消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.151 判断を慣習に委ねることの意味

2007-08-24 03:35:11 | 金融の倫理(福井日記)


 J・M・ケインズ(John Maynard Keynes, 1886~1946)も、その論文「一般理論」(Keynes, J. M.[1937]で、「リスク」とは区別される「不確実性」に特別の注意を払っていた。

 ルーレット、富くじ、戦勝公債、天候、寿命、等々は、「不確実」なものではなく、統計学的な確率計算によって、ある程度の知識の下で理解されるものである。しかし、ヨーロッパ戦争の見込みとか、二〇年後の銅貨の価格や利子率、ある発明が廃棄されること、三〇年以上先の富の所有者の社会的地位の見込み、等々がケインズの言う不確実性である。つまり、不確実性とは予測不可能なものである。

 にもかかわわらず、人々は、こうした問題に、都合のよい勝手な理屈をつけて行動しなければならない(Keynes[1937], pp. 113-14.邦訳、二八二ページ)。人は確実な根拠もなく将来に立ち向かおうとするのであるが、ケインズ以前の経済学は、将来のことがほとんど分かっていないということを無視してきたと、ケインズは言う。

 「新しい不安と希望とが、警告なしに、人間の行為を支配する。・・・見事に整理された市場のために造られた・・・上品な技術は、崩壊を免れない。つねに、漠然とした恐慌の不安と、同時に漠然とした理由のない希望の波は、真に鎮まることはなく、一皮むけば、一本の細々とした道が、通っているにすぎない。・・・
 これは、われわれが、市場においてどのように振る舞うかということであるが、この研究において、われわれが考案する理論は、市場の偶然に屈従すべきではない。古典派理論が、未来のことはほとんど分からないという事実を捨象し去ることによって、現在を取り扱おうとする綺麗な上品な技術の一種であることこそ、わたくしが、これを批判する理由である」(Keynes[1937], p. 186.邦訳、二八三―八四ページ)。

 ケインズによれば、古典派の理論は、現実のものと完全に異なる種類のものでありながら、それを意識せず、「未来に関する知識」を人々がもつとの仮定の上に成り立っていた。しかし、実際にはそうしたことは不確実なものであるという認識をもつことによって、経済過程の不安定さを理解することこそが重要であると、ケインズは主張していたのである。

 不確実性に対応する人間の考え方をケインズは三つに分類している。
 (一)過去の経験に立脚して将来の変化の可能性を無視する姿勢、
 (二)現在の経済的要素が将来の変化を十分に織り込んでいると見なす姿勢、
 (三)自己独自の判断を放棄して他人の慣習的判断に依存する姿勢、
がそれである(Keynes[1937], p. 114.邦訳、二八二~八三ページ)。
 
そのいずれにも明確な根拠はないとケインズは断定する。

 他人の慣習的判断の一例として、ケインズが株式市場における「美人投票」の比喩を出したことは、よく知られている。しかし、投機家たちが、大多数の他人の判断に頼ろうとすると叙述されていることの深い意味はあまり認識されていない。

 ここで問題にされている「慣習」は、単純な意味での過去から受け継いできたものではなく、パニックに直面したときに人々が次々と考え方を変えていく様を指している。小畑二郎氏は、このことを以下のように表現されている。

 「たとえば、はじめは、特定の投機家の株式投資に関する伝統破りの、新しい工夫にすぎなかったものが、やがて多くの追随者を得ることによって、流行のやり方となった場合、そのような新基軸は、確立された様式、すなわち新しい『慣習』となりうる。また、ある経済学者がある金融商品の価格の決定理論を公表し、その理論が広く受け入れられた場合には、関係者による価格予想に大きな影響を与えるかもしれない。そのような価格予想は、市場関係者の新しい『慣習』となるであろう。確率計算が不可能な真の不確実性の下であっても、人々は、何らかの頼りになる対応の仕方をつねに求めている。したがって、特定の対応の様式がもし多くの人に受け入れられていることが確信できるとするならば、われわれは、そのことを頼りに行動するのは、決して非合理なことではない」(小畑二郎[2005」、九ページ)。

 小畑氏が、ここで指摘されいるわけではないが、氏はおそらく、次のことを強調されたかっらのであろう。パニックがパニックを生むのは、多くの人々が依拠すべき考え方が急速に変化してしまうからである。不確実性への恐れから投機家は、他の多くの人の考え方に従おうとするのだが、その考え方自体が、目まぐるしく変わる。これは依拠したい専門家なるものが特定的に固定化されずに、ファッション的交代劇が起こるからである。このことを反映して、結局は狼狽売りで事態はつねに収束する。

 カリスマ的な学者の言葉が、市場関係者の心を支配するということは真実である。個人的なことで申し訳ないが、その威力をまざまざと見せつけられた現場に居合わせた。

 私が、京都大学経済学部・大学院の学部長兼研究科長を務めていた二〇〇〇年、京都大学経済研究所との共催、日本経済新聞社後援で、東京と大阪で、ロバート・コックス・マートン(Robert Cox Merton, 1944~)氏を招き、「金融工学、京都からの発信」という講演会を開催した。

 東京会場では一〇〇〇名程度、大阪会場では八〇〇人程度の聴衆を予想していたが、とんでもない。いずれの会場も収容し切れない多数の聴衆を得た。

 
溢れた聴衆の人たちには、別の会場に慌てて入っていただき、テレビ・モニターで会場の模様を流して我慢していただいたが、両会場ともに、私ども主催者側の予想を三倍は上回る聴衆者数であった。

 日本経済新聞の威力もあるのだろうが、ノーベル経済学賞受賞者の威力を思い知らされたものである。しかも、LTCMが破綻した後のことである。マートン人気は、破綻の影響を受けていなかった。聴衆の多くが食い入るように、マートンの講演に聴き入っていた。

 氏は、尊大ぶらず、終始笑みを浮かべ、日本の食事を褒め、私たちの小さな質問にも嫌がらず丁寧に応えていただいた。さらに、マートンがその正しさを証明したブラック・ショールズ方程式(後述)が、いかに京都大学数理解析研究所教授の伊藤清(1915~)氏の確率微分方程式から恩恵を受けているかを語る姿は、敬虔な学者の姿勢そのものであり、私は好感をもった。私は、氏の人間性の深さに魅せられた。

 カリスマが発言すれば、金融市場は動きうる。そのとき、心底からそのことを思った。ブラック・ショールズ・モデルが正しいから相場が、動くのではない。そうした理論を作ったカリスマを雇う組織の動きに合わせて相場は動く。つまり、マートン人気という新しい慣習の下で市場が組織化されたのである。そして、それが失敗した。問題の核心はここにある。



 引用文献


Keynes, John Maynard[1937],"The General Theory of Employment," Quarterly Journal of
     Economics, Feb.Collective Works(CW), vol. 14.邦訳、『ケインズ全集』第一四巻。
小畑二郎[2005]、「不確実性の論法:因果律と確率論―J・M・ケインズからJ・R・ヒ
     ックスへの発展」、『筑波大学経済学論集』第五三号、
     www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M79/M790559/2.pdf


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