消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.143 無邪気な数学者たち

2007-08-10 00:22:52 | 金融の倫理(福井日記)

 金利と外国為替の固定が外され、世界中で金利と為替相場がばらばらに動きようになると、そうした動きを組み合わせた新債券が次々と開発されていった。しかも、この組み合わせは世界中で無数に作り出すことができる。これを先物として売買すれば、とてつもなく大きな稼ぎを得ることができる。

 安全ではあったが退屈な債券取引が、複雑で稼ぎをもたらす魅力的なものになったのが、変動相場制に入って以降の金融市場であった。それまで、先物とは、大豆や天然ゴムなどの一次産品に限定されていた。それがいまや、カネがもっとも活気溢れる魅力的な商品として金融市場に登場したのである。

 問題は、債券ごとに取引価格をいかに設定するかの技術にあった。現在の支配的な貸出金利、債券の額面金利、債券の満期の長さ、支払い方法、任意償還(コーラブル=callable)、株式への転換可能債券(転換債券)であるか否か、破産リスク(支払い停止=デフォールト=default)の大きさはどの程度か、もっとも安全だとされている米国債との格差(スプレッド)はどの程度のものか、等々。

 こうして、様々の債券に価格が付けられていった。一言で表現すれば、それは、リスクの価格付けであり、債券間の格差(スプレッド)の大きさに関して瞬時に理解することが取引の要であった。ディーラー(債券の売買を斡旋する業者)たちは、分厚い債券の一覧表をめくりながら顧客に対応していた。

 そうした、手作業の風景を一群の数学者たちが一変させた。数学者からすれば、債券の複雑な価格一覧表など簡単に作ることのできるものであった。自身が元数学教師であり、債券のディーラーであったソロモン・ブラザーズのジョン・メリウェザーが、一群の数学者たちを大学の教壇から引き抜いてきた。彼らの意見を受け入れて、ソロモン・ブラザーズの債券部門が、業界で初めてコンピュータを債券取引に導入したのである(Lowenstein, R.[2001]、邦訳、二七ページ)。メリウェザーは、十数人の数学者たちからなるチームを作っていた。

 彼らは、過去の債券のすべての価格をコンピュータに取り込み、相互の長期における関連を分析し、将来に向かう傾向を摘出した。どこかの市場の債券価格が流れからわずかでも離れたら、すぐさまコンピュータに表示されるモデルが構築された。

 彼らは、債券間におけるスプレッドが理論上とは異なって動くのは、市場が完全なものに向かってはいるが、まだ不完全であるからであると理解していた。完全なものに市場が向かうという傾向をもつかぎり、スプレッドは理論に沿う形で収斂すると、彼らは、確信していた。

 メリウェザーが引き抜いてきた数学者たちは、一九八〇年代に六人、九〇年には一二人になっていた。

 
この少ない人数で、チームは、主として債券の裁定取引で、会社の全収益の半分以上を稼ぎ出すまでになっていた。一九九〇年に四億八五〇〇万ドル、九一年には一一億ドルを稼ぎ出した。

 それとともに、この集団は、ウォール街の他のディーラーたちを「ネアンダール人」と露骨に呼び、旧いディーラーたちの旧い手法を軽蔑していた。

 彼らは、市場への強烈な信仰があり、自らの数学理論の正しさを信じていた。彼らは、会社のカネを自己資金としてふんだんに使用する権利を会社から与えられていて、つねに、サヤ寄せに投資していた。時間さえかければ、スプレッドは、必ず収斂するという彼らの信仰は、いささかも揺るがなかった。

 数学者のチームの結束力は強かった。仕事はもとより、遊びも、食事も、休暇のすごし方も、メリウェザーを中心に、いつも一緒に行動していた。全員が向かい合って仕事をし、全員が語る符牒のような用語は、部外者には意味不明であった。

 メリウェザーは慈父のような存在で、数学者たちの勤労意欲を掻き立てた。あるとき、数学者である一人の部下が取引で失敗したが、投入資金を倍にすれば損失を取り戻すことができるとメリウェザーに訴えたとき、メリウェザーはすぐさま承認したという。

 驚いた件(くだん)の部下が、「取引内容を審査しなくてもいいのか」とメリウェザーに問うたとき、メリウェザーの応えがふるっていた。「君を採用するときにすでに審査は終えている」と。部下が感動し、周囲もその言葉を聞いて奮い立ったに違いない。

 彼らは、メリウェザーを中心に結束した海兵隊であった。彼らは私的にも家族ぐるみのつきあいであった。家族連れで一緒に旅行もしていた。彼らは、ウォール街の他のバンカーたちとはもちろん、会社の別のセクションの連中ともつきあわず、彼ら内部の閉鎖社会の中に閉じ籠もっていた。

 彼らは、余暇でも一緒にギャンブルに熱中した。彼らに対して、ギャンブルと表現してはならないだろう。彼らは数学的ひらめきでカネを賭けてかけて競い合っていたのだから。



 マイケル・ルイスのベストセラー、『ライアーズ・ポーカー』(Lewis. M.[1990])で有名になった「ライアーズ・ポーカー」に、彼らは、打ち興じていた。彼らは根っからの賭け事好きなのである。投機的な金儲けが彼らの趣味であった。「ライアーズ・ポーカー」というのは、カードによるポーカー・ゲームと同じで、ポーカー・ゲームから一ペア、二ペア、三カード、四カードしかない。数字は、2から大きくなるほど強く、0は10扱い、1はエースで最強である。スタンド・バーで勘定を払うときに、誰が払うのかを手持ちの一ドル紙幣の八桁の番号をカードに見立ててゲームをし、負けたものが勘定を支払うことになっている。

 『ライアーズ・ポーカー』にも描かれている通り、彼らは幼稚園児のようにはしゃぎ回っていた。

 はしゃぐだけならまだいい。彼らは、自分の裁定取引部門以外の部門の存在意義を認めなかった。裁定取引以外の部門をソロモンから追放すべきであること、稼ぎに応じて給料が支払われること、とくに、裁定取引部門のディーラーへの報酬は、収益の一五%であること、社員食堂などは利用していないので、共通費としての食堂などの利用費用を給料から天引きしないでくれとねじ込んだ。

 要するに彼らは、カネを稼ぎ出すこtろで、自己の数学理論の正しさを実感できた。
そのことが、真理を自分たちが知っていると思い込んでいたのであろう。彼らの真理は、カネを稼ぎ出すことであった。組織のあり方、自分たちのカネ儲けが社会に与える影響、自分たちが開発した金儲けの手法の人類に対する意味、要するに世間知を彼らはもとうしなかった。金儲けに資する数学以外のあらゆる学問は、彼らにとって無駄なものだったのだろう。一言で表現すれば、彼らは子供だったのである。彼らは幼児の傲岸さをもっていた。

 そして、彼らの傲岸さが、ソロモンから彼らを追放しただけでなく、ソロモン自体をトラベラーズに買収される要因となった。 

 一九八七年、乗っ取り屋として名高いロナルド・ペレルマン(Ronald Owen Perelman, 1943年(一月一日生まれ)~)がソロモン・ブラザーズに買収を仕掛け、会長のジョン・フレンド(John Goodfriend)は、ウォーレン・バフェットに経営権を売り渡すという事件があった。そして、メリウエザーの部下の一人、ポール・モーザー(Paul Moser)が国債の不正入札を行ったことをメリウェザーに告白する。一九九〇年七月のことであった。

 モーザーは、裁定取引部門から国債取引部門に飛ばされ、メリウェザーを恨んでいた。

 国債とは、米国の場合、財務省証券を指す。当時、財務省証券の入札は、一業者につき三五%を上限とするという規制があった。ポール・モーザーは、顧客の名を騙って、この上限を超えるという不正入札を行ったのである。

 しかし、なぜか、メリウェザーと会長のフレンドはこれを黙殺した(Lowenstein, R[2001]、邦訳、第一章参照)。

 一九九一年四月、財務省の調査が入った。同年六月、証券取引委員会(SEC)と司法省による調査が入り、刑事訴追の可能性が出てきた。

  そして、同年八月、取締役会が、シュトラウス(Tom Strauss)社長、グッドフレンド、メリウェザー、モーザーの解任、大株主であるウォーレン・バフェットの会長就任、バッフェットの部下、デリック・モーガン(Deryck Maughan)の最高業務執行役員の任命、等々を決議した。

 バフェットとモーガンは、議会に呼び出されて、吊し上げを食ったが、バフェットの信用でソロモンは存続できた。メリウェザーは、罰金二万九〇〇〇ドル、会社側は、四十件以上の民事訴訟、四億ドルの支払い準備を余儀なくされた。モーザーは、罰金三万ドル、禁固四か月。グッドフレンドは、罰金一〇万ドル、退職金一四〇〇万ドルの放棄、復職の禁止、等々を言い渡された。同社の株価は暴落、人材も流出した。

 一九九四年、バフェットとモーガンによる新しい報酬システムができ、従業員より株主重視の方針が出された。株によるボーナス支払いもあった。それが、人材流出に拍車をかけた(加野忠[1999]、第六章参照)。

 そもそも、投資銀行の各部門は、浮き沈みが激しい。成功報酬でトレーダーを釣るが、市況が悪化すればすぐにレイオフする。これが一〇年に二、三度のサイクルで繰り返される。

  恐怖と眩惑に満ちた環境、ストレス、燃えつき、レイオフ、倒産と隣合わせ、ディーラーたちが無軌道にはしゃぎ回るのもむべなるかなと思う。

 メリウェザーは、自身に何の非もなかったが、監督不行き届きとして、見せしめのため、一八年間働いたソロモンを追放された。そして、彼は、同じスタッフを集めて、一九九四年LTCMを設立したのである。

 そのLTCMも一九九八年破綻した。そして、メリウェザーの古巣のソロモン・ブラザーズは、一九九七年九月二四日、総合金融サービス会社のトラベラーズに買収され、ソロモン・スミス・バーニーとなった。そして、シティ・グループの傘下に組み込まれる運命となった。その裏には、ディーラーだけでなく取引先の累々たる死が横たわっていた。