消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.144 会員制クラブ

2007-08-11 00:17:00 | 金融の倫理(福井日記)

 経世済民としての経済学は、金融論を金儲けの術としては見なかった。人に雇用を与えるべく、企業が組織され、企業の仕入れ・生産・販売という営業の全活動を円滑に進行させるべく、資金が枯渇しないように、社会的に金融を再配分する形で、有休資金を必要な企業に融資するという、有りようを研究していたのが、かつての金融論の目標であった。

  金融機関は、庶民から小口預金を集め、企業に融資し、預金金利と貸出金利との差額によって、営業活動をおこなうという、いわゆる「金融仲介業務」を本分としていた。

 しかし、一九七〇年代に入って、大金持ちが自己の豊富な資金をさらに増やすことができるような技術を開発し、一攫千金を獲得できる金融商品を販売することが、金融機関の目指すべき姿であるとして、金融機関はもとより、金融論の専門家も意識するようになってしまった。金融は、生産と雇用に必要な企業や組織に、安い資金を提供する分野ではなく、資金を出した組織や個人に年率数十%もの配当を可能にする分野として改造されてしまった。旧い時代のよき金融業務を目指す金融機関は、ネアンデルタール人として軽蔑されるようになってしまった。

 金融組織は、金持ちたちの会員制クラブに大きく変質した。

 これまでの旧い金融システムに風穴を開けたのが、ヘッジ・ファンド(Hedge Fund)であった。ここで、「ヘッジ」という「危険を避ける」という用語には、実質的な意味はない。

  そもそも、年率数十%もの配当をおこなうには、あえて「リスク」(risk)を冒すことが必要である。リスクが大きい部門に投資しなければ、大きな利益(リターン=return)を獲得することなどできない。リスクを取りながら破綻しない技術をもつと豪語するのが、ヘッジ・ファンドなのであり、リスクをヘッジするのが、ヘッジ・ファンドであるとはいえない。ほとんどのヘッジ・ファンドは、リスクとして意識してこなかった大変動に打ちのめされて、一〇年足らずで破綻しているのである。

 ヘッジ・ファンドとは、夜空を華やかに彩るが、一瞬にして消え去る花火のようなものである。金融組織としての永続性をヘッジ・ファンドは意図していない。短期間に破綻してしまうことは、創設者自身がもっともよく知っている。破綻するまでの短い期間に、荒稼ぎしようとしてきたのが、これまで多くのヘッジ・ファンドであった。少なくとも、「リスクがヘッジされている資金運用をおこなう」のがヘッジ・ファンドであるというのは、間違っている。

 ヘッジという言葉ではなく、「私募」という側面が、ヘッジ・ファンドのもっとも重要な性質である。このファンドは誰でも参加することができるものではない。誰でも参加できるファンドは、「公募ファンド」(public fund)という。米国の投資信託である「ミューチュアル・ファンド」(mutual fund)などがそれである。公募というのは、誰にでも開かれているという意味である。

 それに対して、「私募ファンド」(private fund)は、誰にでも開かれているのではなく、特定の富裕層だけを対象にしている。ローウェンスタインによれば、米国では、投資額一〇〇万ドル以上の人や組織は、一〇〇人未満に制限されている。そのファンドを含め、五〇〇万ドル以上の債券をもつ個人・組織は五〇〇人以下に制限されている。つまり、極端な大富豪しか米国ではヘッジ・ファンドに参加する資格はないのである。ヘッジ・ファンドとは金持ちの会員制クラブなのである(Lowenstein, R.[2001]、邦訳、五〇~五一ページ)。

 ヘッジ・ファンドの創始者は、いまのところ、アルフレッド・ウィンズロウ・ジョーンズ(Alfred Winslow Jones、1901~1989年)であるとされている(Johnson, S.[2007])。

 彼は、後にGEの重役になる父に連れられて、四歳のときに米国に移民する。ハーバード大学卒外交官(「ヒトラー時代にベルリンに駐在)、スペイン内戦も目撃、コロンビア大学で社会学博士号取得(一九四一年、「生活・自由・財産」=Life, Liberty and Property)、一九四〇年代『フォーチュン』誌で働く、最初は、農業問題、少年教育問題を書いていたが、次第に金融に傾斜した(Jones, W. A[1949])。

 そして、一九四九年、世界発のヘッジ・ファンドを創設する。資金量一〇万ドル、彼の自己資金四万ドル、初年度配当率一七・三%であった(Rappeport, A.[2007])。

 彼は、「一九四〇年投資会社法」(the Investment Company Act of 1940)の規制を逃れるために、有限責任の「パートナーシップ」制を採用した。パートナーシップとは出資額に応じた有限責任の会員制クラブという意味である。彼は会員を九九名に限定した。そして、パートナーと呼ばれる会員のみが投資できるようにした。

 米国の法律とは奇妙なもので、乏しい出資者からなる投資会社は、弱い投資者を守るために、当局の厳しい監視に曝される

 空売りなどは、一般の投資会社は危険すぎるとして禁止されている。しかし、金持ちだけからなるヘッジ・ファンドなら、損をしても、庶民を巻き込むわけではないのだから、なにをしても自由である。つまり、金持ちは、金持ちであるがゆえに、自己責任さえ覚悟すればなんでもありということになる。

 株式も情報も非公開を許されている。証券取引委員会(SEC)への登録義務はない。資金は、無制限に借りられる。リスクを負ってもいいのだから、ミューチュアル・ファンドのような分散投資をしなくても、集中投資が許される(Skeel, D.[2005])。

 彼の手法は、下降相場でも、空売りの手法を駆使して利益を上げた。相場の上昇局面、下降局面のいずれの局面でも利益を上げることができた。

 手持ち資金の何倍ものカネを動かすことができるレバレッジを最大限利用した。
 個別株式に関しては、「ロング・ポジション」(買建て玉=買い持ち)と「ショート・ポジション」(売建て玉=売り持ち)を巧みに組み合わせて利益を確定していくという手法をとっていた。 

 資金運用者たちが自己資金を共同出資し、配当は、成功報酬制にした。こうした手法が「ジョーンズ・モデル」といわれるものである。

 しかし、一九六〇年代半ばまでは、彼の手法にはそれほどの関心は示されていなかった。しかし、一九六〇年代後半、彼のファンドが全米最大の収益を上げるようになるや否や、瞬く間に一三〇以上ものファンドが生まれた。ジョージ・ソロス(George Soros)の「クァンタム・ファンド」(Quantum Fund)、マイケル・スタインンハート(Michael Steinhardt)の「スタインハート・パートナーズ(Steinhardt Partners)などがそれである(Reier, S.[2000])。

 彼のファンドは、模様替えする一九八四年までの三四年間の長期間維持できた。その意味では、希有の礼である。

 
三四年間のうち、損失を出したのは三年だけであった。一九七〇年五月三一日締めの損失は大きかった。三五・三%の損失であった。七〇年代半ばからは、慎重な姿勢をとったとされている(Porter, A.[1995])。

 一九八四年、ジョーンズのヘッジ・ファンドは、「ファンドの中のファンド」(fund of funds)に転換した。種類の異なる他のファンドへの投資をするようになったのである。

 そして、若いときの博士論文の精神に戻って、途上国の貧民救済資金を設立することになった。貧しさから「ヘッジする」ことを目指したのである。「平和協会」(the Peace Corps
 )がそれである(Russell, J.[1989]; Lindgren, H.[2007])。