消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 N0.131 阿蘭陀別段風説書

2007-07-15 20:52:55 | 福井学(福井日記)

 福山藩主・阿部正弘が天保の改革に失敗した水野忠邦に代わって老中になったのが天保14(1843)年、その後、水野配下の老中たちが次々に辞職したために、2年後、阿部は老中首座になる。



  ペリーが来航したのは、阿部在任中であた。それまでに、オランダ国王による開国勧告、英仏船の琉球来航、米ビッドル艦隊の浦賀来航があった。

 オランダがなぜ日本に開国を促したかということに私は昔から不審に思っていた。

 対日貿易独占の利益は、オランダにとってとてつもなく大きなものであったはずなのに、もし、日本が開国してしまえば、オランダは独占権を失い、膨大な貿易利益も失うのだから、オランダとしては、日本が開国してくれないほうがいいにきまっている。なのに、開国を促してきた。天保15(1844)年のことであある。

 長崎に来航したオランダ国王の使者が、開国を促す国書をもって立山の長崎奉行所に向かう絵図(御役所及施設応接絵図)が財団法人鍋島報效会(佐賀県立博物館寄託)によって所有されている。

 幕府は、阿部正弘以下、老中の連盟によって勧告拒否の返書を送ったが、オランダは、この答えを期待していた。つまり、これは、幕府がオランダ貿易独占を保障したことを意味するとオランダ側は受け取ったのであるこのように解釈するのが、広島県立歴史博物館「阿部正弘と日米和親条約」展図録http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00035/contents/0001.htm)である。

 阿部正弘の子孫が保存している『阿蘭陀別段風説書』(嘉永5(1852)年写本、司天台訳、神奈川県立歴史博物館寄託)という写本がある。



 
これは、新しくオランダ商館長として赴任した、ドンケル・クルティウス(Jan Hendrik Donkre Curtius)が、幕府に提出した別段風説書であり、ペリーが来航すると伝えたものである。



 阿蘭陀風説書(オランダ・ふうせつがき)というのは、毎年、長崎に入港するオランダ船が幕府に提出する海外事情報告書のことである。

 年々、内容が簡略され、提出も遅れ気味であったのだが、アヘン戦争をきっかけに幕府が詳細な報告を求めた。つまり、「別段」に詳しい内容を要求したのである。そこで、風説書は、天保13(1842)年から別段風説書が出されるようになった。

 嘉永5年の別段風説書は、1851年の世界情勢を記した後、米国が日本に通商を求めるべく中国で活躍中の軍艦とペリー率いる本国からの艦隊が合流して日本に派遣されることになったと報じた。

 司天台訳というのは、長崎で翻訳(崎陽訳)された風説書に添えられたオランダ語原文を江戸の浅草にあった天文台(司天台といった)で幕府の天文方が翻訳したものである。ただし、司天台訳は、この1冊しか残存していない。



 通常、風説書は、長崎のオランダ通詞が訳詞、これを崎陽訳といっていた。

 じつは、シーボルトが結構きな臭い動きをしている。日本とオランダとの通商条約の草案を起草していたのである。シーボルトは、むしろ、非オランダ的動きをしていた。当然といえば当然であるが。

 これは、『都督職之者筆記和解・甲必丹差 出候封書和解』(かるばととくしょくのひっきわげ・かぴたんさしだしそうろうふうしょわげ)にある。



 この書は、日蘭通商条約草案、バタビア総督の書簡、クルティウスの書簡の翻訳を1冊にまとめたものである。嘉永5(1852)念写本、神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)。

  天保15(1844)年以来、英仏両国は、琉球に軍艦を寄港させた。これに対して、幕府は琉球が日本ではないという立場を取り、フランスとの貿易は黙認しようかという考えであったらしい。

 弘化3(1846)年、阿部正弘は薩摩藩主の世子・
島津斉彬(なりあきら)を問題処理のために、帰藩させた。



 阿部は、自分が気に入っている斉彬を藩政に参加させ、阿倍の外交方針に従わせようとしていたのである。これに対して、藩主の
斉興(なりおき)は、阿部が斉彬を通して藩政に介入されるとの恐れを抱き、翌春には、自らも帰藩を願った。こうして琉球の開国は結果的に阻止された(同上ウェブサイト)。



 ビッドルは、終始友好的な姿勢で幕府に臨んだ。弘化3(1846)年閏5月27日、ビッドル(James Biddle, 1783-1848)率いる米東インド艦隊帆走軍艦2隻(コロンバスとビンセンス)が浦賀に来航、通商の意志が幕府にないことを知ると直ちに引き下がろうとしたのだが、あいにく凪ぎで帆船は動けず、諸藩の御用船に曳航される有様であった。これを屈辱とみたペリーは、居丈高に交渉に臨んだのである。曳航されるこの模様を描いた図絵が、横浜市自然・人文博物館に保存されている(同上サイト)。



 阿部はいったん廃止されていた異国船打ち払い令を復活し、大船建造の解禁を試みるが、幕府内の反対意見で実行できなかった。

 嘉永5(1852)年、オランダから米艦隊の日本来航の情報を阿部は得たが、幕府内で対策を立案することもできなかった。翌、嘉永6年3月M.C.ペリー率いる米海軍東インド艦隊が江戸湾に乗り付けた。ペリーは威嚇して開国を求める米大統領の国書を手渡した。開国の返事を1年後にもらいに来るといって、いったん立ち去る。

 同年、7月18日にはロシアのE.V.プチャーチンが長崎に来航して開国を求めた。



 ペリーを日本に派遣した米国大統領のフィルモアの国書とペリー書簡の和訳は、『亜墨利加大合聚楽国国王書簡和解』は全国で見られる。

 
阿部正弘が写しを全国の大名に配布して、広く意見を求めたからである。福井藩主の松永慶永と佐賀藩主の鍋島直正は、国書の拒絶、直ちに開戦論を唱えた。



 薩摩藩主の島津斉彬は、回答を延期・武力充実、その後に開戦を主張した。これは、『諸家上書写』(しょけじょうしょうつし、嘉永6(1853)念、神奈川県立歴史博物館所蔵)に見られる。



 約束通り、嘉永7(1854)年1月16日、再度、ペリー艦隊が江戸湾に現れた。交渉は、2月8日から始まり、横浜応接所と米艦上とを使って進められた。その間、互いに接待を繰り返した。そして、同年、3月3日に日米和親条約が締結された。ペリーはこれで日本を開国させたと受け取り、幕府は、ひとまず、通商関係を避けることができたとそれぞれ別の解釈をしていた。

福井日記 No.129 福井学とはなにか

2007-07-11 00:01:59 | 福井学(福井日記)

 福井出身者でもないものが、たまたま福井の地で幸せな研究生活をおくらせてもらっているだけで、地元の人の神経を逆撫でするような「福井学」なるものを書き始めたことについて、早い目に弁明しておきたい。

 地域学とは、そこで生活する人々の観念の地域的伝統の確認のことである。神戸のような、さんさんと陽が注ぐ土地で、自らの精神の基本形を形成してきた私には、福井にきてから戸惑うことが多い。

 福井の方々も私に同じような感情を私にもたれておられるのだろうが、この地において、私には、当たり前の反応を期待していたのに、そうではない反応が返ってくることが結構多い。日本人として同じではないかと思いつつ、地域的差異のあまりの大きさに戸惑う。

 そもそも、この地の人々の言葉は重い。吉本新喜劇ほどではないが、言葉をアクセサリーとすることに慣れた身には、この地で話すときに極度の緊張を強いられてしまう。その差のきたるゆえんはなになのだろうか。

 自らの人生を振り返るよすがとして、福井という地域学を創り、その普遍性を確かめてみようと思って、このブログを開始した次第である。

 地域的な伝統とは、地域の暗黙の観念が継承されてきた道筋のことである。つまり、地域に生きる人々の個性の形成史のことである。

 地域の生活スタイルが、地域の人々の交わり形態が、どのように形成されてきたのか。これを確認することによって、私たちは、差異を前提にした普遍性に到達することができる。そのうえで、わが日本の、この喪失感を埋める歩みの方向性を探ることができると私は信じている。

 こうした観念の歴史を調べるには、様々な入り口があるが、私は、神々の争いから入ることにした。

 とくに、キリスト教と、新政府に弾圧されてきた仏教寺院との関係を調べること、異教を邪教と侮蔑してきたクリスチャンに学問の刺激を受けた仏教徒たちが、結局は仏教を棄てきれず、大陸主義に走ったゆえんを知ること、等々の史実から入っている。

 多くの無政府主義者や大陸浪人たちの多くが、いわゆる田舎の仏教徒であったことは何を物語るのか。私は、まずこの問題領域から出発している。

 福井学の前に書いた沖縄学(言霊、これはまだ未完)がそれであり、その前の福井の神仏習合の側面を浮き彫りにしたのもその作業のためである。

 そもそも、日本の明治研究は、廃仏毀釈が日本の庶民に与えた巨大な破壊的効果に対して鈍感すぎる。私が、福井学を始めるに当たって、キリスト教よりもさらに広い宗教を求めた今立吐酔から筆を起こしたのはそういう局面を際だたせたかったからである。

 生麦事件(文久2(1862)年)があったとき、米国の領事館は神奈川の本覚寺にあった。ヘボンは、横浜の成仏寺に寄宿していた。 ヘボンが、事件の負傷者を医師として手当をした。



 英公使付書記官アーネスト・サトウ(19歳)がこの事件の直後、横浜に上陸しているが、翌日、この寺のヘボンを訪ねている。ブラウンもここに寄宿し、サトウはブラウンから日本語を習っている。成仏寺は、中国からきた英米宣教師たちの布教の拠点となっていた。



 慶雲寺には、幕末フランス領事館が置かれた。吉祥山茅草院慶運寺は、江戸の芝増上寺第3世定蓮社音誉聖観(じょうれんしゃおんよしょうかん)によって開山された。浦島伝説をもつ浦島が丘の勧福寿寺を明治6(1873)年に合併したことから浦島寺とも呼ばれている。 

 神奈川の浦島伝説によれば、太郎の父親は三浦の人で、丹後に移り住んだときに太郎が生まれ、太郎が竜宮城から帰ると父は既に亡く、神奈川に墓があることを知ってこの地に戻って父の菩提を弔い、自身も亡くなったとされる。太郎が竜宮城から持ち帰ったという浦島観音菩薩像がある。

 近くに、東の本陣と呼ばれた神奈川本陣西の本陣と呼ばれた青木本陣があった。本陣とは、勅使(天皇の意思を幕府に伝えるために派遣される特使)、皇族、貴族、院使(朝廷からの使者)、門跡(寺院に住まいする皇族)、公卿(朝廷の高官)、参勤交代の大小名、駿府、大坂、二条城の御番衆、所々目付などの公用の武家、日光例弊使、その他諸侯衆、老職(幕府で、大老・老中などの職。また、大名の家老など)の他、将軍家に献上する馬、鷹、茶、備後畳表及びその従者の宿泊を目的とする施設のこと。したがって、一見して他とは異なる格式を備え、門、玄関、上段の間を構え、200坪前後の規模をもつものが多かった。

 大小名の参勤交代の行列が宿泊する際には、領主は料理人を連れて旅行をしたので、必要な食器、調理器具一式、生活用具一切まで持参していた。身の回りの世話は全て側近が当たるので、本陣側は、その建物を提供し、家人は、勝手居住の間に控え、専ら従者の指図に従った。



 本陣の起こりは、1363年、足利義詮が上洛のとき、その旅舎を本陣と称して宿札を掲げたことに始まる、といわれている。職能を充実させるようになったのは、参勤交代制が実施された寛永12(1635)年以降の元禄期にかけてであろうとされている。



 さらに、付近には、浄瀧寺がある。浄瀧寺は、英国領事館として充てられた。文応元(1260)年、妙湖尼が、政治の中心であった鎌倉へ向かう途中、当地に立ち寄った日蓮聖人と出会う。妙湖尼は日蓮から「法華経」の話を聞き、弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。この道場が日蓮宗の妙湖山浄瀧寺の始まりで、山号はこれにちなむ。本尊は、十界曼陀羅の釈迦・多宝両如来。この年、日蓮は、「立正安国論」を著し、鎌倉幕府に献策している。

 宗興寺もある。この寺には、ヘボンの施療所があり、シモンズもここに住んでいた。

 宗興寺の観音霊場は、享保17(1732)年に開創され、子(ね)年毎に開扉されることから子年観音ともいわれている。

 宗興寺の観音は、聖観世音菩薩である。

 「観世音」とは、世の人々の音声を聞き届け、願いをかなえてくれるという意味であり、衆生の願いを自在に観じ、応じてくれるという意味から「観自在」ともいわれる。日本には飛鳥時代から観音信仰が伝えられ、現在でも宗派を超えて親しまれている。  

 宗興寺は宝徳年間(室町時代)に創建された曹洞宗の寺。もとは真言宗、寛文年間(江戸時代)に曹洞宗に改宗、現在に至る。

 曹洞宗は本尊の釈迦、永平寺を開い道元禅師、總持寺を開いた瑩山禅師を一佛両祖としている。教えの基盤は、ただひたすらに坐禅(正身端坐)を行じ、仏道にかなった生き方をすれば誰にでも悟りがあらわれるという「祗<只>管打坐」と、道元禅師によって体得された法、いわゆる「正伝の仏法」の2点にある。

 曹洞宗では真実の自己に目覚め、利他行に生きることを理念としているとされている。 


   
 安政6(1859)年、横浜開港と同時に神奈川にきて、宗興寺に寄宿していたシモンズは、他の宣教師たちとはなじめずに福沢諭吉の発疹チフス治療後、諭吉の庇護を受け、三田山上に居を構え、日本主義陣営に加わって、『時事新報』で健筆をふるった。

 廃仏毀釈に加えて、キリスト教の布教場になってしまった伝統ある寺の当時の住職たちの心痛は、いかばかりであったろう。なぜ、日本近代史研究家はこのことに口を閉じてきたのか。

福井日記 No.128 語学

2007-07-06 01:44:36 | 福井学(福井日記)

 山下英一『グリフィスと福井』福井県郷土新書・福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会、昭和54年によれば、グリフィスとその周辺は、非常に語学学習を重視していたことが分かる。



 グリフィスの生まれたフィラデルフィアには、デラウェア湾に注ぐデラウェア川がある。



 フィラデルフィアは、独立宣言が発布された都市である。



 グリフィスは、石炭を商っていた父に連れられてサスケハンナ号の浸水式を見ている。



1850年7歳のときである。この船は3年後、ペリー提督の来日の旗艦を務めた。

 母が熱心な長老派教会の信者であった。

 グリフィスは、父が破産する前は、家庭教師について、ギリシャ語とラテン語を習っていた。ラトガース大学があるニュージャージー州ニューブランズウィック市にはオランダ人が多く住んでいた。1901年の人口は2万人ほどであった。




 この大学で、グリフィスは、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、ヘブライ語を学んだ。



 1869年にラトガース大学を卒業、その後、同大学のグラマースクールでラテン語とギリシャ語を教え、このときに横井小楠の甥の横井左平太(熊本出身、元老院少書記官)、太平(熊本県出身、熊本洋学校設立)兄弟を教えた。



 また、ラトガース大学生の日下部太郎にラテン語の個人教師をした。日下部は卒業前に1870年4月5日に死去、グリフィスは葬儀に出席している。



 このときのラトガース大学生には著名な日本人の縁戚が在学していた。岩倉具視の第3子(具定、侯爵・宮内大臣)、第4子(具経、法制局・外務省・大蔵省官吏)、勝海舟の子(子鹿、海軍少佐)、それにグリフィスに日本行きを強く勧めた高木三郎がいた。



 高木(天保12(1841)年~明治42(1909)年、東京生まれ、庄内藩士の子)は、安政6(1859)年軍艦操練所を経て、ラトガース大学に留学。明治4(1871)年に駐米日本公使館書記官となり、臨時代理公使時代に日米対等郵便条約を締結するなど活躍するが、明治13(1880)年に外務省を辞任。以後、生糸の輸出を目的とした横浜同伸会社の取締役となり、30年にわたり養蚕製糸事業に従事したhttp://www.ndl.go.jp/portrait/datas/118.html)。

 1866年時点でこのグラマースクールには、約40名の日本人留学生が学んでいたという。 ラトガース大学出身者が多数日本に派遣されていた。

 後、横浜で日本最初のプロテスタント教会を建てるバラ(James H. Ballagh, 1832-1920,1857年卒)(後に高橋是清と接点、後述)、リンカーン大統領の命令で、ハリスの後の中日米国大使を務めたプリュン(Robert H. Pruyn、1815-1882, 1833年卒)(有名なオランダ系一族、the National Commercial Bank and Trust Company of Albanyの頭取、http://www.homestead.com/hereibe/HHR6b~ns4.html)。

 他に、1865年卒のスタウト(henry Stout、長崎で布教)、1865年卒のブラウン(Robert Morrison Brown, S. R. Brownの子、聖書の日本語訳に従事)、1869年中退のクラーク(Edward Warren Clark、静岡学問書に赴任)、1872年卒のワイコフ(Martin N. Wyckoff、グリフィスの後任で福井中学)、数学天文学教授のマレー(Dabid Muray、文部省に招聘され、日本の学制の整備に貢献した)等々が来日した。プリュンは、グリフィスに渡航費800ドルを用立てた。

 グリフィスは1870年11月13日、フィラデルフィアを出発、大陸横断鉄道、太平洋航路(グレート・リパブリック号)と乗り継ぎ、同年の12月29日に横横浜に到着。横浜では、バラ、ゴーブル、ヘボン夫妻、ブラウン夫妻、ミス・ギダー(フェリス学院創設者)、シモンズ、フルベッキ、松平春嶽、英国公使パークス、米国公使デロング、米国に渡る寸前の森有礼、洋学者の神田光平等々の当代一流の人物たちと会っている。バラが創設した横浜の指路教会(The Presbyterian Mission Chapel)で説教もした。

 1871年2月21日、オレゴニアン号で神戸に向かい、2日後の23日神戸に上陸、大阪まで陸路。26日大阪から淀川を舟で上る。伏見到着、そこから馬で大津(27日着)に、28日蒸気船で琵琶湖を北上し海津に、3月1日海津出発、籠で敦賀に、木ノ芽峠を越えて3月2日今庄に、3月3日武生に、そして、福井に3月4日につく。横浜を出発して実に12日間の長旅であった。

 武生について、グリフィスは「武生は気の毒なところだ。その昔、府中と呼ばれた重要なところであったが、落ちぶれてしまった。宿場町で旅籠屋が25軒あった。広いとおりの真ん中を医師の縁の堀川が流れていた。鍛冶屋が多かった(The Mikado's Empire, 1877, p.422)と記している。武生の藩主本多家は版籍奉還で東京に出たが、華族には列せられなかった。沿道は積雪8フィートあったらしい(グリフィス『福井日記』1871年3月2日)。 

 グリフィスが福井で設立した化学実験室は当時の日本には4つしかなかった。他の3つはドイツ人が教え、1つが米国人のグリフィスの手になることが、英国の科学誌Nature, 15 of Sept. 1871で紹介されている。

 福井では、自然科学をドイツ語から摂取していた。グリフィスは人文学をフランス語から摂取すべきだと考えていた。米国文明論は英語であった。したがって、グリフィスは塾生にこの3か国語を習得させるべく、自ら3か国語を教授した。

 昔の米国人は、真剣に語学を学んでいた。それを日本人にも勧めたのである。

(山下英一前掲書、13~104ページ参照。)

福井日記 No.127 ラフカディオ・ハーン『心』

2007-07-04 02:47:00 | 福井学(福井日記)

 グリフィス(William Elliot Griffis, 1843~1924)は、福井藩主・春嶽の招きで藩校・明新館に赴任した(1871年3月7日)。満28歳の若さであった。



 米国のオランダ改革派教会伝道団のフェリス事務局長に依頼されたからである。フェリスに人選を頼んだのは、フルベッキ(Verbeck)であった(1870年)。

 同年7月14日廃藩置県」。グリフィスは、藩が建ててくれた(1870年9月22日完成)「洋客館」に住み、「ファミリー」と彼が呼ぶ学生8人を寄宿させていた。これまで、それとなく触れてきた今立吐酔はその一員として同年10月19日に入居した。

 吐酔16歳の時であった。吐酔は、グリフィスに可愛がられグリフィスの帰国(1874年)に同行して米国に渡り、グリフィスの世話を受けながらペンシルベニア大学で化学を学ぶ。しかし、信仰上の理由でグリフィスの世話を離れ、苦学して卒業、帰国後、27歳で京都中学校の初代校長となった(既述)。

  グリフィスは、1972年8月帝国大学南校に移籍する。廃藩置県によって、「地方都市福井から人材の能力と活力が東京に集中する廃藩置県の変革のまっただ中に身を置いた」(グリフィスの日記、山下、同書、11ページ)。

  武士の子弟約700人が同年に東京に脱出してしまい、福井の教育は崩壊の淵に立っていた。グリフィスも福井から脱出せざるをえなかったグリフィスの福井滞在は10か月にも満たなかった(山下英一『グリフィスと日本』近代文藝社、1995年、第1章)。



 これだけの短期の滞在で、これだけの巨大な影響を福井人に与えられるものなのかと天を仰いでしまう。米国に1874年帰国してしまう。

 明新館の生徒に松原信成(後の雨森信成)がいた。山下同上書による雨森の年譜を見よう。



 安政5(1858)年、福井藩士・松原十郎の次男として生誕、明治4(1871年)明新館入学、グリフィスをいたく尊敬する。廃藩置県を期に横浜に出、米人宣教師、ブラウン(Samuel Brown)に学ぶ。この年、明新館は「第28番中学」となる。 グリフィス、福井を去る。

  ラトガース・カレッジでグリフィスの後輩であったワイコフ(M.N.Wyckof)がグリフィスの後任として赴任、その通訳として松原は福井に赴任。「中学で一番正確な英語を話す」とワイコフは、グリフィスに手紙を書いている。松原、若干14歳の時である。明治6(1873)年雨森家の養子となる。同家の娘、芳の夫になる。雨森姓を継ぐ。

 明治7(1874)年、文部省命令でワイコフが新潟英語学校に赴任、雨森も同行し、「エジンバラ医療宣教会のパーム(T.A.Palm)の通訳兼助手となる。パームの『偶像非神論』を翻訳したと言われている。その年、横浜に出て、先述のブラウンの塾に入り、日本人最初のプロテスタント牧師・奥野昌綱と清書や賛美歌を翻訳。

  明治8(1875)年、キリスト教嫌いの養子先から離縁させられる。妻・芳は、雨森信成の弟・元成と結婚。信成は、メリー・ギダーの学校(いまのフェリス女学院)の教師となる。明治10(1877)年、築地の東京一致神学校(明治学院に合流)の神学生になる。以後、キリスト教伝道活動。明治14(1881)年ワイコフの先志学校(明治学院に合流)で教える。

 この時の雨森について、英文学者の村井知至は、「雨森という溌剌たる才知と深遠なる学識と強烈なる信仰を有する先生が学監として生徒と寝食を共にされた」と書いている(山下前掲書、100ページより)。

 西欧は、キリスト教によってどのような国になっているかを雨森は明治20(1887)年まで米国、フランス、英国、そして、中国、朝鮮を歴訪する。彼が見たのは、帝国主義の姿と人種差別の激しさであった。衝撃を受けた雨森はキリスト教を捨てる。

 帰国後、「微力社」を組織して、3000人の無産士族と児島湾の開拓事業を始める。商社経営にも手を染める。



 
明治21(1888)年、欧化主義に対抗する佐々木高行らが設立した「明治会」機関誌『明治会叢誌』の編集者になる。

 明治36(1903)年、横浜で横浜グランドホテル内でクリーニング業を営む。日本発の喫茶店を経営したとも言われている。



 ラフカディオ・ハーンと交流。ハーンの日本研究に資料を提供していた。明治37(1904)年、越後の鉱山を開発、日露戦争の軍費を寄付。同年、ハーンの死去。

 "The Japanese Spiritsu," Atlantic Monthly, Boston, 1904; "Lafcadio Hearn, the Man," The Atlantic Monthly, 1905を発表。1905年、War and the Japanese Womenを書き上げたが、未発表のまま、グリフィスの手許に残る。明治39(1906)年、おそらく糖尿病で死去。菩提寺は高野山別院増徳院である。

 ラフカディオ・ハーンの『心』は、雨森がモデルである。

福井日記 No.126 教育勅語

2007-07-03 00:21:53 | 福井学(福井日記)

 安政5(1858)年、日本は、米・英・露・蘭・仏の5か国と修好通商条約を結ぶ。直ちに、キリスト教世界は、日本におけるキリスト教伝導の可能性についての調査を行った。

 すでに見たように、プロテスタント側は、米国伝導局派遣の伝道師・S. M. ウィリアムズ、米国聖公会牧師・E. W. サイル(Syle)、ポウハッタン号の軍隊付牧師・ヘンリー・ウッド(Wood)の3名が、そろって長崎に上陸して長崎奉行と面会し、アヘンとキリスト教の導入は日本では禁じられているとの説明を受けたものの、カトリックではない、真のキリスト教を伝えようと、米国の聖公会・長老教会・改革教会の伝道局に宣教師派遣を要請する手紙を書いた。

  彼らからすれば、カトリックが邪教なので、日本人に受け入れられなかったが、真の宗教なら理解してもらえるはずだと強引に解釈したのである。



 手紙には、ただちに反応があり、1859年から1863年にかけて各教会から以下の宣教師たちが派遣されてきた。聖公会からはJ. リギンズ(Liggins)C. M. ウィリアムズが、長老教会からはJ. C. ヘボン(Hepburn)D. トムソン(Thompson)が、改革教会からはC. R. ブラウン(Brown)・D. シモンズ(Simmons)・J. H. バラ(Ballagh)が派遣されたのである。彼らは、キリシタン禁制の立て札がまだ立てられていたので、主として英語塾を開き、医療活動をしていた。

 カトリックからは、安政6(1859)年9月、ジラール神父(Prudence Sepraphin Barthelemy Girard, 1821~1867)がローマから日本教区長代理に任命されて横浜に上陸した。

 同神父は、1862年、横浜本村境に天主堂を建設した。当時、中国、日本、朝鮮では、カトリックは、天主公教と呼ばれていた。

 1865年大浦天主堂の献堂式の日に、3名の隠れキリシタン婦人が信仰告白し、以後、長崎、熊本地方で5万人の隠れキリシタンと連絡が取れるようになった。

 しかし、同年、「浦上四番崩れ」という隠れキリシタン大迫害が起こり、約3394人の浦上村キリシタンが幕府の裁判を受けた。新政府に受け継がれたが、所払いとなり、各地で重労働の苦役を課された。

 彼らはそれを「旅」と称した。明治6(1873)年のキリシタン禁制の高札が撤去される5年間で662人が過酷な労働で死んでいった。

 当時、潜伏キリシタンが摘発、処刑されることを「崩れ(くずれ)」と称した。浦上のキリシタンは表向きは仏教徒を装い、張方や水方、聞役などに組織されたキリシタンの秘密組織に属して信仰を守っていた。

 一番崩れは寛政2(1790)年に、二番崩れは天保13(1842)年に、三番崩れは安政3(1856)年にあったが、いずれも小規模のものであった。しかし、四番崩れは浦上村3000余人を総流罪にするという空前絶後のもので、史上に残る最大級の弾圧であった。



 事件は幕末の元治2(1865)年、建てられて間もないフランス寺(大浦天主堂)を訪れた浦上のクララてるなど10数人の人々の信仰告白から始まった。この告白は、2世紀半もの耐えてきた浦上の潜伏キリシタンの存在を示すものであった。



 そして、この信徒発見のニュースは、プチジャン神父(Bernard Petitjean, 1828-1884)によってただちにローマ法王に報告され、全世界に報道された。

 宣教師の説得に勇気を得た信者たちは、公然とキリシタンであることを明らかにし、聖徳寺(長崎市銭座町)の檀家から離脱して幕府の寺請制度を否定する態度に出た。



 これに対して長崎奉行は一斉検挙の方針をとり、慶応3(1867)年6月4日未明、風雨をついて奉行所の捕方170名が浦上村を急襲し、中心人物と目された68名を逮捕収監し、きびしい拷問によって仏教への改宗を迫った。

 しかし、このことは外国領事団の知るところとなり、彼らの強硬な抗議に苦慮した幕府は、処分を未解決のまま一応全員を釈放した。この問題は明治政府にひきつがれた。



 慶応4(1868)年2月、九州鎮撫総督として長崎に着任した沢宣嘉は、ただちにこの問題に取り組んだ。かつて攘夷論者として名をはせた沢宣嘉(彼は三条実美らと共に長州へ落ちのびた七卿の一人であった)をはじめ、キリシタンに無理解な長州の伊東聞多ら参謀によって、ここに浦上一村3000余人を根こそぎ総流罪とするという一大処分案が企画され、御前会議(明治天皇の前で行う最高の会議)にかけられ、同年4月25日に処分が断行された(http://www2.ocn.ne.jp/~oine/incident/urakami4ban.html)。

 5万人全部がカトリック教徒として復活したわけでなく、1873年時点で、カトリック教徒として認定されたのは、1万5000名だけであった。カトリックの日本での布教活動は地味なものであった。それでも、昭和8(1933)年の統計によれば、日本本国だけで、12教区、228教会、聖職者265人、信者9万人強であった(桜井匡『教派別日本基督教史』 隆章閣、1934年)。

 西暦11世紀にローマ・カトリックから分かれたギリシャ正教がロシアに入ってロシア正教会(オルソドックス)となるが、日本には、これに類似したキリスト教が、カトリックとは別に入っていたらしい。シルクロード沿いに中国を経て日本に到達した東方キリスト教会があったらしい。

 ロシア正教会の司祭が日本に初めてきたのは、安政6(1859)年であった。函館にロシア領事館が設立され、そのときに領事に伴われて赴任してきたのがマアホフ司祭であった。領事館内で聖堂が設置されていた。マアホフは病気のために1年余りで帰国する。交代で赴任してきたのが、ニコライ司祭である。



 ニコライは、神学大学在学中にロシア海軍少佐・ゴローニンの『日本幽囚記』(1816年)を読み、日本での伝道を夢見ていた。



 
彼は、1861年6月2日に函館に到着した。25歳のときであった。彼は、赴任まもなく劇的に信者を得る。



  坂本龍馬の従弟に沢辺琢磨(さわべ・たくま)という函館神明社の神官がいた。根っからの攘夷論者であり、ニコライを切り捨てようとしてやってきた。28歳であった。

 しかし、ニコライに、正教を学ばないで、邪教と断じていいのかと一喝され、聖書を読んで回心した。

 
沢辺は仙台の同士たちを函館に呼び寄せて熱心な信者にした。小躍りしたニコライは、ペテルブルクに一時帰国し、日本伝道会を設立し、自らが会長となって伝道資金補給の途を開いた。函館ハリストス正教会のハリストとは、ロシア語でキリストのことである。

  函館に帰着後、アナトリイ司祭が赴任、ニコライは伝道の本拠を東京に設立すべく、神田駿河台の火消しの屋敷を買い取り、あのニコライ堂建てた。明治38(1905)年には、信者数は全国で2万8000人を超えた。



  ニコライは明治45(1912)年2月、77歳で帰天、京都のセルギイ主教が日本の後任の大主教となった。

 ニコライは修道名で、ニコライ・カサートキンと呼ぶのが通例である。正式名は、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(Ioan Dimitrovich Kasatkin, 1836-1912)。しかし、ロシア革命で大打撃を受け、昭和7年の信徒数は1万6000人にまで減少してしまった。

 1873年のキリスト教布教が公認されて以降、日本のキリスト教は非常に活発に行動するようになった。明治18(1885)年、明治政府は欧化主義に舵を切り換えた。いわゆる鹿鳴館時代の到来である。キリスト教に入信することが、近代的エリートのステイタスにまでなった。

 元々はキリスト教反対論者であった福沢諭吉でさえ、その批判のトーンを限りなく下げていた。



 
リアリストの面目躍如である。ミッションスクールに、上流階級の子女が競って通うようになった。1885年から1890年の5年間という短い期間にプロテスタント信者数は1万1000人から3万4000人にまで激増した。



 1890年の教育勅語は、キリスト者の手になるものである。原案は、クリスチャンの文学博士・中村正直(なかむら・まさなお)であった。この原案を完膚無きまで修正したのが、哲学者の井上哲治郎であった。



 森有礼はクリスチャンであった。1889年2月11日の憲法発布の当日、森文部大臣は伊勢神宮神官・西野文太郎に暗殺された。



 1891年クリスチャンの内村鑑三は、第一高等学校教授であったが、教育勅語への礼拝を行わず、会釈だけですましたことで物議を醸した。キリスト教への非難の高まりの中で、当の内村鑑三と、植村正久、柏井園(かしわい・えん)はつぎのような声明を出した。

 「キリスト教は忠君愛国と矛盾せず、反ってこれを完成・成就するものだ。表面は恭しく拝礼しながら教育勅語の誠心に違反する不忠・不道徳な輩とは異なり、キリスト者は勅語に対する拝礼はせずとも勅語の精神を深い敬意をもって受け入れ日常生活の中に立派に実践して行く真の愛国者である」。

 明治27(1894)年の日清戦争時、キリスト教界は、演説会・パンフレット・軍隊慰問・軍人遺族の救済、等々で、日清戦争を支持した。戦争協力の理由には聖書が使われた(「王に従え」、ペテロ、2:13-17、ローマ13:1-7)。後進的な清国文明を打破して新文明樹立に力を貸す氏名が日本に神から課せられているとしたのである。

 資料は、「日本のためのとりなしニュースレター」2003年6月1日号;http://www.christ-ch.or.jp/4_torinashi/back_number/2003/2003.06.pdfを参考にした。

福井日記 No.125 天津条約

2007-06-27 12:56:30 | 福井学(福井日記)

 1840年のアヘン戦争によって、清に上海などの5港を開港させ、アヘン取引を黙認させたが、中国人の反英意識が高揚し、英国の商業的利益は期待されたほどのものではなかった。中国奥地への進出も許されなかった。もう一度、戦争を起こして清にさらなる開国をさせるべく圧力を加えるべきだとの議論が英国で沸き上がったいた。アロー号事件が格好の口実を英国に与えた。それはなりふり構わぬ恐喝事件であった。



 1856年10月8日、清の官憲がアロー号を臨検し、清国人乗組員12名を海賊行為の疑いで逮捕した。英国籍の船を臨検し、乗組員を逮捕するとは条約違反であるし、逮捕劇のさいに、官憲が英国国旗を引きずり降ろしたと、当時の英国の広東領事であったハリー・S・パークスが抗議した。これはとんでもない言い掛かりであった。アロー号は、英国籍に登録された過去はあった。しかし、1856年には契約は切れてた。英国籍でもないアロー号は、英国国旗など掲げてはいなかった。

   清の両広総督で、欽差大臣であった葉名は英国に抗議の権利はないと拒否したが、パークスは執拗に抗議し続け、清駐在全権大使兼香港総督のバウリングは、現地の英国海軍に命令して広州周辺の砲台を占拠させた。これに抗議した民衆は、外国人の居留地に放火した。



   当時の首相、ヘンリー・パーマストンは、本国軍を現地の戦闘に派遣しようとしたが、議会の反対でできなかった。そこで、パーマーストンは、議会を解散し、総選挙で絶対多数を実現し、今度は議会の承認を得て、5000人の軍隊を派遣した。フランスにも応援を求め、ナポレオン3世はこれに応じた。



 1857年12月29日、英仏連合軍は広州を占領、葉名を逮捕、翌58年2月、英仏露米の全権大使たちが連名で南京条約の改訂を求めた。しかし、清政府は拒否。英仏連合軍は天津を占領。このときに結ばれたのが天津条約だったのである。

 天津条約は、以下のことが認められた。これら4か国の公使の北京駐在。キリスト教布教。内陸河川の4か国の商船の航行の自由。英仏への賠償金。アヘン輸入。新たに10港の開港。




 この条約締結にウィリアムズが大きく貢献したのである。以降、彼は、米国と清との交渉に深く関与していた。1876年、彼が米国の公的役務を辞任したとき、米国務省は感謝状を贈っている。

 中国人の性格についての正しい知識、中国人たちとの人脈、中国人と中国政府の要望、中国語の堪能さ、キリスト教精神、市民意識の向上、中国語辞書・中国研究書、なによりも、中国との条約にキリスト教布教の自由を挿入させたこと、等々に米国政府は感謝しているという内容であるop.cit.,  The Life and Letters, p. 412)。

 英仏連合軍は、天津条約を締結後、一旦軍隊を引き揚げたが、中国人民の怒りは大きく、その声に圧された清朝政府は条約の批准を渋りだした。

 
そこで、1859年6月17日、英仏の艦隊は再度天津の入り口にある白河口に出動したが、そこには、河を遡上するさいの障害物が設置されていた。障害物を撤去中に英仏軍は清の軍隊(モンゴル人、サンゴリンチンが将軍)の砲撃を受け、慌てて上海に引き揚げた。今度は、1万7000人の大軍で清の砲台を英仏軍が占拠。

   しかし、ここでも、サンゴリンチンの活躍によって、パークスが捉えられ、使節団も11名が殺害された。連合軍は今度は北京を攻めた。清の皇帝・咸豊帝は熱河に逃れた。10月18日、連合軍は、円明園に放火。1860年、連合軍は北京を占領。ロシアの仲介で北京条約が結ばれた(11月)。天津の開港、九竜半島を英国に割譲、中国人の海外で欧米が使役するために、中国人の海外移民の合法化、ロシアには沿海州を割譲した。

 ウィリアムズは、1833年に広東に到着し、1884年に中国を去ったのであるが、中国語は、ロバート・モリソン(Robert Morrison, 1782-1834)から習った。ただし、ウィリアムズは広東にきた最初の米国人宣教師ではない。彼の到着の3年前の1830年にリヤ・ブリッグマン(Elijah C. Bridgman, 1801-61)が広東にきていた。ブリッグマンもモリソンから中国語を習っている。ブリッグマンは、中国人が知的興味に乏しいと歎いていた(Lazich, Michael C., E. C. Bridgman(1801-1860): America's First Missionary in China, The Edwin Mellen Press, 2000, p. 112)。

 中国人の知的興味を喚起するには、キリスト教の中国語訳をもってするしかないと考えた、ブリッグマンとモリソンは、広東にモリソン出版を設立することにした。

 
これに、米国の伝道局(the American Board)が賛成し、在広東の米国商人のD. W. C. オリファント(Olyphant)が資金を提供した。Chinese Repositryが1832年5月に発刊することになる。月刊であった。

 1833年からウィリアムズもこの編輯に参画した。もちろん、清政府による妨害が頻発した。1834年8月、ウィリアムズは、出版社の継続は不可能であると米国伝道局に手紙を送っているThe Life and Letters, op.cit., pp.76)。

 しかし、同時に、ペリー提督の日本での交渉に多大の期待を表明していた。砲艦外交とキリスト教の布教が軌を一にしていたことをそれは雄弁に物語っている。ぺりーの日本への来航の直前に米国伝道局に宛てた手紙には以下のことが書かれていた。

 「現在、この地(広東)には、多数の艦隊が待機している。ペリー提督がまもなく日本を訪問するであろう。将軍と会見し、米国の鯨取りたちを文明的に取り扱うという条約を結ぶように説得するであろう」(ibid., p.181)。

 この時点で、ウィアムズは、日本においてペリーの通訳を務める気持ちになっていた。

 そして、一切の威嚇をせずに平和的な条約を交わせたし、その文面は自分が書いたことを誇らしげに語っている(Williams, S. W., A Journal of the Perry Expedition to Japan, 1853-1854, ed., by Williams, F. W., Kelly & Walsh, 1910, pp. 224-25)。ただし、ウィリアムズは代表者/
大学頭・林韑(はやし・あきら9を「リン」と発音したままであった。

福井日記 No.124 アヘン戦争と南京条約

2007-06-26 01:05:30 | 福井学(福井日記)

 日本でキリスト教伝道において巨大な足跡を残したS. W.ウィリアムズ(Williams, 1857-1928)が、伝道、そしてその任務遂行のために、中国語学習者であったことは、当然であるが、彼はまた有能な外交官でもあった。

 彼の息子のフレデリック・ウェルズ・ウィリアムズ(Frederic Wells)による父の伝記には、副題として、伝道師(Missionary)、外交官(Diplomatist)、中国研究者(Sinologue)という単語が使われている(Williams, F. W. Williams, The Life and Letters of Samuel Wells Williams, LL.D.: Missionary, Diplomatist, Sinologue, G. P. Putnam's Sons, 1889)。

 彼は、1833年、米国海外伝道事務局(the American Board of Commissioners for Foreign Missions)の広東通信員として広東に派遣された。

 
その後、30年以上に亘って、中国と日本の開国のために奮闘した。そして、1856年、在中米国公使館に職員兼通訳として採用された。北京大学と復旦大学とエール大学が学術提携したさいに、彼の功績が称えられた(Tao, De-min, "The Charitable Man from Afar: A Reappraisal of S. W. Williams'(1812-1884)Involvements in the Mid-19th Century East Asia; http://www.sal.tohoku.ac.jp/^kirihara/public-html/cgi-bin/shibusawa/Tao.pdf)ことから類推しても、彼の中国における存在は大きかったと思われる。



 1854年の神奈川条約をペリー提督(Commodore Perry)が結んださい、ウィリアムズが通訳を務めた。

 
そのことに、ペリーは、1854年9月6日、香港から、感謝の手紙を彼に送っている。日本における成功は、貴方(ウィリアムズ)の類い希な素晴らしい通訳と知識のお陰であるというのである(Williams, F. W., ibid., pp. 229-30)。さらに、ペリーが帰国後、交渉経過を作成するときに、ウィリアムズの協力を強く要請している(1855年3月13日、ibid., p.231)。

 1856年から20年間、ウィリアムズは中国で外交的な仕事に携わった。米中間の1858年の天津条約(the Tientsin Treay)締結に大きく貢献する。ウィリアムズは、条約の中に、キリスト教布教の自由を挿入させたのである。

 キリスト者としの使命感は理解できる。しかし、後の中国に対する列強の植民地的政策を定着させた天津条約の中身について、ウィリアムズは良心の呵責を感じなかったのであろうか。キリスト信者を中国で増やすことができれば、帝国主義の暴虐を神は許してくれると信じきっていたのであろうか。



 天津条約に至る経緯をかいつまんで説明しておこう。

 清は、嘉慶元(1797)年、アヘンの輸入禁止令を出す。
 
中国からの銀流出が、銅に対する銀価値を高め、契約が銀、支払いが銅であった中国経済に物価騰貴をもたらし、経済破綻の様相を呈していた。銀建契約の下で、銀高騰・銅減価という状況は、通常の使用貨幣が銅貨であるために、中国民衆が支払わなければならない銅貨数が増えることになる。これは物価高騰である。

 アヘンの輸入激増が中国国内から銀貨流出を引き起こし、その結果、銅貨に換算した深刻な物価騰貴が進行してしまう。銀貨1枚が銅銭1000文であったのに、2000文に高騰したのである。もちろん、アヘン吸引による人間の廃人化が進む。こうした状況を阻止しようとしたのが、1797年のアヘン輸入禁止令であった。

 「弛禁論」といった妥協策も検討された。現実的にもアヘン輸入を禁止するのは困難なので、むしろ、輸入を認めて輸入関税を高くすればよいという類の現実妥協論がそれである。しかし、当時の皇帝はそうした妥協策を退けた。当時の道光帝は、林則徐を欽差大臣(特別任務を帯びた皇帝任命大臣)に任命して、アヘン吸引者の死刑を内容とするアヘン取り締まりの任務を林則徐に託した。



 林則徐は、道光19(1839)年、アヘン商人たちに、アヘンの中国持ち込みをしないという誓約書の提出を命じた。そして、英国のアヘン商人たちが持ち込んだアヘンを没収し、消却した。

 因みに、日本の史学者の多くは、東インド会社への反感が強すぎて、これらアヘン商人たちを自由貿易を行う私商人として賞賛した経緯がある。ジャーディン・マセソンやグラバーへの無神経な賞賛も軌を一つにしたものである。とくに、東大系に多かった。私の処女作はこのことへの反発から始まっている。長い長い私の研究はアヘン貿易の検討から始まった。




 林則徐はアヘンに海水と消石灰をかけてアヘンの毒素を中和した。この化学反応には煙が出ることから、林則徐がアヘンを焼却したという誤解が常識になってしまった。林則徐が英国アヘン商人から没収したアヘンは1400トンを超えた。そして、誓約書を出さないアヘン商人を港から退去させた。

 英国の監察官のチャールズ・エリオットは、退去しようとする英国船を押しとどめて、林則徐に抗議した。米国船は誓約書をいち早く提出して、広東貿易の独占権を確保しようとした。これに英国が反発したのである。エリオットは軍艦を出して林則徐を威嚇した。林は動じなかった。

 1839年、エリオットは武力行使に出た。広東港にいた清国の船はことごとく破壊された。後に首相になるが、当時は野党であったウィリアム・グラッドストーン、「こんなに恥さらしの戦闘はない」と反対したが、清への出兵費用は、英国議会で、賛成271票、反対262票で承認された。

 
英国の艦隊は、広東ではなく、首都北京に近い天津に急行した。これに驚愕した清政府は、林則徐を解任した。

 1840年1月7日、英国艦隊は中国各地を砲撃した。そして、1842年8月29日、江寧(南京)条約によって、清国は多額の賠償金の支払い、広東・廈門(アモイ)・福州・寧波(ニンポウ)・上海の5港が開港させられ、翌年(1983年)の虎門寨追加条約によって、清は英国に対して、この地域での治外法権を認め、清側の関税自主権の放棄、英国の最恵国待遇を認めさせられた。アヘンに関する条文はなかった。英国も歴史に残る公式文書にアヘン貿易の自由化といった恥ずべき文章は残せなかったのであろう。

 他の列国は、これに便乗した。米国は望廈条約、フランスは黄埔条約を結んだ。内容的には南京条約と同じであった。

 清国高官は、事態を深刻に受け止めていなかったのかも知れない。しかし、林則徐は非常に正確に事態の深刻さを認識していた。



 彼を崇拝する部下の魏狄(この名を見てもただ者ではないことが分かる)は、『海国図誌』を表し、西欧の技術を修得して、西欧を倒すという「夷の長技を師とし、以て夷を制す」というスローガンが出され、以後のアジアの政治的指導者の共通認識となった。

 当然、この書物と、アヘン戦争(*)の結末は清国商人によって日本に伝えられてた。しかも、日本の学問を支えていたのが、英米仏からの圧迫に呻吟していたオランダの知識人であった。この歴史の偶然から日本はどれほど恩恵を被ったか。英米に跪く、旧幕臣・明治新政の高官に対して、事態の正確な認識を訴えていた蘭学を修めた知識人たちの苦闘を私たちはもっと遡及的に研究すべきである。

(*)動画あり(上記をわかりやすく説明したプレゼン動画です)

福井日記 No.123 モリソン 

2007-06-25 00:53:16 | 福井学(福井日記)


 ロバート・モリソン(Robert Morrison, 馬禮遜、1782-1834)は、スコットランド長老教会派の牧師であり、プロテスタントとして最初の中国での伝道師である。

 1807年、中国で宣教しようと願うが、中国行きのイギリス東インド会社の船に乗船を拒否され(当時の同会社は宣教師の乗船を好まなかった)、やむなくニューヨーク経由で中国を目指すことにし、1807年5月12日、トリデント号(the Trident)でニューヨークを出発し、同年9月4日にマカオに到着した。



 しかし、マカオでも、カトリック教によって、布教を禁じられ、広東郊外の13行(英国商社)の居留地に向かう(1807年9月7日)。しかし、馴染めず、病気になって1808年6月1日、マカオに引き返す。

   しかし、その間に北京語と広東語を修得した。マカオで最初の妻(Mary Morton)と遇う、1809年2月20日に結婚、再度、単身で広東に向かう。当時の広東では外国の女性の居住が禁じられていたからである。広東でイギリス東インド会社に雇われる。




 広東での布教活動中に、聖書の中国語訳を12年かけて、英中辞書を16年かけて作成した。ただし、広東では外国人が中国語を学ぶことと、キリスト教関係の書物を中国語で刊行することが禁じられていた。そのために、モリソンは、マラッカに移住し、印刷所を作った。1818年には中国人とマレー人の子供を対象とした学校を設立した(the Anglo-Chinese College)。



 この学校は香港の英国領有とともに、1843年香港に移設された(ただし、モリソンンの死後)。この学校は、いまでも英華書院(Ying Wa Collrge)として香港にある。



 また、シンガポールのラッフルズ学院(Raffles Institution)も、設立後すぐ、モリソン・ハウスと呼ばれるようになった。これは、中学校で、名門中の名門である。1823年にラッフルズが創設した。ラッフルズは、モリソンを崇拝していた。



 モリソンは、1834年、広東で客死した。墓所は、マカオのオールド・プロテスタント・セメトリー。墓碑銘を拾い読みする。

 「最初の中国伝道者。この地で17年間、神の王国を広げる。中国語辞書を作成。マラッカに英華学院を創設。一人で数年かけて聖書の中国語訳を作成。1807年、ロンドン伝道協会(the London Missionary Society)によって中国に派遣された。東インド会社の雇用人として25年間、通訳として勤務。1834年8月1日、広東で死去」。

 膨大な著作を残している。詳しい著作の一覧は、英文のWikipedia(Robert Morrison)参照。

 幕末の日本に巨大な影響を与えたモリソン号事件の船、モリソン号は、もとより、モリソンの名に因んだものである。この船は、ゴスペル・シップ(福音の船)と呼ばれていた。建造したのは、当時、広東貿易で巨利を得ていたオリファンド商会の共同経営者、C.W.キング(King)である。アヘン貿易で巨利を得ていた他の英国商社と異なり、キングは、林則徐と協力して、アヘン廃棄に立ち会っている(『有鄰』第445号、平成16年12月10日、p.3、http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_445/yurin3.html)。

 当時の米国の宣教師たちが、アジアの地にくるさいには、ほとんどこのモリソン号を使用していた。この船は、宣教師たちに無償で提供されていたのである。

 先述の、日本人漂流民7名を伴って、モリソン号が、江戸を目指して、マラッカを出港した日は、米国独立記念日の1837年7月4日であった。キングも同乗した。船の装備からすべての武器が撤去されていた。丸腰であることをアピールしていたのである(同上)。

 キングは、漂流民を日本に送還するだけだと弁明していたが、送還するだけなら、日本の領土ならどこでもいいはずであった。わざわざ江戸を目指したのは、布教の自由とキング自身が通商権を得たかったのであろう。



 既述のように、モリソン号には、S. W. ウィリアムズ、K. F. H. ギュツラフ、P. パーカー(Parker)等の宣教師たちが乗船していた(Cary, Otis, A History of Charistianity in Japan, Vol. II, Tuttle, 1976, p. 14)。

 19世紀半ばまでに、プロテスタントの布教活動ができなかった地域は、アフリカ奥地と日本のみであった。米国の伝道教会の日本への関心は異常なほど高かった。ペリーは言った。

 「(日本人が)キリスト教徒の仲間たらしめる日の明け初めんことを」(土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』(1)岩波書店、1948年、24ページ)。

 しかし、それは、純粋なキリスト教精神の発露ではなかった。米国は、1846年にオレゴン、48年にカリフォルニアを武力で領有した。西へ西へと向かうことが、米国の支配者の共通の野望であった。「全世界を巡って、すべて主によって造られたものに福音を伝えよ」という聖書のマルコ伝16章1節の言葉が、悪辣な暴力的奪取の言い訳になった。我々は略奪しているのではない。キリストの真理を伝えているのだと。

 東アジアでは、捕鯨の隆盛(いまは、米国は日本の捕鯨を非難している)、広東貿易の巨大な魅力が米国の支配者をして、宣教師を最大限利用した。それは組織的であった。考えてもみよ。多くの宣教を野蛮なアジアに派遣する費用を誰が出し、彼らの身の安全を誰が守ったのか。それにしても、日本のキリスト教史研究の、いかに、悲しいほどの牧歌主義か。

 少なくとも、信夫清三郎編『日本外交史』(1)毎日新聞(1874年)のような研究は、希有の存在である。

 キングは、キリスト教布教を通じて、日本との通商関係を強化しようとした。だからこそ、大量の宣教師を自分の建造した船、しかも、カリスマのモリソンの名を最大限利用した船で、運んだのである。キングは商社の経営者であった。この点、とくに強調されるべき論点である。

 モリソン号事件に関するかぎり、キングは失敗した。しかし、彼は言った。
 「よしかかる企図が個人の努力で出来なくてとも、合衆国政府は本問題を採択して日本通商の為の国力を以て日本の開国に対処しなければばらない。・・・基督教の聖書其の他の書籍を日本語に訳出して、何等かの方法で日本国内に配布し、日本国民に真の開国の意義を知らしめ、自由通商の門戸を開かしむる様努力をしなければならぬ。福音の光のみがそれをなし得る」(高谷道男『ドクトル・ヘボン』牧野書店、1954年、79~80ページ)。

 中国で伝道した宣教師たちが、非常に多くの中国語による宗教書を出した背景には、将来、日本で布教すべく、日本人が当時は読めた中国書を多数出版することによって、日本人に読んでもらうことを意識していたのではないだろうか(町島豊「明治前期キリスト教女学校史管見―プロテスタント宣教師の開拓者的役割―」http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf).。

 


福井日記 No.122 郭実猟

2007-06-20 11:29:22 | 福井学(福井日記)

 世界最初の英和・和英辞典は、1830年バタビアでメドハースト(Walter Henry Medhurst 麥都思, 1796 - 1857)が編纂した『英和和英字彙』である。



 メドハーストは、オランダ伝道教会の伝道師で、今後、オランダから派遣されるであろう宣教師たちのために、バタビアで、アジア各国の言語を学んでいた。

 日本語は、オランダ東インド商会から借りた日本語文献から学んだ。



 この辞書を頼りに、日本初の聖書和訳を試みたのがギュツラフ(Karl Friedrich Ausut Gützlaff, 1803-51)である。



 ギュツラフは、北ドイツのポンメル(Pyritz, Pomerania)に、織物会社の子として生まれた。1820年ハレ(Halle)の神学校(Padagogium)、1821年、イェニッケが設立したベルリンの宣教師養成学校(Janike Institute)に転じ、神学と医学を修めた。

 そして、1824年、ロンドンで中国伝道で著名な聖徒モリソン(Robert Morrison 、馬禮遜; 1782- 1834)に出会う。

 
モリソンに感動したギュツラフは、オランダ伝道教会宣教師としてバタビヤに赴任、メドハーストの家に寄宿し、そこで、中国語とマレー語を学んだ。天保3(1832)年、琉球に到着。1834年、モリソン没。



 モリソンは父子ともに中国で活躍した。アヘン戦争との関わりも深い。Godを神と訳すか、上帝と訳すかで一大論争があった(柳父章『「ゴッド」は神か上帝か』岩波文庫、2001年)。

 ギュツラフは、1835年、英国商務庁の主席通訳官として採用され、マカオに滞在。そこで、尾張小野浦の猟師たちを保護する。彼らは、1832年秋、江戸に向かう途中遭難、1834年北米に漂着、ハドソン湾会社に拾われ、ロンドン経由でマカオに送り込まれた人たちであった。

  小野浦は愛知県知多半島美浜町小野浦が現在の地名で、日本最初の聖書翻訳に貢献したとして、これら猟師たち(岩吉、久吉、音吉)の顕彰碑を日本聖書教会が美浜町字福島に建てている。

 ギュツラフは、彼らの力を借りて、怪しげな日本語ではあるが、日本最初の聖書和訳『約翰福音之伝』、『約翰上中下書』を1837年、シンガポール堅夏書院から木版刷で出版している。



 
前書は、同志社大学などに7冊が日本に保存されているが、後者は日本にはない(解説がある。高谷道男・秋山憲兄解説、ギュツラフ訳『約翰福音之伝・約翰上中下書』覆刻版別冊、新教出版社、1976年。海老澤有道『日本の聖書』講談社文庫、1964年)。

 ギュツラフは、有名なモリソン号事件の当事者でもある。モリソン号事件というのは、1837年7月、7名の日本人漂流民(先の尾張の3人と新たに肥後の4名)をオリファント商会の船、モリソン号で日本に送ろうとしたが、浦賀港で激しい砲撃を浦賀奉行と薩摩藩から受け、撤退する運命になった事件を指す。砲撃は異国船打ち払い令に基づく。

 新しい4名とは、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松で、1835年11月、天草を出向し、長崎に向かっていたが漂流して、1836年ルソン島に漂着、スペイン官憲に保護され、オリファント商会の好意によって、マカオに送られ、ギュツラフの家に引き取られていたものである。浦賀で砲撃されたモリソン号は、マカオに帰港した。



 ギュツラフは、日本での伝道を夢見て同船に乗り込んでいた。S. W. ウィリアムズも同乗していた。


 モリソン号は、軍艦ではなかった。そのために、異国船打払令の安易な適用に対して日本側でも批判が高まった。



 とくに、『慎機論』を著した蘭学者の渡辺崋山、『戊戌夢物語』を著した高野長英らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件(蛮社の獄)が起こった。

 1839年のアヘン戦争以降、ギュツラフは、外交上の顧問、通訳として中国に滞在、中国名を郭実猟として、1844年、中国人の伝道師を養成する学校、「漢会」(Chinese Union)を設立。欧州に一度帰国し、中国での伝道の必要性を謳え、再度、中国にやってきたが、1851年、香港で客死。

 ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 1812-84)も中国での伝道のために、衛三畏と名乗った。ニューヨーク州ユーティカ生まれ、1833年アメリカン・ボード宣教師として広東に到着(1833年)、ミッション系の印刷所に勤務の傍ら布教活動。しかし、中国官憲から布教を禁止され、1835年マカオに移住、そこで、ギュツラフと知り合い、彼の家に寄宿し、すでに、同宅で寄宿していた件の日本人7名と知り合った。浦賀で追い返された後、天草漂流民の3人を印刷所で働かせ、彼らから日本語を学び、彼もまた、聖書の和訳を行っている。『馬太福音伝』がそれである

 ウィリアムズは、ペリーが来航したとき、通訳として同行している。その手記が、洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』雄松堂、1970年、である。

 1859年、日本の開国とともに、S. R. ブラウン(Samuel Robbins Brown, 1810-80)が日本に来航する途中、香港でウィリアムズと再会(最初は、後述のように、マカオで、ウィリアムズの家に寄宿)した。このときに、ウィリアムズは、ブラウンに自らの訳本の写しを手渡した。



 
写しというのは、1856年に、マカオの印刷所の火事によって、ウィリアムズの自らの稿本が消失していたからである。しかし、この写しも、1867年、ブラウン宅の火災のために消失。気か滴に1850年の庄蔵写本のみが残された。

 ウィリアムズは、長崎にもきている。その地で、サイル(E. W. Syle)、ウッド(H. Wood)
と連名で、米国の3つのミッション本部、つまり、聖公会(Anglican Episcopal Church)、長老教会(Presbyterian Church)、改革派教会(reformed Church)の伝道部に日本への宣教師派遣を訴え、以後、陸続と日本に宣教師が派遣されることになった。

 聖公会からは、J. リギンズ(Liggins)、C. M. ウィリアムズWilliams)、長老教会からJ. C. ヘボン(Hepburn)、D. トムソン(Thompson)、改革派教会からC. R. ブラウン(Brown)、D. シモンズ(Simmons)、J. H. バラ(Ballagh)、フルベッキたちが来日した(http://www.christ-ch.or.jp/4_torinashi/back_number/2003/2003.06.pdf)。
 ウィリアムズは、1876年、エール大学で東洋近代史・中国語教授となり、米国聖書協会会長を務め、1884年72歳で没した。 

  ブラウンもまた、米国のオランダ改革派教会派遣の宣教師である。コネティカット州イースト・ウィンザーに生まれる。ピルグリム・ファーザーズの子孫である。母、フィーベは、賛美歌319版の作者である。エール大学、ユニオン神学校卒、ニューヨーク市の長老教会に属した。中国モリソン記念学校(マカオ)長も務める。マカオ(ウィリアムズの家に寄宿)、香港に移り、8年間の中国での伝道の後、日本で伝道することになった。

 シンガポールでブラウンに出会い、それが機縁で20年間も一緒に日本で伝道することになったのが、ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)である。



 ヘボンは、米国長老派協会派遣の医者である。
米国ペンシルバニア州ミルトンに生まれる。プリンストン大学、ペンシルバニア大学医学部卒、ミルトンの米国長老派教会に入る。1841年東洋に向かったヘボンは、シンガポールでギュツラフの『約翰福音之伝』を入手、マカオのモリソン校からきていたブラウンと知り合う。シンガポールで中国語を学んだ後、1843年マカオに移り、その地でウィリアムズから中国での伝道方法を学び、アモイに移り、医療伝道に従事したが、夫人の病気で1845年一時帰国。1859年、日本開国とともに、同年10月来日、神奈川の成仏寺に住む。同年11月ブラウンも来日。聖書翻訳に両者は従事。格調の高い日本文を目指した。

 そして、1867年5月『和英語林集成』出版、8年間の労苦。明治20(1887)年、壮大な翻訳作業完了。じつに20年に亘るヘボンの辛苦。ヘボンは1889~91年明治学院初代総理、92年帰国。1911年ニュージャージー州イーストオレンジで没す。
 以上の資料は、ttp://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/kato6/kato_6.htm;  http://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/kato7/kato_7.htm

 日本最初のプロテスタント教会は、1872年に設立された「横浜(耶蘇)公会」(現・日本キリスト教会横浜海岸教会)である。これは、米国オランダ改革派(現RCA)の宣教師、フルベッキ、ブラウンおよびバラによる。

 また、米国長老教会の宣教師ヘボンおよびルーミスによる1874年創立の指路教会(現・日本基督教団横浜指路教会)は、明治初期のキリスト教伝道基地となり、横浜バンドと呼ばれた。

 日本におけるプロテスタント全教派の一致と協力を理想とした合同教団「日本基督公会」(1874)の構想が出され、それを踏まえて、米国オランダ改革派、米国長老教会、スコットランド一致長老教会の宣教師たちが、1877年に設立したのが、日本最初の改革・長老教会教団である「日本基督一致教会」である。

 日本基督一致教会は、日本基督公会の理想を再現すべく組合教会との合同を画策するがこれは不成立に終わる。それが決定的になったのち、日本基督一致教会は長老制に立つ改革教会としての憲法および規則の刷新を行い、1890年に「日本基督教会」(旧日基)と改称した(ウィキペディアより)。

福井日記 No.121 フルベッキ

2007-06-18 23:38:06 | 福井学(福井日記)

 フルベッキは、彼自身が、日本人に発音しやすく、フルベッキと自称したが、正しくは、グイド・ヘルマン・フリドリン・ヴァーベック(Guido Herman Fridolin Verbeek、1830~1898)である。オランダのザイスト市に生まれる。両親は、敬虔なルター派の信徒であった。モラヴィア教会で洗礼を受ける。同派の学校で蘭・英・独・仏語を習得し、ここで得た宗教的感化と語学力は生涯の活動の柱となった。

 ユトレヒトでエンジニアリングを学んだ。1852年、22歳の時、義兄の招きで渡米、ウィスコンシン州の鋳物工場で働く。1年後にニューヨークに移動、重症のコレラに罹ったが、完治した暁には宣教者になることを誓い、1855年、ニューヨーク州オーバン神学校に入学。

  安政4(1857)年、S. W. ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 中国名、衛三畏 、1812-1884)らによる日本宣教の呼びかけに応じ、米国オランダ改革派教会より最適任者として選ばれ、按手礼を受ける。

 按手(あんしゅ)とは「手を置くこと」である。按手礼は、神の祝福や力を伝えるための象徴的な行為であり、聖霊を受けることである。按手礼を授かって「正教師」となる。聖礼典(聖餐式と洗礼式)は正教師しかできないとされている(http://church.ne.jp/chitose/minister.html )。


 フルベッキは、安政6(1859)年にブラウン(Samuel Robbins Brown, 1810-1880)、シモンズ(Danne B. Simmons, 1834−1889)の3人で長崎に着いた。



 ブラウンは、米国オランダ改革派教会派遣の宣教師。コネティカット州イースト・ウィンザーに生まれる。アメリカ開拓のピルグリム・ファーザースの子孫であり、敬虔篤信な母フィーベは讃美歌319番の作者。1932年エール大学卒業。ユニオン神学校に学び、ニューヨーク市の長老教会に属した。選ばれて中国モリソン記念学校長となる。1839年マカオ、のち香港に移り、8年間中国青年のキリスト教化に尽くしていた。

 シモンズも、オランダ改革派教会の派遣宣教師兼医師とし到着した。しかし、翌年の春には宣教師を辞して、完全なる医師としての道を選び、居留地82番に開業した。



 フルベッキは、長崎で済美館の英語教師を務め、元治元(1864)年、校長となる。このとき、大隈重信副島種臣が塾生であった。フルベッキに惚れ込んだ大隈重信は、慶応2(1866)年、長崎に設けられた佐賀藩の致遠館にフルベッキを招き、自らも学び・教える。

 また、オランダで工科学校を卒業した経歴から、工学関係にも詳しく本木昌造の活字印刷術にも貢献している。来日時、長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。上野彦馬が撮影した写真県立長崎図書館に残っている。

 明治2(1869)年、大隈の招きで、上京して開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となった。

 フルベッキは、同年、明治政府の顧問となり、政府の諮問に答え献策した。大隈重信に手渡したBrief Sketchは、信教の自由やその他の理解のため政府高官が直接欧米を視察するように建白したもので、岩倉使節団の米欧派遣の素案となった。また太政官顧問としてのフルベッキは主に各国の法律の翻訳や説明にあたった。

 その後、東京一致神学校(明治学院の前身)や学習院の講師となる、明治19(1886)年、明治学院の創設時に理事として関わり、明治学院神学教授、明治学院理事会議長などを歴任した。

 明治20(1887)年、年明治学院の教授時代にフルベッキは、A Synopsis of all the Japanese Verbs. with Explanatory Text and Practical Applicationという、日本語の動詞活用の本を横浜Kelly & Walshから出版している。

 明治20(1887)年12月31日、『旧約聖書』の日本語訳が完成した。この中で「詩篇」と「イザヤ書」はフルベッキの名訳と言われている。

 
また宣教師として日本各地を伝道して歩き、余暇には数々のキリスト教入門の書を出版した。『人の神を拝むべき理由』もその一つである。

 フルベッキは7男4女をもうけた。息子のギュスターヴ(Gustave Verbeek, 1867-1937)は米国に渡り、ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家となった。

 孫のウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック(William Jordan Verbeck, 1904-)は陸軍士官学校を卒業後、米陸軍第24師団歩兵第21連隊長として太平洋戦争に従軍、レイテ島・リモン峠で第一師団と戦った。彼については、大岡昇平の『レイテ戦記』に紹介されている。



 明治政府の教育制度の出発点となった「学制」の立案については、政府顧問であったフルベッキの貢献が、森有礼のそれと共に大きなものであった。


  しかし、その具体化の段階において、政府内に深刻な意見の対立が生じた。井上馨らは、有力政治家で構成された岩倉使節団の留守中に、重大な改革を実施すべきではないと反対し、一方の大隈は即刻の学制実施を主張した。その結果、明治5(1872)年6月、案文が成立したが、この段になって再び閣内で方針対立が顕在化した。案文を直ちに実施したいと考える大木喬任(たかとう)ら文部省側に対して、井上馨ら大蔵省側は、国庫が逼迫しているので実施を急ぐべきでないと強く反対した。

 大隈が強引に押し切り、四民平等かつ女性をも対象にした「学制」に結実した。この「学制」は余りにも理想的に過ぎて、7年後には「教育令」にとって代わられたが、フルベッキが大きく関わっていたのである(『早稲田学報』2002年11月号『大隈重信の義務教育実施への貢献』、http://www.waseda.jp/jp/okuma/educator/educator03.html )。

 このフルベッキが、福井での教育を行う人材の派遣を米国オランダ改革派教会に要請し、グリフィスが志願したのである。



 そして、甥の兄弟をフルベッキに預け、米国に留学させた横井小楠との推薦で、松平春嶽もグリフィスの招聘に同意し、ここに、福井とグリフィスとの接点ができたのである。