなかったのが銀行の本音であっただろう。一八六二年の初めには、南北戦争の長期化は必至であることが明白になった。しかも、財務省の従来方式による資金調達の見込みは絶望的であった。

 そこで、やむなく踏み切ったのが、政府紙幣のデマンド・ノートの増発である。議会は、
一〇〇〇万ドルのデマンド・ノートの追加発行を決めた(Act of February 12, 1862)。さらに、新たな不換紙幣(兌換の保証なく政府が一方的に法貨として宣言した貨幣)(fiat money)を一・五億ドルの発行も議会は認可した(Act of February 25, 1862)(Bayley[1970], pp. 153, 156)。財務省の職員たちは、四〇〇〇万枚のデマンド・ノート、二五五〇万枚のグリーンバクスを短期間に発行し終えたのである(Noll[2009], p. 27)。

 一八六二年末には、財務省は、印刷された札をシートからはがす作業の機械化に成功し、シールそのものも札の表面に印字する技術も確立した。技術開発に当たったのは、スペンサー・クラーク(Spencer Clark)という技術者であった(Scalia[2006], p. 6)。

 そして、一八六三年会計年度で、財務省は、新しい五・二%金利の財務省証券五億ドルを額面でグリーンバックス対価に売ることに成功した。一八六二年一〇月にチェース財務長官がジェイ・クック(Jay Cooke)という名の金融マンを財務省の代理人として雇い、銀行を経由せずに財務省証券の大量販売させたのである。クックは、財務省証券は儲かるという大宣伝を打った。彼は、じつに、一日で一〇〇万ドル相当の財務省証券を売りまくったのである。一八六三年春から五・二%金利の財務省証券の販売に勢いがついた。一八六三年三月の売り上げは七五〇万ドルであったが、同年六月になると、一億五六五〇万ドルも爆発的に売れたのである(Bayley[970], p. 156)。

 購入依頼を受けて四日以内に財務省証券を顧客に渡すというのが、チェースの夢であり、クックにさらにそのための技術開発にいそしむように発破をかけ続けた。一八六二年冬頃は、まだ引き渡しに一か月かかっていた(Noll[2009], p. 29)。

 結局、チェース財務長官は、財務省内に印刷局の設置に踏み切る決心をし、一八六三年七月、技術者のクラークを通して印刷機の収集に踏み切った。独自の造幣局の創設に踏み切ったのである。一八六四年二月までには、印刷機四〇台、一日二五〇〇万部もの証券を印刷することができるようになった(Noll[2009], p. 30)。

 こうして、連邦政府が金融権力そのものを押さえつけたることに成功したのであるが、南北戦争時に発行されたデマンド・ノートは、現在の連銀券の原型をなしている。五ドル、一〇ドル、二〇ドルの三種類の紙幣が発行されたが、いずれも、裏面が緑色のインクでデザインされいるので、グリーンバックスと呼ばれた。表面には、"Freedom"、"Liberty"、"Art"、"Bold Eagle"という定型とともに、ハミルトン、リンカーンの肖像が印画されている(7)。

 二〇〇六年四月にロバート・ルービン(Robert Rubin)がハミルトン・プロジェクトと銘打った新経済政策を作成しているのも、政府紙幣発行と連邦政府の権限強化というメッセージを秘めているのかも知れない。

 南北戦争時、連邦政府が認可する銀行はゼロであった。それに対して州政府認可の銀行は、全米で一六〇〇行ほどあった(Malloy, Michael P., "National Bank Act(1864)," http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-3407400212.html)。州政府認可の銀行を監督する連邦政府による本格的な国法銀行を設立しようとしたのが、チェース財務長官であった(一八六一年)。彼は、複数の国法銀行の設立を目論んでいた。国法銀行に連邦政府の赤字国債の買取と政府への融資をされたのである。チェースが、国法銀行を設立する前にいきなり市場に国債を売却する方向に進んだことは、前節で見た通りである。

 チェースは、一八六三年に国家貨幣法(the 1863 National Currency Act)を制定したが、まったく機能できなかった。これを基に改訂されたのが一八六四年の国法銀行法(NBA=the National Bank Act, 13 Stat. 100)である。この構想が、のちの米国の銀行制度の伝統となる二重銀行制度(dual banking system)の伝統を作ったといえる。つまり、連邦政府が認可する国法銀行(national bank)と州政府が認可する州法銀行(state bank)という二種類の銀行が併存する制度である(8)。

 現在でも機能しているOCC(Office of the Comptroller of the Currency=通貨監督局)がこの法律に基づいて財務省内に設置された。しかも、このOCCのシステムは、一八六四年以降も変更されていないのである(Malloy, op. cit.)。

  国法銀行とは、このOCCに登録する銀行のことをいう。OCCの条文には次のような条文がある。

 「銀行業務を営む組織は・・・五人をくだらない自然人(natural persons)(9)によって設立されなければならない。・・・設立者は、組織設立目的を明示した趣意書を作成し、設立者たちの署名を付して、その趣意書の写しを通貨監督局に提出して、監督局の登録を受けなければならない」(http://chestofbooks.com/finance/banking/Banking-Law/Revised-Statutes-Of-The-United-States-And-Acts-Amendatory-Thereof-Part-2.html)。

 この条文によって、国法銀行が許可され、強力な全国的規模での銀行が輩出することになるのだが、当初は、依然として財務省証券を引き受けるだけの機能しか発揮できなかった。許可条件には、資本金の三分の一、ないしは、三万ドルの国債を準備として持つことが定められていたからである。この条件は、一九一三年まで維持され続けた。その後、この条件は廃止されたが、通貨監督局の監督に服することはずっと維持されてきた。

 この法律を強制すべく、チェースは、国法銀行と州法銀行との課税額で不公平な取り扱いをした。国法銀行に模様替えすれば、税を減額させるという強引な政策であった。課税額は発行銀行券の一〇%もの高額であった。それまでは一%だったのである。これにメイン(Maine)州のビージー銀行(Veazie Bank)が内国歳入庁(Internal Revenue)の税務官のフェノ(Richard F. Fenno)を相手取って、一八六九年に訴訟を起こした。しかし、このときには、チェースは最高裁の裁判長(Chief Justice of the Supreme Court)を務めていて、連邦政府による州法銀行への課税も国法銀行への模様替えの催促も, ともに憲法違反にはならないとしてビージー銀行の訴えを却下した(http://www.encyclopedia.com/doc/1O51-VeazieBankvFenno.html)。

 一八七五年には、最高裁判所が決定的な判決を示した。一八六四年の国法銀行法は、セカンド・バンクといった国法銀行と同じ原理に基づいて成案されたものであり、憲法違反はいささかもない。憲法第一条第八項に基づいて国法銀行が認可されていることは、一八一九年のマカロック対メリーランド訴訟において認められてものである。同じ判決は、一八二四年のオブズボーン対バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツ(Osborn v. Bank of the United States)でも出されている(http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-3401803112.html)として、農民および機具国法銀行対ディーリング(Farmer's and Mechanics' National Bank v. Dearing)訴訟を除けたのである(http://supreme.justia.com/us/91/29/)。少なくとも、リンカーン時代には、中央銀行までの設立はできなかったが、国法銀行の法的地位を定着させたかに見えた。しかし、以後、論争は止むことなく、中央銀行、国法銀行、州法銀行とのいさかいは続いたのである。


野崎日記(194) 新しい世界秩序(11) 米国国法銀行をめぐるリパブリカンとフェデラリスト(4)

2009-07-16 15:28:40 | 野崎日記(新しい世界秩序)


三 セカンド・バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツ

 ファースト・バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツの免許失効と同時に、センカンド・バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツ(Second Bank of the United States)が認可申請をしたが、同じく、国法銀行嫌いが多数を占めていた議会によって認可されなかった。しかし、一八一二年六月に米英戦争(War of 1812)が勃発した。戦争は、一八一四年一二月に集結し、両者はなんお成果もなく集結した。当然、膨大な軍事費が米国経済を圧迫することになった(http://www.users.kudpc.kyoto-u.ac.jp/~c53851/uk2a.htm)。

 やむなく連邦政府は中央銀行を創り、赤字の補填を銀行に託する道を選んだ。こうして、セカンド・バンクは認可されることになった。一八一七年一月のことである。認可機関は前の銀行と同じく二〇年間であった。ファースト・バンクとセカンド・バンクとの間には六年の空白があったのである。大統領は、ジェファーソンと同じ民主共和党のジェームズ・マディソン(James Madison)であった。米国の借金は建国以来最高額であった。一八一二年一月一日の公的借入は四五二〇万ドルであったが、戦争が終結した後の一八一五年九月三〇日には一億一九二〇億ドルにまで激増したのである(http://www.publicdebt.treas.gov/history/1800.htm)。

 この銀行も建前としては民間銀行であったが、実質的には政府の御用組織でしかなかった。連邦政府の歳入の保管場所という役割を担っていた。当然、各州公認銀行の政治的標的になっていた。免許更新申請年は一九三六年であったが、やはり、リパブリカンの伝統を継ぎ、民主共和党の後継である民主党の第七代大統領のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)の、一八三二年の二期目の大統領選挙の綱領には、セカンド・バンクの許可を延長しないことが盛り込まれていた。ジャクソンの政治的標的は、金融マンで政敵のでもあったセカンド・バンク総裁、ニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)であった。

 ジャクソンは、銀行券そのもにに信を置かず、金貨・銀貨・金銀地金こそが真のカネであるとの認識を持つジャクソンは、特定の銀行にのみ銀行券発行という特権を与えることを批判していた。

 ジャクソンのセカンド・バンク批判は必ずしも荒唐無稽なものではなかった。この銀行の貸出が農地投機をあおっていたからである。一八一二年の米英戦争によって、連邦政府自体は膨大な借金を抱えてしまっていたが、農民は、空前の好景気を享受していたのである。ヨーロッパ大陸は、ナポレオン戦争によって、農地が荒廃し、食糧難で喘いでいた。米国の農産物輸出が、一八一〇年代後半には激増し、一大農地ブームが生じていたのである。米国の農業生産の拡大に応じるべく、セカンド・バンクは、土地融資に邁進した。これが農地投機をあおった。地下は二~三倍に急騰した。一八一九年の一年間だけで、五五〇〇万エーカー(約二二万平行キロメートル)の農地が売買された。最終的には裁判で敗退したが、メリーランド(Maryland)州は、州法に基づかないセカンド・バンクの州の独立都市、ボルチモア(Baltimore)での営業活動をメリーランド州は拒否した。州権と連邦政府権のどちらが優先されるのかの大問題が蒸し返されたが、メリーランド州は敗退した(McCulloch v. Maryland, 17 U.S. 316, 1819)。

 しかし、背景には農地投機を押さえ込もうとした州と連邦政府の権威でそれを跳ね返そうとしたセカンド・バンクとの対立があった(Schweikar[1987])。州の了解なしに中央銀行がその支店を一八一七年に州内に設置し、派手な営業活動をすることは越権行為だとして、セカンド・バンクのボルティモア支店に重税を課して駆逐しようとしたメリーランド州に対して、セカンド・バンクのジェームズ・マカロック(James McCulloch)が州裁判所に訴え、元最高司法判事であり、当時の州判事であったジョン・マーシャル(John Marshall)は、中央銀行に対する州の課税は連邦法に反する(「課税する権限は破壊する権限を含む」)として州の主張を退けた。連邦政府の機関に対する州による課税を禁止し、州政府に対する連邦政府の優位を認めた(http://www.landmarkcases.org/mcculloch/marshalllegacy.html)。

 しかし、連邦政府が州政府よりも優先するとのフェデラリストを喜ばす判決にもかかわらず、セカンド・バンクの派手な融資態度は全米の非難の対象となり、以後、土地バブルが急速に収束し、この年、恐慌が発生した。

 アンドリュー・ジャクソン大統領は、セカンド・バンクが選挙選で特定の候補者を支援していると非難した。この銀行が、政治的腐敗と米国の自由に対する脅威となっていると見なし、銀行を追い詰めていた(Ratner[1993], ch. 7)。ジャクソンは、庶民の共感を呼び起こすことを意図して、激しい言葉使いで、銀行を支配する富裕層や海外株主を攻撃した(Ratner[1993], ch. 7)。

 ジャクソンは、一八三三年に、財務長官のロジャー・B・トーニー(Roger B. Taney)に対して、州銀行に連邦税収入を預託し直すように指示した。たとえば、同年九月、トーニーは、セカンド・バンクにあった連邦政府のペンシルベニア州分預託金をフィラデルフィアのスティーブン・ジラール銀行(Bank of Stephen Girard)の後継銀行であったジラール銀行(Bank of Girard)に移した。

 ただし、このスティーブン・ジラール銀行がくせ者であった。この銀行は、スティーブン・ジラードの個人銀行であり、免許更新を拒否されたファースト・バンクの資産を一八一一年に購入していた。その資産には、一八一二年の米英戦争時の一八一三年戦時貸付の大半が含まれていた。ジラールは、セカンド・バンクの当初の組織者であり、主要な株主であった。一八四一年に死去した(http://www.ushistory.org/people/girard.htm)。

 セカンド・バンクは急速に資金を失い、顧客から貸しはがしなどの資金回収を急ぎ、顧客の怒りを買った。一八三六年の免許更新は提起されず、免許は失効した。国法銀行であることをやめても、普通銀行として存続を図ったが、一八四一年倒産した(http://www.questia.com/library/book/jackson-versus-biddle-the-struggle-over-the-second-bank-of-the-united-states-by-george-rogers-taylor.jsp)。

 こうしたジャクソンの強引なセカンド・バンク苛めに激高した反ジャクソン派が、一八三三年にホィッグ党(Whig Party)を結成したが、多数を占めることはできなかった(http://dig.lib.niu.edu/message/ps-whig.html)。

 しかし、経済は、一八二〇年代末から不況の度合いを強めていた。セカンド・バンクの影響力が縮小するや否や、地方銀行が雨後の筍のように新設された。勝手に銀行券を発行するようになってしまったのである。その多くが不換紙幣であった。あっという間に悪性インフレーションが起こってしまった。そこで、ジャクソンは、一八三六年正貨流通法(the Specie Circular)を制定した。国有地は金貨や銀貨などの正貨を対価でなければ払い下げないという法律である。そのことによって、正貨の裏付けのない銀行券は直ちに流通しなくなり、銀行倒産が激増した。それが、一八三七年の恐慌を引き起こしてしまったのである(http://coins.about.com/od/presidentialdollars/a/andrew_jackson_2.htm)。

 中央銀行と州銀行との棲み分けはまだまだぎくしゃくしたものだったのである。


野崎日記(193) 新しい世界秩序(10) 米国国法銀行をめぐるリパブリカンとフェデラリスト(3)

2009-07-15 11:52:46 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 二 ファースト・バンク・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ


 一七九〇年の第一回議会で、ハミルトンは、関税システムの強化、国立造幣所(the United States Mint)の設立、後にアメリカ沿岸警備隊(the United States Coast Guard)に発展する密輸監視隊( Revenue Cutter Service)の創設と並んで、第一国法銀行(the first national bank)の設立を提唱した。国法銀行は、米国の通貨混乱と中央政府の財政安定化を目指すものであった。

 財務長官として強引な政策を推し進めるハミルトンから、ジェームズ・マディソン(James Madison)、ウィリアム・ギル(William Gile)などの有力な政治家たちが離反した。フランスから帰国したばかりのジェファーソン(4)もハミルトン反対者側についた。

 この頃から、ハミルトン側の人たちが自らうをフェデラリスト、反対派を民主リパブリカンと呼ぶようになった(http://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=mjm&fileName=05/mjm05.db&recNum=591; http://memory.loc.gov/cgi-bin/query/r?ammem)。

 反対したのは南部出身者の議員たちであった。造幣所にしろ、ファースト・バンクにせよ、それらは北部の金融業者や商工業者たちを利するだけで、南部農民には何らの恩恵も与えないというのがその理由であった。

 ジェファーソンは、合衆国憲法を楯にとって、国法銀行の設立に反対した。

 画集国憲法修正第一〇条には、「州または人民に留保された権限」が記されている。その条文は、「この憲法によって合衆国に委任されず、また州に対して禁止していない権限は、それぞれの州または人民に留保される」(Tenth Amendment – Powers of States and people.
The powers not delegated to the United States by the Constitution, nor prohibited by it to the States, are reserved to the States respectively, or to the people.)とある(
http://www.law.cornell.edu/constitution/constitution.billofrights.html)。

①国法銀行を設立し、そこに強大な権限を与えることとを合衆国(連邦政府)に委任することは、憲法違反である。憲法はそれらを連邦政府に委任するなどとは定められていないというのである。いわんや、それに伴う増税を上院で決議するこなど憲法的に許されるべきではないと非難した。

②彼らは融資決定権という強大な権力を握っていて、恣意的に運営される可能性がある("Jefferson's Opinion on the Constitutionality of a National Bank: 1971,"  http://avalon.law.yale.edu/18th_century/bank-tj.asp)。

 大統領になったジェファーソンは、一八一〇年、ファースト・バンクの免許更新に反対した。

 「もし米国民が民間銀行に通貨発行権を与えてしまえば、最初はインフレーションを通じて、その後は、デフレーションを通じて、銀行は・・・人々から全財産を奪い、父たちが築きあげたこの大陸の地で、子供たちが朝起きれば家がなくなっていること気づくであろう。・・・通貨発行権を銀行から奪って、本来の所有者である人々の手に返すべきである」(http://www.bartleby.com/73/1204.html)。

 連邦国家の力を強くすることは憲法違反ではないし、銀行設立はその手段なので、憲法に抵触するものはないと、ハミルトンは突っぱね、ワシントン大統領の裁断に委ねられるようになった。

 ハミルトンは、執拗に大統領を説得した。連邦政府は人々と企業のためにある。特定の企業だけを連邦政府の政策から外すことは許されない。しかも政府が五分の一の株式を保有しているが、なお多数の株式が民間人によって保有されているので、この銀行は国法銀行ではなく、民間銀行である。それは政府の機関ではないので、政府に委託されているとはいえない。いかなる政府も、主権をもち、その目的を達成することが、憲法によって妨害されてはならない、等々、強力な論陣を張った("Hamilton's Opinion as to the Constitutionality of the United States: 1971," http://avalon.law.yale.edu/18th_century/bank-tj.asp)。

 ワシントン大統領は、いずれが正しいのかきめあぐねていたが、結局、一七九一年四月二五日、この銀行を設立する法案に署名したのである(http://eh.net/encyclopedia/article/cowen.banking.first_bank.us)。

 そして、一七九一年二月二五日、ファースト・バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツ(First Bank of the United States)が、米国議会によってチャーター(Charter、特許状)を付与された。チャーターの期間は二〇年であった。当時、米国の各州には、英国、スペイン、フランス、ポルトガルのコインが併行流通していてたうえに、各州、各都市、さらには、奥地の商店、都市の大企業などが独自の紙幣を発行していた。全国的な統一はなかった。錯綜した貨幣状況は、地域間で貨幣価値格差が存在していて、そうした価値格差を利用した貨幣投機が横行していた。額面一ドルの債券が一五センとで買い集められ、投機を助長していた。中央銀行は、それを整理しようというものであった。この銀行は、東部の金融業者や商工業者たちの利益に資するだけのものであるとの批判が沸騰していた。農業者が多い南部諸州は中央銀行設立への欲求は希薄であった。

 ファースト・バンクは、一〇〇〇万ドルの株式で出発した。うち、二〇〇万ドルは、連邦政府が購入した。しかし、政府には金がないので、政府はまずファースト・バンクから二〇〇万ドルを借り入れ、それで株式を買い、その後は、銀行に一〇年分割で支払うという段取りであった。残りの八〇〇万ドルは、民間公募に付された。民間公募は外国人も含むものであった。しかし、民間人は、四分の一を金銀、残りは債券や受入可能な紙幣などでの支払い方法が認められた。

 銀行は、五〇万ドルの運転資金(real money)を持ち、上限一〇〇〇万ドルの貸付をおこなうことが決められた(McDonald[1979], pp. 194)。

 しかし、この銀行は、連邦政府に奉仕するだけのものであった。税金を受け入れ、政府赤字を補填するために政府に短期融資し、政府国庫金を受け渡しするだけの機関であった。けっして、ハミルトンが模倣しようとしたイングランド銀行の産業界振興に直結するものではなかった。

 国法銀行であるにもかかわらず、この民間会社であった。一七九一~一八一一年に他の国法銀行は作らない、ただし、州法銀行は州政府の実情に応じて認可されてもよいと決められた。

 国債の購入は禁止された。理事は定期的に交代させる。資本金を超える銀行券発行や借外国人は、この銀行の株式を購入してもいいが、株主としての議決権はない。財務長官は週単位の活動報告を銀行に求めることができる。 連邦政府が引き受けた州債の金利払いは一七九一年末から始まることになっていた。その金額は年間七八万ドル以上が見込まれた。そのために政府は課税強化をおこなうが(5)、不足額を国法銀行が政府に融資することになっていた(Syrett[1961-1987], vol. 7, pp. 226-28)。

 ファースト・バンクは、当時の首都、フィラデルフィアに置かれた。そして、一八一一年に認可期限がきて免許は失効した。第三代大統領のジェファーソンが免許更新に反対したからである(http://www.usapopulationmap.com/timeline.html)。


野崎日記(192) 新しい世界秩序(9) 米国国法銀行をめぐるリパブリカンとフェデラリスト(2)

2009-07-14 06:24:59 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 一 リパブリカンとフェデラリスト

 米国には、ジェファーソニアン・デモクラシー(Jeffersonian Democracy)の伝統がある。強い自由競争指向とともに、州権の重視、金融独占への嫌悪、小さなコミュニティ尊重などがその内容である。この言葉は、トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)にちなむものである。米国の歴史では、一八〇〇~一八二〇年代に理想として試みられた政策を指す。これは、その後に試みられたジャクソニアン・デモクラシー(Jacksonian Democracy)と対比される。

 ジェファーソニアン・デモクラシーは以下のように一般的に理解されている。

①米国政治体制の核は代議制民主主義(representative democracy)にあり、市民は州政府(state)を支え、州政府が君主制(monarchism)や貴族制(aristocracy)などに堕落することに抵抗する義務を負う(Banning[1978], pp 79-90より)。

②都市の悪しき影響力に屈しない市民の徳と独立性を象徴するのが、自作農民(yeoman farmer)である。政府の政策は彼らの利益に資するものでなければならない。投資家(financiers)、銀行家(bankers)、工業家(industrialists)たちは、都市を堕落の汚水池にしてしまっている ので排除されるべきである(Elkins & McKitrick[1995], ch.  5より)。

③米国人は、「自由の帝国」(Empire of Liberty)を世界に普及させる努力を払わなければならないが、「紛糾をもたらす同盟」(entangling alliances)は避けなければならない( Hendrickson & Tucker[1990])。

④人々や国家・コミュニティの共通の利益・保護・安全を組織するために、連邦政府national government)が必要であるが、そこには危険性もある。したがって、連邦政府はきちんと監視され、その力は制限されなければならない。このように、連邦政府の力の強化に反対する人たちが「反連邦主義者」(Anti-Federalists)であり、一七八七~八八年にジェファーソン主義に結集した。フェエデラリストとは、広義には、連邦主義者。連邦制国家における中央政府の権限拡大を支持する人々で、狭義には米国建国直後に結成された政党名とその支持者をさす。ワシントン(George Washington)、ハミルトン(Alexander Hamilton)、ジョン・ジェイ(John Jay)などが指導者であった(Banning[1978], pp 105-15より)。

⑤共和主義(Republicanism)が政府形態として最善である(Dilday[2007], p. 92)(1)。
 見られるように、米国は、建国時から金融権力との折り合いをめぐる議論が、国論を二分する重要課題だったのである。

 レパブリカンたちが憎悪したフェデラリストのアレキサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton、一七五五(七?)~一八〇四年)について説明しておこう。ハミルトンは、カリブ海西インド諸島ネイビス(Nevis)に生まれる。ジョージ・ワシントン(George Washington)将軍の下で独立戦争(the American Revolution、一七七五~八三年)に従軍。初代大統領、ワシントンの下で初代財務長官(United States Secretary of the Treasury)。財務長官時代に連邦党創設。建国の父(Founding Fathe)の一人。フィラデルフィア憲法会議(Philadelphia Convention)呼びかけ人。『連邦主義者報告』(the Federalist Papers)共同編集者、。大陸会議(Continental Congress)議員に選ばれるが、ニューヨーク銀行(Bank of New York)設立準備のために辞任。英国の政治体制賛美者。強力な中央政府論者。連邦党設立。国債・州債発行論者。国法銀行(national bank)設立論者。輸入関税・酒税(whiskey tax)導入論者。常備国軍設立論者(Chernow[2004], pp. 90-94)。

 一七八〇年、当時のニューヨーク州の大富豪で有力政治家のフィリップ・シャイラー(Philip Schuyler)将軍(General)の娘、エリザベス(Elizabeth)と結婚。孤児となり辛酸をなめてきたが、この結婚によって上層階級の仲間入りすることになった。

 ワシントンと行動をともにするうちに、ハミルトンは、大陸会議(2)の資金的裏付けに乏しいことに憤りを覚えていた。独自の徴税力はなく、各州からの献金とフランス国王からの援助金(3)、ヨーロッパ諸国からの借金等々に依存し、独立戦争を戦う軍備も財政難で思うようにならなかった(Rakove[1997], p. 324)。ハミルトンの中央政府強化論はそうした経験から出たものであろう。

 ヨークタウン(Yorktown)における勝利を収めたのち、ハミルトンは軍務を辞め、一七八二年、この年に新しく発足した連合会議(Congress of the Confederation)のニューヨーク選出議員になる。会議で、ハミルトンは会議の徴税権確保に奔走した。ハミルトンは、中央銀行設立案もそのときに提出した。

   一七八三年に連邦会議を辞し、ニューヨーク弁護士会に登録(Chernow[2004], p. 160)。

一七八四年、ニューヨーク銀行(Bank of New York)設立。現在でも存続し、米国最古の銀行である。一七八六年、アナポリス会議(Annapolis Convention)議員になり、そこで、憲法を制定し、それに基づく、強力かつ財政力あり、州政府からは独立した中央政府の設立を求める決意書を提出した。そして、一七八七年、米国の独立達成後、ニューヨーク地区議会から憲法会議(Constitutional Convention)メンバー.に選ばれた。これが、一七八七年五月~九月に開かれたフィラデルフィア憲法制定会議(Philadelphia Convention)である。ちなみに、この憲法起草に関わった五五人が建国の父と呼ばれる人たちである。

 ハミルトンは、会議の初期段階で選挙の洗礼を受ける大統領と上院議員の制度を主張し、絶対的権限を有する強力な中央政府樹立を提言していた。州政府知事も中央政府によって指名されるとしたのである。ただし、彼の主張は大した影響力を持たなかった(Mitchell[1957], pp. 397 ff. )。憲法起草案には、ハミルトンの激しい主張は盛り込まれなかったが、それでも、彼は起草案に署名し、細部をつめるべく、計八五巻の『フェデラリスト・ペーパーズ』(Federalist Papers)を発刊した。これは、いまでも米国憲法を語るさいの一級の資料になっている(Lupu[1998], p. 404)。

 一七八一から八九年までは、米国一三州の連合規約(Articles of Confederation)が事実上の米国憲法であった。連合規約とは、独立戦争において一三の植民地の相互友好同盟を定めた規約であり、このとき、連合の名称を「アメリカ合衆国」(United States of America)と定めた。米国憲法ができる前の暫定憲法の位置づけであった。一七七七年に採択され、一七八一年すべての州で批准された。しかし、一七八七年に米国憲法が制定され、一七九〇年全州が憲法を批准するとともに、連合規約の効力が失効した(http://www.earlyamerica.com/earlyamerica/milestones/articles/)。

 一七八八年、ハミルトンはニューヨークで憲法批准を進める役割を担った。批准に大きな影響力を示したのが、妻の実家のシャイラー家であり、ハミルトンは、上院議員に妻の親、フィリップ・シャイラー(Phillip Schuyler)を新憲法に基づく上院議員候補に押し立てることに成功した。ただし、最終的に決闘することになるバー(Aaron Burr)とは、この時点で不和の関係になった(Lomask[1979], pp. 139–40, 216–7, 220)。

 ワシントン初代大統領によって、ハミルトンは、一七八九年九月に財務長官に任命され、一七九五年一月まで職務に止まった。財務長官時代に、ハミルトンは多数のレポートを書いている。なかでも、次のものが重要である。いずれも下院に向けたものである。①『公信用について』(一七九〇年一月一四日)(On the Public Credit)、②『公信用、国法銀行について』(一七九〇年一二月一四日)(On Public Credit: On a National Bank)、③『造幣局の設置について』(一七九一年一月二八日)(On the Establishment of the Mint)、④『製造業について』(一七九一年一二月五日)(On the Manufacturing)。

 『公信用について』は、ジェファーソン主義者たち神経を逆なでするものであった。

それは、独立戦争で負った各州の負債を連邦政府が肩代わりし、連邦政府の財政基盤を強化するためにも大規模な国債を連邦政府に発行する権限が付与されるべきであるという内容であった。これは、当時の国務長官(Secretary of State)であったトーマス・ジェファーソンやハミルトンの盟友であったはずの議員、ジェームズ・マディソン(James Madison)たちによる猛烈な反発を招いた。各州の負債を連邦政府が一律に肩代わりするということは、ジェファーソンの出身州、バージニアのように戦費の大半を供出していた州も、ほとんど供出をしなかった州も区別なく救済されるということで、納税者たちは納得しないとか、憲法の厳密な適用を考えればこの案は憲法の精神からの重大な逸脱であるというのが反対の理由であった。

 また、独立戦争に参加していた軍人たちに大陸会議は十分な俸給を支払っていず、連邦政府になってからは、債券で退役者たちに未払いの報酬部分を肩代わりしていた。つまり、渡された債券は債務支払い証書であった。

 
当然、この債券は大幅に価値低下していた。そうした情況を放置したっまで、大量の国債を連邦政府が発行するとうことは、退役軍人に発行した債券をめぐる大きな投機が起こるだろうと、マディソンはハミルトンの政策を批判した。フランスから帰国したばかりのジェファーソンの反対に同調した人のグループがリパブリカン、ハミルトンに同調した人のグループがフェデラリストと呼ばれるようになったのである(Max, ed.[1937], vol. 3, pp. 533-34)。結局、一七九〇年七月二六日、僅差でハミルトンが下院を乗り切った(Miller[2003], p. 251)。

 しかし、ハミルトンが連邦大統領のジョン・アダムズと敵対したために、一八〇〇年、対立政党の民主共和党が大統領選で勝利。

 ハミルトンの影響力が急速に衰える。一八〇一年、連邦主義の主張を展開する『ニューヨーク・ポスト』(New York Post)を創刊(Nevins[1922], p. 17)。一八〇四年、ジェファーソン政権での副大統領、アーロン・バー(Aaron Burr, Jr.)との確執の末に決闘、翌日死去(四九歳)("Today in History: July 11". Library of Congress.
http://memory.loc.gov/ammem/today/jul11.html)。


野崎日記(191) 新しい世界秩序(8) 米国国法銀行をめぐるリパブリカンとフェデラリスト(1)

2009-07-13 14:01:26 | 野崎日記(新しい世界秩序)


  はじめに


 〇九年五月一六日、米国のモンタナ(Montana)州議会でドル以外の通貨発行を求める法案が提出された。FRBが発行する紙幣を唯一の通貨とせず、金・銀地金を基礎とする新通貨を発行しようというのである。

  モンタナ州だけではない。同様の法案が、インディアナ(Indiana)、コロラド(Colorado)、ミズーリ(Missouri)、ジョージア(Georgia)、メリーランド(Maryland)など、米国の各州で提起されている("State considers return to gold, silver dollars: Proposed bill slams Fed, allows payments in precious metals," http://www.worldnetdaily.com/index.php?fa=PAGE.view&pageId=92000)。これは大変なことである。FRBへの反感が全米に広がっていることの証左だからである。そして、建国当初のリパブリカン(Republican)の復活を予兆させるものだからである。リパブリカンは東部の金融権力(Financial Power)への強い警戒感を持つグループであった。

 米国の借金は、政府、自治体、民間を合わせてGDPの八倍もある。〇九年の米国財政赤字は、一兆一八六〇億ドル、GDPの八・三%、さらに二〇一〇年には一兆七五〇〇億ドル、GDPの一二%にもなるだろうと予測されている。金融危機でFRBはドル供給を増やしている。かつての大恐慌時代にFRBは一九二九年から一九三三年までにドル供給を二〇%増やしたが、一九三四年には一〇%のインフレーションを起こした("Beyond the dollar," http://www.atimes.com/atimes/Global_Economy/KD01Dj02.html)。「今、金融危機対策として連銀が年率一七%増という膨大なドル増刷を続け、急増する連邦政府の米国債(財政赤字)の売れ残りを連銀が買い支える危険な事態の中で、モンタナなどの州議会の金貨導入法案は、せめてもの危機回避策」である(田中宇「連銀という名のバブル」、http://tanakanews.com/090519FRB.htm)。

 三兆ドルもの救済資金がウォール街に注がれた。これは確実にハイパー・インフレーションを呼び込むものである。中央銀行がインフレーションを引き起こす元凶である。このような批判が米国で噴出するようになった。FRBこそが、議会の監査を定期的に受けるべきだとの説も説得力を持ちはじめた。

 「議会が、Fedと選挙を経ない官僚の行動を監査することに失敗すれば、この国の経済を破壊し、炎上させるものとして非難されるべきである」(Paul, Ron, "Fed Up: Audit the Federal Reserve,"http://www.forbes.com/2009/05/15/audit-the-fed-opinions-contributors-ron-paul.html)。

 元FRB議長(Former Federal Reserve Chairma、一九七九~一九八七年)で、オバマ(Barack Obama)が創設した経済回復諮問会議(Economic Recovery Advisory Board)委員長のポール・ボルカー(Paul Volcker said the global economic slump is one of the worst in history)ですら、FRBの監査の必要性を語った。金融危機への緊急対策のために、バランス・シートを二兆一九〇〇億ドルと倍増させたFRBは、議会の監査を受けるべきであるし、「財務省とFRBがとってきた行動に政治体制は耐えられなくなっている」と、テネシー州ナッシュビル(Nashville, Tennessee)にあるバンダービルド大学(Vanderbilt University)での〇九年四月二一日のコンファレンスで語った("Volcker Says Fed's Authority Probably to Be Reviewed," http://benaiah.newsvine.com/_news/2009/04/21/2711916-volcker-says-feds-authority-probably-to-be-reviewed-update1-)。

  ボルカーはさらに、〇九年四月二三日)に語った。三兆ドルもの金融機関救済資金投与にもかかわらず、市場は機能を回復していない。市場のなんらかの規制が必要になるが、大恐慌時代(the Great Depression era)の産物である、一九三四年のグラス・スティーガル法(the 1934 Glass- Steagall Act)の復活まではいかなくても、少なくとも、一九九九年のグラム・リーチ・ブライリー法(the 1999 Gramm-Leach-Bliley Act)の書き直しは必要となるとボルカーは語った。ヘッジファンド(hedge funds)やエクイティファンド(equity funds)への銀行融資は禁じられるべきである。銀行は巨大化すべきではないと語った(Benjamin, Matthew, "Volcker Says U.S., World in a ‘Great Recession’, "  http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601087&sid=ainh3qdHJuoM&refer=home).

 金融界に対する強い反感は、米国民が伝統的に持っていたものである。以下、金融権力をめぐる米国の論争史を振り返りたい。