消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.152 歴史的因果律その2

2007-08-25 16:58:12 | 金融の倫理(福井日記)

 ケインズに戻ろう。

 
ケインジアンたちは、財政問題のみにこだわり、貨幣問題を軽視しているというのがマネタリストたちからの批判であった(monetarisy vs keynsian; http://www.warnerblade.com/f/viewtopic.php?t=44)。おかしな批判である。ケインズの著作の多くには、「貨幣」という表題が付けているのにである。

 ただし、ケインズの貨幣論は、マネタリストたちのように購買手段として貨幣を見るのではなく、人の不安を表現する心理的な機能を問題にしていたものである。ケインズ的な不確実性は、貨幣にこそ如実に示されるからである。

 貨幣は購買手段としての機能以外に価値の保蔵手段としての機能がある。そして、貨幣を保蔵手段として手元に置こうとする人々の欲求こそが、

 「未来に関するわれわれ自身の予想と慣習とに対する不信の程度を示すバロメーターである」(Keynes[1937], pp. 115-16. 邦訳、二八四~八五ページ)。

 人々は、将来への不安感を強くもてばもつほど、貨幣を手放さない。企業が投資を行うには、貨幣を手放そうとしない人を誘導して貨幣を借りなければならない。そのインセンティブが金利である。金利は人が貨幣を手放すバロメーターになる(ibid., p. 116. 邦訳、二八六ページ)。これが、ケインズの言う「流動性選好」なのである。

 利子は、貸付をしたい貨幣供給と借り入れたい貨幣需要といった関係で成立するものではない。将来への不安が利子率決定の最大の要因である。

  したがって、将来の不安感、そして不確定性が増せば増すほど、貨幣の流動性は低くなり、金利が上がり、債券価格は暴落する。

 
債券の価格差よりも、より流動性(貨幣との交換可能性)が高く、より安全な資産選択が求められるようになるのである。間歇的に市場が痙攣する。このときに、金融市場は崩壊してしまうのである。にもかかわらず、金融市場の崩壊の分析は行われず、台風一過、ふたたび金儲けのための金融理論が華々しく登場するのである。



 ケインズのこのような不確実性を中心とした貨幣的経済学構築を引き継ごうとしたのが、J・R・ヒックス(John Richard Hicks, 1904~1989)であったと、小畑二郎氏は指摘されている(小畑二郎[2005]、一五ページ)。ヒックスの『経済学における因果律』(Hicks, J. R.[1979])という著作がそれである。

 ヒックスは、将来の不確実性に対応できるようには、これまでの経済学はできていないと言う。

 国民所得、固定資本投資、貿易収支、雇用量、等々の統計を経済学はその基礎に置いているが、経済学が扱う統計は不完全なもので、社会そのものを完璧に写し取ったものではない上に、統計数値自体に誤差や曖昧さがつきまとう。つまり、経済学は不完全な知識の上に打ち立てられたものでしかない(Hicks[1979], pp. 1-2)。

 人間生活を扱う経済学は、不完全性を克服できてはいないが、歴史的時間の経過に従わなければならない。

 
経済学では、物事が「なぜ起こったのか」を問うことを任務としている。
 
つまり、実現した結果を引き起こした原因を探るのが経済学の大きな任務である。結果には、必ず歴史的原因があり、因果律を研究するには、必ず時間的に先行する原因を探らなければならないとしたのは、デービッド・ヒューム(David Hume, 1711~1776)であった(Hume, David[1739], Pt. 3, Sct. 2. 邦訳、第三部第二節、四二九ページ)。



 ヒックスは、ヒュームの歴史的因果律論を踏襲する。

 経済学は、自然科学の模倣をしようとしてきた。自然科学、とくに物理学に近づくために、それほど変化しない係数を選んできた。変数間の諸関係が不変のままに持続するというテーマに、経済学は、その理論を限定する傾向があった。いまでもそうである。現実を抽象化するモデルではなく、モデル化できる分野のモデルにこだわり、本来の現実の方に条件をつけてしまうのである。経済学の理論は、「諸条件に変化がなければ」という括弧付きの局面に視野を絞ってきたのである(Hicks[1979], pp. 39-40)。

  しかし、その結果、経済学は豊かな現実を写し取ることに失敗した。経済学は、人の意思、なぜ、そのような結果が生じたのか、等々の問題に取り組むという点で、自然科学とは性質を大きく異にするものである。つまり、経済学は科学の一端に位置付けられる以上に、歴史学の一端に位置付けられるべきものである(ibid., pp. 2-4)。

 物事の実行を決断するには、決断に至る前史と決断後の後史がある。ヒックスは、この前史を「先行段階」(prior step)、後史を「後続段階」(posterior step)と名付け、現在の行動を決断させる原因は、前史にあるが、その原因を作り出す意思決定は、歴史上の経験に基づくものであって、単に、確率論で明らかになるものではないとした(ibid., pp. 87-91)。

 さて、ヒックスが、ケインズの確率論を踏襲した点は、確率論の中の「頻度理論」(frequency theory)を安易に経済学に適用してはならないとしたことである。

 頻度理論は、確率を無作為(ランダム)な実験に固有の概念としている。長期間にわたって、数多く反復される行為が、確率を数値化する基礎になっている。しかし、経済現象では、そうした無作為な反復実験はできない。事象が起こるのは一回こっきりである。その意味において、経済学でいう確率は、本来の確率ではなく、さまざまな状態で生じうる可能性のことを指すにすぎない。たとえば、今後一〇年以内にアジアで戦争が起こる確率はどの程度かという類のものであって、自然現象で生じる確率とは基本的に性質を異にするものである(ibid., p. 107)。とは言え、「原始的な観念」(primitive idea)に堕すことなく説得的な理論にまで高めるには、理論を歴史学で基礎付ける必要がある(ibid., pp. 107-108)。

 「頻度理論」と並んで、確率には「公理論」(axiomatic theory)的アプローチがあると、ヒックスは言う。これは、ハロルド・ジェフリーズ(Harold Jeffreys, 1891~1989)に依拠した考え方である(Jeffreys[1939])。



 公理論的アプローチとは、異なる事象間の確率に成立する命題を検証するものであり、各命題間に一種の序列を持ち込めるのか、そうではなくて序列のない確からしさを表現するだけのものであるか、そもそも、数値化できるものなのか、そうではないのかといったことを吟味する接近方法である。

 ヒックスによれば、経済学は、確率として数値化できる命題も、数値化できない命題も、同じような重要さで扱われるべきであるとする。理論は、ともすれば数値化できる確率を得る方向に傾斜するが、それではいけないと、ヒックスは言う。

 
ヒックスは、このことを経済学における「不完全な順序」(incomplete order)と名付けた。確からしさに序列がつくものが、「完全な順序」(complete order)である。それに対して、数値的には小さい確率ではあるが、そのことによって、事象の重要性はいささかも減じないというのが、「不完全な順序」である。経済学は、「完全な順序」も「不完全な順序」も同等の重要性をもって理論化されるべきであると、ヒックスは強調した(Hicks[1979], p. 115)。

 家計に関する標本調査は無作為になされ、平均値や分散は容易に計算できる。しかし、時間を通じて家計がどう変わるのかは、このような計算だけではできない。変化を数値的に表現することは非常に困難なのである。

 結局、経済学は、とくに応用経済学は、歴史学に戻るべきであると、ヒックスは主張した(ibid., p. p. 11)。

 「統計確率論的方法」の経済学への適用領域はきわめて限定的である。確率論を使おうとするとき、対象が確率論に妥当するか否かをまず吟味しなければならないが、答えは、多くの場合、否定的なものである。ヒックスはこのように結論した(ibid., p. 121-22)。

 とくに、金融ゲームに関する無邪気なモデルが、社会を破滅に導こうとしているとき、ナイト、ケインズ、ヒックスの確率論への疑問を思い起こすことは非常に重要なことであると言わねばならない。



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