一九〇五年、崇実学堂は、崇実高校(Soongsil Junior High School)と崇実カレッジ(Soongsil College)に分離した。そして、一九〇六年、メソジストの宣教師がカレッジの運営に加わり、カレッジは、一九〇八年に上述の連合崇実カレッジと呼ばれるようになった。連合(Union)という名称があるのは、長老派とメソジストとが合同でこのカレッジを運営したからである(3)。
二〇世紀に入って、プロテスタントを中心とするキリスト教の教会一致運動が、欧米で起こった。これをエキュメニカル運動(Ecumenical Movement)といい、「世界教会一致運動」と訳される。キリスト教の超教派による対話と和解を目指す主義をエキュメニズム(Ecumenism、世界教会主義)という。
そして、一九一二年三月、朝鮮総督府はこのカレッジを正式に認可した。朝鮮初の正式認可されたカレッジであった。同時に、このカレッジの運営に、北部伝道本部だけでなく、北米南部長老派教会伝道本部(Southern Presbyterian Church Mission of North of America)も 加わることになった。
しかし、崇実学堂は、民主主義、民族独立、革新の三原則の維持を標榜して、総督府に対立していた。そのために、正式に認可されたとはいえ、常に当局の監視下にさらされていた。一九一二年という認可されたまさにその時に、いわゆる一〇五人事件の嫌疑で多くの学生・教師が総督府に拘束された(本稿、注(1)、参照)。
戦闘的な長老派と袂を分かつべく、メソジストは、一九一四年に同校の運営から身を引いた(李省展[二〇〇六]、一三五~三六ページ)。
一九一九年の三・一独立運動にも、このカレッジの全校生徒が参加し、教師と生徒の多くが拘束されることになった。
一九二五年、総督府は、崇実カレッジを大学から各種専門学校に格下げした。これに対して、崇実側は、朝鮮初の三年制の農学教科の新設を申請した。そして、一九二八年九月、先述のマッカンが学長になった。一九三一年には農学部の新設が許可された。しかし、マッカン校長が退去させられた後、一九三六年、米国北部長老教会の宣教本部(mission headquarters)が、総督府の宗教政策に反対して同会が運営する学校閉鎖を決定した。一九三八年三月、崇実校は、最後の卒業生を送り出して閉校となった。総督府による神社参拝に強力に反抗し続けていた崇実校も、三九年の歴史を閉じたのである(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。
北部米国長老派の朝鮮における学校閉鎖の決定を受けて、南部長老派も、一九三七年九月、同じく朝鮮における学校を閉鎖した。
しかし、ミッション系の学校教育を完全に閉じてしまっていいのかとの論争がクリスチャンの間で闘わされた。一九三七年、朝鮮のメソジストは神道祭礼に形式的に参加することによって、学校を残す方針を採った。その方針は、翌、一九三八年六月、本国の伝道本部の承認を得た。神社参拝は信仰のためではなく、愛国的表現であるとの総督府の言い分を認めたのである。ただし、この方針は、朝鮮人の愛国心を逆撫でするものであった(Copplestone[1973], p. 1196)。
メソジストよりも強硬派であった長老派に対しては、総督府は、猛烈な弾圧を加えた。一九三八年の韓国長老派教会総会は、日本の官憲の厳しい監視下で開催された。しかし、こともあろうに、そこで、神社参拝が決議されてしまったのである。反対意見を陳述できる雰囲気ではなかった。それは、韓国併合条約調印が武力による威圧下で実施された時の状況と同じであった(Blair & Hunt[1977], pp. 92-95)。
融和的な姿勢を取っていた韓国メソジスト教会は自主規制策として、一九四〇年末、反日的・親米的傾向を持つ牧師たちを休職させ、一九四四年には旧約聖書と「ヨハネ黙示録」(Revelations of St. John)を禁書とした。それが政治的な破壊活動に資する恐れがあるというのが理由であった(Sauer[1973], pp. 101-109)。
他方、一九〇八年のプロテスタント教会間の「棲み分け合意」(Comity Agreement of 1908)によって、朝鮮半島の北部に布教拠点を置くことが決められていた長老派は、半島南部の妥協的なメソジストに反発して、新天地、満州に拠点を移していた(Clark, Donald[1986], p. 13)。それは、ナチス・ドイツに反抗する「告白教会」(Confessing Church, Bekennende Kirche)を彷彿とさせるものであった(4)。
ところが、朝鮮総督府によるクリスチャン弾圧に対して、日本のクリスチャンは激しい抗議の声を上げることができなかった。愛国心がないと政府から嫌疑を受けて、教会が攻撃されることを恐れていたからである(Best[1966]; Copplestone[1973], p. 1197)。一八九一年に起きた内村鑑三の不敬事件についても(5)、日本のクリスチャンたちが激しい抗議を示さなかったのも、当局によるキリスト教会への弾圧を恐れたからであった(Caldarola[1979], p. 169)。
おわりに
神職の小笠原省三は言った。
「日本人のあるところ必ず神社あり。神社のあるところまた日本人があった」(小笠原[一九五三]、三ページ)。
そして、敗戦。一六〇〇社あった海外神社のほとんどが廃絶された。
「終戦と共に暴民の襲撃を真っ先に被ったものも亦神社であったことを知らねばならない。・・・社殿は焼かれ財物は略奪された。中には奉仕神職及び家族が殉職した神社もある。・・・海外神社は遂に壊滅したのである(小笠原[一九五三]、四ページ)。
朝鮮における日本の神社への強制参拝に対する告発は、数多く出されていた。中でもD・C・ホルトン(Holton)の著作は、連合軍の対日占領政策に大きな影響力を持った(Holton[1943])。占領下の日本の「神道指令」はこの書をテキストにしたものである。
「神道指令」とは、一九四五年一二月一五日に連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters=GHQ)による「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という覚書のことである。信教の自由、軍国主義の排除、国家神道の廃止が指令された。「大東亜戦争」とか「八紘一宇」の用語も使用禁止になった(http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/kaisetsu/other/shinto_shirei.html)。
韓国併合前後の東アジアを巡る国際関係を振り返る時、日本を悲惨な壊滅に導いた太平洋戦争は、強引な韓国併合に大きな原因があったことが分かる。歴史は常に複雑な要素を包み込んで進行するものなので、一刀両断的な歴史解釈は危険である。それでも、韓国併合とは何だったのかは問い続けられなければならない重要問題である。何故、強大国・米国に日本が戦争を仕掛けたのかという問いも大事だが、何故、韓国を併合しなければならなかったのかの問いの方がはるかに重大な意味を持つ。韓国を併合したいために清と、そしてロシアと、戦争をした。併合した韓国の利権を守るために、満州、華北をも統治下に置こうとした。当然、列強の反発を買う。反発を乗り切るべく、列強間の亀裂を利用した駆け引きに終始したのが当時の日本の外交であった。当然、友人はいなくなってしまった。世界からの冷たい視線に耐える唯一の支えが、「神国日本」という幻想であった。神が常にわが日本の危機を救ってくれるという逃避的思い込みに、権力者も多くの市井の人も耽溺していた。当時、隣国・韓国の歴史・文化・心を真剣に学ぼうとする日本人は少なかった。時代への抗議の文は、非常に少ない。
日本人は、文化を伝えてくれた師たちを輩出してきた地、私たちの父祖の地の人々の心をついにつかめなかった。日本の権力者を批判することはたやすい。しかし、彼らを権力の座に押し上げたのは日本の庶民である。韓国併合一〇〇周年。同じことを私たち日本人は繰り返している。
専門家だけでなく、素人も、自己の生活感覚に基づいて時代に異議申し立てをしなければならない時がある。いま、自分たちが冒してしまった行動に対する自省を言葉にしなければ、私たち日本人はかなりの長期に亘って、歴史の闇に押し込められることになるだろう。時代は、私たち日本人に対して苛酷な試練を与えている。こんな大事な時に、「坂の上の雲」?