消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(141) 新しい金融秩序への期待(141) 大きな国家(10)

2009-04-23 06:57:19 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)
(13) クーン・レーブ商会(Kuhn Loeb & Co.)は、 一八六七年、アブラハム・クーン(Abraham Kuhn)とソロモン・レーブ(Salomon Loeb)によって創設された投資銀行である。その後、クーン家の娘イーダ(Ida Kuhn)とレーブ家のモリス(Morris Loeb)が結婚して一族となっている。 その娘であるテレサ(Teresa Loeb)と結婚したのが、ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff)である。 ジェイコブ・ヘンリー・シフはドイツ・フランクフルトのゲットーでロスチャイルド家(Rothschild)と共に住んでいた歴史をもつ。また、日本政府が日英同盟を根拠にして日露戦争の日本公債をロンドンで販売したさい、当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海(Caspian Sea)のバクー油田Baku oil)の利権を持つロスチャイルド家は購入を拒否、その代わりロスチャイルド家と行動を共にするジェイコブ・ヘンリー・シフを紹介され、その力で日本は、戦費を調達できた。

 一九世紀末から二〇世紀にかけてジェイコブ・シフの下でJ・P・モルガン(J.P.Morgan & Co.)の最大のライバルとして金融界に君臨した名門である。一八七〇年代以降、クーン・レーブ商会は、成長産業と目されていた、当時の鉄道事業に積極的に投資。一八七七年のシカゴ・ノースウェスタン鉄道(Chicago and North Western Railway)への資金調達を皮切りに、一八八一年にはペンシルバニア鉄道(Pennsylvania Railroad)、シカゴ・ミルウォーキー・セント・ポール・アンド・パシフィック鉄道(Chicago, Milwaukee, St. Paul and Pacific Railroad)への資金調達をおこなった。シフは、一八九七年に、ユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific Railroad)の事業再建の資金調達を支援した。一九〇一年のモルガン財閥とのノーザン・パシフィック鉄道(Northern Pacific Railway)の買収攻勢防戦劇は当時の大きな話題となった。クーン・レーブ紹介は、鉄道債の取引において、米国では第二位の地位を確保し続けた。とくに鉄道王のE・H・ハリマン(Edward Henry Harriman)が優良顧客であった。経営陣にはオットー・カーン(Otto Kahn)、フェリックス・ウォーバーグ(Felix Warburg)といった大物が一九二〇年のシフの死後も続いた。また、ウェスティングハウス(Westinghouse Electric Corporation)、ウェスタン・ユニオン(Western Union)、ポラロイド(Polaroid Corporation)など、米国の新興企業と密接な関わりを持ち、長期の財政的な後ろ盾となった。またオーストリア、フィンランド、メキシコ、ベネズエラなど一部の外国政府の財政アドバイザーも務めた。ジョン・ロックフェラー(John Davison Rockefeller, Sr)へのメインバンク・財政アドバイザーとしても有名で、国内の主要産業への投資のみならず、クーン・レーブは、中華民国や大日本帝国などの公債引き受け等にも参画していた。一九一一年にはクーン・レーブはロックフェラーと共同で、後にチェース銀行(the Chase Manhattan Bank)と合併するエクイタブル・トラスト社(Equitable Trust )を買収した。

 一時はモルガン財閥と並立する存在になったが、第二次世界大戦後、資金調達の方法が銀行家同士のやりとりから、ウォール街などでの証券市場での取引が中心となって、クーン・レーブの勢いに翳りが見え始め、一九七七年にリーマン・ブラザーズに統合された(http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。

(14) ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847~1920)は、ドイツ生まれ。ドイツ名は、ヤーコプ・ヒルシュ・シフ(Jacob Hirsch Schiff)。フランクフルトの旧いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド(Mayer Amschel Rothschild, 1744~1812)時代に緑の盾と呼ばれる建物にロスチャイルド家とともに住んでいたことが確認できる。

 一八六五年、一八歳で渡米し、いくつかの銀行を転々とした後、レーブ家の親族となる。当時「西半球でもっとも影響力のある二つの国際銀行家の一つ」と謳われたクーン・レーブの頭取に就任。シフはユダヤ人社会への強い絆を感じ続けた。ロシアでポグロム(pogrom、反ユダヤ主義)に苦しむユダヤ人を解放するために尽力し、ヘブライ・ユニオン・カレッジ(Hebrew Union College)の創立と発展を助け、ニューヨーク公共図書館(the New York Public Library)にユダヤ区画を作った。

 日露戦争にさいしては、日銀副総裁であった高橋是清による外債募集に応じ、二億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助し、帝政ロシアを崩壊に導いた。その訳はロシアの伝統的なポグロムに対する報復だったといわれている。日本は、国家予算の六倍以上の戦費を注ぎ込み、継戦不可能というギリギリで掴んだ戦勝。その戦費の約四割を調達したのがシフであった。

 日露戦争のときの日本国家予算も外貨準備高も、ロシアの十分の一以下だった。まさに巨人と小人の戦いだった。

 アルゼンチンが発注して、イタリアのジェノア(Genoa)の造船所で建造中だった二隻の装甲巡洋艦を、日本は、日露戦争(一九〇四年二月八日開戦)の前年一二月三〇日に、アルゼンチンから一五〇万ポンド(商社口銭込み価格一五三万ポンド)で購入した。このとき、日本政府の外貨資金を扱う正金銀行ロンドン支店には一五万ポンドしかなかった。この年の日本国家予算が二億六〇〇〇万円、海軍省予算が二九〇〇万円、巡洋艦二隻一五三万ポンドは当時の日本円で一五〇〇万円以上。「春日」「日進」と命名されて軍艦旗を掲げて日本へ出向した。日露開戦の前年一二月には、日本銀行には一億六七九六万円しかなかった。開戦三か月後の翌五月には、六七四四万円にまで落ち込んだ。国債の売り込みに、一〇〇〇万ポンド調達の任務を帯びて高橋是清が米英を走り回ったが、引き受け手は誰もなかった。日英条約締結(二年前)していたロンドンで、ようやく半分の五〇〇万ポンドの約束を取り付けた(英国銀行団)。締結の晩餐会に臨席したヤコブ・ヘンリー・シフが、残りの五〇〇万ポンドを引き受けてたのである。リーマン・ブラザースも、日露戦中に、シフの呼びかけに応じて、日本の国債を購入している。シフのこの時の滞日日記が出版されている(トケイヤー[2006])。

 シフは天皇から直ちに、勲二等瑞宝章を授与された。その後、戦勝祝いにシフは招かれ、陪食前に明治天皇から旭日大綬章を叙勲された(トケイヤー[2006]; 田畑則重[2005])。

 シフの帝政ロシア(The Russian Empire)打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにもかかわらず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。一九一七年にレーニン(Vladimir Lenin, 1870~1924)、トロツキー(Lev Davidovich Trotsky, 1879~1940)に対してそれぞれ二〇〇〇万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。同年にツァーリ(Tsar)が倒れると、これで反ユダヤ主義が終息すると信じたシフはケレンスキー(Aleksandr Fyodorovich Kerenskii, 1881~1970)政権に対して期待を寄せたが、やがてケレンスキーやレーニンの考えていることが明らかになると、以後、「彼らには何も貸すまいと決心するようになった」といわれる。

 しかし、経営者一族がシフの縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨーク(First National bank of New York)は、ロックフェラーのチェース・マンハッタン銀行(Chase Manhattan Bank )、ユダヤ系のJ・P・モルガンと協調して、ソビエト(the Union of Soviet Socialist Republics=USSR)に対する融資を継続していた。

 政治的・世俗的なシオニズム(Zionism)には反対だったが、ユダヤ人のパレスチナ(Palestina)入植には多額の寄付をおこない、ハイファ工科大学(Haifa Institute of Technology))の設立をも援助した(Wikipediaより)。

(15) FFレート(金利)は、フェデラル・ファンド金利と訳されている。フェデラル・ファンド金利は、米国の代表的な短期金利。FF金利は、フェデラル・ファンドを民間銀行同士で貸し借りする時の利率で、米国の金融政策の誘導目標金利。FF金利は、FRBの連邦公開市場委員会(Federal Open Market Committee from the Federal Reserve Board.=FOMC)で決定する。また、フェデラル・ファンドは、米国の民間銀行が連邦準備銀行に預けている準備預金のこと。通常、フェデラル・ファンド(準備預金)は無利息なので、民間銀行は、超過残高分(法定準備預金と決済用準備金を超えて預けられている額)を他行に貸し付けて運用している。この時のレートがFF金利。二〇〇八年一〇月の金融安定化法案の成立により、フェデラル・ファンドのうち、法定準備預金と超過残高分に関して、それぞれ金利を付与することを決めた( http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%EF%BC%A6%EF%BC%AF%EF%BC%AD%EF%BC%A3&lr=&aq=f&oq=)。

(20) サムライ債とは、海外の企業が日本国内で円建てで発行する債権のことを指す。一九七〇年にアジア開発銀行が六〇億円の債権を発行したのが日本初のサムライ債。当初は国や州などの公的なものが中心であったが、その後、様々な発行主体や形態のサムライ債が登場するようになった。日本ではずっと金利の低い状態が続き、海外の発行体にとっては低金利で資金調達をすることができるのが魅力となっていた。また、日本国内の個人投資家も預金金利の低下を背景に資産運用の手段としてサムライに傾斜した。

 サムライ債は途上国が発行体となっている場合も多く、そのようなケースでは利回りも高いが、リスクも高くなる。二〇〇一には、経済危機の際にアルゼンチン債がデフォルト(債務不履行)になった。類語としては、海外の企業が日本国内で外貨建てで発行するショーグン債がある(http://m-words.jp/w/E382B5E383A0E383A9E382A4E582B5.html)。

 リーマン・ブラザースがサブプライムローン損失で経営不安に陥り、同社の株価が二〇〇八年九月九日に四五%急落したとき、米国のシティグループは 日本の個人投資家向けに三一五〇億円のサムライ債(期間三年、利回り年三・二二%固定金利)を売出した。シティーグループの格付けは、当時まだAAマイナス(S&Pによる)と信用度が高く、三年以内(償還前)に債券を売却しない限り 為替変動の影響を受けずに、元本と利息が確保されるので、日本の投資家が競って買い、翌日の一〇日には、完売した。定期預金は安全だがインフレヘッジできない。株や外貨預金や外債はリスクが高い。このように考える人が多い中で、運用先に悩む日本の個人投資家が殺到した。しかし、この市場も急速に萎んでしまった(http://hakuzou.at.webry.info/200809/article_6.html)。