消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.204 ムーディーズとS&Pとの重なり

2007-12-30 22:59:29 | 格付け会社

 一九一九年から一九二四年までの五年間、プアーズの出版物であるにもかかわらず、ムーディーズの名前が使われることがあった。ジョン・ムーディ(John Moody)自身が述懐している。

 「これは、長い期間、私たちの市場に大きな混乱をもたらしていた。人々は、プアーズの出版物を私たちの出版物と誤解するのが常であった。そのせいで、私たちの商売は著しく制限された」(一九五〇年)(Moody, John,"A Fifty Year Review of Moody's," 一九五〇年初での演説、Wilson, Richard S.[1987], p. 18に採録)。

 一九〇七年の金融恐慌に巻き込まれたジョン・ムーディは、『ムーディーズ証券年鑑』(Moody's Manual of Industrial and Corporation Securities を刊行するために自らが創設した出版社、ジョン・ムーディ&カンパニー(John Moody & Company)を一九〇八年に手放した。

 
それによって、会社名はムーディ年鑑社(Moody Manual Company)になった。ムーディの名前を残したのは、ムーディがすでにビッグ・ネームになっていたからである。年鑑の編集を引き継いだのがロイ・ポーター(Roy W. Porter)であった。そして、ポーターは、一九一四年にこの会社を買い取っている。この会社とプアーズ鉄道年鑑社(Poor's Railroad Manual Company)が一九一九年に合併してプアーズ出版社(Poor's Publishing Company)ができた。ここに、プアーズ社は、ムーディーズの名前を使う権利を手に入れたのである。

 あわてたのは、ジョン・ムーディである。ムーディ自身は、ジョン・ムーディ&カンパニーを手放したすぐに後、一九〇八年、アナリシス出版社(Analyses Publishing Co.)を作っていた。一九一三年、彼は会社名をムーディーズ・インベストメント・サービス(Moody's Investment Service)に変え、翌、一九一四年、さらに同社を同名の法人会社組織にした。そして、一九二四年、一〇万ドルでムーディーズの名前の使用権をプアーズ出版社から買い戻したのである。

 しかし、一九六二年、ムーディーズは、ダン&ブラッドストリート(D&B=the Dun & Bradstreet Corporation)に買収されてしまう。一九九八年になって、ムーディーズはD&Bからの独立を達成し、今日に至っている。

 現在のS&Pについても整理しておこう。同社のルーツは四つある。

 第一のルーツは、一八六〇年のヘンリー・V・プアー(Henry V. Poor)『米国鉄道・運河史』(History of Rilroads and Canals of the United States)を出版するH・V・アンド・H・W・プアー社(H.V.and H.W. Poor Company)である。そして、この会社は、一八六七年にプアーズ鉄道年鑑社(Poor's Railroad Manual Company)に改名された。

 第二のルーツは、すでに説明したように、ジョン・ムーディ・カンパニーである。一九一九年に、この会社の後継と合併して、プアーズ出版社となった。しかし、同社は、一九三〇年代の恐慌の直撃を受け、第三のルーツであるバブソン家の一員であるポール・バブソン(Paul T. Babson)からの資金援助を受けている。

 第三のルーツ。一九〇三年ロジャー・バブソン(Roger babson)が、株式社債カード・システム(the Stock and Bond card System9を設立した。この会社が、一九一三年、第四のルーツであるジェームズ・ブレイク(James L. L. Blake)に買収される。

 第四のルーツ。一九〇六年、ジェームズ・ブレイクが、スタンダード統計所(the Standard Statistics Bureau)を設立、一九〇七年には、ムーディーズ年鑑に所収されてい会社の資料の更新作業を引き受ける。そして、一九一三年、ブレイクは、バブソンのカード・システムを買収し、一九一四年に会社名をスタンダード・スタティスティカル・カンパニーにした。一九四一年プアーズ出版社と合併して、スタンダード&プアーズ・コーポレーション(S&P=Standard & Poor's Corporation)が誕生することになった。

 同社は、一九九六年マグローヒル社(mcGraw-Hill Inc.)に買収され、現在に至っている(Sinclair, J. Timothy[2005], pp. 24-25)。

 一九三三年のグラス・スティーガル法(the Glass-Steagall Act)によって、米国では銀行が証券業務を県営することが禁止された。これは言い換えれば、この法律以降に証券ビジネスが銀行から独立して成立したことを意味する。

 格付け業務が重要になったのは、したがって、一九三〇年代以降になってからである。それまでは、銀行の調査の方が大きな意味をもっていた。格付けは、鉄道会社債や製造会社債、金融会社債など一部の業種に止まっていたのである。

 第一次世界大戦後、米国の自治体債や外国政府債の格付けも行われるようになっていたが、両大戦間期には結構、外国債のでフォールトが多く、しかも、一九三〇年代の恐慌に懲りて、投資家たちは、米国内の一流企業債への投資に限定していた。

 こうした保守的な投資姿勢が変化したのが、一九七〇年代に入って徐々に進行したブレトン・ウッズ(Bretton Woods System)の崩壊である。ローリスク・ローリターンではなく、ジャンクボンドなどのハイリスク・ハイリターンへの投資が活発化したのである。ここに、格付けが重視される土壌が形成された。

 格付け会社が飛躍するのは、金融の国際化を迎えてからである。とくに、一九九〇年代に入って、ムーデーズにせよ、S&Pにせよ、米国の内外に拠点を急速に拡大していった。 格付け会社が、債券発行者から手数料を取るようになったのは、一九六〇年代になってからである。それまでは、顧客の投資家から会費が格付け会社の主たる収入源であった。S&Pの収入の七五%は債券発行者からの格付け手数料であるとシンクレアは、一九九三年二月、S&P副社長のジョアン・W・ローズ(Joanne W. Rose)とのインタビューによる知見を紹介している(Sinclair[2005], p. 29)。

 それとともに、収入も激増した。ムーディーズ・インベスターズ・サービスの親会社、ムーディーズ・コーポレーション(Moody's Corporation)の収入は、二〇〇〇年で六億二〇〇万ドル、二〇〇一年七億九六七〇万ドル、二〇〇二年一〇億二〇〇万ドルであった(同社の二〇〇二年の年報)。

 格付けは以下のプロセスで行われる。

 まず、債券発行者から格付けの依頼を受ける。格付け会社が自社の担当者たちを決める。担当者たちが発行者と面会する。担当者たちで協議する。格付けを決定する。さらに追跡調査が行われる(S&P[1992], p. 9)。

 こうした手順を踏みながら、データ収集が行われる。当該企業の財務内容、同業他社との比較、当該証券の法的側面、当該企業の経営姿勢、他社の経営姿勢との比較、等々である(Hawkins et.al.[1983], p. 38)。 

 個々の企業が開示している財務データは膨大すぎて一般投資家の理解範囲を超えてしまっている。格付け会社の判断が求められるのは、そのためでもある(Coffee[1990], pp. 5-8)。


福井日記 No.203 FRS(連邦準備制度)創設にみる米国の金融権力

2007-12-29 19:20:18 | 格付け会社

 一八五〇年代半ば、プアーズの信用調査が始まった。Poor's American Railroad Journal の発刊がそれである(Kirkland, Edward C.[1961], p. 233)。そして、一八六〇年ヘンリー・V・プアー(Henry V Poor)がPoor, Henry V.[1860]を刊行した("History of Standard & Poor's," www.standardandpoors.com)。

 それは、ヘンリー・プアーが誇らしげに語ったように、久しく待ち望まれていた信用調査であった(ibid., p. v)。続いて、一八六八年、プアーズ社は、年鑑Poor's[1868]を出版し、一八八〇年代までには五〇〇〇部以上の予約を集めたという(Kirkland[1961], p. 233)。

 鉄道債だけでなく、産業全般の情報誌の必要性を痛感したのが、ジョン・ムーディ(John Moody)であった(Moody, John[1933], p. 90)。そしてムーディは、一九〇〇年から、その情報誌を発刊するようになった(Moody, John[1900])。

 ただし、プアーにせよムーディにせよ、まだ信用調査段階に止まり、証券の格付けまでには進んでいなかった。

 格付けを行う必要性が認識されたのは、一九〇七年の金融恐慌を経験して以後である。この金融恐慌は、米国史上でも非常に厳しいものであった。これに対処するために、FRBができたのである。

 一九〇〇年以降、信託銀行の設立が相次ぎ、そうした新興金融機関から融資を受けて企業買収が活発になっていた。例えば、アウグストス・ハインツ(F. Augusutus Heinze)とその兄弟たちは、モンタナ銅山会社(Montana Copper Mines)株を一二〇〇万で売却し、ニューヨークの信託銀行、クニッカーボッカー(Knickerbocker Trust Company)を買収し、この信託銀行を通じて企業の売買を繰り返していた。旺盛な企業買収ブームによって、ニューヨークの金融は非常に逼迫したものになっていた。

 まず、一九〇七年三月、ニューヨーク株式市場が崩壊した。対前年比五〇%の下落であった。ハインツ兄弟たちは、ユナイテッド銅山会社(United Copper)の買収を進めていた。傘下の信託銀行を利用して強引な企業買収を進めていたハインツ兄弟への批判がニューヨーク金融界には高まっていた。そして、クニッカーボッカー信託銀行の手形をナショナル商業銀行(the National Bank of Commerce)が一九〇七年一〇月二一日に拒否し、それによって、この信託銀行とその関連会社であるナショナル・バンク・オブ・ノース・アメリカ(the National Bank of North America)が破産し、当時の金融中心地であったニューヨークの信託銀行への取り付け騒ぎが広がり、またたく間に全米で信託銀行の倒産が相次いだ。

 事態に対処すべく、財務省は三五〇〇万ドルの政府資金を銀行に融資した。金融界の大立物、J・P・モルガン(Morgan)が銀行の首脳たちを集めて、支援体制を固めた。一九〇八年二月、騒ぎは終息した。

 そして、このモルガンをはじめとする金融界の大物たちが、中央銀行設立に向かって動き出した。

 
当時のロード・アイランド(Rhode island)選出共和党上院議員で院内幹事であったネルソン・オルドリッチ(Nelson Aldrich)が主役となって、一九〇八年五月、オルドリッチ=ブリーランド法(the Aldrich-Vreeland Act)が議会を通過した。中央銀行創設を目指す「国家金融委員会」(the National Monetary Commission)が、一九〇九年、この法によって設立され、この委員会が一九一二年、「連邦準備法」(the Federal Reserve Act)の制定を議会に勧告して解散した。この勧告は、委員会議長のオルドリッチの名前を関したオルドリッチ・プランと呼ばれている。

 委員会の中心人物であったオルドリッチは、保守派の共和党大物議員というだけでなく、金融界にも大きな影響力をもつ人であった。彼は、J・P・モルガンのパートナー(共同経営者)であり、娘婿はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアである。そして、孫のネルソン・オルドリッチ・ロックフェラーは後の米国大統領である。

 中央銀行設立を求めて活躍した人々を列挙しよう。いかに、モルガン商会やクーン・レーブ商会(Kuhn Loeb & Co.)関係者が設立運動に大きく関与していたことがが分かる。

 モルガン商会関係者は、J・P・モルガン本人、J・P・モルガンの上級パートナーであったヘンリー・デビッドソン(Henry P. Davidson)、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク頭取のチャールズ・D・ノートン(Charles D. Norton)、バンカーズ・トラスト社長で後にニューヨーク連銀総裁となったベンジャミン・ストロング(Benjamin Strong)たちであった。

 クーン・レーブ商会関係者は、クーン・レーブ商会を代表しナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク頭取のフランク・A・バンダーリップ(Frank Vanderlip)、クーン・レーブ商会のパートナーのポール・M・ウォーバーグ(Paul Warburg)であった。このポール・ウォーバーグは、ドイツとオランダを拠点にしていたウォーバーグ銀行経営者、マックス・ウォーバーグの兄である。

 一九〇七年の初め、クーン・レーブの支配者、ジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)
、「ニューヨーク商工会議所(the New York Chamber of Commerce)で、信用をキチンと管理できる中央銀行がなければ、米国は史上最悪の金融恐慌に苦しむことになるだろう」と警告していた。

 オルドリッチ・プランは、民間銀行が主導する中央銀行であった。まず、商業銀行で組織される全米銀行協会が中央銀行の管理を行う。この協会の下に一五の地域中央銀行(国家準備銀行=National Reserve Associates)を作る。この地域中央銀行は、独自に利子率の設定なり、この制度の加盟銀行に資金融資を行う。加盟は強制ではない。地域中央銀行も民間銀行であり、運営資金は加盟銀行から得る。つまり、中央銀行のすべては民間によって運営されるという構想が、オルドリッチ・プランであった。

 当時、共和党は、金融界を基本とする北東部保守派エスタブリッシュメントによって支持されていた。

 当時の共和党は、連邦政府による市場介入を嫌い、民間の自治を尊ぶ党であった。FRSが成立した同じ一九一三年には連邦所得税が導入されているが、これは私的財産権の侵害であり、憲法違反であるとの疑義が共和党から出されたほどである。

 しかし、オルドリッチ・プランが議会を通過してしまうと、ニューヨークの金融寡頭勢力(the Money Trust)によって民衆の生活が圧迫されるというオルドリッチ・プラン批判がポピュリストたちによって提起された。

 ポピュリストというのは、一八九一年に創設された人民党を支持する人たちも総称で、恐慌に不満をもった人々がウィリアム・ジェニングズ・ブライアンを党首にしてネブラスカ州のオマハで決起大会を開いて成立した第三の党である。その後、ブライアンは、一九一二年一一月五日の大統領選挙で勝利した民主党のウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)政府の国務長官に就任した。彼の意見がオルドリッチ・プランを大きく修正して設立されたFRSに強く反映されたのである(渡部亮[2007])。

 ポピュリストと民主党は米国の南西部の農民を支持基盤とするものであった。彼らが、市場経済万歳論の共和党に対抗して、連邦政府権力による市場の修正を訴えていたのである。

 ポピュリストによる批判を受けてヒアリングを展開したのが、民主党主導のプジョー委員会(the Pujo Committee)であった。ヒアリングを主導したのは、民主党の法律家、サムエル・ウンターマイヤー(Samuel Untermyer)であった。ヒアリングは、金融寡頭勢力による経済支配に関するものであった。

 一九一二年の選挙で、民主党が大統領戦で勝ち、両院をも多数支配するようになった。この年の党綱領では、明確にオルドリッチ案への批判と金融寡頭勢力から大衆を守るべきであることが謳われた。

 そもそも、米国における中央銀行は、民間の商業銀行業務を支援することを要請する北部金融業者の利害に沿うもので、ヨーロッパの商業銀行との連携を模索するものであった。

 独立戦争後、最初の議会が開催されたのは、一七九〇年であった。そして、翌年の一七九一年二月二五日、最初の中央銀行、ファースト・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ(the First Bank of the United States)が認可された。初代財務長官、アレキサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)の提案で議会から特許状が与えられたのである。二〇年間期限であった。当時から民主党に組み込まれることになる南部の人々は、この最初の中央銀行が北部金融業を利するだけであるとの批判を行っていた。

 一八一一年特許期間が終わり、一八一六年までは、バンク・オブ・ノース・アメリカ(the Bank of North America)が中央銀行業務を引き継ぎ、一八一六年ジェームズ・モンロー(James Monroe)政権下でセカンド・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステオツ(the Second Bank of the United States)が中央銀行として認可された。同じく二〇年の特許期間であった。

 
しかし、民主党のアンドリュー・ジャックソン(Andrew Jackson)大統領が、これも北部金持ちのためにしか働いていないとして一八三六年に中央銀行の特許を更新しなかった。南部の利益が北部によって侵害されている。しかも、米国政府はこの銀行を通じて外国の銀行の餌食になっている等々を特許更新拒否の理由を同大統領は数々挙げた。このように、米国では、民間主導の中央銀行を設立しようとする北部金融界(共和党の支持基盤)に対して、農民を基盤とする南部の民主党が反対し続けたという歴史がある。その結果、米国は一九一三年までのほぼ八〇年間も中央銀行をもてなかったのである。

 一九一二年、ウィルソンは、オルドリッチ・プランの批判を政治綱領に掲げて大統領選を戦い、勝利した。しかし、経済苦境の再来を防ぐためには、中央銀行そのものの設立の必要性については否定しなかった。

 ウィルソンは、議会の両院で多数の議席を確保できていた。上下両院の銀行・通貨委員会のそれぞれの議長を民主党が握り、下院のカーター・グラス(Carter Glass)議長(バージニア選出民主党下院議員)と上院のロバート・ラザン・オーエン(Robert Latham Owen)議長(オクラホマ選出上院議員)がグラス・オーエン法案を作成した。

 これは、オルドロッチ・プランを大幅に修正するものであった。繰り返しになるが、オルドリッチ・プランは、中央銀行を民間金融界の支配下に置こうとし、グラス=オーエン・プランは、中央銀行の理事会にできるかぎり民衆の代表である政治家を送り込もうとしていた。 

 グラス=オーエン・プランは、各地に中央銀行を配置し、それを単一の上部機関で監督するのは、オルドリッチ・プラント同じであるが、監督機関は民間人ではなく大統領に指名による公人からなる連邦準備理事会(FRB)にし、各地の中央銀行にすべての民間銀行を強制的に参加させることにした。オルドリッチ・プランにはほとんどなかった公の監督を前面に押し出したのである。北部の金融業界も細部の面ではこの法案作りに協力することになった。

 各地に作られる連邦準備銀行は株式会社とし、加盟銀行は連邦準備銀行の株式を保有することになった。銀行券も金融界が主張する民間銀行券ではなく、また、ポピュリストたちが主張する国家紙幣でもなく、妥協策として連邦準備券とした。ウィルソン大統領の仲介でポピュリストと金融界とが歩み寄ったのである。

 いくつかの修正を経て、一九一三年一二月二二日に連邦準備法案(the Federal Reserve Act)が下院を通過した。賛成二九八、反対六〇、保留七六であった。翌二三日、上院を通過した。賛成四三、反対二五、保留二七であった。民主党員は全員が賛成であった。そして、同日、ウィルソン大統領がこの法案に署名して、連邦準備法が成立したのである。

 現行の連邦準備制度理事会(FRB=Federal Reserve Board)が他国の中央銀行に相当し、一四年任期の理事七名から構成され、理事は大統領の指名である。指名された理事は上院の承認がいる。理事の中から議長と副議長は四年任期で任命される。

 もっとも重要な決定機関は、連邦公開市場委員会(FOMC=Federal Open Market Committee)である。委員は一二名で、理事七名と地区連邦準備銀行のうち、ニューヨーク連銀総裁は指定席、その他、四名が地区連銀の持ち回りである。議長はFRB議長、副議長はニューヨーク連銀総裁である。

 連銀と略称される連邦準備銀行は、一二ある。ドル紙幣の発行が許されている。ドル紙幣とは、正確には連邦準備券と呼ばれている。

 地区ごとの連銀は以下の一二地区に配置されている。ボストン連銀(第一地区)、ニューヨーク連銀(第二地区)、フィラデルフィア連銀(第三地区)、クリーブランド連銀(第四地区)、リッチモンド連銀(第五地区)、アトランタ連銀(第六地区)、シカゴ連銀(第七地区)、セントルイス連銀(第八地区)、ミネアポリス連銀(第九地区)、カンザスシティ連銀(第一〇地区)、ダラス連銀(第一一地区)、サンフランシスコ連銀(第一二地区)。

 米国の文化風土の中で、連邦政府の権限が強く働くFRSは特異な存在である。FRSは、連邦議会に対して報告する義務を課せられているものの、財務省や他の政府部局からの指揮命令系統には服していない。経費も政府に依存せず、地区連銀の収益によってまかなわれる独立採算である。民間銀行は、FRSに強制的に組み込まれている。

 ポピュリストによる強い反発を受けて、北部金融界とポピュリストとの妥協の産物であったことが、FRSを財務省からの干渉を除け、連邦政府から財政的に独立している等々、
米国の統治機関として特異な存在にしているのである。


福井日記 No.202  損保がサブプライムの価値保証をした意味

2007-12-20 01:34:50 | 格付け会社

 カタカナ語は、日本語の単語の数をとてつもなく増大させて、便利にはしてくれたのですが、違和感とともに、なにか欺されているのではないかとの不安をも私たちに与えます。そして、あまりにも数多くのカタカナ語が氾濫するにつれて、私たちは、その意味すら問うこともなくなりつつあります。

 ハリウッド映画は、いつのまにか、日本語に置き換えないままの、訳の分からないタイトルばかりになってしまいましたね。お金の世界もまさにハリウッド映画と同じようになりました。英和辞典にも載っていない神秘的なカタカナ語のオンパレードです。ここで、カタカナ語というのは、英語の新造語のことです。

 金融のもっとも重要な言葉に、「ハイリスク・ハイリターン」という言葉があります。これは、昔ながらの「高利貸し」と同じ意味です。生活に困って、借金だらけの人に高利のカネを貸し付けて大儲けする悪徳金融業者が使う手口です。それが、カタカナ語になったとたんに、そういう商売で大金を掴んだ金持ちのとくとくと人生哲学を語る常套語になったのです。昔からの日本語に置き換えればすぐに馬脚を現すはずの仕掛けが、カタカナ語によって隠されてしまうのです。昔ながらの質素倹約はリスクをとらない後ろ向きの生き方だとして批判される拝金主義者の哲学が「ハイリスク・ハイリターン」なのです。

 生活に余裕のある人は、高い利子のマネー(カネ)はまず借りませんね。
 
生活に追われて、金欠でヒーヒーしている貧乏人ほど利子が高くてもいいから、目の前のキャッシュ(現金=げんなま)を借りようとしますね。カネを貸す人は、生活に余裕のある人に貸し付けて低い金利を取るよりも、貧乏人に貸し付けて高い金利を取りたいものです。それは、いつの世にもあった、カネ貸しの悲しい性(さが)です。しかし、昔は、人の弱みにつけ込んで高利のカネを貸す業者への社会の冷たい目がありました。ところがいまはどうでしょう。高い利子を取れる仕組みを開発することが、無数のカタカナ語で飾り立てられて時代の先端を行くビジネス(カネ貸し業)として尊敬されているのです。「おカネを儲けることは悪いことなのですか」とあどけなく問われても、反論しようとしない世の中になってしまったのです。

 急いで本題に入りましょう。
 
サブプライムとは、プライムではない「二流の」という意味です。「サブ」とは「~の下に立つ」、プライムとは「一流の」ということです。一流とはキチンと借金を払える確かな借り手のことです。二流とは借金返済が滞る可能性がある借り手のことです。当然、プライムに貸すカネの利子は安く、サブプライムの利子は高くなります。サブプライム・ローンとは借金返済に難がありそうだが高い利子を取れるローン(貸し付け)を指します。サブプライム・ローンとは住宅購入資金貸し付けが主役ですが、実際には、自動車ローンなど、分割払いのすべてを含めます。

 もともと返済に難があった人への貸し付けなので、返済が滞る可能性を貸し手は承知していたはずです。そして、住宅ローンの支払いができないために、抵当に入っていた住宅が競売にかけられることもよくあることです。どこの国にも、いつの時代にもありふれて見られる現象です。米国の住宅ローン支払いが滞り始めたといっても、それがどうしたというのが、これまでのことでした。しかし、米国での住宅ローン返済問題が世界中を震え上がらせているという現象は、とてつもなく異常なことなのです。

 返済に難がある人への貸し付けにはリスク(危険性)があります。しかし、そうしたリスクをテイク(冒)して貸し付けると、ハイ(高い)・リターン(金利)を得ることができるのは確かです。しかし、リスクを回避できればそれにこしたことはありません。トランプのババ抜きゲームのごとく、このハイリスクをババとして他人に渡してしまえばいいのです。住宅購入者からの支払いが停止されてしまえば、本当のババになるので、その前にババを売りつければいいのです。

 それには、最低限、二つの仕組みがいります。第一の仕組みは、モーゲジ(住宅担保)債権(元利返済を受ける権利)の証券化(セキュリターゼーション)です。住宅ローンとは三〇年間という長期のものが普通です。この三〇年債権を集めて、それを細かい証券に仕立て上げて(ストラクチュアード)、他人に売りつければいいのです。三〇年払いの債権をもっている住宅ローン会社から銀行がその債権を買い取って証券化するのです。それには、非常にたくさんの種類の債権が組み合わされます。数百種類になることも稀ではありません。そうして作り上げられた証券がCDO(集められた債務証書を加工した証券=債務担保証券)と呼ばれる金融商品のことなのです。こうして、三〇年もの長期のリスク(ババ)を転々と他人に売りつける商売が「リスク・ビジネス」として成立したのです。

 第二の仕組みは、一種のマネーロンダリング(カネの出所を分からなくすること)を実現する長い連鎖の紐を多数作り出すことです。そのさい、大手金融機関は、配下のSIV(仕組み物投資ファンド)に証券を買わし、その会社を通して他人(主として外国人)に売ります。SIVとの取り引きは監督官庁に提出する会計帳簿に記載しなくてもいいので(オフバランスシート)、ここを通すとババの存在をかぎりなく見えにくくさせます。この種の会社が認可されたのは、最近のことで、日本では一九九八年です。世界の金融機関は、カネの流れをなるべく不透明にすべく、SIVを作っています。SIVの正式名は(ストラクチュアー・インベストメント・ビークル)という一種の投資ファンドです。ファンドに乗り物(ビークル)という言葉が使われていることにもいかがわしさが漂います。

 出所不明の証券をいくらなんでも他人に売りつけなければならないのですから、証券には鑑定証がいります。これが、レーティング・エージェンシーという格付け会社による通信簿のような評定なのです。

  
世界の証券の格付けは、ムーディーズ、S&P、フィッチによる寡占状態にあります。上位三社で九〇%を超えるでしょう。ムーディーズはムーディーズ・コーポレーション、S&Pはあの権威あるマグローヒル出版社の完全子会社です。

 長い連鎖の紐の先端にはローンで住宅を購入した人たちがいます。この人たちを多数集め、そして、返済能力の異なった人々を集め、さらには、金やレアメタルなどを証券化した各種債権を集積して、それをまとめてリスクの大きさごとに輪切りにして他人に売却する商売に金融機関が群がるようになりました。そのうち、ババをもっているのは誰かが分からなくなります。いま、世界中が米国の住宅金融問題で大騒ぎしているのは、ババのありかとその総額が分からなくなってしまったからです。

 ファンドが「ビークル」(乗り物)と名付けられたことに関連づけて「ピッギー・バック」のこともお話しておきましょう。

  ピッギーバックとは、モノを運ぶ自動車を、同じくモノを運ぶ貨車に乗せることを指す言葉です。大量に運ぶことを意味する言葉で、融資が連鎖的に拡大する様を表現しているのです。

   例えば、住宅購入者に長期ローンを組ませます。これが基本となる貨車です。この貨車は、多くの場合、二・二八ローンというものです。これは、二〇〇一年の利下げの年に登場しました。三〇年の返済期間のうち、最初の二年間は低い金利で借りられますが、二年経過後の残りの二八年間は、プライム(サブではない)・ローンよりも数%も高い利子率で支払わなければならないという仕組みです。このような内容では、金利が元の高い水準に戻したときには、返済額が急増してしまいます。こういうときに、最初のとてつもなき高い利子率での支払いになることは分かり切っていたことである。しかし、借り手は低金利が続くという思い込みで、二・二八ローンに殺到したのです。

 二・二八型サブプライム・ローンは猛烈な勢いで拡大しました。二〇〇一年には一六〇〇億ドルであったこの種のサブプライム・ローンは、二〇〇五年には六〇〇〇億ドルにまで急増してしまいました。初めのうちは、滞納率は信じられないほど低かったのです。二〇〇六年時点でも、所得証明のいらないサブプライム・ローンが四五%も占めていたほどです。所得額は自己申告でよかったのです。

 滞納率が低かったのは、住宅価格が値上がりしていたからです。二年後に支払い利息が増える前に、借り手は値上がりした住宅を担保に、容易に新しい二・二八に借り換えることができたのです。

 貨車の約束は、返済を毎月キチンとしていただくというものです。ところが、この初回の返済額をも融資しましょうとの勧誘がローン会社からされるようになったのです。これが貨車に乗せられた一台目の自動車です。その他、様々の長期・短期のローン(複数の自動車)を付け加えるような融資形態が「ピッギーバック」です。

 二〇〇〇年時点では、ピッギーバックは危険ではないとの判断が関係者にはあったようです。サブプライム・ローンの分野で、ピッギーバック方式は急速に増えました。

 ところが、六年後の二〇〇六年、S&Pが、いきなりピッギーバックの見直しを行いました。この種のローンでは支払い停止の可能性が大だとしたのです。しかし、すでにこのときには、このピッギーバックと並んで、他の新しく考案された同じような仕組みの担保証券が、一・一兆ドルものサブプライム担保証券のかなり重要な部分を占めるようになっていたのです。

 ピッギーバックに疑念が生じなかったもう一つの理由に、損保会社による証券の価値保証があります。なんと損保会社が証券の元本保証をしていたのです。

  先で見たSIVが販売するサブプライム関連の証券に元本保証を付けたのです。おそらく、大金融機関の傘下にあるSIVに泣きつかれて保証を付けてしまったのでしょう。これは、損保会社の命取りになりかねない軽薄さです。損保会社の保証があったからこそ、ファンドは危ない証券を買わされたのです。傘下のSIVの失敗によって、シティ・グループのSEO(最高経営責任)は辞任し、一か月も要して選ばれた後任は、ライバル銀行にいた人でした。

福井日記 No.201 格付け会社栄養サプルメント論

2007-12-18 23:11:48 | 格付け会社


 格付け会社が格付けする世界の債券額はとてつもなく大きい。S&Pとムーディーズは、年間、世界で発行される三〇兆ドルもの債権を格付けしている(Moody's Investors Service,"Introduction to Moody's,"; htttt/www.moodys.com.htm)。

 世界の金融市場は、間歇的に軋みを経験している。一九九四~九五年には、メキシコの債務問題、一九九七~九八年にはアジア通貨危機、一九九八年にはロシアのデフォールト、二〇〇一年にはエンロンの倒産による信用危機があった。

 エンロン事件のあった二〇〇一年には、米国でデフォールトが相次いだ。二〇〇〇年にはデフォールトに陥った債権は一一七種、四二〇億ドルであったが、二〇〇一年には一九六種一〇七〇億ドルにまで急増したのである(Berenson, Alex, "Junk bonds still have fans despite a dismal showing in 2001," Wall Street Journal, January 2, 2002, C9)。二〇〇一~二〇〇二年には、アルゼンチンの公的債務一四一〇億ドルのデフォールトが起こった。

 にもかかわらず、格付け会社は業績を飛躍的に伸ばし続けてきたのである。これは、資本市場の不安感が、格付け会社の業績を圧迫するよりも、伸ばしてきたことの証拠である。

 しかし、金融のグローバル化は、言われるように、不可避の、当然の流れなのだろうか。少なくとも、一九三〇年代のニューディール時代、そして、戦後しばらくの間は、各国の権力によって、金融のグローバル化は抑制されていた。

 
気紛れな資本市場によって、大衆が傷つかないように配慮されていたのである。しかし、一九七〇年代以降、権力による資本市場への介入を批判する声が高まり、金融・資本市場は、現在のようになんでもありの規制のないものになった。それが、「正しい位置」(rightful place)と言われている。しかし、そうした金融の「自然の」(natural)の流れに人は従うべきものなのだろうか(Sinclair, Timothy[2005], pp. 4-5)。

 金融の自由化を声高に叫ぶ論者が等しく無視しているのが、金融機関のもつ社会的性格である。金融が人を支配するのではない。人が金融に決定的な影響を及ぼすのである(Beckert, Jens[1996]; Krugman, Paul[2000], chap. 6)。

 
金融機関の社会的な意味が正しく理解されなければ、今後も、金融を主犯とする社会生活の混乱が、頻発するようになるだろう。

 現在の金融システムが世界を不安定化させている。繰り返し発生する金融危機によって不安感に陥っている投資家を鼓舞する役割を格付け会社が担ってきた。格付け会社による信用付けが、金融危機乗り切りに威力を発揮してきた。

 その点からすれば、格付け会社とは、栄養サプルメントのようなものではないのか。こうした栄養補助剤が、近年、雨後の筍のように急成長している。人々が健康な生活を送り、自らの健康に自信をもっていれば、サプルメントなどに依存するはずはない。しかし、サプルメント産業が、これでもかこれでもかと人々の不安を煽る。しかし、人々は、サプルメントの中身が分からず、すぐには手を出さない。人々に手を出させるように、権威でもってサプルメントの中身を保証してきたのが、米国政府であった。

  しかも、米国政府は、毎年日本政府に迫る『年次改革要望書』の中で、米国のサプルメント販売の規制緩和を要求している。医薬外品としてスーパーマーケットで売ることを認可せよというのである。

 政府のお墨付きを得たサプルメント業界は、競って、人々に健康不安を訴える。何度もコマーシャルで洗脳された人々は、ついに、サプルメントを摂取するようになった。しかし、人々はサプルメント摂取によって、健康への不安感をなくしたわけではない。さらに、摂取するサプルメントの種類を増やしているのである。健康不安感が、サプルメント業界によって、増幅され続けているからである(Barros, Marian, "It's on the Label, but in the Tablet?," New York Times, January 2, 2002, D1)。

 銀行制度がきちんとしていた時代には、当事者ではない他人の格付けなど必要としていなかった。銀行は貸出先の信用調査を自ら行い、リスクを自ら受け入れていた。しかし、銀行という間接金融制度などは古くさいとして、米国政府は、証券などの直接金融制度を採用すべく、日本政府に執拗な圧力を加え続けた。そして、日本もまた米国のように、銀行の貸し出し業務が縮小させられてしまった。

 ちなみに、同じ銀行という表現が使われているが、日本の銀行と米国の銀行とは似て異なるものである。日本の銀行は商業銀行であり、人々の預金を預かって、企業に融資する商業銀行である。それに対して、米国の銀行は投資銀行が主流である。投資銀行とは、日本の証券会社のようなものである。

 直接金融が普及するにつれて、それまでの商業銀行も、証券投資に走るようになった。銀行は、それまでの信用調査方法では、無数の証券のリスクを算定できなくなった。ここに、格付け会社の存在価値が高まった。

 そして、リスクは自ら引き受けるものではなく、リスクを含む債権の証券化が一般化し、リスクの売買という新たな商売が生まれた。そのうちに、リスクの行方が分からなくなってしまった。格付け会社の判断だけが唯一の基準になってしまった。金融の世界に不安感が広まるほど、格付け会社は業績を伸ばすことができるようになってしまった。

 しかも、格付け会社は、専門家集団であり、中身が外部の人間にはまったく見えない。銀行や保険会社も結構秘密のベールに包まれているが、ある程度は中身が開示される。しかし、格付け会社については、輪郭すら分からないのである。

  一口に格付け会社といっても、一様ではない。D&Bなどは、証券を格付けするのではなく、商品の供給者のために、小売り会社の格付けを行うものであるし、「エクスペリアン」(Experian)などは、個々の消費者の信用の格付けを行っている。その意味では、彼らは、あまり、資本市場とは関係がない(World Bank[2002], pp. 94-96.; Miller, Margaret, J., ed.[2003]。資本市場で重大な役割をはたすのは、証券を格付けするムーディーズやS&Pなどである。

 格付け会社は、ただ格付け情報を投資者に示すだけであり、けっして、特定の証券を投資対象として推薦しているわけではない。リスクをとるべきか、安全をとるべきかは投資者自身が決めるべきであるとの立場を格付け会社は言明している(S&P[1992], p. 183)。

 投資家の銀行離れが進めば進むほど、格付け会社の比重が高まり、銀行のアナリストは逆に比重を低下させた。銀行の比重低下は、米国では、一九八〇年代から進行したが、格付け会社の格付けは正しいのかとの批判もこの頃から出されるようになってきた(Elliott, Margaret A.[1988], [1991])。

 ただし、彼らの手によって、世界各地の企業の社債が同一の基準で格付けされることによって、資本市場が劇的に拡大したという事実は否めない。

 世界の公的機関は、格付け会社を抑制するよりも、積極的に活用しようとしている。バーゼル委員会は、世界の銀行の健全性を判定するのに、従来の自己資本比率に代えて、銀行の格付けを使うという提案すらしている(BIS[2001]; King & Sinclair[2003])。

 各国の政府、自治体も、国債や地方債の格付けを格付け会社に委ねるようになっている。世界の格付け業務を独占しているこれら大手の民間格付け会社が、公的な政策を左右しているのである。非常に恐ろしいことではないだろうか

 ムーディーズとS&Pは、本部をニューヨークに置き、世界に支店を張り巡らせて、そうした格付けを可能にしている。上位二社の後に、第三位のフィッチ(Fitch Rating)がつけている。親会社は、フランスのフィマラック・SAである(Fimalac SA of Paris)。
 本稿は、Sinclair, J. Timothy[2005]の序章に依拠した。


福井日記 No.200 S&Pの歴史

2007-12-17 23:52:30 | 格付け会社

 S&P(Standard & Poor's)は、投資情報サービス会社(financial service)であり、主として金融・株式関連の出版を手がける大手出版社、マグローヒル(McGraw-Hill)の一〇〇%子会社である。

 S&Pの金融サービス業務は、格付け(credit rating)、新株調査(equity research)、株価指数発表(S&P indices)、ファンドの格付け(funds ratings)、リスク回避策(risk solutions)、企業統治相談(governance services)、業績評価(evaluations)、データ作成(data services)、等々、多岐に亘っている。

 同社が作成する株価指数は、米国だけでなく、世界で使われている。米国ではS&P500、オーストラリアではS&P/ASX200、カナダではS&P/TSX、イタリアではS&P/MIBである。

 子会社に「キャピタルIQ」(Capital IQ)がある。金融機関、投資顧問会社、会計事務所、企業等々に、金融情報だけでなく、評価に関する技術的アドバイスや作業手順などのノウハウを提供する組織である。

 創業は、一八六〇年である。ヘンリー・バーナム・プアー(Henry Varnum Poor, 1812-1905)が、この年、米国の鉄道会社に関する歴史的包括的な財務・業績データを蒐集した本を出版した(Poor[1860])。

 
同年、彼は、息子のヘンリー・ウィリアム・プアー(Henry William Poor)と「H・V・アンド・H・W・プアー・カンパニー」(H.V. and H. W. Poor Co.)を創設した。一八六八年に、この会社は、Poor's Manual of the Railroad of the United Statesを刊行した。四四二頁、五ドルであった。初版二五〇〇部がまたたくまに売り切れた。毎年、最新のデータを盛り込んだ改訂版を出した。この会社は、後に、「プアーズ出版」(Poor's Publishing)と改称した。

 一八七三年、ヘンリー・バーナムは、六一歳で一線から退き、息子のヘンリー・ウィリアムに経営を任せた。ウィリアムは、同年、保険と銀行を兼ねる「プアー・アンド・カンパニー」(Poor & Co.)を設立した。

 一九〇六年に、ルーサー・リー・ブレイク(Luther Lee Blake, 1874-1953)が、「スタンダード統計所」(the Standard Statistics Bureau)を創設した。鉄道以外の会社の財務データを蒐集したのである。本ではなく、情報提供は、縦五インチ・横七インチのカードで、頻繁に差し替えることができる形にした。

 一九一三年、ブレイクは、「バブソン・株社債・カードシステム」(the Babson and Bond Card System)という会社を買収し、この会社からも株式と社債情報を出した。

 一九四一年、プアーズ出版とスタンダード統計所が合併して、現在の名前になったのである。そして、一九六六年にマグローヒルに買収された(A History of Standard & Poor's.; http://www2.standardandpoors.com/spf/html/media/SP_TimeLine_2006.html)。

 すでに述べたが、S&Pは、SEC(the U. S. Securities and Exchange Commission)から公認された(「全米公認統計格付け機関=NRSRO=Nationally Recognized Statistical Rating Organization)格付け会社(Credit Rating Agency)である。

 格付けは長期のものと短期のものとがある。長期のものは、上位から順番にAAA、AA、A、BBBとあり、ここまでを「投資適格」(Investment Grade)ランクであるとS&Pはしている。以下、BB、B、CCC、CC、C、CI、R、SD、Dと続く。BBからDまでを「投資適格ではない」(Non-Investment Grade)ランクとされる。このランクがジャンクボンドと言われるものである。また、AAからCCCまでは、プラス記号、なにもなし、マイナス記号(例えば、BBB+ 、BBB、BBB- )の三段階に区分けされている。

 短期の格付けは、A─1、A─2、A─3、B、C、Dの順番であり、A─1には、長期と同じく、プラス、マイナス記号が付けられる。

 S&Pも、AAAを付けていた「債務担保証券」(CDO=Collateralized Debt Obligation)の値崩れで、投資家に多大の損失を負わした犯人であると非難された(Tomlinson, Richard & David Evans; International Herald Tribune, May 31, 2007)。

 本稿で、Rating Agenciesを「格付け機関」でなく、「格付け会社」と訳したのは、珍しく日本政府が、米国政府を批判したことを評価し、その訳語を採用したいからである。

 一九九八年、周知のように、日本の国債が米国の格付け会社によって、格下げされた。それ以来、日本政府、とくに財務相は格付け機関の動向に神経質になっている。

  二〇〇三年七月には、'agency'という言葉が、民間会社なのに、あたかも、「公的機関」であるかのような錯覚を引き起こすからであるしたがって、表記は、'rating company' に改められるべきだと財務相は、米国に申し入れた(Ministry of Finance, Japan, Comments on S7-12-03; http://www.sec.gov/rules/concept/s71203/dkotegawa072803.htm)。これは、SECが、格付け会社に関する論点を整理するために、世界に意見を募った(SEC Concept Release, S7-12-03, June 4, 2003; http://www.sec.gov/rules/concept/33-8236..htm)ことへのコメントである。公的機関の提案に対する意見の具申をパブリック・コメントというが、政府機関でパブリック・コメントを出したのは、日本だけであった。財務相、金融庁、投資格付情報センター、日本格付研究所の四つであった(坂田和光[2004]、四一ページ)。

 二〇〇一年一二月二日、エンロンが連邦破産法第一一条の適用を申請し、会社更生手続きに入った。米国の格付け会社は、その四日前まで、エンロンの社債を「投資適格」のランクに位置づけていたのである。

 このことから、米国では、企業統治ルール、証券市場監視の強化、監査法人・アナリストの規制強化と並んで、格付け会社の役割と機能についての調査を義務化する法律が二〇〇二年七月末にできた。これが、通称「企業改革法」、正式名「サーベンス・オクスリー法」(The Sarbanes-Oxley Act of 2002, P. L. 107-204)である。

 その前に、SECは、一九九七年にNRSRO(全米公認格付け機関)の認定基準を五つ作成していた。(一)米国のユーザーから信頼されているか、(二)発行体に左右されない十分な基盤を備えた組織であるか、(三)正確な格付け手段であるか、(四)発行体の経営陣から情報を得ているか、(五)情報漏れ防止策が講じられているか、がそれである(坂田]2004]、三九ページ)。

 ただし、多くの格付け会社は、SECによる監視体制の強化に反対している。とくに、(二)によって、財務基盤やアナリストの数などが認定基準に入ることに反対している。S&Pは、ただ一社、公認の要件は、(一)だけでよいというコメントを、先述のSEC調査で出した。それ以外の基準は、返って、参入障壁を高めて効率を阻害するだけであると主張したのである(S&P, Comments on S7-12-03, July 28, 2003, SEC[2003], p. 21)。

   しかし、多くの企業が、ムーディーズ、S&Pの両者の顧客になっている現状、そして、両者の判断が似通ったものであることからすれば、はたして、格付け会社間に効率的な競争が存在していると言えるのだろうか。                      

福井日記 No.199 ナチ科学者争奪戦その1

2007-12-16 13:28:52 | コンスピラシィ
 この稿は、http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.htmlの記述に依拠している。ただし、まだ、記述の真偽を確かめられないでいる。それでも、そういうこともあったのだろうなという思いで、参考のために書いてみた。

  やはり、私は陰謀史観の持ち主ではないかとの揶揄を受けることを覚悟して、「コンスピラシィ」(陰謀)コーナーを設けることにした。

 第二次世界大戦前の米国の諜報組織は、タコ足的に分散していた。例えば、米国陸軍は、一個大隊(Battalion)ごとにS2と呼ばれる諜報機関をもっていた。その情報に基づいて作戦(Operation)を構築するS3があった。各大隊のS2の統括をするのが、G-2であった。

 大隊の下部組織である各部隊もそれぞれ諜報スタッフを抱えていた。兵器装備担当部隊などはその典型である。これら部隊は、敵の装備の情報を得ることも大きな任務の一つであった。

 海軍も、海軍情報局(Office of Naval Intelligence)をもっていた。
 国家レベルでは、国務省(the department of State)と「対敵諜報機関」(the Counter-Intelligence Corps=CIC)が諜報活動を行っていた。

 しかし、第二次世界大戦前の諜報組織は分散されすぎて、情報のダブりがあるばかりか、総合的な判断を得にくいという難点があった。

 情報を総合化し、全体の分析を行うために、すべての情報が一点に集まるシステム作りが、第二次世界大戦に入る米国にとって、焦眉の課題になった。

 この問題に当たるべく、ローズベルト(Roosevelt)大統領は、ニューヨークの弁護士で、荒くれビル(Wild Bill)というニックネームを付けられていた、ウィリアム・ドノバン(William Donovan)を抜擢して、統合的な諜報機関設立を託した。この諜報機関設立準備組織が、CIAの前身であると誤って言われているあの「戦略任務局」(the Office of Strategic Services=OSS)である。

 新たな政府組織を作るときには、往々にして官僚の「縄張り争い」(turf fight)の標的にされるものである。OSSもあらゆる政府組織から攻撃された。とくに、J・エドガー・フーバー(Edgar Hoover)率いるFBIからの攻撃がもっとも強烈であった。しかし、ローズベルトは、ドノバンを強力に擁護したという。

 ドノバンは、慣例をまったく意に介しなかった。彼は、エリート大学卒を好んで新組織に採用した。その上で、彼らに自分への絶対服従を誓わせた。組織の長が、国家全体の利益を考えて行動している限り、たとえ、それが法や憲法に違反していても、長の指令に従うべきだとドノバンは、新人たちに訓辞していたという。理屈を言わずに従え(='reason-is-treason')というドノバンの方針は、ドノバン追放後もいまなおCIAの哲学として残っている。

 ドノバンは、自身を頂点とする一元的支配網を作り上げた。官僚たちのドノバン批判に対して、ローズベルトは徹底的に彼をかばい続けた。情報の集中という点で、彼は、かなり大きな成果を挙げた。

 OSSは、市民をも動員した。例えば、ヨーロッパの情報担当は、海軍のウィリアム・ケーシー(William Casey)が担っていたが、ケーシーは、時には、軍籍から離れて一市民として任務を遂行したほどである。ちなみに、このケーシーは、レーガン政権時代にCIA長官(一九八一~八七年)を勤め、タカ派として知られた人である。こうして、ドノバンは非常に短い期間に世界トップクラスの諜報機関、OSSを効率的に作り上げることに成功した。

 戦争という異常事態下では、ドノバンのこの行動も一定の意味はあっただろう。しかし、政府組織、軍隊組織は、平和になると、ドノバンにそっぽを向くようになった。官僚たちに完全に離反されて、戦後のOSSは、急速に機能不全に陥った。しかも、ローズベルトが、終戦を目前にした一九四五年に急逝した。情報システムの再構築が、次期大統領のトルーマン(Harry S. Truman)の課題になった。

 一九四六年一月二二日、トルーマンは、大統領令によってCIGを創設した。ドノバンは更迭された。

 国家情報局(the National Intelligence Authority=NIA)がCIGの監督機関にされた。NIAは、大統領補佐官、国務長官、戦争長官、海軍長官から構成されていたものである。

 一九四六年一月二三日、つまり、CIG創設の翌日、海軍情報局(Navy Intelligence)の局長で、沿岸警備隊少将(Rear Adm.)のシドニー・W・ソーズ(Sidney W. Souers)が、トルーマン大統領から初代CIG長官(the First Director of CentralIintelligence)に任命された。

 ソーズは、右腕として、海軍提督(Col.)ルイス・フォーティア(Lois Fortier)を指名した。フォーティアは、ソーズ大将の署名入りの「中央情報グループ最高機密指令第三号」(Central Intelligence Group(CIG)Top Secret Directive No.3)を出し、CIGを諜報機関の中枢に位置づけ、それまでの情報機関のすべてを洗い直すという方針を表明した。後のCIAは、CIGのGに替わってAを呼称名に入れたが、Cの「中央」とは、過去の情報機関をすべて統合するという意味である。

 CIGは、徹底的に隠密組織になることが至上命令になった。フォーティアは、疑い深いフーバーの機嫌をとって、この洗い直しにFBIの協力を求めた。ワシントンを本拠とする職員は、世間に目立たないように行動した。情報収集者に対して指令を出す場所も転々と変えた。フォーティア自身も表舞台には出なかった。要するに、すべてが隠密裡に運ばれてのである。このCIGがCIAの正しい意味での前身となった。

 一九四〇年代、CIGのこうした秘密裏の活動は公衆の目には明らかでなかった。しかし、一九五〇年代に入ると、例えば、フランシス・ガーリ・パワーズ(Francis Gary Powers)が操縦していたスパイ機、Uー2の墜落からメディアがCIAの活動を追うようになり、もはや、CIGの後継、CIAは、それまでの秘密行動をとりにくくなっていた。

 一九四六年三月二日、そのソーズが、ダン(Dun)商会経営者ベンジャミン・ダグラス(Benjamin Douglass)の孫である(http://www.familyorigins.com/users/k/i/n/Peter-Bryant-Kingman/FAMO1-0001/)、キングマン・ダグラス(Kingman)を副長官に指名したのである。彼は、後述のように、すぐに、特殊作戦局(Office of Special Operations)に移動させられるが(http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.html)、一九五〇~五二年にはCIAの副長官を務めた("Lynn Matthews, a Copywriter, Is Wed," The New  York Times,  December 3, 1989)。

 ダン商会は、大恐慌後、ダン&ブラッドストリート(Dun & Bradstreet)となり、さらに、D&Bという会社名に変更して、世界最大の格付け会社(rating agency)ムーディーズ・インベスター・サービス(Moody's Invester Serveice)を参加にもつムーディーズ・コーポレーション(Moody's Corp.)を、一九九六年から二〇〇〇年にかけて支配したことがある。

福井日記 No.199 ナチ科学者争奪戦その2

2007-12-16 13:02:54 | コンスピラシィ

 話を転じる。第二次世界大戦終結に至る過程で、米ソは、戦争中に開発されたドイツの軍事技術を獲得する競争において鎬を削っていた。ドイツの科学者たちは、米国に協力することを説得されて、米国に連れてこられた。多くのドイツの科学者たちは、米軍の捕虜になって米国に連れてこられることを願っていたが、実際に彼らを米国に連れて帰る行為は、非合法の行為であった。なぜなら、当時、米国には、ナチ関係の人物の米国上陸を禁止する法律があったからである。

 そこで、戦争省(the War Depatment)と海軍省は、科学者たちに関してこれまで掴んでいた情報の書類を書き換えて、彼らをナチとの関わりが薄かったというものにした。こうして、法的には許されていまかったドイツの科学者たちを入国させたのである。国務省もそれに従った。

 米国が欲しかったのは、ドイツの核爆弾とロケットの技術であった。
 ソ連よりも先にドイツの原子物理学者たち、とくにベルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)を連れてくるという作戦が「アルソス」(Alsos)作戦と名付けられた。アルソスとは、ギリシャ語で地球(grove)を意味するアルソの複数形である。つまり、グローブズ(guroves)である。これは、米国の原爆開発計画である「マンハッタン計画」(Manhattan Project、一九四二~四七年)の軍側の最高責任者であったレズリー・リチャード・グローブズ(Leslie Richard Groves)の名前をもじったものである。グローブズは、一八九六年生まれ、一九七〇年に没している。一九四四年時点では少将であった。

 それはともかく、ハイゼンベルクの尋問にによって、ドイツの核爆弾開発が米国の開発レベルより遅れていることが比較的早期に判明したために、照準はロケット技術の獲得に絞られた。

 ナチは、ロケット開発に膨大なエネルギーを注いでいた。とくに、V-1ロケット爆弾は、すごいうなり音をだすので、「ハチの音」(buzz)というニックネームで呼ばれていたが、羽をつけてロンドン上空にまで飛来し、そこで、目標に向かってエンジンを切り落として目標を焼き払うという代物であった。

 V-2というのもあった。これは非常に優れたものであった。移動式ミサイルで、最初は、ハーグ(Hague)の基地から打ち上げられた。一トン爆弾を搭載して、ロンドン、パリ、アントワープ(Antwerp)などを攻撃した。大戦中二五〇〇発ものV-2が発射された。ただし、V-2は、目標地点の着弾という面での正確さにおいて信用できないものであった。しかし、核弾頭を装備したミサイル開発のためにも、米国は、ドイツの技術を獲得したかったのである。少なくとも、ドイツのロケット技術は、米ソよりもはるかに進んでいた。

 敗戦直前の一九〇日間(一九四四年九月~一九四五年三月)で、ドイツは二九〇〇発ものVー2ミサイルを発射していた。つまり、一日に一五発、九六分に一発を発射していたのである。最後の発射は一九四五年三月一七日であったと、http://www.murderingainesville.com/mig/usintelligence/index.htmlは解説している。しかし、確証はない。いずれにせよ、ドイツのロケット技術を米ソが血眼になって獲得しようとしていたことは容易に想像できる。

 ドイツでは、ハインリッヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)の指揮下で、ベルンヘル・フォン・ブラウン(Wernher von Braun)が、ペーネムエンデ(Peenemuende)を基地として、ロケット開発計画の長を務めていた。ドイツの敗戦が濃厚になってくると、フォン・ブラウンは、弾道誘導の専門家、ヨハン・J・クライン(Johann J. Klein)などの優秀な配下の科学者たちを、ペーネムエンデ基地から連れ出し、オーストリアとの国境に近い保養地に連れて行った。そして、一九四五年五月二日、ベルンヘル・フォン・ブラウンの弟のマグナス(Magnus)を介して、フォン・ブラウンと配下の科学者たちは、米軍の第三機甲師団(the 3rd Armored Division)に投降した。

 科学者グループは、直ちにオーストリアにあるロイッテ(Reutte)の対敵諜報本部(Counter-Intelligence Corps)に護送され、最初の尋問が開始された。さらに、彼らは、ババリア(Bavaria)のガルミッシュ・パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)基地に移動させられ、そこでも一九四五年七月まで尋問を受けた。

 一九四五年七月から九月までのフォン・ブラウンの居所は不明である。彼が、いつ、ヨーロッパから米国に護送されたのかも不明である。ただ、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンを引き揚げてから、彼は、アントワープ(Antwerp)ホルガー・N・トフトイ(Holger N. Toftoy)少将が統括していた基地に立ち寄り、そこに保管されていた接収品のミサイル部品の説明をさせられたことは判明している。ただし、ロケットそのものは、彼が立ち寄る前にニュー・オーリンズ(New Oreans)に輸送されていた。アントワープの後、フォン・ブラウンはロンドンに護送されて、そこでも尋問を受けたようである。

 トフトイが管理していたミサイル関連の部品は、トフトイが、ソ連軍の進駐のほんの数日前に、ペーネムエンデ基地から運び出したものである。彼は、フォン・ブラウンたちが洞穴に隠していたミサイル関係の膨大な資料を発見し、一九四五年五月二二日から六月一日の間に、貨車でアントワープにまで運んだのである。部品は、そこから、リバティ(Liberty)と呼ばれた輸送船一六隻で、ニュー・オーリンズ、さらに、そこからエルパソ(El Paso)に運ばれた。一九四五年七月から八月にかけてのことであった。エルパソは、テキサス州西端にあり、リオグランデ(Rio Grande)を望む都市である。リオグランデは、コロラド州南西部のサン・フアン(San Juan)山脈に発し、南東に流れてメキシコ湾に注ぐ河で、メキシコ名はリオブラボー(Rio Bravo)である。

 一九四五年九月一八日、フォン・ブラウンたちは、C五四輸送機で、デラウエア州(Delaware=DE)のウィルミントン(Wilmington)という小さな港町にあるニューキャッスル陸軍航空基地(Newcastle Army Air Base)に輸送され、そこから、ボストンのフォート・ストロング(Fort Strong)基地に輸送されて、そこでも、尋問を受けた。

 その後、エルパソの北方三五マイルにあるホワイト・サンズ実験場(the White Sands Proving Ground)に移送された。一九四五年一〇月一日、情報将校のジェームズ・P・ハミル(James P. Hamill)が、彼らの拘束状にサインした。

 ハミルは、フォン・ブラウンをワシントンに連れて行き、陸軍の上層部に引き合わせた。他の六人は、メリーランド(Maryland)のアバディーン実験場(Aberdeen Proving Grounds)に連れて行かれた。そこには、ペーネムエンデにあったミサイル関連の七トンもの書類が、移送されていたのである。科学者たちは、その整理を命じられた。

 一九四五年、一〇月三日、ハミルとフォン・ブラウンはエルパソに帰還し、フォン・ブラウンは、エルパソの北東にある軍事施設、フォート・ブリス(Fort Bliss)内にあるウィリアム・ボーモント陸軍病院(the William Beaumont Army Hospital)での数週間での療養を許可された。この基地で、ミサイル開発が行われたのである。一九四六年二月二三日時点で、一〇〇人を超えるドイツ人のロケット科学者たちがこの基地に集められていた。

 一九四五年一〇月頃、海軍の航空学部(Bureaus of Aeronautics)がホワイト・サンズでの開発に合流した。

 開発中に大きな事件が起こった。一九四六年五月二九日、ホワイト・サンズから発射されたミサイルが、予定の弾道を外れてメキシコ国内に落下してしまったのである。このとき、ドイツ人の技師たちは四発を発射していた。そして、最後の四発目がメキシコに飛び出してしまったのである。

 トルーマン大統領をはじめ、政府高官たちは狼狽し、ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)将軍に事後処理を指令した。アイゼンハワーは、G2という陸軍の情報担当部のバンデンバーグ(Vandenberg)に処理を任せた。

 バンデンバーグは、当時、陸軍航空部隊(the Army Air Corps)の将校で、一九四七年に創設されるはずであった空軍の長官になりたがっていた。しかし、彼は陸軍のキャリアを捨てて、まだ海のものとも山のものとも分からぬCIGに移った。

 一九四六年七月一一日、ソーズがバーデンバーグによって辞任に追い込まれ、一九四六年八月、キングマン・ダグラスも、同じくバーデンバーグによってCIG副長官の地位を失い、CIG内の特殊作戦局に配置転換になった。バンデンバーグは、ソーズの右腕で、ミサイル作戦担当であったホーティアをも解雇した。

 こうして、CIG幹部は一掃されて、翌年、新たにCIAが発足することになったのである。

福井日記 No.198  D&Bの歴史

2007-12-13 23:15:53 | 格付け会社


 米国で初めてビジネスのための信用調査会社を興したのが、ルイス・タッパン(Lewis Tappan)であった。一八四一年、ニューヨークに設立されたマーカンタイル・エージェンシー(Mercantile Agency)がそれである。

 一八四七年、ベンジャミン・ダグラス(Benjamin Douglass)が、エージェンシーのパートナーとして参加した。一八四九年、タッパンは、会社をダグラスに譲った。タッパンは熱情的な社会改革論者であったが、これについては、後述する。

 タッパンから事業を受け継いだダグラスは、事業の質を格段に高めた。各地に現地企業の信用調査をして報告書をエージェンシーに送ってくれる調査員を育成したのである。しかも、その調査員は、各地の社会で信頼されている人物に依頼した。地元の有力者に、彼は、地元の信用調査報告を送ってくるように依頼した。

 ダグラスのエージェンシーに報告を寄せていた人から四人の大統領が出たほどである。エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)、ウリセス・シンプソン・グラント(Ulysses Simpson Grant)、グローバー・クリーブランド(Grover Cleveland)、ウィリアム・マッキンレー(William McKinley)がその大統領である。



 ダグラスがエージェンシーの後継者になった年の一八四九年、強力なライバルが登場した。オハイオ州シンシナチ(Cincinnati)に創設されていたジョン・M・ブラッドストリート・カンンパニー(John M. Bradstreet Company)である。この会社は、一八五一年から商業のに関する信用度を、格付け記号によって表現する最初の本を出版した。

 この二社の強力なライバル関係は、二〇世紀に入っても続いた。
 一八五九年、ダグラスは、マーカンタイル・エージェンシーを義弟(タッパンの孫)のロバート・グラハム・ダン(Robert Graham Dun)に譲った。ダンは、譲られた会社の名称を、R・G・ダン・アンド・カンパニー(R. G. Dun & Company)に変更した。四〇年後、会社は全米でビジネスを展開し、海外にまで進出した。

 しかし、大恐慌時、激しいライバル的競争に両社はともに耐えられなくなり、一九三三年合併することになった。新会社の名前は、ダン・アンド・ブラッドストリート(Dun & Bradstreet)で通称がD&Bであった。

  合併の主役は、ダン側の経営者、アーサー・ホワイトサイド(Arthur Whiteside)であった。彼は、情報を売るという方針を強化し、情報産業における揺るぎない地位を築いた。そして、戦後の情報技術の発達が、同社を飛躍させた。ビジネスの拡大は飛躍的であった。

 ホワイトサイドの後継者、J・ウィルソン・ニューマン(J. Wilson Newman)の時代は、情報産業の革命的発展の時期でもあった。一九六三年、ニューマンは、データ・ユニバーサル・ナンバリング・システム(Data Universal Numbering System)を導入した。このデータ処理技術の採用によって、コンピュータ時代に適合する情報産業として飛躍できたのである。このシステムは、国連、EU委員会、米国政府に採用されている。

 一九七〇年代には、さらに新しい技術であるアドバンスド・オフィス・システム(Advanced Office System=AOS)を開発した。これは、データ収集、他の情報との結合、分析をすべてコンピュータ処理して、顧客への情報を従来とは比較にならないほどの速いスピードで提供するものである。

 それまでは、情報産業を次々と吸収していたが、二一世紀になって、スリム化する方針が採用されて、ムーディーズなどを分離した。それでも、現在、世界の七五〇〇万件のビジネス情報を提供しているのである。

 創設者のルイス・タッパンは、熱烈な奴隷解放論者であり、国民的な奴隷解放運動(the Abolitionist Movement)を主導し、有名なアミスタッド号事件(Amistad Affair)での、奴隷解放論者たちが行った、最高裁への提訴費用の募金も行った人である。

 アミスタッド号事件とは、一八三九年、チンク(Cinque)というリーダーに率いられたアフリカの黒人奴隷たちが、スペインの奴隷船、アミスタッド号上で反乱を起こし、米国への亡命を求めた事件である。奴隷解放論者たちは、事件を最高裁判所にもち込み、バン・ビュレン(Van Buren)政府の決定に反して、奴隷たちを釈放することに成功した。第二代大統領、ジョン・アダムズ(John Q. Adams)も奴隷たちのために証言台に立った。



 この事件を映画化したのが、スティーブン・スピールバーグ(Steven Spierberg)の「アミスタッド」である。この映画の中では、タッパンの活躍が描かれている。一九九七年に封切られた。

 タッパンは、一八三四年に「奴隷制に反対する週間」(Anti-Slavery Week)を作り、奴隷制廃止の最初の全米運動の組織化に成功した。しかし、その年、自宅が暴徒によって焼き払われるという災難に見舞われた。翌、一八三五年にもタッパンのニューヨク事務所が焼き討ちに遭った。このときには、主としてアフリカ系米国人の労働提供によって、資財の三分の二、約束手形五〇万ドルが救出された。

 エイブラハム・リンカーンは、先述のように、エージェンシーに信用調査報告を寄せてくれる人であった。その報告はユーモアに溢れたものであった。

 その中には次のような報告があった。
リンカーンの地元、イリノイ州(Illinois)スプリングフィールド(Springfield)の雑貨商店主はネズミの出入り口をもっている。「中をじっと覗き込むためである」と。解説するまでもないのだろうが、念のために。この商店は信用できない。ネズミが走り回っているとの、殺伐とした否定的な信用調査報告になることを回避して、ネズミの穴を開けて、中を覗き込んでネズミ対峙におおわらわであるとのユーモアで、さりげなく、この商店の信用度の低さを伝えたのである。

 一八六五年、リンカーンが暴漢によって暗殺されたときには、エージェンシーの事務員は、リンカーンの法律事務所宛の報告の余白に大統領への賛辞を書いている。また、縦書きにALの文字、と枝垂れる柳の絵が描かれているリンカーン大統領の十字架型の墓石には、小さな囲みの中に墓碑銘がエージェンシーによって書かれている。そこには、「私たちの事務所は、オールド・エイブ(Abe=エイブラハムの愛称)を信用調査員としてもったことを誇りに思う」と黒く刻まれている。

 ベンジャミン・ダグラスは一八五九年に引退し、グラハム・ダンが後継者になったが、ダグラスの家族たちはその後もD&Bとは結びついている。

 タイプライターを初めて事務所に導入したのはダンであった。一台五五ドルのものを一〇〇台購入した。タイプライターによって、昔風の手書きの美しい帳簿は消えて行った。D&Bの美しい手書きの帳簿は、ハーバード大学ビジネス大学院のベーカー・ライブラリー(the Baker Library of the Harvard Univerity Graduate School of Business)に寄贈されていている。

 一八七〇年、ダンは、事務所の顧問弁護士に、チェスター・A・アーサー(Chester A. Arthur) を獲得した。アーサーは、第二一代米国大統領になった人である。アーサーは、鮭釣りをダンとしばしば供にし、親しい友人であった(D&Bのホームページ:http://www.dnb.com/us/about/company_story/dnbhistory.html)。

 別の資料で、D&Bの補足をしておく。
 D&Bの、二〇〇五年度の売上げは一四億四三〇〇万ドルであった。顧客数は、一八七〇年代には七〇〇〇事業所であったが、一八八〇年代には四万事業所にまで急拡大した。一九〇〇年には、カバーする米国の企業は一〇〇万を超えた。

 買収も旺盛に行った。一九六二年にはムーディーズを買収(二〇〇〇年に手放す)、一九八四年には百科事典のA・C・ニールセン(Nielsen)を買収(一九九六年手放す)、一九八八年にはIMS(Intercontinental Marketing Services、一九九六年手放す。コグニザント・コーポレーション=Cognizant Corporation に改名)と、人名録会社のR・H・ドナリー(Donnelley、一九九八年手放す)を買収、二〇〇三年にはビジネス情報サービスのフーバーズ(Hoover's Inc.)を買収した。しかし、見られるように、買収してはすぐに手放すようなことを繰り返してきた。一九八〇年代と九〇年代には情報メディアの買収に邁進した(http://www.ketupa.net/dnb.htm)。

 CTSH(Cognizant Technology Solutions)という情報システム、DNBiというリスクに関するデータ・ベース、先述のD-U-N-S等々が、同社が誇る情報手段である。

 インドのチェナイ(Chennai)に「予測学・分析センター」(Predictive Sciences and Analytics Center)1をもっている(http://en.wikipedia.org/wiki/Dun_&_Bradstreet)。

 二〇〇一年にダン&ブラッドストリートの名称に替えて、D&Bの通称を正式名にした。

 なお、D&Bの初期の歴史については、Sandage[2005]がある(とくに、chapters 4-6)。



 引用文献


Sandage, Scott A.[2005], Born Losers: A History of Failure in America, Harvard University
          Press. 


福井日記 No.197 ムーディーズの歴史

2007-12-10 11:31:58 | 格付け会社

 格付け会社のムーディーズの正式名は、ムーディーズ・インベスターズ・サービス(Moody's Investors Service)である。ムーディーズ・コーポレーション(Moody's Corporation)の一〇〇%子会社である。親会社のムーディーズ・コーポレーションはニューヨーク証券市場に上場している(MCO)。

 ジョン・ムーディーズ(John Moody、1868 - 1958)は独学の人であった。九〇歳の長寿を全うした。一九〇〇年ジョン・ムーディー・アンド・カンパニー(John Moody & Company)を設立、『工業および多様な証券に関するムーディーの便覧』(Moody's Manual of Industrial and Miscellaneous Securities)を出版。この『便覧』は、金融機関、政府機関、鉱工業会社、農業会社等々、あらゆる産業部門の株式や社債、公債に関する情報を集めたものであった。これは、わずか二か月で完売した。『ムーディーズの便覧』シリーズはよく読まれ、一九〇三年までには、全米に広くその名が知れ渡るようになった。

 一九〇七年の株式市場の崩壊によって、ムーディーズ・カンパニーの資金繰りが難しくなって、会社は、『便覧』事業を手放さざるを得なかった。

 ジョン・ムーディーズは、一九〇九年に金融市場に復帰し、証券に関する情報の提供方法を一新した。単に企業や証券の情報を集めるだけでなく、証券の価値分析を行ったのである。まず、鉄道会社とその社債発行額を分析、鉄道債への投資価値を簡潔にまとめ、その結果を出版物にした。そのさい、格付け記号を使用した。格付け記号自体は、ジョンが初めて考案したものではなく、一八〇〇年代半ばから、信用調査会社などによって、商業貸し付けに対して行われていた格付けを記号を継承したものである。ジョンは、こうした商業貸し付け調査でなく、公開されている米国の鉄道会社の株式や社債に対して、格付けをした最初の人であった。その結論は、『ムーディーズの鉄道投資分析』(Moody's Analyses of Railroad Investment)として出版された。これもまたたくまに投資家の必読書になった。

 一九一四年七月一日、ジョンは、ムーディーズ・カンパニーの子会社として、ムーディーズ・インベスターズ・サービスを設立した。そして、この年からムーディーズは米国の地方自治体の発行する地方債の格付けを開始している。一九二四年までには、米国で起債される債券のすべてを格付けするようになった。

 大恐慌時、社債のデフォールトが続出したが、今度は、ムーディーズは倒産を免れ、格付けを中断しなかった。ムーディーズが高い格付けを与えていた少数の社債のデフォールトはなかった。

 一九七〇年代に入って、ムーディーズは、コマーシャル・ペーパーと銀行預金をも格付けするようになった。また、それまでは、格付け情報を投資家に売ることによって収益を得ていたが、一九七〇年代に入って起債者からも手数料をとるようになった。資本市場が複雑になる一方なので、刊行されている資料だけでは正確な格付けができなくなったからであると同社のホームページで説明されている(http://www.moodys.com/moodys/cust/AboutMoodys/)。

 一九五八年、ジョン・ムーディ死去。そして、一九六二年、ムーディズ・カンパニー・グループはダン・アンド・ブラッドストリート・コーポレーション(Dun & Bradstreet Corporation=D&B)に買収される。二〇〇〇年、ムーディーズは、ダン&ブラッドストリートから独立している。

 以上は、ムーディーズのホームページで説明されている同社の歴史であるが、別の資料によって補足しておこう(http://www.fundinguniverse.com/company-histories/Moodys-Corporation-companyhistory)。

 ジョンは、一九〇四年に、格付けとは関係のない本を自分が設立したムーディ出版(Moody Publishing Company)から刊行している。『企業合同の真実─米国企業合同気運の現状および分析』(The Truth About Trusts: A Description and Analysis of the American Trust Movement)がそれである。これは、六四年後の一九六八年にグリーンウッド・プレス(Greennwood Press)から再版されている。

 一九一一年には、一九〇九年の『ムーディーズの鉄道投資分析』の増補版を出版している。これは四〇〇〇ページにおよぶ膨大なものであった。翌年の一九一二年、『鉄道報告書を以下に分析すべきか』(How to Analyze Railroad Report)を出版した。そして、一九一三年以降、格付けを鉄道債だけでなく金融債一般にも拡大したのである。

  一九一九年にはエール大学出版(Yale University Press)から二冊を出している。『資本の支配者たち─ウォール街物語』(The Masters of Capital: A Chronicle of Wall Street)、『鉄道建設者たち─州を結ぶ物語』(The Railroad Builders: A Chronicle of the Welding of the States)である。

 自叙伝がマクミラン(Macmillan)から二冊出されている。一九三三年の『長い道のり─自叙伝』(The Long Road Home: An Autobiography)と一九四二年の『道を急いて』(Fast By the Road)である。

 彼の死の四年後の一九六二年にに、ムーディーズは、D&Bに買収された。二〇世紀も終わり頃の同社の経営が難しくなった。一九九四年には赤字に転落、一九九五年と一九九六年には解体再生の噂にさらされた(Gilpin, Kenneth N.[1996a])。一九九六年、D&Bは、自社を三分割するという方針を発表した。新しいD&Bの情報サービス会社の一部としてムーディーズは残される計画であった。ところが、一九九六年三月、いよいよD&Bの分割間近というニュースが流されたまさにそのときに、社長のジョン・ボーン・ジュニア(John Bohn, Jr)が辞任した。さらに、司法省(Department of Justice=DOJ)が反トラスト法に触れる嫌疑があるとして同社の調査に入った(Gilpin[1996b])。ムーディーズの格付けへの疑念であった。事情聴取はムーディーズのライバルのS&Pとフィッチ・インベスター・サービス(Fitch Investor Service)にもおよんだ。

 司法省の調査がなされている間、ムーディーズは国内の格付け体制の再編成と海外進出を実現しようとした。一九九八年のコリア・インベスター・サービス(Korea Investors Service)への一〇%の資本参加がそれである。これは後に五〇%を超す株式保有にまで拡大した。一九九九年にはアルゼンチンに進出、一九九九年司法省はムーディーズへの嫌疑が晴れ、ムーディーズは無罪となった(Gilpin[1999])。同時に、D&Bはムーディーズを分離すると発表した。ムーディーズの稼ぎは小さく、業績低迷の続くD&Bには重荷になったからである。一九九九年のムーディーズの売上げは五億六四二〇万ドル、純益一億五六〇〇万ドルにすぎなかった。

 そして、ムーディーズは二〇〇〇年九月にD&Bから分離された。このとき、ムーディズは株式を公開した。ムーディーズ自体が他から格付けされる対象になったのである。しかし、このことがムーディーズの評価を高めた。

 二〇〇〇年の売上げは六億二三〇万ドル、二〇〇一年には七億九七〇〇万ドル、純益二億一二〇〇万ドルと業績を順調に伸ばしたのである。公社債格付けでムーディーズのシェアは三七%、ライバルのS&Pが四五%、フィッチが一八%であった(Watkins[2001])。この三社で市場は独占されたのである。シェアでS&Pに負けてはいたが、格付け会社の中では、ムーディーズの格付けがずっと一位であった。

 ムーディーズとS&Pが公社債の格付けを独占するようになったことで、これら二社は特殊な立場に立つことになった。単に観察者として格付けするだけでなく、その行動自身が市場を振り回すようになったのである。早々と低い格付けを彼らが与えてしまえば、その企業は倒産の憂き目に遭う。それを恐れて格付け時間を長くとればなにをしていたのかと、これまた批判される(McLean[2001])。マクレランのこの論文は、「じろじろと見つめる嫌な奴が支配する」というエキセントリックを用いて、ムーディーズとS&Pを批判したものである。

 二〇〇二年には、ムーディーズはサンフランシスコに本拠を置いていたKMVを買収した。買収額は二億一二六〇万ドルであった。この会社は、貸し出しリスク評価を専門としていた。買収後はムーディーズ・KMV(Moody's KMV)と名称変更した。さらに、モスクワのインター・ファックス・レーティング・エージェンシー(Interfax Rating Agency)に二〇%の資本参加した。

 ムーディーズの二〇〇二年の売上高は、一〇億二〇〇〇万ドルにもなった。うち、三分の一の三億四三〇〇万ドルが海外売上げであった。

 二〇〇三年になると、「ストラクチュアード・フィナンス」(structured finance)の格付けサービスにおいて、世界の三七%、額にして四億六〇六〇万ドルを売り上げた。S&Pを抜く世界第一位であった。

 同社の米国内での収入源は、三分の一が情報購入料、同じく三分の一がストラクチュアード・ファイナンスの格付け手数料である。

 ムーディーズ株の一五%は、ウォーレン・バフェット(Warren Buffett)率いるバークシャー・ハザウェイ(Berkshire Hathaway)というファンドである。

  バフェットが資本参加していることだけで、ムーディーズには宣伝材料になる。しかも、バフェットの政治的影響力を利用することができる。

 しかし、SECは、格付けサービス市場での上位三社の寡占体制を打破しようとしている。二〇〇三年、SECは、トロントからの新参社、ドミニオン・ボンド・レーティング・サービス(Dominion Bond Rating Service Ltd.)にNRSROの認定を出した。これは、「国家的に認められた統計的格付け機関」(Nationally Recognized Statistical Rating Organization)という意味である。SECが正式に同社を公認したのである。ドミニオンが市場に新風を送ってくれることをSECが期待していることは確かである。

 二〇〇三年時点で、ムーデーズは世界一八か国、で営業し、扱う債券額は世界一〇〇か国、三〇兆ドルもある。売上げ一二億五〇〇〇万ドル、純益三億六四〇〇万ドルあった。

福井日記 No.196 格付け会社の世界進出

2007-12-09 12:09:28 | 格付け会社


 金融制度には風土的背景がある。米国は直接金融制度が支配的である。ヨーロッパと日本は間接金融制度が支配的である。直接金融制度の方が、間接金融制度よりも優れているというのが、米国金融界の一般的理解であるが、これはとんでもない誤解である。

  必要な企業や個人に融資するには、コストがかかる。資金を他人から預かって運用する者を資金の貸し手の「代理人」(エージェンシー)という。そして、代理人の資金を利用させるさいにかかる費用を「エージェンシー・コスト」という。これは金融を機能させるための社会的コストである。結論的に言えば、銀行を主体とする間接金融の方が、投資銀行(証券会社)を主体とする直接金融よりも、エージェンシー・コストが小さい(黒田[1999]、四四ページ)。

 預金者は、預金保険に守られているために、低い金利で銀行に預金し、銀行は、融資先を調査・吟味してその預金を融資する。銀行は融資先をつねに監視する。そのために、間接金融では、融資が焦げ付く確率は非常に低い。

 ところが、直接金融になると、証券が転々と売買され、証券の所有者がその都度替わる。資金の貸し手である証券購入者は、証券発行者の信頼度を知る由もない。いわんや、いくつかの債権が組み合わされ、輪切りにされて販売されるCDOsになると、もはや証券購入者は、オリジナルの借り手をほとんど知らない。こうした場合、銀行融資よりも、買い倒れの危険性がはるかに高くなる。勢い、銀行融資に比べて貸し手側が要求する金利は高くなる。これはエージェンシー・コストという社会的コストを大きくすることである。

 貸す側の個人からすれば、間接金融よりも直接金融の方が高い金利をとれるので得である。しかし、社会全体からすればそれは効率的ではない。コストが高く付くのである。直接金融の方が優れているという人たちは、社会全体のことではなく、資金の出し手側のことしか念頭に置いていないのである。しかも、この高い金利によって儲けるのは、小さな資産しかもっていない庶民ではなく、溜息の出るような巨万の富をもつ富裕層である。彼らは会員制クラブのヘッジファンドを通じて大儲けする。それは庶民の犠牲の上に成りたつ金儲けである。

 直接金融制度は、けっして間接金融制度よりも優れてはいないのである。
 米国は、建国当時から銀行の信用創造能力への警戒感が人々に強かった。ヨーロッパ大陸で一八、一九世紀に経験した恐慌の教訓から、米国の権力は、銀行による過度の信用創造を抑制するために、銀行の拡大をできるかぎり押さえつけた。銀行の営業を州内に限定したのもそのためである。そして、銀行業務は中長期の貸し出しではなく、短期の商業金融に限定したのである。信用創造を抑制したいとの金融当局の思いからも、中長期資金は株式や社債の発行で賄うように誘導された。

 逆に、ヨーロッパや日本などでは、株式市場は、いかがわしいものであると見なされ、人々は投機よりも堅実な金融を好むという性向が人々にあった。これが、直接金融の発達を妨げたのである(黒沢[1999]、六一ページ)。

 当然のことであるが、格付けの習慣は、直接金融が支配的な国で拡大する。日本やヨーロッパで格付けの習慣がなかったのも、信用調査は銀行に委ねられていたからである。

 米国における格付けは、一八四一年にタッパン信用調査会社が商業貸し付けに対して行ったものが最初である。

 分かりやすい記号で鉄道債の格付けを初めて行ったのが、ジョン・ムーディーズで、一九〇九年のことであった。ヘンリー・プアーも一九二二年から格付け企業による格付けを開始した。スタンダードとフィッチは一九二四年から記号を用いる格付けを開始している。

 米国の格付け会社が隆盛を見たのは、SECの後押しがあったからである。一九七四年にESOP(従業員持株年金)を含むERISA(退職年金法)が制定された。この法律に基づく年金の安全な運用のために、SECは、年金基金運用者に対して、格付け会社の利用を要請したのである。それによって、ムーディーズ、S&P、フィッチなどの先発組は大きく成長し、新たに、MCM(一九七五年)、キーフ(一九七七年)、ダフ・アンド・フェルプス(一九八〇年)が格付け会社として誕生した(黒沢[1999]、六四ページ)。

 米国以外の国の格付け会社は、米国との債券取り引きが活発になることによって誕生した。カナダでは、一九七二年に二社が設立された。英国では一九七八年に二つの会社が設立された。カナダでは国産の格付け会社が根付いたが、英国では国産のものが失敗し、フィッチに吸収された。

 そして、一九八〇年代になってユーロ債券が活発に取り引きされるようになった。しかし、米国の年金などの機関投資家は、格付け会社によって格付けされていない債券への投資が許されていない。SECの誘導政策のためである。そのために、米国の投資を呼び込むには、どうしても、格付け会社を設立するか、米国の格付け会社を国内に誘致するしかなかった。ユーロ債取り引きの格付けによって、米国の格付け会社はさらに大きく飛躍した。

 S&Pが格付けしたユーロ債の件数は、一九七〇年末にはわずか五〇銘柄程度しかなかったのに、一九八三年には一〇〇〇銘柄を超えるようになるまで急成長した。

 フランスでは、一九八六年にS&Pの出資で格付け会社が設立された。スペイン、スウェーデン、ポルトガルにも格付け会社が設立された(同、六七ページ)。

 その他、オーストラリアが一九八一年、日本が一九八五年、韓国が一九八五年、インドが一九八七年に格付け会社を設立している(同、六八ページ)。

 ムーディーズの取り扱う件数を見れば、米国の格付け会社が資本の自由化によっていかに恩恵を受けたかということが分かる。

 ムーディーズの長期債の格付け件数は、一九八五年には二〇〇〇件、一九九一年に四〇〇〇件を超え、九二年には五〇〇〇件を突破した(ムーディーズ[1994])。

 新しい金融商品の開発もまた格付け会社の成長に大きく寄与した。一九七四年に外債取り引きが活発になった。一九七九年にはCD、一九九〇年代にはストラクチュアード・ファイナンスが普及した。こうして格付けを必要とする証券が次々と開発されたのである([1999]、八七ページ)。

 ムーディーズは、格付け件数において世界第一位である。世界でのシェアが四〇%もある。S&Pは世界第二位、シェア三五%である。

 ムーディーズは、アジア通貨危機時にはアジア各国に根を張り、勝手格付けといって、北海道拓殖銀行や、山一証券などを格付けし、勝手に格下げして日本の多くの金融機関を倒産に追い込んだ。途上国の国債(ソブリン)格付けを一手に引き受け、一九九四年にはムーディーズ・インターバンク・クレジット・サービスを設立、世界各国の金融機関の信用格付けを行って、各国の金融政策に巨大な影響力を示している(同、八九ページ)。

 米国政府が、世界各国に金融の自由化を要求し、金融革新の象徴としてリスク・ビジネスを体現する証券を世界各国に売りつけてきた。その度に、米国の格付け会社が急成長してきたのである。そして、いま、サブプライム問題の最大の犯人として各国政府から米国の格付け会社が糾弾されているのである。


 引用文献

黒沢義孝[1999]、『<格付け>の経済学』PHP新書。
ムーディーズ・インベスターズ・サービス、日本興業銀行国際金融調査部訳[1994]、『グ
     ローバル格付分析』金融財政事情研究会。