消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(352) 韓国併合100年(30) 朝鮮総督府とキリスト教(4)

2010-11-30 23:39:20 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一九〇五年、崇実学堂は、崇実高校(Soongsil Junior High School)と崇実カレッジ(Soongsil College)に分離した。そして、一九〇六年、メソジストの宣教師がカレッジの運営に加わり、カレッジは、一九〇八年に上述の連合崇実カレッジと呼ばれるようになった。連合(Union)という名称があるのは、長老派とメソジストとが合同でこのカレッジを運営したからである(3)。

 二〇世紀に入って、プロテスタントを中心とするキリスト教の教会一致運動が、欧米で起こった。これをエキュメニカル運動(Ecumenical Movement)といい、「世界教会一致運動」と訳される。キリスト教の超教派による対話と和解を目指す主義をエキュメニズム(Ecumenism、世界教会主義)という。

 そして、一九一二年三月、朝鮮総督府はこのカレッジを正式に認可した。朝鮮初の正式認可されたカレッジであった。同時に、このカレッジの運営に、北部伝道本部だけでなく、北米南部長老派教会伝道本部(Southern Presbyterian Church Mission of North of America)も 加わることになった。

 しかし、崇実学堂は、民主主義、民族独立、革新の三原則の維持を標榜して、総督府に対立していた。そのために、正式に認可されたとはいえ、常に当局の監視下にさらされていた。一九一二年という認可されたまさにその時に、いわゆる一〇五人事件の嫌疑で多くの学生・教師が総督府に拘束された(本稿、注(1)、参照)。

 戦闘的な長老派と袂を分かつべく、メソジストは、一九一四年に同校の運営から身を引いた(李省展[二〇〇六]、一三五~三六ページ)。

 一九一九年の三・一独立運動にも、このカレッジの全校生徒が参加し、教師と生徒の多くが拘束されることになった。

 一九二五年、総督府は、崇実カレッジを大学から各種専門学校に格下げした。これに対して、崇実側は、朝鮮初の三年制の農学教科の新設を申請した。そして、一九二八年九月、先述のマッカンが学長になった。一九三一年には農学部の新設が許可された。しかし、マッカン校長が退去させられた後、一九三六年、米国北部長老教会の宣教本部(mission headquarters)が、総督府の宗教政策に反対して同会が運営する学校閉鎖を決定した。一九三八年三月、崇実校は、最後の卒業生を送り出して閉校となった。総督府による神社参拝に強力に反抗し続けていた崇実校も、三九年の歴史を閉じたのである(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。

 北部米国長老派の朝鮮における学校閉鎖の決定を受けて、南部長老派も、一九三七年九月、同じく朝鮮における学校を閉鎖した。

 しかし、ミッション系の学校教育を完全に閉じてしまっていいのかとの論争がクリスチャンの間で闘わされた。一九三七年、朝鮮のメソジストは神道祭礼に形式的に参加することによって、学校を残す方針を採った。その方針は、翌、一九三八年六月、本国の伝道本部の承認を得た。神社参拝は信仰のためではなく、愛国的表現であるとの総督府の言い分を認めたのである。ただし、この方針は、朝鮮人の愛国心を逆撫でするものであった(Copplestone[1973], p. 1196)。

 メソジストよりも強硬派であった長老派に対しては、総督府は、猛烈な弾圧を加えた。一九三八年の韓国長老派教会総会は、日本の官憲の厳しい監視下で開催された。しかし、こともあろうに、そこで、神社参拝が決議されてしまったのである。反対意見を陳述できる雰囲気ではなかった。それは、韓国併合条約調印が武力による威圧下で実施された時の状況と同じであった(Blair & Hunt[1977], pp. 92-95)。

 融和的な姿勢を取っていた韓国メソジスト教会は自主規制策として、一九四〇年末、反日的・親米的傾向を持つ牧師たちを休職させ、一九四四年には旧約聖書と「ヨハネ黙示録」(Revelations of St. John)を禁書とした。それが政治的な破壊活動に資する恐れがあるというのが理由であった(Sauer[1973], pp. 101-109)。

 他方、一九〇八年のプロテスタント教会間の「棲み分け合意」(Comity Agreement of 1908)によって、朝鮮半島の北部に布教拠点を置くことが決められていた長老派は、半島南部の妥協的なメソジストに反発して、新天地、満州に拠点を移していた(Clark, Donald[1986], p. 13)。それは、ナチス・ドイツに反抗する「告白教会」(Confessing Church, Bekennende Kirche)を彷彿とさせるものであった(4)。

 ところが、朝鮮総督府によるクリスチャン弾圧に対して、日本のクリスチャンは激しい抗議の声を上げることができなかった。愛国心がないと政府から嫌疑を受けて、教会が攻撃されることを恐れていたからである(Best[1966]; Copplestone[1973], p. 1197)。一八九一年に起きた内村鑑三の不敬事件についても(5)、日本のクリスチャンたちが激しい抗議を示さなかったのも、当局によるキリスト教会への弾圧を恐れたからであった(Caldarola[1979], p. 169)。

  
 おわりに


 神職の小笠原省三は言った。

 「日本人のあるところ必ず神社あり。神社のあるところまた日本人があった」(小笠原[一九五三]、三ページ)。

  そして、敗戦。一六〇〇社あった海外神社のほとんどが廃絶された。

 「終戦と共に暴民の襲撃を真っ先に被ったものも亦神社であったことを知らねばならない。・・・社殿は焼かれ財物は略奪された。中には奉仕神職及び家族が殉職した神社もある。・・・海外神社は遂に壊滅したのである(小笠原[一九五三]、四ページ)。

 朝鮮における日本の神社への強制参拝に対する告発は、数多く出されていた。中でもD・C・ホルトン(Holton)の著作は、連合軍の対日占領政策に大きな影響力を持った(Holton[1943])。占領下の日本の「神道指令」はこの書をテキストにしたものである。

 「神道指令」とは、一九四五年一二月一五日に連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters=GHQ)による「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という覚書のことである。信教の自由、軍国主義の排除、国家神道の廃止が指令された。「大東亜戦争」とか「八紘一宇」の用語も使用禁止になった(http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/kaisetsu/other/shinto_shirei.html)。

 韓国併合前後の東アジアを巡る国際関係を振り返る時、日本を悲惨な壊滅に導いた太平洋戦争は、強引な韓国併合に大きな原因があったことが分かる。歴史は常に複雑な要素を包み込んで進行するものなので、一刀両断的な歴史解釈は危険である。それでも、韓国併合とは何だったのかは問い続けられなければならない重要問題である。何故、強大国・米国に日本が戦争を仕掛けたのかという問いも大事だが、何故、韓国を併合しなければならなかったのかの問いの方がはるかに重大な意味を持つ。韓国を併合したいために清と、そしてロシアと、戦争をした。併合した韓国の利権を守るために、満州、華北をも統治下に置こうとした。当然、列強の反発を買う。反発を乗り切るべく、列強間の亀裂を利用した駆け引きに終始したのが当時の日本の外交であった。当然、友人はいなくなってしまった。世界からの冷たい視線に耐える唯一の支えが、「神国日本」という幻想であった。神が常にわが日本の危機を救ってくれるという逃避的思い込みに、権力者も多くの市井の人も耽溺していた。当時、隣国・韓国の歴史・文化・心を真剣に学ぼうとする日本人は少なかった。時代への抗議の文は、非常に少ない。

 日本人は、文化を伝えてくれた師たちを輩出してきた地、私たちの父祖の地の人々の心をついにつかめなかった。日本の権力者を批判することはたやすい。しかし、彼らを権力の座に押し上げたのは日本の庶民である。韓国併合一〇〇周年。同じことを私たち日本人は繰り返している。

 専門家だけでなく、素人も、自己の生活感覚に基づいて時代に異議申し立てをしなければならない時がある。いま、自分たちが冒してしまった行動に対する自省を言葉にしなければ、私たち日本人はかなりの長期に亘って、歴史の闇に押し込められることになるだろう。時代は、私たち日本人に対して苛酷な試練を与えている。こんな大事な時に、「坂の上の雲」?


野崎日記(351) 韓国併合100年(29) 朝鮮総督府とキリスト教(3)

2010-11-28 22:22:34 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 しかし、依然として、クリスチャンたちは、日本政府にとって脅威であった。そして、キリスト教に対抗すべく積極的に動員されたのが、国家神道であった

 韓国における最初の神社は、一八八三年、仁川(Inchon)に設立された天照大神神社であるが、これは、厳密な意味での国家神道ではなかった。韓国に居住する日本人が民間レベルで設立したものだからである。

 民間レベルではなく、国家が全面的に普及に乗り出したのが国家神道である。国家神道は、宗教の上位に置く一種の国教的な色彩を持つものであった(佐木[一九七二]、二七〇ページ)。大日本帝国憲法では文面上は信教の自由が明記されていたが、政府は、上述のように、神道は宗教ではない(神社非宗教論)という解釈を押し通し、官幣社は内務省神社局が所管し、新たな官幣社の造営には公金が投入された。村社以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行われた。神道を梃子とする内鮮一体化の試みがが本格化したのである。
 「海外神社」という用語を創った小笠原省三は、率直に米国からの宣教師の活動が朝鮮人の反日感情を増幅しているとして、神道の朝鮮への導入を本格化すべきであると主張していた。そのためにも、「日鮮同祖論」による「内鮮融和」が必要だと説いた。そして、小笠原は、排日移民法を成立させた米国を「醜悪なヤンキーイズム」と侮蔑していた(小笠原[一九二五]、菅[二〇〇四]、一五五ページ)。

 「内鮮一体化」は、一九三〇年代に入って日本の支配層の主たるイデオロギーになった。とくに、一九三五年一月一六日、当時の朝鮮総督・宇垣一成(うがき・かずしげ)は「心田開発」という新造語によって、朝鮮人に、心の田を開発する運動を展開することを呼びかけた。物的生活の向上も大事だが、精神的な豊かさを持つことも大事である。物心両面において安心立命の境地に立って、半島は初めて楽園になるという、まことに得て勝手な思いつき論を臆面もなく現実の政策として実現させたのである。宇垣の命によって、一年後の一九三六年一月一五日、「心田開発委員会」が設置された。この委員会が神社への強制参拝の推進者になったのである(菅[二〇〇四]、一七四~七五ページ)。

 さらに、一九三八年四月、朝鮮総督・南次郎が、「内鮮一体化」を口実として、廬溝橋事件(一九三七年七月七日、七七事変=Qi Qi Shibian)一周年の一九三八年七月七日、「国民精神総動員朝鮮連盟」を結成した。この連盟は、各団体ごとに神社に強制参拝させる大きな力を発揮した(菅[二〇〇四]、一八七ページ)。

 御神体などが祀られている祠(ほこら)や社(やしろ)など、神道の形式に則って御神体が祀られている施設を神祠(しんし)というが、この神祠が、一九三九年以降、猛烈な勢いで朝鮮で創設された。菅が引用している資料によれば(菅[二〇〇四]、一八六ページ。原資料は、『朝鮮総督府官報』、韓国学文献研究所覆刻版、彙報欄)、一九一七~一九二六年までに創設された神祠は七〇であったのに、一九二七~一九三六の次の一〇年間には、一八二になった。その後、加速度的に増え、日中戦争に突入して行く時代になると、一九三九~一九四一年のわずか三年間で四五五も設立されたのである。如何に日本の権力者が、神道による内鮮一体化に血道を上げていたかが、この数値によって窺い知ることができる。

 当時、日本の権力者たちが重用していた日本の知性は、こうした精神総動員運動を賛美していた。例えば、柳田国男は書いた。

 「日本の二千六百年は、ほとんど一続きの移住拓殖の歴史だったと言ってもよい。最近の北海道・樺太・台湾・朝鮮の経営に至るまで、つねに隅々の空野に分かち送って、新たなる村を創出せしめる努力があったことは、ことごとく記録の上で証明せられてゐる。神をミテグラによって迎え奉ることがもしできなかったら、どのくらい我々の生活は寂しかったかも知れない。だから今でもその心持ちが、朝鮮神社となり、また北満神社となって展開しているのである」(柳田[一九四二]、八七~八八ページ)。

 ここで、「ミテグラ」と呼ばれているものは、「幣帛」と書く玉串のことであり、榊(さかき)に紙垂(かみしで)をつけて神に捧げるための供え物で、神への恭順の心を表し、神とのつながりを確認するためのものである。紙垂は神の衣を、榊は神の繁栄を表す象徴である。柳田は、朝鮮神宮に対して無邪気に高い評価を与えているのである。

 三 神社参拝を拒否した朝鮮のミッション・スクール


 こうした日本の権力者による内鮮化政策には、キリスト教宣教師たちが、当然だが、反対していた。一九二四年一〇月、中清南道(Chungcheongnam-do)江景(Ganggyeong)普通学校で神社参拝が問題となった。これを『東亜日報』が一九二五年三月一八日・一九日に「強制参拝」問題というタイトルの記事を掲載し、教育現場における神社への強制参拝を批判した。ただし、まだこの時点では、朝鮮総督は、宣教師の批判をあまり気にしていなかった(韓[一九八八]、一六〇~六二ページ)。

 神社参拝を拒否するミッション・スクールと宣教師たちの職を奪うという大弾圧が恒常的に行われるようになったのは、一九三〇年代に入ってからであった。平壌(Pyeongyang)にあった朝鮮における最初のミッション系四年制大学であった元、連合崇実(Soongsil)カレッジ(Union Christian College=戦後は崇実大学=SSUとして復帰)で、当時は専門学校に格下げさせられていた崇実学校の校長・ジョージ・マッカン(George S. McCune)博士が一九三五年に朝鮮から退去させられた(Grayson[1993], p. 20)。

 この連合崇実カレッジは、韓国・朝鮮におけるミッション・スクールとしては最大の成功例であった。これは、韓国における二大プロテスタントの長老派とメソジストの共同事業であったからでもある。韓国の布教活動で大きな足跡を残したウィリアム・ベアード(William M. Baird)が創設した。米国インディアナ州出身(一八六二年生まれ)のベアードは、米国北部長老派教会(Northern Presbyterian Church of America)の宣教師として、一八九一年九月、釜山(Busan)に上陸し、自宅で教育を始めた(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。

一八九七年、平壌に移り、そこでも、自宅で教育した。これを舎廊房(Sarangbang、サランバン)教室(Class)という。「サランバン」とは、韓国語で「主人の居間を兼ねた客間のこと」であり、また、「サラン」は「愛」を指す言葉である(http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/526225.html)。

 これが一九〇一年一〇月に平壌における長老派の学校、四年制の高等学校、崇実学堂(Soongsil Hakdang)に結実する。「崇実」とは、SSUのウェブ・サイトによれば、「真実と尊厳の祈り」(worship of the truth and integrity)を意味する。それは科学的な心理と成熟した敬虔な精神を目標としていると説明されている(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。

ベアードは、学校は単なる慈善事業ではなく、完全に教会の基盤の上で運営されること、つまり、クリスチャン養成を使命としていた(李省展[二〇〇六]、六四~六五ページ)。


野崎日記(350) 韓国併合100年(28) 朝鮮総督府とキリスト教(2)

2010-11-25 23:32:27 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 当時の本土の日本人は、朝鮮人たちの日本支配に対する怒りを正しく認識していなかった。当時の大正セモクラシーの旗手、吉野作造(よしの・さくぞう)は、三・一独立運動に対する日本人の反応の鈍さに対して憤りを示した。この運動が勃発する前の一九一六年にも、吉野は満州・韓国を視察して、その感想を述べていた。

 「一方には汝等は日本国民なりといひ、一方には汝等は普通の日本人と伍する能わざるひくい階級の者なりといふ。斯くの如くにして朝鮮人の同化を求むる、これ豈木に縁つて魚を求むるの如きものではあるまいか」(吉野[一九九五]、二九ページ)。

 そして、吉野は、三・一独立運動について、「対外的良心の発揮」というタイトルで激烈な日本の識者批判を展開した。

 「今回の暴動が起こつてから、所謂識者階級の之に関する評論はいろいろの新聞雑誌等に現れた。然れども其ほとんど総べてが、他を責むるに急にして自ら反省するの余裕が無い。あれだけの暴動があつても尚ほ少しも覚醒の色を示さないのは、如何に良心の麻痺の深甚なるかを想像すべきである」(吉野[一九九五]、五八ページ)。

 米国の宣教師たちが、純粋に朝鮮人の独立を支援したと断定することは甘すぎるだろう。宣教師たちの背後には、それぞれの母国政府の政治的思惑が働いていたことは否定できないからである。一九〇九年二月一六日付『朝日新聞』(一九〇八年一〇月一日に大阪朝日新聞と東京朝日新聞が合併)には、米国宣教師たちが、韓国人の反日感情を煽っているという一進会の指導者・宋秉の激しいキリスト教批判を掲載した。

 この記事が出されたことに対して、当時の駐日米国大使のエドワード・オブライエン(Edward C. O'Brien)は、ただちに伊藤博文に抗議したが、伊藤はその抗議にかなり動揺していたと、英国の通信員が英国外務大臣に報告している(F. O.[1909], 371/646; Lone[1991], p. 157)。  いずれにせよ、三・一独立運動の背景には、米国政府の後押しを受けた米国人宣教師であると睨んだ朝鮮総督府が徹底的な弾圧をクリスチャンに加えた事件は、日本非難の格好の材料を列強に与えた。騒動鎮圧の不首尾を糾弾された朝鮮総督・長谷川好道と政務総監・山県伊三郎が辞任した(徳富[一九二九]、三五四ページ)。以後、総督府は、朝鮮人の慰撫政策を日本と朝鮮とは、誕生時から同じ神を戴いているという「同祖論」と「内鮮一体化論」(内地の日本と朝鮮は同じ民族であるという宣伝)を強引に展開するようになった(金[1984]、一八七~八八ページ)。

 二 神道による内鮮一体化の試み


 朝鮮人民に独立意欲を駆り立てるキリスト教に対抗して意識的に打ち出されたのが、「日朝同祖論」だった。使われたのは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)神話であった。新羅に降誕した日本神話の素戔嗚尊が、朝鮮の始祖・壇君(Tangun)のことであるという論法が執拗に語られた。あるいは、素戔嗚尊は、出雲と朝鮮を往復していた「漂白神」であり、朝鮮を開拓した神であるという説も動員された(菅[二〇〇四]、三五二ページ)。

 壇君は、紀元前二三三三年に朝鮮を建国したという朝鮮神話上の神である。壇君は、人間の女になった熊と神との間で生まれた人間で、朝鮮を開いた始祖であるとの神話が朝鮮にはある(http://cookpad.com/diary/1096944)。

 いずれにせよ、明治時代の日本側の日朝同祖論は、朝鮮の独立を阻止すべく、同じ始祖を持つのだから、朝鮮は弟として日本とつき合うべきであると、懸命になって朝鮮民族を説得するものであった。

 三・一独立運動の四か月後、朝鮮神社の設立方針が公表された。そこでは、天照大神(あまてらすおおみかみ)と明治天皇が祭神であった。天照大神は日本と朝鮮を創った皇祖神であり、日朝の両方の始祖である。明治天皇は、分裂していた両民族を併合という形で再統合した神であるとの解釈を日本政府は強引に打ち出した。皇祖神たる天照大神は日朝民族の祖であり、帝国の祖が明治天皇である。このような二神を祀る朝鮮神宮こそは、伊勢神宮と明治神宮とを合わせ持つ中心神宮であるとされたのである(菅[二〇〇四]、三五五ページ)。

 そして、京畿道(Gyeonggi-do)京城府(Kyŏngsŏng-pu)南山(Namsan)に、九二〇〇坪の境内、一〇万坪の神域という広大な朝鮮神宮が創建された。官幣大社朝鮮神宮の鎮座式は、一九二五年一〇月一五日に挙行された。朝鮮支配の重要人物たちが列席したという(横田[一九二六[、四八~五〇ページ)。さらに、朝鮮人の氏子(うじこ)作りにも朝鮮総督府は熱心であった(菅[二〇〇四]、一六七ページ)。

 当時の朝鮮総督・斎藤実は、神道は宗教ではなく、祖先崇拝の証であるとの詭弁を弄して、祖先崇拝の名の下に、朝鮮人も神社に参拝すべきであるとして、天皇を頂点とする先祖崇拝を朝鮮人に強制したのである。

 一九四五年までに朝鮮には一一四〇もの神社があったと言われている。神社への参拝強要が、朝鮮人には日本による支配の象徴として映っていたのである(Vos[1977], SS. 218-24)。新設された日本の海外神社は、朝鮮人のナショナリズムにとっての呪い(anathema)であった(Copplestone[1973], p. 1195)。

 朝鮮神宮に参拝する朝鮮人の数は、加速度的に増加した。一九三三年には五五万人、一九三六年には一一七万人、一九三七年には二〇〇〇万人、そして一九三八年には二六九〇万人という激増ぶりであった(国立公文書館[一九三九]、二A・一二・類二二七五、菅[二〇〇四]、三六一ページ)。

 東アジアにおける日本の軍事的プレゼンスの強大化と軌を一にした参拝者の激増は、朝鮮人の日本の神道への宗教的帰依が強まったからであるとして開き直ることを許さない数値である。強制参拝という冷厳な事実が、内鮮一体化=同祖論の内実であった。

 世界の日本批判の反応にひるんだ総督府は、一時的にではあるがミッション・スクールの懐柔策を出した。一九二〇年には、宗教教育に限り、朝鮮語使用が認められた。しかし、一九二三年には、総督府が認可した「認可学校」よりも一段と低いレベルであるとする「指定学校」という範疇を新たに作った。そして、ミッション・スクールは指定学校に区分されることになった。これまで「認可学校」であったミッション・スクールは、新たに、「指定学校」として指定されるために総統府に申請しなければならなくなった。ただし、指定学校ですら指定を受けることが難しく、無事に指定学校になっても、公式の認定学校よりも一段低く評価されることになった。これは韓国人子弟のミッション・スクール熱を冷まさせる意図を狙ったものであった(Clark, Allen[1971], pp. 190-96)。


野崎日記(349) 韓国併合100年(27) 朝鮮総督府とキリスト教(1)

2010-11-23 21:31:15 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 はじめに

 一九一〇年九月三〇日、韓国は朝鮮と改称させられ、日本に併合された(1)。統治を行う機関として朝鮮総督府が設置され、翌日の一〇月一日、筆頭である朝鮮総督に就任したのが寺内正毅であった。彼は、朝鮮における憲兵警察制度の実施に象徴されるように、「武断統治」を行った。しかし、朝鮮でのクリスチャンの政治的な影響力の大きさも十分に認識していた寺内は、武断外交への欧米系宣教師の反発を警戒していた。彼らが韓国人に与える影響力、とくに、キリスト教会が運営するミッション・スクールの影響力を、寺内は、強く意識していたのである(朝鮮総督府[一九一七」、三三八ページ、韓[一九八八]、八七ページ)。しかし、寺内は、キリスト教そのものを韓国で禁止できないことも認識していた。

 そこで彼が採用した措置は、総督府に従う日本のキリスト教団に布教させることであった。そのために選ばれたのが、日本組合教会であった。この教会は一八八六年に創設され、設立当初から韓国伝道を標榜していたが、韓国併合二か月後の一九一〇年一〇月、第二六回定期総会で朝鮮伝道の促進を改めて決議している。そこには、「日本国民の大責任を」を果たすとの国粋的文言が埋め込まれていた(松尾[一九六八a]、七ページ)。

 同教会の朝鮮伝道には総督府や日本の財界から多額の寄付を得ていたとされる(同教会機関誌『基督教世界』一九一四年一〇月八日)。一九一六年、寺内の後を継いで総督になった長谷川好道・陸軍大将も、寺内の意思を受け継ぎ、日本組合教会への援助を続けていたらしい。長谷川が後任の斎藤実(まこと)への引き継ぎに、キリスト教の伝道を西洋人に任せるのは、甚だ危険なことなので、これまで総督府は、日本人牧師が主宰するキリスト教会、とくに日本組合教会を援助し続けてきたと説明したと言われている(姜徳相[一九六六]、五〇〇ページ)。ただし、斎藤はこの助言を無視して、日本組合教会を突き放してしまい、この教会は瓦解した(富坂キリスト教センター[一九九五]、九一ページ)。

 一九一〇年一二月二九日、朝鮮北西部の宣川(Sonchon)などを寺内が視察した時、寺内暗殺未遂事件があったと報道された。総督府系の新聞、『毎日申報』(Maeilsinbo、朝鮮語)、『京城日報』(日本語)、Seoul Press(英語)などの大々的は報道は、クリスチャンたちが寺内暗殺を計画していた、とくに長老教会系の米国人牧師が、その計画に関わっていたという内容であった。朝鮮総督府は、一九一一年九月までに約七〇〇人の朝鮮人を逮捕し、証拠不十分で釈放された人たち以外の一二二人が翌一九一二年に裁判を受けた。米国政府やニューヨークに本部があった長老教会は、事件との関わりを否定し、逆に朝鮮総督府が自白を得るために逮捕者を拷問していると言い立てた。当時の京城地方法院(裁判所)は同年九月二八日、一二二人の中で一七人だけを無罪とする一方、残りの一〇五人に懲役刑を言い渡した(一〇五人事件、宣川事件、尹[一九九〇]、梁[一九九六]、参照)。うち、九八人がクリスチャンであった。また、一九一二年一〇月には、長老派によって経営されていた京城の京信(Kyonsin)男子高校の教師と生徒が破壊活動の嫌疑で逮捕されている(Blair & Hunt[1977], pp. 115-16)。

 その後の控訴審では、一九一三年一〇月に、一〇五人の中で九九人が無罪を言い渡された。一方、尹致昊などの六人には懲役刑が確定した。しかし、その六人も一九一五年二月、大正天皇の即位式にちなんだ恩赦によって釈放された。

 併合前には、ミッション・スクールに対する統制は強くなかった。それでも、韓国統監府は、一九〇八年に「私立学校令」を出し、韓国の教育は、日本の教育勅語に則るものでなければならないと布告していた。そして、併合直後の一九一一年に、朝鮮総督府は、「第一次朝鮮教育令」、「私立学校規則」等々を公布し、朝鮮における教育統制を強めることになった。それでも、一九一一年時点では、ミッション・スクールはこの指令では除外されていた。ただし、「朝鮮教育令」の作成に携わった東京帝大の穂積八束(ほずみ・やつか)などのように、キリスト教と国体とは相容れないために、ミッション・スクールは強く監視されるべきであると言う教育関係者も結構存在していた(大野[一九三六]、四九ページ)。

 そして、一九一五年の「改正私立学校規則」になると、ミッション・スクールも教育勅語に従わねばならなくなった。さらに、聖書科目が禁止され、教育のすべては、日本語のみで行うことが強制された。最終的には、すべての私学は、朝鮮総督府の認可を得なければならなくなった。
 さらに、宗教教団の人事について厳しく監督する「布教規則」が一九一五年に当時の総督府政務総監・山県伊三郎によって出された。教団管理者の認可権とともに解任権を総督府が握ることが法令として決められたのである(2)

0)。対象教団は、神道、仏教、キリスト教であった。この時、キリスト教を表記するのに、「基督教」という用語が使用された。これは、日本の法令の中で基督教という文字が掲載された最初のことであった(平山[一九九二]、四九七ページ)。

 この規則への対応をめぐって、朝鮮のキリスト教徒は割れた。メソジスト(Methodist)は総督府の方針に従う意思を表明したが、長老派(Presbyterians)は抵抗し続けていた(李省展[二〇〇六]、一一~一二ページ)。メソジスト派の学校は、世俗的エリート養成を主眼としていたことに対して、長老派の学校は、キリスト者の育成に力点を置いていたという違いがあったことが、両者の対応を分けたのかも知れない(李、同書、一八九~九二ページ)。

 そして、一九一九年三月一日、三・一独立運動が発生した。一九一九年三月一日の独立宣言に署名した三三人のうち、一五人がプロテスタントであった。朝鮮のクリスチャンたちは、第一次世界大戦の平和会議と、ウッドロー・ウィルソンの民族自決論に大いに鼓舞されていた。
 朝鮮総督の斎藤実は、その運動が宣教師によって扇動されたものであったとの認識を、翌年に示した(姜徳相[一九六七]、六四七ページ)。それまでの斎藤は、三・一独立運動を鎮めるべく、一時は、騒擾中に、宣教師たちと会合を持ち、彼らを懐柔しようとしていたのだが(朝鮮総督府[一九二一]、三九~四〇ページ)、一九二〇年に入って、その方針を転換し、キリスト教会が、三・一独立運動の主要な組織者であったとして、キリスト教会への苛烈な弾圧を加えるようになったのである。

 この弾圧によって、四七ものキリスト教会が破壊された。朝鮮京畿道水原(Gyeonggi-do Suwon)の提岩里(Jeamli)教会では、閉じ込められた村人が教会ごと焼き殺された。当時、朝鮮のクリスチャンは、人口比で、わずか一・三%しかいなかったのに、三・一事件で検挙された人のうち、クリスチャンは一七・三%もあった。クリスチャンに独立運動家が多かったこともあるが、一九一八年の日本の米騒動で被差別の人たちが多く逮捕されたことと、それは通じるものであった。朝鮮におけるクリスチャンが総督府によって狙い撃ちされたのである(韓国基督教歴史研究所[一九九五]、四一ページ、松尾[一九六八b]、四九ページ)。総督府による苛烈な弾圧の模様は、中国に逃れた宣教師たちによって、世界に報じられた(Lee[1984], pp. 338-45)。