消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(325) 韓国併合100年(3) 心なき人々(3)

2010-09-30 23:48:30 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 事実関係を説明しておこう。一八七五年、明治政府は江華島(Kanghwa-do)に艦砲射撃を行った。江華島事件である。

 実は、江華島に対しては、日本よりも米国が先に攻撃していた。米国は、一八七一年に同島に艦砲攻撃を行っていたのである。理由は不明だが、この時に、日本は長崎港を米国側に艦隊の出撃基地として使わせた。米国艦隊は朝鮮の防衛線を破ることができずに撤退したのであるが、その四年後、日本が同島を攻撃している。その際、米国側から同島周辺の海図の提供を受けた。明治政府は、国交がなかった国に何の予告もなく近づき、朝鮮側から砲撃されたので応戦したと説明してきたが、それは挑発以外の何ものでもなかった。この事件のあった翌年の一八七六年、日朝修好条規が結ばれた。それは、朝鮮を開国させる不平等条約であった。この条約は、当時の欧米が日本に押しつけていた条約よりも、はるかに朝鮮側に対して不平等なものであった。日本と欧米との不平等条約は、関税自主権がなかったが、それでも、日本側は関税を外国からの輸入品にかけることができていた。しかし、日朝不平等条約は、関税そのものをかけること自体を、朝鮮に許さなかったのである(高井[二〇〇九]、七~八ページ)。

 それに反発した朝鮮軍は、一八八二年(壬午)に反日のクーデターを起こした。「壬午(Im-O)事変」である。これは、朝鮮の兵士と市民が、日本の公使館を襲撃した事件である。日本の業者が朝鮮米を買い占めて日本に輸出していたために米価が暴騰したことから、日本人への怒りが爆発したものと言われている。日本は、軍隊を派遣して乱を鎮圧し、その後、引き揚げたが、清は、守旧派と言われる閔氏(Minshi)政権の要請に応じて、国内の治安を維持すべく朝鮮に軍を駐在させた。

 当時、清と朝鮮との関係は、朝貢体制であった。朝貢体制というのは、中国の皇帝を頂点とし、他国は、中国に頭を下げる宗属国という地位に甘んじるという関係を指す。しかし、こうした上下関係はあくまでも建て前であって、実際には、他国は独立を保ち、清からの指令を受けていなかった。しかし、壬午事変が、事情を一変させた。清は朝鮮の政治に介入するようになったのである。

 これに反発したのが金玉均(Gim Ok Gyun)などのいわゆる開化派であった。彼らは欧米列強の力を借りて朝鮮を近代化させようとしていた一派であった。
 この動きに日本が乗った。日本は軍を派遣して、開化派のクーデターを支持し、閔氏政権を打倒しようとした。これが、一八八四年の「甲申(Gap-Shin)政変」である。日本軍は、朝鮮王宮の景福宮(Gyeongbokgung)を警備したが、清の袁世凱(Yuan Shikai)軍の介入によって、日本軍は撤退し、クーデターは失敗した。一八八五年、日清間で天津(Tianjin)条約が締結され、日清双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、しかし、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務、などが取り決められた(高井[二〇〇九]、九ページ)。

 一八九四年(甲午)二月、「甲午(Gap-O)農民戦争」が発生した。民衆に根づいた新しい考え方(東学)に傾斜していた農民反乱であった。東学(Tonghak)とは、天を尊敬し、自らの心の中に天が存在するという朝鮮の古来からの思想を奉じる考え方であり、この思想に共鳴した民衆は、西欧と日本を排斥する運動に参加するようになって行った。

 農民軍は、一八九四年五月三一日、全羅道(Jeolla-do)全域を占領した。追いつめられた朝鮮政府は、清に応援を依頼した。これに対して、明治政府は、「公使館と日本人居留民保護」を口実に出兵し、首都・漢城(Hanson、現在のソウル)を占領した(高井[二〇〇九]、一四ページ)。

 陸奥の日記にある一八九四年七月一二日の指示は、この甲午農民戦争と関連したものである。明治政府は、天津条約を盾に、止むを得ない状況が起こったとして出兵したのである。日本軍の出兵は一八九四年六月二日に閣議決定された。反乱軍は、日清両国の介入におののき、朝鮮政府と和解した。つまり、日本は軍を朝鮮に駐留させる口実がなくなった。

 朝鮮政府は、日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。一八九四年六月一五日、伊藤博文(ひろぶみ)内閣は、朝鮮の内政改革を日清共同で進める方針であるが、それを清が拒否すれば日本単独で指導するというシナリオを閣議で合意させた。六月二一日、清が日本の提案を拒否すると、伊藤内閣と参謀本部・海軍軍令部の合同会議で、いったん、中止していた日本軍の残部の輸送再開を決定した。英国が調停案を提示したが、七月一一日、伊藤内閣は、清との国交断絶を表明した。日清開戦の危機が一気に高まった。七月一六日、日英通商航海条約が調印され、英国が日本の側に立つことになった(ただし、この条約が公表されたのは、一八九四年八月二七日)。

野崎日記(324) 韓国併合(2) 心なき人々(2)

2010-09-27 22:02:24 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一 NHKの司馬遼太郎特番に呼応する風潮

 司馬を使ったNHKの狙いは成功している。「日本的なもの」を復古させ、その上で軍事力強化による「安全保障」という使い古された国民世論形成の仕掛けが、保守を標榜するジャーナリズムで大規模に作られているからである。

 例えば、佐伯啓思(けいし)は言う。


 坂本龍馬や秋山好古・真之兄弟を扱かったNHK大河ドラマは、行き詰まった幕末に、「めずらしく大きな構想力と行動力をもった若い下級武士たちが現れ、『国の将来』を憂えるその純粋な行動力が、旧態依然たる支配体制を覆して新生日本をうみだした。それに続く先見の明をもった明治の指導者たちは、アジアの植民地化をもくろむ列強の中にあって、日本を列強と並ぶ一等国にまでもちあげた」、「明治の近代国家形成は、世界的視野と健全な愛国心をもったすぐれた政治指導者によってなされ、近代日本の栄光の時代であったが、昭和に入って、軍部の台頭と過剰な愛国心によって日本は道を誤った」という「ものがたり」である。

 佐伯はさらに言う。

 (佐伯自身は)「この『ものがたり』を認めるのにやぶさかではない」、しかし、事実は、「列強と肩を並べれば」、「列強との摩擦を引き起こす」、「いずれは列強との戦争になる」という事態を出来させた。急激な「西欧模倣型近代化の帰結は」、「列強との強い軋轢を生み出し、他方では『日本的なもの』の深い喪失感を生み出していった。その両者が相まって、強烈なナショナリズムへと行き着くのである」、「われわれは、国の方向が見えなくなり、自信喪失に陥ると、しばしばこの『ものがたり』を思い起こそうとする」、「それはそれでいいのだが」、しかし、「(それだけでは)困る。西欧型の近代化と、『日本的なもの』の喪失というテーマは、今日でも決して消失したわけではないからである」。

 佐伯の文章は、慎重に言葉を選び、「あの若くて元気で希望に燃えた日本を思いださせてくれる」単純さを戒め、戦争という歴史の冷徹な「論理」を強調する。しかし、その実、「複雑」思考を装いながら、佐伯の叙述は、「日本的な」復古への必要性を訴えるという構図の論調になっている(佐伯[二〇一〇]、二面)。

 このような構図の文章は、軍事力強化という「冷徹な論理」を復古的思潮状況の創出によって人々に意識させようとする保守的ジャーナリズムが好んで使用する常套手段である。

 軍事力強化の冷徹な論理を訴える渡辺利夫の文章も、上の文章と同じ日に発表された(渡辺[二〇一〇]、九面)。

 「(政治指導者に求められるのは)平時にあってはきたるべき危機を想像し、危機が現実のものとなった場合にはピンポイントの判断に誤りなきを期して恒常的な知的錬磨を怠らざる士たること、これである」、「開国・維新から日清・日露戦争にいたる緊迫の東アジア地政学の中に身をおいたあまた指導者のうち、位を極めたものはすべてがこの資質において傑出した人物であった。象徴的な政治家が陸奥宗光である」、「三国干渉という煮え湯を飲まされるまでの、国家の存亡を賭した外交過程を凛たる漢語調で記した名著が『蹇蹇録』である」、「三国干渉」が、「軍事力の相違」の結果であることを「国民にめざめさせ、『臥薪嘗胆』の時代を経て日露戦争へと日本を向かわしめたのも往事の政治指導者の決断であった」。「進むを得べき地に進(む)」という陸奥の言葉を渡辺は非常に高く評価する。その上で、緊迫したアジアの軍事情勢下では、「『進むを得べき地』は」、「世界最大の覇権国家米国との同盟以外にはあり得ない」と断じ、「日米同盟は」、「有事に備えるための地域公共財でもある。日米同盟なき東アジアはいずれ中国の地域覇権システムの中に身をおくことを余儀なくされよう」と渡辺は断定する。

 佐伯の屈折した文章とは対照的な単刀直入的な渡辺の文章は、佐伯よりも明確に、冷徹な軍事力の必要性を打ち出している

 陸奥宗光(むつ・むねみつ)の『蹇蹇録』(けんけんろく)の表題は、「心身を労し、全力を尽して君主に仕える」という意味の『易経』にある「蹇蹇匪躬」(けんけんひきゅう)から採られたものであることと、『蹇蹇録』には、次の文言があることを付言しておく。

 「この際如何にしても日清の間に一衝突を促すの得策たるべきを感じたるが故に、(一八九四年)七月一二日、大鳥公使に向かい北京における英国の仲裁は已に失敗したり、今は断然たる処置を施すの必要あり、いやしくも外国より甚だしき非難を招かざる限り何らの口実を用ゆるも差支えなし、速やかに実際の運動を始むべしと電訓せり」(陸奥[一九八三]、七三ページ)。

 このレベルの低い文章を見ると、私などは、とても、陸奥を「資質において傑出した人物」であるとは思われない。むしろ、このような政治的指導者を戴いたことを心から恥ずかしく思う。


野崎日記(323) 韓国併合100年(1) 心なき人々(1)

2010-09-26 21:29:45 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 
はじめに


 二〇一〇年は、日本による韓国併合一〇〇周年に当たる年である。日清、日露という二つの戦争を経て、韓国(1)を日本の植民地として組み込んだ韓国併合こそは、その後、日中戦争、太平洋戦争に向かって、日本が破滅の道をまっしぐらに走って行くことになった原点である。日本人が、当時持っていた「日本精神」とは一体何だったのかと自省しなければならない非常に大事な節目が二〇一〇年である。この大事な二〇一〇年を挟み、三年に亘って、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が、NHKの日曜日のゴールデン・アワーで放映されることになった。日本に侵略された地域の人々の憤激を買ってまで、この時期に、韓国を巡る二つの戦争を遂行していた当事者たちを賛美する青春ドラマを放映するNHKの狙いがどこにあるのかは不明だが、これでまた、日本には、過去の戦争を聖戦であったとする宣伝が吹きまくることになるのだろう。

 「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である」、「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」(司馬[二〇〇四]、第一巻「あとがき」、四四八~四九ページ)。

 言葉の使い方に統一がないことはまだ許せる。許せないのは、史実であると読者に広言しながら、そのじつ、小説の架空の世界を展開する詐欺である。

 「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセントにちかいからであり、この作品の書き手―私のことだ―はどうにも小説にならない主題を選んでしまっている」(司馬[二〇〇四]、第四巻「あとがき」、四九九ページ)。

 この文章を読めば、私たちは、『坂の上の雲』が、史実に忠実に書かれた歴史物であると、素直に信じてしまう。実際、史実とは何かということを確定することは難しい。沖縄の普天間基地撤去運動を例に引こう。二〇一〇年の今日、沖縄基地反対運動が日本の全国で盛り上がっている。逆の基地必要論も右翼的知識人から盛んに流されている。つまり、二つの異なる論調が今の日本には存在している。ところが、将来、例えば、二〇三〇年になって、過ぎ去った二〇一〇年前後の沖縄の歴史を書く際に、ある作家が、マスコミの基地必要論のみを取り上げて、基地反対運動を無視し、あの時代には基地必要論が沖縄県民の心情であったという内容の小説を発表したとしよう。二〇一〇年時点で、確かに基地必要論もあったのだから、作家が、嘘の叙述を行ったわけではない。しかし、同時に存在していた基地反対運動を黙殺して、二〇一〇年を、基地必要論が支配していた時代であったと決めつけてしまえば、それはれっきとした詐欺である。司馬は堂々とこの種の詐欺を働いた。

 本当に、日本には、日清、日露戦争に踏み切る以外の選択肢がなかったのかを、真摯に自省してみることが、二〇一〇年の今日には、とりわけ必要なことである。「あの時代はよかった」ではなく、「あの時代、東アジアを日本が地獄に叩き込んだ。どうすれば贖罪ができるのか」という自省が今の日本には求められているのに、「坂の上の雲」賞賛のオンパレードとは、何たることか。

 遠くから日本を眺めていたネルーの次の言葉が、当時のアジア人の偽らざる心境を伝えている。

 「(日清戦争の日本の勝利によって)朝鮮の独立は宣言されたが、これは日本の支配をごまかすヴェールにすぎなかった」(ネルー[一九九六]、一七〇ページ)。
 「日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかを、われわれはみた。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した」(同、一八一ページ)。

 当時の日本にも、朝鮮にも、足を踏み入れたことのないネルーですら、このように事態を正しく見抜いていた。ネルーの透徹した眼とは対照的に、今の日本の保守的イデオロギーの持ち主たちは、朝鮮人民に与えた塗炭の苦しみへの贖罪の気持ちを一片も持ち合わせていない。持ち合わせていないどころか、罪は、清国とロシアに挟まれた朝鮮の地理的空間にあるとまで言い切る司馬の小説が、多くの保守的イデオロギーの持ち主たちの心を捕えている。朝鮮を他の強国に取られてしまえば、日本は自国を防衛するのが困難になっていたとの主張を展開した『坂の上の雲』関連の書籍が書店で平積みされている。


野崎日記(322) オバマ現象の解剖(67) レフトビハンド(9)

2010-09-02 15:57:44 | 野崎日記(新しい世界秩序)


あとがき


 二〇〇九年一二月一〇日、オバマ米大統領は、オスロにおけるノーベル平和賞受賞演説で、「正しい戦争」を肯定した。「平和は願望だけではほとんど達成されない」ので、平和の構築には戦争が正当化される場合があるとした。戦後の六〇年間、米国は武力によって国際秩序の安定を図ってきた。国際秩序を破る勢力に対する制裁と圧力をかけるためにも「正しい戦争」は必要であると言明した。イスラムをはじめとして、米国に抵抗する組織は、米国のこうした狂信的価値観に戦いを挑んでいるのである。米国が攻撃する相手は悪で、その悪を叩き潰すのが正義であるという泣きたくなるような歴史認識の欠如は、オバマ政権が短命であることを予兆させるものである。

 そもそも、戦争の一方の当事者に平和賞を授けるノーベル平和賞選考委員会のブラック・ユーモアは置いておくとしても、「平和賞」の受賞演説で戦争を擁護する大国のリーダーを世界が戴いているのは悲劇である。オバマは、反米闘争の劇化に見舞われるであろう。 それにしても、歴史を正確に理解できない単細胞はどのような経緯で生み出されるのであろうか。

 日本でも、沖縄の普天間「移設」問題で、本土の人間やマスコミの単純な歴史理解が、沖縄の人々を苦しめている。日本の防衛の最重要のシステムである日米安保体制を危うくする鳩山政権は、米国を怒らせ、日本の経済社会を奈落の底に落とすであろうとか、日本の平和を守ってくれている米国の面子を汚した鳩山政権の将来はないといった論調が日本の本土を支配している。本ブログ、第一章でも説明したが、歴史認識の欠如、事実関係の正確な理解の欠如が、世界にも、日本にも蔓延している。本ブログは、そうした哀しい現実に異議申し立てすることを目指している。

 普天間問題を例にとって、浅い歴史理解の怖さを指摘しておこう。
 普天間「移設」の発端は、一九九五年の沖縄での米兵による少女暴行事件だった。このときから沖縄の負担軽減が語られた。

 そして、二〇〇九年二月、ヒラリー・クリントン米国務長官と当時の中曽根弘文外相がグアム移転協定に署名した。それは、普天間の代替施設確保を前提に、普天間駐留米海兵隊の一部を米軍グアム基地に移転させることが柱であった。二〇〇九年五月に民主党などの野党連合の反対で否決されたが、衆院の再議決でこの法案は成立した。ここで、グアム移転協定は日本の正式の議会の審議の下で法的に成立したのである。この点は重要である。ところが、米国での扱いは議会承認を必要としない行政協定にすぎない。中曽根外相は、二〇〇九年四月一五日の参院本会議で、議会承認条約とするか、行政協定とするかは、米国自身が決定することなので、まったく問題はないとの判断を示した。しかし、行政協定には法的な拘束力はない。たとえば、移転を議会が承認したのならそこで発生する費用を米国は負担しなければならない。しかし、行政協定になるとそれは交渉事項であり、米軍にとっての義務ではない。その意味で、この協定は日本のみが拘束される片務的なものである。

 しかも、同協定の第八条には、グアム移転に関する協議の発議権は米側にしかない。

 そもそも海兵隊は他国に軍事介入するさいの陸上部隊である。名護市辺野古への移転は海軍力強化を図るという名目であるので、これはおかしなことである。

 しかも沖縄駐留海兵隊員数は一万八〇〇〇人として計算されているが、実数は一万二〇〇〇人を下回る。数字だけがひとり歩きしているのである。

 まず、私たちが認識すべきは、普天間基地は世界一危険な飛行場を持っているということである。住宅密集地に基地の飛行場ができているのである。

 米国内では、軍事飛行場に対する安全基準が厳しく設定されている。それは、一九七八年のカーター米大統領令(「米国の軍事施設に関する環境保護条例」)に基づいた基準である。そして、翌七九年、米国の域外での軍事施設にもこの大統領令は適用されることになった。米国の域外で米国軍事施設が、環境と人権を破壊することがあってはならないという基準がそれである。ただし、冷戦下で域外の基地にはこの基準は適用しなかった。それでも、一九九〇年代になってその基準の検証が米議会できちんとおこなわれるようになった。ところが、域外基地のうち、日本だけはそうした検証から除外され続けていた。

 そして、二〇〇〇年九月一一日、日米政府は、基地の「環境原則に関する共同発表」を出した。そこには、「日米政府の共通の目的は、施設及び区域に隣接する地域住民並びに在日米軍関係者及びその家族の健康及び安全を確保することである」と明記されていた。在日米軍の環境基準は、日本の国内関連法が定める基準かそれを上回る水準でなければならないとも公言したのである。そして、日米政府は、こうした基準を米軍基地が満たしているか否かの定期協議がなされることも確認された。しかし、そうした協議がおこなわれているのかどうかについて両政府は明かにしていない。

 日本の航空法では、滑走路に沿う一定の区域を設定し、その中では建造物があってはならないと定めている。それは、もちろん、飛行機と住民の安全を守るために定められた規定である。

 米軍基地の区域は、危険性の度合いに応じて、三つの区分けがされている。
 もっとも危険な区域はクリアゾーンと呼ばれている。クリアゾーンには一切の建造物も障害物も設置を認められていない利用禁止区域である。通常のクリアゾーンは、滑走路の中心線を挟んで幅約九一四メートル、滑走路先端から約九一四メートルの長方形がクリアゾーンである。

 普天間基地にも当然、この規定が踏襲されるはずである。ところが、同基地のクリアゾーンは通常よりも狭い。滑走路先端から台形になっていて、滑走路先端部分の幅が約四五七メートルと通常幅の一八二八メートルに比べると四分の一の幅である。つまり、滑走路の中心線からの幅は九一四メートルでなく、二二九メートル弱でしかない。また滑走路の先端から伸びる部分は規定通り九一四メートルであるが、その地点での横幅が約七〇五メートルである。これも通常幅の半分にも満たない。要するに、普天間飛行場のクリアゾーンは、米国の基準をはるかに下回っているのである。

 普天間の狭いクリアゾーンなのに、その中に約八〇〇戸、三六〇〇人の住民が居住し、普天間第二小学校、児童館、保育所が設置されている。少なくとも明白なことは、普天間飛行場が、米国の航空法に抵触しているということである。しかも、反基地の姿勢を明確にした宜野湾市長が二〇〇八年四月八日にグアム移転審議で国会で証言するまでは、日本人の多くがその事実を知らされなかった。外務省は、その事実を知っていたが、とり立てて議論する必要性を認めていないと、宜野湾市長に返答したという。

 そもそも、いまだに日本政府は、普天間基地を正式の飛行場として認知していない。実際、一九四五年六月に作られたときには、普天間飛行場は補助飛行場でしかなかった。正式の飛行場は米海軍基地として使われていた那覇空港であった。しかし、その那覇空港は一九七二年の沖縄の日本への返還によって、日本のものになった。それに伴い、米海軍基地は嘉手納に移転、その余波を受けて嘉手納での訓練基地が足りなくなったので、普天間飛行場の整備がなされた。そのときまでは、普天間はヘリコプター基地ではなかった。それまでのヘリコプター基地は北谷(ちゃたん)町のハンビー(北前、北谷一、二丁目界隈)にあったのだが、このハンビーも返還されることになり、ヘリコプター隊は一九九六年頃に普天間に移転してきたのである。

 米国防総省や米軍太平洋指令部は、安全基準を無視して普天間飛行場を拡張してきた。日本も普天間は飛行場ではないという認識を示して、米軍が安全基準を無視することに抗議を示さなかった。ところが、整備費用は日本の思いやり予算から出された。那覇空港返還時にも、北谷ハンンビー返還時にも日本政府は普天間整備費用を出している。

 重要なことは、普天間基地が整備されたのちに、日本人の住宅が建てられたのではないということである。住宅はすでに一九五〇年代からあった。小学校も一九六〇年代には建設されていた。すでに住宅が密集している中に普天間が飛行場として整備されたのである。それも安全基準を無視した形で。そして、二〇〇四年八月、沖縄国際大学に米海兵隊の大型ヘリが墜落、炎上したのである。

 普天間移転という前に、安全基準をまったく無視した基地である普天間は即刻閉鎖されるべきである。それは、二〇〇〇年の「日米環境原則の共同発表」に照らしても、日本は強く米国に要求できるはずのものである。ところが、日本の外務省北米局長は、普天間のクリアゾーンは、ガイドラインにすぎないものであり、「環境原則の共同発表」も法令ではないので、日本政府としては米軍に守らせなくてもいいのだという基地周辺住民の安全を完全に無視した発言をした。二〇〇八年四月八日の国会答弁である。

 米軍の再編成構想では、海兵隊は六か月のローテーションで世界を回遊することになっている。海兵隊の指令塔は、グアムに集約する。ハワイと沖縄には実働部隊のみ置く。ローテーション部隊(UDP)は、ハワイを基点として沖縄に向わせ、それから、マリアナ諸島のテニアンなどに整備する沿岸戦闘訓練センターで訓練させる。日本の予算で整備するグアムの兵舎で休息させ、太平洋沿岸各地を回遊させる。つまり、沖縄には海兵隊を常駐させることがなくなるのである。

 さらに米軍再編成構想で最近浮上してきたものに、シーベーシング(海上基地)構想がある。ペルシャ湾、太平洋オーストラリア北東沖、インド洋に海洋に浮かぶ巨大基地建設である。米海軍、海兵隊が考案した案であるが、全米軍がとり組む統合戦略として認知される可能性が高い。二〇一五~二〇二五年までの実用化が目指されている。この基地が機能するためには、高速輸送線、新型装甲車、沿岸戦闘艦船などが必要になり、巨額の費用がかかる。そこでは、日本が高速輸送船の運用を託される可能性が高い。こうした構想が実現すれば、海兵隊の沖縄常駐はなくなり、海兵隊は短期間沖縄に滞在するだけのものになるだろう。

 事実、そうした動きは現実に進行している。大規模な地上戦を前提にした大規模な地上軍はかぎりなく縮小されることになる。米国は、ドイツを手始めに、次第に世界から常駐米軍を減少させている。在韓米軍は二〇一二年までに三分の一に減らし、米韓合同の指揮権を韓国に譲渡する方針である。しかし、韓国側がそれを望まず、韓国軍をアフガニスタンに出兵させる見返りとして、米軍の減少数に歯止めをかけようとしている。その点では、在日米軍縮小交渉がもっとも遅い。いずれにせよ、海上基地を主力として、ユーラシア大陸の内陸部をミサイル射程距離に置くという米軍の構想は着々と進行している。インド洋における石油燃料の補給を日本の自衛隊に依存するという外装の下で、実際には日本に供与しているイージス艦の操作能力高上をインド洋でおこなっているのである。

 そもそもが、地元住民の危機回避などが出発点であった普天間飛行場問題は、二〇〇五年になって日米合意、〇六年には「再編実施のためのロードマップ(行程表)」が介在することになって、米軍再編構想実現との絡みで論じられるようになった(パッケージ論)。いま重要なことは、こうしたパッケージ論を克服することである。「移設」問題との関連で普天間問題が論じられるのではなく、普天間基地の即時閉鎖に焦点を絞った対米交渉に重点を移すべきである。

 「移設」が日米国家間の約束によるものといっても、この約束は上に見たように、対等の関係であるとはとてもではないがいえるものではない。沖縄における軍事力の維持の理由にされている中国の軍事的脅威といっても、それは現実的ではない。米軍内でもグアム移転の再編作業が一貫していない。

 日本政府による懸命な移設先探しはお人好すぎる。危険な飛行場を建設したのが米軍なのだから、まず、閉鎖に向って、移転先を米軍の責任において、おこなうというのが筋である。

 ブッシュ時代の日米安保チームのアーミテージ元米国務副長官は、鳩山政権に警告した。「合意を覆せば、日米関係は白紙」にすると。おかしなことである。ブッシュ政権の元高官がオバマ政権の庇護者的発言をしている。政権交代があったのではないのか。二〇〇七年に防衛汚職で逮捕された守屋元防衛省事務次官や商社などが米軍再編問題の情報を得て接近してたのがアーミテージだったはずである。事態がうやむやに放置されたまま、また防衛関係の利害関係者が表に出てきたのである(『東京新聞』(こちら情報部)二〇〇九年一二月一二日の記事に依存した)。

 正しい理解を得る努力をすることが今日ではあまりにもないがしろにされている。本書が、オバマ現象の解剖と銘打ったのも、正しい理解をすることの重要性を訴えたいからである。