消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 51 福井県立大学の学章(シンボルマーク)

2006-12-07 02:09:02 | 花(福井日記)

 
 
 福井県立大学の学章は白樫に鶫(つぐみ)が駐まっているデザインである。

 シラガシ(白樫)は、ブナ科コナラ属の常緑広葉樹である。本州中南部から四国、九州に自生、また、朝鮮南部にも分布している。辺心材の区分は不明瞭で、材の色調は全体に淡黄色を帯びた灰褐色を呈す。柾目面には虎班が現れ、板目面には著しい樫目が見られる。 木質は国産材の中では極めて重硬で強靭である。そのためもあって、切削などの加工や乾燥は困難である。器具材、車両材、船舶材、機械材、枕木、薪炭材などに用いられ、特殊用途としては鉋台や農工具の柄、櫓などもある。

 あまり大径木にはならない。街路樹としてよく見かける高木である。葉っぱが細長いのが特徴であり、ギザギザ状である。

  材が白いカシの木なので「白樫」というが、見た目の樹皮は黒いので「黒樫」とも呼ぶ。表面はすべすべである。秋になるドングリは細めである。

 「白橿」とも書く。別名 「黒樫(くろかし)」


 あしひきの
  山道(やまぢ)も知らず 
    白橿の 枝もとををに 雪の降れれば


                
(万葉集・柿本人麿)。

 福井県立大学のホームページの説明によれば、「しらかし」をマークに入れたのは、「勇気と力」を学生にもってもらいたいとの願いを込めているという。  大学祭は「白樫祭」と称されている。素直な人たちである。

 鶫は、福井県が県鳥に指定した鳥である。大学のホームページでは、「ここで学んだ学生たちが勇気をもってつぐみのように飛翔する国際人に育ってほしい」という願いと、「研究においては国際水準を、教育においては全人類的視野を養成する」との決意が込められています、とある。

 福井県の花「水仙」は昭和29年に指定、県木「松」は昭和41年に指定、さらに冬の味覚「越前がに」が平成元年、県魚に指定された。そして、県鳥「つぐみ」が昭和42年に指定されている。

 県鳥「つぐみ」は再指定された2代目の鳥で、初代の鳥は「こうのとり」だった。初代は昭和39年の指定だが、すでに絶滅しつつあったため、再び県民からの公募で「つぐみ」に決まったものである。

 つぐみは日本に渡来する代表的な冬鳥で、全長約20cm前後の小鳥である。シベリア北部で夏を過ごし10月頃、日本に飛来して福井県をはじめ中部以南の日本各地と中国で越冬する。毎年晩秋になると約100万羽が福井県に来る。

 日本海の荒波を超えて渡ってくる勇気と厳しい寒さに耐えるたくましい生命力が、県民性に共通し学ぶところが多いことから、県鳥として指定されたという。

 かつては冬の味覚として捕獲し食用にされた時代もあったが、昭和22年に捕獲が禁止されたことから、国境をもたない渡り鳥をあたたかく迎え、密猟の悪習を根絶しようという、やさしい県民の気持ちがこめられていると福井ではいわれている。

 大学の学章を紹介したついでに学歌も紹介しよう。少なくともそんじょそこらのありふれた校歌ではない。
音声(MP3)「福井県立大学」HPより


  

 

  なんと美しい歌詞か。
 
作詞者は清水哲男、あの詩人の清水哲男なのか、同姓の別人なのかは知らない。わかればまた紹介する。

  とにかく詩情溢れる秀歌である。
  すごいでしょう。本当にすごい。

 悩みがいとしく、哀しみがまぶしい。
 なんという感性。

 そうなのだ。悩み悲しむことこそが青春なのだ。
 そうだったのだ


 わが大学の学長は歴代農学者であった。

 通じるものがある。いのちの深さに。


本山美彦 福井日記 41 蕎麦の花

2006-09-22 00:27:52 | 花(福井日記)
 福井にきて息を飲むような圧倒的に美しい光景に度々遭う。いまは蕎麦の花が、それこそ広大な畑、地平線まで続く畑に真っ白い花を咲かせている。文字通り息を飲む。写真は近くの丸岡の蕎麦畑の光景である。散歩中に撮影した。

 福井の蕎麦は、「越前おろし蕎麦」として食する。それは、そばに大根おろしを添えたシンプルな料理だが美味い。長寿食でもある。

 蕎麦は、8世紀頃、大陸から朝鮮半島を経て日本に渡来し、食用となったのは奈良時代である。当時の食べ方は現在のような麺状ではなく、そば粉をお湯で捏ねた「そばがき」や「そばだんご」にしていた。麺状は、「そばきり」と称されるが、これが、庶民に広まったのは、江戸時代になってからである。

 福井でのそばの歴史は、朝倉孝影が一乗谷に築城した頃(1473年~)から始まった。籠城用食糧としてそばが重宝されたのである。というのも、そばは播種から約75日間という短期間で収穫できたからである。ただその頃も、「そばがき」や「そばだんご」であった。

 福井で「そばきり」が登場するのは1601年。府中(旧武生市、現越前市)の城主となった本多富正が、そば師の金子権左衛門を伴って赴任したのを機に、そばの食べ方が変わった。麺状そばに加え、大根おろしを添える食べ方もこのときに始まった。

 麺状のそばに大根おろし。この組み合わせは庶民にも受け入れられ、その後、福井県と「福井県玄(くろ)そば振興協議会」の指導により、そば栽培と消費量が拡大、そして現在の「おろしそば」人気へとつながった。

 福井の「おろしそば」が「越前おろしそば」として全国に広まったのは、比較的最近のことである。昭和22年になってからである。この年の10月、昭和天皇が福井を訪れたとき、2杯ものおろしそばを食された。その後、皇居に戻られて、「越前のそばは大変おいしかった」と語られたことから、全国的な評判をとった。

 そういえば、「越前竹人形」も、水上勉の小説によって、全国区になったものである。
 「越前おろしそば」のおいしさは、玄そばの品質の高さや製粉技術にも深く関係している。その理由は、そばの良否が栽培地の緯度に関係するからである。

 北緯36度~38度線の地帯には、味や風味の高いそば粉が多い。福井の位置は北緯36度線上にあり、おいしい玄そばができる条件を満たしている。

 加えて製粉方法が素敵である。これも昔ながらの石臼挽きである。福井県下すべての製粉企業が行っている。丁寧に時間をかけて行われる石臼挽きにより、味はもちろん、そば独特の風味が損なわることがない。

 現在、福井県内でのおろしそばの食べ方はほぼ3通り(1)ダシと大根おろしを別々に入れる。(2)ダシに大根おろしを入れる。(3)ダシに大根おろしの汁を入れる。それぞれに味は微妙に違う。

 福井県内で栽培される玄そばは、小粒で皮が薄いのが特徴である。収穫された玄そばには「福井県産玄十八(そば)」と書かれた札が付けられ、温湿度管理の徹底された倉庫で保管される。「十八」というのは、農産品の収穫量などを国が公表する際、1番目の北海道から数えて福井県は18番目になるからである。しかも「十八」は「十」(そ)「八」(ば)とも読めるというこじつけもある。

 そばの実の部分を石臼挽き作業に回す。その時に甘皮も一緒に入れて摺るため、黒っぽいそばの色となる。昔ながらの低速の石臼挽きは、粉を摺ると同時に、練る作用も含まれている。そのため粒子も丸いまま製粉され、そば独特の風味も損なわれない。逆に高速のロール挽きは、機械で摺りつぶすため、玄そばの質が低減してしまう。

 石臼挽きにとって必要不可欠な作業が、石臼の目立てである。石臼は福井県美山町小和清水産のものが使用されている。ただし、現在は、昔ほど石臼を目立てできる職人はほとんどいない。

 福井県玄そば振興協議会は、昭和40年代より、転作政策として、そば栽培を推進している。そして、正しい栽培法や保管法などを指導している。今もその活動は続けられ、作付面積及び収穫量は年々増加中である。

 現在、福井県では県産そばの消費拡大と流通促進、越前おろしそばのブランド化促進のため、「おいしい福井県産そば使用店認証制度」を設定(現在76店舗)している。

 蕎麦は、旧盆の頃に播種、9月中~10月下旬頃には、畑一面、可憐なそばの白い花が咲き乱れる。その後、茎が赤くなり、白い花が黒い実になる11月初旬頃から収穫が始まる。その頃になって、風味の良い新そばが登場する。

 そば栽培は福井県内各地で行われ、作付面積は全国で9位である(平成15年度)。
 以上の叙述は、福井県玄そば振興協議会のホームページより。

 福井の蕎麦は、コメの転作奨励から盛んになってきたのであるが、同じ転作作物としての大豆よりも雑草対策で有利であった。大豆は、雑草との闘いが大変であるが、蕎麦は、密生させるので、田圃に雑草が生えないので、楽である。

 坂井市丸岡町の蕎麦畑は写真にあるように見事である。平成3~4年に丸岡町は、そばを作る農家に出荷奨励金を出すようになった。丸岡地区では、そばの栽培人口が次第に増えていった。そのうち、そば栽培は農業の枠を超え、町おこし的な動きへと発展した。そばの品種も種づくりから模索されるようになった。

 そばは大粒だと挽きやすいが、味が淡泊である。小粒ほど香りも風味もいい。丸岡ブランドは、小粒のそばである。

 丸岡は、九頭竜川と竹田川に挟まれた扇状の河川敷で、地面の下が砂利になっているので水はけが最高によい。蕎麦の実は、グリーン色である。 本当に越前のおろし蕎麦は美味い。幸せを感じる。読者諸氏も写真で雄大な光景を想像していただきたい。

本山美彦 福井日記 37 花の木

2006-09-04 01:50:27 | 花(福井日記)

 福井県立大学の兼定島キャンパスで珍しい木を見つけた。「花の木」である。まだ秋の到来がないのに、すでに、葉が赤く色づいている。変だなと近づいて見ると、アメリカフウを小振りにした葉である。やはり、楓の一種であった。


 木曽山中の湿地にしか自生しないものである。雌雄異株の落葉高木である。4 月ころ,葉が出る前に目立たない真紅色の花が咲く。特に雄花は美しい。別名「花楓(はなかえで)」、愛知県の県花。   

               

   花の木と無関係だが、いい本を見つけたので紹介しておきます。

 辻川達雄本願寺と一向一揆』(誠文堂新光社刊)著者は福井県武生市の方。著者はもともと宗教指導者が武力沙汰を認めたり、それを行使すること自体に、大きな矛盾を感じている一人である。たとえどのような時代であっても、宗教指導者たるものは、宗教本来の倫理である「博愛」と「平和」に徹するべきであった。事実、そのことを貫いた宗教指導者も少なくなかった。当時の真宗王国=砺波地方のことが詳しく書かれている。


 わが意を得たりの思いである。この福井日記に「花コーナー」を置くのは、花こそが宗教心だと信じるからである。


本山美彦 福井日記 32 大豆

2006-08-01 00:19:12 | 花(福井日記)
私の下宿の兼定島では、六条大麦が栽培されていたことをこの日記で報告した。麦は梅雨に入る前にあっという間に刈り取られた。あと何を植えるのだろうと思っていたら、これも梅雨前に作付けされたのだが、大豆であった。

 よくよく観察して見るとなるほどと思った。大麦が繁茂しておれば、雑草は生えない。大麦を刈り取った直後もまだ雑草は生えない。雑草が生えない間に、大豆を播種するのである。さらに、刈り取った後の麦わらが畑の表面を覆っているので、日光が遮断される。大麦の刈り取りと大豆の播種の間隔が短いので、雑草が生える間もない。しかも、大豆の生長初期は徒長が早い。それこそ、あっという間に背丈が高くなる。

 それと畝が見事に利用されている。大麦を刈り取った後、耕耘機で低い畝が作られている。これだと、平たんに耕して種を播くよりも、梅雨期に入ったときに、冠水する危険性が小さくなる。畝立てと同時に種を播くため、降雨などによる湿害が回避できる。この方法だと除草作業が大幅に削減できるだろうと想像する。

 以下は、ウィキペディアによる。
 ダイズ(大豆、学名Glycine max)は、マメ科の一年生の植物。「大いなる豆」という意味で、「大きな豆」ということではない。原産地は、中国東北部からシベリア、日本にも自生しているツルマメと考えられている。約4000年前に中国で野生種大豆の栽培が始められたと言われている。日本には、約2000年前に伝来し、古事記にも大豆の記録が記載されている。

 ダイズは蛋白質や脂肪、鉄分、カルシウムなどミネラルが多い。種子は堅いので、煮るなど加工して食べられることが多い。例えば、若いダイズの果実は枝豆と呼び、塩茹でなどにして食べる。熟したダイズから豆乳を作り、そこから豆腐、油揚げなどが作られる。また、蒸したダイズを発酵させて、納豆、醤油、味噌などが作られる。蒸した種子を発酵させてから乾燥させたものは香鼓(こうし)という生薬である。これには発汗作用、健胃作用がある。

 大豆から作られる大豆油は、かつては燃料としても用いられたが、現在最も安い食用油として発展途上国で、大量に消費されている。近年では大豆油インクが環境に優しいなどとして利用が増加している。油の搾り粕は家畜の飼料となる。

 光の当たらないところで発芽させ、数センチメートル伸びた芽を食べるのが豆モヤシである。

 日本は現在大部分を輸入に頼っている為、2003年に世界的不作から価格が高騰したときには大きな影響を受けた。最大の生産国、輸出国はアメリカ、ついでブラジル。日本の輸入量は世界第3位。 中国では経済成長に伴う食生活の変化により消費量が激増しており、これからも増え続けると見られている。 この需要に応えるためブラジルでは天然林伐採を伴う大豆農地の拡大が進んでおり、問題視されている。

 日本はダイズの加工技術については群を抜いている。アジア地域ではダイズが様々に加工されて食べられているが、日本ほどバリエーションに富んでいる国はない。例えば居酒屋などで出される簡単な肴として、開いた油揚げに納豆を詰め、焼いて醤油をかけたもの、などがあるが、これらは全てダイズ原料である。

本山美彦 福井日記 19 大安禅寺

2006-07-09 23:15:39 | 花(福井日記)


 福井市街地の西方に、「花しょうぶの寺」として有名な臨済宗妙心寺派の萬松山・大安禅寺がある。この寺を創建した第4代福井藩主・松平光通の座像が、平成18年7月6日(木)、330年ぶりに外に運び出されるというニュースに接して、どんなところだろうと見学に行った。福井市立郷土歴史博物館で平成18年7月22日(土)から9月3日(日)まで、「越前松平家と大安禅寺」展が開催され、その目玉として松平光通座像がこの博物館に搬入されるというのである。


 寺が創建される場合、僧から見た創建のことを「開山」という。大安禅寺の開山は、大愚宗築である。実際に資金を出した人から見れば、寺の創建は「開基」ということになる。開基は藩主・松平光通である。

 大愚宗築は、天正12年(1584年)に生まれ、江戸谷中の南泉寺を開山するなど、臨済宗の高僧としてすでに著名であった。彼が治療のために山中温泉に滞在中に松平光通と親しくなり、同藩主に招かれて大安禅寺を開山したのである。万治2年(1659年)のことであった。以後、同寺は、歴代藩主の墓所となった。地元で、墓所は千畳敷と言われ、福井足羽地域の特産石・笏谷石(しゃくだにいし)が敷き詰められている。

 しかし、この寺は、信長によって炎上させられた竜王山・田谷寺の跡地に創建されたものである。この田谷寺は真言宗であったらしい。創建は越前の泰澄大師であった。766年前後の年であった。この大師は、平泉寺(へいせんじ)、豊原寺大谷寺も創建している。いずれも、庶民信仰の大道場であった。信長がこの寺を焼き払ったのは、天正3年(1574年)である。創建後、850年も続いた伝統ある寺が信長の越前攻めで廃墟にさせられたのである。田谷寺は福井の田ノ谷地区に建てられたものである。奈良時代の元正天皇の治下、養老年間、この寺は48坊をもち、賑やかな門前市が開かれていたという。しかし、1574年から1659年までの84年間、敷地は荒れ放題であった。

 今度、330年ぶりに外に出ることになった松平光通座像は、光通没後、延宝5年(1677年)制作されたものである。その年、第5代藩主・松平昌親によって、開基堂が(福井県指定有形文化財)が建立され、光通のお抱え絵師であった狩野元昭の手になる肖像画を基に、当時の一流仏師・康乗が作成した光通座像が開基堂の厨子に安置されたのである。 座像が運び出された後、私は同寺に到着したのだが、非常に多くの寺関係者の方々が忙しく動いておられた。

 この大安禅寺で、今年の4月12日、大変な発見がなされた。裏山から越前焼の甕(かめ)が発掘されたのである。甕からは木簡と古銭が入れられていた。古銭は、100枚前後の銭を1束として、紐で通していた。それには通し番号が着けられ、全部で1100束であった。つまり、約10万枚の通貨が出てきたのである。このお金は、おそらくは賽銭であったろうと思われる。甕が埋められた年が明応9年(1500年)7月吉日であったことが、木簡によって記されている。古銭は永楽通宝や洪武通宝などいずれも明銭で、数種類ある。現在価値に直せば800万円程度になると思われる。年代が確定できる中世の備蓄銭は福井県内では初めてであり、全国的にも珍しいという。年代が確定できるので、備前焼の歴史を知る上でも貴重な発見であったらしい。木簡は上の部分が三角形になっている祈願札である可能性が高い。

 甕の中に備蓄金が入れられていたこと、甕が裏山に埋められていたこと、それも、信長の焼き討ちのはるか以前のことであったこと、真言宗らしいが、信長の憎悪を掻き立てる一大反抗勢力であったこと、浄土真宗ではないのに、一向一揆との関係があったらしいこと、そして、15~16世紀の日本で流通していた銭は、明銭であったこと、おうしたことをひとつひとつ検討して行けば、日本でも、マルク・ブロックに匹敵する古銭学が可能となるのかも知れない。写真は、甕の発見現場を示したものである。

本山美彦 福井日記 14 抹殺される大金鶏菊

2006-06-21 00:58:25 | 花(福井日記)
大金鶏菊(オオキンケイギク)が日本全国の空き地で咲き乱れる季節になった。黄金色に、まぶしく太陽を照り返す。群生しているので、余計に迫力を感じる花である。コスモスに似ている。春型のコスモスと思っている人が結構、多いのではなかろうか。ここ福井でも1週間ほど前から咲き出した。こちらの心まで明るくなる。とにかく美しい。

 しかし、残念ながら、平成18年の2月1日から、この花は、環境省によって、「第二次特定外来生物」の一つに指定されてしまった。特定外来生物とは、海外期限の外来生物で、生態系、人間の生命、農林水産業に悪い影響を与える生物であるとされているものである。「外来生物法」によって、栽培、保管、運搬、輸入が禁止されている。そして、今回、追加指定されたのが、オオキンケイギクなのである。販売すれば、個人の場合、懲役3年もしくは300万円以下の罰金、法人の場合には1億円以下の罰金が、科される。野外でも、個人の庭でも、植えると、個人では1年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金、法人の場合、5000万円以下の罰金が科される。

 あまりにもありふれた花、しかも、明治中期に日本の道路を飾るべく輸入された花である。けっして、荷物にくっついて自生したものではない。綺麗なために、家の庭に植えようかと想うひとがいるだろう。しかし、今年からそれは駄目になったし、街路や空き地では除草剤が撒かれる可能性がある。お互いに気をつけましょう。

 それにしても、北アメリカが原産の、この花の学名、coreopsis lanceolataは可哀想である。coreの単数corisはギリシャ語で南京虫を指す。これは、実の形が南京虫に似ているからである。lanceolataは針型という意味である。要するに蔑称である。
 もちろん、花屋からは今年になって消えた花である。

 あまりにも繁殖力が強いためなのだろうか。必要があって輸入されたのに、御用済みとなって抹殺される花を想うと身につまされる。遠いアフリカで、イラクの戦場で、わが日本で幾万回となく繰り返される、権力によって嫌悪されたものが抹殺されている人の世がこの花にダブってしまう。抹殺されるものは、どうあがけばいいのか。
 一首

誰ぞ知る 打ち棄てられし 
哀しみを 春が過ぎても 走る悪寒を

本山美彦 福井日記 09 ジャガイモの花

2006-06-10 23:42:30 | 花(福井日記)
ジャガイモの花が咲いた。収穫直前に花を咲かすのがジャガイモの特徴である。
 いま花が咲いたということは、このジャガイモは今春4月初旬に植え付けられたものである。まず、堆肥を耕起した畑にまぶし、2日後にイモを植える。その際、10cmほど離して鶏糞を並べる。2週間ほどして芽が出る。

 5月初め、草取りを兼ねて、土を耕し、畝を揃える。中肥を施す。さらに、5月中頃、2回目の中耕培土(土寄せ)を行う。かなり、土の高さを増すことが必要となる。土のかけ方が少ないとイモが土の外に出て、緑色になってしまう。

 そして、いま花が咲いた。葉っぱも大きくなり、畝間が見えなくなっている。ジャガイモは茎のお化けだと言われほど、立派な茎になる。いまから、あれよあれよと言ってる間に、茎が枯れて倒れてくる。その後、梅雨の晴れ間を見て、収穫が始まるのである。7月初めに収穫されるであろう。ちなみに、先日紹介した六条大麦は黄ばんだ麦秋風景を示した後、きれいさっぱりと刈り取られてしまった。トラクターであっと言う間であった。

 ジャガイモをニドイモ(2度薯)、サンドイモ(3度薯)というのは、年間に栽培される回数が、2度、3度あるという意味である。ゴショウイモ(5升薯)、ハッショウイモ(8升薯)というのは、1株から採れる量を示すからである。
 ニドイモという言葉は、東北と近畿で使用されている。馬鈴薯とかゴショウイモは北海道、ジャガイモは関東、中部で使われている。

 だいたい、官庁とか農協は、「ばれいしょ」と平かなで表記されることが多く、研究者は「ジャガイモ」とカタカナで表記し、北海道の人々は単に「イモ」と呼ぶことが多い。国木田独歩は『牛肉と馬鈴薯』と書き、「じゃがいも」と読ませた。土の中では「ばれいしょ」と呼ばれ、スーパーの店頭では、「ジャガイモ」、主婦は「おジャガ」として持ち帰り、料理されると「ポテト」に変身する。

 ただし、漢字で馬鈴薯として表記することは感心しない。蝦夷という蔑称を北海道という優雅な名前に改めさせた伊勢の探検家、松浦武四郎ですら、1856年(安政3年)の『武四郎廻浦日誌』で「馬鈴薯」という単語を使っている。ただし、松浦は、福島村の遊女がそう呼ばれていると紹介しただけである。 ジャガイモを馬鈴薯と名付けたのは、幕末の薬用植物学者小野蘭山(おのらんざん)らしい。中国の芋で、馬の首につける数個の鈴のような姿で土中にできる芋のようなものがあり、中国ではこれを馬鈴薯と言っていたから、これと同種だと勘違いしたのである。しかし、これは豆科のものであり、ジャガイモとはまったく別種のものである。そこで、植物分類学者の牧野富太郎博士は「形が似ていたため思い違いをしたのであろう」と指摘し、馬鈴薯の使用を止めるように提唱した。

 ジャガイモの原産地は、南米ペルーとボリビアにまたがる高原地帯のチチカカ湖周辺と言われている。この付近では6世紀より以前から栽培され、インカ文明のエネルギー源になったと考えられている。

 ヨーロッパに伝播したのは、スペインの探検家ピサロによるインカ帝国征服の1532年前後ではないかと言われている。英国には1586年前後に伝えられた。粗末な土地でも収穫できることがわかり、プロシア皇帝が奨励してドイツ人が食用にし始めた。18世紀半ば、凶作に見舞われたフランスで、薬学者パルマンティエ男爵は、フランス国王ルイ16世にジャガイモの有効性を訴えた。ドイツの国力がジャガイモによって増したこともあり、ルイ16世はパルマンティエ男爵の進言に従って、ジャガイモ栽培の普及に乗り出した。
マンティエ男爵の名を取った『パルマンティエ風』とつけば、ジャガイモを使ったフランス料理のことを言う。

 日本にジャガイモが伝来したのは慶長三年(1598)とも、慶長八年(1603)とも言われている。それが、オランダ経由できたものか、それとも、ポリメシアから北上してきたものかは確定されていない。しかし、長崎貿易では、オランダ人によってジャワ島のジャガタラ(またはジャガトラ:インドネシアの首都ジャカルタの旧名)から長崎に持ち込まれたので、ジャガタラ芋と呼ばれ、転じてジャガイモと言われるようになった。

 ジャガイモじゃ、日本でも数々の飢饉の度に、食料としての重要性が知られていき、江戸末期にはすでに全国的に広まっていた。
 北海道産ジャガイモの雄「男爵イモ」は、明治40年(1907)頃、函館ドックの社長で農場主だった川田龍吉男爵がアイルランド産のアイリッシュ・コブラーを輸入して改良したとして「男爵イモ」と命名されたものである。

 ジャガイモの花の鑑賞時間帯は朝である。午後になると花弁がしぼんでくるからである。花の数は、1房につき、通常数個である。花房の数は早生種では茎の数と等しいが、晩生種だと、第1花房だけでなく、その上に2段、3段にも咲く。
 開花初日の花弁は外への反りが強く、2、3日目のものは反りがしだいに消え、大きく見える。この期の雌しべ(花の中央の黄緑の柱)は粘っこい宝石のような液をだしていて、花粉が付きやすい状態になっている。
 基調は白、そして、紫。しかし、黄色は珍しい。4弁の花弁もクローバー以上に珍しい。

 福井県の煎餅に越前海鮮煎餅という非常に美味なものがある。無味無臭のジャガイモ澱粉を生地に、甘えび、かに、ほたるいか、小鯛、わたりがに、じゃこ、岩のり、わかめ、あさり、うにの本物が姿のまま入っている煎餅である。素材の海の幸の旨味風味をそのまま焼き上げたもので、塩味でさっぱりした味。各海鮮物の形と香りと味わいがそのまま出ていておいしい。ほたるイカがそのまま煎餅にくっ付いているなんて嬉しくなる。

本山美彦 福井日記 01

2006-05-31 23:18:53 | 花(福井日記)

五月晴れとは梅雨の季節に、たまたま晴れた状態を指す。紺碧の日本晴れを示す言葉ではない。これは、梅雨の鬱陶しい季節に、まれに見る晴れた空にほっとするという心境を示す天候用語である。ここ、福井県立大の兼定島(けんじょうじま)キャンパス(上の写真)で、五月晴れ下に「やまぼうず」の花が咲いた。坊主が座禅をしている様子からきた名前であろう。真ん中のおしべは坊主の頭、白い花びらが僧の衣に似ているから名付けられたとも言われている。

 「やまぼうず」は日本原産の木で、「みずき」科に属する。米国から送られた「ハナミズキ」は親類である。このハナミズキは「アメリカン・ミズキとも呼ばれている。原種が日本なのに、米国から来たものと多くの日本人は思ってしまっている。福井県立大から福井大医学部に至る道は、ハナミズキを街路樹にしていて、4月末、それはそれは美しい風景を醸し出してくれた。この辺り、花で埋まっている。ありがたいことである。