消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

ギリシャ哲学 05 神政政治

2006-06-29 23:52:19 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)


エドアルト・マイヤー『古代史』第3巻「ペルシャ帝国とギリシャ人たち」(1901年)
によれば、アテネのデルフォイ神託は、ギリシャ世界の最高の権威である。その祭司たちは、ペルシャに屈服することをアテネで画策していたという。もし、この路線が実現すれば、以後、アテネは神政政治の呪縛に苦しみ、以後の西洋の基本にはなりえなかったであろうと、マイヤーは言う。

「ギリシャ世界の最高の権威であり、一般的に受け容れられる精神的ならびに政治的指導の役割を手にしていたデルフォイの神託は、これに反対の考えをもっていた」(同上)。

反対の考えとは、アテネを中心とする市民共同体国家の対ペルシャ徹底抗戦の決意である。大まかにいって、ポリスには、神託を司る祭司、武装勢力、武力をもたない平凡な市民といった区分があった。徹底抗戦は、武装勢力の方針であり、市民はその方針に同調していた。こうした動きに対して、デルフォイの司祭たちは、ペルシャとの同盟を指向していたのである。

「デルフォイの祭司たちにとって、ペルシャ軍は優勢であってそれに対する抵抗は無駄だということは、疑いの余地がなかったのである」。
「ペルシャはけっしてギリシャ民族を絶滅する戦争を仕掛けたのでなかった。ペルシャは、ギリシャの神々と聖域を尊重し、個人の所有や権利と動揺に都市にも手を触れないつもりでいた。(ギリシャ人が)従順さを保ち、上位の支配者に貢租をきちんと納め、高位での政治に参与することをあきらめるかぎりにおいては、(支配者であるペルシャが保証する)もろもろの共同体の心地よい穏やかさについては、ほとんんど何の変わりもなかったのである」


マックス・ウェーバー『古代農業事情』(初版1898年)の1909年改訂版では、

「ペルシャ戦争さえもが ―マイヤーが賢明にも考えたように ―神政政治的な動向と、ギリシャ文化の『世俗性』との間の決戦と見られる」と記されている。

総じて、古代オリエント世界、つまり、メソポタミア、バビロニア、イスラエル、エジプト、ペルシャの諸王朝は、強力に組織された祭司神政勢力の支配下にあった。もし、ペルシャにギリシャが支配されれば、ギリシャ・ポリス国家もまた、デルフォイ神殿を中心とする祭司階級に支配され、オリエントを同列の世界に組み込まれていた可能性が強い。
 アイスキュロスは、ペルシャ戦争に参加し、その体験を元に書いた悲劇『ペルシャ人』で、ペルシャ人が、ギリシャの聖域と神像を破壊することを目的としていたものとして描いた。これに対して、マイヤーは反論した。

「(アイスキュロスの信念は)事実と相違している。確かに、抵抗があったところでは、ペルシャ人は町と寺院を焼いた。しかし、そうでないところでは、彼らはギリシャの土地を荒廃させ絶滅させようとはしなかったのであり、ただ服従させようとしたのである」。

ここから、マイヤーは重要なことを書いている。

 「(ギリシャ人の)民族的な聖域は、ペルシャの支配にとって最良の支柱であった。デルフォイ神は、ペルシャと与したギリシャ諸族からなる『隣保』(アンフィクティオン)同盟に最高の神聖神として関わったばかりでなく、熱心にペルシャのために働きかけた。クセルクセス大王がデルフォイの聖域を略奪するなどというようなことは、考えるはずがないのだ」。

ペルシャは、ギリシャの既成の宗教と連携し、その権威を借りることによって、ギリシャ人を支配しようとしていた。デルフォイ神託は、全ギリシャの隅々まで最高の影響力を保持していた。デルフォイの祭司たちは、吟遊預言者、星占術師たちの心のよりどころであったし、占い師たちは民衆からの信頼を得ていた。そして、ペルシャは彼らと密接な関係を保っていたのである。

 ペルシャ人たちが利用しようとした宗教の権威に頼るギリシャ支配は、宗教の中身はなんでもよかったのである。ただ、その宗教が民衆にとっての最高の権威でありさえすればよい。これは、エジプトやユダヤで実施されていたものである。

 支配的地位に祭り上げられた祭司は、カリスマ的個性に依存するのではなく、体系的神学の構築を権力側から要請されるようになる。この点についてマイヤーは次のように言う。

「最後には、単一の教会と首尾一貫した神学大系が、ギリシャ人の生活と思想に首枷をはめ、あらゆる自由な活動を束縛するようになったであろう。こうして生まれた新たなギリシャ文化は、オリエントと同じく、神学的・宗教的刻印を捺されることとなったであろう。
外国人支配、教会、神学の同盟は、ここギリシャでも、国家ととともに、人間生活と人間的活動の最高の地域へと、ギリシャが発展してゆくのを、永久に妨げたであろう」。

マックス・ウェーバーの『支配の社会学』(創文社、1962年)は、このマーヤーの仮説に大きく影響されて書かれたものである。デルフォイ神殿がギリシャ人にペルシャへの屈服を勧めていたことをウェーバーは、「いささか奇怪な行動」として、その意味を分析しようとしたのである。

ウェーバーによれば、ペルシャの対ギリシャ支配は、世俗的政治権力としての国王が、教権制支配として宗教的権威としての祭司層と手を結び、比較的おとなしい商工業市民層を抱き込み、こうした三者連合によって、もっとも権力に牙を剥く軍事的貴族層を圧殺しようとした。ウェーバーは言う。

 「市民的勢力と宗教的勢力との間の一般的親和性は、両社の一定の発展段階において典型的に見られる減少である」(「政治的支配と教権的支配」)。

私が、最近、米国のネオコンの基盤である福音主義的メガ・チャーチの存在を重視している意味もこの点にある。

今回も、いいだもも氏の叙述の咀嚼の試みである。


ギリシャ哲学 04 ファシズムに傾斜しがちなプラトン主義者

2006-06-28 23:51:07 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
万人が万人と顔見知りであり、歩いても一日で全域を見渡せる古代民主主義国家、アテネ。アテネが、ペロポネソス戦争を経て疲弊し、無政府状態の末に大衆扇動家に手にかかって、僣主制へと滑り込んで行く危機的状況において、プラトンが認識したのは、民主制の宿命的な不安定性であった。実際、危機に権力が追いやられる時、民主制とは、国家形態の中で、もっとも市民的連帯性が弱い体制として、権力者は受け取ってしまう。

 プラトンの時代、アテネは、エーゲ海上の覇権を失っていた。貴族の権力基盤である土地私有制も揺らぎだしていた。自由・平等をスローガンとするポリス国家の法(ノモス)は機能せず、市民はエゴをぶつけあい始めていた。

 こうした民主主義の危機へのプラトンの処方箋は、『国家』(ポリテイア)で打ち出された。周知のように、哲人王が支配する独裁国家形態を、プラトンは、推奨したのである。プラトンは、絶対主義支配の秩序を志向していたのである。

 1931年、東大は、ハンブルク大学教授のクルト・ジンガーを招聘した。ナチス政権の成立とともに、東大は彼を解雇したが、彼は、仙台の二高で教鞭を執り、1940年、日本から退去を言い渡され、オーストラリアに移住したユダヤ人である。

 彼は、プラトンの理論の中に、ファシストを引きつける部分があることを容赦なく批判していた。彼は、プラトンの哲学が学問的関心からではなく、国家的精神を形成するためのものであることを喝破した。

 「彼、プラトンは、都市を樹立し、秩序づけ、法を与え、再建し、市民共同体を純化し、確固たらしめようとする。・・・人間、国家、万物は、彼、プラトンにとって、同一の法に従って秩序づけられた同心円である。その円心において、法はもっとも純粋に把握され、もっとも美しい形で直視される。・・・この円心をめぐってすべての思想、行為、知覚、魂、精神が秩序づけられており、国家によってはじめて人間は万有の中で自らを満たし、万有は人間の中に現れる。その仲介者は哲学者である。『饗宴』は、彼(プラトン)をデーモンの形で示し、地上的なものと天上的なものとを媒介し、万有を結びつける」(Singer, Kurt, Platon der Gründer, München, CH Beck, 1927)。

 秩序崩壊に怯える権力者たちが、自己の正統性の補強に、プラトンをつねに使ってきたのは、ジンガーが指摘したプラトンのもつ哲人国家論である。

 1942年、軍部ファシズムが最高潮に達していた時、東大の南原繁は、敢然と、権力に媚びる日本のプラトン信奉者を批判していた。

 「彼ら(プラトン信奉者)が、プラトンの国家について理解するところは、神話的原始像以外のなにものでもなく、畢竟、国民の本源的国家生活としての生の共同体の思想である。現代ドイツのナチス等が、その掲げた政綱または現実の行動のいかんは別として、根底において要望するところのものに至ってや、必ずや以上の精神と相触れるものがある」(『国家と宗教』岩波書店、1942年)。

 「(プラトンをこのように解釈することが)現代に唱道される『全体国家』のよき範型として、人がこれをよく役立てるとしても、不思議はないであろう。けだし、現代に論ぜられる『全体国家』或いは『権威国家』について、これにも勝るような、深い精神的基盤は求め得ないであろう。それには本源的な統一状態として、もろもろの文化よりもさらに高い度合いにおいて民族本来の生の統一体の実在と、これに対する国民の信仰が前提されている。したがって、およそ、国家の価値を問うがごときは、すでに存するこのような本源的なものへの素朴な信仰の喪失を語るものでしかあり得ない。正義も、すでに見たように一つの国家的感情として非合理的な体(てい)の共同体の原理と解釈される結果、もはや、国家権力者の把握するカリスマ的権威と、これに対する国民の側からの信仰の関係があるのみである。言い換えれば、一方には支配する少数者の神秘的直感があり、他方には一般国民のこれに対する遵奉があるのみであって、人々は自己自らを知り、欲する事ではなくして、支配者の信条に対する絶対の服従が要求されるだけである。プラトンの解釈の非合理主義はここに至って極まると見ることができる」(同上)。

 私たちの日本で、ほんの半世紀前には、このような高尚な精神をもつインテリが、命をかけて文を書いていた。軍部ファシズムが社会を支配していた時に、このような文を書くことは、書き手は、想像を絶するほどの恐怖におののいていたであろう。しかし、南原の勇気が後世の私たちを勇気づけてくれる。学者とはこうありたいものだ。権力に阿(おもね)るニセ学者は、このような文に接することは生涯ないのいであろうが。それに、これから私が行おうとする宗教研究の方向性を南原はすでに与えてくれているすごい人を私たちはもっていたのだ。吉田茂によって曲学阿世*の輩と言われた南原は、さしずめ、プロタゴラスであり、南原を侮蔑した吉田こそ、プラトンであった。 

*(きょくがくあせい)曲学(真理をまげた不正の学問)をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとすること。

プラトンを全体主義の擁護者として厳しく断罪した人に、バートランド・ラッセルもいる(『哲学史』)。

 「プラトンは、ペロポネソス戦争初期の頃、前428~427年に生まれた。彼は富裕な貴族であり、僣主政治に関係した30人の人たちと親戚関係にあった。アテネがペロポネソス戦争でスパルタに敗北した時は、彼はまだ青年であって、その敗北を民主制度のせいにすることができたのである。彼の社会的地位や親戚関係というものが、彼、プラトンをして民主制を軽蔑させたということは、十二分にあり得ることである。
 彼、プラトンは、ソクラテスの教え子であって、ソクラテスには深い愛情と尊敬を抱いていた。しかも、ソクラテスはその民主制によって処刑されたのである。したがって、プラトンが、自分の理想とする国家の概略の形態を示すものとして、スパルタに目を向けたのは、驚くに当たらない。
 プラトンは、偏狭な自分の提案に、巧みな体裁をつけるだけの腕前をもっていたので、彼のその諸提案は、後世の諸時代を欺き通し、後世の人々は、彼の『ポリテイア』を、その提案が何を意味しているのか全く意識することなしに、ひたすら賞賛したのであった。プラトンを理解することではなく、プラトンを賞賛することがつねに礼儀正しいこととされてきた。これは、偉大な人々に共通する運命ではある。
 しかしながら、私の目的は、こうした態度とは対照的である。私は、彼を理解しようと願っているが、彼が、あたかも、現代のイギリスないしはアメリカにおける全体主義の擁護者であるかのように、できるだけ敬意を払うことなしに、彼を取り扱おうと思っているのである。
 プラトンの共和国が何を成就するのであろうかと考えて見ると、その答えは少なくとも退屈千万なものとなる。すなわち、その共和国は、ほぼ同数の人口をもつ国との戦争には勝利するであろうし、また、少数の人々の生活を保証するであろう。しかしながら、その国は厳格な体制のために、いかなる芸術も、いかなる科学も生まないであろうことは、ほとんど確実である。他の面でもそうなのであるが、この点でもプラトンの共和国は、スパルタに似たものとなるであろう。あらゆる名論卓説にもかかわらず、戦争をやる手腕と食うことに事欠かないということが、その国の成就しうるすべてなのである」。

 なんと、ラッセルのこの言葉が、現在の米国にダブって聞こえることか。

 カール・ポパーの『開かれた社会とその論的』(1945年)でも、第1巻は「プラトンの呪縛」である。そして、第]1章は、「起源と運命の神話」、「プラトンの記述的社会学」、「プラトンの政治プログラム」、「プラトンの攻撃の背景」という4つの章からなる。ポパーは言う。プラトンこそは、歴史信仰の中にイデア説を埋め込んだのであり、変化は悪であり、静止が善であると宣言したのであると。プラトンの全体主義的正義は、「政治的変化を止めよ」という命題と、「自然に戻れ」という命題から合成されていて、彼のイデア論は古い部族的ヒエラルキーへの回帰を謳っただけのものであると。

 プラトンの哲学のエッセンスを取り出すことは難しい。いかに、ファシスト的思想の持ち主であったとしても、プラトンは、少なくとも2500年以上の歳月を生き延びてきた巨大哲人であることに変わりはない。そうした大物を軽々にエッセンスだけにすることは無礼というものだろう。そこで、卑怯ではあるが、プラトン崇拝者によるプラトンのエッセンスを借用することにする。

 プラトンのエッセンスを書き抜いたのは、アレクサンドル・コイレである(コイレ、川田殖訳『プラトン』、みすず書房、1984年重版)。

 エッセンスは4つある。(1)時間を超越したイデアを認識する精神作用が重要である。これは、人間の諸活動の中でも最重要のものであり、経験や実証を超越したものである。(2)自然的世界は数学化できる。イデアとしての秩序を自然がもつからである。(3)思想とは、時間の経過につれてイデアという最重要の秩序世界の認識に辿りつく過程のものである。(4)思想は、混沌の世界から明晰な世界へと進展するものである。

 つまり、人間の経験的世界を超越したイデアという秩序、イデアという真理を科学的に認識すること、これが哲学の課題である。これが、プラトンのエッセンスである。

 見られるように、コイレのプラトンのエッセンス論がいかに新古典派的経済学の世界に極似していることか。

 今回も、あまりにも深くて、なかなか読み取ることができない、いいだもも氏の、スケールの大きい諸説を、私なりに咀嚼しようと試みた。そうした試みが終わった後、私はおずおずと自説を展開する所存である。しばらくは、いいだもも氏にくらいついておりたい。読者諸氏のいましばしのご寛容を乞う。

ギリシャ哲学 03 「消された伝統の復権」とは?

2006-06-27 23:45:23 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
このブログの名称を「消された伝統の復権」としたことの意味を説明しておきたい。

人間社会は、軍事的強国がつねに中心部となる。中心部の権力が、強大な軍事だけでなく、人々の信頼を得るだけの正統性をもち、揺るぎない自信をもち、しかも、自らの若々しさを意識できるとき、権力は、自分たちを成立させた周辺部、自分たちが屈服させた異文化をむしろ持ち上げて、その異国情緒を進んで摂取しようとする。こうして、周辺部の文化なり学問が、中心部の好事家から愛され、中心部のピラミッドの端っこの序列を与えられる。

 異文化は、権力にとって、なんとなく自己の有意差を意識させ、居心地の良さを認識させる、ささやかな刺激となる。つまり、権力が若々しいとき、異文化は自己の正統性を再認識させる媚薬となる。

 しかし、権力が衰え、人々からの信頼をなくしたため、剥き出しの暴力で反対者を弾圧しなければならなくなったとき、反対派がしばしば利用する異端者の言説の抹殺に衰えを感じる権力は取りかかる。ひからびた公認の言説と理論のみが神棚に祭り上げられ、反対派が求める非正統的言説は、異端として徹底的に貶められ、排除される。かつてのスターリン時代がそうであった。日本の軍部支配時代がそうであった。そして、いまや、歴史上世界最強の軍事力をもつ神国の衰えが人の眼から隠すことができなくなってきたとき、権力がしがみつく正統的言説の自己弁護の卑しさは、多くの非専門家が皮膚感覚で理解するようになった。

異文化は、権力にとって、なんとなく自己の有意差を意識させ、居心地の良さを認識させる、ささやかな刺激となる。つまり、権力が若々しいとき、異文化は自己の正統性を再認識させる媚薬となる。

異端説は、権力と権力に媚(こ)びる正統派の阿諛(あゆ)*的理論をもてあそぶ卑(いや)しい輩(やから)の、ヒステリックで陰湿(いんしつ)な虐(いじ)めによって、消されようとしている。それは人類史で繰り返し生じた悲劇である。

*相手におもねりへつらうこと。おべっか

 消された伝統を、いま、復権させよう。伝統を復権させることによって、私たちは低級な権力者の卑しさを超えよう。このブログはそうした試みを歴史への沈静でもって、まだ清らかな魂を失わないでいてくれる人々に、提示しようとするものである。

 ともに、手を携えて、
  迫り来る忌まわしさに耐えよう。


 古代ギリシャ哲学の最高権威者、プラトンは、徹底的にソフィストたちを排除した。プラトンのソフィスト批判は、その後の、哲学を支配した。いつの時代でも、反革命的保守主義者、権力者が、プラトン主義者であったことは、けっして歴史の偶然ではない。本ブログはそうした事情を、苦痛をもって追体験することを内容としている。

 以下は、ベンジャミン・ファリントン『ギリシャ人の科学─その現代への意義』上、下、岩波新書、1955年)に依拠している。

 プラトンは、その著、『プロタゴラス』において、ソフィストのプロタゴラスを無責任な言説を振りまく、俗悪な自己宣伝者であると罵倒した。

 プロタゴラスは、「人間が万物の尺度」であると宣言して、神話の奴隷になっていた哲学的知を確立しようとした(『断片』)。そうしたプロタゴラスは、極端な主観主義者であるとのレッテルをプラトンから貼られてしまった。

 いま一人のソフィスト、ゴルギアスは、真理なるものは存在しないと言った。よしんば存在したとしても、真理は認識できないと言った。たとえ、認識できたとしても人にそれを伝達することなどできないと言った。プラトンは、彼を懐疑主義者として切り捨てた。

 別の有力なソフィスト、ヒッピアスに至っては、法螺吹き、大風呂敷として徹底的にプラトンによって軽蔑された。

 ヒッピアスは、冶金工の息子であった。彼はそれを誇りにしていた。皮なめし、裁縫、製靴、金属細工、等々、細かい装飾品を自分の手で作り出すことができることを誇りにしていた。彼はその全身を、指輪に至まで自分で作った装身具で飾り立て、オリンピック・ゲームを観戦した。ヒッピアスは、職人の技術だけではなく、解剖などの医学、歴史書の解説、等々、あらゆる学問に通じていると豪語しはした。それが、プラトンの気に障った。ヒッピアスこそは大法螺吹きの大風呂敷で、金儲けにいそしむ俗物として、プラトンは、徹底的に軽蔑したのである。プラトンの権威が図抜けていたために、以後、ソフィストたちは、変なことばかり言い、青年をたぶらかす「詭弁家」というレッテルを貼られて貶められたのである。

 ソフィストという単語は、そもそもが「知恵ある者」という意味である。そうした原義から離れて、いまでは、ソフィストは詭弁家という訳語が当てはめられている。しかも、その不当性を訴えることもできなくなった。

 しかし、ファリントンに言わしめれば、ソフィストは、自らの手と肉体を駆使して、モノを生み出し、古今東西のあらゆる知識を伝承した「知恵ある者」たらんとした。少なくとも応用的科学、技術を重視していた。なによりも人の手先からモノを生みだすことに崇高な価値を見ようとしていた。

 しかし、プラトンは、生産的労働を、奴隷の作業として、軽蔑し、イデア的観想にもっぱら耽っていた。職業に貴賎を見、肉体的労働が貶められるようになったのは、アテネ的民主主義が衰えを見せ始たまさにその時に、自己の哲学の大系を作り出したプラトンから、つまり、紀元前5、6世紀からであった。

 プラトンは、プロタゴラスを「無神論者」として警戒した。
当時の文脈で、「神」の存在を疑うことは、権力に反抗する危険思想家以外のなにものでもなかったのである。


ソクラテスとプラトンを嫌ったニーチェが、「神は死んだ」と言い切ることから、西欧文明からの決別を図ろうとしたことの意味はここにある。
 
 プロタゴラスは言明した。

 「神々については、彼らが存在するのか、存在しないのか、姿・形はどうなのか、私は知ることができない」(『断片』)。

 これは当時の環境下では大変な発言である。オリンポスの神々をないがしろにして、人間研究の必要性を力説し、市場(アゴラ)で演説したプロヤゴラスは、れっきとした体制批判者であった。



 ソクラテスの門下生には、クセノフォンもいた。ダム・スミスの分業論のアイディアを提供したクセノフォンですら、ソフィストを軽蔑した。

 「ソフィストというものは、人を欺くために語り、自己の利益のために描くだけで、少しばかりの利益すら人々にもたらさない連中である。彼らの中には、真の智者は一人もいない。ソフィストと呼ばれることは、心ある人々にとっては恥辱である」(『狩猟論』)。

 アリストテレスも言う。
 「実際には存在しない見せかけの知識で金儲けをするのがソフィストの業である」(『ソフィストの吟味』)。

 プロタゴラスは、ギリシャの北東の辺境、ダーダネルス海峡沿いの地域に生まれ、地中海中を旅し、70年の生涯を閉じたシチリアにおいて、生涯、民衆への盛名を馳せていた。それは、プラトンの『ヒッピアス』でも妬ましげに語られている。
 イオニア植民都市に生まれたゴルギアスは、ギリシャ人の同盟を説き、一致団結して、外敵への戦争に遂行すべきであり、内部で都市間の抗争は即刻止めるべきであるとする大演説を、前408年の第95回オリンピック大会で行った。非常に具体的、行動的な政治家であった。

 ヒッピアスは、音楽の知識、記憶術で、若者を魅了し続けた。知識の該博性において、同時代人の中では抜きんでていた。少なくとも彼らは、万能選手であり、既存の権威に挑戦し続けた。それゆえに、彼は、歴史から抹殺された「智恵者」だったのである。
 今回もいいだももの著作を踏み台にしている。

本山美彦 福井日記 17 渤海使

2006-06-26 23:31:02 | 路(みち)(福井日記)
東大寺荘園や春日大社荘園が越前で拡充しだしたころ、日本の対外交流でもっとも盛んであったのは、朝鮮半島の北東の渤海であった。この地域は、後の高句麗と重なり、中国と韓国との間で、北朝鮮崩壊後の領土確定の意味もあって、高句麗の出自争いがあったことは記憶に新しい。その論争がいつの間にか沙汰止みになったことから察するに、北朝鮮崩壊後の事態に備えて中国・韓国間になんらかの合意が形成されたものと想像される。

 それはさておき、渤海が8世紀では、日本のもっとも緊密な交流相手であった。
 渤海側の正式の使節は、727年(延喜19年)であるとされている。若狭、越前がもっとも渤海人が数多く到来した地である。762年(天平宝字6年)、渤海使、王新福ほか22名が越前加賀郡に3か月滞在したという記録が残されている。776年(宝亀7年)には、187人の渤海の一行が難破し、141人が死亡、生き残った45人が越前に漂着した。彼らは3か月間、越前に留まった。大和政権の命令もあって、越前側は漂着した水死体を手厚く葬ったとある。渤海使を日本側は、越前の人間に渤海に送り返させ、送って行った越前人は、今度は、渤海の正式使節を伴って、三国湊に帰還したという。

 名勝、気比の松原(写真参照)には、外国人をもてなす松原駅館が設立されていた。しかし、919年11月に三方郡丹生浦に105人の渤海人が到着し、日本側が、彼らを松原駅館に移そうとしたが、この館の設備が悪すぎるというので、渤海側が難色を示し、その苦情を重視した中央政権は改善を越前に命令したという記録もある。ちなみに、気比の松原は聖武天皇のころ、黒い装束を身にまとった外国人が攻め寄せてきたとき、一夜で松林が出現し、松の上には白い鳥の大群が留まり、それを見た侵略軍は迎撃対隊が多数待機していると錯覚して、慌てて逃げ出したという言い伝えもある。当時は、渤海使とともに悪霊が海を渡ってくると本気で心配されていて、気比の松原では、疫神を防ぐために、渤海人が到着する度に、鎮火儀礼が行われるのが常であった。

 気比の松原の美しさといったら、ちょっと他にはない。長さ約1.5キロ、広さ約40万平米という広大さと、白砂青松のコントラストが印象的である。赤松、黒松約17,000本が生い茂る。三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の1つで、遊歩道も整備されて、ジョギングに最適な市民の憩いの場である。
 敦賀は古くは角鹿(つぬが)と呼ばれていた。これが、なまって敦賀になったのである。角鹿は、渡来人、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に因んでつけられた名前である。

 芭蕉の句がある。

 古き名の角鹿や恋し秋の月

 古い「角鹿」という地名がこんな秋の月の夜には相応しい感じがする、という意味である。

 渤海からは、宣明暦(せんみょうれき)が伝わっている。この暦は861年(貞観3年)から1684年(貞享元年)まで実際に、日本で用いられていたものである。823年もの長期にわたって、同一の暦が使われていたということは世界史的にも希有な例である。

 宣明暦(せんみょうれき)は、正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言い、唐の徐昴が編纂したものである。とくに、日食と月食の予報に優れ、中国では、唐の長慶2年(822年)から景福元年(892年)までの71年間使用された。日本へは、天安3年(859年)に渤海使がもたらし、それまでの大衍暦に代わって使用が開始された。その後、朝廷の衰退や暦学の停滞などにより改暦が行われなかった。長く使用されたために誤差が蓄積し、江戸時代初期には24節気や朔などが実際よりも2日早く記載されるようになっていた。

 そもそも、暦の編纂は本来は朝廷が独占して行うものであり、暦の算出法に関する書物は陰陽寮以外には部外秘とされていたが、宣明暦があまりにも長く使用されていたために、次第に民間に流布され、出版されるようになった。さらに、鎌倉時代以降は朝廷の力が弱まり、京で作られた暦が地方へ伝達しにくくなったことから、各地で独自に宣明暦の暦法によった暦(民間暦)が作られるようになった。暦とは、権力側が作るものであるが、これについては後日、陰陽師との関連で解説することにする。また、陰陽師は権力の一翼を担っていて、単なる不可思議な占いばかりを行っていたのではないことにもあわせて注意を喚起しておこう。

 すでに紹介した730年の『越前国大税帳』では、渤海使を送り返すのに、食糧50石を使ったと記載されている。そのうち、渡来人が地方の権力者になったのであろう。『日本書紀』には、景行天皇の時に、天皇の支配に従わない越の国を抑えるために、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)によって吉備武彦が派遣されたとされている。そして、この地の豪族、つまり件の渡来人の子孫が角鹿海直であり、彼が、後に大和から派遣されてきた吉備武彦の孫を角鹿国造におし戴いたとされている。継体伝説と並んで、越前の豪族が渤海起源ではなかったのかという仮説がますます信憑性を帯びる伝承である。

ギリシャ哲学 02 寄せ集めのアテネの神々

2006-06-26 15:29:11 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
どこの国、どこの地域にも、伝説上の守護神がいる。考えてみるまでもなく、これらの神々は余所から到来した場合がほとんどである日本の七福神などはそのほとんどが海外に出自をもつ。


ところが、私たちは、アテネの神々については、れっきとしたギリシャ生まれであるとの、それこそ神話的思い込みをしがちである。オリンポスの神々も出自から言えば、七福神と大差はない。そもそもが外国産の神々をアテネの守護神として、誇らしげに語られてきた神話が、ヨーロッパだけではなく、東洋の人々の考え方に巨大な影響を与えてきた。変なことである。


 例えば、穀物の神とされるデーメーテールは、アルカディアなどの非アテネ地域では、もっと広い意味における大地の女神とされていた。アテネでは、デーメーテールの夫はゼウスとされているが、他の地域ではポセイドンであるとされていた。デーメーテールの娘はアテネではペルセポネとされているが、この女神は、ギリシャ人が国家を形成するずっと以前から他民族によって伝承されていたもので、元来は、冥府、死の神であった。


 アフロディーナ(ヴィーナス)の夫も、古くは破壊の神、ヘーパイトス(ローマではバルカムス)であったが、後になると軍神、マレス(ローンマのマルス)とされるようになった。また、ヴィーナスの愛人で猪の牙にかかって死ぬアドニスも、シリアでは天の神、アドンであった。ヴィーナスの子供で、愛を司る神、エロース(ローマではキューピッド、モール)は、元々はヴィーナスとはなんの関係もない夜とかカオスの神であった。このように、アテネ輝く神々の出自が外国で闇の世界を支配していた伝承の神たちであったことは興味深いことである。

 闇の帝王と言えばディオニソスがその最たるものであろう。ローマの酒の神、バッカスは、アテネではディオニソスである。オリンポスの神は12神であり、アテネの初期にはアゴラに彫刻として飾られていた。12神が確定されたのは、紀元前9世紀頃だとされている。そこには、ディオニソスは入れてもらっていない。ところが、紀元前432年にパルテノン神殿ができあがると、ディオニソスは、12神の1つであったヘスティア女神を押しのけて、12神の仲間入りを果たしている。おそらくは、アテネ建設後にディオニソスの神話が渡来し、民衆の心を掴んでしまったので、権力側がアテネの統合のシンボルに新たにディオニソスを採用したのであろう。12という数字を崩すことはできないので、ヘスティア女神を外して、ディオニソスと入れ替えたのである。

 ディオニソスを生み、ゼウスの火で焼け殺されたとされるセメレーは、トラキア地方の大地の女神であった。ロシア語では、いまでも大地のことを Zemelya と発音している。
 ゼウスとの間にアポロンやアルテミスを生んだレートは、小アジアでは大母なる女神ラーダであった。

 ポリス国家、アテネを作ったのは、英雄、テセウスとされている。このテセウスが、恋人のアリアドネというクレタ島の王女を連れて、クレタ島を脱出してアテネに向かう途上、ディオニソスに恋人を拉致されてしまった。そして恋人はディオニソスの妻にされてしまった。恋人を奪われたテセウスは、アテネの王、アイゲウスの急死後、王位について、アテネ全域の代表者による「集住」(シュノイキスモス)、つまり、ポリス国家アテネを創設したとされている。

 手で触れるものがすべて金になってしまうという天罰で懺悔する、あの有名なプリュギアのミダス王の呪縛を解いてやったのは、ディオニソスであるとされている。

 こうした神話には、無意識のうちに、人間社会を司る善と悪が微妙に交錯させられている。えも言われぬ深い味わいがそこにはある。そして、民衆は、闇の帝王、ディオニソスに、とてつもない大きな吸引力を感じるようになった。光り輝くアポロンの裏に、東方出自の神話はきちんと悪の陰を配置していたのである。


このことは、ヨーロッパ一辺倒の哲学に傾斜しがちな私たちが思い起こすべき重大なことである。
今回も、いいだもも氏と呉茂一氏の著作から学んでいる。

ギリシャ哲学 01 ヘロドトス

2006-06-24 01:15:19 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
歴史の父と呼ばれるヘロドトスは、オクシデントの始原と言われるアテネではなく、オリエント、小アジア西岸のイオニアの南、ハルカリナッソスに、紀元前484年に生まれた。イオニアは、タレス、アナクシマンドロスといった自然哲学を生んだ地である。ヘロドトスの父も、こうした伝統の中で活躍した詩人、パニュアシスである。ヘロドトスを歴史学の父として称賛したのは、ストア派哲学者のキケロであった。

 イオニアは、ペルシア支配への反抗を、ギリシャ植民市として最初に組織した市である。そうした抵抗運動が続く中、ヘロドトスは、故郷を離れ、地中海各地を遍歴することになった。自ら見聞したペルシャ戦争の歴史的意義を、彼は、「驚嘆すべき事跡」として、全9巻にわたる歴史(ヒストリアイ)を著したのである。
 歴史とは、現場の証言である。彼は、その著の序で宣言する。

 「本書は、ハリカリナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろいとともに忘れ去られ、ギリシャ人や異邦人(バルバロイ)のはたした驚嘆すべき事跡の数々、とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情も、やがて世の人に知られなくなることを恐れて、自ら探求調査したところのものを書き述べたものである」。

 ヘロドトスの『歴史』は、ダレイソウ1世、クセルクセス1世が率いたペルシャ大軍のギリシャへの侵攻に対して、ギリシャ・ポリス市民連合が、マラトンの陸戦で、サラミスの海戦で、ミュカレ岬の戦いで、ペルシャ軍を破ったという大事件を記述したのはもちろんであるが、叙述はギリシャだけに限定されていない。ペルシャ、エジプト、小アジア、黒海沿岸、インドにまで筆を延ばしているのである。その理由を彼は次のように述べている。

 「かつて強大であった国の多くが、いまや弱小となり、私の時代に強大であった国も、かつては弱小であったからである。されば、人間の幸運がけっして不動安定したものではないということわりを知る私は、大国も小国も均しく取り上げて述べてゆきたいと思うのである」。

 エジプトでは、彼は、最南端の第一瀑布があるエレバンティネ、つまり、現在のアスワンまでの1000キロメートルも走破している。エーゲ海から東2000キロメートルのバビロニア、北はウクライナのステップ地帯を流れるドニエプル河の下流から上流のキエフまで行っている。イタリアでは南部のトリポリ地方にまで旅している。

 1962年、呉茂一中村光夫共著
ギリシャ・ラテンの文学』(新潮社)

の劈頭で、次のようなヘロドトス評価が記述されている。

 「ヘロドトスの出現の重大な意味は、単に彼がペルシャ戦役の記事をまとめたというだけではなく、この戦役の重大性をよく認識し、ここに初めて西洋と東洋との独立を確認したことにあります。ヘロドトスの時代には、ギリシャはまだごく若い国としてしか一般に考えられていませんでした。彼はエジプトに旅行し、相当長く滞在していたようですが、そこで彼が会ったエジプトの神官たちは、ギリシャを若い国とし、青少年に譬えました。エジプトのほか、ギリシャにとって先達の大国というべき国々には、バビロニア、アッシリア、フェニキアなどがありました。これらの東方の諸国に比較すると、ギリシャは、まだ若く、小さく、貧しい国でしかないように見えました。そかし、これらの国々を一まとめにしてアジアとみなし、ギリシャを本(もと)とする地続きの一帯をヨーロッパとし、この対立が根本的なものであるとして、そこから生まれたペルシャ戦役に勝利を得たことで、ギリシャの独立と自由とが確保されたというはっきりとした認識を持ったこと、ここにヘロドトスの、また当時のギリシャ人一般の、価値がありました。」

 この叙述だけなら、この本は、ギリシャ万歳論として受け取られる危険性がある。そうではない、呉・中村の本は、ギリシャ自体が東方からの大きな影響を受けていることに言及している。その点については次回に説明する。またこのギリシャ哲学シリーズは、いいだもも氏の数多くの著作に導かれて学ぶギリシャ哲学論である。
(平成18年6月24日(土))

ゼミ・ブログ+『「帝国」と破綻国家』

2006-06-24 00:33:36 | information
本山美彦ゼミナールのブログ
が完成いたしました。ウェブゼミとしてご活用ください。先生もコメントよろしくお願いいたします。

 このブログが京大・県立大の本山ゼミの交流の場になることを願います。

 さて『「帝国」と破綻国家』(ナカニシヤ出版)のことですが、この著書は、大学のテキストになっていないのにもかかわらず、売れ行き好調でした。しかし、最近売れ行きが少し下がってきているようですが、もう少しで完売です。

本書推薦の言葉
  Amazon書評
神奈川大学評論」清水嘉治氏書評 
ジュンク堂書店2005年8月店員のお薦め本」に指定される。 
P.J.プルードンが展望したこと」(阿修羅)

 なお、お求めはナカニシヤ出版ウェブ書店が便利です。

 管理人代表H.S

本山美彦 福井日記 16 律令時代にもあった賃金労働

2006-06-23 23:16:23 | 路(みち)(福井日記)
奈良の正倉院には、奈良時代の越前国の農民の貧しさを示す資料が3つ残っている。730年(天平2年)の「越前国大税帳」と「越前国義倉帳」、732年の「越前国郡稲帳」がそれである。これらは中央政府(民部省)に提出され、不用になった段階で反故紙となり、裏が写経所で再利用されたものである。こうした農民及び税に関する文書が残されているのは、全国では、越前だけである。

 当時、中央政府の地方役所は国衙(こくが)と呼ばれていた。国衙の財政収入は、田に課され、稲で納める租と、地方の正倉という備蓄倉庫に蓄えられた稲を5割の利子付きで強制的に農民に貸し付ける出挙によって賄われていた。おそらくは、当時の農民は籾を私有することは許されなかったのであろう。この2つが「大税」とされ、その収支を記録したのが、「大税帳」である。それによれば、大税のうち、中央に送る舂米(稲をついて精米したもの)は1万束余があるくらいで、後は、22万7000石もの厖大な籾が備蓄されていた。とてつもなく高率の税であったことが分かる。

 「越前国義倉帳」は、農民の貧しさを記載しいたものである。これは、災害や飢饉・疫病などに備えて、戸の資産によるランクに応じて粟を徴収して蓄え、非常時には支給するという義倉の収支決算書である。記載されているのは、わずか1019戸分しかないが、大半が貧窮状態であったことが分かる。上上戸、上中戸、上下戸、中上戸、中中戸、中下戸、下上戸、下中戸、下下戸、等外戸の10等級に区分されている。

 9割の920戸が等外戸であった。義倉穀を負担したのは中中戸以上であったが、この地の負担戸は29戸にすぎず、大半が貧窮戸であったことになる。
 ちなみに、酒に弱い人を下戸というが、それは、この課税の等級制からきている。婚礼時の酒の量が、上戸は八瓶、下戸は二瓶であったことから、酒が飲めない人を下戸と呼ぶようになり、酒をよく飲む人を上戸と呼ぶようになったのである。貧富の差から飲酒量を喩えた言葉は中国にもあり、大戸や小戸と呼ばれている。

 とんでもない貧しい農民たちであったが、彼らは賃労働者であったことが、東大寺に残された文書で分かる。越前における東大寺の荘園は、自らの荘民をもたず、荘園の外の農民を1年契約で出挙にいよる賃金雇用をしていた。用水路の開削・維持もこれらの雇用労働にたよっていた。

 東大寺が越前国に荘園としての墾田地を求めて本格的に進出し始めるのは、749年(天平勝宝元年)からのことである。この年、造立途上の東大寺大仏の完成の目処が立ち、その造立・維持費用として東大寺に100町の墾田地が認可された。同年閏5月には国司と一緒に大規模に占定作業が進められたほか、足羽郡大領(だいりょう)の生江臣東人(いくえのおみあずまひと)や坂井郡大領の品遅治部君広耳(ほむちべのきみひろみみ)などの現地の郡司といった有力者から土地の寄進を受けた。東大寺の荘園は、これら地元有力者との共同経営であった。

 坂井郡にあった東大寺領桑原荘に関する文書として、755年から59年にかけての4通の収支決算書が残されている。桑原荘(写真参照)は、755年に、東大寺が都に住む貴族より土地100町を銭180貫文で買収して開墾したものである。

 東大寺には、「東大寺越前国桑原庄券第三」に「越前国田使曾祢乙万呂解」という文がある。これは、東大寺から田使として桑原荘の経営を命じられて派遣された曾祢乙万呂の757年(天平勝宝9)2月1日の報告書である。そこには、見開(開墾された田)42町のうち、この年の開田(開墾田)は10町であるとか、収支決算や、建物の状況などが記載されている。しかし、東大寺の文書には、この報告書には、越前国史生の安都雄足と足羽郡大領の生江東人の署名がなかったため、東大寺は受理しなかったとされている。ここから、東大寺の荘園は地元の有力者との共同経営であったことが分かる。

 共同経営したのは、もっぱら労働力の調達が必要だったからである。こうした工事や労働力の提供を地元有力者が担っていたのである。東大寺側は史生を派遣し、大領と交渉させていたのである。

 大領とは地方豪族である郡司の大本締め、つまり、長官である。史生(ししょう)とは、都・地方のあらゆる役所に置かれ、公文書を繕い写し、文案を整理・作成し、四部官(四等官・四分官)の署名を得ることを担当している下級書記官のことである。この史生の下がいまでもその名が残る召使(めしつかい)である。
 
ここで、大和政権と越前の緊密な関係を示すために、生江臣東人のことを詳しく紹介しておこう。
749年(天平勝宝元年)、藤原仲麻呂は大納言となった。同時に、仲麻呂は東大寺の荘園を越前に造るべく、部下の生江臣東人を越前に派遣する。しかし、仲麻呂は、764年(天平宝宇8年9月、四畿内・三関国(さんげんこく―伊勢・美濃・越前)・近国3か国の軍事権を統括する官になったときに、私兵を密かに集め出した。クーデターを企んでいたのであるが、これが、道鏡に牛耳られていた孝謙上皇側に漏れた。

 同月11日、上皇派は、仲麻呂の息子、藤原久須麻呂(くずまろ)を射殺した。仲麻呂は、平城京から脱出し、近江国府に向かったが、上皇派に阻まれ、やむなく、琵琶湖西岸を通って越前国府に向かったが、ここでも、上皇派は先回りして、越前国府にいたやはり仲麻呂の息子、藤原辛加知(しかち)を殺害した。そこで、仲麻呂は、琵琶湖西岸の三尾崎(みおさき―高島町明神崎)に向かった。そして、9月18日、三尾崎近くの勝野(かつの―高島町勝野)の鬼江(おにえ)での両軍は相まみえた。仲麻呂はこの戦いに敗れ、息子の真先(まさき)、朝猟(あさかり)、小湯麻呂(おゆまろ)、薩雄(ひろお)、執棹(とりさお)が殺された。

 仲麻呂は、越前に子供をはじめ、配下を派遣していて、東大寺の荘園経営にも関与していた。事実、仲麻呂が滅びた後、東大寺領として有名な道守(ちもり)荘では、道鏡政権になって行われた検田によって、船王(ふなおう)・田辺来女(たなべのくめ)の墾田が没収された。船王は淳仁天皇の弟、父は舎人親王で仲麻呂派の人物。田辺来女の一族は仲麻呂の家司(けいし)になっている者もいて、やはり仲麻呂派であった。仲麻呂自身も越前国に墾田を所有しており、この墾田200町が、乱後、西隆寺に接収された。

 仲麻呂は大仏造営や東大寺建立に大きく貢献しているのだが、結局は、自らの懐刀であった造東大寺司の裏切りに遭ったのである。乱の直前に反仲麻呂派の吉備真備が造東大寺司長官に就任して仲麻呂との抗争の指揮を執った。また、琵琶湖に浮かぶ竹生(ちくぶ)島に所在する都久夫須麻(つくぶすま)神社は、仲麻呂の乱の鎮定に霊験があったということで従五位上勲八等を授けられていることが、『竹生嶋縁起』に見える。

 造東大寺司とは、東大寺建設のための役所である。
 さて、生江東人は、越前国足羽(あすは)郡の在地首長である。生江東人は、先述のように、天平勝宝元年(749年)、東大寺が越前国内に荘園を設定するために、造東大寺司から派遣された者の中に名前が見える。このとき東人は造東大寺司の官人であったが、その後、天平勝宝7年には足羽郡大領として名前が見えるので、この6年の間に足羽郡大領に就任したことになる。東人の前の大領は生江安麻呂という人物である。つまり、東人は安麻呂の嫡子である可能性が高く、安麻呂の後を継いで大領に就任したものと見られる。地方豪族が中央政権の官吏に登用されていたことをこれは物語る。

 東大寺の初期荘園は90以上あり、北陸には30ほどが所在する。その中でも、規模の大きな荘園の1つが足羽郡にある道守荘(ちもりのしょう)である。東人は道守荘経営に大きな役割を果たした。東人は約7キロメートルの用水路を自らの力で開削して開発した墾田100町(未開地も含む)を、先述のように、東大寺に寄進し、この墾田を中心に道守荘を発展させた。道守荘は当時の絵図が現存することでも有名で、その絵図を見ると荘域内南西部に荘所がある。荘所は、荘園の管理事務所であり生産物の収納倉庫もともなっているもので、現地での経営拠点である。この荘所も東人が寄進したものである可能性がある。

 藤原仲麻呂政権下で東人は先に寄進した用水路を私的に使用して墾田の開発を進めた。仲麻呂失脚後、この件に関して東大寺から追求されることになり、この新たな墾田も東大寺に寄進し、謝罪した。この謝罪の上申書が、天平神護2年(766年)の「越前国足羽郡大領生江東人解」(『東南院文書』)である。

 なお、藤原仲麻呂と東人については、WEBサイト、「時事スコープ」、歴史探訪、第3回(98.6)藤原仲麻呂の乱(開成高校講師 小市和雄)、第4回 (98.7)生江東人開成高校講師 小市和雄)を参照した。

本山美彦 福井日記 15 豪族の閨閥

2006-06-22 18:21:25 | 路(みち)(福井日記)
福井県は、『図説福井県史』という出版物をネットで公開している。これは、なかなかのできばえである。そこでは、継体天皇の妃たちの出身地を記載してくれている。すでにこの年代から、豪族たちは姻戚関係をなるべく広範に結ぼうとしていたことが示されていて興味深い。

 『日本書紀』と『古事記』とでは、継体天皇に関する記述が異なるので、どこまでが史実であったのかは疑わしい。それでも、神話の中に、おそらくはそうであったろうなと思われる可能性が垣間見られる。大和政権がすでに最高の権威をもち、その血筋を地方の豪族は欲していたらしいということ、すでに越前、とくに三国の財力は図抜けていたであろうこと、越前から見れば大和への路も尾張への路も同じ程度の重要性をもっていたこと、姻戚関係はなるべく遠くの地域をも含むものであること、等々が『日本書紀』の記述から類推できる。

 『日本書紀』によると、子供のいない大和政権の武烈天皇の死後、皇位継承者が周辺にいなかったことから、大連であった大伴金村が全国に候補者を探し周り、応神天皇の五世孫、越前の三国にいた男大迹(おほと)(57歳、後の継体天皇)に白羽の矢を立て(507年)、樟葉宮で即位させたとされている。この記述は限りなく怪しい。武烈天皇に子供がいなかったのは事実であろうが、さりとて、周囲に後継者候補が払底していたというのは信じがたい。それこそ、数え切れないほどの妃をもつ当時の風習の中で、それこそ何百人も天皇家に連なる血筋が存在していたであろうに、まったく、それらのことごとくが絶えていたという記述は信じ難い。

 この点は、多くの人が研究してきたのであろうから、軽々に仮説を出すのはいいことではないとは思いつつ、事態は逆ではなかったかと思わざるをえない。逆というのは、継体が天皇家を簒奪したのではなかったのかということである。簒奪に当たって大伴金村が大きな役割を果たしたのであろう。大連とはいえ、皇族でないものが天皇の後継者を捜しまわるという事態そのものがありえないことである。

 即位後、継体は、仁賢天皇の娘であった手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、彼女を皇后にした。その後、山背の筒城(綴喜)宮、弟国(乙訓)宮を転々とした後、三国を出てから20年後、ようやく大和、磐余の玉穂に都を定めたとある。

 『日本書紀』によると、継体の父は彦主人王といい、近江の三尾の別業にいたときに継体の母、振媛(ふりひめ)(三国の坂中井=高向出身)を妃に迎え、継体を産ませた。父、彦主人王の死後、母、振媛は子を連れて故郷の高向に帰った。母は、垂仁天皇の七世孫とされ、三尾という氏(うじ)の一族であったとされる。

 五世孫、七世孫といっても、きちんとした戸籍制度のない時代に、そんなことを事実として認定するわけにはいかない。七世といえば、それこそ、150年以上も昔の話である。皇族の血筋は限りなく希薄である。重要なことは、直前の天皇の実際の娘と継体が結婚して、天皇家の血筋を継承したということである。

 この点だけは事実のようである。『古事記』では、応神天皇の五世孫、袁本杼(おほど)が近江にいたところ、大和に呼び出され、元天皇の娘、手白髪命と結婚させられて、皇位につかされたとされている。

 女系天皇の擁立が現在、かまびすしく論議されているが、継体天応は限りなく女系天皇に近い可能性がある。

 継体の父は、近江湖東の豪族、息長氏とも言われている(『上宮記』の継体の系譜)。母は、いまの丸岡(高向)出身であるが、この付近には、六呂瀬山1号古墳、九頭竜川対岸の松岡、手繰ケ城や古墳、同じく、二本松山古墳など、いずれも石棺をもつ北陸最大級の古墳である。松岡の古墳は山そのものである。これらは、広域首長墳と言われ、4世紀から6世紀まで綴喜、6世紀以後は、碗貸山1号墳などの横山古墳群という前方後円墳が密集している。これが継体一族のものになることはあきらかである(写真参照)。

 さらに、確認できる継体の9人の妃は、遠方の豪族の娘である。最初の妃、目子媛(めのこひめ)は、尾張の地名の基になった尾張氏の一族である。越前からの路は、大野を越えて、尾張に連なっていたのである。尾張への路、湖東地区、そして大和というように、継体は姻戚関係を広げていた。そうした布陣でもって大和政権を乗っ取った。そういうように、律令時代前の勢力地図を読み解くことも可能なのである。

本山美彦 福井日記 14 抹殺される大金鶏菊

2006-06-21 00:58:25 | 花(福井日記)
大金鶏菊(オオキンケイギク)が日本全国の空き地で咲き乱れる季節になった。黄金色に、まぶしく太陽を照り返す。群生しているので、余計に迫力を感じる花である。コスモスに似ている。春型のコスモスと思っている人が結構、多いのではなかろうか。ここ福井でも1週間ほど前から咲き出した。こちらの心まで明るくなる。とにかく美しい。

 しかし、残念ながら、平成18年の2月1日から、この花は、環境省によって、「第二次特定外来生物」の一つに指定されてしまった。特定外来生物とは、海外期限の外来生物で、生態系、人間の生命、農林水産業に悪い影響を与える生物であるとされているものである。「外来生物法」によって、栽培、保管、運搬、輸入が禁止されている。そして、今回、追加指定されたのが、オオキンケイギクなのである。販売すれば、個人の場合、懲役3年もしくは300万円以下の罰金、法人の場合には1億円以下の罰金が、科される。野外でも、個人の庭でも、植えると、個人では1年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金、法人の場合、5000万円以下の罰金が科される。

 あまりにもありふれた花、しかも、明治中期に日本の道路を飾るべく輸入された花である。けっして、荷物にくっついて自生したものではない。綺麗なために、家の庭に植えようかと想うひとがいるだろう。しかし、今年からそれは駄目になったし、街路や空き地では除草剤が撒かれる可能性がある。お互いに気をつけましょう。

 それにしても、北アメリカが原産の、この花の学名、coreopsis lanceolataは可哀想である。coreの単数corisはギリシャ語で南京虫を指す。これは、実の形が南京虫に似ているからである。lanceolataは針型という意味である。要するに蔑称である。
 もちろん、花屋からは今年になって消えた花である。

 あまりにも繁殖力が強いためなのだろうか。必要があって輸入されたのに、御用済みとなって抹殺される花を想うと身につまされる。遠いアフリカで、イラクの戦場で、わが日本で幾万回となく繰り返される、権力によって嫌悪されたものが抹殺されている人の世がこの花にダブってしまう。抹殺されるものは、どうあがけばいいのか。
 一首

誰ぞ知る 打ち棄てられし 
哀しみを 春が過ぎても 走る悪寒を