消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(413) 韓国併合100年(52) 韓国臣下論(3)

2012-04-30 21:54:04 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 二 日露戦争の奇襲攻撃

 日露戦争開戦の一か月前、ロシア側の主戦派の一人と考えられていた政治家が戦争を回避しようと「日露同盟」案を準備しているとの情報を得ながら、日本政府が黙殺していたことを示す新史料を、和田春樹・東大名誉教授が二〇〇九年一二月に発見した。日露戦争についてはこれまで、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で展開された「追いつめられた日本の防衛戦」とする見方が日本では根強い。しかし、この新資料が正しければ、これまでの通説は崩壊する。

 和田名誉教授は、サンクトペテルスブルク(St. Petersburg)の.ロシア国立歴史文書館(Russian State Historical Archive)で、ニコラス二世皇帝(Czar Nicholas II)から信頼されていた非公式貿易担当大臣の主戦派政治家ベゾブラーゾフ(Aleksandr Bezobrazov)の署名がある一九〇四年一月一〇日付の「同盟」案全文を発見した。「同盟」案は、「ロシアが遼東半島を越えて、朝鮮半島、中国深部に拡大することは、まったく不必要であるばかりか、ロシアを弱化させるだけだろう」と分析、「ロシアと日本は、それぞれ満州と朝鮮に国策開発会社を作り、ロシアは満州、日本は朝鮮、の天然資源を開発する」ことなどを提案する内容のものであった。

 ベゾブラーゾフが「日露同盟」案を準備していることを日本の駐露外交官の手で日本の外務大臣・小村寿太郎(じゅたろう)に打電された。一九〇四年一月一日のことであった。詳しい内容が、同月一三日、小村外相に伝えられた。日本の外務省は、その電文を駐韓公使館に参考情報として転電した。和田春樹は、この転送電文を、韓国国史編纂委員会刊行の「駐韓日本公使館記録」の中から見つけた。

 当時の小村寿太郎外相は日露同盟案の情報を得ながら、一月八日、桂太郎(かつら・たろう)首相や陸海軍両大臣らと協議して開戦の方針を固め、同月一二の御前会議を経て、同年二月、ロシアに宣戦布告したのであると、共同ニュースは伝えた(共同、二〇〇九年一二月二日付。http://d.hatena.ne.jp/takashi1982/20091207/1260192623、和田[二〇〇九])。この文書の内容に沿ってロシアが動こうとしているとすれば、満州支配後にロシアが韓国領有に向かおうとしていたので、それを阻止すべく日本は韓国併合に出るしかなかったという司馬遼太郎的史観は崩壊するとの見方も出てきた(Japan Times, December 9, 2009)。

  しかし、開戦が近いことは、ロシア当局も十分承知していたであろうし、一片の電報で日本が開戦を思い止まるなどと思うほど、ロシアの軍部、政府は甘くはなかったはずである。資料発見は大きな成果だが、この電文程度で、日本政府も開戦を中止したとはとても思われぬことである。

 周知の史実であるが、少し、日露開戦前後のことを整理したおこう。

 日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋(やまがた・ありとも)らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨(かおる)ら戦争回避派とが対立していた。一九〇三年四月二一日、山縣の京都における別荘・無鄰菴(むりんあん)で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が開かれ、満洲については、ロシアの優越権を認めるが日本は韓国を確保すべく、日露開戦やむなしと述べたが(徳富編[一九三三]、五三九~五四一ページ)、実際には伊藤の慎重論が優勢であったと言われている

 一九〇三年八月から開始された日露交渉で、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案したが、ニコライ二世などの主戦派によってその提案は一蹴された。そして、一九〇四年二月六日、外務大臣・小村寿太郎が、ロシア公使に国交断絶を言い渡した。

 一九〇四年二月八日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。まだ、宣戦布告を日本側はしていなかった。日本艦隊は、同日夜、旅順港(Port Arthur)に停泊していたロシア艦隊の半数を拘束した。港外で哨戒の任に当たっていた二隻のロシアの駆逐艦が、日本の駆逐艦一〇隻から攻撃を受け、慌てて港内に逃げ込み、ロシア艦隊に急襲を知らせたが、日本の駆逐艦が船尾に張り付き、ロシアの哨戒艇や軍艦を包囲してしまった。ロシア艦隊の乗組員たちは飲酒のために上陸していて、なす術がなかった。東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)率いる日本艦隊は、機雷を港外に配置し、ロシア艦隊の脱出を妨害した。それは、後の真珠湾攻撃で米国が抱いたものと同じ憤激をロシア側に与えた( http://constantineintokyo.com/2009/12/22/112/)。

 宣戦布告前の奇襲攻撃は韓国でも行なわれた。二月八日、日本陸軍先遣部隊の第一二師団が仁川(Incheon)に上陸した。日本海軍の巡洋艦群が、同旅団の護衛に当たった。日本の艦隊が、仁川港に入港する際に、偶然出港しようとしたロシアの航洋砲艦・コレーエツ(Koreets)が、すれ違う時に儀仗隊(ぎじょうたい=捧げ銃の敬礼を行なう役目を担う隊)を甲板に並べて敬意を表した。しかし、日本の水雷艇が魚雷攻撃をかけ、コレーエツは、慌てて一発砲撃して引き返した。



 そして、二月九日、仁川港に停泊中のロシア太平洋艦隊所属の艦船に退去勧告を行ない、退去しない場合は攻撃を加える旨を日本艦隊が伝えた。ところが、この退避勧告によって仁川港から出航したロシア艦隊は、待ち構えていた日本艦隊に砲撃され、一等防護巡洋艦・ヴァリャーグ(Varyag)は大破し、仁川港に引き返し、乗組員を上陸させた後、「コレーエツと共に自沈した(http://homepage2.nifty.com/daimyoshibo/mil/jinsen.html)。後に、ヴァリャーグは引き上げられ、二等巡洋艦・宗谷として日本海軍に編入された。


野崎日記(412) 韓国併合100年(51) 韓国臣下論(2)

2012-04-29 17:49:50 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一 韓国併合を促進させた日英同盟

 日英同盟のユニークさは、日本が熱望して英国に懇請したのではなく、英国側が締結を急いだという点にある。日本は、英国だけではなく、ドイツ、ロシアをも協調関係に巻き込もうとしていたのではないかというのが通説である。

 日英同盟を締結したということを明治政府が日本人に知らせたのは、一九〇二年二月一二日であった。伊藤は、まだ帰国していなかった。伊藤の帰国は二月二五日であった。

 日英同盟の締結日が一月三〇日だったのに、公表が大幅に遅れる二月一二日であったことも真相は不明である。しかし、二月一一日は紀元節で、当時の日本人の多くが戸口に日の丸旗を掲げる習慣があったことを計算に入れたものであろう。「天皇陛下万歳」という紀元節の唱和を翌日にそのまま利用することができたからであろうと想像される。

 日英同盟祝賀会は、一九〇二年二月一四日から全国各地で数百人規模で行なわれた。それはまさに狂騒そのものであったという(「狂気の痴態を演ずる勿れ」、『都新聞』一九〇二年二月二二日付。片山「二〇〇三]、七七六ページ)。政党としては憲政本党(2)が先陣を切って党本部で祝賀会を開いた。祝賀会での大隈重信(おおくま・しげのぶ)の挨拶は、彼が、日英同盟の必要性を外相時代(一八八九年一月)から訴えていた政治家であったことから、新聞でも大きく取り上げられた(「大隈伯の演説」、『日本』一九〇二年二月一五日付。片山[二〇〇三]、七六八ページ)。大隈は、清・韓国の保全、両地域における日本の経済的利益、日本を世界の大国に押し上げるという三点を同盟の効果として強調した。首相と外相とを兼任していた一八九八年九月には、フィリピンを米国が領有しなかったら、日英が協同でフィリピン統治をしようとの日英提携論を提起したことがある(片山[二〇〇三]、七六八~六九ページ。伊藤[一九九九]、一二八ページ)。憲政本党は、一九〇一年一二月から満州からロシアを追い出すために日英米の三国同盟を訴えていた。

 伊藤博文がまだ外遊中から帰国しないうちに、大隈が、いち早く祝賀会を開いたのも、政友会(立憲政友会)への対抗意識があったからである。当時の衆議院での第一党は伊藤博文を党首とする政友会であった。衆議院議員二九七名中、政友会は一五五名を占めていた。それに対して憲政本党は六九名しかなかった。しかも、日英同盟に懐疑的であったはずの伊藤の真意を、伊藤が帰国していないために確かめることのできない政友会は、身動きが取れなかった。大隈はこれを利用した(片山[二〇〇三]、七六九ページ)(3)。

 しかし、伊藤博文が日英同盟への批判者であるというのは、政党間の対立から作り出された捏造であろう。伊藤は、ロシア、ドイツ、英国という複数の国との協調路線を目指していたのであり、英国との単独同盟だけでは、満州、韓国における日本の権益を護ることが困難であるという全方位外交を目指していたのである。しかし、彼が携わっていた「日露協商」は秘密交渉であり、国民には途中経過は知らされてなかったし、伊藤の母体である政友会自体でさへ、伊藤の真意は分からなかった。伊藤が受けたロンドンでの厚遇ぶりが知らされて、やっと、伊藤は日英同盟反対論ではないことに気付いてはいたが、それでも、伊藤自身の口から真意を聞かないかぎり、軽々に同盟成立祝賀会を開けなかったのである。そうしたこともあって、「日英同盟」直後の世間の伊藤評価は厳しかった(「伊藤侯と日英同盟」、『日本』一九〇二年二月一四日付。片山[二〇〇三]、七七一ぺージ)。「日英同盟」成立による天皇陛下万歳の声が全国にこだまするようになった情況では、伊藤は苦しい立場に追いやられていた。

 ロシアとの協調を訴えていた伊藤は、「恐露病」と揶揄されていたという(片山[二〇〇三]、七七一ページ)。事実誤認であるが、『都新聞』(一九〇二年二月一六日付)は、「日英同盟と伊藤侯」というタイトルで、伊藤が第四次政権時に、英国からの同盟の申し入れに二度も断ったと報じている。しかし、そうした事実はないと片山慶雄はいう(片山[二〇〇三]、七七二ページ)。伊藤が日英同盟に反対していたという、こうした決めつけは、東大医学部教授であったベルツ(Erwin von Bälz)までが共有していた。親露派の伊藤が、ロンドンで日英同盟を推進したとはありえないことであると断じたのである(一九〇二年二月一七日付ベルツの日記、ベルツ[一九七九]、二四六ぺージ)。

 上記で指摘したように、大国英国を日本に振り向かせたという歓喜が、稚戯に等しい飲食を伴う万歳三唱の渦を全国に蔓延させたのであるが、それに立腹する人たちも、中にはいた。幸徳秋水は日本人の外交感覚の幼さを嘆いた(「国民の対外思想」、『長野日々新聞』一九〇二年三月二八日付。片山[二〇〇三]、七七六ページ)。

 伊藤博文の関与があるのではないかと片山慶雄が推測する(片山[二〇〇三]、七八三ページ)『二六新報』は、ロシアやフランスとの協商を容易にする手段として日英同盟を結ぶのならいいが、ロシアを牽制するだけの日英同盟への懐疑論を展開した(「日英同盟と英露同盟」、『二六新報』一九〇二年一月七日付。片山[二〇〇三]、七八二ページ)。

 『万朝報』の「日英同盟」批判は激しかった。匿名記事ではあるが、幸徳秋水の執筆であろうと片山慶雄は推測している(片山[二〇〇三]、七八四ページ)。

 同新聞は以下のような批判を打ち出した(< >内で要約)。<英国は、これまでの栄光ある孤立政策を維持できなくなったから「日英同盟」を結んだのである。英国を攻撃する可能性のある複数の国が出てきたからである。つまり、同盟を結んでしまったことによって、日本は自国の権益を保証されるどころか、英国の戦争に巻き込まれる可能性が高くなったのである。英国の方が日本よりも同盟利益は大きい。また、同盟が締結されたことで、将来日本の軍備が増強し、増税につながる流れができるであろう>(「日英同盟条約(上・下)」、『万朝報』一九〇二年二月一四、一五日付。片山[二〇〇三]、七八四~八五ページ)。 

 『万朝報』は、内村鑑三の「日英同盟」批判も掲載している。内村は英国を信頼できない国として切って棄てる。ボーア戦争を見ても、英国は弱小国を利用し尽くして結局裏切る。英国は利益のみを求め、義理も人情も持たない。「弱国に対する英国の措置は無情傀恥の連続である。そうして日本人が同盟条約を締結したとて喜ぶ国は此無情極る英国である」(「日英同盟に関する所感(上)」、『万朝報』一九〇二年二月一七日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 内村は、日本の軍事侵略的体質を、「日英同盟」がさらに推し進めてしまうという。日本は、すでに朝鮮、遼東、台湾で大罪悪を犯しているのに、「今や英国と同盟して罪悪の上に更に罪悪を加えた」ことになる。そして、「日英同盟」は「罪悪であることを明言する」と内村は断言した(「日英同盟に関する所感(下)」、『万朝報』一九〇二年二月一九日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。ボーア戦争の経緯を見ても、英国は小国を利用し尽くして棄て去る国であり、最終的には、世界は、二、三の「強国の専有する所」となる帝国主義に突入するという危機感を、内村は訴えた(「杜軍の大勝利」、『万朝報』一九〇二年三月一六日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 一九〇二年四月八日、ロシアは清との間で「露清満州還付条約」を結んだ(4)。この条約は、半年ずつ、三回に分けて満州からロシア軍を撤退させるという密約であった。これは、露仏条約の延長でしかないが、当時の日本人は、この条約を「日英同盟」の成果と受け取ったのである。

 『日本』(一九〇二年四月一一日付)は、「満州問題の落着」と題した記事で、「日英同盟」が満州問題の解決を促したと同盟の存在を絶賛したし、『東京朝日新聞』(「満州還付条約調印」一九〇二年四月一一日付)、『毎日新聞』(「満州条約の調印、東洋平和の確保」一九〇二年四月一一日付)、『東京日日新聞』(「満州還付」一九〇二年四月一〇日付)等々、多くの新聞が同様の見解を表明した(片山[二〇〇三]、七八八ページ)。「日英同盟」批判の論陣を張っていた『二六新報』ですらロシアのバルチック艦隊が日本を襲撃しようとしても、スエズ以東の港は英国の許可なしに利用できないので、艦隊は補給面で日本攻撃が困難になるだろうとの理由で「日英同盟」を肯定的に評価するようになった(「海軍拡張」一九〇二年八月二五日付。片山[二〇〇三]、七九一ページ)。

 本章、注(1)に見られるように、「日英同盟」の前文に「極東全局の平和」が謳われ、第一条で日本が韓国において格段の利益を持つことが明記されたことは、「極東の平和」のために、韓国を侵略することの正当性を与えられたものと日本政府と軍部は解釈したがっていた。『万朝報』などがその論陣を張った(「清韓の経営」一九〇二年四月九日付、「韓国電線と日露」一九〇二年五月二六日付。片山[二〇〇三]、七九二ページ)。

 『毎日新聞』は、露骨に朝鮮人は無能なので、彼の地を発展させるためには、日本人の経営に委ねるべきであると主張した(「日韓間の経済的関係」一九〇二年六月八日付)。「日英同盟」は、日本の韓国進出を促したものであるとの解釈を示したのが『国民新聞』であった(「日英同盟及其将来(二)」一九〇二年四月一二日。片山[二〇〇三]、七九三ページ)。 そして、ロシアの満州撤兵は嘘であったことが日本の新聞に暴露されるに至って、日本の世論は韓国併合に向かって一直線に進むことになったのである(「北清時談」、『日本』一九〇二年一一月二一日付。「露国の満州占領」、『万朝報』一九〇三年一月一三日付。片山[二〇〇三]、七九九ページ)。


野崎日記(411) 韓国併合100年(50) 韓国臣下論(1)

2012-04-08 17:30:32 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 2 王政復古・日英同盟・韓国臣下論

 はじめに

 「日英同盟」が締結されたのは、一九〇二年一月三〇日である。同盟が締結される直前の一九〇一年一一月から一九〇二年一月にかけて伊藤博文(ひろぶみ)が欧州を歴訪し、各地で大歓迎された。それも過剰な程の接待を受けた(君塚[二〇〇〇]、三三~四八ページ、参照)。



 日英同盟が検討されるきっかけを与えたのは、一九〇一年三月に、ドイツにが行なった、東アジアの安全保障に関する「日英独三国同盟」の提唱であった。これに対して、英国首相のソールズベリー(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury)が乗り気でなかったので、ドイツはあきらめることになった。



 「日英独三国同盟」の気運が消え去ると、日英の間で日英同盟の可能性が検討され始めた。つまり、日英同盟は、長年の懸案の結果ではなく、突然にアイディアが浮上し、瞬く間に成立してしまったのである。

 ただし、ソールズベリー首相自身は、「三国同盟」案解消後に浮上した日英同盟構想にも消極的であったらしい(君塚[二〇〇〇]、三四ページ)。それでも、一九〇一年七月三一日、英国外務大臣になったランズダウン(Henry Charles Keith Petty-Fitz Maurice, 5th Marquess of Lansdowne)と在英日本公使・林菫(はやし・ただす)との間で、日英同盟を両国の正式の検討事項にすることが確認された。両者の会談では、清の門戸開放・韓国における日本の優越的地位が確認された。同年一〇月一六日に両者の会談が再開されたが、フランス滞在中のソールズベリー首相の帰国まで、会談内容を進展させないように、ランズダウンは林に要請した。つまり、日英同盟案に消極的な英首相の意向を無視することができなかったのである(同、三四~三五ページ)。

 この時期、ランズダウンは、清、ペルシャの問題でロシアと交渉していた。この交渉が決裂したのが一九〇一年一一月五日である。すでに帰国していたソールズベリーは、これまでの姿勢を一転させ、日英同盟の積極的推進者になった(同、三五ページ)。

 まさにこの一一月時点で、伊藤博文がロシアなどの欧州を歴訪したのである。それは、「日露同盟」の成立が可能かどうかの交渉だった。伊藤は、ソールズベリーと同じく、一一月までは日英同盟に懐疑的であった。栄光ある孤立政策を続けていた英国が、何の見返りもなく日本と同盟を求めてきていることに不信感を持っていたのである(同、三六ページ)。
 それにしても、この時期の伊藤を取り巻く環境は華麗であった。一九〇一年一〇月、伊藤は米国のエール大学から名誉博士号を贈られるとの通知を受けた。その授与式に出席するために米国に渡った後、欧州に行こうと旅立ったのである。それは、建て前としては、私的な旅行であった。ところが訪問先の各地で大歓迎を受けたのである。




 伊藤は、一九〇一年一一月二七日、ペテルスブルグに到着し、翌二八日にロシア皇帝のニコライ二世(Nicholas II)との謁見を許され、一二月二~四日、ラムズドルフ(Vladimir Nikolayevich Lamsdorf)外相、ウィッテ(Selgei Witte)蔵相と会談、韓国における日本の優位をロシアに認めさせようとした。しかし、結論は、その時点では出なかった。そして、一二月一二日には「日英同盟」を締結するという方針が日本政府によって確認された。ベルリンに入って、伊藤は、駐独・英臨時公使・ブキャナン(George William Buchanan)と会談した。しかし、一二月一七日、ロシアのラムズドルフ外相から、ロシアは、韓国における日本の特権的地位を認められない、つまり、日露同盟は無理であるとの返事を、伊藤は、受けた(同、三七ページ)。このこともあって、一九〇一年一二月二四日にロンドンに入った伊藤は、「日英同盟」締結止むなしとの覚悟を決めたようである(同、三八ページ)。




 一二月二五日のクリスマスには、聖なる日に遠慮して、伊藤は、動けなかったが、翌二六日には、ソールズベリー主宰の晩餐会に主賓として招待された。クリスマス休暇中であるにもかかわらず、重要人物たちが伊藤のために集った。そして、二七日には、モールバラ・ハウス(Mallborough House)で、国王エドワード七世(Edward VII)の謁見を許されている。年明けの一九〇二年一月三日には、ランズダウン外相の邸宅・バウッド・ハウス(Bowood House)に招かれ、会談している。翌、一月四日、ソールズベリーの別荘、ハットフィールド・ハウス(Hatfield House)の午餐会に招かれ、各界の名士たちと会食している。その夕刻、日本公使館主宰の晩餐会が開催され、英国政府要人のほとんどが出席し、伊藤は、英国王からの最上級のバース勲章(Grand Cross of the Bath)を授与されている。一月六日午後、伊藤は英国外務省で再度ランズダウン外相と会談し、ロシアとの約束がないことを確認させられた(同、三八~三九ページ)。



   その後、伊藤はサンドリナム・ハウス(Sandringham Housei)に国王を表敬訪問し、礼を述べて、一月七日、パリに発った。



 英国政府関係者の伊藤への歓迎ぶりは、ロシア、ドイツと同程度のものであったことを、
ニシュ(Ian Nishh)が説明しているが(Nish[1966], p. 201)、ロンドンでの大歓迎ぶりが他国でもあったということは、驚くべきことである。しかも、ロンドンでは年末・年始の休暇中にこれだけの規模の歓迎がなされたのである。それは、日本における伊藤の地位の高さを示すものであるし、それだけ、東アジア情勢が緊迫化していたことの証左であろう。
 伊藤が、ロンドンを離れたその月末(一九〇二年一月三〇日)に日英同盟は締結された(1)。いかに慌ただしかったかが分かるであろう。