消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.140 口をつぐむ専門家たち

2007-08-04 11:53:11 | 金融の倫理(福井日記)

  金融の世界が、ものすごい速さで変化している。それによって、私たちの生活も大きく振り回されることになった。金融の急激な変化は、私たちの生活に利益ではなく、大きな不利益をもたらしているのではないかと、多くの人たちが皮膚感覚で疑問を抱くようになっている。

 金融の世界にある、多くの規制をはずし、金融機関を自由に競争させれば、消費者も、労働者も、企業経営者も、大きな利益を得るようになると、与党の政治家、財界の主流が人々に語り、専門家がそうした規制緩和の流れを支持する理論を提供する。マスコミもそうした流れに沿う報道を続ける。

 規制緩和、つまり、金融の自由化が進行させられるまでは、日本の金融の世界はかなり安定した構造をもっていた。日本の銀行の倒産はなかった。預金金利もそこそこあった。企業への貸出も十分ではないが結構継続されていた。経営者も、従業員の首を簡単には切らなかった。従業員を大事にすることが経営者の格であると、社会も、肝心の経営者も思っていた。企業も、乗っ取りにおびえることなく、かなり長期の視点に立つ経営方針をとることができていた。

 しかし、「護送船団」(ごそうせんだん)、「物をいう株主」、「株主主権」という言葉に象徴される金融の自由化が、そうした牧歌的な世界を徹底的に破壊し尽くした。

 護送船団とは、軍艦・航空機や武装船艇などに護衛されて航行する輸送船や商船の船団のことである。敵勢力からの妨害を排除し、味方勢力による海上輸送の維持を目的としている。戦時下において通商破壊に対抗するために生み出された戦法である。

 大量輸送を確保するために、速力の異なる多くの船を船団として航行させる必要がある。そこで、一つの船も落伍させじと、速力がもとも遅い船に合わせて、すべての船が航行しなければならない。このことから、この言葉は、比喩的に、もっとも資金力の劣る金融機関に合わせた日本の旧大蔵省・現財務省の金融行政指針を指すようになった。

 第一次世界大戦において、ドイツ海軍はUボートを利用し、英国を始めとする連合国に対し、通商破壊を行った。連合国の海軍は、これに対抗し、商船の独行を中止し、船団を組み、軍艦の護衛を受け、Uボートの攻撃を避けるようになった。

 第二次世界大戦においても、ドイツ海軍はUボートや航空機、場合によっては戦艦を含む水上艦艇によって、連合国に対し通商破壊を行った。これに対し、連合国は再び船団を組み、海軍による護衛を受けるようになった。船団護衛部隊には、駆逐艦やコルベットなどの対潜艦艇だけではなく、広範囲の対潜哨戒や船団防空を可能にする護衛空母が配備される場合もあった。

 太平洋方面においては、戦争の末期には、米国のガトー級潜水艦の大量就役や、米軍の大量の飛行機投入による通商破壊活動の被害が急増したことによって、昭和18(1943)年11月15日に海軍内に海上護衛総司令部を組織して、船団護衛に乗り出した。

 第二次世界大戦後から1990年はじめに至る日本の旧大蔵省において取られていた対銀行政が、「護送船団方式」と呼ばれるようになった。銀行の倒産を防ぐために、経営力の低下した銀行に対し、他行との合併を強力に指導したため、戦後の日本において金融機関の経営破綻は皆無であった。

 銀行経営陣にとっても、経営の自由を制約される代わりに責任追及から逃れられた。ただし、この方式は官民癒着を生んだ、国が実質的に経済を経営していたとして、日本は世界でもっとも成功した社会主義国家であるとの揶揄が外資やエコノミストによってなされた(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。

 護送船団方式を強く非難する日本のある会計情報サイトの論調を見てみよう。

 日本の銀行は、一番力の弱い銀行(船足の遅い船)に合わせて預金金利の決定(百万円の預金金利も、一億円の預金金利も同一金利)や貸出金利の決定を行ってきた。

 また、産業界も○○グループとして、銀行や商社を中心にグループを形成し、護送船団を組むことになった。

 自動車産業においても、トヨタグループ・日産グループと言うように、系列を明確にし、護送船団を組んでいる。

 このような護送船団システムは、過去には大きな力を発揮した事は確かだが、ボーダレスの時代には、明らかに非効率なシステムとなってしまった。

 そこで日本の企業は、護送船団方式に頼らなく生きる事をここに決意し、実行しなければ、生き残る事が出来ない事を覚悟すべきである。

 会社が、護送船団の戦艦であるならば、船足の遅い輸送艦や古くて能力のない駆逐艦等すべてを守る力がない事を自覚し、一部の船のスクラップ&ビルドと、他グループからの効率的サービスを考えるべきである。

 会社が、護送船団の輸送艦なら船団の重荷になっていないかを再考し、船団に役立つような船に作り変えておかねば切り捨てられる運命にあることを経営者は認識すべきである。

 会社が、護送船団の中で非常に重宝がられているとしても、その能力をもて余し、港に係留されている時間が長いとしたら、大問題である。

 効率的に運用をするためには系列を超えて、他の船団(グループ)に積極的に貸出をしなければ宝の持ち腐れになってしまう。

 このように系列を超えたグループへのサービスの提供、商品の供給を行える企業に変身して初めて、ボーダレスの時代に生き残れることを経営者は認識すべきである。

 護送船団方式が悪いのではなく、護送船団の中に船足の遅い船や、能力のない古い船が混ざっている為、スピードを一番能力のない船に合わせて進まなければならないことが問題なのある。

 そこで、能力のない船のスクラップ&ビルドと、効率の良い船のレンタル(他グループからでも、良いサービスや商品の供給は積極的に受ける)をドラステックにやり、効率の良い護送船団を作り上げることが大事である。

 また、効率の良い船は日本の船に限らず、全世界を対象に捜す必要がある。これからの企業は、そのサービスや商品の提供先を、グループを超え、日本国内を超え、提供できる企業体に中小企業といえども変身しなければ生き残れないのである。
 以上が、このサイトの主張点である
http://www.tabisland.ne.jp/news/news2.nsf/ByDateEnter/62EA1425BBEEC789492566CC001E1EFA)。

 このサイトは間違ったことをいっているのではない。

 しかし、企業の効率的・スピード経営の向上というスローガンの下で、いかに多くの若者が正社員として採用されず、いつまでも専門的技術の習得の場から遠ざけられるようになったことも確かなのである。

人の和が効率を下げるのか、人の和が組織を強力にするのか、頭の中の抽象論ではなく、目の前の事態の進み方で判断すべきである。日本は、金融の自由化以降、急速にカサカサした社会に喘ぐようになっている。一部の企業が儲けても、非常に多くの人々が失業の恐怖におののいているという現実は直視されれるべきである。あらゆる要素が有機的に絡まっている複雑な経済現象を単一の価値観で決めつける姿勢ほど危険なものはない。

 「物をいう株主」と「株主主権」という言葉は、ほぼ同じ内容を表している。米国では、「株主モデル」=「シェアホルダー・モデル」と呼ばれている。

 
企業の所有者は、従業員、経営者ではなく株主である。その株主の利益を上げることが企業の任務であるという考え方を、このモデルはする。これは、株主が保有する株式の価値を最大化することをもとも重視するモデルである


 この点について、荒木尚志(東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授)氏の『コーポレート・ガバナンスの変化と労使関係』教育文化協会、二〇〇三年の説明を借りよう。

 米国では、株主が保有する株式の価格(株式価値という)を高めるために、従業員の首を切ることが罪悪であるとは受け取られていない。過剰雇用を抱えて企業利潤を圧迫することの方が悪なのである。判例法や差別禁止法制などの制限はあるが、経済的理由で解雇を行うことへの歯止めとか制約は、米国の方が、ヨーロッパ諸国に比べてはるかに弱い。

 米国では、日本のQCサークルのような従業員参加プログラムを企業が作ることは不当労働行為になる。したがって、従業員の声を経営に反映させる道筋は労働組合しかない。しかし、労働組合は、御用組合というレッテルを貼られることを嫌う傾向が強く、敵対的な労使関係となりがちである。

  そこで企業が従業員に経営について関心をもってもらう唯一の手段が、従業員自体を株主にすること(ESOP、後述の予定)だが、このシステムは、最近では必ずしもうまくいっているとはいえない。

 このモデルでは、株主自体が多様化しているため、株主の価値を最大化することによってさまざまな人たちの利益を多元的に実現できると主張されてはいるが、従業員の利益自体は軽視されている。

 米国と対照的な株主理解がドイツにはある。「利害関係者モデル」といわれるもので、「ステークホルダー・モデル」と呼ばれている。法律上の企業の所有者は株主かもしれないが、実際の企業運営では様々な利害関係者に配慮しなければならないという考え方で、株主価値に一元化されない多様、多元的な価値を考えることから多元主義モデルともいわれる。

 解雇制限法という労働者には心強い法律がドイツにはある。そこでは、解雇は社会的に正当な理由がなければ無効であると定められている。労働組合とは別に、従業員代表組織の事業所委員会が存在する。この委員会が解雇手続に関与する。さらに、株主代表と従業員代表で構成される監査役会があり、この組織が取締役を選任することになっている。

 このように、ドイツでは企業経営に従業員の声を反映させるルートが法律で決められている。しかも、事業所委員会は、経営者との共同決定権をもっている。労働時間に関することなどがそうした共同決定事項である。これら事項については、経営者と事業所委員会との合意が成立しないかぎり、企業は一方的な措置はとれない。つねに、従業員、事業所委員会の合意を得ることを心がけた経営が要請されているのである。

 日本では、伝統的に従業員価値を重視してきた。しかし、日本のモデルは、ドイツのように制度化されたステークホルダー・モデルではなく、慣行に依存したモデルであった。

 日本では、企業の株式のもち合いが多く、物いわぬ安定株主が多く、バブル崩壊までは、企業は、株主のことをあまり考えずに長期的視点に立った経営ができた。

 日本の経営者は内部昇進の取締役、従業員兼務取締役が多い。従業員の処遇という面もあるため取締役が諸外国と比較して多人数になっている。

 そして、雇用については、長期雇用システムが存在していて、判例法によって解雇、とくに、整理解雇は難しかった。労使関係は協調的で、労使協議によって形成されたものであった。

 同じく従業員価値を重視するドイツとの違いは、ドイツが従業員重視のコーポレート・ガバナンスを法律で決めているのに対して、日本のコーポレート・ガバナンス(企業の意志決定システム=企業統治と訳されている)を特徴づける株式もち合い、安定株主、経営者の内部昇進、解雇の制限、協調的労使関係を支える労使協議、等々の制度がいずれも法律によるものではなく、慣行に依存していたという点にある。

 しかし、その後、いくつかの法律の改定を経て、日本では、株式の持ち合いの解消が進んだ。外国人株主が急増した。商法改正によって株主代表訴訟がしやすくなった。物をいう株主が増加した。経営陣に人を送り込んで経営危機に陥った企業の立て直しを担当してきたメインバンク(企業にとっての主力銀行)がその機能を低下させた。経営者については、内部昇進だった経営陣に変化を迫る制度変更が進展した。


 「委員会等設置会社」の導入がそれである。平成14年の商法等の大改正で、米国流のコーポレート・ガバナンスを可能とする委員会等設置会社の設置が認められた。委員会等設置会社は、取締役の選任・解任の議案を決定する「指名委員会」、取締役・執行役の職務執行を監査する「監査委員会」、取締役・執行役の報酬の内容を決定する「報酬委員会jの三つの委員会を置かなければならない。

 そして、各委員会の過半数を社外取締役で構成する必要がある。つまり、これまで取締役会のメンバーは内部昇進の内部者だったが、委員会等設置会社では、取締役会の過半数が外部者になり、企業の運営(たとえば、余剰人員をどうするか等)について発言するようになったhttp://www.rengo-ilec.or.jp/publish/visionken/book31.html)。


 こうして、日本的なモデルが急速に崩壊していった。それは、金融の自由化と軌を一にして進行した。

 相次ぐ銀行の倒産とその後の巨大銀行への預金の集中、そして、かぎりなくゼロに近い預金金利、猛烈な貸し剥がしが進行した。従業員は勤務先への愛情を失っていった。

 金融の自由化が、かつてはあった日本の美点をことごとく打ち砕き、新しい美点を結局は作ることに失敗したのではないかと、多くの人が皮膚感覚で思うようになっている。

 
投資ファンドという、なんだか怖ろしそうな金融プロの猛襲によって、会社が売買され、従業員の首が飛ぶようになったのではないかと。金融プロのアドバイスに従って株式を公開したが、すぐさま、外資に乗っ取られた。

 しかし、どうしたのだろうか。金融や会計の専門家から、こうした事態を批判する声がほとんど聞こえてこない。批判は、非専門家たちから出されている。専門家は、政府が進める規制緩和を支持する理論は打ち出すが(ほとんど同じような紋切り型の議論)、規制緩和がもたらした深刻な事態には口をつぐむ。なぜなのだろうか。


 専門家が中立的な意見を口にしなくなった。権力指向が専門家を掴んでしまったのだろうか。研究のもつ社会的・歴史的意義が、いまほど軽んじられるようになった時代はなかったのではなかろうか。