消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.146 大衆プロパガンダとしての投資理論

2007-08-14 21:39:44 | 金融の倫理(福井日記)


 ジョージ・ソロスのクァンタム・ファンドと並ぶ米国大手ヘッジ・ファンドのタイガー・マネジメントが、このファンドとジャガー・ファンドを含む六つのファンドのすべてを二〇〇〇年三月三〇に清算した。このファンドは、一九九七年のアジア通貨危機のさい、各国の通貨を大量に空売りを仕掛けたことで有名になった。ところが、勇名を馳せたわずか二年そこそこで、このファンドは店仕舞いをしてしまった。

 ソロスのクァンタム・ファンドもそうであるが、タイガー・ファンドが依拠する投資理論は、グレアムの主張するバリュー投資理論に基づくものであった。つまり、理論値と市場価格との差が売買を決定する基本的判断材料であった。

 しかし、理論値の算定が必ずしも正しくないことに、この種のファンドを待つ落とし穴がある。たとえば、タイガー・ファンドは、アジア通貨売りの最終局面として円売りのポジションに立った。一九九八年秋のことである。当時、日本経済は、未曾有の経済不況に見舞われていた上に、アジア通貨危機のダブル・パンチに喘いでいた。この場合、理論値が円安を算定したのは無理からぬ判断であった。

 理論値からすれば、円安が進行するはずであった。しかし、九八年一〇月七日、円は一日で九円以上も高騰した。そもそも、通貨の対外相場は、ファンダメンタルズに従うものではないし、よしんば、広い意味でのファンダメンタルズに左右されるものであるにしても、肝心のファンダメンタルズとして列挙される要素が、ファンダメンタルズのすべてを包含するものではないのである。バリュー投資理論は、理論の前提が硬直的すぎることへの目配りが総じて乏しい。

 結局、円相場の判断の間違いによって、タイガー・ファンドは、一日だけで二〇億ドルも失った。同年のロシアのデフォルト危機でも、六億ドルを失った 。

 よしんば理論値が正しくとも、一瞬の巨大な市場の痙攣で、ファンドは資金を失いかねない。もっとも苦しいときに資金量の補給があれば危機を乗り切れるのだが、往々にして補給は枯渇する。資金の不足によって、ファンドは致命的な傷を負う。それが後遺症となり、その後の投資行動に制約をつけてしまう。相場とは、一瞬の判断力の誤りを致命傷にしてしまうものなのである。

 タイガー・ファンドがいきづまったのは、IT相場を軽視したこともある。
 グレアムは、既述のように、株の本来の価値を算定するのに、その株を発行した企業の成長性を加味しなかった。よしんば、成長性が株価引上げに大きく貢献するものであっても、成長性そのものに不確実さがつきまとうからである。成長性を評価されてかさ上げされた株価よりも、成長性を排除して現在の財務諸表のみで本来の株価を算定する方がリスクが小さいとグレアムは見なしていたのである。

 タイガーを主宰するジュリアン・ロバートソン(Julian Robertson、1933年~)は、グレアムの判断の仕方を採用した。利益を挙げていない人気企業株は、砂で作った楼閣にすぎない。それは崩壊確実なものであるとして、ロバートソンは、IT関連株を軽蔑していた。

 ロバートソンは、大手証券会社のキダー・ピーボディーに二〇年間勤めた後、一九八〇年にタイガー・ファンドを設立した。一九九六年には預かり資産の五〇%、九七年には七二%もの運用益を挙げ、九八年にはクァンタム・ファンドに次ぐ二二〇億ドルという巨額の資金を集めた。サッチャー元英国首相、元米国大統領候補のボブ・ドールなどの政界の大物を顧問に迎えている(三浦潤一氏の二〇〇〇年四月一日付ブログ、http:www.daytradent.com/HowtoDT/C02.htm)。

 タイガーの死命を制したのは、デイ・トレードといった株式を一日のうちに何度も売買するという株式売買方式であった。

 
株式をもつ時間が極端に短い。これは、自分では制御できない外的な要因を排除するために生み出された手法である。数日間も株式を保有すれば、プロ集団ですら、情勢の変化によって大損をする。

 最近、株式市場がとみに短期間に乱高下するようになってきた。夜、眠る前に見たときの相場は上がっていたのに、目が覚めたら大損をしていたという状況が相次いだ。そこで、株の理論も知らず、世界情勢も深く知らない素人たちがパソコンの画面で、特定の株の値動きだけに注目し、購入後、数時間で売り抜けて、わずかの利益を積み重ねるという手法で、リスクを避けるのがデイ・トレードである。

 この手法は、グレアム、バフェット、ロバートソンたちのファンダメンタル分析とは基本的に性質の違うものである。デイ・トレードは、ファンダメンタルを分析するよりも、株式の売買を短時間に繰り返すことによって、小さな利益を積み重ね、集計的に大きなリターンをとるという手法である。

 ネット社会におけるデイ・トレードが、ITのバブルをあおった。それに対して、ロバートソンは、「熱狂的」な「馬鹿げたこと」と一蹴してきた。昔ながらのバリュー投資を信じて、財務書評を重視する姿勢を変えなかった。そのことによって、タイガー・ファンドは、みすみすIT関連のリターンを得るチャンスを逃がし、顧客が期待するリターンを挙げることができなくなった。こうしてファンドを閉めることになったのである。

 ただし、その後、ITバブルは破裂した。IT関連企業株に集中したファンドの多くが破綻した。結果的にはロバートソンは正しかった。しかし、正しさが証明される前にファンドは閉められた。短期即効性を求める顧客が満足しなかったからである(「株式投資日記」二〇〇六年三月二五日。http://bose.blog.ocn.ne.jp/bose/2006/03/post_7b73.html)。

 先述の三浦潤一のブログは、「素人熱狂相場にプロ負けた、タイガーファンドが清算」という表題であった。

 二〇〇七年の夏、再度、バブル崩壊の危険性が迫っている。二〇〇七年八月九日までは、世界、とくに韓国の株価が上昇していた。韓国はそれまでの一年間で六〇%以上も上昇していた。これは非常に危ない。少なくとも、石油、金、銀、パラジウムなど、多くの資源価格が上昇したのが、二〇〇七年のことであった。これは、世界中でカネが余っているのに、受け入れるバケツが小さいことを意味する。中国マネーだけでも九〇兆円を超えている。こうした巨額のカネが世界中を物色し回っているのである。

 この状況は、一九九七年六月、ロバ-トソンがタイ中央銀行を相手に、バーツのカラ売りを始めたときに酷似している。当時、アジア各国の通貨がマレーシア、インドネシアへと波及していった。

 これら諸国の政治は不安定である。石油が出るインドネシアはいまは石油輸入国に転落している。韓国は工場を中国に移転していて、国内経済の空洞化が心配されている。タイのバーツも、インドネシアのルピアも、韓国のウォンも理由もなく高い。

 これら諸国の経済は将来性がないということを、あらゆるチャンネルを通じて、大々的に叫べば、これら諸国の通貨は暴落するであろう。そうしたマイナス情報を効果的にするには、どのタイミングがいいかということが、巨大ファンドの関心事項なのである。

 かつて、アジア通貨が高かった初期には、ロバートソンンは、なにもいっていなかった。黙ったまま巨額の売りポジションを確保していた。

 
そして、彼は、絶妙のタイミングで攻撃をしかけた。それまでは、アジアの世紀万歳とうかれていたマスコミが、一転して、アジア経済の悲観論を唱え始めた。クローニー・キャピタリズムとか、対ドル固定相場維持政策が一斉に攻撃されるようになった。それまでは、そうした論調はまったく聞かされることはなかった。売り攻撃を仕掛けたときに、悪い情報を一斉に垂れ流す。これが投機屋の常套手段である。

 バリュー投資によって本来の価格を把握しているがゆえに、ファンドは、証券の売買をすると説明されているが、事実はそうではない。実際に攻撃が開始してから、攻撃にさらされている物件の本来の価格が、市場評価よりもはるかに低いものであり、これが本来の水準なのに、市場が間違っているとの、大キャンペーンが張られるのである。投機の成功は、本来のバリューの正しい算定ではなく、事後的に市場が本来のバリューからはそもそも大きくかけ離れていたのだということを多くの投資家に信じさせるという力量、つまり、ジャーナリズムをあおる力量なのである。理論は、攻撃を開始した後に、攻撃の口実として語られるだけである。理論に沿って投機がおこなわれるのではなく、投機を成功させるために、理論が事後的口実に使われただけのことである。

 五〇〇億円集めることができれば、一兆円規模の投機をおこなう。二〇倍のレバリッジがかけられる。一九九七年、ロバートソンの攻撃を防ぐべく、タイ中央銀行はまじめにバーツ買いに走った。これが、投機家・ロバートソンの手元に軍資金として渡った。タイは投機を放置しておくべきであった。そうすれば、ロバートソンは資金が続かなかったはずである。投機に通貨当局が翻弄されたという苦い経験があるにだから、今後、通貨当局は、投機家を相手にしないという気位をもつべきであろう(大前研一「好調アジア株に潜む『第二のアジア危機』」第二九回、http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/a//31/index.htmlを参考にした)。

 このファンドの歴史を紹介した本が、二〇〇四年に出版された(Strachman, J.[2004])。



 引用文献

Strachman, Daniel A.[2004], Julian Robertson: A Tiger in the Land of Bulls and Bears, John Wiley & Sons Inc. 邦訳、ダニエル・A・ストラックマン、田村勝省訳『魔術師は市場でよみがえる一タイガー・マネジメントの興亡』東洋経済新報社、二〇〇五年。


福井日記 No.145 ミスター・マーケット

2007-08-13 00:21:01 | 金融の倫理(福井日記)

 投資家は、投資理論なり投資への姿勢を、誰それから学んだというのが口癖である。たとえば、ウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffett、1930年~)は、書店でたまたま見つけた『賢明なる投資家』(Graham, B. & J. Zweig[1949]という本を見つけて感銘を受ける。

 この時のことを後にバフェットは、「文字通り、天から光が射してきたような気がした」と述懐した。この著者が、投資理論の先駆者であり、著名な証券アナリストでもあったベンジャミン・グレアム(Benjamin Graham, 1894~1976年)である。

 グレアムが、コロンビア大学で教授の職についていると知ったことから、一九五一年にバフェットは同大学に入学し、グレアムに学ぶこととなる。またコロンビア大学にはデービッド・ドッド(David LeFevre Dodd, 1895 ~1988年)という著名なアナリストもいた(ウィキペディアより)。グレアムとドッドの共著も一世を風靡している(Graham, B. & D. L. Dodd[1934])。

 グレアムは、「バリュー投資の父」(Father of Value Investing)、「ウォール・ストリートの最長老」(Dean of the Wall Street)と呼ばれて尊敬されている

 伝説的巨大投資家のバフェットの師として有名である。私は、このことを、投資家はカリスマでなければならず、自らをそのカリスマたらんとするために、師なるものを神格化するものだと理解している。神格化に成功すればするほど、神様の理論に従っていると公言すれば、市場参加者の動きに影響を与えることができるからである。

 学問上の継承関係などはほとんどないのに、投資家たちは、見事なほど師なるものを賛美する。

 とはいえ、グレアムから父の次に大きな影響を受けたと告白するウォーレン・バフェットは、息子に彼の名を付けている

 ホワード・グレアム・バフェット(Howard Graham Buffett)である。アービン・カーン(Irving Kahn、1905年)も、息子の名をトーマス・グレナム・カーン(Thomas Graham Kahn)としていることからも、グレアムが人格的に弟子たちに大きな影響を与えていたことは確かであろう(Wikipediaより)。

 グレアムは改名である。彼の生家は、ロンドンのユダヤ人家庭でグロスバウム(Grossbaum)というファミリー・ネームであった。改名したのは、彼の父である。その姓の響きがドイツ風であったために、第一次世界大戦の敵国ドイツ人に疑われたくなかったからであるといわれている。一歳のとき、つまり、一八九五年に米国に移住する。一九一四年コロンビア大学卒。コロンビア大学からの講師としての採用を断り、ウォール街に就職。一九二八年に、ジェロール・ニューマン(Jeroll Newman)と投資会社、グレアム・ニューマン社(Graham Newman Corp.)を設立、しかし、翌、一九二九年、株価大暴落に見舞われる。

 その経験からドッドとの共著、『証券分析』を出版。これは、一九四九年の『賢明なる投資家』と並んで、バフェットから名著と賞賛されたものである。一九五六年グレアム・ニューマン社解散。以降、カリフォルニア大学教授、ニューヨーク金融協会理事を歴任。



 彼は、「バリュー投資理論」の創始者である。株は長期間保有されることによって、正しい価格を実現する。市場は、短期的には気まぐれである。したがって、財務内容をきちんと評価して、株の本来の価値を見定め、本来の価値以下で株を購入することが投資の鉄則であると説く。

 本来の価値よりも大きく値下がりした株を買い、短期的な市場の動きは無視するというのが、「バリュー投資理論」である。つまり、市場は往々にして正しくはないというのである。市場の誤りを早期に察知して、株を購入すれば、投資は安全圏に入るという。

 彼は、市場の気紛れをミスター・マーケットの訪問というたとえ話で説明する。ミスター・マーケットが毎日異なる価格で株を売ってくれとか買ってくれと株主の家を訪れるが、こんな奴にいちいち応対するな。自己の判断を信じて、ミスター・マーケットなど無視しろというのである。

 この市場観は、当然のことながら、市場は本来的に正しく、いかなる個人であれ市場を出し抜く(outwit)ことなどできないとした米国流の「ポートフォリオ理論」の猛攻撃にさらされる(Bernstein, W.[2000])。しかし、現代の投資家の出発点が、市場の反応の鈍さに視点を置こうとしていたことは興味深い。

 グレアムは、株主主権の唱道者でもあった。企業は、利益を株主に還元すべきであって、企業の内部留保に隠匿すべきではないとしたのである。一九七六年、八二歳で没。

 安いときに買えば必ず儲かるといった単純なことをいっただけの投資家が尊敬されていたということも面白いことである。グレアムの理論が大学で取り上げられるようなことはほとんどなかった。

 
インタビューに応じて、ビジネス・スクールでは、もっと複雑な理論にしなければならないので、グレアムなどのような単純にして明快な考え方は大学では採用されなかったのであるとバフェットは説明した。しかし、この単純明快なこと、それを実行する精神力が重要であることを急いで付け足している(Lowe, J.[1997])。

 いつ売り、いつ買うかなどの自分の行動を冷静に客観的に判断できるものなのだろうかとの疑念を私は払拭できないが、グレアムの特徴は、自己の判断をぶれさせる可能性のある要素を排除した点にある。たとえば、彼は、株価形成に重要な影響を与えるはずの企業の成長性を、株の本来の価値認識の要素に加えなかった。成長性が株価にプラスに働かないといっているのではない。成長性の判断が非常にあいまいであるといっているのである。

 しかし、証券市場を牽引するスター企業、新しい技術分野を担う企業が目まぐるしく変わる現在、成長性を考えれば判断が鈍るとしたグレアムの理論は、一番弟子ですら、「誤っている」といわざるを得なかった。バフェットは、グレアムが通用したのは、せいぜい一九七四年までであって、以後は、成長性に株価は傾斜したといっているのである (http://rich-navi.com/graham.html)。

 グレアムは、投資と投機とを区分した。投資とは分析に裏付けがあって、元本を保全した上で満足のいくリターンをもたらすものであって、投機とはそうした分析に裏づけのないものであると。株式の保有者は、株価に一喜一憂するのではなく、当該企業の所有者としての意識をもつべきであるとした。分析力関する大変な自信である。

 彼のそうしたモラルが、彼の生涯リターンを控えめなものにしたことは否めない。残した財産は、三〇〇万ドル程度でしかなかった。



福井日記 No.144 会員制クラブ

2007-08-11 00:17:00 | 金融の倫理(福井日記)

 経世済民としての経済学は、金融論を金儲けの術としては見なかった。人に雇用を与えるべく、企業が組織され、企業の仕入れ・生産・販売という営業の全活動を円滑に進行させるべく、資金が枯渇しないように、社会的に金融を再配分する形で、有休資金を必要な企業に融資するという、有りようを研究していたのが、かつての金融論の目標であった。

  金融機関は、庶民から小口預金を集め、企業に融資し、預金金利と貸出金利との差額によって、営業活動をおこなうという、いわゆる「金融仲介業務」を本分としていた。

 しかし、一九七〇年代に入って、大金持ちが自己の豊富な資金をさらに増やすことができるような技術を開発し、一攫千金を獲得できる金融商品を販売することが、金融機関の目指すべき姿であるとして、金融機関はもとより、金融論の専門家も意識するようになってしまった。金融は、生産と雇用に必要な企業や組織に、安い資金を提供する分野ではなく、資金を出した組織や個人に年率数十%もの配当を可能にする分野として改造されてしまった。旧い時代のよき金融業務を目指す金融機関は、ネアンデルタール人として軽蔑されるようになってしまった。

 金融組織は、金持ちたちの会員制クラブに大きく変質した。

 これまでの旧い金融システムに風穴を開けたのが、ヘッジ・ファンド(Hedge Fund)であった。ここで、「ヘッジ」という「危険を避ける」という用語には、実質的な意味はない。

  そもそも、年率数十%もの配当をおこなうには、あえて「リスク」(risk)を冒すことが必要である。リスクが大きい部門に投資しなければ、大きな利益(リターン=return)を獲得することなどできない。リスクを取りながら破綻しない技術をもつと豪語するのが、ヘッジ・ファンドなのであり、リスクをヘッジするのが、ヘッジ・ファンドであるとはいえない。ほとんどのヘッジ・ファンドは、リスクとして意識してこなかった大変動に打ちのめされて、一〇年足らずで破綻しているのである。

 ヘッジ・ファンドとは、夜空を華やかに彩るが、一瞬にして消え去る花火のようなものである。金融組織としての永続性をヘッジ・ファンドは意図していない。短期間に破綻してしまうことは、創設者自身がもっともよく知っている。破綻するまでの短い期間に、荒稼ぎしようとしてきたのが、これまで多くのヘッジ・ファンドであった。少なくとも、「リスクがヘッジされている資金運用をおこなう」のがヘッジ・ファンドであるというのは、間違っている。

 ヘッジという言葉ではなく、「私募」という側面が、ヘッジ・ファンドのもっとも重要な性質である。このファンドは誰でも参加することができるものではない。誰でも参加できるファンドは、「公募ファンド」(public fund)という。米国の投資信託である「ミューチュアル・ファンド」(mutual fund)などがそれである。公募というのは、誰にでも開かれているという意味である。

 それに対して、「私募ファンド」(private fund)は、誰にでも開かれているのではなく、特定の富裕層だけを対象にしている。ローウェンスタインによれば、米国では、投資額一〇〇万ドル以上の人や組織は、一〇〇人未満に制限されている。そのファンドを含め、五〇〇万ドル以上の債券をもつ個人・組織は五〇〇人以下に制限されている。つまり、極端な大富豪しか米国ではヘッジ・ファンドに参加する資格はないのである。ヘッジ・ファンドとは金持ちの会員制クラブなのである(Lowenstein, R.[2001]、邦訳、五〇~五一ページ)。

 ヘッジ・ファンドの創始者は、いまのところ、アルフレッド・ウィンズロウ・ジョーンズ(Alfred Winslow Jones、1901~1989年)であるとされている(Johnson, S.[2007])。

 彼は、後にGEの重役になる父に連れられて、四歳のときに米国に移民する。ハーバード大学卒外交官(「ヒトラー時代にベルリンに駐在)、スペイン内戦も目撃、コロンビア大学で社会学博士号取得(一九四一年、「生活・自由・財産」=Life, Liberty and Property)、一九四〇年代『フォーチュン』誌で働く、最初は、農業問題、少年教育問題を書いていたが、次第に金融に傾斜した(Jones, W. A[1949])。

 そして、一九四九年、世界発のヘッジ・ファンドを創設する。資金量一〇万ドル、彼の自己資金四万ドル、初年度配当率一七・三%であった(Rappeport, A.[2007])。

 彼は、「一九四〇年投資会社法」(the Investment Company Act of 1940)の規制を逃れるために、有限責任の「パートナーシップ」制を採用した。パートナーシップとは出資額に応じた有限責任の会員制クラブという意味である。彼は会員を九九名に限定した。そして、パートナーと呼ばれる会員のみが投資できるようにした。

 米国の法律とは奇妙なもので、乏しい出資者からなる投資会社は、弱い投資者を守るために、当局の厳しい監視に曝される

 空売りなどは、一般の投資会社は危険すぎるとして禁止されている。しかし、金持ちだけからなるヘッジ・ファンドなら、損をしても、庶民を巻き込むわけではないのだから、なにをしても自由である。つまり、金持ちは、金持ちであるがゆえに、自己責任さえ覚悟すればなんでもありということになる。

 株式も情報も非公開を許されている。証券取引委員会(SEC)への登録義務はない。資金は、無制限に借りられる。リスクを負ってもいいのだから、ミューチュアル・ファンドのような分散投資をしなくても、集中投資が許される(Skeel, D.[2005])。

 彼の手法は、下降相場でも、空売りの手法を駆使して利益を上げた。相場の上昇局面、下降局面のいずれの局面でも利益を上げることができた。

 手持ち資金の何倍ものカネを動かすことができるレバレッジを最大限利用した。
 個別株式に関しては、「ロング・ポジション」(買建て玉=買い持ち)と「ショート・ポジション」(売建て玉=売り持ち)を巧みに組み合わせて利益を確定していくという手法をとっていた。 

 資金運用者たちが自己資金を共同出資し、配当は、成功報酬制にした。こうした手法が「ジョーンズ・モデル」といわれるものである。

 しかし、一九六〇年代半ばまでは、彼の手法にはそれほどの関心は示されていなかった。しかし、一九六〇年代後半、彼のファンドが全米最大の収益を上げるようになるや否や、瞬く間に一三〇以上ものファンドが生まれた。ジョージ・ソロス(George Soros)の「クァンタム・ファンド」(Quantum Fund)、マイケル・スタインンハート(Michael Steinhardt)の「スタインハート・パートナーズ(Steinhardt Partners)などがそれである(Reier, S.[2000])。

 彼のファンドは、模様替えする一九八四年までの三四年間の長期間維持できた。その意味では、希有の礼である。

 
三四年間のうち、損失を出したのは三年だけであった。一九七〇年五月三一日締めの損失は大きかった。三五・三%の損失であった。七〇年代半ばからは、慎重な姿勢をとったとされている(Porter, A.[1995])。

 一九八四年、ジョーンズのヘッジ・ファンドは、「ファンドの中のファンド」(fund of funds)に転換した。種類の異なる他のファンドへの投資をするようになったのである。

 そして、若いときの博士論文の精神に戻って、途上国の貧民救済資金を設立することになった。貧しさから「ヘッジする」ことを目指したのである。「平和協会」(the Peace Corps
 )がそれである(Russell, J.[1989]; Lindgren, H.[2007])。



福井日記 No.143 無邪気な数学者たち

2007-08-10 00:22:52 | 金融の倫理(福井日記)

 金利と外国為替の固定が外され、世界中で金利と為替相場がばらばらに動きようになると、そうした動きを組み合わせた新債券が次々と開発されていった。しかも、この組み合わせは世界中で無数に作り出すことができる。これを先物として売買すれば、とてつもなく大きな稼ぎを得ることができる。

 安全ではあったが退屈な債券取引が、複雑で稼ぎをもたらす魅力的なものになったのが、変動相場制に入って以降の金融市場であった。それまで、先物とは、大豆や天然ゴムなどの一次産品に限定されていた。それがいまや、カネがもっとも活気溢れる魅力的な商品として金融市場に登場したのである。

 問題は、債券ごとに取引価格をいかに設定するかの技術にあった。現在の支配的な貸出金利、債券の額面金利、債券の満期の長さ、支払い方法、任意償還(コーラブル=callable)、株式への転換可能債券(転換債券)であるか否か、破産リスク(支払い停止=デフォールト=default)の大きさはどの程度か、もっとも安全だとされている米国債との格差(スプレッド)はどの程度のものか、等々。

 こうして、様々の債券に価格が付けられていった。一言で表現すれば、それは、リスクの価格付けであり、債券間の格差(スプレッド)の大きさに関して瞬時に理解することが取引の要であった。ディーラー(債券の売買を斡旋する業者)たちは、分厚い債券の一覧表をめくりながら顧客に対応していた。

 そうした、手作業の風景を一群の数学者たちが一変させた。数学者からすれば、債券の複雑な価格一覧表など簡単に作ることのできるものであった。自身が元数学教師であり、債券のディーラーであったソロモン・ブラザーズのジョン・メリウェザーが、一群の数学者たちを大学の教壇から引き抜いてきた。彼らの意見を受け入れて、ソロモン・ブラザーズの債券部門が、業界で初めてコンピュータを債券取引に導入したのである(Lowenstein, R.[2001]、邦訳、二七ページ)。メリウェザーは、十数人の数学者たちからなるチームを作っていた。

 彼らは、過去の債券のすべての価格をコンピュータに取り込み、相互の長期における関連を分析し、将来に向かう傾向を摘出した。どこかの市場の債券価格が流れからわずかでも離れたら、すぐさまコンピュータに表示されるモデルが構築された。

 彼らは、債券間におけるスプレッドが理論上とは異なって動くのは、市場が完全なものに向かってはいるが、まだ不完全であるからであると理解していた。完全なものに市場が向かうという傾向をもつかぎり、スプレッドは理論に沿う形で収斂すると、彼らは、確信していた。

 メリウェザーが引き抜いてきた数学者たちは、一九八〇年代に六人、九〇年には一二人になっていた。

 
この少ない人数で、チームは、主として債券の裁定取引で、会社の全収益の半分以上を稼ぎ出すまでになっていた。一九九〇年に四億八五〇〇万ドル、九一年には一一億ドルを稼ぎ出した。

 それとともに、この集団は、ウォール街の他のディーラーたちを「ネアンダール人」と露骨に呼び、旧いディーラーたちの旧い手法を軽蔑していた。

 彼らは、市場への強烈な信仰があり、自らの数学理論の正しさを信じていた。彼らは、会社のカネを自己資金としてふんだんに使用する権利を会社から与えられていて、つねに、サヤ寄せに投資していた。時間さえかければ、スプレッドは、必ず収斂するという彼らの信仰は、いささかも揺るがなかった。

 数学者のチームの結束力は強かった。仕事はもとより、遊びも、食事も、休暇のすごし方も、メリウェザーを中心に、いつも一緒に行動していた。全員が向かい合って仕事をし、全員が語る符牒のような用語は、部外者には意味不明であった。

 メリウェザーは慈父のような存在で、数学者たちの勤労意欲を掻き立てた。あるとき、数学者である一人の部下が取引で失敗したが、投入資金を倍にすれば損失を取り戻すことができるとメリウェザーに訴えたとき、メリウェザーはすぐさま承認したという。

 驚いた件(くだん)の部下が、「取引内容を審査しなくてもいいのか」とメリウェザーに問うたとき、メリウェザーの応えがふるっていた。「君を採用するときにすでに審査は終えている」と。部下が感動し、周囲もその言葉を聞いて奮い立ったに違いない。

 彼らは、メリウェザーを中心に結束した海兵隊であった。彼らは私的にも家族ぐるみのつきあいであった。家族連れで一緒に旅行もしていた。彼らは、ウォール街の他のバンカーたちとはもちろん、会社の別のセクションの連中ともつきあわず、彼ら内部の閉鎖社会の中に閉じ籠もっていた。

 彼らは、余暇でも一緒にギャンブルに熱中した。彼らに対して、ギャンブルと表現してはならないだろう。彼らは数学的ひらめきでカネを賭けてかけて競い合っていたのだから。



 マイケル・ルイスのベストセラー、『ライアーズ・ポーカー』(Lewis. M.[1990])で有名になった「ライアーズ・ポーカー」に、彼らは、打ち興じていた。彼らは根っからの賭け事好きなのである。投機的な金儲けが彼らの趣味であった。「ライアーズ・ポーカー」というのは、カードによるポーカー・ゲームと同じで、ポーカー・ゲームから一ペア、二ペア、三カード、四カードしかない。数字は、2から大きくなるほど強く、0は10扱い、1はエースで最強である。スタンド・バーで勘定を払うときに、誰が払うのかを手持ちの一ドル紙幣の八桁の番号をカードに見立ててゲームをし、負けたものが勘定を支払うことになっている。

 『ライアーズ・ポーカー』にも描かれている通り、彼らは幼稚園児のようにはしゃぎ回っていた。

 はしゃぐだけならまだいい。彼らは、自分の裁定取引部門以外の部門の存在意義を認めなかった。裁定取引以外の部門をソロモンから追放すべきであること、稼ぎに応じて給料が支払われること、とくに、裁定取引部門のディーラーへの報酬は、収益の一五%であること、社員食堂などは利用していないので、共通費としての食堂などの利用費用を給料から天引きしないでくれとねじ込んだ。

 要するに彼らは、カネを稼ぎ出すこtろで、自己の数学理論の正しさを実感できた。
そのことが、真理を自分たちが知っていると思い込んでいたのであろう。彼らの真理は、カネを稼ぎ出すことであった。組織のあり方、自分たちのカネ儲けが社会に与える影響、自分たちが開発した金儲けの手法の人類に対する意味、要するに世間知を彼らはもとうしなかった。金儲けに資する数学以外のあらゆる学問は、彼らにとって無駄なものだったのだろう。一言で表現すれば、彼らは子供だったのである。彼らは幼児の傲岸さをもっていた。

 そして、彼らの傲岸さが、ソロモンから彼らを追放しただけでなく、ソロモン自体をトラベラーズに買収される要因となった。 

 一九八七年、乗っ取り屋として名高いロナルド・ペレルマン(Ronald Owen Perelman, 1943年(一月一日生まれ)~)がソロモン・ブラザーズに買収を仕掛け、会長のジョン・フレンド(John Goodfriend)は、ウォーレン・バフェットに経営権を売り渡すという事件があった。そして、メリウエザーの部下の一人、ポール・モーザー(Paul Moser)が国債の不正入札を行ったことをメリウェザーに告白する。一九九〇年七月のことであった。

 モーザーは、裁定取引部門から国債取引部門に飛ばされ、メリウェザーを恨んでいた。

 国債とは、米国の場合、財務省証券を指す。当時、財務省証券の入札は、一業者につき三五%を上限とするという規制があった。ポール・モーザーは、顧客の名を騙って、この上限を超えるという不正入札を行ったのである。

 しかし、なぜか、メリウェザーと会長のフレンドはこれを黙殺した(Lowenstein, R[2001]、邦訳、第一章参照)。

 一九九一年四月、財務省の調査が入った。同年六月、証券取引委員会(SEC)と司法省による調査が入り、刑事訴追の可能性が出てきた。

  そして、同年八月、取締役会が、シュトラウス(Tom Strauss)社長、グッドフレンド、メリウェザー、モーザーの解任、大株主であるウォーレン・バフェットの会長就任、バッフェットの部下、デリック・モーガン(Deryck Maughan)の最高業務執行役員の任命、等々を決議した。

 バフェットとモーガンは、議会に呼び出されて、吊し上げを食ったが、バフェットの信用でソロモンは存続できた。メリウェザーは、罰金二万九〇〇〇ドル、会社側は、四十件以上の民事訴訟、四億ドルの支払い準備を余儀なくされた。モーザーは、罰金三万ドル、禁固四か月。グッドフレンドは、罰金一〇万ドル、退職金一四〇〇万ドルの放棄、復職の禁止、等々を言い渡された。同社の株価は暴落、人材も流出した。

 一九九四年、バフェットとモーガンによる新しい報酬システムができ、従業員より株主重視の方針が出された。株によるボーナス支払いもあった。それが、人材流出に拍車をかけた(加野忠[1999]、第六章参照)。

 そもそも、投資銀行の各部門は、浮き沈みが激しい。成功報酬でトレーダーを釣るが、市況が悪化すればすぐにレイオフする。これが一〇年に二、三度のサイクルで繰り返される。

  恐怖と眩惑に満ちた環境、ストレス、燃えつき、レイオフ、倒産と隣合わせ、ディーラーたちが無軌道にはしゃぎ回るのもむべなるかなと思う。

 メリウェザーは、自身に何の非もなかったが、監督不行き届きとして、見せしめのため、一八年間働いたソロモンを追放された。そして、彼は、同じスタッフを集めて、一九九四年LTCMを設立したのである。

 そのLTCMも一九九八年破綻した。そして、メリウェザーの古巣のソロモン・ブラザーズは、一九九七年九月二四日、総合金融サービス会社のトラベラーズに買収され、ソロモン・スミス・バーニーとなった。そして、シティ・グループの傘下に組み込まれる運命となった。その裏には、ディーラーだけでなく取引先の累々たる死が横たわっていた。

福井日記 No.142 資金量が競争力

2007-08-08 01:36:14 | 金融の倫理(福井日記)


 コネティカット州グレニッチの本拠を置いていた非上場の投資パートナーシップ制で、債券を扱うLTCM(ロング・ターム・キャピタル・マネージメント)があった。

 一九九八年八月、ルーブル危機によって破綻した投資ファンドである。その破綻は、世界的な金融恐慌を起こしかねないものであった。一九九四年に設立されたこの組織では、金融論学者が単なる顧問ではなく、実践的ディーラーとして主導権を発揮していた。

 この組織に参加する金融論学者たちは、金融論を金儲けの理論に仕立て上げ、巨額のカネ儲けを実現することによって、自らの理論の正しさを立証しようとしてきた金融組織であった。

 社員は二〇〇名足らず、参加する投資家も一〇〇人そこそこの、人員面では、まことに小さな金融組織であり、かつてソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)で、敏腕の債券ディーラーとして名を馳せたジョン・メリウェザー(John Meriwether、1947年~)をトップにすえていたが、その心臓部分は、アービトレージ(裁定取引)に関する博士号をもつ元大学教授によって握られていた。うち、二人はノーベル経済学賞受賞者であった。この頭脳手段こそ、金融工学の粋を凝らした結晶体であった。元教授たちは、ウォール街の判断力の鈍さを露骨に軽蔑していたという(Lowenstein, R.[2001]、邦訳、一五ページ)。

 トップのメリウェザーは、一九八八年には、ソロモンの取締役副会長になった。しかし、一九九一年に財務省の長期債券競売における不正入札が発覚し、メリウェザーは五万ドルの民事制裁金を支払い、引責退社した。

 LTCMは、設立から破綻するまでの四年間、年率四〇%を超えるリターン(収益)を稼ぎだした。

 LTCMは、一〇〇名そこそこの小さな規模でありながら、一〇〇〇億ドルを超える資金を集めていた。出資者はニューヨークの主要な銀行であった。LTCMの商品にリンクしたデリバティブ総額は、総額が一兆ドルを超えていた。一兆ドルという巨額の金融資産が、エクスポージャー(exposure)といって、リスクにさらされている資産になっていたのである。

  「エクスポージャー」というのは、投資家のもつポートフォリオ(portfolio)のうち、差し迫ったリスクにさらされている資産の割合のことである。また、「ポートフォリオ」とは、もともと、「紙ばさみ」「個人の作品集」を指していたが、転じて、金融の「資産構成」「有価証券明細表」を意味するようになった。

 その中核にあるLTCMが破綻して、これらエクスポージャーが回収不能になってしまえば、世界的な金融恐慌が発生しかねなかった。LTCMには、当初、四七億ドルの自己資金があったが、危機時には、自己資本はもはやないのも同然であった。

 LTCMのメリウェザーは、まず、ウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffett、1930年~)に、そして、ジョージ・ソロス(George Soros、1930年~)に援助を求めたがすげなく断られた。

 ウォーレン・バフェットは、米国の著名な株式投資家である。世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイ(Berkshire Hathaway)の最高経営責任者(CEO)である。フォーブス誌の世界長者番付でビル・ゲイツ(William Henry Gates III, 1955年~)と一位を争っている。富は主にバークシャー・ハサウェイを通じてのもの。二〇〇六年度の所得は、世界第二位、約四六〇億ドル(五兆四〇〇〇億円)という天文学的な数値であった。

 ジョージ・ソロスは、ハンガリー・ブダペスト生まれのユダヤ人の投機家で、本来の姓名はシュヴァルツ・ジェルジ(Schwartz György)である。

 
現在ソロス・ファンド・マネージメント(Solos Fund Management)、オープン・ソサイアティ研究所(Open Society Institute) の会長を務めるほか、外交問題評議会に身を置いていた時期もある。二〇〇六年の会社からのボーナスは約八億四〇〇〇万ドル(日本円にして約九四九億円)だった(ウィキペディアより)

 元連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board=FRB)議長ポール・A・ボルカー(Paul Adolf Volcker、1927年~)は、ソロスの著書(Solos, G,[1994])に序文を寄せている。

 「ジョージ・ソロスは、非常に成功した投機家として、あるいは、まだゲームが有利なうちに手を引く賢明さを具えていることで、その名を知られている。現在、彼の得た大金の大半は、途上国と新興国の社会が「開かれた社会」になるために使われている。ここで言う『開かれた社会』とは、『商業の自由』のことだけを意味しているわけではない。もっと重要なこと、すなわち(人々が)新しい考え方や、自分とは異なった考え方や行動に対して、寛容の心を持っていることを意味している」。

 LTCMの話に戻ろう。
 それぞれの銀行が、LTCMとの取引で大きな損失を出し、早期に手仕舞いをして損失を最小限に抑えたがっていた。しかし、各銀行が個別に債権の回収に走ってしまえば、LTCMが一気に破綻し、世界的な金融恐慌がくることは明白であった。ここに、米国連邦準備制度の下で、とくに、ニューヨーク連邦準備銀行の下で、取引銀行がシンジケートを組んで、眼前の危機を乗り切るために救済融資を行う必要があった。

 一九九八年九月二三日(水)、ニューヨークの九つの大銀行のトップがニューヨーク連銀(The Federal Reserve Bank of New York)に招集された。この銀行は、他国の中央銀行に相当する米国の一二ある連邦準備銀行(Federal Reserve Banks)の一つではあるが、連邦準備理事会の副議長を出す、事実上の最高の中央銀行である。

 ニューヨーク連銀によって招請された九つの銀行とは、バンカーズ・トラスト(Bankers Trust)、ベア・スターンズ(Bear Stearns Companies)、チェースマンハッタン(Chase Manhattan Bank)、ゴールドマン・サックス(Goldman Sacks)、JPモルガン(J. P. Morgan)、リーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)、メリルリンチ(Merill Linch)、モルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター(Morgan Stanley Dean Witter & Co.)、トラベラーズ・ソロモン・スミス・バーニー(Travelers' Salomon Smith Barney)という、当時としてはそうそうたる投資銀行であった。

 しかし、各銀行の腰は引けていた。とくに、トラベラーズ・ソロモン・スミス・バーニーは、サンフォード・I・ワイル(Sanford I. Weill、1933年~)会長の主導下で、シティ・コープ(Citi Corp)との合併を模索していたが、LTCMとの取引によって被った巨額の損失によって、世紀の大型合併が破綻するのではないかと心配していた。

  そもそも、LTCMとの取引の総帥、メリウェザーは、ソロモン出身であったことからも、トラベラーズのパートナーたちは、LTCMへの救済融資には強く抵抗していた。トラベラーズだけでなく、出席したどのトップたちも救済融資には反対であった。LTCMの取引決済機関であったベア・スターンは、一セントたりとも融資しないと言明した。

 LTCMだけでなく、投資ファンドの多くは、裁定取引に収益源をもつ。この取引の主たるものは、米国債先物取引である。国債の先物は、普通、現物よりも低い価格で取引される。いずれ、現物と先物の価格は一致するように、双方が動く。国債の現物価格が下がると予想すれば、証券会社は、現物を空売り(からうり)する。つまり、国債を借りてそれを売る。

 空売りとは、現物を所有していないのに、対象物を売る行為のことである。商品先物や、為替証拠金取引で用いられる用語である。投資家が、証券会社から株券を借りて売る場合もあり、大口投資家同士が株券の貸借を行う場合もあるが、いずれにせよ、借りた株券を売却し、後で現物を返却するのが決まりである。株価が下落していく局面でも株取り引きで利益を得られる手法のひとつであり、「信用売り」、「ハタ売り」も同義語である。

 手法は次のようになる。
 投資家が証券会社から株を借り、それを市場で100円で売る。投資家は株を売った代金100円を得る。

 後日、当該株価が下がり、市場で同じ数量の株を代金で90円で買い株式を手に入れる。この90円で買った株式を証券会社に返却する。差額の10円が投資家の手元に残り、これが投資家の利益になる。

 実際には、投資家は売買に関する手数料のほか、株を借りたことによる貸株料を証券会社に支払う。証券会社ははじめの売却代金である100円を預かるので、その金利(日歩)を投資家に支払う。

 空売りでは、投資家が証券会社から株を借りるので、投資家と証券会社との間に信用関係があることが条件になる。空売りのような行為は信用取引と呼ぶ。 もしも、空売りした株の値段が予想に反して上昇した場合でも、投資家は証券会社に株を返却しなくてはならないので、空売りした時よりも高い値段で株を買い戻さなくてはならない。この場合には投資家は損をすることになる。

 つまり、空売りによる利益は、倒産等による株式の無価値化の場合に最大となり、その金額は空売りを行った金額そのもの(上記例では100円、実際には株価は0円にはならないのでそれ以下)に限定される。一方で株価が予想に反して上昇した場合には、その損害が天井知らずという危険性をもっている(ウィキペディアより)。

 国債についても同様である。

 国債現物の引き渡しは、期日になって価格が予想通り下がっておれば、市場から国債の現物を買い、それを借りた相手に返却する。そうすれば、国債を高く売り、安く買うという形で売買益が生まれる。たとえば、三か月先に現物が二%下がれば、それだけで、二%もの利益を得ることができる。

 通常、現物の空売りには、先物の買いを合わせる。これが、損失を小さくするというヘッジである。

 現物が三か月後に二%安であるという条件をそのままにして、先物価格の変動によって、利益がどうなるのかを見てみよう。

 三か月先物を現時点で二%安で買っていたら、三か月先の現物は二%安であるから、この取引では、先物で二%の損失を出してしまう。現物の空売りでの二%の利益と合わせると利益ゼロになってしまう。

 もし、三か月先物を現時点で一%安で買った場合、三か月後には、現物は二%安になっているのに、先物契約の約束で一%安でしか買えない。つまり、一%の損失を出す。しかし、現物の空売りと合わせた利益は二%マイナス一%で、一%の利益となる。

 三か月先物を三%安で買った場合には、三か月後には、先物取引で、三%マイナス二%と一%と一%の損失を出してしまう。

 つまり、先物が現物価格の低下率よりも安くない価格で買うことができれば、先物はヘッジ効果をもつことになる。

 ヘッジ効果を例証するものとして、現物が三か月後に値下がりするどころか一%値上がりしてしまうことを想定してみよう。証券会社は、三か月後の現物が二%値下がりすると予想して、空売りをしかけた。この取引は、空売り取引で一%の損失を出してしまう。しかし、同じく国債の値下がりを予想して、三か月物先物を一%安で現時点で購入できておれば、三か月後には一%安の価格で現物を入手できるので、空売りの一%の損失を先物取引がヘッジしてくれて損失がなくなる。

 つまり、現物価格の将来時点での変動率と先物価格の現物に較べた割引率との関係で、さや取引の利益が確定されるのである。先物価格の変動率が現物価格の変動率よりも小さい場合、利益を得ることができるが、この二つの値動きが先物の方で大きくなると、この取引は損失を出してしまうのである。

 しかし、通常の姿は、時間がかかっても現物と先物との価格差は小さくなってくるはずである。問題は、収斂する(価格差がなくなる)時間の長さがどの程度なのか、時間が長くなった場合、いずれ収斂するであろうと信じて、現物の空売り・先物買いを継続することができるかという点にある。つまり、収斂するまでもちこたえるだけの資金力があるかということが死命を制する。収斂する時間の把握と、資金量、これが証券会社の競争力を決定する。

 一九七九年六月、メリウェザーは、資金不足で窮地に陥っていたエクスタイン(J. F. Eckstein)という証券会社の国債先物取引の将来性を見抜いた。この取引を引き継いで巨額の利益をソロモンにもたらせたメリイウェザーは、翌一九八〇年にパートナーに昇進し、「国内債券アービトラージ」部門を総括することになった。

 一九七〇年までの金融の世界は、非常に安定したものであった。債券を買う人は、債券の固定されていた利息に惹かれ、近所の銀行の信託部門から債券を買っていた。節約をし、固定金利を細々と蓄積していた。質素に健気に生活することが普通の人々の生活スタイルであった。他人を出し抜いて人よりも大きな収益を金融商品から得ようとする大それた野望を人はもたなかった。

 ソロモンに勤務していたシドニー・ホーマーHomer, S.[1963])の世界そのままであった。

 為替相場は固定っされていた。金利は安定していた。金価格も安定していた。要するに金融は管理されていた。一九七一年、ドルの対金交換の停止によって、管理通貨体制は一挙に崩れた。

 原油価格高騰とともに、インフレーションが世界を覆った。金利はみるみる上昇した。米国では国債価格が金利上昇のために暴落した。優良債券であった鉄道会社が破綻した米国では、マネーこそがもっとも魅力的な投資商品になってしまった。

 メリウェザーは、一九九九年にはLTCMの負債を返済し、新たにヘッジファンド・JWMパートナーズ(JWM Partners)を立ち上げた。そのJWMパートナーズが、二〇〇七年二月の中国発の世界同時株安にさいして、円と米国債を大量に買って売り抜けをして大もうけしている(「世界的株安で『勝ち組』も、破綻ファンド創設者、円高売り抜け」(『産経新聞』平成一九年三月三日付)。



福井日記 No.141 リスクの価格付け

2007-08-06 21:04:26 | 金融の倫理(福井日記)

 日常用語の「買い」は、経済学用語で「需要」という。同じく、「売り」は「供給」である。そして、需要と供給が釣り合うところで商品の価格が決められるとされている。疑うべからざる当然の公理とされているこの立論も、けっして自明のことを指しているわけではない。

  まず「買おう」とするとき、すぐに連想されるのは、値段がいくらであるかということである。買い手が、妥当だと思う値段の基準はなになのか。似たような商品の値段がいくらであったから、この商品は、この程度の値段なら買ってもいいなと買い手は考える。

 つまり、買い手の値段の判断は経験的である。つまり、これでなければならないといった絶対的な基準を買い手がもっているわけではない。

 売り手は、買い手よりもかなりはっきりとした基準をもっている。商品を作るために支払った費用に自分の儲けを加えたものを、望ましい値段であると考える。売り手には、その値段で売れるかどうかは分らないが、売りたいという一定の希望の値段がある。

 買い手と売り手の双方の動向を察知した値段が、商品の売り場で付けられる。そのさい、付けられた値段は、仮に付けられただけのものであり、最終的なものではない。とりあえず付けられた値段を足がかりに、実際にこの商品が売れる値段の模索が始まる。そして、書い手と売り手の双方が折り合った水準の値段で商品は最終的に取引される。

 需要と供給によって、まず、価格が決まるのではない。まず価格が先にあり、そこから買いと売りの調整が行われて、最終的な価格が決まる。

 そのためにも、取引に先立って誰かが暫定的な価格を決めなければならない。この点が重要なのである。

 
まず誰かが仮の価格を設定する。誰が、その価格を提示するのか。ここに、市場とは、完全に中立的なものではなく、取引者の力関係が入り込む余地の大きい場であることが示されている。

 市場に登場する人たちは、けっして対等な力関係にあるのではない。

 まず売り手。自分のもち込む商品を店頭に置いてもらうべく腰を低くして頼み込まねばならない弱い売り手がある。他方で、店頭に置いてやる。売らしてやるという傲慢な姿勢を見せても売れる商品をもつ、とてつもなく強い売り手がある。この差はどこからくるのか。

 そして、買い手。買い手にも力の格差がある。買いたいという思いの強い買い手は、市場では弱い立場に甘んじなければならない。別に売ってくれなくてもいい。別の市場で買えばいいのだからと強気で市場に君臨する強い買い手がいる。それぞれに力の格差がある売り手と買い手が交錯するのが市場というところなのである。

 こうした、日常生活ではありふれた光景が、経済学の世界では往々にして無視されるのである。「安くて良い商品は売れる」といわれても、肝心の店に商品を置いてもらうことは、力のない無名の売り手には至難のわざなのである。

 この点は重要である。人々の生活に不可欠なものが市場で生き残るのではない。いくら必要なものでも、そもそも市場になじまないものがある。必要でないものを市場が競って扱うものがある。

 
市場を全知全能の神のように扱う経済学は間違っている。

 このことは詳しく扱いたいので、稿を改める。

 今回は、「まず価格ありき」という論点に止めたい。

 さて、買おうにも金がなければ買えないために金を借りる。売るための商品を作るべく銀行から融資を受ける。古典的な金融は、ここから生じる。この古典的な金融の総額は、物の取引の総額を超えることはない。売り手と買い手はつねに交錯しているので、取引に使われる金は、相殺されて、取引総額よりも少なくなるはずである。

 ところが、今日の金融取引額は、実物の取引額の数十倍もある。これはいったいなにを意味しているのだろうか。

 現在の金融は、単純な物の売買に使われるためのおカネの取引だけではない。物を売買するのではなく、売買する「権利」を取引するのがいまの金融市場なのである。物を生産するために、金を借りる。商品を販売した収益から借金を返すといった素朴な世界に現在の金融は止まっているわけではない。現在では、カネも商品の一つでしかない。

 「権利」のことを金融用語では「オプション」と呼ばれる。「買う権利」を「コール・オプション」、「売る権利」のことを「プット・オプション」という。ここで、注意しなければならないのは、ここでいう権利とは、現在に行使されるものではなく、将来時点で、「買う」とか「売る」とかを行う約束のことである。ここで、将来とは、いつの時点でもよい。あらかじめ決められた期日のことである。現在の時点で現金決済をするのではなく、後日、権利を行使するという約束をすればよいのである。

 「買う」権利を買う、「売る」権利を買うとは、すなわち、代金(プレミアム)を支払って、特定の証券(原資産=underlying asset)を特定の価格(行使価格=strike price)で行使期限内に買う、または売る権利を得ることである。権利であるので放棄も可能であり、自分に有利な場合のみ行使することができる。

 権利を売るとはすなわち、プレミアムを受け取るかわりに権利の買い手に対して義務を負うことである。

 ここで、行われている売買の姿が、現在の金融の世界のギャンブル性をいかんなく示している。それは、財の生産と消費のための売買ではない。技術革新への投資の売買ではない。あくまでも、各地の市場の原資産の価格差を突いた純然たるギャンブル的金儲け以外のなにものでもないのである。

 現在100万円する原資産価格が、市場では、一週間後には、95万円に値下がりすると予想されているとしよう。95万円よりもさらに原資産価格は下がり、90万円になるであろうと予想するギャンブラーは、将来時点で95万円で売ることのできるプット・オプション(売る権利)を買い、95万円で債権を買う約束をするコール・オプション(買う権利)を売る。

 その場合、現物の債権が売買されるのではなく、オプションが売買されるだけであり、オプションの値段は、手数料程度のもので、売買の出費は非常に小さい。期日の一週間後に予想通りに原資産の市場価格が90万円に下がったとする。

 ギャンブラーは、早速、売る権利を行使して、債権を95万円で売る。この権利を売った組織は、競馬競技の主催者、たとえば、日本中央競馬会のように、約束通り、権利をもち込んだギャンブラーの要求通り、原資産を、市場価格の90万円ではなく、95万円で買い取らなければならない。ギャンブラーは、一週間後に原資産を直物(その時点での現物)で90万円で市場から買い、それを約束通り95万円で売る。この権利を買ったさい手数料であるオプション料金を差し引いても、5万円マイナスオプション料金を利益として獲得することができたのである。

 ギャンブラーは、さらに、コール・オプションを売った。実際には、95万円で買う権利だったので、市場が90万円になってしまえば、この権利をもっていてもなんら得しない。オプションで売ったことによって、損失を免れたことになる。

 そのオプション料金とは、競馬の馬券のことである。いくらモダンな最新の金融用語を使おうと、ギャンブルは所詮、ギャンブルである。

 投資ファンドに活動の場を与える金融市場という胴元は、たとえ、近代的な投資の理論を駆使しても、所詮、彼らは博打打ちの胴元である。博打は所詮博打であり、一方の得は、一方の損である。というよりも、圧倒的多数の損失を犠牲に、ギャンブルに成功したほんの少数の勝者が、莫大な利益を得る。

 ギャンブルに成功した人の中には、たとえば、国家を相手に勝負をして勝った投資の神様として、崇め奉られる人もいる。しかし、こうしギャンブルの世界は、勝った者の利益と、負けた者損失とは同じ額である。社会全体の富がこれによって増えるわけではない。これをゼロ・サム・ゲームという。

 ゼロ・サム・ゲームは、雇用を増やさない。ギャンブルの勝者が生産的な部面に儲けを投資しないかぎり、社会の富っは増えない。

 そして、現物の引き渡しが期日後であり、期日前は、オプションという権利の売買だけであるという特徴を生かして、オプション取引には、膨大なレバレッジ(小さな元手で大きな取引ができるという梃子の力)がかけられる。

 つまり、手持ち資金の何倍もの取引を行うことができる。すべて、将来の約束だけのことであるから、わずかのお金で莫大な資産を運用することができるのである。金融の世界では、こうした見かけ上の取引が圧倒的に多い。したがって、実際に現物を伴って売買され実需の数十倍の金融取引が可能になる。

 金の動きにはコストがかからない。振込みがコンピュータ化されているからである。したがって、一回の単一取引で一〇〇分の一%の利益しか上がらなくても、取引を繰り返し、レバレッジをかけることによって、何十倍もの莫大な利益を、現在の金融の世界では得ることができるのである。

 金融の世界では、ボラティリティ(volatility)という言葉がかなり頻繁に使われる。ボラティリティとは、「変動幅」のことである。証券などの価格変動のことを指す言葉である。「変動幅が大きい」とか、「変動幅が小さい」といえばすむものを、わざわざ「ボラティリティ」というカタカナ用語を使うという点に、金融ゲームの新しい世界が集約されている。

 このボタティリティをリスクと見て、リスクに価格を付けようとしたのが、有名なブラック・ショールズのモデルである。これについては、後述するが、彼らは、標準偏差を用いたオプション価格評価を自己の方程式の重要なパラメータ(変数)に組み込んだことから、オプションという言葉が爆発的に増えたのである。



 ボラティリティが高ければ期待収益率から大きく外れる可能性が高いという使われ方がされている。つまり、ボラティリティが大きいとは価格の変動性が大きいことを指す。

 物の商品の価格が、その商品を生産するためのコストであったのに対して、金融商品の価格とは、リスクを主体として形成されるものである。

 ボラティリティや、リスクを基準として債権などの金融商品の価格が決定されるといっても、地域ごとにその価格が異なる。巨大な投資ファンドは、この差額を収入源にしている。

 価格差は、大規模な資金操作によって必ず収束する。そうした収束値を早めに察知し、そうした方向から外れている金融商品を大規模に売買すれば、必ず儲かる。

 製造業における競争力は、コスト競争力とブランド力である。金融の世界、とくに投資ファンドの世界では、競争力は、動員出来る資金力と収集できる情報力、そして、参加する影響力の強い政財学の著名人からなる。したがって、現在の金融の世界では、競争力のある金融組織は、おのずと、米国勢にならざるを得ないのである。

福井日記 No.140 口をつぐむ専門家たち

2007-08-04 11:53:11 | 金融の倫理(福井日記)

  金融の世界が、ものすごい速さで変化している。それによって、私たちの生活も大きく振り回されることになった。金融の急激な変化は、私たちの生活に利益ではなく、大きな不利益をもたらしているのではないかと、多くの人たちが皮膚感覚で疑問を抱くようになっている。

 金融の世界にある、多くの規制をはずし、金融機関を自由に競争させれば、消費者も、労働者も、企業経営者も、大きな利益を得るようになると、与党の政治家、財界の主流が人々に語り、専門家がそうした規制緩和の流れを支持する理論を提供する。マスコミもそうした流れに沿う報道を続ける。

 規制緩和、つまり、金融の自由化が進行させられるまでは、日本の金融の世界はかなり安定した構造をもっていた。日本の銀行の倒産はなかった。預金金利もそこそこあった。企業への貸出も十分ではないが結構継続されていた。経営者も、従業員の首を簡単には切らなかった。従業員を大事にすることが経営者の格であると、社会も、肝心の経営者も思っていた。企業も、乗っ取りにおびえることなく、かなり長期の視点に立つ経営方針をとることができていた。

 しかし、「護送船団」(ごそうせんだん)、「物をいう株主」、「株主主権」という言葉に象徴される金融の自由化が、そうした牧歌的な世界を徹底的に破壊し尽くした。

 護送船団とは、軍艦・航空機や武装船艇などに護衛されて航行する輸送船や商船の船団のことである。敵勢力からの妨害を排除し、味方勢力による海上輸送の維持を目的としている。戦時下において通商破壊に対抗するために生み出された戦法である。

 大量輸送を確保するために、速力の異なる多くの船を船団として航行させる必要がある。そこで、一つの船も落伍させじと、速力がもとも遅い船に合わせて、すべての船が航行しなければならない。このことから、この言葉は、比喩的に、もっとも資金力の劣る金融機関に合わせた日本の旧大蔵省・現財務省の金融行政指針を指すようになった。

 第一次世界大戦において、ドイツ海軍はUボートを利用し、英国を始めとする連合国に対し、通商破壊を行った。連合国の海軍は、これに対抗し、商船の独行を中止し、船団を組み、軍艦の護衛を受け、Uボートの攻撃を避けるようになった。

 第二次世界大戦においても、ドイツ海軍はUボートや航空機、場合によっては戦艦を含む水上艦艇によって、連合国に対し通商破壊を行った。これに対し、連合国は再び船団を組み、海軍による護衛を受けるようになった。船団護衛部隊には、駆逐艦やコルベットなどの対潜艦艇だけではなく、広範囲の対潜哨戒や船団防空を可能にする護衛空母が配備される場合もあった。

 太平洋方面においては、戦争の末期には、米国のガトー級潜水艦の大量就役や、米軍の大量の飛行機投入による通商破壊活動の被害が急増したことによって、昭和18(1943)年11月15日に海軍内に海上護衛総司令部を組織して、船団護衛に乗り出した。

 第二次世界大戦後から1990年はじめに至る日本の旧大蔵省において取られていた対銀行政が、「護送船団方式」と呼ばれるようになった。銀行の倒産を防ぐために、経営力の低下した銀行に対し、他行との合併を強力に指導したため、戦後の日本において金融機関の経営破綻は皆無であった。

 銀行経営陣にとっても、経営の自由を制約される代わりに責任追及から逃れられた。ただし、この方式は官民癒着を生んだ、国が実質的に経済を経営していたとして、日本は世界でもっとも成功した社会主義国家であるとの揶揄が外資やエコノミストによってなされた(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。

 護送船団方式を強く非難する日本のある会計情報サイトの論調を見てみよう。

 日本の銀行は、一番力の弱い銀行(船足の遅い船)に合わせて預金金利の決定(百万円の預金金利も、一億円の預金金利も同一金利)や貸出金利の決定を行ってきた。

 また、産業界も○○グループとして、銀行や商社を中心にグループを形成し、護送船団を組むことになった。

 自動車産業においても、トヨタグループ・日産グループと言うように、系列を明確にし、護送船団を組んでいる。

 このような護送船団システムは、過去には大きな力を発揮した事は確かだが、ボーダレスの時代には、明らかに非効率なシステムとなってしまった。

 そこで日本の企業は、護送船団方式に頼らなく生きる事をここに決意し、実行しなければ、生き残る事が出来ない事を覚悟すべきである。

 会社が、護送船団の戦艦であるならば、船足の遅い輸送艦や古くて能力のない駆逐艦等すべてを守る力がない事を自覚し、一部の船のスクラップ&ビルドと、他グループからの効率的サービスを考えるべきである。

 会社が、護送船団の輸送艦なら船団の重荷になっていないかを再考し、船団に役立つような船に作り変えておかねば切り捨てられる運命にあることを経営者は認識すべきである。

 会社が、護送船団の中で非常に重宝がられているとしても、その能力をもて余し、港に係留されている時間が長いとしたら、大問題である。

 効率的に運用をするためには系列を超えて、他の船団(グループ)に積極的に貸出をしなければ宝の持ち腐れになってしまう。

 このように系列を超えたグループへのサービスの提供、商品の供給を行える企業に変身して初めて、ボーダレスの時代に生き残れることを経営者は認識すべきである。

 護送船団方式が悪いのではなく、護送船団の中に船足の遅い船や、能力のない古い船が混ざっている為、スピードを一番能力のない船に合わせて進まなければならないことが問題なのある。

 そこで、能力のない船のスクラップ&ビルドと、効率の良い船のレンタル(他グループからでも、良いサービスや商品の供給は積極的に受ける)をドラステックにやり、効率の良い護送船団を作り上げることが大事である。

 また、効率の良い船は日本の船に限らず、全世界を対象に捜す必要がある。これからの企業は、そのサービスや商品の提供先を、グループを超え、日本国内を超え、提供できる企業体に中小企業といえども変身しなければ生き残れないのである。
 以上が、このサイトの主張点である
http://www.tabisland.ne.jp/news/news2.nsf/ByDateEnter/62EA1425BBEEC789492566CC001E1EFA)。

 このサイトは間違ったことをいっているのではない。

 しかし、企業の効率的・スピード経営の向上というスローガンの下で、いかに多くの若者が正社員として採用されず、いつまでも専門的技術の習得の場から遠ざけられるようになったことも確かなのである。

人の和が効率を下げるのか、人の和が組織を強力にするのか、頭の中の抽象論ではなく、目の前の事態の進み方で判断すべきである。日本は、金融の自由化以降、急速にカサカサした社会に喘ぐようになっている。一部の企業が儲けても、非常に多くの人々が失業の恐怖におののいているという現実は直視されれるべきである。あらゆる要素が有機的に絡まっている複雑な経済現象を単一の価値観で決めつける姿勢ほど危険なものはない。

 「物をいう株主」と「株主主権」という言葉は、ほぼ同じ内容を表している。米国では、「株主モデル」=「シェアホルダー・モデル」と呼ばれている。

 
企業の所有者は、従業員、経営者ではなく株主である。その株主の利益を上げることが企業の任務であるという考え方を、このモデルはする。これは、株主が保有する株式の価値を最大化することをもとも重視するモデルである


 この点について、荒木尚志(東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授)氏の『コーポレート・ガバナンスの変化と労使関係』教育文化協会、二〇〇三年の説明を借りよう。

 米国では、株主が保有する株式の価格(株式価値という)を高めるために、従業員の首を切ることが罪悪であるとは受け取られていない。過剰雇用を抱えて企業利潤を圧迫することの方が悪なのである。判例法や差別禁止法制などの制限はあるが、経済的理由で解雇を行うことへの歯止めとか制約は、米国の方が、ヨーロッパ諸国に比べてはるかに弱い。

 米国では、日本のQCサークルのような従業員参加プログラムを企業が作ることは不当労働行為になる。したがって、従業員の声を経営に反映させる道筋は労働組合しかない。しかし、労働組合は、御用組合というレッテルを貼られることを嫌う傾向が強く、敵対的な労使関係となりがちである。

  そこで企業が従業員に経営について関心をもってもらう唯一の手段が、従業員自体を株主にすること(ESOP、後述の予定)だが、このシステムは、最近では必ずしもうまくいっているとはいえない。

 このモデルでは、株主自体が多様化しているため、株主の価値を最大化することによってさまざまな人たちの利益を多元的に実現できると主張されてはいるが、従業員の利益自体は軽視されている。

 米国と対照的な株主理解がドイツにはある。「利害関係者モデル」といわれるもので、「ステークホルダー・モデル」と呼ばれている。法律上の企業の所有者は株主かもしれないが、実際の企業運営では様々な利害関係者に配慮しなければならないという考え方で、株主価値に一元化されない多様、多元的な価値を考えることから多元主義モデルともいわれる。

 解雇制限法という労働者には心強い法律がドイツにはある。そこでは、解雇は社会的に正当な理由がなければ無効であると定められている。労働組合とは別に、従業員代表組織の事業所委員会が存在する。この委員会が解雇手続に関与する。さらに、株主代表と従業員代表で構成される監査役会があり、この組織が取締役を選任することになっている。

 このように、ドイツでは企業経営に従業員の声を反映させるルートが法律で決められている。しかも、事業所委員会は、経営者との共同決定権をもっている。労働時間に関することなどがそうした共同決定事項である。これら事項については、経営者と事業所委員会との合意が成立しないかぎり、企業は一方的な措置はとれない。つねに、従業員、事業所委員会の合意を得ることを心がけた経営が要請されているのである。

 日本では、伝統的に従業員価値を重視してきた。しかし、日本のモデルは、ドイツのように制度化されたステークホルダー・モデルではなく、慣行に依存したモデルであった。

 日本では、企業の株式のもち合いが多く、物いわぬ安定株主が多く、バブル崩壊までは、企業は、株主のことをあまり考えずに長期的視点に立った経営ができた。

 日本の経営者は内部昇進の取締役、従業員兼務取締役が多い。従業員の処遇という面もあるため取締役が諸外国と比較して多人数になっている。

 そして、雇用については、長期雇用システムが存在していて、判例法によって解雇、とくに、整理解雇は難しかった。労使関係は協調的で、労使協議によって形成されたものであった。

 同じく従業員価値を重視するドイツとの違いは、ドイツが従業員重視のコーポレート・ガバナンスを法律で決めているのに対して、日本のコーポレート・ガバナンス(企業の意志決定システム=企業統治と訳されている)を特徴づける株式もち合い、安定株主、経営者の内部昇進、解雇の制限、協調的労使関係を支える労使協議、等々の制度がいずれも法律によるものではなく、慣行に依存していたという点にある。

 しかし、その後、いくつかの法律の改定を経て、日本では、株式の持ち合いの解消が進んだ。外国人株主が急増した。商法改正によって株主代表訴訟がしやすくなった。物をいう株主が増加した。経営陣に人を送り込んで経営危機に陥った企業の立て直しを担当してきたメインバンク(企業にとっての主力銀行)がその機能を低下させた。経営者については、内部昇進だった経営陣に変化を迫る制度変更が進展した。


 「委員会等設置会社」の導入がそれである。平成14年の商法等の大改正で、米国流のコーポレート・ガバナンスを可能とする委員会等設置会社の設置が認められた。委員会等設置会社は、取締役の選任・解任の議案を決定する「指名委員会」、取締役・執行役の職務執行を監査する「監査委員会」、取締役・執行役の報酬の内容を決定する「報酬委員会jの三つの委員会を置かなければならない。

 そして、各委員会の過半数を社外取締役で構成する必要がある。つまり、これまで取締役会のメンバーは内部昇進の内部者だったが、委員会等設置会社では、取締役会の過半数が外部者になり、企業の運営(たとえば、余剰人員をどうするか等)について発言するようになったhttp://www.rengo-ilec.or.jp/publish/visionken/book31.html)。


 こうして、日本的なモデルが急速に崩壊していった。それは、金融の自由化と軌を一にして進行した。

 相次ぐ銀行の倒産とその後の巨大銀行への預金の集中、そして、かぎりなくゼロに近い預金金利、猛烈な貸し剥がしが進行した。従業員は勤務先への愛情を失っていった。

 金融の自由化が、かつてはあった日本の美点をことごとく打ち砕き、新しい美点を結局は作ることに失敗したのではないかと、多くの人が皮膚感覚で思うようになっている。

 
投資ファンドという、なんだか怖ろしそうな金融プロの猛襲によって、会社が売買され、従業員の首が飛ぶようになったのではないかと。金融プロのアドバイスに従って株式を公開したが、すぐさま、外資に乗っ取られた。

 しかし、どうしたのだろうか。金融や会計の専門家から、こうした事態を批判する声がほとんど聞こえてこない。批判は、非専門家たちから出されている。専門家は、政府が進める規制緩和を支持する理論は打ち出すが(ほとんど同じような紋切り型の議論)、規制緩和がもたらした深刻な事態には口をつぐむ。なぜなのだろうか。


 専門家が中立的な意見を口にしなくなった。権力指向が専門家を掴んでしまったのだろうか。研究のもつ社会的・歴史的意義が、いまほど軽んじられるようになった時代はなかったのではなかろうか。