消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 61 京福電鉄事故

2007-01-31 23:57:04 | 路(みち)(福井日記)
 ある出版社の女性編集者から、福井のことを、津村節子さんが愛情をもった筆致で描いていますよと、教えられ、早速、津村の『似ない者夫婦』(河出書房新社、2003年)を手にとった。福井をどういう眼で観察しているのかの興味に惹かれて読んだ。

 津村節子は、1928年福井に生まれ、1965年『玩具』で芥川賞を取り、先日亡くなった吉村昭の伴侶であった。

 『似ない者夫婦』(!?ー私の感想)の中の「私のルーツ」(!!!ー私の感想)に「福井の織物」がある。これは、私が日頃感じていることと同じである。

 「福井の織物」というタイトルであるが、内容は京福電鉄の、あの痛ましい事故のことである。



 
京福電鉄は、京都の人には馴染みの深い叡電と嵐電の関連会社であった。
「あった」というのは、いまでは、
越前鉄道(エチテツ)という第三セクターになっているからである。私は、福井駅に出るのに、いつもこの電車を使っている。

 それに、永平寺町・坂井市のバスはすべて京福バスである。
 これも、京都では、赤バスとして大原や比叡山に通じる郊外バスとして京都の人達に親しまれている。私の場合、とくに愛着が深くて、大事な私の若い後輩のご父君がこのバスの運転手をしておられて、大原の風景をよくその後輩から聞かされていた。下宿のある松岡で、京都で見慣れた赤バスが、けなげに走る光景は、棄てたものではない。ただし、一日、数本しか走ってくれない。

 2000年12月17日、「本来なら東古市駅’いまの永平寺口ー私)が終点となる永平寺発の電車が、同駅を通過して、そのまま越前本線に乗り入れ、反対方向から来た福井発電車と正面衝突したのである」。「原因は、電車の制動力を車輪に伝える主ロッドが破断していたのだという(???-私の感想)。赤字のため老朽化した車輌を、十分と言えない安全装置のまま運行していたのである。東古市駅は、勝山方面と永平寺方面に分かれる分岐点である(???ー私の感想)」。

 かに、大変な悲劇であった。これを契機として、この鉄道の永平寺線が廃止された。

 
ずっと以前は、越前本線は勝山を超えて、遠く大野まで伸びていた。永平寺線も東古市を超えて丸岡まで伸びていた。それが、いまでは、勝山が終点、そして、丸岡線は廃止になっている。もったいない。越前平野を環状に被うこの鉄道がいまでもあれば、福井の産業はこうも衰退しなかったであろうに。

 「福井県人は勤勉で、共働き率が高い。大野、勝山からお手伝いさんが引き続き来てくれているが(!!ー私の感想)、彼女らは全く無駄遣いせず、貯めたお金でまっ先に買うのは車である。各家の家族たちは一台ずつ車をもっていて、一家に五台もある家も少なくない。車が増えれば、電車に乗る人は少なくなる。利用者は通学の学生か、病院へ行く老人ぐらいにしぼられている。ダイヤは間引かれ、車輌も一輌になり、無人駅が増え、人員削減も行われ、福井ー東古市間に路線を縮小したいという申し入れも会社から出されるようになった。沿線の自治体は、”乗る運動”を展開し、恐竜エキスポの効果もあって、下げ止まりの傾向が見えてきた矢先であった。この度の事故が、京福電鉄にどういう効果をもたらすか、祈るような気持ちである」。

 本当にそうである。せめて、わが県立大学福井大学医学部が学生と教職員の自動車通学・通勤を禁止し、その代わりにバス・電車の増車を懇願して見るべきではないのか。それか、神戸や富山のような新しい交通システムを開発すべきではないのか。

 福井県は家族当たり自動車保有率日本一などを自慢している場合ではない。

 
融雪の水道水の噴射で全身ずぶぬれになる私のような歩行者は、水しぶきあげて平気で疾走する車が地獄の使者に見えて、忌々しくなる。公共交通システムの整備がないかぎり、福井は産業はおろか、人間のコミュニケーション能力を際限なく低カさせるであろう。

 一人、車で大学に来て、また人と会話することもなく、ノン・アルコールでまた一人、家路に車で帰る生活から他者が心に住みつく環境は生じないであろう。このまま行けば、我が大学の学生諸君は、いつかは、無感動、無表情の表情になりかねない。なんとかしなければ大変なことになる。打倒!車社会。


 福井の車社会の悪口をもうひとつ。ねずみ取りがないのか、とてつもなく、猛スピードで車が走り、車間距離も取らず、嫌みで接近してくる。最低の交通マナーである。携帯、くわえタバコ、片手運転。女の子まで!ライトはアップ、信号で止まってもライトを消さない。本当に嫌になる。

本山美彦 福井日記 60 テキスト・ファンダメンタリスト

2007-01-30 06:31:39 | 神(福井日記)
  日本で、『法華経』信仰を鼓舞したのは、最澄であった
 ただ、最澄は、『法華経』解釈をめぐる他宗との論争に精魂を尽き果たし、教団としての組織化には失敗した。比叡山が、高野山を凌ぐ大組織になるのは、最澄よりもはるかに後代になってからである。



 最澄は、空海のように、朝廷の愛顧を得て、高野山・東寺・西寺を頂く才覚には恵まれていなかった。

 
しかし、闘う最澄の下から、力のある新宗派創始者が輩出したのに、空海の下からは、これといった革新的学僧は育たなかった。空海が偉大すぎたということもあったのかも知れないが、むしろ、組織原理が個性を潰したと理解すべきだろう。

 思想とは、組織の巨大さではなく、わくわくするような闘いの中から育成されるものであることをこれは示している。

 それは、現代社会でも通じる。
 
権威を確立したマンモス組織からよりも、権威に挑戦する小さな組織から、大変な学者が輩出するものである。私が育った京大経済学部は日本では最少人数の組織で「あった」。しかし、自由闊達な組織で「あった」。大変な学者が巣立ったかどうかは後生の人たちが判定することなのだが。



 ただし、これも日本の学問の悲劇なのだが、仏教の経典が原語ではなく、漢訳から得たものであり、「加上」として原典に付け加えられた個所も漢語であることから、字義解釈学に学問が堕落してしまいかねない。日本語で理論が組み立てられていないのである。



 マルクス研究の悲劇はその最たるものである。
 
誰の編集によるテキストであるのか、マルクスの著作に散りばめられている用語を、当時のドイツ語の文脈で理解されたのか否か、等々の論争の消耗戦が、若者のマルクス離れを生み出したと私は思う。

 そもそも、過度にテキスト・クリティークにこだわるのは日本人の悪しき慣習である。

 
マルクスの真実がいかなるものであれ、資本主義社会の矛盾を現実に解消し、新たな歴史を作るにはどうしたらいいのかを、母国語で、母国の感性で考えることこそがもっとも重要なことである。

 マルクスのテキスト論争が消耗戦の末に沙汰止みになった瞬間に、日本では「マルクス的雰囲気」の研究者は一瞬にして消えてしまった。「マルクス主義」全盛時代には、「私はマルクス主義者ではない」と言っていた私が、いまなお「マルクス的なもの」にこだわっている。変な思想界である。

 最澄は、確かに闘士であった。それが若い学僧の感性を揺さぶった。しかし、最澄はもっとも日本的な翻訳解釈学の消耗戦で燃え尽きた。

 これは、最澄のものではないが、天台の良源(りょうげん)が南都の法相宗と論争した「応和の宗論」(963年)などはその典型である。

 『法華経』の「方便品」に「無一不成仏」という語句がある。もちろん、これはインドの原語からの漢訳である。この解釈をめぐって激しい論争が闘わされた。天台側の良源は、「成仏しない人は一人もない」(一として成仏せざるなし)と解釈し、法宗側の仲算(ちゅうざん)は、「仏性をもたない衆生は成仏できない」(無の一は成仏せず)と解釈した。

 ここには、権威主義が思想を支配しているどうしょうもない日本の悪弊が集約されている。

 
私など、どうでもいいではないかと思う。
 
真に「人は等しく心の中に仏性がある」と信じるのであれば、それを身近な事柄と論理の構成によって、説得的な言葉で人々に語りかけ、文章を公表すればよいではないか。よしんば、自分たちが依拠する『法華経』が自分たちの主張する内容と異なれば、「テキストではそうだが」、いまの時代には別の方向で考えたいと、率直に語ればいいのではないか。テキスト至上主義、権威主義の象徴が、日本の宗教論争を支配していた。


 そもそも、僧は、朝廷から認可され、それ以外の僧たらんとする者は「私度僧」として教団から排除された。認可される僧は、東大寺などで戒を授けらればならなかった。朝廷の権威に従属しないかぎり、平安朝の宗教は存立できなかったのである。最澄ですら、戒壇を比叡山に設置すべく朝廷にお願いしていたのである。空海は早々と設置の認可を得ていた。

 しかも、経典は、日本語に翻訳されずに、僧侶のみが読むことができたのである。民衆は僧の語る言葉だけで仏教を理解せざるをえなかった。



 ルターはそうした因習を打破したように、日本では蓮如が吉崎で民衆のためのわかりやすい日本語で布教した。しかし、新たな教団も権力に近付き、包摂された。

 普通の人々の日常の言葉で、どれだけ深みのある内容を語ることができるか。これが、思想に携わるものの、義務である。そして、矜恃をたもつこと、これが思想を語るものの最低限の資格である。

本山美彦 福井日記 59 法華経

2007-01-29 20:14:13 | 神(福井日記)
 小乗仏教の利己性に不満をもつ人たちの大乗仏教の運動がインドで紀元前後に起こり、これが中国、朝鮮に伝わったとされる。

 この運動の中で、『法華経』、『華厳経』、『無量寿経』がまず形成されたと先述の末木氏は言う(『日本仏教史』新潮文庫)。

 大乗仏教が本格的に中国に定着するのは4世紀の道安(どうあん、312~385年頃)の努力と、5世紀初め、西域から長安にきて教典の漢訳に画期的な業績を残した鳩摩羅什(くまらじゅう、350~409年頃)の業績によることが多いと同氏は説明している。時は中国の南北朝時代であった。

 朝鮮半島では、北の高句麗に372年、南の百済には中国の南朝から384年に伝わった。新羅も早くから伝わっていたはずであるが、公的に認可されたのは527年である。百済でも仏教が盛んになったのは、6世紀初めの聖王のときであった。末木氏は、その意味で、日本に百済から仏教が伝来したのは、538年で、最新の文化であったと言う。

 聖徳太子(574~622年)信仰の一つに、彼が南岳慧思(なんがくえし、515~577年)の生まれ変わりであったというものがある。

 
太子の生年と慧思の没年が異なり、太子が生まれた年にはまだ慧思は生きていたので、この説は明らかに間違いなのだが、この説は、慧思が当時、中国の仏教界ではいかに大きい存在であったかを示している。

 慧思は、天台宗を開いた随の天台智(てんだいちぎ、538~597年)の師であり、法華経解説者、および、法華経に基づく禅定の実践者として著名な人であった。それほどの著名な慧思が日本で聖徳太子として生まれ変わり、日本に仏教を広めたのであるとの説が奈良時代には語られていた。

 この説を広めたのは、日本に苦難の末に天平勝宝5年(753年)に到着した鑑真の弟子、思託(したく)であったと末木氏は断定している。

 
思託は、日本最古の僧伝、『延暦僧録』や、『大和上鑑真伝』の著者である。太子伝説は、平安時代の延喜17年(917年)に編纂された『聖徳太子伝暦』(藤原兼輔撰)に収録されている。

 その太子が『三経義疏』(さんぎょうしょ)を著したことは前回で述べたが、この三経の中に『法華経』が入っていた。

 そして、天台宗は、この『法華経』に基づいたものである。
 
中国の天台の著作を日本にもたらしたのは、5回の日本への渡航失敗と失明の末に、やっと、日本に上陸した鑑真がもたらしたものである。鑑真は大仏の前で聖武天皇に菩薩戒を授けた。この菩薩戒というのは、鳩摩羅什が訳した『梵網経」(ぼんもうきょう)という、慮舎那仏の蓮華台蔵世界(巻頭)、菩薩の修行(上巻)、菩薩の戒(下巻)を説いたもので、大仏建立はこの経典によると言われている。

 この菩薩戒は、元来が、在家者向けのものであったのに、出家者向けに替えてしまったのが最澄である。戒律を重視したからであると、末木氏は解釈する。

 初期大乗仏教の骨格をなすものが、『法華経』と『華厳経』であった。
 
紀元2世紀頃には作成されていたと考えられている。ただし、多くの仏教経典と同じく、『法華経』といっても単純なものではない。古層と新層があって複雑な構成をもっている。

 総じて、小乗仏教や原始仏教に比べて大乗仏教の経典は分かりにくい。
 
これは、江戸時代の大坂の天才、富永仲基(とみながなかもと、1715~1746年)が喝破したように、大乗仏典は釈迦自身の言葉だけでなく、後代の人間が次々に書き加えてできあがったものだからである。複雑さの度合いは年代が経つにつれて増加する。

 富永は、大乗は仏ではない。架空のものである(大乗非仏論、『出定後記』)とした。

 
明治になって、丹波出身の村上専精(むらかみせんしょう、1851~1929年)も大乗非仏論を唱えたが、その罪で真宗大谷派の僧籍を剥奪された。彼は東京帝大教授で、『日本仏教史綱要』、『仏教統一論』の著者である。

 さらに、漢訳という変容を仏教経典は被る。当然、経典には矛盾が出てくる。実際には、経典の成立時代背景の差が、そうした違いを生むのに、中国の仏教学者たちは、年齢毎の釈迦の悟りの境地の深さの差として経典の違いを理解しようとした。経典のことごとくが、釈迦の真言だと理解しようとしたのである。

 代表的な作業は、天台宗の始祖、天台智である。そして、『法華経』が釈迦の最晩年のものとされて、最高の悟りの経典とされた。

 通常、『法華経』という時、鳩摩羅什が漢訳した『妙法蓮華経』(みょうほうれんげきょう)を指している。まさに、正しい教えとは「白い蓮華の花」(サッダルマ・プンダリーカ)、つまり「正しい教え」(サッダルマ)、「白い蓮華」(プンダリーカ)なのである。

 比較的短い『法華経』は、「方便」という考え方を導入している。「方便」とは「巧みな手段」という意味である。

 釈迦は、聴衆の理解力に応じて説法方法を変えた。これを方便という。
 
したがって、方便は究極の真理ではなく、そこに至る手段だというのである。大乗は小乗と違って広く衆生(しゅうじょう)の救済を目指す。それに対して、小乗は、自己の救済のみを願う。仏の弟子(声聞、しょうもん)なのに、縁覚(えんがく)といって自分一人で悟ったとか、自分の利益しか考えないものである。

 このように小乗を貶め、大乗の優越さを誇りながらも、『法華経』の編纂者たちは、大乗と小乗との合一を目指していた。その重要な概念が「方便」であった。理解力で劣る小乗人に説明したのが小乗の教えであり、それはより正しい真理に導く「方便」なのである。まさに「嘘も方便なり」である。

 あらゆる宗派は、最終的には一切衆生が同じように仏になる。それこそ、『法華経』が示す道筋であるとしたのである。

 「方便」を、『法華経』は比喩を駆使して説明する。「火宅」の比喩がある。火宅とは火事になった家のことである。ある長者の家が火事になった。長者はいち早く地獄の火宅から外部の安全な地に逃れたが、愛する3人の子供たちはまだ火事に気付かず、家の中で遊んでいる。仕方なく、長者は、子供たちにそれぞれ別の呼びかけ方(方便)をした。それぞれに羊の車、鹿の車、牛の車をあげるから外に出てこいというのである。3人の子供たちは、羊、鹿、牛とそれぞれ好む車が異なっていたからである。3人が無事に外に出てくると、長者は、子供たち全員に大きな白い牛の車(大白牛車)を与えたというのである。

 つまり、長者が仏陀、3人の子供たちが声聞、縁覚、菩薩である。声聞がもっとも修行が足らず、縁覚が少しまし、菩薩がもっとも修行が進んでいる。修行段階に応じて、羊、鹿、牛と乗る車が異なっている。羊よりも鹿、鹿よりも牛が高級である。しかし、いずれの車も乗り物としては小さい(小乗)。そして最後は、彼らは全員を収容できる、白い牛の大きな車(大乗)に乗って唯一の真理に向かって進むのである。つまり、大乗とは、際限なく分裂をして小さくなってしまった小乗たちを包み込む大きな車なのである。こうした比喩を扱ったのが『法華経鵜の第一部である。

 第二部がまたすごい。インドで生まれ、菩提樹の下で悟りを開いた仏陀は、真実の仏陀ではない。永遠の仏陀の一つの現れでしかない、というのである。

 真実の仏陀は久遠の昔から存在し、すでに成仏していた( 久遠実成仏、くおんじつじょう)。そして、絶えず、手を替え、品を替えて教えを説き続けていたのであると。

 
因みに、『法華経』では、話のまとまり、章別構成を、「品」(ぼん)という用語で行っている。第一部分は「方便品」(ほうべんぼん)、第二部分は、「法師品」(ほっしぼん)、「嘱累品」(ぞくるいぼん)、「如来寿量品」(むりょうじゅりょうぼん)、さらに第三部で6つの「品」が語られる。

 第二部では、迫害に耐えて『法華経』を護持してきた法師、菩薩たちの実践が語られる。
 
有名な個所では、「常不軽菩薩品」(じょうふきょうぼさつぼん)がある。どれほど人々から軽蔑されても、そうした人々に対して「我、深く汝らを敬う」と語り続けた菩薩の話である。「堤婆達多品」(だいばだったぼん)も有名である。これは悪人の堤婆達多が回心して成仏した話である。

 第三部には、「観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんぼん)がある
  この「品」は後に、『観音経』として独立する。「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじぼん)は後に「捨身供養」(しゃしんくよう)の根拠になったものである。つまり、薬王菩薩が両腕を燃やして仏を供養したという説話である。

 『法華経』を最終的な最高の経典として強く主張したのは先述の天台智である。彼は本来の永遠の仏陀の教えを「本門」といい、時々に姿を変えて本仏から派生した(垂迹、すいじゃく)仏の教えを「迹門」(しゃもん)と呼んだ。

 さらに一切の存在を「空」(くう)、「仮」(け)、「中」(ちゅう)の三次元から説明した。一切存在は平等である。これを彼は、「空」と呼んだ。

 
一切存在は個別性をもっている。これを彼は「仮」と呼んだ。
 
これら2つは、しかし、それぞれが一面的なものでしかない。というよりも対立的な概念である。存在するもののすべては「平等である」。同時に存在するすべてのものは個別性という「差別性」をもつ。2つは相互に矛盾している。そうした相反するものを統一的に止揚する概念、それが「中」である。これを「三諦円融」(さんていえんゆう)と名付け、そうした思想が『法華経』では説かれているというのである。

 弁証法は、ソクラテスによって許否された。彼よりも前のギリシャ哲学は、しかし、弁証法が基本であった。『法華経』もまた古代ギリシャの東方、つまり、中国から見た西方の古代思想を受け継いでいるのである。

本山美彦 福井日記 58 小 僧

2007-01-28 03:51:54 | 神(福井日記)

 日本の仏教の基礎は聖徳太子によって築かれたという説がもっとも有力である。

 
聖徳太子*は西暦574~622年の人で、用明天皇の子にして推古天皇の摂政(593年)、遣隋使派遣、冠位十二階、憲法十七条と、中央集権国家を作り上げたことで有名である。

 *(動画あり)

 太子は、日本人の書いた最古の仏教書『三経義疏』を著したとされている。

 三経とは、法華経、勝鬘教、維摩教である。法華経は日本でもっとも広く読まれている教典で「方便」(真理に導く手段)の言葉で有名である。勝鬘教は、如来思想が説かれている。維摩経は空の概念を説いたものである。この三教典の注釈が『義疏』である。



 この真贋を巡って論争があるが、A級戦犯の東条英機の教誨師を務めた花山信勝は、その著『聖徳太子御製法華教義疏』(1933年)で、少なくとも『法華義疏』は太子の手になるものであることを論証した。


 聖徳太子の著作は、強烈な小乗仏教批判が込められている。「常好座禅」という言葉がそれである。

 この言葉は、「常に座禅を好め」と解釈されることが多いが、先述の末木氏は、「常好座禅小乗禅師」という一文として読まれ、「山中で座禅ばかりしているような修行者は小乗の禅師であり」、菩薩が近づかない十種の対象(「十種不親近」)だと批判しているものとして読まれるべきであるとする。

 確かに、太子は、在家の仏教徒であった。そうした自負心がこうした強烈な主張をさせたのであろう。そして、この自負が、後の日本の仏教の強靭な背骨を形成することになる。

 奈良大仏は、民衆搾取の上に建造された。天平勝宝元年(749年)、それは完成した。大仏を作ろうと提案した、聖武天皇の言葉は背筋が寒くなるものであった。

 「天下の富を有するのは朕なり」、「国銅を尽くして象を溶かし、大山を削り手堂を構え」、「この富勢を以てこの尊像を造らん」(『続日本紀』、天正15年743年10月)の詔のわずか3年後に大仏は完成した。



 天平勝宝4年(752年)東大寺盧舎那仏開眼供養が営まれてた。前代未聞の大盛会であったという。しかし、その5年後の天平勝宝9年(757年)、大仏建立のために公民が貧窮に叩き込まれたとして橘奈良麻呂の乱が起こっている。朝廷には道鏡という怪物がのし歩いていた。聖徳太子の徳にも拘わらず、日本の仏教はまず大権力に媚びへつらうことから出発した。

 私たちが、小者のことを何気なく「小僧」と呼んでいる。これはれっきとした仏教界の用語である。

 つまり、「大僧正」の反対の言葉で、取りに足らない民衆の「自称、僧」のことである。

 
律令制時代には、僧は、官の許可を得た得度(官度)を受けたもの以外は認められていなかった。つまり、官の許可なく民衆に布教することは禁じられていた。許可を受けない僧を「私度僧」という。官度僧は官から給料を得ていた。私度僧は当然禁止された。民衆に人気のあった行基は私度僧にして小僧であった。この「小僧行基」が大仏建立に立ち上がり、「小僧」から「大僧正」に昇格した(天平17年(745年))。

 律令制度はここから崩れる。天平15年(743年)墾田永代私財令によって、荘園の私有が認められるようになった。わが越前が俄然活性化したのはこれを契機とする。



 ここからが、日本の歴史の愉快なところの開始である。天武天皇の時代に日本の公認仏教は確立させられるが、同時にこの時代に天照皇大神を頂点とする神祇体制が確立するのである。


本山美彦 福井日記 57 永平寺

2007-01-27 00:50:42 | 神(福井日記)

 永平寺の「永平」という名前の由来はなんだろうかと、昔から疑問に思っていた。

 末木文美土(すえき・ふみひこ)『日本仏教史』(新潮文庫、平成8年)によれば、中国に大乗仏教が伝来した年の年号、「永平」10年(西暦67年)に由来するという。


 同氏も感想を述べられているように、仏教というのはまことにもって変な宗教である。発祥地のインドでは見る影もない


 中国や韓国でも絶滅しているわけではないが、同じく、衰退している。インドでは巨大な影響力をもっていたのに、衰退した。中国でも日本からの多くの留学生にとてつもなき大きな精神的影響力を与え(いまの米国追随留学帰りよりもはるかに強力な)ていたのに、衰退した。


 日本でも、自分を仏教徒と認識する人はごく少数であろう。 いまや、思想的な影響力は微々たるものにすぎない。どうしてなのだろうか。思想の定着性がなぜ、仏教にはないのだろうか。上記、末木氏の著作はその疑問を解決しようとしたものである。


 空しい、なにもないという境地が、「我は居る」という開き直りの姿勢に敗北してきたのかも知れない。


 
とにかく、「空」は格好がいいが、治まり悪い境地である。そうした高踏さは、つねに、民衆のエネルギーによって打ち壊されてきた。


 観光の庭園がなく、葬式がなくなったとき、仏教は、最後の生息地の日本ですら解体して行くものと思われる。


 そうした中で、永平寺には庭園らしい庭園はない。なぜ、人は、それにもかかわらず、集まるのだろう。かくいう私もその一人である。読経の響きのすごさなのだろうか。


 釈迦とは、紀元前6世紀頃のゴータマ・シッダルタを開祖とし、彼の出身部族がシャカである(シャーキャ・ムニ)。従って、漢字はこの音読みを移したものである。釈迦牟尼(シャカムニ)、釈迦(シャカ)。悟った人をブツダという。これも漢字を当てて仏陀としたのである。

 そもそも、原始仏教は、ピタゴラス派を想起させるものである。この世を苦と捉え、そこからの超越を目指して出家集団の組織化と修行を積むことを内容としていた。

 大乗仏教とは、仏陀なき後、分裂を繰り返していた諸派(上座仏教、小乗仏教)を超える大乗=「大きな乗り物」を目指したものである。


  仏陀を敬い、在家者の修行の重要性を説き、実に多くの仏と菩薩を作り上げた。阿弥陀仏薬師仏弥勒菩薩、等々。つまり、西方のあらゆる神が集合させられたのである。

 東南アジアで流布されていた小乗仏教を超えるべく、本家のインドで大乗仏教が勃興したのであるが、この大乗仏教が中央アジアを経て、中国に伝えられる。後漢の明帝が、夢の中で黄金の仏を見て、西方に仏法を求めたと言われいる。『後漢書』西域伝の記述による。


 日本では、鎌田茂雄中国仏教史』(岩波全書、1978年)で紹介されている。


本山美彦 福井日記 56 交 換

2007-01-23 00:25:52 | 社会(福井日記)


 本来、経済は社会の一部分でしかない。ポランニーPolanyi, Karl, 1886-1964)が指摘したように、社会から市場を突出させ、社会の様々な制度を市場に従属させているのが現代である。

 市場は、多様な生産物を交換させることによって、生産・流通・消費といった経済の循環を司る場であると教科書的には語られている。

 
しかし、現実には、商品化されてはならない労働や土地などの生活空間が強引に商品にさせられてしまうことによって、社会は大きく軋む。このような弊害を市場経済は社会にもたらす。

 もともと、生産は、生活資料を得るための行為であった。人は多様な物を自らの労働で手に入れていた。労働は自分自身の多面的な能力を向上させる機能を発揮していた。

 しかし、市場は、生活のためではなく、カネ儲けのために存在するようになった。

 
労働は、生産性を向上させるべく、細分化され、資本に奉仕する姿に変えられてしまった。時間で計られ、金銭的報酬を得るだけの次元に変えられることによって、労働は、具体的な内容を奪われ、抽象的な次元のものとして、人を資本の部品にしてしまう。



 カール・マルクスKarl Heinrich Marx, 1818-1883)のいう「抽象化された人間の労働」(menshliche abstrakte Arbeit)である。

 生活資料を得るための営為からカネ儲けのための営為に人間の営みを変容させてしまった市場は、金融取引市場として、巨額の金銭を得る最高の手段となる。

 最大の金銭的利得を得るために、市場は資本取引に大きく傾斜する。物を生産して売るよりも、企業自体の売買、先物取引などの投機、つまり、カネでカネを売買するという金融経済が市場を支配するようになった。生産から遠ざかり、資本を売買するという行為に社会は突進している。結果的にごく限られた少人数の、巨大な投機家が、大多数の人間を貧困に叩き落とすことになった。

 社会から突出してしまって、社会を危機に陥れている市場を、社会に埋め戻すというポランニーの「生活資料」(Livelihood)論の重要性が、いまやますます認識されるようになった。

 等価ではない交換

 交換は、テキスト的には値打ちの等しい交換(等価交換)であると、説明される。しかし、多くの場合、交換は不等価な交換である。

 
交換の担い手が対等の力関係にないからである。強い立場にある組織が交換を有利に運ぶ。強いブランド、巨費を投じる宣伝、目立つ売り場、等々の優位をもつ強者は、それらをもたない弱者に対して、不等価な交換を強いることができる。身の回り商品ほど特定の企業が圧倒的なシェアを占めているという日常的にありふれている現状が、そうした事態を示している。経済的交換が、貧富の差、資本蓄積の不平等を再生産している。



 もはや現代社会には、等価交換など死滅していて、社会を組織する様式でなくなっていると強調したのは、ジャン・ボードリヤールBaudrillard, Jean, 1929-)であった。構造的な窮乏感を演出することで、現代社会のシステムが維持されているというのである。



 コミュニケーションとしての交換の最重要のものは言語である。この重要な言語の交換にすら不平等があるといったのがピエール・ブルデュー(Bourdieu, Pierre)である。

 標準語は、元来が方言の一つであったのに、その方言を使う政治権力の中枢者が作り上げたものである。政治的権力の裏付けをもつ標準語が、他の方言に対して優位な地位にある。

 
英国ではイングランド南部のパブリック・スクールの言葉が上流階級の言語となっている。日本では山の手の上流階級の言葉が権威をもつ。米国でも東部の標準語が高い地位を得る手段である。標準語を修得すべく、地方の若者たちが中央に集まる。これは世界の共通の傾向である。そして、グローバル社会の成立とともに、世界中の若者は米国の大学に行き、米国以外の大学は周辺化させられつつある。

 コミュニケーションの本来の役割は、互報的に認識を深めていくものであるはずなのに、人々は自己の交換価値を高める手段としてコミュニケーションを使う。言語が価値の階層化を作り出してしまうのである。

 ポトラッチ=贈り物の儀式

 私達は、贈り物を通して人間関係を築いている。とくに、祭礼の際に贈り物をやり取りする。狩猟採集民が、祭礼においてやり取りする贈り物の儀式をマルセル・モースMauss, Marcel, 1872-1950)は「ポトラッチ」(Potlatch)と名付けた。ポトラッチは、北太平洋沿岸の北米インディアンの一部族のクィクヮスチヌーク族(Qwi-qwa-su-tinuk tribe)の言葉で、贈与という意味である。

 彼らは、頻繁に祭礼を行い、様々な交換を行っていたが、そうした行為の目的は相手を圧倒することであった。ついには、自分のもつ最高の価値物を相手の目の前で破壊することまでするようになった。紋章入りの銅板の破壊やソリ犬の殺害などがそうした対象になる。こうした贈り物を断ることは、宣戦布告を意味していた。

 このような行為は、未開社会だけではなく、現代社会にも、クリスマス・プレゼント、お中元、お歳暮などの形で日常的に見られる。受け取った以上は注意深く丁寧にお返しすることによって、人間関係が維持される。虚礼だとして遠ざけてしまっては、人間関係を壊しかねない。



 日本では芸術家の岡本太郎(1911-1996)が、ポトラッチの重要性を早くから指摘していた(1965年)。



 蕩尽(とうじん)も重要な交換であると指摘したのが、ジョルジュ・バタイユBataille, Georges Albert Maurice Vicor, 1897-1962)である。

 
日常的な秩序の中で、人は、生産的労働にいそしむが、特定の儀式の際に、一気に富を蕩尽して、めくるめく陶酔感の中で精神の高揚を得ることがしばしばある。そうして他人と精神的な高揚感を交換するというのである。世界中の祭に同じような光景が繰り広げられている。その意味においても、交換はコミュニケーションの一種である。

文献

Marx, Karl, Das Kapital. Band I, 1864, Dietz Verlag, 1962; 今村 仁司・鈴木 直・三島 憲一訳、『資本論<第1巻(上)>、筑摩書房、2005年。


Polanyi, Karl, The Livelihood of Man, ed. by Pearson, H. W., Academic Press, 1977. 玉野井芳郎・栗本慎一郎訳『人間の経済』岩波現代選書、1980年、所収。


Baudrillard, Jean, La Societe de Consommation, Editions Denoel, 1970. ;今村仁司・塚原史訳、『消費社会の神話と構造』、紀伊国屋書店、1979年。
Bourdieu, Pierre, Ce que parler veut dire, Libération, 1982.
Mauss, Marcel, Essai sur le don, publié dans L'Anné'e sociologique, 1924.
岡本太郎「ポトラッチの経済学/贈り物」『岡本太郎の眼』朝日新聞社、1966年。
Bataille, Georges, Œuvres complètes, Gallimard, t.Ⅰ∼Ⅻ, 1970-1988.


ギリシア哲学 30 ヘラクレイトス4

2007-01-20 01:12:09 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

デルポイの神託、
 「汝自身を知れ」をそのまま実践したのが、ヘラクレイトスである。

 「私は、自分自身を探求した」
 (プルタルコス『コロテス論駁』第20章より)。

 「人の性格は、その者にとってのダイモーン(守護神、運命)である」
 (ストバイオス『精華集』第4巻第40章より)。

 「傲慢は、大火よりも消さなければならないものである」
 (ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第9章第2節より)。

 「市民は、歳の城壁を守るために戦うように、法を守るために戦わねばならない」
 (ディオゲネス・ラエルティオス、同上、より)。

 「国家が法によって強化されなければならないのと同様に、知も万有に共通のものによって強化されなければならない。それは、法による国家の強化以上の水準で強化されるべきである。人間の法のすべては、神の唯一なる法(=知)によって養われているからである。神の法は、望まれるすべてを支配し、すべてのものに及び、それを凌駕している」
(ストバイオス、同上、第3巻第1章179節より)。

 私は、無条件にヘラクレイトスを賛美しているのではない。彼には度し難い大衆蔑視感があった。

 「もっとも優れた人は、すべてのものでなく、ただ一つのものを選ぶ。死すべきものに代えて不滅の栄誉を選ぶ。しかし、大多数の者たちは、家畜のように腹一杯むさぼり尽くしているだけである」
 (クレメンス『雑録集』第5巻第59章第5節より)。

 「たった一人の人でも。もし最上の者であれば、一万人に値する」
 (同上)。

 衆愚政治に対する彼の強烈な侮蔑にも拘わらず、事物の中心的な法則を発見しようと試みることが知であり、道徳と倫理を自然学に溶け込ませようとした彼の姿勢には共感すべきものが数多くある。

 ダイモーンとは、神によって支配されているものではなく、自分自身の力で制御することができるものである。

 人間の行為は、外的な世界における変化と同様に、ロゴスによって支配されている。魂は世界秩序の一部である。自然と一体化すること、ここに人の目指すべき方向がある。


  しかし、こうした自然を指向する方向は、エレア派、ソクラテス、プラトンによって意識的に拒否されてきた。ギリシャ本土の東方と西方にあった「老人の智恵」はアポロン的アテネで拒否され続けたのである。


ギリシア哲学 29 ヘラクレイトス3

2007-01-19 11:03:13 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
再び断片

 「魂にとって水となることは死であり、水にとって土となることは死である。しかし、水は土から生じ、魂は水から生じる」
  (クレメンス『雑録集』第6巻第17章第2節より)。

 「乾いた魂こそ、最上の知を備え、もっとも優れている」
  (ストバイオス『精華集』第3巻第5章第8節より)

 「一人前の大人でも酔うと、どこへ歩いていくのかも分からずに、よろめきながら、年端もいかぬ子供に手を引かれて行く。魂を湿らせたからである」
 (同上、第3巻第5章第7節より)。

 「魂の限界に行き着こうと、あらゆる道を踏破しても、魂の限界に行き着くことはできないであろう。魂は、それほど深いロゴス(理=ことわり)を持っている」
 (ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第9巻7節より)。


 この魂に関する理解方法は面白い。魂は宇宙循環に大きく係わっている。個人の限界をはるかに超えた広大な宇宙の循環に関与する魂は、人智を超えた存在であるとヘラクレイトスは考えていたのである。こうした考え方をしていると判断できるのは、次の言葉である。

 「われわれは、呼吸を通じてこの神的なロゴスを吸い込むことによって知的になる。眠っているときには忘却しているが、目覚めているときには知的になる。眠っている間は、感覚の通路が閉じて、われわれの思惟が、取り巻いている周囲との自然的結合から切り離されてしまい、呼吸による接続だけが、なんらかの根のように保持されている。こうして切り離されることで、思惟は以前に持っていた記憶の力を失う。しかし、再び思惟が目覚めると、窓を通して外を見るように、感覚の通路を通って外へと延びてきて、取り巻く周囲と結びつき、ロゴスの力を身につけるのである」
 (セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁』第7巻129節より)。


 「ハデスとディオニソスとは同一の存在である」
  (クレメンス『プロトレプティコス』第34章より)。 

  この言葉も刺激的である。ハデスとは「冥界」のことで「死」を表す。ディオニソスは生き生きとした「生」である。これが同一だという。 そもそも、ヘラクレイトスは偶像崇拝を批判する。 

「あちこちの神像に祈りを捧げることは、家屋に向かって話かけているようなものだ。彼らは、神々や英雄が何者であるのか、少しも分かっていないのである」
 (アリストクリトス『神智学』第68章より)。

 人々は意味も分からずに密儀を行ったり、踊り狂ったり、祭礼行列を行ったりしている。中には、恥部を讃える歌さへある。しかし、ディオニソスを真に理解することなく、こうしたことを行うことは破廉恥以外の何者でもない、とまで彼は言い切っている。

 「人々の間で一般に行われている密儀は不浄なものである。・・・祭礼行列を行ったり、恥部を讃える歌を歌ったりするのが、ディオニソスを奉じるためでなかったらとしたら、彼らの所業は破廉恥極まるものである」
 (クレメンス、同上、第22、34章より)。

 そしてすごい言葉を吐く。 
 「デルポイの神託所の主は、語りもせず、隠しもせず、徴(しるし)を示す」
 (プルタルコス『ピュティアの神託について』第21章より)。

 「デルポイの神託所の主」とはアポロンのことである。
  言葉は、往々にして誤解を招く。真実は隠されている。ロゴスも明瞭には表現できない。だからこそ、徴が重要な意味をもつ。それは曖昧である。しかし、曖昧だからこそ、真実を包み込むことができる。このスタンスは大変なことである。

  近代科学が見失った日常感覚の大切さが語られている。そもそもヘラクレイトスは曖昧に語る人として批判されてきた。しかし、曖昧だからこそ、真実を表現できるという智恵を私は高く評価する。

 例えば、男性の求愛を女性が断るとき、「犬歳生まれと猿歳生まれとは相性が悪いと、私のおばあちゃんがうるさいので、ごめんね、お受けできません」という口実がよく使われる。「なんと非科学的な」と怒る男は馬鹿である。断った本人もこんなことは信じていない。相手を傷つけずに「仕方ないな」とあきらめてもらう至高の口実が、こうした「相性論」である。そもそも「正しい」であろうことをとくとくと語る人に賢い人はいるのだろうか。「科学性」を振り回す人に、人を引きつける魅力を持つ人はいるのだろうか。

 私は、ヘラクレイトスに大人(たいじん)の風格を見る。

ギリシア哲学 28 ヘラクレイトス2

2007-01-18 00:07:17 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 ヘラクレイトスもまた、著作がのこされていない。多数の哲学者がヘラクレイトスの言動だと書き残したもののみが存在する。こうした紹介を以下、断片という。

 「病気は健康を、飢餓は飽食を、披露は休息を、快適にして善いものにする」
  (ストバイオス『精華集』第3巻第10章より、ヘラクレイトス断片」。

 「豚は泥を好む。しかし、人間は好まない」
 (ヒッポリュトス『全異端派論駁』第9巻第10章より、断片)。

 「ロバは黄金よりもワラ屑を好む。だが人間はワラ屑よりも黄金を好む」
 (同、断片)。

 「通常、悪いことのはずである、切ったり焼いたりすることで、外科医は報酬を要求する」
 (ヒッポリュトス、同上、断片)。 

 「不正がなければ正義もないであろう」
 (ストバイオス、同上、断片)。

 「ひとまとまりにつながったものは、全体であって全体でがない。一致していながら仲違いしていて、調子が合っていながら調子外れである。万物が一から生じ、一から万物が生じる」
 (擬アリストテレス『宇宙論』第5章より、断片)。

 これは解釈が難しい断片である。個々のものは全体としてまとまっている。しかし、全体から離れて仔細に見れば、個々のものは自己の個性を発揮しているとでも解釈すればよいのかも。個々のものが相互に連関しながら、相互に相手を照らし出すと、解釈したい。

 「顕わになっていない結びつきは、顕わになっている結びつきよりも強力である」
 (ヒッポリュトス、同上、断片)。

 これはすごい。人間の認識をはるかに超える事物の秩序があると指摘しているのである。

 「自然本性(ピュシス)は隠れることを好む」
 (テミスティオス『弁論集』5、断片)。

 「調和には逆向きに引っ張り合うハーモニーもある。弓や竪琴のように」
 (ヒッポリュトス、同上、断片)。

 「予期しなければ、予期されていないものは発見できないであろう。それは、見出しえないもの、獲得しがたいものだから」
 (クレメンス『雑録集』第2巻第17章より、断片)。

 「争いは正義である。万物は必然的に争いに従って生じることを知らねばならない」
 (オリゲネス『ケルソス論駁』第6巻第42章より、断片)。

 「戦争は万物の父であり、王である。それはあるものたちを神にする。あるものたちを人間として示す。あるものたちを奴隷にする。そして、あるものたちを自由人にする」
 (ヒッポリュトス、同上、断片)。

 すごい自然観が以下に示される。

 「秩序あるこの世界(コスモス)は万人に同一のものとしてある。この世界は神々のどなたかが創ったものではない。人間の誰かが創ったものでもない。以前から常にあったものである。今もあり、これからもあり続けるだろう。永遠に生きている火として、一定の分だけ燃え、一定の分だけ消えながら」
 (クレメンス、同上、断片)。

 「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である。品物が黄金の交換物であり、黄金が品物の交換物であるように」
 (プルタルコス『デルポイのEについて』第8章より、断片)。

 この最後の言葉のすごさに感激して、私は、弘文堂『歴史学事典』(コミュニケーション)の「交換」の項に書いた(未発刊)。一部を以下に引用させていただく。



「交換 【英】exchange 【仏】Exchange 【独】Tausch  コミュニケーションとしての交換 「あるもの」を別の「あるもの」と取り換えることを「交換」という。「あるもの」とは、「物」に限定されず、人間社会や宇宙、地球といったらゆるシステムに存在する「あらゆるもの」を含む。それこそ、商品の交換、知識の交換、心の交換、契約の交換、等々、あらゆる交換がある。そもそも、1つの言葉の定義を語るとき、抽象レベルが高くなればなるほど、説明は多元的かつ複雑になってしまう。ある定義を行えば、ただちに他の定義の必要性が出てくる。定義とは、文字通り、多元的かつ複雑な事象から、限定された局面を切り取り、その狭い枠内で説明を行うことである。事象をできるだけ統一的に把握しようとすれば、抽象という言葉とは裏腹に、多様な説明を並列的に語るしかないのである。 そうした困難さは、遠く、ソクラテス以前の古代ギリシャ哲学者たちによっても認識されていた。例えば、ヘライクレイトス(Hēracleitos)は、「知とは唯一のもの、すなわち、いかにして万物を通して万物が操られるかの叡智に精通していることである」(ディオゲネス・ラエルティオス、Diogenēs Laertios、『哲学者列伝』、Vitae et sententiae eorum qui in philosophia probati fuerunt, IX, I、からの引用、以下同じ)としながらも、「顕わになっていない結びつき(ハルモニエー)は、顕わになっている結びつきよりも強力である」(ヒッポリュトス、Hippolytos、『全異端派論駁』、Refutatio omnium herasium, IX, Ix, V)。つまり、すでに説明したものよりももっと豊富な事象が統一的に存在していると、知の、傲慢を戒めていたのである。 そうした困難さを踏まえて、強いて、「交換」の定義を与えるとすれば、交換は、もっとも広い意味においての「コミュニケーション」である。存在するものすべてが相互依存の関係にある。自らの一部を他者に渡し、自らと異なったものを取り込む。これが交換である。つまり、主体間のコミュニケーションが交換である。そして、交換こそがシステムに新しい息吹を吹き込んで、システムを維持する。 ここで、システムというのは人間社会のそれだけではなく、人間以外の生物や非生物のものも含む。 このことの認識もヘラクレイトスは持っていた。「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である。ちょうど、品物が黄金の交換物であり、黄金が品物の交換物であるように」(プルタルコス、Ploutarchos、『デルポイのEについて』、De E apud Delphos, IIX, 388D)。つまり、地球もまた熱交換を通じてシステムを維持していると、古代の哲学者は「交換」を理解していたのである」。

ギリシャ哲学 27 ヘラクレイトス1

2007-01-17 00:51:12 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

  古代ギリシャでは、40歳を「アクメー」(盛年)といい、なにか大きな出来事があった年をその人のアクメーとする、その際、本当の年齢など無視される。この点についてはすでに説明した。エペソスのヘラクレイトスは、第69オリュンピア祭期(前504501年)をアクメーとされている。


 彼は、後世の哲学者からつねに揶揄の対象にされてきた。
 
大衆への批判的言辞があったことを捉えて「極端な人間ぎらい」、菜食主義者であったことを捉えて、「山中で草木」を食べる、「魂にとって水となることは死である」を捉えて水腫にかかったとなり、死体は糞尿よりも価値がないという一句を捉えて、糞尿に身を埋めたとなった。


 プラトンは『クラテュロス』で、万物流転を説くヘラクレイトスは「カタルを煩った人である」と侮蔑し、アリストテレス『ニコマコス倫理学』では憂鬱症と決め付けられている。


 ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第
91節では、

 「ヘラクレイトスはブロソンの子で、第69オリュンピア祭期にアクメーを迎えた。とりわけ気位が高く、人を見下す態度をとっていたことは、彼の著作からもあきらかである。・・・ついに彼は人間嫌いとなり、世間から遠ざかり、山中で草や木の葉を食べて生活していた。それがもとで水腫に罹ってしまし、街へ降りてきて医者に謎かけした。多雨から日照りにすることができるか?と尋ねた。だが彼らには通じなかったので、牛の堆肥中に実を埋めて、堆肥熱で体内の水分を蒸発させようとした。しかし、それもうまくいかず、60歳でその生涯を閉じた」とある。

 あのディオゲネス・ラエルティオスですらこんな酷いことを書いたのである。いかに、ヘラクレイトスが馬鹿にされていたかをこれは示している。

 そもそも、万物は流転するという説をヘラクレイトスが流布したというプラトンは悪意のあるヘラクレイトスの捏造である。


 
ヘラクレイトスは「変化の普遍性」を表現しようとしたのである。つまり、変化には本来的に尺度がそなわっている。変化を通じて持続し、変化を制御する安定的な尺度が存在する。


 
変化の全課程を通じて浮かび上がる安定性、これをヘラクレイトスは明らかにしようとしたのである。ところが、プラトンはそれを「万物は流転する」という次元のものに曲解した。それをアリストテレスがそのまま受け入れた。
  アリストテレス『形而上学』
A巻第6章はそうであった。


 アリストテレスは自己の2項対立による論理学に固執して、ヘラクレイトスが、相対立するものを「同じ」であるとして矛盾率を否定したと決め付けている。

 
そうではない、ヘラクレイトスは、相反するものが、「同じ」ことではなく、「本質的に異なったものではない」と言いたかったのである。ヘラクレイトスは、立場の違いによって、説明される仕方が異なることを強調していたのである。彼は、変化の仕組みよりもそれらの基礎にある統一的実在性に関心を寄せていたのである


 例えば、「海水はきわめて清浄だが、別のものにとってはきわめて汚い。魚にとって、精米を保たせる清浄な水でも、人間にとっては飲めない汚いものである(ヒッポリュトス『全異端派論駁』第9巻第10章)。

「登り道と下り道は同じ一つのものである」(同)と。